坂本龍馬

Last-modified: 2022-01-09 (日) 20:13:48

概要

坂本龍馬とは、幕末期に活躍した志士、政治家。
天保6年11月15日(1836年1月3日) ~ 慶応3年11月15日(1867年12月10日)
生前は庶民の間では無名に近かったが、現在では日本史上屈指の人気のある偉人として有名である。

長崎で撮影した龍馬の立像写真。

幼少期

土佐(現在の高知県)の郷士・坂本八平の家に次男として生まれた。生家は裕福な家庭で、祖先が郷士株を得て興した家である。土佐藩の武士階級には上士と下士があり、商家出身の坂本家は下士(郷士)だったが(坂本家は福岡家に仕えていたという)、分家の際に才谷屋から多額の財産を分与されており、非常に裕福な家庭だった。母親・幸が龍が天を飛ぶ瑞夢を見たことと生まれたときに背中に馬のたてがみのような毛があったことから龍馬と名付けられた。
幼少の頃は気弱な少年であったといわれている。そのため、龍馬を題材とした作品では、「弱虫」「泣き虫」「寝小便たれ」といった幼少時の気弱なイメージを直接描写していることが多い。但し「寝小便垂れ」というキーワードは龍馬が江戸遊学中兄に資金の融通を頼むときに自分をへりくだって言った言葉から取ったものと推測される。
10歳のときに病気で母親を亡くし、気がふさいで一層気弱になった龍馬を鍛えたのは姉の乙女であった乙女は当時にしてはかなり男勝りな性格で、体も大きかったため龍馬に常に勝っており、龍馬が友達との喧嘩に負けて悔しがって泣いても高笑いし「それでも男か!男ならしっかりしなさい!」と励ましたり、龍馬が大好きだった「足相撲」は負け知らずであり、強い脚力で龍馬を負かしていた。乙女は龍馬に武術や学問を教え、厳しくも優しく龍馬に愛情を注ぎ、母代わりとなって育てた。こうした教育のおかげで、気弱な龍馬少年はどこへやら、立派な体躯の龍馬少年がそこにいた。

(龍馬を母代わりとなって育てた姉の乙女)

青年期

剣術修行

小栗流目録を得た嘉永6年(1853年)、龍馬は剣術修行のための1年間の江戸自費遊学を藩に願い出て許された。出立に際して龍馬は父・八平から「修業中心得大意」を授けられ、溝淵広之丞とともに土佐を出立した。4月ごろに江戸に到着し、築地の中屋敷(または鍛冶橋の土佐藩上屋敷)に寄宿し、北辰一刀流の桶町千葉道場(現・東京都中央区)の門人となる。道場主の千葉定吉は北辰一刀流創始者千葉周作の弟で、その道場は「小桶町千葉」として知られており、道場には定吉のほかに長男・重太郎と3人の娘(そのうち一人は龍馬の婚約者と言われるさな子)がいた。小千葉道場は千葉周作の「玄武館」(大千葉)と同じ場所に存在したが、身分制度が厳しかったために上級武士は玄武館の所属、下級武士は小千葉道場所属とはっきり分かれており、ともに稽古をすることもなかった。のちに小千葉道場は桶町に建てられた道場に移転するが、そこでも館名がないのはこのためである。*1兵学は窪田清音の門下生である若山勿堂から山鹿流を習得している。
龍馬が小千葉道場で剣術修行を始めた直後の6月3日、ペリー提督率いる米艦隊が浦賀沖に来航した(黒船来航)。自費遊学の龍馬も臨時招集され、品川の土佐藩下屋敷守備の任務に就いた。龍馬が家族に宛てた当時の手紙では「戦になったら異国人の首を打ち取って帰国します」と書き送っている。
安政3年(1856年)には父・八平が病死している。
安政4年(1857年)に藩に一年の修行延長を願い出て許された。同年8月、盗みを働き切腹沙汰となった従兄弟同士にあたり、のちに日本ハリストス正教会の最初の日本人司祭になる山本琢磨を逃がす。安政5年(1858年)1月、師匠の千葉定吉から「北辰一刀流長刀兵法目録」を授けられる。

土佐勤王党

土佐藩では、幕府からの黒船問題に関する各藩への諮問を機に藩主・山内豊信(容堂)が吉田東洋を参政に起用して意欲的な藩政改革に取り組んでいた。また、容堂は水戸藩主・徳川斉昭、薩摩藩主・島津斉彬、宇和島藩主・伊達宗城らとともに将軍継嗣に一橋慶喜を推戴して幕政改革をも企図していた。しかし、安政5年(1858年)4月に井伊直弼が幕府大老に就任すると、幕府は一橋派を退けて徳川慶福(家茂)を将軍継嗣に定め、開国を強行し反対派の弾圧に乗り出した(安政の大獄)。一橋派の容堂も安政6年(1859年)2月に家督を養子・山内豊範に譲り、隠居を余儀なくされた。隠居謹慎したものの藩政の実権は容堂にあり、吉田東洋を中心とした藩政改革は着々と進められた。
安政7年(1860年)3月3日、井伊直弼が江戸城へ登城途中の桜田門外で水戸脱藩浪士らの襲撃を受けて暗殺される(桜田門外の変)。事件が土佐に伝わると、下士の間で議論が沸き起こり尊王攘夷思想が土佐藩下士の主流となった。
同年7月、龍馬の朋友であり、遠い親戚でもある武市瑞山(半平太)が、武者修行のために門人の岡田以蔵・久松喜代馬・島村外内らとともに土佐を出立した。龍馬は「今日の時勢に武者修行でもあるまいに」と笑ったが、実際は西国諸藩を巡って時勢を視察することが目的であった。一行はまず讃岐丸亀藩に入り、備前・美作・備中・備後・安芸・長州などを経て九州に入り、途中で龍馬の外甥の高松太郎と合流している。
翌年4月、武市は江戸に上り、水戸・長州・薩摩などの諸藩の藩士と交流を持った。土佐藩の勤王運動が諸藩に後れを取っていることを了解し、武市は長州の久坂玄瑞、薩摩の元は僧籍であったが還俗した樺山三円と各藩へ帰国して藩内同志の結集を試み、藩論をまとめ、これをもって各藩の力で朝廷の権威を強化し、朝廷を助けて幕府に対抗することで盟約を交わした。これにより同年8月、武市は江戸で密かに少数の同志とともに「土佐勤王党」を結成し、盟曰を決めた。
武市は土佐に戻って192人の同志を募り、龍馬は9番目、国元では筆頭として加盟した。武市が勤王党を結成した目的は、これを藩内勢力となして、藩の政策(おもに老公山内容堂の意向)に影響を与え、尊王攘夷の方向へ導くことにあった。
勤王党結成以来、武市は藩内に薩長二藩の情勢について説明をするのみならず、土佐もこれに続いて尊王運動の助力となるべきと主張した。しかし、参政吉田東洋をはじめとした当時の藩政府は「公武合体」が藩論の主要な方針であり、勤王党の尊王攘夷の主張は藩内の支持を得ることができなかった。

