武士

Last-modified: 2021-10-03 (日) 19:58:27

超・雑な解説

武士のはじまり

今から1000年以上前の平安時代の頃、今で言うところの東日本で武器を蓄えた金持ち農民や豪族が勢力拡大のために、
物流業者を襲ったり、朝廷*1には向かうために反乱を起こすという問題が起きていた。

そこで朝廷は、軍の縮小・解体などで扱いに困っていた下級武官を左遷と反乱の鎮圧をかねて、彼らを反乱が起きている関東・東北地域へ派遣した。この武官たちは馬を走らせながら、弓矢で敵を殺傷する専門兵で、早い話が流鏑馬の達人である*2

(反乱軍は神出鬼没であり、追撃戦や掃討戦の様相を呈すことが多かったため、現場に急行できる馬の機動力は重要だったし、弓との組み合わせは掃討戦を重視したものであるとも。)

とにかく、この下級武官こそが武士の始祖であり、後の世の武士達は、朝廷に従順だった豪族が血縁関係を結ぶことで生まれた子孫か、彼らをパクって自称した勢力である。

武士の定義の変化。

鎌倉時代から戦国時代まで

多くの人は日本刀を身に付けている人=武士・サムライと思いがちである。しかし、今から400年以上前までは武士というのは基本的に戦場で馬に乗れる権利馬を乗りこなしながら戦う能力を持った専業兵士のことであった*3

そのため、日本刀を身に付けていてもその人が必ずしも武士であるとは限らなかった

当時は百姓でも坊さんでも、村や寺の治安や独立を守るため、或いは隣村に強盗しに行くため*4日本刀や槍を普段から携帯している人は珍しくなかった。
ただし彼らは武士か否か、曖昧な立場であり、武士じゃない人から見れば武士。武士から見れば武士じゃないという、武士とそうでない人々の中間的な扱いだったといわれる。
こういった人達のことを、特に百姓の場合は軍役衆、今では半兵半農とも呼び、戦争が起きた場合に足軽として徴兵に応じなければならない義務があったが、代わりに年貢が安くなるというボーナスもあった。このような人々は各町村の重役を勤めていることが多かった。*5こうした集団は、桃山時代に豊臣秀吉が出した兵農分離令により消滅していく。

安土桃山時代*6~江戸時代*7辺り

この頃になると豊臣秀吉により惣無事令という全国の大名に合戦を禁じる法令が出されたために各地の戦乱が徐々に沈静化していき、時の政権や各地の大名らは領地の内戦を防ぎ、安定させる政策をより推進していくこととなる。
その一環として全国にいた武士と民衆の中間層の扱いをはっきりさせ、また治安維持も兼ねて、
刀を身に付けることを武士以外は制限したり、武士に大小二種類の刀を身に付けること(大小二本差ともいう)を強制したりすることで、日本刀を身に付けていることが、この時代で初めて武士の証となっていく*8。また、当時は髪を後ろでしばった茶筅髷が多かったが江戸時代初期からは月代を剃ることを矯正され、これにより武士は一種の官僚となった。
その過程で中間の人々は農民として暮らすか、町に移り武士として生きるか余儀なくされた一方で、それまで武士でなかった人々が武士の仲間入りを果たすことになる*9
やがて豊臣秀吉が朝鮮制服を目論むも失敗し失意のうちに世を去る中それまで秀吉に文句一つ言うことなく唯々諾々と従ってきた三河の大名の徳川家康がじわじわと力をつけついには関ヶ原にて秀吉の腹心・石田三成と一戦交えこれを破る。やがて家康は多くの大名を従え江戸幕府を成立させ征夷大将軍となる。この頃家康は駿府に隠居し子の秀忠に将軍職を譲りつつ大御所として幕政を掌握した。関ヶ原合戦から15年後、秀吉の遺児・秀頼を滅ぼし以来日本に完全なる太平の世が訪れ民衆は250年近くの太平を享受するのである。
幕府は大名を以下の通りに分類した。
親藩…徳川一族の藩。松平家や田安家、一橋家もこれに当たる。
譜代…家康に古くから仕官していた大名。主に西日本の大名
外様…関ヶ原の戦い以降家康に従った大名。
幕政に当たって、親藩や譜代は政務の重要な役職に任命されたが外様は軽んじられた*10
外様大名はこの怨念の炎を静かに燃やし続け幕末に一気にそれが燃え上がることとなる。

