西郷隆盛

Last-modified: 2022-01-18 (火) 11:52:14

西郷隆盛[さいごうたかもり]
[生没年] 1828~77

概要

幕末・明治初期に活躍した薩摩藩士、政治家、陸軍大将。
木戸孝允(桂小五郎)大久保利通と並び維新の三英傑と称される。
幼名は小吉、通称は吉之介のち吉之助、諱は隆永・隆盛と変遷。南洲と号した。変名は菊池源吾や大島三右衛門。

生涯

幼年期

鹿児島城下において、下級藩士・西郷吉兵衛隆盛の長男として誕生。天保12年(西暦1841年)に元服した際の名乗りは「西郷吉之介隆永」だった。大久保利通や従兄弟の大山巌とは家が近く幼少期は一緒に遊んだり勉強したりしていたという。また、西郷が自宅に大久保や大山を呼び寄せ一緒に食事を摂ることもあったらしい。
幼少より読書を好み、とくに陽明学を修めた。
西郷が幼い頃、西郷はとある自分より身分の高い武士の子供の行為を卑怯であると注意し、逆上した武士の子に刀の鞘で右腕を殴られ、このとき勢い余って鞘が割れ刀身があらわになり、西郷は右腕の腱を切ってしまった。家族に心配をかけまいと負傷を隠していたが数日後に高熱が出て、医者に看てもらったところすでに手遅れで、二度と刀を振るうことができない体になったと宣告される。しばし、絶望に浸る西郷であったが「これからは学問で身を立てる」と決心し大久保(この頃は正助と名乗った)とともに勉学に励むのであった。

西郷の幼馴染の大久保利通の志士時代の写真

青年期

弘化元年(1844年)に郡方書役助を勤め農政に携わる。このとき郡方書役の迫田利成に職務を教わり、農民が窮乏していながら藩が農民への救済や年貢額の減税などを一切せずむしろ苛烈な税を取り立てるという状況を目にし義憤を感じ迫田に談判し藩への談判を頼む。しかし迫田の藩への談判も虚しく農民の年貢の額が引き下げられたり救済策がなされることはなく迫田は郡方書役を辞職する。
嘉永3年(1850年)、藩主の座を巡る対立を発端として、世子・島津斉彬を支持する藩士・高崎五郎右衛門、赤山靭負らが、対立する島津久光派を排斥する動きを見せたとして処罰を受ける事件が発生した。高崎・赤山は切腹となり、赤山と知り合いだった西郷の父・吉兵衛が介錯を務めた。赤山に敬意を持っていた西郷は父からその最期を聞かされ、血に染まった肌着を受け取ると夜通し泣き続け、斉彬を藩主にと望むようになる。
この時期、大久保正助(利通)、吉井仁左衛門(友実)、有村俊斎(海江田信義)、伊地知竜右衛門(正治)、堀次郎(伊地知貞馨)らと『近思録』の研究会を開き、国事について論じ合う。これが後に精忠組と呼ばれるグループで、薩摩藩内部の有力勢力の一角として台頭していき、西郷はその中心人物となる。藩主島津斉彬の庭方役として重用されて藩政に関わった。父である藩主・島津斉興を強制的に隠居に追い込むことで藩主の座についた斉彬であったが、自らを追い落として異母弟の忠教(久光)を藩主に据えようとした一派に対する処罰はほとんど行わなかった。訝しんだ西郷は、斉彬が出した建白書の募集に応じて「反斉彬派を厳重に処罰するべき」という内容の他、農政に関する建白書を提出した。これに対し斉彬は「親に対する孝道の立場からそれはできない」との返事を出す。だが建白書の内容を気に入った斉彬は数年後に西郷を自身の庭方役として召抱えることになる。
安政元年(1854年)、西郷は斉彬の参勤交代に随従して江戸に出府。
4月、庭方役を仰せつかった西郷は初めて斉彬にお目見えを許される。西郷の資質を見抜いた斉彬は以来様々な指導を行った。越前福井藩主・松平慶永の記録として斉彬の西郷評が以下のように伝わっている。

「私、家来多数あれども、誰も間に合うもの無し。西郷一人は薩国の大宝なり。然しながら、彼は独立の気象あるが故に、彼を使うもの私ならではあるまじく候」
(『松平春嶽公伝』)

また、同僚の紹介により水戸藩の重鎮である藤田東湖と面会し、その人格と学識に感銘を受け、江戸滞在時盛んに藤田のもとを訪れ交流している。
「東湖先生のお宅に伺いますと、清水に浴したようで、心中一点の雲霞なく、ただ清浄な気持ちとなり、帰りを忘れるほどです。お察し下さい」
(『母方の叔父宛 西郷隆盛書状』)

更に越前福井藩士・橋本左内をはじめとする当時の名士達とも交流を得、斉彬の連絡係を勤めて行く中で国事に目覚め、その資質を開花させていった。
安政に入ると、将軍としての能力に問題のある徳川家定の後継を誰にするべきかが政治問題として浮上し始めた。島津斉彬、松平慶永、伊達宗城、山内豊信等の大名の他、幕府内部の少壮官僚達は水戸藩元藩主・徳川斉昭の七男であり、御三卿・一橋家に養子に出されていた徳川慶喜を次期将軍に据えようと運動を開始し始めた。
斉彬は内部からの切り崩しのため、一門から養女に迎えた篤姫を家定の正室にあてがう一方、工作や諜報活動のために西郷を京都に送り込む。
斉彬の掲げる公武合体策と徳川慶喜擁立の為に盟友・橋本左内や僧侶月照と共に朝廷工作に奔走した西郷だったが、公武合体策は在野の尊攘志士達に、徳川慶喜擁立は大老・井伊直弼の謀臣である長野主膳に阻まれてしまう。
更に井伊が勅許を得ずに条約調印を強行し、一橋派の幕臣や大名に対して弾圧を加え始めると、斉彬は挙兵の決意を固め、京都に派兵する計画を立て始めた。

西郷が生涯敬い続けた薩摩藩主、島津斉彬

西郷の気質を見抜いていた福井藩主、松平春嶽。

水戸の三田の一人、藤田東湖。彼の学識に西郷は強く感銘を受けた。同じく水戸の三田の一人である戸田忠太夫も西郷の才能を買っていたという。

橋本左内。二人は最初は互いに心中では馬鹿にしていたが議論を重ねるに連れ非常にウマが合ったという。

遠島

安政5年(1858年)7月、京阪で斉彬率いる薩摩軍のために準備を進めていた西郷の元に、斉彬急死*1の知らせが届いた。斉彬を崇拝していた西郷は悲嘆のあまり人目も憚らず泣きわめき一度は殉死も考えたが、月照に生きて斉彬の遺志を継ぐよう諭されて思い止まる。
斉彬の急死について、西郷はかつて島津久光を擁立しようとした島津斉興や、久光の生母であるお由羅の手によって毒殺されたのではないかという疑いを生涯持ち続け、その事が久光に対する軽侮の要因となる。
斉彬亡き後の時勢は目まぐるしく変化し安政5年(1858年)8月、西郷や月照の活動により、朝廷から幕府に対する問責と幕政改革を促す勅書「戊午の密勅」が水戸藩に下された。
これに激怒した井伊直弼は、京都に老中・間部詮勝(まなべあきかつ)を派遣し、吉田松陰や橋本左内ら在野志士や三条実美の父親で反幕府的な活動をしていた三条実万ら公卿に対する弾圧が始まり、西郷にも追っ手が迫ったため、薩摩に帰還。月照も西郷を頼って鹿児島にやってきたが、藩命により滞在できず、日向に退去するよう言い渡された。
事態を悲観した西郷と月照は、日向に向かう途上の船上から飛び降りて心中を図ったが、同船していた福岡藩士の平野国臣らに救助され、西郷だけは息を吹き返した。

私事、土中の死骨にて忍ぶべからざる儀を忍びまかりあり候次第、早御聞き届け下され候はん、天地に恥ヶ敷儀に御座候え共、今更にまかり成候ては、皇国のためにしばらく生を貪り居り候事に御座候
(『安政五年十二月十九日 長岡監物宛 西郷隆盛書状』)

自分だけ自殺に失敗して生き残ったことを深く恥じ入り、自らを「土中の死骨」つまり一度は死んだ身だが、生き残ったのはまだこの世で何かやるべき事が残っており、自分は天命によって生かされたのだと考えるようになっていった。
その後幕府からの追及を逃れるために西郷は死んだということにされ、藩命によって名前を菊池源吾に変えられ、奄美大島の竜郷という村に流されることになった。このとき藩はわざわざ墓まで用意したという。
島流しとはいえ罪人ではなかったため藩から扶持米を出され、鹿児島の大久保ら精忠組同志達との手紙のやり取りも許されており、生活には特に不自由することはなかったものの、島に着いてしばらくの間は島民に対する侮蔑感や「自分は豚のような役に立たない男だ」というような自虐する内容の文言を手紙に書いたり、夜中に奇声を上げるなど荒んだ精神状態だったが、島民からの依頼で子供たちに学問を教えたり交流を重ねる中で次第に落ち着きを取り戻していった。また、当時の奄美大島には薩摩藩から砂糖を扱う役人がいたが苛烈な支配を敷いており子供が砂糖のかけらを少しかじっただけで子供は百叩きにされその母親は牢屋に入れられた。この砂糖役人の横暴に憤慨した西郷が不正を暴き懲らしめ、西郷は島民における英雄となった。
安政6年(1859年)の末ごろ、村の有力者である龍佐民から、とま(愛加那)という一族の娘との縁談を持ちかけられて結婚。長男の菊次郎と長女の菊草をもうける。
大久保達とのやり取りの中で、かつて京都で共に活動した橋本左内が安政の大獄によって処刑されたことや、井伊直弼が桜田門外で暗殺されたことを知る。井伊の横死の知らせを聞くと狂喜乱舞し愛加那に嬉々として「鬼が退治された!」と報告したという。中央政局への関心を持ちつつ、島の子供たちに学問を教えたり魚釣りに励む穏やかな生活を送っていた。
文久元年(1861年)12月20日、自宅の新築祝いで島民を招き蛇皮線太鼓に興じていた西郷の元へ、藩から帰還するようにとの命令が下された。当時薩摩藩内では藩主・島津茂久(忠義)の実父でその後見役となった島津久光が権力を掌握し、義兄斉彬の遺志を継ぐと称して卒兵上京計画を立てており、その段取りに奔走していた大久保利通がかつて京都で工作活動に携わっていた西郷を人材として抜擢することを求めたためであった。

