幕末人物写真帳

Last-modified: 2021-09-18 (土) 14:25:00

ここでは、幕末の志士や彼らのスポンサーとなった商人や外国人、文化人、彼らを支えた女性達の写真、肖像画を集めました。

勤王の志士

土佐藩

坂本龍馬
中岡慎太郎
武市瑞山(半平太)
田中光顕
後藤象二郎
谷干城
板垣退助
吉田東洋
近藤長次郎
(ネット上ではこの写真の被写体を岡田以蔵とする場合もあるが大変な誤り)
山内豊信(容堂)
(「鯨海酔侯」と大酒飲みであることをアピールするほどの酒好きで、医者から禁酒を言い渡されてもこっそり飲んでいたという。これが原因で早死した)
山内豊範
河田小龍
(龍馬の生涯の師の一人。中浜万次郎から西洋の文明や政治制度の話を聞き、龍馬にそれらを伝え龍馬のグローバルな視線を育んだ。絵師としても知られており、作品が多数現存する)
沢村惣之丞
北添佶磨
那須信吾
安岡金馬
池内蔵太
(坂本龍馬に将来を嘱望されるも乗っていたイギリス船が嵐で沈没し内蔵太も巻き込まれ死亡。なお、被写体は池内蔵太本人ではなく長州藩士の福原和勝であるとする説もある)
吉村虎太郎
間崎哲馬
白峰駿馬
千屋寅之助(菅野覚兵衛)
長岡謙吉
山本復輔
佐柳高次
中島信行
溝渕広之丞
大石弥太郎
岩崎弥太郎
(左:岩崎弥太郎 右:弥太郎の妻・喜瀬)
福岡孝弟
中浜万次郎
岡本健三郎
新宮馬之助
宮川助五郎
坂本権平
(坂本龍馬の兄で豪商。年齢差は20歳ほどで親子ほど年が離れていた。兄弟仲はすこぶる良好で、龍馬がたびたび権平宅を訪れくつろぐことがあったという。また、権平の娘の春猪も龍馬とは年が8つしか離れておらず、兄のように龍馬を慕っていたという)
土方久元(楠右衛門
尾崎忠治
(坂本龍馬の親友で、法曹界に名を残す。一時、秋田県角館で青柳家の土蔵から発見された彼の写真が西郷隆盛の写真ではないかと騒がれたことがある。)
山本琢磨
(坂本龍馬の幼馴染の一人。普段はおとなしいが酒が入ると途端に気性が荒くなる性格だったようだ。ある時、酒を飲んだ帰りに懐中時計を広い、酔っ払って気が大きくなったのかネコババしてしまいそれが奉行所にバレて切腹を申し付けられる。龍馬は一計を案じ、琢磨を蝦夷地に逃した。琢磨は維新後沢辺姓を名乗り、キリスト教徒となって布教活動に専念する日々を送った。)
高松太郎
(坂本龍馬の甥。叔父がリーダーとなっている海援隊に所属していた。維新後は龍馬が暗殺されたために男系の子孫の少なかった坂本家に養子入りし坂本直と名乗った)
河野敏鎌
(江藤新平に師事し法曹を学ぶ。大久保の命で佐賀の乱の首謀者であった江藤に斬首刑を下す。)
井上俊三
(龍馬の遠い親戚に当たる人物。上野彦馬に師事し、よく知られる龍馬の立像写真を撮影)

長州藩

桂小五郎(木戸孝允)
高杉晋作
吉田松陰
伊藤博文
井上馨
大村益次郎
毛利敬親
村田清風
吉田稔麿
久坂玄瑞
入江九一
福原越後
来島又兵衛
品川弥二郎
山県有朋
野村靖
前原一誠
国司信濃
長井雅楽
広沢真臣
毛利元徳
世良修蔵
周布政之助
時山直八
赤根武人
三吉慎蔵
山田顕義
御堀耕助
天野清三郎
(昭和まで存命していた松下村塾の門下生)
来原良蔵
寺島忠三郎
吉川監物
乃木希典
桂太郎
白根多助
楫取素彦
赤川敬三
(左から三人目の月代は剃っているが髷がボサボサになっている侍)
福田侠平
(少年兵(左)に酒を注いでもらっている青年(右)が福田侠平)
山尾庸三
鳥尾小弥太
井上勝
遠藤謹助
三浦悟楼
山県半蔵
奥平謙輔
毛利元純
富永有隣
杉孫七郎
山城屋和助

