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占守(海防艦)

Last-modified: 2019-04-29 (月) 23:46:48

占守(しむしゅ)は日本海軍が建造した海防艦、占守型海防艦の1番艦である。

占守.jpg

1940年6月に日比沖で撮影された占守
基準排水量全長全幅吃水主機関
860トン78m9.1m3.05m艦本式22号10型ディーゼル2基2軸
出力速力航続距離乗員
4500馬力19.7ノット8000浬/16ノット147名
 
起工1938年11月29日
進水1939年12月13日
竣工1940年6月30日
除籍(日本海軍)1945年12月1日
除籍(復員庁)1947年7月5日
 
兵装(計画時)
45口径12cm単装砲3基
25mm連装機銃2基
九四式爆雷投射機1基
爆雷投下台6基
九五式爆雷18個
 
兵装(戦争末期)
45口径12cm単装砲3基
25mm三連装機銃5基
九四式爆雷投射機1基
8cm迫撃砲1基
爆雷投下軌条2基(推定)
二式爆雷60個
ソナー
九三式水中聴音機1基
三式水中探信儀2基(推定)
レーダー
22号電探1基
13号電探1基




概要 Edit

占守は日本海軍が第二次世界大戦前に建造した海防艦で新基準の海防艦としては一番最初の艦で以後建造される海防艦の嚆矢ともいえる。
第二次世界大戦中はもっぱら船団護衛に従事し戦争を生き抜いた殊勲艦だった。
艦名は当時日本領最東端だった占守島から採られている。

艦歴 Edit

竣工まで Edit

1938年11月29日玉造船所にて起工、仮称は第9号號艦だった。
1939年11月6日占守型の「占守」と命名され、本籍を舞鶴鎮守府と仮定する。
1939年12月13日進水する。
1940年2月2日艤装員長に海軍中佐の荘司喜一郎氏が任命される。
1940年2月7日艤装員事務所を玉造船所海軍兵舎内に設置し事務をが始まる。
1940年6月30日竣工する、同日艤装員事務所が撤去され正式に舞鶴鎮守府が本籍となり特別役務艦となる。
艦長に艤装員長だった荘司一郎氏が任命される。

開戦前の行動 Edit

1940年7月15日竣工後早々に第二遣支艦隊に編入されて東南アジアに進出する、ちなみに占守型の設計はオホーツク海等の北方海域での行動を念頭に置いて設計された艦なので耐寒設計が悪いほうに作用してしまい艦内は非常に暑かったとか、ちなみにこの後占守は1945年までずっと南方で行動することとなる。

1941年1月14日に旗艦が足柄?から占守に変更される、16日旗艦が足柄に戻される。
占守は日本軍の仏印進駐に伴いベトナム方面(ハノイやサイゴン)での海岸毛日やベトナムに在泊していたフランス艦隊の行動を監視に従事していた。

1941年7月31日に南遣艦隊が新編され占守も編入された、当初まともな軍艦は香椎?と占守のみでその他艦船は特設砲艦という小規模のものだった、しかし日米開戦が決定的になると一気に増強された。

1941年~1942年の行動 Edit

日米開戦後占守と香椎で第二護衛隊を編成して第一次マレー上陸作戦に従事、その後もタイ南部に上陸する部隊を乗せた船の護衛に従事した。
その後第三水雷船隊の一部艦艇と共に第一護衛隊を編成して第二次マレー上陸作戦に従事、年末まで中国やベトナム方面から南方に進出する陸軍を乗せた輸送船の護衛に従事した。

1942年1月3日引き続きマレー上陸作戦に参加する輸送船の護衛をしていた、すると明光丸に搭載されていた焼夷弾が自然発火し爆発、沈没してしまう、占守は香椎や吹雪?らと共に救助活動を開始し占守は180人収容し他の船員や乗船していた陸軍落下傘部隊も全員無事に救助された。

その後も占守は専ら上陸部隊の船団護衛や占領任務の支援に従事、1月24日からは初鷹?らと共にインドネシアのアナンバス諸島を占領した。
1月下旬に占守と第一掃海隊はマレー沖海戦で沈没したプリンス・オブ・ウェールズ?レパルス?の正確な沈没位置の確認に向かった、1月29日に掃海艇がレパルスの位置を、占守がプリンス・オブ・ウェールズの残骸を発見した。

