八九式中戰車 イ號

Last-modified: 2021-04-26 (月) 20:24:56

実戦に投入されたものとしては日本初の国産戦車。
これまでの日本はイギリスやフランスといった海外から買い取った戦車を使用していたのだが、それらの老朽化したこと、買い換えようにも旧式化したヤツしか売ってくれないこと、中国大陸への進出で飛行機や戦車といった近代兵器の必要性が大きくなったことなどの理由から、改めて国産戦車を作っていくことが決まった。

このような経緯から、まず最初に作られたのは試製一号戦車である。八九式中戦車はこの試製一号戦車を良くいえば洗練化、悪くいえば簡略化して生まれたもので、だいたい1930年に採用された。開発された当初は八九式軽戦車と呼ばれていた。

攻撃面

搭載された戦車砲は九〇式五糎七戦車砲(きゅうまるしきごじゅうななみりせんしゃほう)である。
これは試製一号戦車に搭載されたモノに少し改良を加えたもので、試製一号戦車同様砲塔に搭載された。
この火砲は一般的には敵の機関銃や歩兵砲が備えられた陣地を鎮圧・無力化するために開発・採用されたと解説されることが多いが、
実際には、試製一号戦車を開発する際に用意された開発のための期間が短かった。
そのため期限にどうにか合わせるべく、輸入された戦車に搭載された火砲を元に戦車砲を作ることになっていたのだが、その戦車のなかでもっとも大きく威力のある戦車砲が、イギリスから輸入された菱形戦車に搭載された57mm砲だったので、試製一号戦車の主砲は57mm砲になり、使い勝手のよさからそのまま八九式中戦車に搭載されたという流れがある。

サブウェポンとして、2丁の九一式車載軽機関銃がそれぞれ車体正面に1つ、砲塔に1つ搭載されていたが、
砲塔の真後ろに搭載されたモノは、主砲がある位置から真後ろに搭載され、まるでその姿が「かんざし」を差している様似にていたことから簪砲塔と呼ばれた。
この簪砲塔を設計した理由には諸説あり、よくわかっていない。

防御面

八九式中戦車のボディを構成する、装甲板の厚みは15mmから17mm程度のものしかなかったが、部隊配備か始まった当時は世界的に見て劣っているわけでもなかったし、
想定された機関銃の銃弾(徹甲弾)や歩兵砲を難なく防ぐことができたため、技術後進国の日本にしては、意外にも世界水準に達していた。
この装甲板は海軍の協力を得て開発したもので、日本製鋼所で作られたことから、略してニセコ鋼板と呼ばれた。

しかし、車体正面には搭乗員が出入りするための扉がついており、銃弾はともかく小型砲を防ぐ上では防御的によろしくなかった。
また主砲根元部分の可動部もまた被弾に弱かったため、ここに弾が当たると戦車砲を細かく動かしたり、発砲したりすることができなくなったか、最悪隙間に敵弾が飛び込んで来ることもあった。

速度面

最高時速は8~12km/h、整地がされた道でも最大時速は25km/hと遅く、実践に投入されるとこの遅さが追撃戦で問題になる場面がよく見られた。
そのため追撃の時には本来、戦闘を重視していない軽装甲車が駆り出されることとなり、この軽装甲車は火砲の牽引も担っていたため、あまりよろしくなかった
当初は古くなった飛行機のガソリンエンジンを使っていたが、火災や燃料消費量を考慮してディーゼルエンジンに変更された。

その他

当初は大多数の軽戦車と極少数の重戦車の2本柱で、使用していく方針であったが、この軽戦車は八九式のことで、重戦車は結局採用されなかったが、試製一号戦車をよりゴージャスにしたものと思えばよい。

ところが戦場の規模が予想よりも大きくなりそうなことと、逃げる敵を追う戦いが多かったために、軽くて早くて数を揃えやすいものが重視されるようになる。
先述の軽戦車と重戦車の2本柱から、速力と量産性を重視した、軽戦車と中戦車の二本立てに変更される。

この新構想を受けて新たに、九五式軽戦車が開発されるが、新中戦車の完成までの繋ぎとして八九式は八九式軽戦車という呼称から八九式中戦車へ改称されることになる。

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