薩摩藩

西郷隆盛
(イタリアのお雇い外国人・キヨソーネの肖像画の和服版を写真撮影したもの。西郷の真正写真はこれまで一枚も発見されておらず写真を残さなかったとされるが、近年さまざまな写真が「西郷が写っている」とされその都度否定されている。下記の永山弥一郎の写真も西郷の写真と誤って販売されたことがある。西郷隆盛の写真参照。)
西郷従道
西郷小兵衛
大久保利通
小松帯刀(清廉)
桐野利秋(中村半次郎)
(志士時代の桐野利秋。愛人の芸妓・村田さとと写る一枚)
村田新八
別府晋介
篠原国幹
永山弥一郎
辺見十郎太
伊地知正治
堀次郎(伊地知貞馨)
桂久武
島津斉彬
島津久光
島津忠義(茂久)
島津斉興
島津重豪
(島津斉彬の曾祖父。蘭癖大名として知られ、曾孫の斉彬に西洋文明を教えとても可愛がっていた。薩摩藩の財政難のきっかけを作ったことで孫の斉興は重豪をよく思っておらず、そこへ持ってきて子の斉彬も父である自分より重豪の方になついていたためそれ以来斉彬を嫌うようになったという。)
調所広郷
(薩摩藩を財政難から救った家老。琉球との密貿易により難局を乗り越えたが、幕府に密貿易が露見してしまい、全責任をとる形で服毒自殺した。切腹ともいう。)
島津忠欽
(左:不明 中心:島津珍彦 右:島津忠欽)
島津珍彦
島津久治
市来四郎
税所篤
(左:税所篤 右:大久保利通)
五代友厚
寺島宗則(松木弘安)
中村宗見
鮫島誠蔵
川路利良
吉田清成
森有礼
横山安武
日下部伊三次
東郷平八郎
海江田信義(有村俊斎)
大山綱良
野村盛賢
中原猶介
椎原小弥太
有村次左衛門
有馬新七
有馬藤太
(左:今泉利春(肥前藩)、有馬藤太、大東義徹(彦根藩) )
高崎五六
高崎正風
奈良原繁
田中新兵衛(ネット上で田中新兵衛の写真と言われている謎の写真。河上彦斎ではないかともいわれている)
吉井友実
森山新五左衛門
益満休之助
岩下方平
岩下方美
三島通庸
八田知紀
村田経芳
川村純義
大山巌
黒田清隆
高島鞆之助
中井弘
野津道貫
野津鎮雄
樺山資紀
黒木為楨
伊東祐亭
山本権兵衛
松方正義
大迫貞清
村橋久成
町田久成

肥前藩・大村藩

大隈重信
江藤新平
鍋島直正(閑叟)
鍋島直彬
島義勇
香月経五郎
山中一郎
江副廉蔵
副島種臣
大木喬任
中島永元
石丸安世
枝吉神陽
伊東玄朴
中牟田倉之助
相良知安
久米邦武
佐野常民
渡辺昇
渡辺清
村田氏寿
中野健明
中山信彬

勤王藩諸士

水戸藩
徳川斉昭
藤田東湖
藤田小四郎
武田耕雲斎
会沢正志斎
市川三左衛門
関鉄之介
戸田忠太夫(蓬研)
金子孫ニ郎
茅根伊予之介
高橋多一郎
鵜飼吉左衛門
安島帯刀
原市之進
結城寅寿
福井藩
松平春嶽
橋本左内
中根雪江
芸州藩(広島藩)
辻維岳
浅野長勲
熊本藩
河上彦斎
(河上彦斎ではないかといわれている写真)
横井小楠
宮部鼎蔵
太田黒伴雄
元田永孚
加屋霽堅(かやはるかた)
福岡藩・久留米藩
平野国臣
真木和泉
加藤司書
黒田長溥
黒田長知
早川勇
その他の藩
徳川慶勝
陸奥宗光
香川敬三
清河八郎
佐久間象山
小河一敏
梅田雲浜
江幡五郎
古高俊太郎
相楽総三
(相楽総三ではないかといわれる写真)
本間精一郎
蜂須賀茂韶
頼三樹三郎
大橋訥庵
尾高惇忠(新五郎)
(渋沢栄一の生涯の師で遠い親戚。富岡製糸場の創設者)
藤本鉄石
松本奎堂
梁川星巌
田崎草雲
赤松小三郎
日柳燕石
宮崎車之助
今村百八郎
戸田忠恕
佐藤与之助

