河上彦斎

Last-modified: 2022-01-18 (火) 12:01:43

河上彦斎は、幕末から明治時代初期にかけての尊皇攘夷派の熊本藩士である。
天保5年11月25日(1834年12月25日)~明治4年12月4日(1872年1月13日)

生涯

肥後細川藩熊本城下の新馬借町(現在の熊本市中央区新町3丁目)で、下級藩士小森貞助とその妻和歌の次男として生まれた。初め名前は彦次郎であった。同藩の同じく下級藩士の河上源兵衛(または彦兵衛)の養子となり、名を彦斎と改めた。
16歳で茶坊主として藩主邸の花畑屋敷で召し抱えられ、藩主に近習。掃除坊主から国老附坊主に出世した。儒学者轟武兵衛や国学者林桜園に師事し、神風連の太田黒伴雄や加屋霽堅とともに、兵法を宮部鼎蔵に学んで、尊皇攘夷の思想を固めたのもこの頃で、彦斎は排外主義的な攘夷論を唱えるようになった。
文久の頃より、清河八郎等と交わり尊皇攘夷派として活動。蓄髪して僧籍を脱する。文久3年(1863年)、熊本藩親兵選抜となり、宮部鼎蔵らと同格の幹部に推された。
容姿は、身の丈5尺前後(150cmほど)と小柄で色白であったため、一見女性の様であったという。剣は我流で、片手抜刀の達人(片膝が地面に着くほど低い姿勢からの逆袈裟斬り)であったと伝えられている。伯耆流居合を修行したという説もあり、当時、熊本藩で最も盛んだった居合が伯耆流だったということと、所作こそ異なるものの伯耆流には逆袈裟斬りの業が多い点がその根拠となっている。
八月十八日の政変後、京を追われて長州へ移り、三条実美の警護を務めた。以後長州人の攘夷派と親しくし人脈を作った。
元治元年(1864年)6月の池田屋事件で新選組に討たれた宮部鼎蔵の仇を討つべく再び京へ向かったが、7月11日、西洋の馬の鞍を使って神聖な京都の街を闊歩していたという理由で、公武合体派で開国論者の重鎮、佐久間象山を衝動的に斬った。しかし一撃では斃せず、重症を負いつつもどうにか逃走を続ける象山に追いすがりとどめを刺した。しかし、「これからの国に必要となるであろう人物をおれは殺してしまったのではないか?」と思い悩みこれ以降人斬りはできなくなったという。7月19日には禁門の変に長州側で参加した。第二次長州征伐の時も、長州軍の一員として参戦、勝利をあげた。このために後に奇兵隊の総帥に推挙されて脱隊騒動に関与することになる。
慶応3年(1867年)に説得のために帰藩するが、熊本藩は佐幕派が実権を握っていたために逆に投獄された。このため、大政奉還、王政復古、鳥羽・伏見の戦いの時期は獄舎で過ごした。慶応4年2月出獄。佐幕派であった熊本藩は、彦斎を利用して維新の波にうまく乗ろうとするが彦斎は思想の違いから協力を断った。しかし最期まで脱藩はしなかった。
1868年(明治元年)、明治新政府の参与となった藩主細川護久の弟長岡護美に従って上京。この頃より、暗殺を気遣った長岡護美の助言で、高田源兵衛(こうだ げんべい、後に源兵)に改名し、その名前を用いるようになった。これは当時より、佐久間象山の息子で新選組隊士の佐久間恪二郎(三浦啓之助)が彦斎の命を狙っていると噂されていたためである。彦斎はこの年、中山道や東北地方を遊説して尊皇を説いた。
維新後、開国政策へと走る新政府は、あくまでも排外主義的な鎖国攘夷を要求する彦斎のような攘夷論者を疎ましく思っていた。三条実美や木戸孝允は、彦斎に思想の転換をなじられたことがあり、京都の要人は彼にもはや会おうとしなくなった。三条実美は「彦斎が生きているうちは私は枕を高くして寝られない」と側近に漏らしていたという。
明治2年(1869年)、彦斎は鶴崎(熊本藩飛び地)に左遷され、当地に「有終館」を設立し、数百の兵士を集めて、兵法と学問を教える一方、殖産新興のため朝鮮、大阪、北海道との交易にも着手したが、藩から突然免職の通知を受け、解散した。鶴崎時代に、大村益次郎暗殺事件に関与した大楽源太郎が逃げてきたので匿ったために翌年、熊本に戻った際に二卿事件への関与が疑われた。続いて参議・広沢真臣暗殺事件の疑いもかけられて、藩獄に繋がれ、次いで江戸送りとなった。
明治4年12月4日(1872年1月13日)、日本橋小伝馬町にて斬首された。しかし、大村・広沢らの暗殺事件への彦斎の関与の度合いは低く、新政府の方針に従わず、危険な攘夷論者の反乱分子と見なされたための処刑と考えられている。彦斎ら勤皇派を封じ込めたい熊本藩の策略とする説もある。

逸話

●勝海舟は一度河上彦斎に面会しており、その時の様子をこのように述懐している。
「河上彦斎と来たら酷いやつさ。怖くて怖くてならなかったよ。例え誰それと言う者がけしからんという話をすれば口では「はあそうですか」と言って置きながらその日のうちに斬ってしまう。そしてすました顔をしてその場にいるのさ。つまり顔に感情が現れていないのだ。あまりに多く殺すから、或日、俺はそう言った。『あなたのように、多く殺しては、実に可哀想ではありませんか』と言うと、『はあ、あなたは御存じですか』と言うから、『それは分かって居ます』と言うと、落ち着き払っていたよ。『それはあなたいけません。あなたの畑に作った茄子や胡瓜は、どうなさいます。善い加減のときにちぎって、沢庵でもお作りなさるでしょう。あいつらはそれと同じことです。どうせあれこれ言って聞かせたってだめです。早くちぎってしまうのが一番です。あいつらは幾ら殺したからと言って、何でもありません』と言うのよ。俺はそう言った。『あなたは、そう無造作に、人を殺すのだから、或は己なども、狙われることがあるだろうから、そう言っておきますが、黙って殺されては困るから、そんな時はそう言って下さい、尋常に勝負しましょう』と言うと、「ご冗談を」と言って笑うのだ。始末にいけない」
●彦斎の斬り方は自己流で、もっとも的確な方法として、右足を前に出してやや膝を曲げ、左足を膝が地面につくほど後ろに伸ばし、右手で斬る方法を取っていた。
●頑固で野性的、激烈な性格の反面、人情に厚く、親思いで、妻子にも優しかった。
●酒席で、仲間がある横暴な幕吏の話をしたところ、黙って聞いていた彦斎が席を立ったかと思うと、しばらくしてその幕吏の血だらけの首を袖に抱えて戻ってきて、何食わぬ顔で飲み直したことがあった。彦斎に睨まれたら逃れられないことから、仲間からも「ヒラクチ(マムシ)の彦斎」と呼ばれ気味悪がられていた。

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