土佐勤王党の党首・武市瑞山。

脱藩

このころ、薩摩藩国父・島津久光の率兵上洛の知らせが土佐に伝わる。土佐藩が二の足を踏んでいると感じていた土佐勤王党同志の中には脱藩して京都へ行き、薩摩藩の勤王義挙に参加しようとする者が出てきた。これは実際は島津久光が幕政改革を進めるための率兵上洛であったが、尊攘激派の志士の間では討幕の挙兵と勝手に勘違いされたものであった。これに参加するべく、まず吉村虎太郎が、次いで沢村惣之丞らが脱藩し、彼らの誘いを受けて龍馬も脱藩を決意したものと思われる。脱藩とは藩籍から離れて一方的に主従関係の拘束から脱することであり、脱藩者は藩内では罪人となり、さらに藩内に留まった家族友人も連座の罪に問われることになる。武市は藩を挙げての行動を重んじ、草莽の義挙には望みを託さず脱藩には賛同しなかった*2
龍馬の脱藩は文久2年(1862年)3月24日のことで、当時既に脱藩していた沢村惣之丞や、那須信吾(のちに吉田東洋を暗殺して脱藩し天誅組の変に参加)の助けを受けて土佐を抜け出した龍馬が脱藩を決意すると、兄・権平は彼の異状に気づいて強く警戒し、身内や親戚友人に龍馬の挙動に特別に注意することを要求し、龍馬の佩刀をすべて取り上げてしまった。このとき、龍馬ともっとも親しい姉の乙女*3が権平を騙して倉庫に忍び入り、権平秘蔵の刀「肥前忠広」を龍馬に門出の餞に授けたという逸話がある。
龍馬の脱藩を知るや他の土佐勤王党の党員が「坂本は我々を裏切ったのだ。武市さん、今からでも遅くないから追いかけて叩き切ってやろう」といきり立つのを武市は「あ奴は土佐にあだたぬ男だ*4。好きにさせておけ」と宥めたという。
脱藩した龍馬と沢村は、まず吉村寅太郎のいる長州下関の豪商白石正一郎宅を訪ねたが、吉村は二人を待たずに京都へ出立していた。尊攘派志士の期待と異なり、島津久光の真意はあくまでも公武合体であり、尊攘派藩士の動きを知った久光は驚愕して鎮撫を命じ、4月23日に寺田屋騒動が起こり有馬新七ら薩摩藩尊攘派は粛清、伏見で義挙を起こそうという各地の尊皇攘夷派の計画も潰えた。吉村はこの最中に捕縛されて土佐へ送還されている。当面の目標をなくした龍馬は、一般的には沢村と別れて薩摩藩の動静を探るべく九州に向かったとされるが、この間の龍馬の正確な動静は明らかではない。
一方、土佐では吉田東洋が4月8日に暗殺され(勤王党の犯行とされる)、武市が藩論の転換に成功して藩主の上洛を促していた。龍馬は7月ごろに大坂に潜伏している。この時期に龍馬は望月清平と連絡をとり、自らが吉田東洋暗殺の容疑者とみなされていることを知らされる。身の危険を感じた龍馬は寺田屋の女将・お登勢の計らいでそこに身を隠すこととなった。

龍馬の同士で後に大和で反乱を起こす吉村虎太郎。

襲撃された土佐藩参政の吉田東洋。

激動の幕末へ

勝海舟との出会い

龍馬は文久2年(1862年)8月に江戸に到着して小千葉道場に寄宿した。 この期間、龍馬は土佐藩の同志や長州の久坂玄瑞・高杉晋作らと交流している。 12月5日、龍馬は間崎哲馬・近藤長次郎とともに幕府政事総裁職にあった前福井藩主・松平春嶽に拝謁した。12月9日、春嶽から幕府軍艦奉行並・勝海舟への紹介状を受けた龍馬と門田為之助・近藤長次郎は海舟の屋敷を訪問して門人となった。
龍馬と千葉重太郎が開国論者の海舟を斬るために訪れたが、勝は「お前さんらはおれを斬りに来たね。まあそこにお座んなさい」と龍馬らが自分を訪問した理由を見抜いており、逆に「地球儀をよく見てみな。日本はこんなにも小せえ国だ。メリケンやエゲレスと戦をするなんざ赤ん坊が大人に喧嘩を挑むようなもんさ。ひとたまりもない。いいかい、世間の噂に惑わされず俺たち一人ひとりが賢くならなきゃならねえ。そのためにもこの国に今何が必要かを考えるとすれば、まずは開国だ」と世界情勢と海軍の必要性を説かれた龍馬が勝のグローバルな視点に大いに感服し、己の攘夷への固執を恥じてその場で勝の弟子になったという話が広く知られており、この話は海舟本人が明治23年に『追賛一話』で語ったものが出典である。だが、春嶽から正式な紹介状を受けての訪問であること、また勝の日記に記載されている12月29日の千葉重太郎の訪問時にはすでに龍馬は弟子であった可能性があることから、近年では前述の龍馬と勝との劇的な出会いの話は勝の誇張、または記憶違いであるとする見方が強い。いずれにせよ、龍馬が勝に心服していたことは姉・乙女への手紙で勝を「日本第一の人物」と称賛し自分がそうした人物の弟子になったことを「エヘンエヘン」と自慢していることによく現れている。
勝海舟は山内容堂に取りなして、文久3年(1863年)2月25日に龍馬の脱藩の罪は赦免され、さらに土佐藩士が海舟の私塾に入門することを追認した。龍馬は海舟が進めていた海軍操練所設立のために奔走し、後に海援隊にも参加することとなる土佐藩出身者の千屋寅之助(後の菅野覚兵衛)・新宮馬之助・望月亀弥太・近藤長次郎・沢村惣之丞・高松太郎(後の坂本直)・安岡金馬らが海舟の門人に加わっている。また、龍馬が土佐勤王党の岡田以蔵を勝の京都での護衛役にし、勝が路上で3人の浪士に襲われた際に以蔵がこれを一刀のもとに斬り捨てた事件はこのころのことである*5
幕府要人と各藩藩主に海軍設立の必要性を説得するため、海舟は彼らを軍艦に便乗させて実地で経験させた。4月23日、14代将軍・徳川家茂が軍艦「順動丸」に乗艦のあと、「神戸海軍操練所」設立の許可を受け同時に勝の私塾(神戸海軍塾)開設も認められた。幕府から年三千両の経費の支給も承諾されたが、この程度の資金では海軍操練所の運営は賄えず、そのため5月に龍馬は福井藩に出向して松平春嶽から千両を借入れした。
龍馬が神戸海軍操練所設立のために方々を奔走していた最中の同年4月、土佐藩の情勢が変わり、下士階層(白札郷士)の武市瑞山が藩論を主導していることに不満を持っていた山内容堂は再度実権を取り戻すべく、吉田東洋暗殺の下手人の探索を命じ、土佐勤王党の粛清に乗り出した。6月に幼馴染であった勤王党の間崎哲馬・平井収二郎・弘瀬健太が切腹させられた。平井の妹・加尾は龍馬の恋人とされる女性で、龍馬は6月29日付の手紙で姉・乙女へ「平井収二郎のことは誠にむごい、妹の加尾の嘆きはいかばかりか」と書き送っている。また、同じ手紙で攘夷を決行し米仏軍艦と交戦して苦杯を喫した長州藩の情勢と(下関戦争)、その際、幕府が姦吏の異人と内通し外国艦船の修理をしていることについて強い危機感を抱き「右申所の姦吏を一事に軍いたし打ち殺、日本を今一度洗濯いたし申し候」と述べている。
8月18日、倒幕勢力最有力であった長州藩の京都における勢力を一網打尽にすべく、薩摩藩と会津藩が手を組み「八月十八日の政変」が起きた。これにより京都の政情は一変し、佐幕派がふたたび実権を握った。8月に天誅組が大和国で挙兵したが、翌9月に壊滅して吉村虎太郎・那須信吾ら多くの土佐脱藩志士が討ち死にしている(天誅組の変)。土佐では9月に武市半平太が投獄され、土佐勤王党は壊滅状態に陥っていた(武市は1年半の入牢後の慶応元年閏5月に切腹となっている。これ以前に岡田以蔵も斬首に処された)。
10月に龍馬は神戸海軍塾塾頭に任ぜられた。翌元治元年(1864年)2月に前年に申請した帰国延期申請が拒否されると、龍馬は海軍操練所設立の仕事を続けるためにふたたび藩に拘束されることを好まず、藩命を無視して帰国を拒絶し再度の脱藩をする。2月9日、勝は前年5月から続いている長州藩による関門海峡封鎖の調停のために長崎出張の命令を受け、龍馬もこれに同行した。熊本で龍馬は横井小楠を訪ねて会合し、小楠はその返書として勝に「海軍問答」を贈り、海軍建設に関する諸提案をした。
5月、龍馬は生涯の伴侶となる楢崎龍(お龍)と出会い、のちに彼女を懇意にしていた寺田屋の女将・お登勢に預けている。5月14日、海舟が正規の軍艦奉行に昇進して神戸海軍操練所が発足した。6月17日、龍馬は下田で海舟と会合し、京摂の過激の輩数十人(あるいは200人ほど)を蝦夷地開拓と通商に送り込む構想を話し、老中・水野忠精も承知し、資金三、四千両も集めていると述べている。
この時点では龍馬と勝は知らなかったが、6月5日に池田屋事件が起きており京都の情勢は大きく動いていた。池田屋事件で肥後の宮部鼎蔵、長州の吉田稔麿ら多くの尊攘派志士が落命または捕縛され、死者の中には土佐の北添佶摩と望月亀弥太もいた。北添は龍馬が開拓を構想していた蝦夷地を周遊した経験のある人物で、望月は神戸海軍塾の塾生であった。
八月十八日の政変と池田屋事件のあと、長州藩は薩摩・会津勢力によって一掃された。7月19日に京都政治の舞台に戻ることを目標とした長州軍約3,000が御所を目指して進軍したが、一日の戦闘で幕府勢力に敗れた(禁門の変)。この戦闘は京都中に広がり、三日三晩戦火に見舞われどんどん焼けという火災が発生した。この頃、かつて龍馬と親交のあった久坂玄瑞は重傷を負い、戦局に利あらざるを悟り仲間(寺島忠三郎)とともに燃え盛る炎の中で自害した。それから少しあとの8月5日、長州は英米仏蘭四カ国艦隊による下関砲撃を受けて大打撃を蒙った(下関戦争)。禁門の変で長州兵が御所に発砲したことで長州藩は朝敵の宣告を受け、幕府はこの機に長州征伐を発令した。二度の敗戦により長州藩には抗する戦力はなく、11月に責任者の福原越後ら三家老が切腹して降伏恭順した(長州征討)。
お龍の後年の回想によると、これらの動乱の最中の8月1日に龍馬はお龍と内祝言を挙げている。8月中旬ごろに龍馬は勝の紹介を受けて薩摩の西郷吉之助(隆盛)に面会し、龍馬は海舟に対して西郷の印象を「西郷吉之助という男はなるほど確かに馬鹿者かもしれません。しかし少し叩けば少し響き、大きく叩けば大きく響くような男です」と評している。
望月の件に続き、塾生の安岡金馬が禁門の変で長州軍に参加していたことが幕府から問題視され、さらに勝が老中・阿部正外の不興を買ったこともあり、10月22日に勝は江戸召還を命ぜられ、11月10日には軍艦奉行も罷免されてしまった。これに至って、神戸海軍操練所廃止は避けられなくなり、龍馬ら塾生の後事を心配した勝は江戸へ出立する前に薩摩藩城代家老・小松帯刀に彼らを託して、薩摩藩の庇護を依頼した。慶応元年(1865年)3月12日をもって神戸海軍操練所は廃止になった。

