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第四号海防艦

Last-modified: 2019-05-01 (水) 21:04:36

第四号海防艦*1は日本海軍の海防艦、丁型海防艦*2の2番艦である。

空襲下の海防艦.jpg
1944年8月4日に父島沖で空襲された際に撮影された海防艦、第四号海防艦と第十二号海防艦?のどちらなのかは分からない。

基準排水量全長全幅吃水主機主缶
740トン69.5m8.6m3.05m艦本式甲25型オール・ギヤード蒸気タービン1基1軸艦本式ホ号水管缶(重油燃焼)2基
出力速力燃料搭載量航続距離乗員
2500馬力17.5ノット重油240トン4500浬/14ノット141名
 
起工1943年10月5日
進水1943年12月30日
竣工1944年3月7日
最期1945年7月28日被爆沈没
除籍(日本海軍)1945年9年15日
除籍(復員庁)1947年5年3日
 
兵装(計画時)
45口径12cm単装高角砲2基
25mm3連装機銃2基
三式爆雷投射機12基
爆雷投下軌条1基
爆雷120個
ソナー
九三式水中聴音機1基
九三式水中探信儀1基
レーダー
22号電探




艦歴 Edit

竣工まで Edit

1943年10月5日横須賀海軍工廠にて起工、仮称は第2702號艦だった。
12月22日第二号型の第四号海防艦と命名、本籍を横須賀鎮守府と仮定される。
12月30日進水、本籍が正式に横須賀鎮守府となる。

1944年1月20日艤装員長に海軍大尉の原利久氏が任命される。
1月30日艤装員長に海軍大尉の水谷勝二氏が任命される。
2月1日艤装員事務所が横須賀海軍工廠内に設置され事務作業が始まる。

3月7日めでたく竣工、艤装員事務所が撤去される。
同日警備海防艦に定められ、艤装員長だった水谷勝二氏が艦長に任命されて呉鎮守府部隊呉防備戦隊に編入される。

1944年4月~6月 Edit

4月2日海上護衛総司令部第一海上護衛隊に編入される。
4月7日未明に5隻の輸送船からなる東松五号船団*3を護衛して館山湾を出発、途中揚錨機室への浸水により船団から分離してしまうトラブルがあった。
敵機動部隊を警戒して父島二見港にて4月10日から4月18日まで退避、第四号海防艦は港の入り口にて対潜警戒に従事、その後船団は4月24日に無事にパラオに到着した。

4月26日4隻の輸送船からなる東松復航船団を護衛してパラオを出発、しかし4月27日アメリカ潜水艦トリガー?(USS Trigger, SS-237)
からの攻撃を受けて阿蘇山丸と海防艦笠戸が損傷、三池丸が沈没してしまい船団はパラオに引き返した。

4月29日編成しなおして再びパラオを出港、5月4日に無事横須賀に到着した。

5月14日第四号海防艦は輸送船3隻からなる東松8号船団*4を護衛して館山湾を出発した。

悪天候に見舞われ輸送船内の陸軍将兵が船酔いに悩まされると言うハプニングはあったものの敵の攻撃に遭うことも無く5月19日船団は無事にサイパンに到着した。

5月20日第四号海防艦は3隻の輸送船からなる筥崎丸船団を護衛して出発、23日無事に到着した。

そのまま第百二十八号輸送艦?を護衛してパラオへ向かい5月27日無事にパラオに到着した。

30日にサイパンに向けて出発、6月5日にサイパンに到着した。
その後しばらくサイパン~グアム間の護衛に従事した。
12日9時に第四号海防艦はアメリカ軍の攻撃を受けてサイパンから脱出してきた第4611船団に合流、護衛についた。

しかしその僅か35分後船団は偶然通りがかったアメリカ空母搭載機に発見され攻撃を受ける、15時に約30機、16時半に約40機襲来と波状攻撃を受けて輸送船や護衛艦艇が沈没した、その日の夜生き残った艦船も損傷が激しく救助どころではなく次第に船団は散り散りとなり第四号海防艦は船団壊滅の一報を横須賀鎮守府に送った。
これ以前からも各地に救援要請を送ってはいたがまともな戦力が無く救援に差し向けられないのが現状だった。
第四号海防艦はもはや護衛対象を見失い単艦で横須賀に向かい18日に到着した。