月照。西郷の殉死を思いとどまらせた

愛加那。西郷の島妻(アンゴ)。現地妻は本土に連れ帰ってはならないという決まりのため西郷との別れを余儀なくされた

西郷、帰還す

文久2年(1862年)2月12日、鹿児島に帰着。翌日、家老の小松帯刀から呼び出しを受け、小松の屋敷に赴いた。屋敷では小松の他、御小納戸に昇進していた大久保一蔵(利通)、同じく御小納戸の中山尚之介の三人から、卒兵上京計画への協力を求められた。三人共西郷がすんなり協力してくれるものと思っていたところ、予想外の答えが返って来た。

西郷「趣旨は分かりもした。じゃっどん、勅許を頂くには朝廷への手蔓が必要でごわす。島津家と縁故の深い近衛家には依頼済みでごわしょうな?友好的な幕閣や諸藩との事前の打ち合わせは?」
大久保「それは全く手をつけちおらんでごわす」
西郷「・・・仮に勅許が下りたところで幕府が引き伸ばしに出た場合のことは考えておりもすか?幕府が勅許に従わんかった場合、これを征伐する必要がありもすが、諸藩と連携がとれちょらん以上薩摩が単独でやることになりもそう。その覚悟が久光様にあるといえもすか?」
小松「そいじゃから西郷殿を待っちょったとです。是非ご協力を・・・」
西郷「そげん準備不足で天下の事を尽くそうとは、実に目暗蛇怖じず、こんおいにはとても出来ることではごわはん!お断りさせていただきもそ」

薩摩界隈の文久新参達を容赦なく批判する安政古参・西郷だったが、三人と話しても埒があかないと思い、数日後に控えた久光との謁見の場で直接話すことに決めた。
2月15日、西郷は久光と初めて面会した。事前に大久保や小松から「慎重に話すように」と釘を刺されていたが、全くひるむ事なく本音をぶちまけた。

西郷「御前(久光)は順聖院(斉彬)様の遺された策を実行されるとの事ですが、当時と今日とでは状況が異なっておりもす。当時の策が今日においてもそのまま通用するか疑わしく思いもす。順聖院様であればこのような状況に適応できる策を巡らせることも出来ましょうが、それでも朝廷や幕府へ手蔓を作り、諸藩とも連携し、用意周到に準備をした上で動かれたことでしょう。然るに御前は無位無官、諸大名との交際も無い、恐れながら申し上げれば地ごろ(田舎者)でごわす。準備も整っておらず、とても公武周旋など出来るものではごわはん!」
久光「………もういい」
大久保、中山、小松(……国父様*2にとんでもなかこつばしでかしおった…)

久光が一旦その場は怒りを抑えたためその場は取り繕えたが、再度の諮問にも西郷は計画の中止もしくは大幅な変更を主張し、そのまま指宿の温泉に引っ込んでしまった。
一方、薩摩が動き始めるという情報を得た各地の浪士達が「武者震いがするのう!!」と薩摩に続々とやって来た。浪士たちの動きに不安なものを感じた大久保は、彼らの動きを統制するためにはやはり知名度が高く求心力のある西郷が必要だと考え、温泉から戻った西郷の説得に努めた。
大久保の説得に心を動かされた西郷はようやく協力に同意。幕府の目をそらすため大島三右衛門と名を変え、3月13日に村田新八ら同志数人を伴って出発した。
出発の前、西郷は久光から下関で待機するよう命じられていたが、23日に下関に到着し、薩摩の御用商人である白石正一郎の屋敷で平野国臣と再会。平野と話すうち、久光の上京に合わせて決起しようとする人々が大阪に集まりつつあることを知り、「私死地に入らず候はでは死地の兵を救う事出来申すまじく」と判断。久光の命令を無視してすぐさま大阪に向かった。
27日、大阪に到着。薩摩藩士・柴山愛次郎、橋口壮助ら久光到着後の決起を目論む人々に会い自制を促した。また、当時京都で「航海遠略策」の周旋をしていた長州藩士・長井雅楽の噂を聞いた西郷は「朝廷を軽んじ、幕府に利して自らの栄達を謀ろうとしている」と判断し、長井の説に同調していた精忠組同志の堀次郎を「長井に同調したからには斬らねばならぬ」と脅しつけた。
これは畢竟幕の痛いところを程よく致しなし、自分の功を立て、天下の權を取るべき計謀と察せられ申し候
(『木場伝内宛 西郷隆盛書状』)
同じ長州藩の久坂玄瑞との面会に際しては「長井は斬るべし」と進言し、長井を憎む久坂もそれに同意する。
西郷がその黒い一面を大阪で発揮していた頃、下関に着いた久光は西郷の命令無視に怒り、更に姫路に着いた際、堀次郎と海江田信義(有村俊斎)を引見すると、二人から「西郷が過激派を率いて決起を企てている」と聞かされ、ついに厳罰を下すことを決めた。
一方、西郷の身を案じて久光より先に大阪に着いた大久保一蔵(利通)は、西郷に面会して激徒鎮撫に努力していることを確認すると安心して久光の元に戻ったが、堀と海江田の報告で既に腹を決めた久光を動かすことは出来なかった。
このままでは最悪切腹もあり得ると考えた大久保は決死の覚悟を持って西郷を浜辺に呼び服罪受け入れを促した。

大久保「今のところは吉之助さぁを召し捕れというだけのお申し付けでごわすが、どういう処分を仰せ付けられるか、わかりもはん。縄目の恥を受けた上に切腹などということになるより、今の内に切腹した方がようごわす。しかし、吉之助さぁだけを死なせはしもはん。吉之助さぁのしたことは、二人が相談の上で決めたことでごわす。罪があるなら、二人は同罪じゃ。一緒に死にもそ。刺しちがえて死にもそ。おいは決心して、ここへお連れしたっとじゃ」
西郷「一蔵どん、さしちがえて死のうとは、いつものおはんに似合わん浅慮な言葉じゃ。おいは仰付に先立って腹を切ったりなんどはせん。おはんは天命といわれたが、天命というものは人間にはわからん。人間に出来ることは、天命に素直に従うことだけじゃ。おいは月照さぁとのことがあって、考えに考え、やっとそれがわかった。自殺は小我の恣意をもって天命に限定をつけることじゃ。決してしてはならんとじゃ。その上、もしおい達二人がここで死んだら、天下のことはどげんなると思うか。おい達の志は誰が継いでくれもす。おい達二人がおらんければ、日本はどうなりもす。誰が薩摩を導いて行きもす。今この時こそ、男が歯を食いしばって、こらえぬかねばならん時でごわすぞ」
大久保「・・・・・・」
西郷「あるいは久光様はおいにたいして切腹の処分を考えておられるかも知れんが、おいが黙っちょれば、それはおい一人ですむ。死ぬのはおい一人でよか。おいは決して余計なことは言いはせん。おはんはあとにのこって、おいが分まで働いちくいやんせ。そうしてもらえば、おいは思い残すこつばなか」
大久保「・・・済んもはん。考えが浅うごわした。おいにあるまじきことでごわした」
服罪を受け入れた西郷は宿で謹慎し、久光の命により4月11日に鹿児島に送還されることになった。

