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沖縄(海防艦)

Last-modified: 2019-04-29 (月) 01:28:57

沖縄(おきなわ)*1は大日本帝国海軍鵜来型海防艦*2の2番艦である。

第九号輸送艦.jpeg

1944年9月3日に呉工廠にて撮影された第九号輸送艦?、右の艦が沖縄
基準排水量全長全幅吃水主機関
940トン78.77m9.1m3.06m艦本式22号10型ディーゼル2基2軸
出力速力航続距離乗員燃料搭載量
4200馬力19.5ノット5000浬/16ノット150名重油120トン
 
起工1943年12月10日
進水1944年6月19日
竣工1944年8月16日
最期1945年7月30日被爆沈没
除籍1947年5月3日
 
兵装(計画時)
45口径12cm連装高角砲1基
45口径12cm単装高角砲1基
25mm三連装機銃2基
九四式爆雷投射機2基
爆雷投下軌条2基
九五式爆雷120個
ソナー
九三式水中聴音機1基
九三式水中探信儀2基
レーダー
22号電探1基




概要 Edit

沖縄は日本海軍が第二次世界大戦中に運用した海防艦である、終戦直前に舞鶴で空襲に遭い沈没した。
艦名は勿論沖縄県?の沖縄本島にちなむ。

艦歴 Edit

竣工まで Edit

1943年12月10日鶴見造船所*3にて起工、仮称は第335號艦だった。
1944年3月15日本籍を舞鶴鎮守府と仮定し沖縄と命名される。
1944年5月10日艤装員長に海軍少佐の有馬國夫氏が任命される。
1944年5月20日艤装員事務所を造船所内に設置し事務作業が始まる。
1944年6月19日に進水する。
1944年7月31日艤装員長に海軍大尉の坂本修氏が新たに任命される。
1944年8月16日竣工、警備海防艦として舞鶴鎮守府が本籍となる。

艦長に艤装員長だった坂本修氏が着任、呉鎮守府部隊呉防備戦隊に編入される。

竣工後 Edit

呉鎮守府部隊呉防備戦隊編入された後は呂500?*4を相手に基礎訓練に励む。

1944年10月3日海上護衛総司令部第一海上護衛隊に編入、翌日まで修理と整備する。
10月8日浅間丸を護衛して門司から出港、10月16日から17日にかけて泗礁山と呉淞*5に無事到着する。
10月20日占守らとモマ04船団を護衛して泗礁山を出発、10月26日無事にリンガエン*6に到着、沖縄はそのままマニラに移動し翌日南西方面艦隊の作戦指揮下に入る。

10月31日沖縄は敵航空機の脅威がある中輸送船を護衛して揚陸*7を支援するという無謀な作戦に参加することなった。

4隻の輸送船を護衛するのは沖縄、占守、第十一号海防艦?第十三号海防艦?で警戒部隊として6隻の駆逐艦がついた。

通称「玉船団」は日本陸軍の護衛もあって11月1日道中空襲に遭ったが被害は無く無事揚陸地点のオルモックに到着、19時に揚陸を開始した。
翌日11月2日は快晴で朝から連合軍の空襲を受けるものの味方航空機の奮戦もあり被害は無かった。

だが正午頃から空襲は激化し爆撃も阻止しきれず駆逐艦が張った煙幕から外れてしまった能登丸が沈没してしまったものの90%の揚陸が終わっていた。
他の船も揚陸はほぼ完了しており能登丸を除く全艦が帰還した。

11月8日再びオルモック向けて出撃、沈没した能登丸を除く輸送船と護衛する海防艦の顔ぶれは変わらず警戒部隊の駆逐艦は一部別の艦だが6隻が警戒にあたった。

11月9日輸送部隊は道中空襲を受け輸送船二隻が小破した、18時15分にオルモックに到着したもののアメリカ軍の砲撃のため揚陸地点を変更して揚陸を開始する、しかし搭載していた大発*8が機銃掃射などで使い物にならず事前に残置しておいた50隻以上の大発も砂に埋もれたりしてたった5隻しか使えず揚陸は難航した。