龍馬の攘夷への見方を大きく変えた勝海舟。

海援隊の資金援助をした福井藩主の松平春嶽。理路整然とした龍馬の話に引き込まれ、身分の違いを超えて親しくなる。

龍馬と酒を酌み交わしながら国の行く末を語った横井小楠。

亀山社中成る

龍馬ら塾生の庇護を引き受けた薩摩藩は彼らの航海術の専門知識を重視しており、慶応元年(1865年)5月ごろに龍馬らに出資した(「亀山社中」)。これは商業活動に従事する近代的な株式会社に類似した性格を持つ組織であり、当時商人が参集していた長崎の小曽根乾堂家を根拠地として、下関の伊藤助太夫家、そして京都の酢屋に事務所を設置した。
長州藩では前年の元治元年(1864年)12月に高杉晋作が挙兵し、恭順派政権を倒してふたたび尊攘派が政権を掌握していた(功山寺挙兵)。亀山社中の成立は商業活動の儲けによって利潤を上げることのほかに、当時、不倶戴天の関係にあった薩長両藩和解の目的も含まれており、のちの薩長同盟成立に貢献することになる。
幕府勢力から一連の打撃を受けて、長州藩には彼らを京都政治から駆逐した中心勢力である薩摩・会津両藩に対する根強い反感が生じており、一部の藩士はともには天を戴かずと心中に誓い、たとえば高杉晋作のように「薩奸會賊(「さっかんかいぞく」薩摩の薩と會津(会津の旧漢字)の會)」の四文字を下駄底に書き踏みつけて鬱憤を晴らす者がいたほどだった。このような雰囲気の中でも、土佐脱藩志士中岡慎太郎とその同志土方久元は薩摩、長州の如き雄藩の結盟を促し、これをもって武力討幕を望んでいた。龍馬は大村藩の志士・渡辺昇と会談し、薩長同盟の必要性を力説する。渡辺は元練兵館塾頭で桂小五郎(木戸孝允)らと昵懇であったため、長州藩と坂本龍馬を周旋。長崎で龍馬と桂を引き合わせた。慶応元年(1865年)5月、まず土方と龍馬が協同して桂を説諭し、下関で薩摩の西郷吉之助と会談することを承服させる。同時に中岡は薩摩に赴き、西郷に会談を応じるよう説いた。同年閏5月21日、龍馬と桂は下関で西郷の到来を待ったが、「茫然と」した中岡が漁船に乗って現れただけであった。西郷は下関へ向かっていたが、途中で朝議が幕府の主張する長州再征に傾くことを阻止するために急ぎ京都へ向かってしまっていた。桂は激怒して、和談の進展は不可能になったかに見えたが、龍馬と中岡は薩長和解を諦めなかった。
討幕急先鋒の立場にある長州藩に対して、幕府は国外勢力に対して長州との武器弾薬類の取り引きを全面的に禁止しており、長州藩は近代的兵器の導入が難しくなっていた。一方、薩摩藩は兵糧米の調達に苦慮していた。ここで龍馬は薩摩藩名義で武器を調達して密かに長州に転売し、その代わりに長州から薩摩へ不足していた米を回送する策を提案した。取り引きの実行と貨物の搬送は亀山社中が担当する。この策略によって両藩の焦眉の急が解決することになるため、両藩とも自然これに首肯した。
これが亀山社中の初仕事になり、8月、長崎のグラバー商会からミニエー銃4,300挺、ゲベール銃3,000挺の薩摩藩名義での長州藩への買いつけ斡旋に成功した。これは同時に薩長和解の最初の契機となった。また、近藤長次郎(この当時は上杉宗次郎と改名)の働きにより、薩摩藩名義でイギリス製蒸気軍艦ユニオン号(薩摩名「桜島丸」、長州名「乙丑丸」)の購入に成功し、所有権を巡って紆余曲折はあったが10月と12月に長州藩と桜島丸条約を結び、同船の運航は亀山社中に委ねられることになった。
9月には長州再征の勅命には薩摩は従わない旨の「非義勅命は勅命にあらず(義のない勅命は勅命ではない)」という重要な大久保一蔵の書簡を、長州藩重役広沢真臣に届けている。