幕末

やがて1853年にアメリカ大統領・フィルモアの国書を持参しペリーが浦賀沖に来航し日本との通商を求めた。この頃の幕府は曖昧な返事をし一度はペリーに帰ってもらったが翌年ペリーは戦争の構えを見せ幕府を脅した。これにより幕府は日米和親条約を結んだ。その四年後にアメリカは日本にハリスを遣わし日米修好通商条約を結ばせた。内容は治外法権により外国人の犯罪を日本で裁くことができないということとと関税自主権がないという日本にとってかなり不利な内容の条約であった。この条約をときの大老の井伊直弼は孝明天皇の勅許を得ることなく結んでしまい、幕府内部からも此頃行動を開始した尊王攘夷派武士の怒りを買うこととなり各地で「井伊をぶっ殺せ!」とテロ計画が練られていた。
これを嗅ぎつけた井伊は自らに敵対する幕臣や尊王攘夷派武士、公家勢力をことごとく逮捕し葬った。安政の大獄である。吉田松陰や橋本左内など多くの若き尊攘派武士が命を落とした。
1860年、井伊は江戸城に登城中水戸や薩摩の浪士に襲撃され首を討たれた。桜田門外の変である。
ここから尊攘派の活動が活発化しだす。しかし、井伊の死から3年後、過激な尊王攘夷藩であった長州はイギリスやアメリカ、フランスとロシアの四国艦隊との戦争に惨敗し薩摩でも生麦事件*11に端を発した薩英戦争でズタボロに敗北する。
この攘夷戦争より前に長州藩士の高杉晋作は同藩の伊藤博文や井上馨らと共に品川にある英国公使館を焼き討ちする。しかし先の戦争の敗北を知り親英派となった。
こうして両藩は攘夷の難しさを悟り以後はイギリスに接近する。
やがて土佐脱藩浪士・坂本龍馬の仲介で険悪な仲であった薩摩と長州が手を結び、時代は倒幕へと傾いた。これを期に薩摩藩はもともと佐幕派であったが幕府を見限り倒幕に藩論を固めた。
1867(慶應三)年には将軍の徳川慶喜が大政奉還し、江戸幕府の政治はここに終わった。慶喜は大政奉還はしたが政権はまだ手中にあり徳川の世の再来を信じた。
しかし、大政奉還の翌年の王政復古の大号令や小御所会議により慶喜は辞官納地を命ぜられ慶喜は憤慨した小栗上野介忠順ら主戦派の幕臣に祀り上げられ挙兵した。
その翌年の1868(慶応四)年の正月には鳥羽・伏見の戦いを単に発した戊辰戦争が始まる。兵の数で言うと幕府軍が圧倒的に有利だったが新政府軍はイギリスの最先端の銃を購入しており幕府軍の火縄銃とは格が違っていた。更に新政府軍が幕府軍を撹乱するために錦の御旗を挙げ、慶喜は戦意喪失し数名の家臣とともに舟で大阪まで逃げた。
同年4月、西郷隆盛と勝海舟の会談により江戸城は開城され明治天皇が居を構えることとなる。
当初西郷は慶喜を殺害し幕府を根絶やしにするつもりであったようだ。しかし幕臣の山岡鉄舟に「これがあなたのお国の殿様ならどう思われますか」と説得を受け折れたという。
しかし、新政府軍に従わぬ佐幕派はまだ大勢おり彰義隊などは激しい抵抗を続け、会津藩など東北の諸藩は奥羽越列藩同盟を結成し新政府軍に激しく抵抗した。しかしいずれも戦局に利あらず、榎本武揚ら数名の幕臣は蝦夷まで逃亡し共和国を建国するも新政府軍により陥落。蝦夷共和国の陥落を以て戊辰戦争は終結した。