1944年7月~12月 Edit

第四号海防艦はそのまま入渠となり7月7日まで修理と整備をおこなった。

修理完了後の7月7日に横須賀鎮守府長官作戦指揮下に入る。

7月14日4隻の輸送船からなる3714甲船団を護衛して館山を出発、19日無事に父島に到着した、翌20日に第二号輸送艦?を護衛して父島を出発、硫黄島に向かった。
その後7月24日に横須賀に戻り7月29日6隻の輸送船からなる3729船団を護衛して館山を出発し、無事に8月2日硫黄島に到着した。

8月4日朝にアメリカ軍の来襲が予想されたため5隻の輸送船からなる4804船団を護衛して硫黄島を出発した。

10時40分アメリカ軍の艦載機は父島付近にいた4804船団を発見、攻撃を繰り返した、第二波までは何とか攻撃を凌いだがその後の第三波で輸送船が次々に沈没、残る輸送船は利根川丸のみとなっていた。

この地点で第四号海防艦は至近弾と機銃掃射で戦死4名負傷者21名を出し浸水していた。

アメリカ軍はこの船団を逃すまいと軽巡洋艦4隻と駆逐艦7隻を差し向ける。
18時頃に第四号海防艦は敵艦隊を発見し砲撃を開始、船団は勝機はないとみて撤退を続けるのの速度が出ず敵艦隊が迫る、すると駆逐艦?に座乗する高橋一松司令官が『四号海防艦は利根川丸を護衛し戦場を離脱せよ』と厳命、松は船団を離れるとそのまま敵艦隊に突撃、19時40分に松から第四号海防艦に対して最期の通信が届いた『われ、敵巡洋艦と交戦中。これより反転、突撃す』
その後松は消息不明となった。*5

松決死の攻撃の後も船団は攻撃を受け続け松攻撃を退けた敵艦隊が高射砲の水平射撃で抵抗する利根川丸を捕捉、21時頃撃沈した。

幸運にも第四号海防艦はどうにか攻撃を切り抜けてアメリカ艦隊から逃げ切り、三重県?の鳥羽にて燃料を補給して8月7日に横須賀に帰投した。

以後11月まで横須賀と父島や母島に向かう船団護衛に従事し隙間を縫って改装工事や整備を行った。

11月4日4隻の輸送船からなる3103船団を護衛して館山を出発、無事に到着した、11月8日に4隻の輸送船からなる4108船団を護衛して父島を出発、上空の警戒機からの報告を受けて敵潜水艦に対する警戒を強めていたところ八丈島北方にて潜水艦を探知した。

当時潜水艦は油を曳いておりこれが災いして見つかったのかは分からないが第四号海防艦は輸送船を退避させた後に潜水艦に向かった、至近距離で魚雷が放たれたものの第四号海防艦はこれを回避、爆雷での攻撃を行なった、攻撃地点に目印として発炎筒と旗が投げ込まれ三回に分けて70発の爆雷を投下した。
攻撃後十数メートルはありそうな大きな気泡が湧き出してその後大量の重油が流出、探信の結果なんの反応も無かった。
これがアメリカ潜水艦スキャンプ?(USS Scamp, SS-277)の最期だった。

スキャンプ.jpg
第四号海防艦が撃沈したスキャンプ

船団は11月13日に横須賀に帰投、殊勲の第四号海防艦は11月15日に4隻の潜水艦を撃沈したとして*6海上護衛総司令部司令長官野村直邦中将から海防艦単艦として初めての感状を授与された。

以後第四号海防艦の乗員は第六号海防艦?*7の乗員共々他艦艇の指導に赴くことは多くなる。

11月16日対潜掃蕩のために第十二号海防艦?第四十二号駆潜艇?第五十二号駆潜艇?を率いて鳥島にむかった、11月22日未明対潜掃蕩中だった第四号海防艦と第十二号海防艦は潜水艦の攻撃で艦首を切断した海防艦隠岐?を救難するために対潜掃蕩を中止して隠岐の元に向かった。
11月23日の朝に隠岐と会合し第四号海防艦は隠岐を曳航する第十二号海防艦と曳航される隠岐の護衛についた。