島津久光。彼と西郷の確執は最後まで解消されなかった

小松帯刀。島津久光に仕える。西郷の説得を試みるも失敗。西郷との仲は良好であったという

二度目の遠島

西郷という重しが無くなった有馬新七ら過激派達は旅籠寺田屋に集結し、暴発寸前のところで久光の指示で鎮圧に向かった奈良原喜八郎らによって同士討ちが起こる。寺田屋事件である。
知人同士が殺し合いをするというこの悲惨な事件で朝廷の信任を得た久光はその余勢を駆り、勅使の大原重徳を伴って江戸に向かった。その頃西郷は鹿児島の山川港で処罰を待つ身だったが、寺田屋事件の顛末を聞くと、「何ちゅうことをしちくいやったか。もう薩摩は勤王の二字を唱えることはできん」と憤った。
6月、西郷は鹿児島から徳之島に流され、更に閏8月には遠島で最も重い罪とされる流刑地・沖永良部島へ流されることとなった。
文久2年(1862年)閏8月16日、沖永良部島に上陸した西郷は、ニ坪程度の四方が牢屋のような格子でできた小屋に閉じ込められた。
雨ざらしの狭い小屋での生活で象皮病に罹患してがりがりに痩せてだんだんと衰弱していく中、西郷を慕っており西郷の受ける牢内の待遇を気の毒に思った島の村長・土持正照とその母・ツルの尽力によって小屋から座敷牢へ移り住むことが認められ、奄美大島の時と同じように子供たちの教育を願う島民が出てきたため塾を開いた。
役人や島の有力者達の中にも教えを乞う者が現れ、いつの間にか島の指導者のような立場になっていた。
文久3年(1863年)、八月十八日の政変により長州藩士を中心とする尊王攘夷派が朝廷から排除され、その後公武合体派諸藩による参預会議が発足し、薩摩藩の目標が達成されたかに見えたが、幕府の意を受けた徳川慶喜の謀略によって参預会議は解体に追い込まれ、薩摩藩は方向性を見失いかけていた。
このような状況の中、精忠組出身者から西郷待望論が浮上し、高崎左太郎、高崎五六の二人を介して久光に奏上する。西郷を憎む久光は渋ったが、結局「左右みな(西郷を)賢なりというか。しからば愚昧の久光独りこれを遮るは公論に非ず。太守公(藩主・忠義)に伺いを立てよ。良しと仰せられるなら、私も異存はない」と容認した。しかし久光には相当不本意な決断であったようで、真偽は不明だがその時加えていた煙管を歯型が残るほど噛み締めたという。
元治元年(1864年)2月22日、精忠組の吉井幸輔と実弟の西郷信吾(従道)が沖永良部島へ西郷を迎えに行き、28日、約1年半ぶりに鹿児島の山川港に上陸。3月14日に上京して大久保と久光に面会し御軍賦役(軍司令官)に任命される。
この時から、自らに与えられた天命を全うするための西郷の本格的な活動が始まった。

吉井幸輔。西郷の幼馴染の一人。

西郷従道。西郷の弟で年は親子ほど離れていた。

禁門の変

御軍賦役に任命された西郷は、政局に介入しすぎたため攘夷派、佐幕派双方から睨まれることになった薩摩藩の方針を一歩後退させて、「朝廷の叡慮にのみ従う」という趣旨を表明して状況を見極めることにした。
前年の八月十八日の政変において連携した佐幕派の会津藩とはこれ以上付きあう必要はないだろうと判断し、以後疎遠となっていった。また、この頃長州藩の動向を探るため、中村半次郎(桐野利秋)を長州に派遣している。
6月4日、旅籠池田屋で新選組と攘夷志士との間で乱闘事件が起こったことをきっかけに、長州藩から軍勢が京都に派兵された。名目は「長州の冤罪を帝に訴える」ということだったが、孝明天皇は「長州は許さぬ」と拒否。長州側が「これは帝の叡慮ではなく会津の謀略だ。帝は騙されているのだ」と大騒ぎし交渉が泥沼化していく中、西郷は「これは会津と長州の私闘であるから、薩摩は手を出さず中立を守る」という立場を取り、薩摩からは積極的には関与しないように努めた。
7月19日、長州軍が天王山、天龍寺、石清水八幡宮の三方向から御所に向かって進軍を開始すると、撃退するようにとの朝命が在京諸藩に下り、薩摩軍もこれに従った。
伏見街道や御所の堺町御門、蛤御門で戦闘が繰り広げられ、特に蛤御門は来島又兵衛が率いる長州軍により門を突破されて激戦となった。
これを察知した西郷は兵を率いて蛤御門に向かい、長州軍と交戦。自らも脚に銃弾を受け負傷しながらも来島を討ち取り、長州軍を敗走させた。
7月23日、長州軍が敗退した京都では朝廷から長州征伐の勅許が下り、8月2日には幕府から長州征討令が出された。禁門の変で功績のあった西郷は、征長総督・徳川慶勝(尾張藩主)の参謀陣に加わることになった。
禁門の変の勝利で自信を深めた幕府は西国諸藩に出兵の号令を出し、次いで9月には文久年間に緩和された参勤交代を元に戻すと発表。出兵費用も馬鹿にならず諸藩に不満がくすぶる中、西郷は福井藩士の紹介で11日に幕臣・勝海舟と初めて面会した。

勝「あたしぁ一応幕臣だからこんなこと言っちゃあならないんだがね、幕府なんざもう見限ることですね!京都の戦で暴客どもが恐縮し鳴りを潜めたからこれでモウ天下泰平になったと安心しきって打毬やって遊び呆ける極楽トンボの老中が居るわ、誰も責任とろうとする者が居ないわ、正論を言えばごもっともごもっともといいながら裏で手を回して遠ざける。幕府はもうおしまいだよ」
西郷「そのような奸吏を辞めさせることはできんのでごわしょうか?」
勝「出来ないことも無いが、後を引き受けられるもんが居ないのさ」
西郷「諸藩から協力するというのはいかがでごわしょう?」
勝「ダメだねぇ。例えば薩摩からこういう意見があるがと言えば薩摩に騙されているのだと言われるのがオチさ。モウ幕府は運が尽きた」
西郷「兵庫の開港について朝廷がひどく嫌っておられますが、もし異人が大阪湾に直接乗り込んで来たらどうなさるのでごわしょう」
勝「それについては策があります。幕吏は異人達にも軽蔑されて役に立ちゃしませんから、雄藩の賢侯4、5人が連合して異国と一戦交えることが出来るくらいの武力を背景に異人達と交渉すればいいのさ。横浜と長崎の貿易を拡大するかわりに兵庫は開かない、というように条理を踏んで堂々交渉すれば異人達もかえって喜ぶ。そうすれば雄藩の連合が政権を預かることになるし国是も定まるってえ寸法ですよ」

幕府を忌憚なく批判する勝の歯に衣着せぬ物言いに感心した西郷は、大久保に宛てた手紙の中で
勝氏へ初めて面会仕り処、実に驚き入り候人物にて最初は打ち叩くつもりにて差し越し候処、とんと頭を下げ申し侯。どれだけか智略のあるやら知れぬ塩梅に見受け申し候。先ず英雄肌合の人にて、佐久間より事の出来候儀は一層も越え候わん。学問と見識においては佐久間抜群の事に御座候得共、現時に臨み候ては、此の勝先生と、ひどくほれ申し侯
摂海へ異人相迫り節、初めてこの策を唱え出、急速に決し候様致さず候ては相成申す間敷、一度この策を用い候ては、いつまでも共和政治をやり通し申さず候ては相済み申す間敷候間、もしこの策を御用いこれ無く候はば、断然と割拠の色を顕し、国を富ますの策に出ず候ては相済み間敷候と存じ奉り候
(「元治元年九月十六日 大久保一蔵宛書簡」)
と記し、やがて「共和政治(雄藩による連合政権)のためには倒幕も仕方ない」との考えに至る。
10月22日、勝は幕府からの帰還命令を受け江戸に戻ると御役御免を申し渡されて蟄居の身となった。主宰していた神戸海軍操練所の塾生達の中に禁門の変で長州側で戦った者たちがおり、その責任を問われてのことであった。去る直前、勝は操練所の坂本龍馬ら塾生達の身柄を薩摩藩で保護して欲しいと西郷に願い、西郷もこれを承諾した。
大阪城にて征長総督・徳川慶勝のもと、出兵した諸藩と幕府役人が集まり軍議を開いた。参謀として出席していた西郷は、先日の勝との会談で幕府の退嬰を感じ、強硬策から融和策に転換していた。
この軍議で西郷は
「長州藩内部は現在抗戦派と恭順派とに分裂しているため、これを利用して彼ら自身の手で始末をつけさせれば無駄な戦を起こす必要なくけりをつけられましょうが、もし無理に厳罰を下せばかえって一丸となり、死に物狂いで立ち向かってくるでしょう」
と主張し、長州側との交渉については自分に任せて頂きたいと言った。
許可を得た西郷は、10月26日に長州藩の支藩である岩国領に赴き、領主の吉川監物に対して福原越後ら三家老及び四人の重臣の処刑を要求した。応じた吉川は本藩に連絡し、11月11日から12日にかけ、処刑が実行された。
16日に家老らの首実検が行われ、幕府の使者としてやって来た大目付・永井尚志が吉川に対して尋問を行った。この際永井が藩主父子の差出し、城の明け渡しなど全面降伏を要求した。それまで行われてきた周旋を無視した意見だったため、その場に居合わせた西郷が
「全面降伏というのであれば周旋も談判も一切不要でございもすからはじめから武力で解決すればよろしかったとでしょうが、もし戦になれば彼らは一丸となって抵抗してもそ。 半年や一年では到底片付かず、参戦した諸藩も疲弊し不満が続出して手のつけられんことになり、幕府の御威光は失墜、土崩瓦解しもっそ。よくよく御思慮なさってくいやんせ」
と諭した。永井は反論できず、徳川慶勝もこれに賛同したため、結果的に強硬論は立ち消えとなり、最終的に五卿の動座と随従している浪人の素性報告、藩主父子の隠居・謹慎、山口政事堂の破却が実施されれば討伐軍は解兵されるということになった。
19日、西郷の元に、奇兵隊をはじめとする長州藩の諸隊が五卿を担ぎ出して「絶対に引き渡さぬ」と気勢を上げているという情報が届いた。西郷はこれを徳川慶勝に伝え、諸隊幹部と会いに行って交渉したいと申し出、21日に広島から小倉に向かった。
23日、小倉に到着。12月4日、小倉に滞在していた西郷の元に土佐脱藩浪士の中岡慎太郎が面会を求めてやって来た。中岡は西郷に対し、藩主隠居後の後継についての周旋と、長州を包囲する兵の撤退を求め、西郷は「難しいが大いに骨は折る」と返答した。この時の縁で西郷と中岡は親しくなり、後に薩長同盟の周旋で協力することとなる。
11日に西郷は下関に渡り、諸隊幹部達と会談して五卿動座を受け入れさせることに成功。その後も幕府や会津藩から「処分が軽すぎる」として厳罰が求められたが、その度に西郷と、西郷に同調する徳川慶勝によって阻止され、長州藩は危ういところを「薩賊」と呼んだ怨敵に救われる形となった。
27日、正式に撤兵命令が布告され、第一次長州征伐はとりあえず幕府側の不戦勝で終結した。だが、この結果に幕府や佐幕諸藩、そして徳川慶喜は強い不満を持つ。