明治以降の武士

多くの血が流れた戊辰戦争が終わり、明治時代の日本は近代化に向けて大きく動き出した。
武士はしばらくの間は藩主から給料をもらってその日を食いつないできたが1871年の廃藩置県により生活は窮乏しだす。新政府はそんなフリーター同然となった武士を「士族」とし給付金などを配布したがなんせ出来たてほやほやの政府で、お金は当然不足しているから1875年には政府は政府の発足以来士族やかつての戊辰戦争の新政府側の功労者に与えていた給金制度を取りやめる政策*12を施行する。こうして食うに困った士族は商売を始めるも全くの0から始めるので成功せず経済状態がより悪化することもあった。そこへ持ってきて翌年には廃刀令を出し士族が刀を持つことを禁止した。ここまで来ると士族の不満は一気に爆発する!
「何がご一新じゃ!俺等の生活を圧迫しあろうことか武士の魂である刀を取り上げ俺等武士の誇りを踏みにじりおって、戊辰の戦で命がけに戦ってきて恩を仇で返すこの仕打ち。もはや許せぬ!」
九州や山陰の武士は戊辰戦争で新政府軍の一員として命がけで戦い、彼らからすれば政府のこうした政策は彼らの功績に後足で砂をかける行為に等しかった。
ついに、士族が怒りを爆発させ反乱を起こす。

年号反乱首謀者
1874年佐賀の乱江藤新平
1876年神風連(敬神党)の乱太田黒伴雄
1876年秋月の乱宮崎車之助
1876年萩の乱前原一誠

いずれの反乱も政府軍に制圧され失敗し、首謀者は皆戦死か逮捕され斬首に処された。
士族の反乱で最も大規模なものが1877年の西南戦争である。明治六年の政変以来、西郷隆盛は政府を辞し故郷に帰り悠々自適な生活を送っていた。すると西郷を慕う旧薩摩藩士が次々と西郷のもとに集結した。
西郷は幼馴染の大山綱良*13が金銭を援助してくれたお陰で私学校を設立することができ、旧士族とともに畑を耕したり猟の方法を教えるなどして悠々自適な生活を送った。
しかし政府はこの私学校に疑惑の目を向け警視総監の川路利良は密偵を私学校に放ち捜査をさせた。その密偵は捕縛されひどくリンチを受けた。密偵の持っていた電報には「ボウズヲシサツセヨ」とあり「シサツ」を「視察」ではなく「刺殺」と読んだ桐野利秋を始めとする私学校の士族はいきり立ち鹿児島にある陸軍の火薬庫を襲撃した。ここで西郷たちは政府のトラップに引っかかった!
西郷は暴動を起こした生徒たちを叱責するももうどうしようもない。「おいの体はおまんさあらにお預けしもっそ!」(私の身はあなた達にお預けしましょう!)。こうして、西南戦争の火蓋は切られた。
最初は西郷軍が優性だったものの熊本城での鎮台との戦いに大敗を喫して以来戦局は次第に不利になり田原坂ではほぼ全滅状態となる。当時最先端のスナイドル銃に戦国時代さながらの甲冑や火縄銃で戦うのだから勝敗は決まっているも同然である。
最終決戦は鹿児島で起き、西郷は腹部と左足に銃弾を受けた。
「晋どん、もうここらでよか」死を悟った西郷は別府晋介に介錯をさせ切腹。別府はその後敵陣に斬り込み銃弾の雨に倒れた。
こうして士族の最大にして最後の反乱は終わりを告げた。以降、新政府に不満を抱く士族は「これからの時代は武力では到底だめだ。これからは言論で戦う時代だ」と悟り自由民権運動に身を投じることとなる。

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*1 今風にいえば、政府
*2 現代でいうと軍隊ではなく武装警察に近い。歴史用語ではこれらを押領使・追捕使と呼ぶ。
*3 諸説あり。地域や支配層の都合によってコロコロ変わることもある
*4 食いっぱぐれた百姓や下級武士が野盗となって村を襲撃し食料を奪ったり村民を殺害あるいは暴行したりすることは珍しくなく、室町時代には顕著であった
*5 そのため古い説では彼らを武士の一種と考えることもあった。
*6 『花の慶次』の舞台となった時代
*7 『水戸黄門』や『暴れん坊将軍』、『シグルイ』の舞台となった時代
*8 実際には藩ごとに差がある
*9 下級武士がこれにあたる
*10 土佐の山内一豊など家康に重用された例はあるが
*11 横浜での生麦村で起きた大名行列を横切ったイギリス人が薩摩藩士に惨殺された事件
*12 秩禄処分
*13 西南戦争終結後西郷に金を貸したことで西南戦争に加担したとみなされ斬首