11月25日海防艦たちは無事に横須賀に帰還、そのまま横須賀海軍工廠にて修理を行った。

12月5日横須賀で修理中だった第四号海防艦は八丈島沖で衝突して航行不能になった第五十一号駆潜艇?と第五十二号区潜艇の救難のために修理を中止して翌日出発した。
7日に両艇と会合して一旦八丈島南部に退避、12月8日に第五十一号駆潜艇を曳航して横須賀に向かいそのの内に横須賀に到着、第四号海防艦も修理を再開した。

12月17日修理を終えた第四海防艦は3隻の輸送船からなる3217船団を護衛して館山を出発、護衛途中で引き返して12月21日横須賀に到着した。

1945年1月~8月15日 Edit

1月~3月までは館山~父島間の船団護衛に従事した。
4月8日横須賀で整備を終えた第四号海防艦は静岡県?の下田に移動、4月10日南光丸を護衛して下田を出発、12日に八丈島に到着した。
そのまま南光丸を護衛して4月13日に下田に到着した。
4月15日第四特攻戦隊に編入される。

同日東光丸を護衛して下田を出発、同日無事に八丈島に到着した。4月16日午前11時疎開する住民などを乗せて出発、第四号海防艦は東光丸を先導して出港した、直後に空襲があったため一旦引き返した。
15時2分御蔵島南方に差し掛かったところで二隻はアメリカ潜水艦のシードッグ?(USS Sea Dog, SS-401)からの襲撃を受ける、この襲撃の直前に第四号海防艦は潜水艦らしきものを探知しておりシードッグの魚雷に気づくと機銃で迎撃を試みつつ警笛や信号旗で東光丸に警告をしたが東光丸は気づかなかったようでそのまま魚雷二発を受けてしまう、東光丸はそのまま転覆し沈没、第四号海防艦と現場に駆けつけた第四十二号駆潜艇?は爆雷攻撃を実施、敵潜水艦撃沈確実と報じたがシードッグは健在だった。

第四号海防艦による救助活動が行われたが救助できたのはたった11人だけで疎開するために乗船していた住民は全滅だった。

4月17日まで館山の第九○三海軍航空隊と共に津潜掃蕩を行い18日に横須賀に帰投した。

5月24日鳥羽に到着、以後終戦まで伊勢湾周辺で活動する。

5月25日船団護衛を兼ねて四日市に移動、燃料を補給する。

5月26日鳥羽に到着、28日船団護衛のために鳥羽を発った。

5月3日第四十四号駆潜艇?と共に力部署第一機動掃蕩隊を編成し以後周辺海域での対潜掃蕩や哨戒、船団護衛に従事した。

7月25日14時40分鳥羽にてアメリカ軍の艦載機に攻撃され後部に被爆、二番砲より後ろが粉砕されて22名が戦死、21名が重軽傷を負った。
第四号海防艦は航行不能に陥り真珠島の南に座礁した。

7月28日に今度はイギリス軍空母フォーミダブル?艦載機の攻撃を受け至近弾約20発、直撃弾3発を受けて13時45分に船体を放棄、14時25分に沈没、乗員5名が戦死した。

潜水艦を撃沈し激しい攻撃も切り抜けてきた第四号海防艦の壮絶な最期だった。

フォーミダブル.jpg
第四号海防艦にとどめを刺したフォーミダブル

戦後 Edit

1945年9月15日除籍

1947年2月1日行動不能艦艇として大阪地方復員局所管となる。
5月3日除籍

1948年6月30日東海サルベージによって浮揚、解体された。

関連項目 Edit

軍用艦一覧

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Tag: 軍事 海軍 海防艦






*1 本来の表記は第四號海防艦
*2 正確には第二号艦型海防艦
*3 護衛は皐月?笠戸満珠?、第四号海防艦
*4 護衛は皐月、天草第六号海防艦?、第四号海防艦
*5 松最期の様子はよく分かっていない
*6 該当する潜水艦がスキャンプ以外いないので致し方ないが戦果誤認である
*7 第六号海防艦も当時は4隻の潜水艦を撃沈した殊勲艦とされていた