フルベッキ群像写真

Last-modified: 2021-10-11 (月) 07:25:19

 フルベッキ群像写真とは幕末から明治に撮影された古い写真で、ながらく論争の的となってきた曰く付きの写真である。
オランダ系アメリカ人プロテスタント宣教師のグイド・フルベッキとその長男ウィリアム*1を中心に坂本龍馬ら幕末の志士が写っていると吹聴されている。

概要

 この写真は古くから知られていて、明治28(1895)年には雑誌『太陽』で『佐賀藩の学生たちの集合写真』として紹介されている。その5年後、フルベッキや大隈重信と面識があり、日本に滞在経験のある日本学研究者のウィリアム・グリフィスがこの写真について「後の政府のさまざまな部署で影響力を持った人々が写っており、本を用いなくとも大隈重信、岩倉具定(ともさだ)*2具経(ともつね)*3が確認できる」と述べている。
 さらにその7年後、大隈重信の著書『開国五十年史』でも紹介され、ここでも明治28年の初出同様にフルベッキと佐賀藩の学生が写っていることが述べられている。また、外交官の森有礼の所有品のアルバムにもこの写真の不鮮明な鶏卵紙の複写が貼られている。撮影者についても上野彦馬*4であることが明らかになっている。
 太平洋戦争終結から2年後に出版された『写された幕末』でも紹介されておりそこでも被写体は佐賀藩の学生としている。

維新の志士集合写真説

 1974(昭和49)年に日本画家・島田隆資(しまだたかし)が雑誌『日本歴史』において「この写真は慶応元年に長崎にて撮影され、坂本龍馬?ら維新の志士が写っている」としてこれに関する学説を掲載し、話題を呼ぶ。この中には写真の存在しないはずの西郷隆盛の名もあった。
 元々は22人が比定されており、島田の論文発表から2年後にも同一人物によりこの写真の研究が発表され、そこではメンバーが30人に増えた。その後幾たびも比定が別人によって重ねられ、現在は幕末の志士説を唱える人々によって写真のメンバー全員が比定されている(著しく根拠を欠き、素人目にも別人であることがわかる人物も多くいる。また大村益次郎のようにもともと『写真』が存在していない人物もいる*5)。
 さらに、前列の真ん中にいる刀を抱いた面長の少年が大室虎之祐(おおむろとらのすけ)つまりすり替わった明治天皇とするいわゆる『陰謀論』まで表れている。2010(平成22)年にはこの写真を着色したものが『幕末の志士の集合写真』として確たる証明もないままに高値で販売され、紙面上で大きな話題となった。
 ちなみに、写真に写っている(とされる)メンバーは以下の通り。(加治将一『幕末 維新の暗号』より抜粋)


 なお、フランスでコピーが出回り、『お役人に囲まれた大君』(フランス語)とキャプションが書かれ、ここからフルベッキ群像写真と明治天皇を結びつける『隠謀論』も存在するがそもそもキャプションが大きな誤りである(『大君』とはこの時代では徳川将軍を意味する)ためその点においては根拠とはなり得ない。
 ちなみに、上に掲載した人物比定表の24番の『石橋重朝(佐賀)』を『正岡隼人』と名を当てたり3番の『中島信行(土佐)』を『中島永元』と名を当てる例も有る。しかし佐賀県は正岡姓が日本一少ない地なのでもし正岡隼人が実在するとすればすぐにでも情報は特定されるが正岡に関する記録は存在しないため人物の比定者によるお遊びのでっち上げであろう。また、中島信行と中島永元の名が入れ替わっているのはおそらく中島姓から混乱が生じた物と推測される。

