舩坂弘

Last-modified: 2021-10-20 (水) 19:37:40

舩坂弘(ふなさか ひろし、1920年10月30日-2006年2月11日)とは、第二次大戦期の大日本帝國陸軍の軍人。世界三大チート軍人の1人。唯一、戦史叢書?に個人名が記されている人物である。

生涯

誕生

栃木県上都賀郡西方村(現在の栃木市)に生まれ育った。農家の三男として生まれたが、幼い頃からきかん坊で近所のガキ大将であった。小學校、尋常髙等小學校を終え、公民學校を卒業したが、それだけでは満足できず、早稲田中學講義録にて独学した。その甲斐あって専門學校入学者検定試験(略称 専検)に合格。翌1939年には満蒙學校専門部に入学して3年間学習を続けた。
当時としてはかなりの高学歴である。

入隊

1941年3月、宇都宮第三六部隊に現役入隊し、直後、満洲に渡って斉斉哈爾(チチハル)第二一九部隊に配属される。斉斉哈爾第二一九部隊は、宇都宮歩兵第五九聯隊を主体とした部隊であり、仮想敵であるソ連軍の侵入に備え、部隊はノモンハン付近、アルシャン、ノンジャン、ハイラル一帯の国境警備隊として活躍していた。舩坂は第五九聯隊第一大隊第一中隊(通称石原中隊)擲弾筒分隊に配属され、アンガウル戦時には15人を率いる擲弾筒分隊長としてこれを指揮していた。

 

剣道と銃剣術は当時から有段者であり、特に銃剣術に秀でていた舩坂は、斉斉哈爾の営庭で訓練中に、陸軍戸山學校出身の准尉からも「お前の銃剣術は腰だけでも三段に匹敵する」と保証されるほどの腕前だった。また、舩坂は擲弾筒分隊長ではあったが、一方中隊随一の名小銃手でもあり、入隊以来、すでに射撃については30数回の賞状・感状を受けていた。斉斉哈爾第二一九部隊に於いて、「射撃徽章と銃剣術徽章の2つを同時に授けられたのは後にも先にも舩坂だけだ」と専ら有名であった。

 

戦況の悪化により、1944年3月1日、第五九聯隊にも南方作戦動員令が下る。アンガウル島に到着したのは同年4月28日であった。南方動員令が下ったとき舩坂は除隊を目前にしていたが、戦況の急はそれを許さず、大隊主力と共にアンガウル島に上陸することとなる。当時、舩坂は23歳であった。中隊では一番の模範兵と目されており、部下からの人望も篤かった。

1万人vs1人

アンガウルの戦いは、第二次世界大戦におけるパラオ - マリアナ戦役最後の戦いであり、この戦いで舩坂は多大な戦果を上げることになる。擲弾筒および臼砲にて米兵を200人以上殺傷したといわれる。水際作戦により中隊が壊滅する中、舩坂は筒身が真赤になるまで擲弾筒を撃ち続け、退却後は大隊残存兵らと島の北西の洞窟に籠城、ゲリラ戦へと移行した。

 

3日目には、舩坂も米軍の攻勢の前に左大腿部に裂傷を負う。米軍の銃火の中に数時間放置され、ようやくやって来た軍医は、傷口を一目見るなり、自決用の手榴弾を手渡して立ち去って行ったという。

 

瀕死の重傷を負いながらも舩坂は足を包帯代わりの日章旗で縛ることで止血し、夜通し這うことで洞窟陣地に帰り着き、翌日には左足を引き摺りながらも歩けるまでに回復した。その後も瀕死クラスの傷を何度も負うも、動くことすらままならないと思われるような傷でも、不思議と翌日には回復しているのが常であった。 これについて舩坂は「生まれつき傷が治りやすい体質であったことに助けられたようだ」と、その事由を述べている。

 

舩坂は絶望的な戦況にあってなお、拳銃の3連射で3人の米兵を倒したり、米兵から鹵獲した短機関銃で3人を一度に斃し、左足と両腕を負傷した状態で、銃剣で1人刺殺し、短機関銃を手にしていたもう1人に投げて顎部に突き刺して殺すなど、鬼神の如く奮戦を続けていた。実際、舩坂の姿を見た部隊員たちから、不死身の分隊長、鬼の分隊長と形容する声が聞かれるほどであった。

 