佐幕の志士

幕閣・将軍

徳川家慶
徳川家定
(父親の家慶は多くの側妻をもち子供を設けたが多くが早世し成長したのは家定と娘の数人であった。家定は幼少期に小児マヒを患い、行動に落ち着きがなく奇声を上げることもしばしばであった。また、芋や豆などを自分で煮て菓子をつくりそれを家臣に食べさせたためイモ公方とかマメ公方とあだ名されたという。しかし、ハリスとの謁見の際には流暢に喋りうまく対応した。妻の天璋院篤姫との間に子供はできなかったが、夫婦仲はとても良かったという)
徳川家茂
(幕末の政局が混乱を極める頃に将軍に就任した。大の甘い物好きで、墳墓内の遺体の調査を行ったところ殆どの歯が虫歯にかかっていたという。妻の和宮とはいわゆる政略結婚だが夫婦仲はとても良かったという。勝海舟は家茂の病死した日に「徳川家、今日滅ブ」と日記に記し、晩年には家茂の話をしだすと涙をぽろぽろとこぼしたという)
徳川慶喜
(第二次長州征伐に向けて撮影した写真。この頃*1はまだ月代にちょんまげというヘアースタイルで、将軍に就任してからは総髪にヘアースタイルを変えている)
徳川昭武
勝海舟
山岡鉄舟
大久保一翁
川路聖謨
井伊直弼
阿部正弘
堀田正睦
(1858(安政5年)に撮影されたと推定される銀板写真)
江川太郎左衛門英龍
江川英武
江川英敏
永井尚志
佐々木只三郎
渡辺篤
今井信郎
榎本武揚
栗本鋤雲
(徳川昭武に従ってパリ万国博覧会に参列した頃の写真)
西 周(にしあまね)
津田真道
福沢諭吉
松本良順(順)
(ボードウィン撮影)
高島秋帆
間部詮勝
長野主膳
池田長発
板倉勝静
木村芥舟
天野八郎
荒井郁之助
大鳥圭介
渋沢栄一(篤太夫)
渋沢喜作(成一郎)
岡田井蔵(おかだせいぞう)*2
渋沢(尾高)平九郎
(渋沢栄一の見立養子で、渋沢の妻の千代は平九郎の姉でもあり養母である)
松平太郎
人見勝太郎(寧)
山田浅右衛門
(首斬り役人として名高い山田浅右衛門は本名ではなく襲名制である。写真は九代目にあたる山田吉亮(やまだよしふさ)。明治の毒婦・高橋お伝や大久保利通暗殺の下手人である島田一郎を斬首。山田浅右衛門家についての資料では八代目、つまり吉亮の兄までを山田浅右衛門としている。山田浅右衛門家は親子代々で受け継ぐものではなく、兄弟同士もしくは師匠が弟子に継がせるものであった。吉亮の死をもって山田浅右衛門の家名は完全に絶えた)
伊庭八郎
松岡磐吉
沼間守一
三浦休太郎(安)
山内六三郎
山内作左衛門
沢太郎左衛門
新見正興
小栗上野介忠順
村垣範正
竹内保徳
福地源一郎(桜痴)
矢田堀鴻
松岡万
小野友五郎
田辺太一
田口俊平
甲賀源吾
徳川茂徳(玄同)
徳川茂承
徳川慶頼
徳川家達(田安亀之助)
成島柳北
水野忠邦
鳥居耀蔵
(老獪な性格で政治の辣腕をふるい、目的のためには手段を選ばなかったため甲斐守という役職と耀蔵という名から妖怪と呼ばれ恐れられた。天保の改革にて失脚し、丸亀藩に幽閉され明治5年まで生きた。幽閉されてからは年を取ったこともあって性格が丸くなり、村の医者として現地人と交流を持った。晩年に知人が自らを訪れた際には「私の進言したことを何一つ聞かなかったから幕府は滅びた。もうどうにもしようがない」と述べたという)
鷹見泉石
三宅秀
立石斧次郎
(兄の小花和重太郎と撮影した写真。兄に酒(ビール)を注いでもらっている。)
河津伊豆守祐邦
塩田三郎
岩瀬忠震
(黒い着物を着て立っている侍が岩瀬忠震。ただ、撮影中に動いてしまったためか顔がぶれて写っている。肖像画が存在し、それによって岩瀬の顔立ちを伺い知ることができ、美男子であったという口伝と一致する。幕府内で貴重な開明派の人物だったが、安政の大獄により罷免され自宅謹慎中に突然病死。一説には自殺したとも。)
久世広周
赤松大三郎
黒川嘉兵衛
川村恵十郎
(徳川慶喜家臣。朝幕関係の健白書を徳川慶喜に提出したところ秀逸な内容が平岡円四郎の目に止まり、円四郎の口利きで慶喜に仕え、静岡隠居まで従った。顔にある大きな刀傷は円四郎暗殺の折に水戸の過激派武士(林忠五郎、江幡広光)が円四郎を襲撃しめった斬りにして殺したあと恵十郎に負わせた傷でこれにより恵十郎は生死の境をさ迷うが一命を取り戻した。必死の奮闘で恵十郎は水戸の過激派武士に止めを刺すことに成功する。維新後は正平と改名し政府に出仕してのちは日光東照宮の禰宜となり、晩年の写真が残っている。)
大関増裕
稲葉正已
神田孝平
森山栄之助
杉浦愛蔵
向山黄村
松平頼聰
安藤太郎
戸田忠至
内田恒次郎
林研海
上田寅吉
伊東玄伯
大河喜太郎
古川庄八
中島兼吉
山下岩吉
大野弥三郎
松浦武四郎
松平康直
林 董