中岡慎太郎。龍馬とともに薩長の連合に尽力する。

薩長連合・寺田屋事件

慶応2年(1866年)1月8日、小松帯刀の京都屋敷において、桂と西郷の会談が開かれた。だが、話し合いは難航して容易に妥結しなかった。龍馬が1月20日に下関から京都に到着すると未だ盟約が成立していないことに驚愕し、桂に問いただしたところ、「薩摩側はただ僕を饗応するだけでこちらが連合の話をしだすとのらりくらりと誤魔化している。向こうはこの同盟を本気で考えてはいないのだ。坂本君、長州としてはこれ以上薩摩なんぞに頭を下げられない。僕はもう我慢の限界だ。長州に帰らせていただく」と答えた。龍馬はそれ以上桂を責めることはしなかった。しかし薩摩側が桂の帰藩を止め、1月22日、薩摩側からの6か条の条文が提示された。その場で検討が行われ、桂はこれを了承した。これにより薩長両藩は後世薩長同盟と呼ばれることになる盟約を結んだ。龍馬はこの締結の場に列席している。盟約成立後、桂は自分の記憶に誤りがないかと、龍馬に条文の確認を行い、間違いないという返書を受け取っている。
龍馬は薩長同盟成立にあたって両者を周旋し、交渉をまとめた立役者とする意見がある。これらのものでは、と桂が難色を示したあとに、龍馬が西郷に「貴方方はいつまで藩同士で争い続けるおつもりですか。藩同士の争いが不毛なことは西郷さん、貴方が一番良くわかっておられるはずです。このままいがみ合っておればメリケンやエゲレスやその他欧米諸国にとっては思う壷。清国(当時の中国の王朝)のように植民地にされぬとも限りません」と働きかけ、妥協を引き出したとされる。逆に近年の研究者の主張で西郷や小松帯刀ら薩摩藩の指示を受けて動いていたという説を唱える学者もおり、薩長連合に果たした役割はむしろ小さく、同胞の中岡慎太郎が主だって動いていたと考える研究者もいる。
盟約成立から程ない1月23日、龍馬は護衛役の長府藩士・三吉慎蔵と投宿していた伏見寺田屋へ戻り祝杯を挙げた。だがこのとき、伏見奉行が龍馬捕縛の準備を進めていた。明け方2時ごろ、一階で入浴していた龍馬の恋人のお龍が窓外の異常を察知して袷一枚のまま二階に駆け上がり、二人に知らせた。すぐに多数の捕り手が屋内に押し入り、龍馬は高杉晋作から贈られた拳銃を、三吉は長槍をもって応戦するが、多勢に無勢で龍馬は両手指を斬られ、両人は屋外に脱出した。負傷した龍馬は材木場に潜み、三吉は旅人を装って伏見薩摩藩邸に逃げ込み救援を求めた。これにより龍馬は薩摩藩に救出された。寺田屋での遭難の様子を龍馬は12月4日付の手紙で兄・権平に報告している。
龍馬不在の長崎の亀山社中では、1月14日にユニオン号購入で活躍した近藤長次郎(上杉宗次郎)が独断で英国留学を企てて露見し、自刃させられる事件が起きていた。事件を知らされた龍馬は『手帳摘要』に「術数はあるが誠が足らず。上杉氏(近藤)の身を亡ぼすところなり」と書き残しているが、後年のお龍の回顧では「俺がいたら殺しはしなかったんだ」と嘆いたという。
寺田屋遭難での龍馬の傷は深く、以後、それが理由で写真撮影などでは左手を隠していることが多いのではないかと指摘する研究者もいる。西郷の勧めにより、刀傷の治療のために薩摩の霧島温泉で療養することを決めた龍馬は、2月29日に薩摩藩船・三邦丸に便乗してお龍を伴い京都を出立した。3月10日に薩摩に到着し、83日間逗留した。二人は温泉療養のかたわら霧島山・日当山温泉・塩浸温泉・鹿児島などを巡った。温泉で休養をとるとともに左手の傷を治療したこの旅は龍馬とお龍との蜜月旅行となり、これが日本最初の新婚旅行とされている*6
5月1日、薩摩藩からの要請に応えて長州から兵糧500俵を積んだ「ユニオン号」が鹿児島に入港したが、この航海で薩摩藩から供与された帆船ワイル・ウエフ号が遭難沈没し、土佐脱藩の池内蔵太ら12名が犠牲になってしまった。幕府による長州再征が迫っており、薩摩は国難にある長州から兵糧は受け取れないと謝辞し、ユニオン号は長州へ引き返した。池内蔵太の死の報せを聞くや龍馬は「俺よりもう少し生きてくれれば!俺はお前にこの亀山社中を継がせるつもりだったんだ。俺より先に死ぬ奴がいるかよ!」と嘆いたという。
6月、幕府は10万を超える兵力を投入して第二次長州征伐を開始した。6月16日に「ユニオン号」に乗って下関に寄港した龍馬は長州藩の求めにより参戦することになり、高杉晋作が指揮する6月17日の小倉藩への渡海作戦で龍馬はユニオン号を指揮して最初で最後の実戦を経験した。龍馬はこの戦いについて、戦況図つきの長文の手紙を兄・権平に送っている。
長州藩は西洋の新式兵器を装備していたのに対して幕府軍は総じて旧式であり、指揮統制も拙劣だった。幕府軍は圧倒的な兵力を投入しても長州軍には敵わず、長州軍は連戦連勝した。思わしくない戦況に幕府軍総司令官の将軍・徳川家茂は心労が重なり7月10日に大坂城で病に倒れ、7月20日に21歳の短い人生を終えた。このため、第二次長州征伐は立ち消えとなり、勝海舟が長州藩と談判を行い9月19日に幕府軍は撤兵した(小倉口では交戦が続き和議が成立したのは翌慶応3年1月23日)。

龍馬の説得を受け入れ薩摩と手を組んだ桂小五郎。

薩摩藩のトップ・西郷吉之助(隆盛)

西郷とともに長州と手を組んだ大久保一蔵(利通)