尾老公和議の論、薩州大島吉之助奸賊也。私怨を捨て周旋などと申す事にて、筑前北岡勇平一同相働き、督府の下帯、金の鯱と勘合申さず、言語道断の模様。永井大監御存意一々相立て申さず、土崩瓦解の勢に相成候
(『肥後藩士・上田久兵衛書状』)

総督の英気至りて薄く、芋に酔い候は酒よりも甚だしきとの説、芋の銘は大島とか申す由
(『元治元年十二月十二日 長岡護美宛 徳川慶喜書状』)

芋とは焼酎を意味し、大島とは当時「大島吉之助」と名乗っていた西郷のことである。
この水面下での対立が翌年慶応元年(1865年)以降の第二次長州征伐に繋がる不毛な議論が繰り広げられる原因となり、薩摩藩が幕府を完全に見限るきっかけとなっていった。


西郷のシンパであった徳川慶勝

幕府の死に水を取った勝海舟

幕府滅亡の兆し

西郷が長州処分の周旋を行っていた12月15日、高杉晋作が下関の功山寺で決起し、長州藩領内で内戦が始まった。撤兵直前の出来事で、これを巡って佐幕派から強硬論が出されたが、西郷が薩摩軍単独の撤兵も辞さない構えで反対した。結局西郷の意見が採用され、前述の通り27日に撤兵が決定された。
元治2年(1865年)1月4日、西郷は帰国の途に着き、15日に鹿児島に到着。藩主父子に謁見して現在の状況と今後の見通しについて言上した。同じ頃、長州処分の結果に不満を持った幕府は、長州藩主父子と五卿に対して江戸に出府するようにと命じ、1月25日には参勤交代の督促が諸大名に通達された。薩摩藩の代表として西郷がこれまで行ってきた周旋活動に対する明確な反対の意思表示であった。
西郷と大久保一蔵はこれに対抗するため役割を分担し、大久保は25日に上京して在京中の小松帯刀と共に朝廷工作を開始。西郷は2月中旬に鹿児島を出て25日に五卿が預けられていた太宰府を訪ね、幕府の五卿出府要請を受け入れないよう筑前藩侯・黒田長溥(ながひろ)に訴えた。3月5日に博多から出航し、11日に京都に到着。その頃江戸から阿部正外・本庄宗秀の二老中が三千の兵を率いて上京し在京諸藩を退けようとしていたが、先に上京していた大久保の妨害工作によって逆に長州藩主父子や五卿の江戸招致中止と参勤交代復旧の中止、更に将軍・徳川家茂の上京を促す沙汰書を朝廷から出させることに成功。二老中は何ら成すところ無く京都から撤退していった。
29日、幕府は朝廷から中止の沙汰書が出された長州藩主父子の招致について、長州藩があくまで拒むなら再征伐するのでその為の準備を始めるようにと諸藩に通達した。更に2月から3月にかけては水戸天狗党の乱に関わった者たち350人以上を斬首に処した。
このように権力回復を目指して強硬策をとり続ける幕府に強い不信感を持った西郷は完全に幕府を見限り、朝廷の下での諸藩による連合政権の樹立に向けて動き始めた。

薩長同盟

5月1日、西郷は一旦鹿児島に戻り、幕府の長州再征には参加しない方向で藩論をまとめあげていった。
同時期、土佐脱藩浪士の坂本龍馬や中岡慎太郎、土方楠左衛門(久元)などによって薩長提携の話が西郷、小松らに持ちかけられ、長州藩代表として桂小五郎(木戸孝允)が下関で会談に応じる事になった。西郷は薩摩の代表として桂と会談するため、鹿児島にやって来た中岡と共に閏5月15日に下関に向かった。
18日、途中佐賀の宿に宿泊中、京都の大久保から「至急上京するように」との連絡が入ったため、中岡の願いを振り払ってそのまま京都へ行ってしまったとされる。この時の西郷の挙動は実際大久保から連絡が来ていたかどうか確実な証拠が無いため、情勢を見極めるための西郷の独断か、もしくは島津久光の指示ではないかとも言われている。
下関で待機していた桂は西郷が来なかったことに激怒したが、龍馬らの周旋で引き続き和解のための駆け引きが行われていく。
6月24日、上京していた西郷のもとに坂本・中岡両名が訪れ、桂との会談すっぽかしについて問い質すと謝罪して正式の使者を出すと答え、武器弾薬や軍艦の購入についても薩摩が仲介することを約束した。一方京阪では徳川家茂が大阪城入りし、23日には芸州広島藩を通じて長州藩の支藩である岩国藩、徳山藩の両藩主を大阪に呼びつけ、出てこなければ討伐すると通告した。京都に滞在していた西郷は幕府と長州とのやり取りを冷ややかな目で眺めていた。
9月に入ると再び上京した大久保と入れ替わるように大阪に下った。同月、兵庫開港を求める英仏以下列強使節が艦隊を率いて大阪に現れると、これを機会に幕府から外交権を奪って雄藩連合政権を打ち立てようと大久保に書状を送った。大久保は朝廷工作によって雄藩連合や長州再征の中止を謀ったが徳川慶喜の工作活動に及ばずいずれも失敗した。
京都での暗闘が繰り広げられる中、西郷は黒田了介(清隆)を正使として12月長州に派遣、正式に会談を申し入れた。木戸貫治と改名した桂はこれまでの経緯から躊躇したが、高杉晋作、井上聞多(馨)、伊藤俊輔(博文)、山県狂介(有朋)らが会談に賛意を示し、前藩主・毛利敬親*3も承認したため、会談に臨む決意を固めた。ここに漸く薩長同盟の機運が高まってきた。
翌年慶応2年(1866年)1月8日、木戸が京都の薩摩藩邸を極秘裏に訪れた。藩邸には西郷、大久保、小松らが居り、西郷達は盛大に歓迎し、国事について論じ合ったものの、肝心の同盟に関する話は一向に進まなかった。
毎の通り寝覚也。此の日出勤致さず、八ツ時分より小松家へ、此の日長の木戸ゆるゆる取り会いたく申し入れ置き候に付、参り候様にとの事ゆえ参り候処、皆々大かね時分参られ候、伊勢殿、西郷、大久保、吉井、奈良原也。深更まで相咄し、国事段々咄し合い候事
(桂久武『慶應二年正月十八日 上京日記』)
西郷や木戸は深夜まで国事について議論したが、この時の会談の模様を同席していた吉井友実の証言として伝える文書がある。
木戸申分に最早昨年の首級にて何も相済候と云て、御処置遵法の口気無の候に付、西郷より今日まず之を忍べ、他日雲霧はれて御上京の節、共に嘆願致度と申候へ共、同意の色不見候
(『吉川経幹周旋記』)
西郷は第一次長州征伐の際に長州藩主父子が幕府に提出した「恐懼慎みて而御沙汰奉待候」という謝罪状の文章があるため、「これに則って新しい処分を受け入れれば幕府は長州を攻める口実がなくなり、薩摩も長州とともに上京して赦免運動を行う」と木戸に伝えたが、「どんな小さい処分でも断固拒否する」と木戸が受け付けなかったため、会談が物別れに終わったと言うのである。
20日、木戸が帰ろうとしていた時龍馬が木戸の元を訪れ、一部始終を聞くとすぐに西郷と小松に談判した。
21日(22日説も)、龍馬の説得を受け入れた西郷は、小松・龍馬を交えて木戸と会談。6か条の盟約が取り決められる。この時西郷達は成文化しなかったため、木戸が当時の記憶を頼りに書き留め、それに龍馬が相違ないことを朱で認めた文書が後世「薩長同盟」と呼ばれる盟約の覚書である。
24日、旅籠寺田屋に宿泊していた龍馬の元に捕吏数十人が押しかけ、同行していた長府藩士・三吉慎蔵と共に応戦・脱走する事件が起こった。左手の親指を深く切られたが三吉が薩摩藩邸に救援を求め、危うく難を逃れた。
3月5日、西郷と小松は、快復した龍馬、三吉、先に藩邸に避難していた楢崎龍(お龍)、駆けつけた中岡慎太郎と共に蒸気船で出航。下関で中岡と三吉が降り、龍馬、お龍はそのまま随行。一路鹿児島に向かった。