奥羽越列藩同盟

松平容保
松平喜徳
西郷頼母
神保修理
神保内蔵助
梶原平馬
佐川官兵衛
萱野権兵衛
郡長正
山川浩
山川健次郎
木村銃太郎
柴五郎
柴四朗(東海散士)
飯沼貞吉
(白虎隊唯一の生存者。日露戦争に従軍し、昭和まで生きた)
田中土佐
楢山佐渡
秋月悌次郎
海老名季昌
酒井玄蕃
広沢安任
星恂太郎
細谷十太夫
玉虫左太夫
横山主税常守
酒井忠篤
(庄内藩主。本来なら打ち首に処されるところを西郷隆盛の働きにより助命される。)
河井継之助
山本帯刀
牧野忠恭
二見虎三郎
小林虎三郎

佐幕藩諸士

雲井龍雄
立見尚文
武田斐三郎
新島襄
(函館で撮影した写真。後に同志社の創設者となる新島はこんなお茶目な仮装写真を撮影している。武士が武士以外の装束で写真に写るのは極めて珍しく、明治前期に徳川慶喜が握り飯を食べる農民らしき装束で写真に写ったことがあるくらいである。)
前島密
加藤弘之
古屋佐久左右衛門
高松凌雲
奥平昌邁
奥平昌高(フレデリック・ヘンドリック)
小笠原長行
伊木忠澄(三猿斎)
林忠崇

新選組

近藤勇
土方歳三
沖田総司
(沖田の姉・ミツが孫の要の顔を元に描かせた肖像画。沖田が被写体となっている写真は存在せず、現在沖田の写真と言われているものは全部偽物である。悪質な例では若い町火消しの顔を元に近藤勇と写っているかのように合成した写真が出回った。芹沢鴨もまた同様で、顔の長い上背のある侍が写っている写真が芹沢鴨とされ現在までそれを信用している人は多いが真っ赤な偽物である。沖田と芹沢のニセ写真は「幕末の素顔」に掲載されている。)
永倉新八
島田魁
斎藤一
(2017年に発見された写真。それまでは写真と称して肖像画が流布したり、西南戦争頃の警察官の写真の中に移った馬面の男が斎藤であるとされたりしたが鮮明な写真がついに発見された。斎藤は大正まで存命で、病死する前年に家族と撮影した写真も残っているがこちらは後ろの方にいるためいわゆる「ピンぼけ」してしまっている)
谷万太郎
稗田利八
相馬主計
伊東甲子太郎
鈴木三樹三郎
篠原泰之進
加納鷲雄
宮川勇五郎
(近藤勇の甥)
三浦啓之助
(佐久間象山の次男で、長男や三男が相次いで病死し佐久間家の跡継ぎとして両親に溺愛され育てられる。18歳のころ父が暗殺され、象山の門下生であった会津藩士・山本覚馬の口利きで新選組に入隊する。自分が佐久間象山の実子であることや母方の叔父である勝海舟がバックにいて入隊したことで図に乗っていたため隊士から目をつけられていたという。それは本人も自覚しており沖田総司が彼を飲みに誘ったところ殺されると思い込み逃亡。新選組脱退後は慶應義塾に入るも女にうつつを抜かし僅か2年で退学。維新後は佐久間象山の実子であることをウリに司法省で働くも父親譲りの傲慢さが元で警察官を殴ってしまい解雇される。西南戦争の1877年にウナギの蒲焼きで食あたりし亡くなった)

朝廷・公家

岩倉具視
岩倉具経
(左:岩倉具経 右:岩倉家小姓(名は不詳))
岩倉具定
岩倉具綱
岩倉具慶
三条実美
孝明天皇
明治天皇
有栖川宮熾仁親王
中川宮朝彦親王
東久世通禧
(三条実美と大変仲がよく、同じ日時に同じ写場で撮影した三条の写真が現存している。服装も東久世と同じく白っぽい水干姿である)
中山忠能
(明治天皇の祖父で娘の中山慶子は明治天皇の生母)
中山忠光
(明治天皇の叔父にあたる人物。血縁上は中山忠能の7男であるが兄に養子入りしているため系図では忠能の孫であることになっている。血気にあふれなおかつ粗暴で、忠能に見放されていたという。土佐藩士・吉村虎太郎と共に大和で天誅組の変を起こし、流れ弾に当たり討ち死にした。享年十九歳。)
正親町三条実愛
大原重徳
三条西季知
姉小路公知
(攘夷派の中でも過激な攘夷思想を唱えていた。1863(文久3)年に猿ヶ辻で3人の刺客により襲撃を受け、扇で応戦するも致命傷を負い、自邸に到着後未明に絶命。下手人として薩摩藩士の田中新兵衛の名が挙がるが田中が何もその件について語ることなく自害したため姉小路暗殺犯の真相は永遠の謎となった。)
西園寺公望
(1870(明治3年)に留学先のパリで撮影。公家名を嫌って望一郎という変名を用いた。戊辰戦争の頃に総髪の武士姿で撮影した写真も現存する。明治から昭和まで三時代に渡って元老として政務を行い、太平洋戦争開戦の前年まで江戸、明治、大正、昭和の4時代を生きた。)
沢宣嘉
九条尚忠
北白川宮能久親王
(明治天皇の親戚にあたる人物。戊辰戦争では奥羽列藩同盟の藩に東武皇帝としてまつりあげられた。維新後は何かとお騒がせな人物であったようで、ドイツ留学の際にはドイツ人女性と婚約し、それを新聞社に発行させたことで明治天皇は激怒し、即刻帰国させた)
錦小路頼徳
伏見宮貞愛親王
(少年期に従者たちと写った写真が明治天皇の幼少期(睦仁親王)として陰謀論の材料にされたことがある)
山階宮晃親王
久我武通
万里小路通房
万里小路正房
近衛忠煕
近衛忠房
三条実万
徳大寺実則
四条隆謌
有栖川宮幟仁親王
有栖川宮威仁親王
華頂宮博経親王
梨本宮守脩親王