同年2月中旬に占守はスマトラ島のパレンバンに到着、そのままムシ川を遡上して機雷の掃海を実施した。

4月上旬までに日本軍は当初の作戦目標を達成し主要な艦艇は一旦国内に帰還し占守はシンガポールのセレター港を拠点にしてビルマやインドネシア方面の船団護衛に従事する。

8月中旬に占守はシンガポールでしばらく整備と修理を受ける、その後も東南アジアで船団護衛に従事、10月にもシンガポールで整備と修理をした。
その後も年末まで船団護衛と対潜掃蕩に従事した。

1943年~1944年の行動 Edit

1943年も専らシンガポールを拠点に東南アジア方面で船団護衛と対潜掃蕩に従事した。

1944年1月13日占守は佐世保に帰投、1月15日から23日にかけて佐世保工廠にて整備と電探の設置工事を行なった。
1月26日に占守は門司からヒ39船団を護衛、31日に無事高雄に到着、そのまま第357船団を護衛して2月9日にシンガポールに無事到着した。
2月13日に占守はヒ40船団を護衛してシンガポールを出港した、タンカー等6隻からなる船団だが護衛は占守たった一隻だった。
2月19日の朝に船団はアメリカ潜水艦のジャック?(USS Jack, SS-259)に捕捉されてしまう、4時42分に魚雷を発射、南栄丸は爆発を起こして沈没、更に国栄丸も沈没した、船団は針路を変えて全速力で退避し占守は対潜掃蕩をした、しかしジャックは先回りをして待ち構えており同日午後に魚雷を発射、一洋丸と日輪丸が沈没してしまった。

残存船2隻を率いて占守は台湾東岸に向かう19日の夜から23日まで別船団を護衛していた汐風?が護衛に協力した、しかし汐風が離れた24日3時36分に今度はグレイバック?(USS Grayback, SS-208)に発見されてしまう、敵潜水艦の存在に気づいた浅間丸が警報を発して南邦丸が威嚇のために砲撃と爆雷攻撃を敢行したものの努力の甲斐なく魚雷が命中沈没してしまった、警報を発した浅間丸にも魚雷が命中して小破した。

その後満身創痍の船団は高雄に入港、生き残ったのは占守と浅間丸だけとなり船団は解散となった。

占守は後続のヒ42船団を護衛して基隆(きいるん)*1に入港した。

2月29日にヒ49船団を護衛して高雄を出港、途中3月4日にアメリカ潜水艦のブルーフィッシュ?(USS Bluefish, SS-222)からの攻撃で大峯山丸が沈没したもののそれ以外の艦船は無事にシンガポールに到着した。

3月11日ヒ48船団を護衛してシンガポールを出港、3月18日にレイポン?(USS Lapon, SS-260)の攻撃を受けて北陸丸が大爆発、轟沈すると言う悲劇に見舞われ、翌日19日には占守が座礁するというトラブルもあったが同日19日に高雄に到着、翌日高雄を出港して3月25日っ佐世保に到着した。

4月3日にヒ57船団を護衛して門司を出港、4月16日にシンガポールに無事到着した。
4月21日にヒ58船団を護衛してシンガポールを出港、途中で船団から分離して厳島丸を護衛して5月3日に佐世保に到着した。
5月3日から5月18日にかけて佐世保で電探設置の基礎工事や各種整備を行なう、5月から7月にかけて船団護衛に従事し特に被害は無かった。

7月29日占守はミ11船団を護衛して高雄を出港、7月30日に第十六播州丸の舵が故障、萬光丸に接触した、さらにスティールヘッド?(USS Steelhead, SS-280) とパーチー?(USS Parche, SS-384)からの攻撃を受けて扶桑丸、吉野丸、光栄丸、萬光丸が沈没、第一小倉丸、だかあ丸が小破してしまった。

8月12日どうにか船団はボルネオ島のミリに到着した。
8月16日ミ12船団を護衛してミリを出港、しかし18日にレイ?(USS Ray, SS-221)からの攻撃で南星丸が沈没してしまう、船団は爆雷を投下して応戦するも21日7時20分のるほうく丸がハッド? (USS Haddo, SS-255)からの攻撃で 、武豊丸が再び仕掛けたレイの攻撃で沈没してしまう、そして8時にはハッドからの攻撃で損傷した金龍丸が力尽きて沈没、宇賀丸も沈没した。
占守は対潜掃蕩を実施するも戦果は無かった。
8月22日に船団はマニラに到着した。

