コジモ3世

Last-modified: 2022-07-01 (金) 18:22:43

コジモ3世(伊:Cosimo III de' Medici)は、トスカーナ大公国?の第6代トスカーナ大公である。

コジモ3世在位:1670~1723
右のファイルは著作権侵害の可能性があるため、一時的に削除されています:(./コジモ3世.jpg,70%);右のファイルは著作権侵害の可能性があるため、一時的に削除されています:(./コジモ3世(2).jpg);
出生1642年8月14日
死没1723年10月31日(81歳)
フェルディナンド2世(1610~1670)*1
ヴィットーリア・デッラ・ローヴェレ(1622~1694)
配偶者マルゲリータ・ルイーザ・ディ・ボルボーネ=オルレアンス(1645~1721)
子女フェルディナンド・デ・メディチ(1663~1713)*2
アンナ・マリーア・ルイーザ・デ・メディチ(1667~1743)
ジャン・ガストーネ・デ・メディチ(1671~1737)*3

生涯

1642年8月14日ピッティ宮殿の産室で出生した。
母であるヴィットーリア・デッラ・ローヴェレ(以下ヴィットーリア大公妃)は既に2人の子を産後すぐに失っており、待望の子であった*4
父のフェルディナンド2世は広く科学などの学問や芸術を保護し、自身も科学者であったためコジモ3世に科学的教育を施そうと試みたが、ヴィットーリア大公妃の猛烈な反対にあいその試みは潰えた。そのため、コジモ3世はヴィットーリア大公妃のもと教育係として神学者のヴルニオ・バンディネッリが任命されキリスト教を重視した学問が行われた。
これらの要因もあって青年期のコジモ3世は「ひたすら敬虔に身を慎まれる (中略) 尋常ならざる憂愁に閉ざされて」*5いる人物であった。巡礼などを熱心に行い日々祈りを捧げダンスや宴などを敬遠する人物であったとされる。
1661年4月17日オルレアン公ガストン*6の娘であるマルゲリータ・ルイーザ・ディ・ボルボーネ=オルレアンス(以下マルグリート・ルイーズ大公妃,大公妃)と結婚する。
この結婚はマザラン卿(フランス側)とボンシ卿(トスカーナ側)の交渉によって行われた。
結婚はしたものの、コジモ3世が鬱屈とした人物であったのに対し*7マルグリート・ルイーズ大公妃は活発で陽気な人物であり、まったく合わなかった。ましてメディチ家はもともと商人であった家であるため、大公妃はトスカーナ大公国を辺鄙な田舎なふうに思っていたのもあり、夫婦の仲は良くなかった。また大公妃は結婚前からロレーヌ公シャルルと通じ合って(・・・・・)おり、処女ではなかった。
結婚直後から大公妃はかなりの浪費をし挙句の果てに宝物の略取を試みコジモ3世を激怒させた。コジモ3世も大公妃の侍従をかなりの数追放し、大公妃は怒り心頭であった。
1663年8月9日大公妃は懐妊。フェルディナンド(3世)を出産した。
出産後大公妃はコジモ3世を避け続け、フランスへの帰国交渉まで始めた。コジモ3世もフランス側も使者や大使や司教を派遣し大公妃の説得を試みるが、まったくもって効果はなかった。
1665年の11月大公妃と一時的に和解する…
1667年の8月11日大公妃がアンナ・マリーア・ルイーザを出産した後再度決裂、コジモ3世はヨーロッパ外遊に出た。アウクスブルク、マインツ、アムステルダムなどをまわりハプスブルク家やスェーデンのクリスチナ女王などと交流。
1668年の5月帰国。
9月再び外遊に出た。スペインやイギリス,フランスなどをまわり、スペイン王カルロス2世やイングランド王チャールズ2世,フランス王ルイ14世などと交流した。
1669年11月1日帰国した。その後再度大公妃と和解した。
1670年5月24日水腫によってフェルディナンド2世が59歳で亡くなる。そのためコジモ3世は28歳でトスカーナ大公となった。
1671年5月24日に大公妃がジャン・ガストーネを出産した。
1672年12月23日大公妃がポッジオ・ア・カヤーノの離宮からピッティ宮殿へ帰るのを拒否したため、コジモ3世は大公妃の生活を制限しピッティ宮殿への帰還を禁止した。またもやコジモ3世と大公妃は決裂し、大公妃はフランスの修道院へ入ることをルイ14世に請願した。
ルイ14世は大公妃の説得のためにマルセイユ大司教を送るなどしたものの最終的に折れ、大公妃は1674年の12月にフランスのモンマルトルの修道院へと移った。要するにコジモ3世の33-4である。
1688年フェルディナンドにバイエルン選帝侯の娘であったヴィオランテ・ベアトリーチェ・ディ・バヴィエーラ(以下ヴィオランテ)を嫁がせた。
1697年ジャン・ガストーネにザクセン=ラウエンブルク公ユリウス・フランツの娘であったアンナ・マリア・フランツィスカを嫁がせた。
1699年コジモ3世はカルロス2世の後を継ぐ工作を始めるも失敗する。
1700年9月27日に法王インノチェンツォ2世が亡くなりその後の法王選挙において列強各国の圧力に晒され苦境に立たされた。
1701年フランス=トスカーナ同盟の締結を試みるも、フェリペ5世の不興を買い失敗、サヴォア大公国との同待遇の安堵にとどまった。
1723年10月31日老衰によって死亡。トスカーナ大公の中で一番長寿である81歳であった。
コジモ3世の死去により第7代トスカーナ大公ジャン・ガストーネが即位した。