幕末の女性たち

おりょう(楢崎龍)
(多くの書籍で「おりょうの若い頃の写真」として若い女性の写真が掲載されているが現在では誤りとされている。夫の龍馬の死後は坂本家に身を寄せていたがほどなくして坂本家を出る。通説では龍馬の姉の乙女との折り合いが悪かったのが原因であると言われるが本人の証言によると乙女とは仲が良かったが龍馬の兄の権平とは険悪な仲で、明治政府から龍馬への褒賞金が坂本家に配布されたがそれを権平夫妻が独り占めするためにおりょうが追い出された、とのことである)
坂本乙女
お登勢
木戸松子(幾松)
高杉雅子
伊藤梅子
杉 文
(吉田松陰の妹)
西郷糸子
愛加那
(西郷隆盛の二度めの妻。長男・菊次郎(京都府知事)の生母。近年菊次郎の戸籍が再発見されそれによると「母 アリカナ」と書かれている)
一条美賀子
江良加代
和宮親子内親王
(これまで和宮の写真として知られてきた写真の被写体は現在は柳沢明子のものとされている)
天璋院篤姫
松尾多勢子
野村望東尼
(西郷隆盛や高杉晋作ら勤王志士と交流が深かった尼僧。高杉の最期を看取っており高杉が「おもしろき こともなき世を おもしろく」と辞世の句を読むと「すみなすものは 心なりけり」と後に詠んだ。高杉は「面白いのう」と微笑しそのまま息を引き取った)
沖田ミツ
近藤ツネ
(近藤勇が「いくら妻が美人だとしても妻としてなすべきことをしないのはダメです。顔が悪かろうとちゃんと妻としての役目を果たしてくれる人がいい」と言ってツネを妻に選んだという。勇が斬首されてのちツネには再婚の薦めがあったが懐剣を自らの喉に当て「私に二夫に仕えよというのですか!」と一喝したところそうした誘いはなくなったという。)
おうの(高杉晋作の妾)
斎藤きち(唐人お吉)
(これまで古書などできちの写真として紹介されてきた若い女性の写真は明治中期に横浜の写場で撮影されたもので建設業者の娘の写真であり別人である)
楠本イネ
大田垣連月
陸奥亮子
中野竹子
新島八重
(夫の新島襄と共に撮影)
西郷千重子
渋沢千代
村岡局
(勤王志士と繋がっており西郷隆盛とも親交があったという)
坂本春猪
(坂本龍馬の兄・権平の娘で龍馬の姪に当たるが8歳しか歳が離れていなかったため龍馬を兄のように慕っていたという)
松平照