龍馬に身の危険を知らせたお龍。

龍馬の命を救った槍の名手・三吉慎蔵

英国への密航が露見し切腹を宣告された近藤長次郎。龍馬にその才能を愛された。

海援隊・いろは丸事件

先に帆船ワイルウェフ号を喪失し、ユニオン号も戦時の長州藩へ引き渡すことになり、亀山社中には船がなくなってしまった。慶応2年(1866年)7月28日付の三吉慎蔵宛の手紙で龍馬は「水夫たちに暇を出したが、大方は離れようとしない」と窮状を伝えている。このため、薩摩藩は10月にワイルウェフ号の代船として帆船「大極丸」を亀山社中に供与した。
将軍・家茂の死後、将軍後見職・一橋慶喜の第15代将軍就任が衆望されたが、慶喜は将軍職に就くことを望まず、まずは徳川宗家の家督のみを継承していた。8月末ごろ、龍馬は長崎に来ていた越前藩士・下山尚に政権奉還策を説き松平春嶽に伝えるよう頼んだ。龍馬が政権奉還論を述べた最初の記録だが、政権奉還論自体は龍馬の創意ではなく、幕臣・大久保一翁(忠寛)がかねてから論じていたことで、龍馬と下山の会見以前の8月14日には春嶽当人が慶喜に提案して拒否されていた。
尊攘派の土佐勤王党を弾圧粛清した土佐藩だが、このころには時勢の変化を察して軍備強化を急いでおり、参政・後藤象二郎を責任者として長崎で武器弾薬の購入を盛んに行っていた。航海と通商の専門技術があり、薩長とも関係の深い龍馬に注目した土佐藩は11月ごろから溝淵広之丞を介して龍馬と接触を取り、翌慶応3年(1867年)1月13日に龍馬と後藤が会談した(清風亭会談)。龍馬にとって後藤は同士を殺した不倶戴天の敵であったが、日本の将来を考え後藤と手を組むことを決めた。この結果、土佐藩は龍馬らの脱藩を赦免し、亀山社中を土佐藩の外郭団体的な組織とすることが決まり、これを機として4月上旬ごろに亀山社中は「海援隊」と改称した。
海援隊規約によると、隊の主要目的は土佐藩の援助を受けて土佐藩士や藩の脱藩者、海外事業に志を持つ者を引き受け、運輸・交易・開拓・投機・土佐藩を助けることなどとされ、海軍と会社をかねたような組織として、隊士は土佐藩士(千屋寅之助・沢村惣之丞・高松太郎・安岡金馬・新宮馬之助・長岡謙吉・石田英吉・中島作太郎(信行))および他藩出身者(陸奥陽之助(紀州藩)・白峰駿馬(長岡藩))など16 - 28人、水夫を加えて約50人からなっていた[68]。 同時期、中岡慎太郎は陸援隊を結成している。
海援隊結成からほどなく「いろは丸沈没事件」が発生した。4月23日晩、大洲藩籍で海援隊が運用する(一航海500両で契約)蒸気船「いろは丸」が瀬戸内海中部の備後国鞆の浦沖で紀州藩船「明光丸」と衝突し、「明光丸」が遥かに大型であったために「いろは丸」は大きく損傷して沈没してしまった。龍馬は万国公法をもとに[注 29] 紀州藩側の過失を厳しく追及、さらには「船を沈めたその償いは金を取らずに国を取る」の歌詞入り流行歌を流行らせるなどして紀州藩を批判した。後藤ら土佐藩も支援した結果、薩摩藩士・五代友厚の調停によって、5月に紀州藩は「いろは丸」が積んでいたと龍馬側が主張したミニエー銃400丁など銃火器35,630両や金塊や陶器などの品47,896両198文の賠償金83,526両198文の支払に同意した。その後減額して70,000両になった。
海運通商活動以外に龍馬は蝦夷地の開拓も構想しており、後年、妻のお龍も「私も行くつもりで、北海道の言葉の稽古をしていました」と回顧している。一方で、海援隊の経済状態は苦しく、開成館長崎商会主任の岩崎弥太郎(龍馬とは幼馴染で後の三菱財閥創業者)はたびたび金の無心にくる海援隊士を快く思わず日記に「厄介もの」と書き残している。

海援隊の群像。左から長岡謙吉、溝渕広之丞、坂本龍馬、山本洪堂、千屋寅之助、白峰駿馬。

海援隊に資金を融通した岩崎弥太郎。

龍馬と手を組んだ土佐藩参政の後藤象二郎。

維新への飛躍

薩土密約

当時の土佐藩上士は公議政体論が主流であったが、乾退助(のちの板垣退助)は、土佐藩の上士としては珍しく武力討幕を一貫して主張し、江戸の土佐藩邸に水戸勤皇浪士・中村勇吉、相楽総三らを隠匿していた。(この浪士たちが、のちに薩摩藩へ移管され庄内藩などを挑発し戊辰戦争の前哨戦・江戸薩摩藩邸の焼討事件へ発展する)
慶応3年5月(1867年6月)、乾退助は中岡慎太郎の手紙を受けて上洛し、5月18日(太陽暦6月20日)、京都東山の料亭「近安楼」で、福岡藤次(孝弟)や、広島藩・船越洋之助らとともに中岡と会見し武力討幕を議した。さらに5月21日(太陽暦6月23日)、中岡慎太郎が仲介して退助を薩摩の西郷隆盛に会わせることとなり、中岡は以下の手紙を書いた。
一筆拝呈仕候。先づ以て益々御壮榮に御坐成さらるる可く、恭賀たてまつり候。今日、午後、乾退助、同道御議論に罷り出で申したく、よっては大久保先生、吉井先生方にも御都合候はば、御同会願いたてまつりたき内情に御座候。もつとも強いて御同会願いたてまつると申す訳には、御座なく候。何分にも御都合次第之御事と存じたてまつり候。尚又、今日、昼後の処、もし御不工面に候はば、何時にてもよろしき儀に御座候間、悪しからぬ様、願い上げたてまつり候。右のみ失敬ながら愚礼呈上、如比御座候、以上。
(慶応三年)五月廿一日  清之助(中岡慎太郎の変名)再拝
(西郷)南洲先生玉机下

これにより、同日、京都(御花畑)の薩摩藩家老・小松清廉寓居で、土佐藩の谷干城らとともに薩摩藩の西郷吉之助、吉井幸輔らと武力討幕を議し、
一、勤王一途に存入、朝命を遵奉する。
一、薩摩、土佐の両藩は互いに討幕に向けて藩論を統一させる。
一、両藩は、幕府との決戦に備えて軍備を調達し、練兵を行う。
一、薩摩藩が幕府と決戦となれば、土佐藩はその時の藩論の如何にかかわらず(藩論を討幕に統一出来ていなかったとしても)、30日以内に必ず土佐藩兵を率いて薩藩に合流する。(その為には、集団での脱藩もあり得る)
一、上記は乾退助が切腹の覚悟を以って誓約し、その証として、中岡慎太郎が人質となって薩摩藩邸に籠る。
(中岡が人質となる事に関しては「それには及ばない。全面的に乾の去就を信頼する」との西郷の言を以て除外)
附則として、現在、土佐藩邸に隠匿している水戸藩の勤王派浪士は、薩摩藩が責任を持って預かる。
との大意を確認し薩土討幕の密約を結ぶ。翌日5月22日(太陽暦6月24日)、退助は山内容堂へ拝謁して、時勢が武力討幕へ向かっていることを説き、江戸の土佐藩邸に水戸浪士を秘かに匿っている事実を告げた。また、薩摩藩側も討幕の密約締結の翌日にあたる5月22日(太陽暦6月24日)、薩摩藩邸で重臣会議を開き、藩論を武力討幕に統一することが確認された。
中岡慎太郎は、ただちに書簡をしたため薩摩と土佐の間で武力討幕の密約」が締結されたことを知らせ、土佐勤王党の同志に、
天下の大事を成さんとすれば、先ず過去の遺恨や私怨を忘れよ。今や乾退助を盟主として起つべき時である。
— 中岡慎太郎
と「檄文」を飛ばした。
(入れ違いに大政奉還論を意図した後藤象二郎と坂本龍馬が上洛し、6月22日(太陽暦7月23日)に薩摩藩と薩土盟約を結ぶことになる)