桂小五郎。当時は薩摩への敵対意識を強めていた

坂本龍馬。言わずと知れた薩長同名の立役者

中岡慎太郎。坂本龍馬の幼馴染。後に西郷と意気投合する。

暗闘・慶喜対薩摩

同盟の成ったことを受けて俄然勢いを盛り返した長州藩は、幕府からの問罪を完全に拒絶し、徹底抗戦の構えを見せた。4月、幕府は諸藩に対して出兵命令を出すが、薩摩藩は出兵拒否の意見書を提出。大久保が老中と丁々発止のやり取りで出兵命令を撥ね付けた。
6月7日、幕府は長州藩に対して宣戦布告、第二次長州征伐が始まった。
四方面から侵攻する幕府軍を長州軍が押し返し、一部では圧勝する。敗報が続く中、7月20日に将軍・徳川家茂が失意のうちに病死した。
家茂の後継者として最有力視された徳川慶喜は自発的に征夷大将軍に就任しようとせず、諸侯や朝廷から推される形での就任にこだわった為、将軍職に空位期間が生じた。また、8月30日に蟄居中の岩倉具視による発案で22人の公卿による朝廷上層部への抗議活動が起こり、佐幕派の尹宮朝彦親王(いんのみやあさひこしんのう)、関白・二条斉敬(にじょうなりゆき)が辞職に追い込まれ、続いて朝廷から諸大名への上京令が布告された。
京都に滞在していた大久保はこれを好機と捉え、将軍職及び幕府の廃絶とその権力を雄藩会議に委譲させるための工作活動に力を入れていた。

幸にして将軍職御辞退固く申上候て、此議は諸藩来会までは相働き申す間敷候付、誠に機会失うべからずと存じ候間、共和の大策を施し、征夷府の権を破り、皇威興張の大綱相立ち候様、御尽力伏して冀(ねが)い奉り候
(『慶応二年九月八日 西郷隆盛宛 大久保利通書状』)

だがこの上京令の結果は、大久保の意に反して上京した大名が慶喜に謁見して意見書を提出するだけの無味乾燥なものとなってしまった。更には孝明天皇の反発を受け、22公卿の他反幕府派の公卿が軒並み退けられ、結果的に薩摩藩にとって不利な状況となった。
このような状況の中、12月5日に慶喜は徳川幕府十五代将軍に就任。朝廷内部も佐幕派に占められ、薩摩藩にとって京都政局は厳しい状況となるかに見えたが、25日に最大の佐幕派たる孝明天皇が悪性の痘瘡によって唐突に崩御。
あけて慶応3年(1867年)1月9日、睦仁(むつひと)親王(明治天皇)が践祚。また孝明天皇崩御に伴い、それまで処罰を受けて朝廷内で活動できなくなっていた反幕府派の廷臣達が大赦によって復帰し、俄に朝廷内の勢力図に変化が生じ始めた。
新たな局面を迎える中、西郷・大久保・小松の三人は、雄藩連合政権を実現するための活動を開始した。当時重大な案件として浮上していた長州に対する処分で幕府に非を認めさせること、また兵庫開港の勅許について、これを慶喜の単独行動で取得させず、諸大名による会議で取得することで外交権を含めた政治権力を幕府から奪おうと考えた西郷は、有志大名による会議を実行に移すべくまず鹿児島で久光を説得して了承させ、次いで宇和島藩の伊達宗城、土佐藩の山内容堂に謁見して上京を要請。小松が説得した越前福井藩の松平春嶽を合わせた四人が会議招集の要請に応じて5月までに全員が上京した。
14日、四侯と慶喜の会議が行われたが、長州問題と兵庫問題のどちらを優先処理するか、また長州に対してどのような措置を取るのかで意見がまとまらず、19日になると容堂が病欠と称して撤退。23日から24日にかけて一昼夜を通した朝議で慶喜が反対する公卿らを押し切って兵庫開港の勅許を取得。長州処分についてはこれまで通り長州側から嘆願があれば寛典に処すとの態度を崩さなかった。
四侯会議は慶喜に軽くあしらわれる結果になり、話し合いによる政権移譲が不可能であることを悟った西郷は、武力を用いた倒幕路線へと舵を切り替えた。
四侯会議の失敗を見届けた西郷・大久保・小松らは挙兵の準備を整え始めたが、その動きに薩摩藩内部から反対意見が起こった。文久3年の八月十八日の政変を主導した高崎佐太郎(正風)は「何故そんな危険を冒してまで長州藩に義理立てしなければならないのか」と反発し、寺田屋事件で刺客となった奈良原喜左衛門(繁)に至っては「西郷を説得し、聞き入れられなければ刺し殺す」とまで言い放った。また重臣や島津一門からも反対者が現れ藩論が二分された。このように薩摩藩内部も一枚岩というわけではなかったため、表向きは「討幕のための出兵ではなく、あくまでも幕府の権力を朝廷へ移譲するための背景としての武力である」と主張しつつ秘密裏に計画を進めていった。特に島津久光には討幕挙兵の件は慎重に伏せられた。
5月21日、西郷は中岡慎太郎を介して土佐藩の反幕府派である乾(板垣)退助と会見。武力倒幕の同志として引き込む一方、平和裏な政権移譲に望みを賭ける土佐藩参政・後藤象二郎とも一定の距離を置きつつ連携を取る。6月20日には西郷らと後藤の間で、政権移譲による王政復古と議員制度の確立を誓う薩土盟約が取り交わされた。ただし武力を用いるか否かを明文化しておらず、この後路線の違いが浮き彫りとなっていく。
8月14日、薩土盟約の真意を計り兼ねた長州藩は、京都で挙兵計画を進める西郷の元に使者を遣わした。使者に対し西郷は以下のように述べた。
藩邸居合の兵員、千人有之候問、期を定め其の三分のーを以御所之御守衛に繰込、此時正義之堂上方不残御参内御詰被成候、今一分を以会津邸を急襲仕、残る一分を以堀川辺幕兵屯所を焼払候策に有之候、且国許へ申越兵員三千人差登、是は浪花城を抜き軍艦を破砕する為、尚江戸表に定府其外取合千人位罷居、外に水藩浪士等同志之者所々潜伏仕居候に付き、是を以甲府城に立篭り、旗下の兵隊京師に繰込候を相支候積りにて期を定め三都一時事を挙げ候策略にて、素より勝敗は予期すべからず。弊国舞候時は、又跡を継候藩も可有之と、夫を見詰に一挙動仕候心算に御座候
弊藩*4に於て討幕は不仕、事を挙候己後、時宜に寄り討将軍之倫旨は可被差出欺、是は御同志之堂上方より、粗御内意探索仕候儀も有之候、今日迄延期之儀は、先達て土藩後藤象二郎来訪、気付有之、至極尤之儀に付見込筋逐一詰問候処素より其策を持出候ても、幕府に採用無之は必然に付、右を塩に幕と手切れの策に有之、在京同藩之者は不残同意に付、於弊藩異義無之、裁力同心と申事ならば帰国之上国論一定仕、十日相立候はぎ直に出京、万端可申上と相約置候に付、象二郎再上を相待居候、万一土藩協同不得仕候得ば、即期を定め弊藩一手にて事を挙候心組に御産候
(柏村数馬『柏村日記』)
現代文にするとおおよそ以下の通りである。
「薩摩藩邸に居る兵千人を3分割し、うち一つは御所守衛を固め、倒幕派公卿を全員参内させる。一つは会津藩邸を襲撃する。残る一つは堀川にある幕府屯所を 襲撃する。次に、鹿児島から三千人の兵を大阪に送り、大阪城を占拠して大阪湾にある幕府軍艦を破壊する。そして江戸に居る藩兵千人と、水戸藩浪士などで甲 府城を占拠して江戸からの幕府援軍を阻止する。素より勝敗は予期できないが、弊藩が敗れたとしてもその時はまた後を継ぐ藩もあるでしょう。それを目当てに 事を起こすのです」
「弊藩のみでの討幕はしません。事を挙げた後、時宜によって将軍を討てとの綸旨が下るでしょう。これは同志の堂上(公卿)方から御内意を探索済みです。今 日まで延期したのは、先だって土佐藩の後藤象二郎が訪れて申したことが至極最もだったためで、その見込を逐一聞きましたところ、その策(大政奉還)を持ち 出しても幕府が採用しないのは必然のため、それを塩に幕府とは手切れするとの事でした。在京土佐藩士は残らず同意したため、弊藩において異議が無く、同心 ということであれば帰国の上国論を一定にし、十日後直ちに上京して万端申し上げようと約束したので、後藤の再上京を待っているところです。万が一土佐藩が 協同しなければ、直ちに時期を定めて弊藩のみで事をあげるつもりです」
このように西郷は挙兵の準備を整えつつ後藤の到着を待っていたが、9月3日に後藤が大阪に居た西郷の元を訪ねた際、兵を率いてこなかったため、後藤に疑念を持った西郷は9日に会談した際に薩土盟約の解消を告げた。
10月6日、西郷・大久保・小松の三人は、武力倒幕の大義を得るべく中山忠能・正親町三条実愛・中御門経之に対して討幕の宣旨降下を要請し、蟄居中の岩倉具視を交えて討幕の密勅の作成に取り掛かった。
14日、徳川慶喜は土佐藩の後藤象二郎が坂本龍馬とともに立案した建白書を受け入れ、大政奉還を宣言。同日、薩長両藩に対して正親町三条から討幕の密勅が降下された。西郷らにとって慶喜の大政奉還受け入れは意外な結果だったが、既に挙兵の決意を固めた西郷・大久保・小松は国元の挙兵反対派を封じて京都出兵を促すべく密勅を携え17日に京都を発ち、鹿児島に向かった。
26日、鹿児島に到着した三人は島津久光・茂久父子に謁見し、京都の情勢を伝え討幕の密勅を呈し卒兵上京を要求。密勅の効果もあり久光・茂久は兵を出すことを了承した。
11月13日、藩主茂久は三千の藩兵を率いて大阪に向け鹿児島を発ち、西郷もこれに随伴した。15日、龍馬と中岡が京都の近江屋で何者かに襲撃され龍馬は即死、中岡はまだ意識があり翌日には小康状態にまで回復したものの容態が突如悪化し血を吐いて死去。犯行は京都見廻組が有力視されている。17日、途中で立ち寄った三田尻で長州藩士や途中から加わった芸州藩の関係者等と共に挙兵後の作戦について協議した。
21日に大阪に到着、23日に入京。12月2日、西郷・大久保は後藤象二郎を訪問し、12月5日に挙兵すると告げた。後藤はその場では同意したが、後日延期を要請してきたため、最終的な決行期日は9日に持ち込まれた。
8日、作戦遂行上必須事項である岩倉具視に対する赦免が朝議で可決。翌9日の朝に朝議が終わり、二条斉敬・朝彦親王ら佐幕派公卿が御所から退出。10時頃、王政復古の文案を携えた岩倉が御所に入り、薩摩・土佐・芸州・尾張・越前五藩の兵が御所九門に押し掛け、守衛していた会津兵や桑名兵を退去させ、門を封じた。

