西郷隆盛の写真

Last-modified: 2021-02-25 (木) 19:43:39

概要

幕末から明治初頭にかけて活躍してきた元勲や志士、将軍や幕臣らの姿は現在写真で多く残されている。しかしこの中にただ一人確たる写真が存在しないと言われる元勲がいる。西郷隆盛である。面が割れることで暗殺されるのを恐れていたという話もあり、西郷は写真を嫌っていたという説まである。それは筋金入りで明治天皇から写真の提出を頼まれたときも西郷はこれを固辞している。
しかし「一枚は撮ってもらっているだろう」という考えを持つ者も中にはいて「西郷写真」は幾度も発見され幾度も否定されてきた。本稿ではこれまで西郷が写っているとされている幕末から明治に撮影された写真や西郷を知る人物の証言を丁寧に検証する。
教科書などに掲載される西郷隆盛の肖像画。お雇い外国人のキヨソーネによって描かれたもので近親者の証言を元に実弟の西郷従道と従兄弟の大山巌の顔を組み合わせたいわばモンタージュ画である。その後日本人の手によって西郷の肖像画は多く描かれているがこのモンタージュ画が素地となっている。なお、明治後期にはこの肖像画を写真撮影して販売することもあった。

フルベッキ群像写真


フルベッキ群像写真。合成写真だと騒ぐ輩もいるが本物の写真だ。詳細はフルベッキ群像写真の項を確認されたし。
西郷写真でまず話題に昇るのがこのフルベッキ群像写真である。この写真の被写体が幕末の志士ではなく佐賀藩の学生であることはすでにフルベッキ群像写真の項で述べた。しかしここで1つ疑問が残ってしまう。写真中の黒マントを羽織った顔のごつい男が誰であるかをはっきりと述べることができないのだ。
それに実は西郷には何をしていたかが分かっていない空白の期間が1867年(坂本龍馬暗殺より少し前)から数ヵ月間あり、その間に長崎に行くことも可能だったのでは…?とも考えられる。
何より竹の鞭を持っていることが西郷であることの証拠だという者もいる。竹の鞭は権力者の印であり西郷もこの竹の鞭を持てる立場にあったというのだ。また、西郷は黒マントを羽織っていることもありそれは現存するが其のマントによく似ているのである。それに西郷は幼少の折の喧嘩で右腕の腱を切ってしまい其の負傷は終生なおらなかったという。フルベッキ群像写真中の黒マントの男も其の部分を隠すように写っているのだ。竹の鞭も刀が握れなくなったせいで持つことになったという見識もある。しかしこれらから西郷が写っているとするには弱い。西郷の真正写真がない以上鑑定すら出来ないからだ。
西郷が写っているという証拠は、この写真に写っている佐賀藩士の江副廉蔵(えぞえれんぞう)の息子の妻君が西郷や大久保利通、木戸孝允や岩倉具視が写っていると述べた、ということらしいが実はそれは捏造であったことが慶応大学准教授の高橋信一氏により判明し鑑定はより困難を極めている。

これまで流布していた「ニセモノ西郷写真」

西郷写真の嚆矢は、西南戦争頃に写真屋で洋服姿の男性の写真が販売されたことによる。
永山弥一郎。西郷と親交が深く、戊辰戦争にも参戦している。初めは西郷が下野してからしばらくは政府の役職に就いていたが政府のやり方に嫌気がさし下野してからは私学校の職員として働く。後に西南戦争で壮絶な戦士を遂げた。
この写真は信用度を増すために「カゴシマ西郷隆盛」等と焼き印がつけられてきたが実際は西郷と同じ薩摩藩士の永山弥一郎である。
永山は西郷に風貌がよく似ていたため影武者として行動しており其の逸話は民間にも浸透していた。写真屋はそこに目をつけ永山の写真を西郷の写真として販売したのだ。また、当時はインチキ写真を売り付ける「ドリック屋」なるものがあり西郷の写真として永山の写真を販売すれば西郷の人気にあやかって儲けになると考えた連中も多かったことも原因の1つであろう。
また、ある京都の写真屋では伏見稲荷神社の神主とその親族の写真を西郷や西南戦争を共に戦った桐野利秋や篠原国幹と偽って高額で売り付けていた。被写体となった神主が写真屋を訪れ自分や親族が西南戦争を戦った人物ということにされ写真が売られているということを知り驚き呆れたという記録が残る。