薩土盟約を指導した乾退助(板垣退助)。

大政奉還 ・薩土盟約

いろは丸事件の談判を終えた龍馬と後藤象二郎は慶応3年6月9日(1867年7月10日)に藩船「夕顔丸」に乗船して長崎を発ち、兵庫へ向かった。京都では将軍・徳川慶喜および島津久光・伊達宗城・松平春嶽・山内容堂による四侯会議が開かれており、後藤は山内容堂に京都へ呼ばれていた。龍馬は「夕顔丸」船内で政治綱領を後藤に提示した。それは以下の八項目であった。
天下ノ政権ヲ朝廷ニ奉還セシメ、政令宜シク朝廷ヨリ出ヅベキ(大政奉還)
上下議政局ヲ設ケ、議員ヲ置キテ万機ヲ参賛セシメ、万機宜シク公議ニ決スベキ事(議会開設)
有材ノ公卿諸侯及ビ天下ノ人材ヲ顧問ニ備ヘ官爵ヲ賜ヒ、宜シク従来有名無実ノ官ヲ除クベキ事(官制改革)
外国ノ交際広ク公議ヲ採リ、新ニ至当ノ規約ヲ立ツベキ事(条約改正)
古来ノ律令を折衷シ、新ニ無窮ノ大典ヲ撰定スベキ事(憲法制定)
海軍宜ク拡張スベキ事(海軍の創設)
御親兵ヲ置キ、帝都ヲ守衛セシムベキ事(陸軍の創設)
金銀物貨宜シク外国ト平均ノ法ヲ設クベキ事(通貨政策)
以上の八項目は、長岡謙吉が筆記したとされ、歴史小説などでは「船中八策」と呼ばれ、のちに成立した維新政府の綱領の実質的な原本となったとされてきた。しかし、江戸時代当時のものというよりは明治になって書かれたものと思しき文体で書かれており、内容も引用されたものによって食い違いがあり、かつ龍馬によって書かれた船中八策の原本は見つかっておらず、近年では船中八策は創作とされる。ただし同年11月に書かれた新政府綱領八策の自筆本は実在しており、思想や主張の内容はこれを基に遡及して作られたものとされる。
慶応3年6月(1867年7月)、龍馬の提示を受けた後藤はただちに京都へ出向し、建白書の形式で山内容堂へ上書しようとしたが、これより1ヶ月前の5月21日の時点で既に中岡慎太郎の仲介によって乾退助、毛利恭助、谷干城らが薩摩の西郷吉之助、吉井幸輔、小松帯刀らと薩土討幕の密約を結び、翌日容堂はこれを承認したうえで、乾らとともに大坂で武器300挺の買い付けを指示して土佐に帰藩していた。
そのため、一歩出遅れた後藤象二郎らは大坂で藩重臣らと協議し大政奉還論を藩論とするよう求める他なかった。次いで後藤は6月22日(太陽暦7月23日)に薩摩藩と会合を持ち、薩摩側は西郷吉之助・小松帯刀・大久保一蔵、土佐側からは坂本龍馬・中岡慎太郎・後藤象二郎・福岡孝弟・寺村左膳・真辺正心(栄三郎)が代表となり、龍馬の進言に基づいた王政復古を目標となす薩土盟約が成立した。後藤は薩摩と密約を成立させる一方で、土佐に帰って容堂に上書を行い、これからほどない6月26日、芸州藩が加わって薩土芸盟約が成立した。
7月6日、龍馬が不在中の長崎で英国軍艦イカロス号の水夫が殺害され、海援隊士に嫌疑がかけられる事件が発生した。龍馬と後藤はこの対応のために長崎へ戻り、龍馬は9月まで英国公使パークスとの談判にあたっていた。結局、容疑不十分で海援隊士の嫌疑は晴れている(犯人は海援隊とは縁もゆかりもない福岡藩士・金子才吉で事件直後に自刃していた)。
後藤は9月2日に京都へ戻ったが、イカロス号事件の処理に時間がかかったことと薩土両藩の思惑の違いから、9月7日に薩土盟約は解消してしまった。その後、薩摩、土佐両藩は薩土討幕の密約に基づき討幕の準備を進めることになる。
9月2日付けの、桂小五郎(当時は既に木戸姓を名乗り木戸貫治と名乗っていた)から龍馬宛に送られた手紙が残されている。龍馬はこの手紙をもらった後、独断で土佐藩に買い取らせるためのライフル銃を千丁以上購入し、藩の重役に討幕への覚悟を求めた。
慶応3年9月6日(1867年10月3日)、大監察に復職した退助は薩土討幕の密約をもとに藩内で武力討幕論を推し進め、佐々木高行らと藩庁を動かし、土佐勤王党弾圧で投獄されていた島村寿之助、安岡覚之助ら旧土佐勤王党員らを釈放させた。これにより、土佐七郡(全土)の勤王党の幹部らが議して、退助を盟主として討幕挙兵の実行を決断。武市瑞山の土佐勤王党を乾退助が事実上引き継ぐこととなる。
9月20日(太陽暦10月17日)、坂本龍馬が、長州の桂小五郎(木戸孝允)へ送った書簡には、
一筆啓上仕候。然ニ先日の御書中、大芝居の一件、兼而存居候所とや、実におもしろく能相わかり申候間、彌憤発可仕奉存候。其後於長崎も、上國の事種々心にかゝり候内、少〻存付候旨も在之候より、私し一身の存付ニ而手銃一千廷買求、藝州蒸氣船をかり入、本國ニつみ廻さんと今日下の關まで參候所、不計(はからず)も伊藤兄上國より御かへり被成、御目かゝり候て、薩土及云云、且大久保が使者ニ来りし事迄承り申候より、急々本國をすくわん事を欲し、此所ニ止り拝顔を希ふにひまなく、殘念出帆仕候。小弟(坂本龍馬)思ふに是より(土佐に)かへり乾(板垣)退助ニ引合置キ、(それ)より上國(京都)に出候て、後藤庄(象)次郎を國にかへすか、又は長崎へ出すかに可仕(つかまつるべき)と存申候。先生の方ニハ御やくし申上候時勢云云の認もの御出來に相成居申候ハんと奉存候。其上此頃の上國の論は先生に御直ニうかゞい候得バ、はたして小弟の愚論と同一かとも奉存候得ども、何共筆には尽かね申候。彼是の所を以、心中御察可被遣候。猶後日の時を期し候。誠恐謹言。
(慶應三年)九月廿日、(坂本)龍馬。
木圭先生左右
と記し「大政奉還」を幕府の権力を削ぐための大芝居とし、その後、武力討幕を行わねばならないが、後藤象二郎が大政奉還のみで止まり討幕挙兵を躊躇った場合は、後藤を捨て乾退助に接触すると述べている。
9月22日(太陽暦10月19日)、中岡慎太郎が『兵談』を著して、国許の勤王党同志・大石円に送り、軍隊編成方法の詳細を説く。
これらの動きに呼応し、イカロス号事件の処理を終えた龍馬は、新式小銃1,000挺あまりを船に積んで長崎から土佐へ運び、9月23日、5年半ぶりに故郷の土を踏み家族と再会した。浦戸入港の時、龍馬が土佐藩参政・渡辺弥久馬(斎藤利行)に宛てた書簡には、
一筆啓上仕候。然ニ此度云々の念在之、手銃一千挺、藝州蒸汽船に積込候て、浦戸に相廻申候。參がけ下ノ關に立より申候所、京師の急報在之候所、中々さしせまり候勢、一変動在之候も、今月末より来月初のよふ相聞へ申候。二十六日頃は薩州の兵は二大隊上京、其節長州人数も上坂 是も三大隊斗かとも被存候との約定相成申候。小弟(坂本龍馬)下ノ關居の日、薩大久保一蔵長ニ使者ニ来り、同國の蒸汽船を以て本國に歸り申候。御國の勢はいかに御座候や。又、後藤(象二郎)參政はいかゞに候や。 京師(京都)の周旋くち(口)下關にてうけたまわり實に苦心に御座候。乾氏(板垣退助)はいかゞに候や。早々拜顔の上、万情申述度、一刻を争て奉急報候。謹言。
(慶應三年)九月廿四日 坂本龍馬
渡辺先生 左右
と書き送っている。
9月25日(太陽暦10月22日)、龍馬が、土佐勤王党の同志らと再会し、討幕挙兵の方策と時期を議す。
9月29日(太陽暦10月26日)、乾退助が、土佐藩仕置役(参政)兼歩兵大隊司令に任ぜらる。
10月8日(太陽暦11月3日)、乾退助が、大政奉還に真っ向から反対し土佐藩歩兵大隊司令役を解任され失脚する。
土佐藩は乾退助の説く過激な武力討幕か、後藤象二郎の説く穏健な大政奉還かで藩論が揺れ動く中、10月9日に龍馬は入京し、この間、容堂の同意を受けた後藤が10月3日に二条城に登城して、容堂、後藤、寺村、福岡、神山左多衛の連名で老中・板倉勝静に大政奉還建白書を提出し、幕府が時勢に従い政権を朝廷に奉還することを提案していた。しかし乾退助は武力討幕の意見を曲げず、大政奉還論を「空名無実」と批判し「大政返上の事、その名は美なるも是れ空名のみ。徳川氏、馬上に天下を取れり。(しか)らば馬上に於いて(これ)を復して王廷に奉ずるにあらずんば、いかで()く三百年の覇政を滅するを得んや。無名の師は王者の(くみ)せざる所なれど、今や幕府の罪悪は天下に()つ。此時に際して断乎たる討幕の計に出でず、(いたづら)に言論のみを以て将軍職を退かしめんとすは、迂闊を極まれり。(徳川300年の幕藩体制は、戦争によって作られた秩序である。ならば戦争によってでなければこれを覆えすことは出来ない。話し合いで将軍職を退任させるような、生易しい策は早々に破綻するであろう)」と真っ向から反対する意見を言上したことで全役職を解任されて失脚した。
徳川慶喜がこの建白を受け入れるか否かは不明確で、龍馬は後藤に「建白が受け入れられない場合は、後藤さんはその場で切腹する覚悟でしょうから、後に下城なき場合は、海援隊同志とともに慶喜を路上で待ち受けて仇を討ちます。地下で相まみえましょう」と激しい内容の手紙を送っている。一方、将軍・徳川慶喜は10月13日に二条城で後藤を含む諸藩重臣に大政奉還を諮問。翌14日に明治天皇に上奏。15日に勅許が下された。
この大政奉還・上奏の直前(10月14日)に討幕の密勅が薩摩と長州に下された。
(訳文)詔を下す。源慶喜(徳川慶喜)は、歴代長年の幕府の権威を笠に着て、一族の兵力が強大なことをたよりにして、みだりに忠実で善良な人々を殺傷し、天皇の命令を無視してきた。そしてついには、先帝(孝明天皇)が下した詔勅を曲解して恐縮することもなく、人民を苦境に陥れて顧みることもない。この罪悪が極まれば、今にも日本は転覆してしまう(滅んでしまう)であろう。 朕(明治天皇)今、人民の父母となってこの賊臣を排斥しなければ、いかにして、上に向かっては先帝の霊に謝罪し、下に向かっては人民の深いうらみに報いることが出来るだろうか。これこそが、朕の憂い、憤る理由である。本来であれば、先帝の喪に服して慎むべきところだが、この憂い、憤りが止むことはない。お前たち臣下は、朕の意図するところをよく理解して、賊臣である慶喜を殺害し、時勢を一転させる大きな手柄をあげ、人民の平穏を取り戻せ。これこそが朕の願いであるから、少しも迷い怠ることなくこの詔を実行せよ。
しかし、大政奉還の成立によって討幕の大義名分が失われ、21日に討幕の実行延期を命じられる。
展望が見えた龍馬は、10月16日に戸田雅楽(尾崎三良)と新政府職制案の「新官制擬定書」を策定した。龍馬が西郷に見せた新政府職制案の名簿に西郷の名はあったが龍馬の名が欠けており、新政府に入ってはどうかと勧めると龍馬は「私は世界の海援隊をやりましょうかな」と答えたという有名な逸話があるが、尾崎の史料には龍馬の名は参議候補者として記載されており、この逸話は大正3年に書かれた千頭清臣作の伝記『坂本竜馬』が出典の創作の可能性がある。ただし龍馬本人は役人になるのは嫌とお龍に語ったという話もあり、11月の陸奥への手紙には「世界の話もできるようになる」ともあって尾崎の案と西郷に見せたものは違う名簿という可能性なども考えられる。尾崎の手控とされる資料は数種あり、参議の項に坂本の名の有無、大臣の項に慶喜の名の有無などの違いが指摘されている。
また、11月上旬には船中八策をもとにしたとされる「新政府綱領八策」を起草し、新政府の中心人物の名は故意に「○○○自ら盟主と為り」と空欄にしておいた。龍馬が誰を意図していたのかはさまざまな説がある。