政治

財政

もともと先代の大公フェルディナンド2世は重税で有名であったが、コジモ3世はそれを受け継ぎさらなる重税を課した。それにもかかわらずコジモ3世の浪費(聖遺物の購入など)や大公妃の浪費などもあり財政は好転せず、むしろ顕在化した。

宗教

キリスト教に熱心であったためユダヤ人への圧政を行った。具体的には以下のようなものがあげられる

  • キリスト教徒との性交、同棲、結婚、井戸などの共有使用、乳母の雇用*8の禁止
  • キリスト教徒の娼婦を買うことの禁止
  • キリスト教徒の商店に勤めることの禁止

また同じようにキリスト教の観点から科学者を弾圧し、聖職者を優遇した。

治安

サルティという機関を設置し、売春婦を取り締まった。サルティは非常に厳しく、売春婦は逮捕されると公開で鞭打ち刑に処され、罰金を支払うか尼僧院に入ることを選択しないと監獄から開放されなかった。
罰金を払い、各種税金を払うことで売春婦は公娼となることができたが、非常に費用がかかった。
また残虐な処刑(多くは公開であった。)もたびたび行われた。

軍事

フランス艦隊へ対抗するため海防を強化した。

コメント欄

  • ルネサンス好きそう -- ジバロ 2021-12-19 (日) 21:16:41
  • コジモ3世はルネサンス全く関係ないですよ。むしろ衰退させたほうです -- だれかさん? 2021-12-19 (日) 21:18:49
  • 文学者とかの交流はしてますけどね。大公妃のほうがよっぽど保護はしてます -- だれかさん? 2021-12-19 (日) 21:19:59
  • 私はあんまりルネサンス知らないです -- だれかさん? 2021-12-19 (日) 21:20:40
  • mjk  -- ジバロ 2021-12-19 (日) 21:32:51

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*1 第5代トスカーナ大公
*2 長男であったが梅毒で死去したためトスカーナ大公にはなっていない。
*3 後の第7代トスカーナ大公
*4 ただしこのコジモ3世の出生も夏であったこともあいまってかなりの難産であった。
*5 ルッカ大使の報告より引用
*6 ルイ13世の弟
*7 美男子であったと伝わるが、結婚時は麻疹から回復した直後であり顔は瘡蓋に覆われていた。
*8 "特別な理由"があれば認められたが、その制度は煩雑であり有名無実化していた。