幕末の文化人、侠客、商人、学者、医者、芸術家たち

上野彦馬
内田九一
(上野彦馬の弟子の一人。近藤勇や明治天皇の写真を撮影した。妻も写真業には積極的であったという。明治ごろに上野彦馬から独立し東京に写真館を設立したが、才能を惜しまれつつ早世した)
下岡連杖
鵜飼玉泉
新門辰五郎
清水次郎長
黒駒勝蔵
(清水次郎長のライバル。尊皇派との接触があり、戊辰戦争では官軍に与し彼を政府高官に推す意見もあったが侠客を新政府の役員とするのは不適切であるとの声が多くあがり維新後に遡及処罰により過去の抗争を咎められ斬首されたではなぜ伊藤博文は若い頃テロ行為をやっていたのに総理大臣になれたのか)
国定忠治
大前田英五郎
(国定忠治から「おじご」と呼ばれ親しまれていたが忠治の縄張りを手に入れるため中風で寝ていた忠治に「中風が進んでいるなら医者でも手の施しようがない」と優しく病状を気遣うふりをして暗に自殺を教唆する手紙を出したほどの切れ者の侠客であった)
高野長英
(最もよく知られた長英の肖像画。明治~大正時代の画家・佐藤耕雲により描かれた肖像画は血色のよい顔つきであるがここに掲載した肖像画は逃亡後の長英を描いたもので、頬が痩せこけ、人相を変えるために薬品で顔を焼いた後が残っている様子が痛々しく描かれている)
渡辺崋山
飯沼慾斎
(飯沼慾斎と伝わる肖像写真。飯沼は植物学者で、日本ではじめて科名を元に植物を編集した植物図鑑『草木図説』を執筆する。『草部』と『木部』に分けて世に出す予定であったが当時世に出たのは『草部』のみで『木部』は飯沼の死後115年(1977年)保育社により出版された。ちなみに、その書籍の校正を植物学者・牧野富太郎が一度行っている。)
白石正一郎(写真の中央に写っている顎に白い髭を生やした老人)
清水卯三郎
(民間向け英和辞典「えんぎりしことば」を出版した。渋沢栄一とともに徳川昭武のパリ万博にも随行している)
小曽根乾堂
三野村利左衛門
緒方洪庵
手塚良仙
(緒方洪庵の弟子たちや親族と洪庵の自宅の庭で撮影した記念写真のトリミング。手塚治虫の曾祖父に当たる人物。緒方洪庵に師事し、同門に福沢諭吉や大村益次郎、佐野常民がいる。この写真の撮影の翌年、手塚は西南戦争に軍医として赴き、九州で赤痢に罹患し長崎の陸軍病院に搬送されるも治療むなしく死亡する。)
月照
月性
(上記の僧はいずれも「げっしょう」と読みいずれも勤王僧だが、月照は京都の勤王僧。月性は多くの尊皇攘夷派志士と交流した長州の海防僧である。月照は安政の大獄のあおりを受けついには錦江湾に身を投げて死ぬ。一方月性はその一年前に44歳で病死しているが、長州の保守派にとって邪魔になりうる思想を持っていたため毒殺されたという噂も流れた。いずれも幕府からは目をつけられていたが当時は名前の読みさえあっていれば漢字はどういう字を書くかなど気にしない、という風潮であったため多くの役人が判別できずに混乱したという。例えば、坂本龍馬を『坂本良馬』と表記した例がある)
河鍋暁斎
月岡芳年
平野五岳
(福岡の画僧。西郷隆盛と面識があり、彼の描いた西郷の肖像画が現存する)
初代 三遊亭円朝
九代目 市川團十郎
五代目 尾上菊五郎
初代 市川左團次
(上記三人は明治時代初期に『團(団)・菊・左』と呼ばれる黄金時代を築いた)
二宮敬作
(シーボルトの弟子の一人、シーボルトの娘・イネに西洋医術を教えた)
安積艮斎
安井息軒
山田方谷
佐藤一斎
箕作阮甫
箕作秋坪
箕作麟祥
増田甲斎(ウラジーミル・ヤマトフ)
ジョセフ・ヒコ(浜田彦蔵)
前原巧山(嘉蔵)
(もとは嘉蔵と名乗り寺子屋で字を多少習った程度で学はあまりなく、修繕業を行っていたが宇和島藩から蒸気船の造船を命じられた大村益次郎に手先の器用さを認められ、蒸気船のからくりを作ったところ藩主の目に留まり武士身分となって前原巧山と名乗った。)
津田仙
(津田梅子の父。日本にトマトやアスパラガスなどの西洋野菜の栽培を導入した)

幕末の剣豪

斎藤弥九郎
千葉周作
桃井春蔵
男谷精一郎
(勝海舟の又従兄弟(系図では従兄弟)にあたり、海舟の父・小吉は叔父にあたる。強い腕前を持つにも関わらず性格も女性のような穏やかさがあったという。)
榊原健吉
(維新後は廃刀令により消滅しかかっていた剣道を武道の教養として学校教育(当時は師範学校の科目)に取り入れた。死ぬまで髷を落とさず、雪駄を履いていたという)
逸見宗助
島田虎之助
千葉重太郎

幕末の外国人

マシュー・カルブレイス・ペリー
タウンゼント・ハリス
プチャーチン
ハリー・パークス
アーネスト・サトウ
ヘンリー・ヒュースケン
リチャードソン
ラザフォード・オールコック
トーマス・グラバー
レオン・ロッシュ
フィリップ・フランツ・フォン・シーボルト
(シーボルトお抱えの絵師・川原慶賀による肖像画。シーボルト事件(川原もこれに連座して捕縛されたが刑罰は比較的軽く済み、釈放されている)のほとぼりが覚めた幕末後期にオランダに帰国してのち現地の女性と結婚してもうけた長男・アレキサンダーを連れて来日し、妻のお滝と一人娘のイネに再会している。その頃アレキサンダーと一緒に写真を撮影し、それが現存するがこれより前に火事にあって顔を火傷してからはそれを隠すため髭を生やすようになっていることがわかる)
クラーク
ヘボン
グイド・フルベッキ
フェリーチェ・ベアト
ジュール・ブリュネ
ファルケンブルグ
ヨハネス・ポンペ・ファン・メーデルフォールト
アントニウス・フランシスクス・ボードウィン