明らかになった写真の正体

 以上のように世間を騒がせたフルベッキ群像写真であるが、結局のところ幕末の志士など写っておらず、被写体の人物はフルベッキが教鞭を取った藩校・致遠館*6の学生たちであることが近年の研究によって明らかになった。まず、写真のスタジオは上野彦馬が明治元年から使い始めたものであることが同時期の数枚の写真から判明した。そうすると、写真が撮影された年を仮に慶応元年とすると当時長崎にはいなかった人物がかなり多く*7、はたまた明治元年あるいは2年に撮影されたとするとすでにこの世にいない人物が写っていることになる*8他、戊辰戦争の真っ只中であり多くの志士と言われる人物が戦闘に参加していて長崎に行っている余裕などないに等しいため、島田の慶応元年説は粉砕される。また、当時の写真としては武士たちの羽織のひだや家紋が比較的鮮明に写っていることも挙げられる(ここから撮影者を腕利きの外国人カメラマンのフェリーチェ・ベアトとする説も現れたこともある)。
 また、2013(平成25)年にはフルベッキと佐賀藩家老の伊東次兵衛(下写真の前列のフルベッキの左隣の白髪の月代を剃った人物)ら佐賀藩士が共に写っているガラス湿板写真が発見され、そこにはフルベッキ群像写真と同じ人物が五人写っていることが明らかになった。その写真も明治元年の晩秋に長崎で撮影されたことが判明している。ちなみに、後列の5人は左から順にフルベッキ写真中においてそれぞれ中岡慎太郎、横井小楠(よこいしょうなん)、高杉晋作、岩倉具視、大隈重信とされてきた人物である(後列右端の横を向いた男性がフルベッキ群像写真中の黒マントの男つまり『西郷隆盛』と推定される人物に似ているという指摘もある)。

 この写真の撮影の時期はそれら二枚の写真の人物の服装から晩秋かと推測される。以上の証拠から、フルベッキ群像写真の撮影時期は明治元年の可能性がかなり高い。
 先ほど述べた明治天皇の『陰謀論』についても、最先端の写真の鑑定方法により明治天皇の写真と前列の真ん中で刀を抱いて座っている白っぽい服の面長の少年(上のメンバー表で『大室寅之祐』とされる人物)と人相がかなり細かい点ではあるが一致しなかったことから、フルベッキ群像写真がその根拠となり得ないことがわかっている。
 このように、フルベッキ群像写真は『ニセモノの歴史価値』が後世の人々に勝手につけられた哀しき写真である。
これまでわかっている人物はフルベッキの二女・エマ*9
 大隈重信、岩倉具定・具経兄弟、相良知安(さがらちあん)*10山中一郎(やまなかいちろう)*11などその他佐賀藩士や一部の薩摩藩士、公家の子息などいずれも明治政府において重要な役職に就き歴史に名を残した人物である。
 しかし、西郷隆盛とされる黒い洋服の大柄な男性については今のところ佐賀藩士の学生の一人とされるが、『黒い洋服の大柄な男性=西郷隆盛』説を肯定する根拠にも否定する根拠にも乏しいため、これからの研究が待たれる。なお、黒マントの男=西郷隆盛説を唱え、大室寅之祐と目される人物を睦仁親王つまり明治天皇として西郷が睦仁親王の護衛役となっていると唱える郷土史家もいる。

コメント欄

  • フルベッキ群像写真に関して何でも質問してください -- この記事の作者? 2020-08-06 (木) 00:33:20
  • フルボ〇〇? -- 2020-11-17 (火) 23:05:23
  • 多分荒らされてた(フルベッキ→フルボ○○)ので差し戻しておきました、コメント欄以降はそのままです -- ソーナンスの人 2020-11-18 (水) 08:06:09
  • ボリュームがすごい! 内も見習なきゃ -- 秋のななくさ(編集者) 2021-09-20 (月) 11:14:27

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*1 次女のエマとも
*2 岩倉具視の長男
*3 同次男
*4 長崎の写真師で、坂本龍馬や高杉晋作、木戸孝允(桂小五郎)や若き日の伊藤博文、大隈重信などを撮影した。口伝によれば西郷隆盛の写真も撮影したことになっているが未だに発見されていない
*5 実は戦時中に大村益次郎の写真ではないか?とされた写真が発見されたらしい。しかしその写真には不自然な点がいくつかあったため現在は偽物とされている
*6 この藩校には多くの幕末の志士やその血縁者や同志が出入りしているためこの事をもってフルベッキ群像写真の被写体の侍たち=全員幕末の志士とする説も存在する
*7 たとえば岩倉具視は京の岩倉村にて蟄居を余儀なくされている。また、五代友厚や寺島宗則などの年若い薩摩藩士の中には渡英している者もいる。
*8 坂本龍馬、中岡慎太郎は慶応3年11月に京都で暗殺され明治改元を見届けずに死亡しており、高杉晋作は結核で大政奉還すら見届けることなく死去している
*9 当時4歳。ウィリアムは撮影当時7歳になっているので被写体をウィリアムと断定するには少し幼すぎる
*10 佐賀藩蘭方医
*11 江藤新平に師事し、佐賀の乱で江藤とともに戦って捕縛され斬首