しかし、食料も水もない戦場での戦いは日本兵を徐々に追い詰めて行き、洞窟壕の中は自決の手榴弾を求める重傷者の呻き声で、生地獄の様相を醸し出していた。舩坂自身も腹部盲貫銃創の重傷を負って這うことしか出来なくなり、その傷口から蛆虫が涌くのを見るにつけ、蛆に食われて死ぬくらいなら最早これまでと、ついに自決を図ったが、手榴弾は不発であった。舩坂は暫し茫然とし、自決未遂という現実に、なぜ死ねないのか、まだ死なせて貰えないのかと、深い絶望感を味わったという。

 

戦友も次々と倒れ部隊も壊滅するに及び、舩坂は死ぬ前にせめて敵将に一矢報いんと米軍司令部への単身斬り込み、肉弾自爆を決意する。手榴弾6発を身体にくくりつけ、拳銃1丁を持って数夜這い続けることにより、前哨陣地を突破し、4日目には米軍指揮所テント群に20mの地点にまで潜入していた。この時までに、負傷は戦闘初日から数えて大小24箇所に及んでおり、このうち重傷は左大腿部裂傷、左上膊部貫通銃創2箇所、頭部打撲傷、左腹部盲貫銃創の5箇所であり、さらに右肩捻挫、右足首脱臼を負っていた。また、長い間匍匐していたため、肘や足は服が擦り切れてボロボロになっており、さらに連日の戦闘による火傷と全身20箇所に食い込んだ砲弾の破片によって、さながら幽鬼か亡霊のようであったという。

 

舩坂は米軍指揮官らが指揮所テントに集合する時に突入すると決めていた。当時、米軍指揮所周辺には歩兵6個大隊、戦車1個大隊、砲兵6個中隊や高射機関砲大隊など総勢1万人が駐屯しており、舩坂はこれら指揮官が指揮所テントに集まる時を狙い、待ち構えていたのである。弘はジープが続々と司令部に乗り付けるのを見、右手に手榴弾の安全栓を抜いて握り締め、左手に拳銃を持ち、全力を絞り出し、立ち上がった。突然、茂みから姿を現した異様な風体の日本兵に、発見した米兵もしばし呆然として声も出なかったという。

 

米軍の動揺を尻目に舩坂は司令部目掛け渾身の力で突進するも、手榴弾の信管を叩こうとした瞬間、頸部を撃たれて昏倒し、戦死と判断される。駆けつけた米軍軍医は、無駄だと思いつつも舩坂を野戦病院に運んだ。このとき、軍医は手榴弾と拳銃を握り締めたままの指を一本一本解きほぐしながら、米兵の観衆に向かって、「これがハラキリだ。日本のサムライだけができる勇敢な死に方だ」と語っている。しかし、舩坂は3日後米軍野戦病院で蘇生する。当初舩坂は情をかけられたと勘違いし、周囲の医療器具を叩き壊し、急いで駆けつけたMPの銃口に自分の身体を押し付け「撃て!殺せ!早く殺すんだ!」と暴れ回った。この奇妙な日本兵の話はアンガウルの米兵の間で瞬く間に話題となり、伝説と化した。舩坂の無謀な計画に恐れをなしながらも、大半はその勇気を称え、「勇敢なる兵士」の名を贈ったという。元アンガウル島米軍兵であったマサチューセッツ大学教授のロバート・E・テイラーは、戦後舩坂宛ての手紙の中で、「あなたのあの時の勇敢な行動を私たちは忘れられません。あなたのような人がいるということは、日本人全体の誇りとして残ることです」と、讃辞の言葉を送っている。

ペリリュー島にて

その後、数日の捕虜訊問を経て、舩坂はペリリュー島の捕虜収容所に身柄を移される。このとき既に「勇敢な兵士」の伝説はペリリュー島にまで伝わっており、米軍側は特に“グンソー・フクダ(舩坂は所属が判らぬよう福田という偽名を使っていた)”の言動には注意しろと、要注意人物の筆頭にその名を挙げるほどになっていた。しかし俘虜となっても舩坂の闘志は衰えず、ペリリューに身柄を移されて2日目には、瀕死の重傷と思われていたことで監視が甘く、収容所から抜け出すことに成功。1kmを潜んで行って日本兵の遺体に辿りつき、弾丸入れから抜き取った小銃弾の火薬によって、米軍弾薬庫の爆破に成功している。その後、グアム、ハワイ、サンフランシスコ、テキサス、と終戦まで収容所を転々と移動し、1946年に帰国する。

 

個人の戦闘記録としては唯一戦史叢書に載せられている。戦史叢書の『陸軍作戦史二巻』には、「船坂軍曹は、激戦ののち重傷、最後に敵将に一矢を報いんとして──中略──三日間意識不明、死の世界を彷徨し、米軍に手厚く看護され蘇生。昭和二十一年正月、奇跡的に復員帰国した」とある。