王政復古・小御所会議

9日、岩倉が上奏した王政復古の文案を元に明治天皇は王政復古の大号令を発した。これにより朝廷・幕府を含めた旧体制の全廃と、それに代わる新政府の発足が宣言された。
夕刻から小御所にて新政府最初の会議が開かれ、岩倉・大久保・岩下方平ら倒幕派と松平春嶽・山内容堂・後藤象二郎ら公議政体派との間で、徳川慶喜の処遇に関して激論に及んだ。
途中休憩が挟まれた際、岩下が西郷を呼び寄せ、容堂が強硬に反論して岩倉が手こずっていることを伝えた。これを聞いた西郷は「短刀一本あれば片が付きもそ(このまま会議が紛糾してどうにもならなくなったらいっそのこと山内容堂をぶっ殺せ)」と伝え、それが回りまわって容堂に漏れ伝わったため容堂が軟化し、最終的に慶喜に対する辞官納地の要求が決定された。

岩倉具視。山内容堂の発言を逆手に取り黙らせた。

近代の黎明 -鳥羽伏見の戦い

辞官納地の要求を受けた慶喜は激昂する配下の将兵を抑え、大阪城に退却した。16日、慶喜は大阪城で諸外国公使を引見し、「一部の諸侯が幼主を奉じ、叡慮と称して私心を行っているが、外交権は引き続き自らにある」と宣言。旧幕府・会津・桑名の将兵に至っては「朝廷が自らの過ちを認め、二賊(西郷と大久保)を取り除け」と王政復古の大号令に全面拒否の構えを見せた。更にこの頃、討幕反対派の高崎左太郎が「薩摩藩で暴論を唱えているのは西郷と大久保だけで他は皆反対である」と公卿達に説いて回っていた。
徳川慶勝・松平春嶽・山内容堂ら慶喜に同情的な諸侯は辞官納地のうち、納地については諸侯との按分にするという妥協案に摺り替え、慶喜の上京と辞官後の議定就任まで取り沙汰されるようになっていた。朝廷内部でも西郷と大久保の強硬論が嫌気され、岩倉までもが弱気になり始めていた。
徳川氏を排除しない限り真の変革は成し遂げられないと考えた西郷は開戦を決意した。新政府軍は薩長土含め約五千(実際にはもっと少なかったという説もある)。しかも土佐藩は自藩を後藤象二郎とともに倒幕に引っ張った坂本龍馬がすでにこの世になく戦況によってはいつ裏切るか分からない状態であった。対する旧幕府軍は約一万五千で、予備兵力も含めれば三万は居たとも言われ、更に大阪湾には国内最強の海軍が控えていた。緒戦の敗北を覚悟した西郷は、負けた場合に備えて明治天皇を西国に動座させて天下に号令を下すことまで考えており、12月末、既に開戦は秒読み段階に入っていた。
28日、大阪城の慶喜の元に江戸から使者が遣わされた。曰く、江戸で薩摩の手の者たちが騒乱を起したため、旧幕府の意を受けた庄内藩が三田の薩摩藩邸を焼き払ったとの事だった。これは前年の9月から10月にかけて西郷が関東に放った薩摩の御用盗、伊牟田尚平・益満休之助・相楽総三ら浪士達によって引き起こされたもので、これを聞いた大阪城の将兵達の怒りが頂点に達し、慶喜も老中も抑えることが出来なくなっていた。ここで幕府は西郷ら薩摩藩軍の挑発にまんまと乗ってしまったのである……。
慶應4年(1868年)1月1日、討薩の表を掲げた旧幕府軍は鳥羽・伏見両街道から北上。対する新政府軍も京都から南下。3日、街道で鉢合わせした両軍が幾度か交渉した後、夕方5時頃に進軍を強行しようとした旧幕府軍に対して新政府軍の薩摩藩兵士の一人・椎原小弥太(西郷の母方の親族に当たる人物)が砲撃を加え、これが開戦の狼煙となった。
士気や戦術で勝る新政府軍が開戦初日から優勢となり、第一報が伝わると朝廷の空気が一気に変わった。

戊辰正月三日、幕兵鳥羽伏見両街道に廻り、戦端既に開け、捷報一度達するや、宮中疑懼の念変じて歓喜の声となり、前には西郷大久保の宮中に在るや、蛇蝎のごとく近づくものなかりしを、陸続来りて面晤を請う者多く、却ってその煩に堪えず只今帰邸せりと西郷の話せしことあり。且語って言う、鳥羽一発の砲声は百万の味方を得たるよりも嬉しかりしと余輩に向かって一笑せり。当時宮中の形勢を想像するに足れり
(『伊集院兼寛手記』)

戦勝によって朝廷は西郷・大久保に有利に傾き、翌4日には仁和寺宮嘉彰親王が征討大将軍に任命され、錦旗を賜わられて出陣。周辺諸藩も旧幕府軍を見限り始め、敗色が濃くなった6日、慶喜は一部幹部のみを連れて軍艦に乗船して江戸に逃亡。主君の逃亡を知った将兵達は愕然とし、旧幕府軍は総崩れとなった。10日、嘉彰親王は新政府軍によって接収された大阪城に入城。鳥羽・伏見の戦いは新政府軍の予想外の圧勝で終了した。

辞官納地に抵抗した最後の将軍・徳川慶喜

無血開城

1月末、江戸に逃亡した慶喜から徳川慶勝・松平春嶽・山内容堂らに対して隠居・謹慎の嘆願書が届けられた。これを知った西郷は反発し、厳罰論を主張した。

慶喜退隠の嘆願、甚以て不届千万。是非 切腹迄ニハ参り申さず候ては相済まず(中略)静寛院と申ても矢張賊の一味と成りて退隠ぐらいニて相済候事と思し召され候はゝ致方なく候に付、断然追討あら せられ候事と存じ奉り候
(『慶応四年二月二日 大久保利通宛 西郷隆盛書状』)

2月3日、新政府は「慶喜以下の賊徒を親征する」と宣言、臨時の軍司令官として東征大総督を設置し、9日に有栖川宮熾仁親王を任命。西郷はその参謀となり、13日、熾仁親王よりも先に進軍を開始した。
25日、駿府で熾仁親王の到着を待機していた西郷の元に、勝海舟からの書状が届いた。勝はこの時陸軍総裁に任命され、官軍との交渉を慶喜から任されていた。

「徳川慶喜が大阪を引き払って江戸に戻った趣意は朝廷に恭順することにある。然るに朝廷は征討の兵を挙げて江戸に攻め込もうとしているが如何なるお考えか。仮に徳川家が抵抗しようと思えば出来ないわけではない。だが徳川家はこの挙には出ない。出ない事を恭順を示す証拠として見て頂きたい。兎も角、征討軍は箱根以西に留めて頂きたい。でなければ慶喜の恭順も我々の意も遂げられず、暴徒が沸騰するかもしれません。何卒箱根は越えないで頂きたい。勝安房」

これを読んだ西郷は各人にその文面を見せながら顔面火のようになって怒っていたと同行していた官軍士官が後年語っている。

「貴殿らはこの書状をどうお考えでごわすか?実に首を引きぬいても足らぬのは勝ではごわはんか。官軍をどう見ているのでごわしょうか。恭順の意があるなら官軍に注文をつけることはないはずではないでしょうか。勝の譎詐(けっさ)(嘘をついて人を騙すこと。ほら吹き)は今に始まったことではありません。勝は申すまでも無く、慶喜も首を引き抜かねばなりません。いわんや箱根を前にしてここに滞在するは最も良くないことと思って居ります」