8月28日マ02船団を護衛してマニラを出港、30日に高雄に到着、占守は船団から分離、9月5日に舞鶴に入港した。
9月6日から舞鶴工廠にて電探の整備、迫撃砲の設置、主機会の入れ替え工事や各種部品の分解検査等の大規模な改修を9月27日までび実施した。
10月中は本土と中国大陸やフィリピン方面の船団護衛に従事した。

10月27日占守は南西方面部隊作戦指揮下に入る。

10月30日占守は多号作戦*2に第二次作戦に参加する、編成は以下の通り

輸送船:能登丸・香椎丸・金華丸・高津丸
護衛部隊:沖縄・占守・第11号海防艦?第13号海防艦?
警戒舞台:?沖波???初春?初霜?

11月1日揚陸に向かう道中にアメリカ軍からの空襲を受けたものの陸軍機の決死の奮戦もあって被害もなく無事に揚陸地点のオルモックに到着し19時から揚陸を開始、翌日11月2日朝にも空襲を受けるが陸軍機の護衛もあって被害は無かった、しかし正午頃から敵機の数が増えて阻止できず13時05分にB-24?*3からの攻撃を受ける、巧妙に展開された煙幕のおかげで煙幕から外れてしまった能登丸が沈没したもののほぼ揚陸を完了して状態で能登丸以外は帰還した。

11月8日占守は再び作戦に参加した、編成は以下の通り

輸送船:香椎丸・金華丸・高津丸
護衛部隊:占守・沖縄・第11号海防艦・第13号海防艦
警戒部隊:霞・秋霜?・潮・朝霜?長波?若月?

11月9日に輸送隊はオルモック湾口で空襲を受けたものの輸送船二隻が小破したのみで無事に揚陸作業が始まった、しかし事前に浜辺に用意していた50隻の大発*4はアメリカ軍の攻撃や嵐で埋もれるなどをしてたった5隻しか使いない状態となっており急遽占守ら海防艦を大発代わりにして揚陸すると言う手法がとられたが11月10日10時30分頃に揚陸作業が中止され人員と軽火器の揚陸はできたものの重火器や弾薬そして食糧は揚陸することが出来なかった。

帰還するために出港直後B-25?*5からの攻撃を受けて高津丸と香椎丸が沈没、第11号が航行不能*6になり金華丸と秋霜が損傷し揚陸は失敗に終わり大量の兵器や物資が喪われた。

11月14日占守は空襲の危険性があるマニラを沖縄と第13号と共に脱出、11月18日にボルネオ島沖のラブアン島に到着、翌日19日に暁山丸と同和丸からなるシマ03船団を護衛してラブアンを出港、しかし同日夜に空襲を受けて沖縄が損傷、翌日沖縄は修理のために分離する。
11月21日にアメリカ潜水艦の[[フラウンダー]>フラウンダー(潜水艦)](USS Flounder, SS-251)が暁山丸を撃沈、22日にフラウンダーからの通報を受けてやってきたガヴィナ>ガヴィナ(潜水艦)?(USS Guavina, SS-362)からの攻撃で同和丸が沈没してしまった。
護衛艦だけになった船団はそのままマニラに向かう船団とは一体...

11月25日マニラ湾口にて浮上していたアメリカ潜水艦ハッド?(USS Haddo, SS-255) を攻撃に向かう、しかし敵潜水艦は潜航し息を潜めていた、占守は水中探信儀を使用して潜水艦を捜索するも発見できなかった。
その時突如2000mの距離から放たれた魚雷を発見、回避しつつ攻撃のために突撃を敢行する、すると1000mを切る距離から魚雷が放たれる、占守艦長の島村氏は最早回避は不可能と判断して魚雷を真正面から受けた、次の瞬間轟音と共に艦が激しく揺さぶられ島村艦長は羅針盤にたたきつけられ操舵員長も艦橋天蓋に頭を強打し失神した、艦首の主砲は外れて転がり機関は一時停止、乗員3名が行方不明になった。

しかし真正面で攻撃を受けたことで被害は限定的で速力は12ノットに落ちたものの浸水はすぐに止まった。
当初潜水艦を撃沈したと思っていた第13号だったが緊急信号うぃ見るや否や急行して潜水艦を制圧、ハッドのこれ以上の攻撃を防いだ。
島村艦長はこの時の第13号を命の恩人だったと回想している。