親友・クレンショー伍長

フォレスト・ヴァーノン・クレンショー伍長(Cpl.Forrest Vernon Crenshaw、1918年10月2日-2003年11月3日)は、アメリカ陸軍の軍人。
敬虔なクリスチャンで殺生を好まぬ人物だった。
彼は日本の敗戦を予想しており、来るべきその日のために必死に日本語を勉強し、海兵隊の通訳を務めていた。
そしてぺリリュー島に配属され、捕虜の監督官として働いていたときに彼は舩坂と出会った。
ある日、舩坂は脱走を企て、米兵から武器を奪おうとしていた。そのとき、舩坂の背後からタックルを仕掛けて止めたのが他ならぬクレンショーだった。
彼は日本語で、
「貴方は神の子なんです、死に急ぐことは罪悪なんです。」
「貴方が生きるのも死ぬのも神の手にゆだねられているんです。」
と優しく諭した。
そして彼は、今回のことは自分の胸の中にしまっておくと言い、翌日には非礼を詫びながら舩坂を釈放した。
しかし、舩坂は飛行場炎上計画を練り始めた。
炊飯係と物々交換を始め、タバコと引き換えにマッチを集めはじめた。
マッチも溜まってきたある日、クレンショーがジープに乗って出かけるのを見た舩坂は、彼が明日まで帰ってこないということを歩哨から聞きだし、その夜再び脱走した。
有刺鉄線を潜り、土を掘り、警備線を突破した彼が喜んで顔を上げると、そこには最も顔を合わせたくない男が待ちかまえていた。
舩坂は拳銃を突きつけられ、たちまち収容所に戻された。
「殺せ」と叫ぶ彼に対し、クレンショー伍長は怒りながらも事情を説明した。
彼は、舩坂が歩哨に自分のスケジュールのことを尋ねていたことを知って不審に思い、仕事を切り上げて戻ってきていた。
また、舩坂が使った脱走経路は以前に別の捕虜も脱走に使ったことがあり、その捕虜は射殺されていた。
クレンショーは舩坂の無謀な行動を戒めると同時に彼の無事を喜び、「生きる希望を捨てるな」「死に急ぐな」と懸命に説いた。

 

このように、どんなに反抗的な態度を取っても決して諦めず、真摯に向き合ってくれるクレンショーに対し、舩坂も次第に心を開くようになっていった。

しかし、舩坂はハワイに移送されることとなった。
ふたりは硬い握手を交わした後、互いの姿が見えなくなるまで大きく手を振った。
また、戦後も連絡が取れるようにと、見送りの際にクレンショーは自分の名前を書いた紙切れを舩坂に渡した。
このメモは移送先のMPに没収されたものの、舩坂は内容を「'G'RENSHAW」と暗記していた。
ちなみにこの時、クレンショーは火薬庫爆発事件のことについて聞いてきたそうだがシラを切り通したという。
戦後、やがて舩坂はかつての親友「グ」レンショーに会いたいと思い、彼を探すため四方八方に手紙を送りつけた。
しかし、スペルを間違って憶えていたこともあって、なかなか手がかりが掴めず、送った手紙の数は110通にも達しようとしていたが、その110通目の手紙が遂に奇跡を起した。

ある日、舩坂のもとにアメリカ大使館から戦時中の経歴について確認したいという電話が掛かってきた。そしてその夜、国際電話がかかってきた。
その電話の主こそがクレンショーであった。
その後、二人は毎週日曜日に文通でやりとりをするようになる。
手紙の内容は、おもに家族と過ごす日常の小さなことや仕事の様子。
(ちなみにクレンショーは運送会社の副社長になっていた。)
それらはまるで兄弟に充てた手紙のようだった。

やがてクレンショーは来日。20年ぶりの再会に二人は抱き合って喜んだ。
その後、二人は観光旅行に出掛けることとなり、
クレンショーのほか、お世話になった捕虜達も連れて日光などに足を伸ばした(この様子はテレビにも取り上げられた)。
そして訪れた帰国のとき、舩坂はクレンショーに日本刀を贈った。「一文字行広」と刻まれたこの刀にこもった大和魂は、確かにクレンショーに受け継がれた。

帰国したクレンショーは、テキサス州に貿易会社を創立した。その名は「タイセイドー・インターナショナル」。舩坂が経営する書店「大盛堂」から名を借りた会社である。

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Tag: 大日本帝國陸軍 リアルチート