大政奉還を受け入れた徳川慶喜。

凶刃

後藤象二郎の依頼で、慶応3年10月24日に山内容堂の書状を持って越前へ出向き、松平春嶽の上京を促して三岡八郎(由利公正)と会談したあと、11月5日に帰京した。帰京直後に三岡の新政府入りを推薦する後藤象二郎宛ての手紙「越行の記」を記し、さらに11月10日には福井藩士・中根雪江宛てに三岡を出仕させるよう懇願する手紙を記している。
慶応3年11月15日(1867年12月10日)、龍馬は宿にしていた河原町の蛸薬師で醤油商を営む近江屋新助宅母屋の二階にいた。当日は陸援隊の中岡慎太郎や土佐藩士の岡本健三郎、画家の淡海槐堂などの訪問を受けている。この日龍馬は軽い風邪を引いていたため、京都の土佐藩御用達の書店菊屋の長男である菊屋峯吉に軍鶏鍋を買いに走らせた。午後8時ごろ、龍馬と中岡が話していたところ、十津川郷士と名乗る男たち数人が来訪し面会を求めてきた。従僕の藤吉が取り次いだところで、来訪者はそのまま二階に上がって藤吉を斬り、この時の藤吉の唸り声を聞いた龍馬が「ほたえな!(騒ぐな!)」と叫んだことにより龍馬の居場所がわかったため、龍馬たちのいる部屋に押し入った。龍馬達は帯刀しておらず、龍馬はまず額を深く斬られ、その他数か所をずたずたに斬られて、ほとんど即死に近い形で殺害された。刺客が去ったあと龍馬は中岡に「石川*7、刀はないか」と声をかける。そして「俺は深く脳をやられたよ。もういかん」と呟き事切れた。享年33(満31歳没)。旧暦だが、龍馬の誕生日と命日が同じ日になってしまった。中岡慎太郎は重傷を負い、一時は軽食をとれるほどに容態が回復したものの襲撃を受けてから2日後に容態が悪化し血を吐いて死亡した。
当初は新選組の関与が強く疑われた。また、海援隊士たちは紀州藩による、いろは丸事件の報復を疑い、12月6日に陸奥陽之助らが紀州藩御用人・三浦休太郎((やすし))を襲撃して、三浦の護衛にあたっていた新選組と斬り合いになっている(天満屋事件)。慶応4年(1868年)4月に下総国流山で出頭し捕縛された新選組局長・近藤勇は、部隊の小監察であった土佐藩士谷干城の強い主張によって斬首に処された。ただし、谷自身は近藤が「有志の徒」を殺害したとは言及しているが、龍馬の名はまったく出しておらず、斬首の理由としても言及していない。また、新選組に所属していた大石鍬次郎は龍馬殺害の疑いで捕縛され拷問の末に自らが龍馬を殺害したと自白するも、のちに撤回している*8
明治3年(1870年)、箱館戦争で降伏し捕虜になった元見廻組の今井信郎が、取り調べ最中に、与頭・佐々木只三郎とその部下6人(今井信郎・渡辺吉太郎・高橋安次郎・桂早之助・土肥伴蔵・桜井大三郎)が坂本龍馬を殺害したと供述し、現在では見廻組犯人説が定説になっている。ちなみにこの供述に対し谷干城は「それは今井の売名行為に過ぎない」と激怒しその後彼は死ぬまで龍馬暗殺の真犯人を探し続けた。その一方で、薩摩藩黒幕説やフリーメイソン説、後藤象二郎黒幕説(大政奉還を自分だけの手柄にするため)までさまざまな異説が生まれ現在まで取り沙汰されている。
墓所は京都市東山区の京都霊山護国神社の霊山墓地中腹。墓碑は桂小五郎が揮毫した。なお、高知県護国神社と靖国神社にも祀られている。

佐々木只三郎。龍馬暗殺の実行犯?