と言い、「然らば明日より直ぐさま東征にかかるのでその覚悟で出陣なさるよう」と士官達に伝えた。
だがこの2月に大久保利通と岩倉具視との間で取り交わされている文書に
一、恭順の廉を以て慶喜処分の儀寛大仁恕の思食しを以て死一等を減ぜらるべき事
一、軍門へ伏罪の上備前へ御預けの事
一、城明け渡しの事、但し軍艦銃砲相渡し候勿論の事
という寛典論がやり取りされており、当然これを知らないはずの無い西郷も既に内心では場合によって寛典論もあり得ると考えていたと思われる。

3月6日、江戸城への総攻撃の日程が15日に決まった。その3日後の9日、駿府の西郷の元に慶喜の意を受けた山岡鉄太郎が訪れ、面会を求めた。この際山岡は勝から受け取った書状を西郷に渡した。

無偏無党、王道堂々、今、官軍鄙府に迫ると雖も、君臣謹んで恭順の礼を守るは、わが徳川の士民と雖も、皇国の民たるを以ての故なり。且つ、皇国当今の形勢昔時に異なり、兄弟牆にせめげども、その侮を防ぐの時なるを知ればなり。然りと雖も、鄙府四方八達、士民数万来往して、不段の民、わが主意を解せず、或いは此に乗じて、不羈を計るの徒、鎮撫尽力余力を残さずと雖も、終にその非なし。今日無事といえども、明日の変、誠に計り難し。小臣殊に鎮撫、力殆んど尽き、手を下すの道なく、むなしく飛丸の下に憤死を決するのみ。然りと雖も、後宮の尊位、一朝此の不測の変に到らば、頌民無頼の徒、何等の大変、牆内に発すべきや。日夜焦慮す。恭順の道是より破ると雖も、如何せんその統御。道なきことを。参謀諸君、能くその情実を詳にし、その条埋を正さんことを。且つ、百年の公評を以て、泉下に期するにあるのみ。鳴呼、痛かな。上下道隔る。皇国の存亡を以て心とする者少なく、小臣悲嘆して訴ざるを得ざる所なり。その御処置の如きは、敢て陳述する所にあらず。正ならば、皇国の大幸。一点不正の御挙あらば、皇国瓦解。乱臣賊子の名目、千載の下、消ゆる所なからんか。小臣推参して、其の情実を哀訴せんとすれども、士民沸騰鼎の如く、半日も去る能わず。唯愁苦して鎮撫す。果たして労するも其の功なきを知る。 然れども、其の志達せざるは天なり。此の際に至り、何ぞ、疑を存せんや。誠恐謹厳」

山岡が勝の手紙を渡し、慶喜の恭順と寛大な処置を願い出ると、西郷は総督府で協議の後、いくつかの条件を提案した。

・江戸城を明け渡すこと
・城中の者を向島に移すこと
・徳川慶喜を備前藩に預けること
・兵器を全て明け渡すこと
・軍艦を全て明け渡すこと
・徳川慶喜に加担した者を厳重に取り調べること
・暴徒が手に余る場合、官軍が鎮定する
条件を読んだ山岡は、慶喜を備前藩に預けることだけは承諾せず、
「西郷先生!その処罰の対象があなたの敬愛なさる薩摩の殿様(島津斉彬)であれば何としますか!」と西郷に処罰を緩めるよう説得した。その主君を重んじる態度に感服した西郷は備前藩預けの条文を保留扱いにした。
役目を果たした山岡が江戸に戻り勝や慶喜に状況の好転を報告すると一同安堵したが、まだ油断できないと考えた勝は、もし本当に総攻撃が開始された場合、火消しや博徒など荒くれ者達によって江戸市中に火を放つ焦土作戦を行い、江戸の市民達を船で避難させる準備を始めた。
11日、西郷は江戸に到着。13日に高輪の薩摩藩邸に入った。この日、勝が西郷の元を訪れ、第一回目の会談が行われた。この時の会談ではあまり突っ込んだ話は行われず、結論は翌14日に持ち越された。
翌日、再度西郷と勝の会談が行われ、勝は山岡が持ち帰った条件に関する回答として以下の内容を提示した。
・慶喜は隠居の上、水戸で謹慎する
・城明け渡しについては手続き取り計らった後、即日田安家へ御預けされる事
・軍監・武器は残らずまとめておき、追て寛典のご処置仰せ付けられた際に相当の員数を残した上で余った分は引渡す
・城内住居の家臣は城外へ引移す
・慶喜の妄挙を助けた者については、格別の御憐憫をもって御寛典処し、死刑に拘らないように
・暴徒の鎮定については精々行き届くように致し、万一暴挙が発生して手に余るようであれば官軍に鎮定して頂く
西郷は、自分一人の一存では決められない為、一旦総督府に戻り協議し、それで決まらなければ京都まで戻って協議すると回答。その結論が出るまで総攻撃は中止しましょうと約束した。
勝から受け取った回答を携えた西郷は、15日に江戸を発ち翌日駿府の熾仁親王に謁見後、京都に向かった。19日に京都に到着。20日に勝の嘆願を朝廷で協議し、いくつかの修正が加えられたが概ね勝の望んだ内容が聴許された。
28日、再び江戸に戻り、勝と最終的な調整を行い、4月11日に江戸城の明け渡しが決定。予定通り実施された。ここに江戸城無血開城が達成され、徳川幕府は終焉を迎えた。

手紙で主を思う心中を表現し西郷を説得した幕臣の山岡鉄舟

江戸を戦火から救った勝海舟

明治時代

その後西郷は上野戦争に続く一連の内戦に従軍しては鹿児島に戻るという行動を繰り返す。長岡戦争では末弟の吉二郎が戦死し、もう一人の末弟の信吾(従道)も重傷を負い一時生死の境をさまようがかろうじて一命をとりとめた。
翌明治2年、内戦が終結すると新政府への出仕を辞退して鹿児島に戻り、妻子や奄美大島で知り合った川口雪篷、従僕の熊吉と共に生活する隠居生活に入った。だが時代はまだ西郷の力を必要としており、岩倉や大久保の招請で止む無く新政府に出仕。廃藩置県という倒幕に続く大変革の後ろ盾となった。
明治維新という日本史、いや世界史上稀に見る大事業の大立者となった西郷だったが、明治改元以後最愛の弟を亡くしたこともあり虚ろな心境を度々口にするようになっていった。曰く「死んでいった者達に申し訳ない」「鹿児島に帰りたい」。
最後にして最大の武士、西郷隆盛の後半生がここから始まった。
明治4年(1871年)、西郷は木戸や大久保に乞われ参議に就任し、親兵を率いて廃藩置県に携わった。岩倉具視らの遣外使節団の出発後に留守政府責任者を任され、学制を制定し、陸海軍省を設置して陸軍元帥にもなった。しかし、岩倉たちが海外での条約改正に尽力中、留守政府のメンバーである元長州藩出身の山県有朋が汚職事件を起こし、同じく元長州藩士の井上馨が岩崎弥太郎設立の三菱との癒着を指摘され、政府の腐敗が目立つこととなった。そこへもってきて帰国した岩倉たちと対朝鮮外交に関する「征韓論」が元で政府内での意見が二分され、大久保や岩倉ら内治派と対立しついに明治六年の政変で政府を辞し鹿児島へ下野した。このときには江藤新平や板垣退助、後藤象二郎や副島種臣も下野している(明治六年の政変)。この頃になると西郷はそれまで結っていた髷を切り落とし坊主頭にしている*5
鹿児島では幼馴染の大山綱良からの資金の援助*6により私学校を設立して勢力を増し、独立勢力と化した。時を同じくして、各地で不平士族の不満が高まり、士族達の蜂起が相次いだ。これに対し西郷は、部下達に最後まで蜂起を否定した。江藤新平が直々に西郷邸に出向き、加勢の要請をしたときもこれをきっぱりと拒否している。
しかし、鹿児島駐屯軍が弾薬を勝手に運び出したことで私学校生徒達が暴発し軍隊を襲撃して弾薬を奪還。さらに東京の大警視・川路利良が同じく薩摩出身の密偵・中原尚雄を潜入させていたことが判明。このとき中原は西郷と同時期に政府を辞し私学校に所属していた私学校生徒からリンチを受けた。ここで私学校はまんまと政府の挑発に乗り、政府が薩摩の不平士族を一掃する大義名分を作ってしまったことになる。この報を聞いた西郷は「おまはんたちは何ちゅうこつばしちくいやったか」と生徒を叱責し桐野は「しまった!」と絶望の色を見せ叫んだという。ついに明治10年(1877年)、西郷は私学校生徒と士族達に押されて挙兵。「おいの体はおまはんらに差し上げもうそ!」日本史上最後の内戦である西南戦争が勃発した。
「政府に尋問の此れ在り」。これは何故自分たちに攻撃を仕掛けるのかという西郷の真意であった。西郷は九州での戦闘の後東京に赴いて明治天皇に直訴する計画であった。
熊本城を目指して進軍したが、苦戦の間に谷干城率いる政府軍が到着し撤退。田原坂(熊本県)などで激戦するも敗北を重ね、乾坤一擲を狙った和田峠(宮崎県)の戦いで大敗し可愛岳から三田井を経由して鹿児島へ敗走。城山の戦いで銃弾を受け負傷し死を悟った西郷は「晋どん、もうここらでよか」と別府晋介に言い残し己が首を刎ねさせ自らは皇居の方角を向き切腹した。享年51歳。