写真・肖像画の残らない人物

土佐藩
岡田以蔵
望月亀弥太
(坂本龍馬の後輩。池田屋事件で負傷し、長州藩邸にいる桂小五郎を訪ねるも拒否され、絶望し割腹自殺)
安岡嘉助
坂本八平(坂本龍馬の父)
平井収二郎
(坂本龍馬や武市瑞山ら郷士と親交が深かったが龍馬が脱藩してからは妹の加尾に龍馬の言うことを聞かないよう手紙で忠告している。上士身分でありながら郷士の勤王的活動をアジったとして逮捕され切腹を申し付けられた)
長州藩
大楽源太郎
有吉熊次郎
浦靱負(開明派の長州藩家老)
椋梨藤太
薩摩藩
森山新蔵
(元は商人の身分であったが西郷隆盛に武士の素質を認められ郷士身分となる)
野村忍介
種田政明
(陸軍少佐。西郷隆盛の部下となり戊辰戦争に従軍。神風連の乱に出陣中、邸宅にて妾・小勝と寝ているところを士族軍に襲撃され首を刎ねられた。このとき負傷した小勝が東京の親族に打った電報「ダンナハイケナイ ワタシハテキズ」(旦那はいけない、わたしは手傷)は電報の有用性を世に知らしめることとなった)
迫田太次右衛門
(西郷隆盛の役職であった郡方書役助を務めた人物で西郷の上司。西郷の請願を聞き入れ藩に年貢を減額するよう頼むが拒絶され義憤を感じ職を辞す。その後の生涯は不明)
赤山靱負
(お由羅騒動における斉彬派の重要人物。西郷隆盛の生涯の師の一人で無実の罪を着せられ、何も語らず切腹して果てた)
中原尚雄
(警視総監・川路利良の腹心。西郷隆盛の私学校の調査のため内部侵入するがたまたま持っていた紙に書かれた「ボウズヲシサツセヨ」が「視察」ではなく「刺殺」と解釈されてしまい私学校の生徒にリンチを加えられる。リンチの様子は絵に残された)
西郷吉兵衛
(西郷隆盛の父。西郷隆盛の『隆盛』は本来は吉兵衛の諱で西郷の諱は『隆永』だったが、西郷の旧友の吉井友実が誤って吉兵衛の諱を役所に届け出てしまったが当の西郷本人は別段気にしなかったという)
西郷吉二郎(西郷隆盛の弟。隆盛が国事に奔走する間家計のやりくりに勤めていた。北越戦争に参戦し戦死する)
折田要蔵(藩内において砲術の専門家として活躍。維新後は日光東照宮の宮司となる)
奈良原喜左衛門(生麦事件でリチャードソンにとどめを刺す。数ヵ月後突然死。病死とも藩命による自害とも言われる)
勤王藩諸士
鵜飼幸吉
尾高長七郎(渋沢栄一の従弟。攘夷派の一人で、栄一と兄・惇忠の横浜公使館焼き討ち計画を涙ながらに阻止する。当時の老中・安藤信正暗殺(坂下門外の変)への参加を断念して以来ノイローゼに陥り幻覚を見るようになり、錯乱して飛脚を斬殺したかどで伝馬町の牢に入れられる。明治元年に釈放されたが牢内の不衛生な環境がもとで精神と身体に異常をきたし同年11月に惇忠に看取られ死去)
真田範之助(尾高長七郎の同僚)
楠音次郎
水郡(にごり)善之祐
幕臣
平岡円四郎(徳川慶喜の小姓。渋沢栄一が慶喜に仕官する切っ掛けを作った人物。水戸藩の過激派に奸臣とみなされ暗殺される)
鵜殿鳩翁
戸村十太夫
猪飼勝三郎
(渋沢栄一の上司。栄一に勘定方としての仕事を教え、猪飼と栄一の交流は維新後も続いた)
内山彦次郎(大塩平八郎の乱を取り締まった。新選組が力士と乱闘し芹沢鴨がこれを暗殺した事件の翌日に屯所を訪れ近藤勇に事件の責任を取らせるため強請る。後に新選組に斬られて死んだ)
島田左近
(公武合体派の公家侍。尊王攘夷派の志士を弾圧し将軍継嗣問題でも強い影響力を持った)
新選組
芹沢鴨
(ネット上で芹沢の写真として紹介される写真は偽物。芹沢の写真及び肖像画は残されていない。新選組屯所の貸出人である八木源之丞の子息・為三郎によると、見目は上背がありでっぷりと肥えていたという。)
平山五郎
(元は花火師であったが火薬の爆発事故で隻眼であったという。芹沢鴨やその妾・梅とともに同衾していたところを芹沢らとともに暗殺される。)
新見錦