陸奥陽之助。海援隊幹部で龍馬暗殺後は天満屋事件を同士とともに引き起こす。

逸話

●新しい物好きで、最新式の拳銃を使用したり、ブーツを履いた所水虫にかかってしまったといわれているが、水虫はその前から存在している病気なのでこれは誤りである。また、ブーツも数回しか履いたことはなく平時は草履を履いていたという。立像写真でブーツを履いているのは写真撮影用の「おめかし」であったと言えよう。
●当時としては大柄な体格であり(幕末の男性の平均身長は、155cm程度である)、遺された紋服からは173cm以上、体重は80kg以上と推定される。ちなみに龍馬の姉・乙女は、身長は175cm、体重は100キロを超えたと言われており、龍馬の家系は遺伝的に身体の大きな家系だった事が窺える。上野彦馬の夫人の証言によると、元々色黒で初対面のときはかなり痩せていたためどうしても顔が怖く見えてしまったが、これよりあとに龍馬に会ったときは血色も良くなり体格も肥えて精悍な体つきになっていたという。
●今に残る肖像写真からは、前頭部から後退するタイプの薄毛であり、また髪質は縮れ毛、今で言う天然パーマだったことが窺える。
●北辰一刀流の皆伝を受けた剣の達人というイメージが強いが、現存する北辰一刀流の免許はなぎなたのものしかない。これは、同流派では一番最初に授けられる基本のものであり、本当に皆伝を受けたのか、研究者の間では疑問視されていた。しかし、2016年になって、坂本龍馬記念館が収蔵品を貸し出した際の目録に「北辰一刀流免許皆伝書」の文字が発見され、皆伝を受けていた可能性が高くなった。
●彼の頭はかなり毛根が死滅しかかっていた(いわゆる若ハゲ)。梅毒に掛かっていたためと一部では言われているがこれは創作。後の自由民権運動家の中江兆民は龍馬と同じ土佐藩士で少年時代に龍馬に可愛がられ、龍馬にタバコを買ってくるなど使い走りをしていたが、彼の証言から梅毒説が流布している。彼の兄・権平も写真から毛根が壊滅的なことになっていることがわかるので家系だろう(尤も権平の写真は老け顔に見えなくもないが)。そもそも薄給の龍馬に遊ぶ金などない。
●龍馬の愛用していたピストル(リボルバー)は、高杉晋作が上海に赴き太平天国の乱を間近に見たときにイギリス人商人の店で手に入れたものであるという。
●一度、西郷吉之助(隆盛)の家に寝泊まりしていたことがあった。この時西郷の妻のイトが古いふんどしを貸したが西郷は「このお方は日本のために働いておられる先生だ。今すぐ一番新しいのと取り替えて差し上げなさい」と珍しくイトを叱ったという。
●彼は子供をもうける前にこの世を去ったので直系の子孫はいない。したがって、坂本の家名は遠い親戚に当たる高松太郎が明治期に坂本直と改名して継ぐこととなった。
●龍馬暗殺の現場は近江屋で、現在も史跡として残されているが龍馬の血しぶきがついた掛け軸が残されていて、現場の凄惨さを物語っている。
●維新後は全くの無名で、薩長土の政府の高官しか名を知るものはいなかった。しかし、明治中期になり坂崎紫瀾が自由民権運動のプロパガンダのため「汗血千里の駒」*9を執筆しこれを発表するとそこから龍馬の名が知られ始める。また日露戦争の頃になると、昭憲皇太后が「昨夜見た夢に白い装束を着た男が現れ、『日露戦争の際、私は海軍のために力を尽くしますから勝敗については安心していてください。』ということを言い残しすっと消えた」と元龍馬の同志で宮内大臣の田中光顕に話すとそれにピンときた田中が昭憲皇太后に龍馬の写真を送ると「間違いない」ということだった。これによって龍馬の名が再び民間に知れ渡ることとなったのである。
●龍馬に開国の必要性を解いたのは勝海舟だけではない。安政の大地震の発生時に絵師にして思想家の河田小龍が、親類の岡上樹庵の妻が龍馬の姉の乙女であったことを縁に龍馬の家を訪れた。龍馬は小龍に対して、日本のこれからについての意見を求めた。小龍は以前自身が藩から取り調べを任されたアメリカから帰国した中浜万次郎から聞いたアメリカの現状を踏まえ、開国の必要性や外国に追いつくための方法などについての意見を述べた。龍馬は小龍の話に大いに感化されたと言われている。
●龍馬は多くの肖像写真を残しており、冒頭に上げた立像写真や上野彦馬による座像写真、暗殺される数ヶ月前に撮影した菊の鉢と共に写っている写真、海援隊のメンバーと撮影した写真、スポンサーである長州の商人の伊藤助太夫やその使用人と撮影した写真など、枚挙にいとまがない。
しかし、その一方で龍馬の「ニセ写真」が流布していることもまた事実である。例えば「フルベッキ群像写真」がその最もたる例で詳細は当該記事に譲るが写真中の龍馬と比定された若侍はのちの旧制第三高等学校(現在の京都大学および岡山大学)の初代教授・折田彦市であることが判明している。この写真が撮影された時期、坂本龍馬は長崎におらず天国にいた。
他にも、髪型こそ似ているものの目が大きな侍の写真が龍馬の脱藩前の写真として話題になるが別人である。

コメント欄

閲覧者数

今日?
昨日?
合計?

タグ

Tag: 歴史 人物 日本史


*1 ただし、汗血千里駒では坂本龍馬は千葉周作の門人としており、嘉永6年当時の桶町には千葉定吉の道場が建てられていなかったことから、二度目の遊学時に桶町千葉道場の門下になったのではという説もある。
*2 近年では藩主が自らの藩士にスパイ活動をさせるため一度藩籍から離れさせることがあったことが判明している
*3 栄ともいわれるが、この頃他家に嫁いでいた栄はすでに病死しているため創作
*4 土佐一国では収まりきらないようなでかいことをする男だ
*5 この時勝は自分の命を救ってくれた岡田に感謝しつつも「お前さんはあまり人殺しをしねえ方がいいぜ」とややたしなめて言った。すると岡田は「そうはおっしゃいますが先生、もし私がここに居りませなんだら先生の首はすでに飛んでいましたでしょう」と返答しこれには勝も苦笑するしかなかったという
*6 ただし実際は薩摩藩家老小松帯刀夫妻がこれより早くに新婚旅行をしたという記録がある
*7 中岡の変名
*8 しかし時すでに遅く、明治3年に斬首されている
*9 現在は岩波文庫で読むことができます