木戸孝允

Last-modified: 2021-05-17 (月) 17:16:55

木戸孝允(桂小五郎)[きどたかよし(かつらこごろう)]

慶応3年に撮影された写真のトリミング。
[生没年]1833~77

概要

幕末・明治初期の長州藩士・政治家。幕末期は長州の代表格として倒幕運動に尽力し、西郷隆盛や大久保利通とならび維新の三英傑と称される。

生涯

 長州藩医の和田昌影の子として生まれ、7歳(数え年)で桂家に養子入りし桂小五郎を名乗る。幼少期は本家でも養子に出された家でも何不自由ない生活を送っていたという。嘉永2(1849)年に吉田松陰の元に入門、3年後に江戸に留学し、洋式砲術・兵術、造船術、蘭学を学ぶ。江戸では水戸、越前、薩摩などの尊皇攘夷派の志士と交わり、尊皇攘夷運動に奔走することとなる。蛤御門の変や第一次長州征伐で皇室に弓引いた賊軍の藩として諸藩から孤立していく長州藩の中枢にあって藩政を支え、慶応2(1866)年に薩長同盟の密約を成立。
維新後は木戸孝允と改名し明治政府に出仕。明治2(1869)年の版籍奉還の実現や同4(1871)年の廃藩置県など近代的中央主権国家の創設に尽力。明治4(1871)年に岩倉具視率いる遣外使節団に副使として同行し、欧米諸国の憲法やその他の法制を担当して研究した。帰国後は憲法の制定を建言したが尚早であると判断され、富国強兵政策に邁進する大久保利通との間で台湾出兵をめぐって対立し一時官職を辞した。復職後は健康に優れず、結核に感染し、京都の自宅で妻の松子(幾松)に看取られて没した。

逸話

 幕末期は新選組など幕府に命を狙われており、池田屋事件の当日は仲間の長州藩士の吉田稔麿らと集合するはずの時間に誰も池田屋にいなかったため、散歩に出かけていた。これが木戸の命運を分けた。もし吉田らが池田屋にいて仲間と話し込んでいたら新選組に斬られていた可能性があった。
また、蛤御門の変以来諸藩から孤立した長州藩の命を受け、ボロボロの服を着て貧民に変装し京の情勢を探っていた。この頃幾松という芸者が木戸に毎日おにぎりを届けており、この幾松は後に木戸と結ばれる。このころ新堀松輔(にいほりしょうすけ)と名乗り、長州藩は「桂小五郎は病死した」と幕府に届け出ていた。
また、同時期に新選組から追われていた際に芸者小屋に逃げ込み、そこの女主に「おい何をやってんだ源助(使用人の名前)、この愚図め」と一芝居を打ってもらったという。最もその女主は「いくら身をお守りするとはいえ三味線のバチであなた様の頭を打つなどして本当に申し訳ありません」と涙を流し謝ったという。なお、この逸話は弁慶の逸話に似ている。源平時代に源義経が兄の頼朝と対立し奥州に逃げる際に関所の案内役が山伏に変装した義経たちを訝しんで身元を確認する。この時お供をしていた弁慶がとっさに主君を守るために勧進帳(に見せかけた白紙の巻物)を読んだりしてうまくごまかすがそれでも関所の案内役は通してはくれない。感づかれたことを察した弁慶は主君を守るために「お前が義経とか言う奴に似ているせいで私達が疑われるのだ!お前のようなぼんやりした奴はさっさと大和に帰れ!」と叫んで持っていた杖でぼこぼこに打ち据えた。
かくして一行は無事関所の通過に成功する。弁慶は義経に「いくらあなた様の御身をお守りするとはいえ主君を打ち据えるなど武士としてあってはならぬことでございます。私はここで自害致します」と謝罪するが義経は「いやいや、お前のお陰で今こうしてここまで逃げ切れたのだ。ありがとう。」と優しく感謝の言葉を述べたという。なおこれは歌舞伎の「勧進帳」でご存じの方も多い。
また、彼は多数の肖像写真を残しており、いずれも口伝通りの木戸の眉目秀麗の表情をうかがい知ることができる。ただ、岩倉使節団の一員として渡欧し帰国以降に撮影された背広姿の写真は結核の悪化もあり、かなりやつれて老け込んだ印象を感じさせる。
ちなみに、幕末を題材とした小説では坂本龍馬と剣術の手合わせをして龍馬に負けたとするエピソードが紹介されるが当時の道場の記録にないことから創作の可能性が高い。

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