第13号に守られつつマニラに到着した占守はマニラと馬公*7にて応急修理を実施した。

1945年以降の行動 Edit

応急修理の後まだ完全本調子ではないにも関わらずタモ35船団を護衛して1945年1月12日に基隆を出港して門司まで護衛、1月18日に舞鶴に到着して3月31日まで本格的な修理と改装、整備がなされた、このときに艦首を丙型海防艦と同じ簡易的なものに変更された。

4月10日大湊警備府部隊第百四戦隊に編入され以降は北方での本土決戦に備え陸軍部隊の本土引き上げの船団護衛や哨戒に従事することとなる。
4月14日函館の恵山沖に敵潜水艦発見の報を受けて出撃、対潜掃蕩を行なった。

4月26日キ601船団を護衛して青森県の大湊を出港、4月30日に占守島の片岡に無事到着した。
5月11日まで片岡周辺で対潜哨戒に従事して11日そのままキ601船団を護衛して片岡を出港、15日に無事小樽に到着する。
5月18日チ船団を護衛して小樽を出港して23日に無事片岡に到着した。

5月26日再びチ船団を護衛して片岡を出港、5月28日に霧が濃かったため護衛についていた八丈がはぐれてしまう、29日13時に八丈を捜索するために第120号海防艦?が船団から分離する。
しかし同日20時58分に天領丸が沈没、21時02分につづいて呉竹丸が魚雷を受けて航行不能になってしまう、占守は敵潜水艦を追跡して主砲53発、機銃215発、爆雷17発を発射したものの手ごたえはなかった。
翌日5月30日6時25分航行不能だった呉竹丸が沈没、占守は人員の救助を開始する。
9時には球状が終了し大発二隻を曳航して小樽にむかう、が12時曳航していた大発二隻が沈没してしまった。
5月31日に小樽に到着した。

6月18日占守は聯合艦隊第十二航空艦隊第百四戦隊に編入される。

8月15日の朝に占守は稚内に入港、同地で終戦を迎えた。

8月17日から19日にかけて樺太在住の日本人の引き揚げに従事した。

10月5日海防艦籍から除籍、12日に特別輸送艦と呼称され復員任務に従事する。
12月1日に日本海軍から除籍、12月30日復員局の特別輸送艦に定められる。
1946年12月30日に特別保管艦に指定される。
1947年7月5日に除籍、同日賠償艦としてナホトカにてソ連に引き渡された。

ソ連では護衛艦を意味する「ЭК」の略号が与えられて艦名がЭК-31にされた、1947年10月にウラジオストクに回航された。
1948年7月にソヴィエツカヤ・ガヴァニ*8の第263造船所で通報艦に類別変更され艦名を通報艦の略号である「ПС」をつけて「ПС-25」と改名した。
ただ活動は不活性だったようで1947年から1953年まで保管艦状態だったようできちんと通報艦として改造してカムチャッカの通信局に配備されたのは1954年になってからだった。
更に1957年6月17日から10月5日にかけて第263造船所にて工作艦に改造されて工作艦を意味する略号「ПМ」をつけて「ПМ-74」と改名した。

1959年5月16日に退役、解体のために資金資産局に引き渡され解体された。

戦前に生まれたった一隻での船団護衛など理不尽な作戦や護衛対象の沈没など様々な苦難にも負けず粛々と船団護衛に従事、さしたる戦果も無いが第二次世界大戦を戦い抜いた武勲艦であることは間違いない。

終戦後の占守.jpg

1947年5月27日に撮影された占守、艦首や煙突の形状等細かい部分が変わっている。

スレイシアンと占守型.jpg

戦後に撮影された横須賀の写真、中央の艦は占守型のようで、もしかしたら占守かもしれない、左の艦は開戦直後に日本軍に捕獲されたイギリス駆逐艦のスレイシアン?である。この写真どうも撮影者はチェスター・ニミッツ氏らしい

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*1 台湾北部の都市
*2 アメリカ勢力圏下のフィリピンに突撃して兵士や武器を揚陸する無謀な作戦
*3 24機に攻撃された
*4 物資や人員を乗せる小さな船
*5 35機から攻撃された
*6 後に沈没
*7 台湾東部の澎湖諸島の街
*8 間宮海峡に面している街