西南戦争のルート。
西郷は望むと望まざるに関わらず士族にまつり上げられ彼らの代弁者となって新政府に反旗を翻し最期を遂げた。
当初、大久保はまさか盟友の西郷が挙兵するとは全く考えていなかったという。なぜなら西南戦争までは西郷は士族の反乱にどちらかというと批判的な目を向けていたためである。しかし、その知らせが本当だと知るや大久保は静かに涙をこぼしながら落ち着きなく部屋の中をぐるぐると歩き回ったという。
また、西郷戦死の報を知るや「おはんの死とともに新しか日本が生まれる。強か日本が」と涙を流し盟友の死を悼んだ。
ちなみに、佐賀の乱を起こした江藤新平は捕縛された後斬首のうえ梟首となったが西郷は梟首にならなかった。江藤は軍人でなかったため梟首されたが西郷は陸軍大将であったため軍律が適用され梟首とはならなかったのである。

桐野利秋。西郷を慕って私学校に入学。

篠原国幹。桐野と同じく西郷を慕って私学校に入学。

別府晋介。西郷を介錯したあと敵陣に突撃し戦死。

盟友の死の半年後凶刃に斃れた大久保利通。
西郷の死を多くの人物が悼んだ。勝海舟は「濡れ衣を 干そうともせず 子供らが なすがままに 果てし君かな」という短歌を詠んでいる。また、元長州藩士の陸軍大将・山県有朋は以前山城屋事件という汚職事件を起こし政府を免職されようとしていたがすんでのところで山県の政治の有能さを買っていた西郷のとりなしにより免職は免れた。西郷が鹿児島で決起した際、山県は鎮圧を命ぜられるが自らの部下に「俺たちの中に誰が西郷さんにお世話にならなかった者がいようか」とこぼしておりその時部下は皆黙り込んでしまったという。やがて西郷の自決の報を聞くやその場に泣き崩れ何度も西郷の名を呼びながら詫びたという。
しかし、西郷の他人に歯に衣を着せず物を言う性格を嫌っているものもいた。大蔵省の井上馨は三井との癒着が取り沙汰されていたが、ある時政府高官の飲み会で西郷が「三井の番頭さん、一杯やりもんそ」と声をかけた。これは井上と三井の癒着を皮肉ったものでありこれに気づいた井上は西郷の前では何食わぬ顔で通したものの内心では激しく憎んでおります後に西南戦争が起こると「少しも容赦せずどんどんやっつけろ。西郷をぶっ殺せ」(意訳)と仲間の伊藤博文に手紙を送ったという。
また、西郷を嫌っていた人物に島津久光がいた。久光は当然自分が日本新政府の頂点に立ってしかるべきであると考えており側近に「俺はいつ将軍になれるんだ?」と問うていたという。しかし、自分の思惑とは反対に新政府の改革が進んでいき廃藩置県が断行された。子の忠義は華族に列せられたのに対し久光は藩主ではなかったため太政大臣に任ぜられた。この不当な扱いに激怒し庭に何発も花火を打ち上げ怒りを晴らしたという。西郷が下野し私学校を設立した際には当時新政府に仕えていた大山綱良を呼び出して西郷の真意を問わせたという。やがて西南戦争が勃発するわけだが久光は中立の立場を取り続けた。西郷は昔から大嫌いだったが自分を不当に扱った新政府も憎かったのであろうと思われる。

逸話

●死後しばらく逆賊の大将とされたが、大日本帝国憲法発布に伴う恩赦により地位を回復、正三位を追贈され、嫡子の寅太郎は侯爵となった。
●西郷は喫煙中、煙管で額の右の生え際をかく癖があった。そのため、その部分だけ禿げ上がっており、各種の肖像画や錦絵にもしっかり再現されている。
●喫煙者だが下戸。大の甘党で、「とんこつ」という薩摩の豚肉料理が大好物であった。この食生活のため晩年は肥満していた。明治天皇は西郷の肥満っぷりも心配しており、ドイツ人医師をつけてまで健康管理に気を使ったという。西南戦争の頃にはダイエットに成功していたと見られ、当時のフランスで西南戦争について報じられた新聞に西郷隆盛の絵が記載されたが面長で痩せている白髭の初老の男性といった風貌である。
●明治天皇の教育者として2年間厳しく務め、明治天皇も飾らない彼を父親のように慕った。明治天皇の即位当時は反抗期真っ盛りの頃で他の元勲の言うことに反抗して困らせていたが西郷がこれを見かねて「そのようなことでは昔の身分に返っていただきますぞ(天皇職を他のお方に譲ってもらいますぞ)」と叱ったところ大人しくなったという。
●西南戦争の時の明治天皇は京都御所にいたが、執務を取らず後宮に籠もり、終わる見通しがつくまで東京に帰らなかった。西郷が戦死したことを知った際は「朕は西郷を殺せとは言わなかった」と怒りと悲しみの表情を見せたと言う。
●徳之島に島流しにされた頃に、フィラリアに寄生されて象皮症を患い、陰嚢が肥大化していた。これにより、西南戦争後政府軍は西郷の首のない死体を本人のものと断定した。また、配流先の沖永良部島ではフィラリアが悪化してガリガリに痩せて体がかなり衰弱してしまい、その時の様子を表したブロンズ像が沖永良部島に残されている。
●狩猟や漁を好み、山野を2匹の洋犬(名はそれぞれツンとゴジャといった)を連れてよく兎狩りに駆けた。上野の銅像も犬を連れているし肖像画の中には犬を連れた西郷を描いたものが複数ある。
●生存説も実しやかに噂され、行方不明になった戦艦の畝傍とともに帰ってくるとも、ロシアへ逃げ延びたとも、星になったとも言われ、火星を「西郷星」と呼ぶ時期もあった。当時の新聞によれば、地球に火星が接近しその火星の中に陸軍大将の正装の西郷を見た人が多くいたという。当時の錦絵にも望遠鏡で火星の中に写った陸軍大将の軍服姿の西郷を見て大騒ぎする情景が描かれている。また、当時のロシアの皇太子ニコライ2世とともにやってくるという情報が飛び交い、西南戦争で勲章を授与されていた警察官の津田三蔵は、もし西郷が帰還すれば自分の勲章も剥奪されるのではないかと危惧していたということでニコライ2世に斬りかかった*7とも言われている。

西郷星を描いた錦絵
●西郷の本名は「西郷隆永」であり隆盛は父親の西郷吉兵衛の諱である。ではなぜそんな間違いがまかり通ってしまったかというと西郷の親友の吉井幸輔(友実)が政府に誤って父の諱を届け出てしまったのである。しかし西郷は別に吉井を責めることはなく終生その諱で通したという。
弟の従道はこれまで「つぐみち」と呼ばれたが実のところは「じゅうどう」と読むことが近年判明している。彼の場合部下に政府への改名の届け出をさせる際「隆光(りゅうこう)」と名前を届け出させるつもりであったが薩摩弁の訛りにより「じゅうどう」と聞き間違えられ「従道」と名乗ることになった。
●西郷の晩年には士族の反乱が相次いでいた。氏族の反乱の首謀者は皆西郷が加勢をしてくれるものと思っていたが西郷はこれを固辞している。佐賀の乱で江藤新平が命からがら敗走中、西郷邸を訪れ加勢を頼んでいるが西郷は「(おい)の言うとおりになさらんと当てが違いもすぞ」と言いこれを拒絶している。
そういう話があるだけに大久保利通は西郷が蜂起したという事実を信じることができず、それが本当だったと知ると部屋の中をぐるぐる歩き回り「そうであったか」と言いながら涙をこぼしたという。

肖像

冒頭に掲げた画像は西郷隆盛の肖像画を写真に撮ったもので真正写真ではない。西郷の写真については西郷隆盛の写真に詳しいが「これぞ西郷の写真」と断定できるものはまだ一枚も発見されておらず、西郷の風貌を今に伝えるのはイタリア出身のお雇い外国人のキヨソーネの手による肖像画や西郷と面識のあった複数の人物による肖像画である。
また、上野の西郷の銅像は着流し姿に犬を連れて兎狩りに行く姿であるが銅像の除幕式に参列した西郷の妻・いとが「アラヨウ!内んしはこげんお人じゃなかったこてえ!」(まあ!うちの旦那はこんな人じゃなかったのに!)と叫んだと伝わりそこから「銅像は生前の西郷を模したものではない」と言われるが実際の真意は「うちの旦那は人前で着流しなんていうそんなみっともない格好はせず常に正装で出迎えたりするほどの品のある人だった」という意味で叫んだという。
また、西郷への民衆の人気は高く西郷を描いた錦絵が数多く出回っており、真正写真が発見されていないことも相まって髭面で痩せていたりあるいは太っていたり、はたまたチャコールグレーの髪で標準体型であったり様々である。

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*1 死因は通説ではコレラとされるが当時コレラはすでに薩摩では終息していたため実父にして久光派の斉興に毒殺されたという噂が流れた
*2 藩主は久光の子の茂久が就任していたため久光は国父となり薩摩藩の実験を握った
*3 このときの藩主は敬親の養子の元徳であったが若年であるため敬親が実権を握っていた
*4 自分の藩をへりくだって言う言葉
*5 下野の前年に渋沢栄一と戊辰戦争の折佐幕派であった相馬藩の救済を要請するために面会しており、渋沢の証言によるとその頃はまだ髷を結っていたとある
*6 西南戦争後、賊軍に資金を援助して内戦に加担したと言う罪で逮捕され斬首
*7 大津事件