(近年発見された初期の隊士名簿に「田中伊織」という名が書き込まれており新見と同一人物とされる。いずれも新選組の名を着て乱暴行為を働いたとして切腹させられた)
平間重助(芹沢一派の中で唯一明治まで生存していた)
原田左之助
(通説では上野戦争で戦死したことになっているがそのまま逃げ延びて満州で馬賊の棟梁になったという伝説がある。あるとき、新選組について詳しい元馬賊の老人が取材に出て「原田左之助さんですか?」と記者が問うと否定も肯定もせず「自分は御一新の折に人として恥ずかしいことをしたからせめてお国の役に立ちたいと思う」と返したいう)
谷三十郎
松原忠治
武田観柳斎
(新選組の隊員の中では比較的古参。入隊してきた伊東甲子太郎の尊王思想に惹かれ御陵衛士となる。御陵衛士の目的を察知していた近藤は斎藤一を使って暗殺させた。一説には男色家で美男子隊士の馬越三郎にしつこく言い寄ったところ馬越がそれを不快に思って土方歳三に密告したのが原因とする説もある。)
山崎烝
井上源三郎
(新選組の隊士の中では最古参で、近藤勇とは3歳違い。温厚な性格で隊士からの信頼は厚く、新選組を題材にした作品でも人当たりのよい描写がなされるが新選組隊士からリンゴ農家に転向した元隊士の阿部十郎の証言によると刀を持つと性格が一変し多く人を斬殺したという)
山南敬助
毛内有之助
服部武雄
大石鍬次郎
尾形俊太郎
朝廷・公家
鷹司政通
鷹司輔煕
幕末の女性たち
歌橋
本寿院
お由羅の方
千葉佐那子
(一度彼女を描いたとされる錦絵が見つかり話題になったことがあるが鑑定の結果描かれているのは佐那子本人ではなく彼女の姉と判明)
幕末の文化人、侠客、商人、学者、医者、芸術家たち
玉松操
(公家お抱えの国学者。王政復古の大号令の折、徳川慶喜を斬首するよう断固主張した)
冷泉為恭
(公家召し抱えの絵師。「年中行事絵巻」「雪月花図」など多くの傑作を残すが、度々幕臣の邸宅を訪問していたため尊皇攘夷派に「尊皇攘夷派の機密を幕府に漏らしている」と嫌疑をかけられ長州藩士・大楽源太郎に殺害され非業の死を遂げた)
小関三英
(尚歯会のメンバーの一人。高野長英や江川英龍らと親交が深かった。蛮社の獄で長英や渡辺崋山が捕縛されたことを知るや自害)
川原慶賀
(江戸時代後期の画家。長崎の生まれで出島の様子や動植物の色鮮やかな絵画を多く残した)
竹居安五郎(竹居の(ども)安)
(現在の山梨県を拠点としており、黒駒勝蔵の兄貴分。言葉に多少の吃りがあったとされる。)
八木源之丞(新選組のスポンサー。邸宅の一部を屯所として新選組に貸し出していた)
岡上樹庵
(土佐の蘭方医。坂本龍馬の姉・乙女の夫。背が極端に低く怒りっぽい性格であったという。彼女との間に一男ニ女をもうけるが一人の娘以外は病死し、自身も子を立て続けに失ったことで心労により病死。同居していた祖母と共に乙女を何かにつけていびっており龍馬も岡上をはっきりと嫌っていたという。ただ、義弟にあたる龍馬が脱藩した際には、昵懇の間柄であった土佐藩主の山内容堂に願い出て姉の乙女を含めた龍馬の家族に脱藩の咎が及ばぬよう嘆願し快諾されたという。)

コメント

  • 画像多いね -- ちぺ 2021-06-21 (月) 21:09:21

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Tag: 歴史 写真 幕末人物写真帳


*1 まだ徳川家茂が将軍の地位におり、慶喜はこの頃一橋慶喜と名乗っている
*2 岡田井蔵(おかだせいぞう)。土佐藩士の岡田以蔵(おかだいぞう)とは全くの別人。文字が岡田以蔵の誤字と勝手に判断され写真が岡田以蔵と比定されたこともあるが、以蔵は写真を一枚も残しておらず、肖像画も描かれていない。ちなみに、以蔵が土佐勤王党の弾圧下で非業の死を遂げたのに対し、井蔵は福沢諭吉らと渡米してのち明治時代まで存命である