そこで沖縄などの海防艦を大発かわりに使用して揚陸したものの11月10日に揚陸は打ち切り、人員は揚陸できたものの武器弾薬はろくに揚陸できなかった。

帰路再び空襲を受け輸送船二隻が沈没、第十一号が損傷のため航行不能になり後に砲撃で撃沈処分された。

11月14日に暁山丸と同和丸を護衛してマニラを出港、道中被爆して損傷するもブルネイ*9に到着ここで二隻と分離して昭南*10に向かう。
11月23日南西方面艦隊の作戦指揮下から離れ第一海上護衛隊に復帰、同日昭南で第百一海軍工作部にて第七燃料タンクと爆雷庫隔壁の応急修理を受ける。

12月11日ベトナムサイゴンに移動し魚雷で損傷した妙高?を護衛して昭南に向かい12月24日無事に昭南に到着する。
翌日第三十一海防隊に編入され12月26日ヒ84船団を護衛して昭南を出港、潜水艦を避けて海岸沿いを航行し翌年1月13日無事に門司に到着する。

1945年1月14日から2月3日まで補助機械換装工事を受ける。

ヒ88A船団と合同のため鎮海湾へ向け出発し2月7日に六連島沖に帰着。
2月10日モタ35船団を護衛して門司を出発、19日に無事基隆(きいるん)に到着する。
2月23日タモ45船団を護衛し3月2日に六連島沖に帰着、以後は日本海-北支沿岸の護衛に従事する。

3月4日吉林丸を護衛して泗礁山に3月6日に到着する。

3月8日ヒ92船団を護衛して泗礁山を出発するも3月13日に機関が故障して船団から分離しそのまま海上で応急修理をする。
どうにか応急修理を完了し3月19日呉海軍工廠にて3月31日まで本格的な修理に入る。

4月に入り、敵潜水艦発見との通報があり沖縄は現場に急行して先に警戒に当たっていた対馬?宇久羽節第三十号海防艦と共に警戒にあたり、沖縄の後にも第八十二号海防艦?第百四号海防艦?第八十一号海防艦?第四十一号海防艦?が加わった。

4月14日に敵潜水艦を探知し爆雷18個を投射する、この沖縄の攻撃、もしくは別の日の航空機の攻撃でアメリカ潜水艦のスヌーク?が沈没したと考えられている。

6月19日第三十一海防隊(沖縄、第二百七号海防艦?第六十三号海防艦?)に所属していた沖縄たちは富山湾で訓練をしていたが七尾沖にて商船が沈没したとの一報が入り現場に急行した。

沈没した商船の生存者を救助することは叶わなかった、その時沖縄の三式水中探信儀が強いエコーを捉え爆雷攻撃を始め第二百七号と第六十三号がそれに続いた、さらに近くを航行中だった第七十五号海防艦?第百五十八号海防艦が加勢しさながら袋叩きの様相を呈していた。

その結果エコーが消滅、翌日その場にはコルク片や重油が流出していたという。

恐らくこれがボーンフィッシュ? (USS Bonefish, SS-223)の最期だった。

7月30日舞鶴で空襲に遭い沈没した、この空襲で1名が戦死、2名が負傷した。
終戦後の8月25日第一予備海防艦に指定される。

1947年2月1日行動不能艦艇に指定され当然ながら復員任務にも従事していない。
同年5月3日除籍

その後浮揚され、1948年2月から9月30日にかけて飯野産業舞鶴造船所で解体された。
 
危険な強行輸送任務に従事し無事に帰還、末期の不利な状況にも関わらず他艦と共同で潜水艦を撃沈するなど時期を考えれば十分強運且つ武勲に恵まれた艦だったかもしれない。

関連項目 Edit

軍用艦一覧

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Tag: 軍事 海軍 海防艦






*1 当時の表記は沖繩
*2 当時の表記は鵜來型海防艦
*3 横浜市
*4 ドイツからはるばるやってきた潜水艦
*5 泗礁山は上海対岸の島、呉淞は上海の地名
*6 フィリピン北部の湾
*7 兵器や兵士を船から陸に揚げること
*8 船から大発と呼ばれるちっちゃいボートを下ろしてそこに兵士や兵器を積んで上陸する
*9 ボルネオ島
*10 シンガポールのこと