岩手県で発見されたこちらの写真にも西郷が写っているとされる。
こちらの写真には以下のように裏に書き込みがあった。
西郷隆盛 隆道
西郷吉之助
小保内 会舗社 ●●(判別不能)
会舗社とは当時の学校で北の松下村塾という異名があった。小保内(おぼない)とは岩手県にある珍しい名字である。今のところは写真中の誰が小保内であるかは不明である。
右端の男性は永山弥一郎で既存の写真から検証してもほぼ間違いない。そして真ん中の背の高い痩せ型の背広姿の男性が西郷隆盛ではないかと言われる。この写真が撮影されたのは明治8年である。この頃西郷はダイエットが功を奏し痩せていた。
そして岩手県では政府転覆が企てられそのときは政府をすでに離れていた西郷を担ぎ出してクーデターを起こし政府を潰してしまえという動きがあったがその計画が露見してしまい関係者が全員逮捕されることとなってしまった。この逸話は西郷の人気が日本中に広まっていたことを表すが、このころ西郷が岩手県を訪れたという記録はない。
なぜ鹿児島から遠くはなれた東北で西郷は人気だったのだろうか。それは西郷が戊辰戦争において本来ならば反逆者として打ち首に処される庄内藩主*1の命を救ったからである。このときは西郷ではなく部下の永山弥一郎が戦後処理にあたったがその指示が西郷によるものであったと知った東北の人々は泣いて感謝し中には西郷と殉死しようとする者も現れた。事実西南戦争においては兄弟で西郷軍に志願した者もいた(兄弟ともに戦死)。

こちらの西郷写真は一見すると本物に見える。しかしオリジナルはリトグラフ(石版画)でそれを写真として撮影したものである。
リトグラフを何度も複写すると線が薄く見えにくくなり本物の写真のように見えてしまう。故にこの石版画複写を真正写真と勘違いする人は多かった。このリトグラフの複写には背広を着用した蝶ネクタイ姿のものも存在する。ちなみに、明治天皇の生涯を纏めたアルバムにも西郷隆盛の写真として掲載されている。

こちらの写真は秋田県角館市の名家・青柳家に保存されていたカルタ写真で、多くの元勲たちの写真を桐箱の中に納めその中に大礼服を着用した壮年の面長の男の写真があり、その写真のみ裏に書かれた名前が不自然にも削られていたことから西郷の写真ではないかと騒がれたが実際は法曹界に名を残す尾崎忠治であることがわかった。尾崎は土佐藩士で坂本龍馬とも親しかった人物の一人である。大礼服が尾崎の写ったもう一枚の写真から同じものであると判明したことにより青柳家の西郷写真騒動の決着は着いた。ちなみに、尾崎が被写体となっているこの写真は1880(明治13)年に明治天皇の命により元勲の写真を撮影しアルバムにした『御下命写真帖』(後述)に記載されているものと同一である。撮影所は東京写真印刷局で、当時そこで撮影された薩摩藩の黒田清隆などの写真が複数枚コピーされ土産物として出回っていた。

スイカ西郷写真


西郷をよく知る福井藩主の松平春嶽が所有していたと伝わる。裏には「西卿吉之助」と書き込みがあったらしい。また、鹿児島でも複製品が土産物として販売されたが「西郷隆盛 其ノ他ハ 勇士」といういい加減な書き込みがあったという。
次いで紹介するこの写真も西郷が写っていると言われる。
右から二番目の丸顔の男が西郷であるとされ、「スイカ西郷写真」としてフルベッキ群像写真同様に好事家にはよく知られた写真である。当然、この写真には否定的な意見もあり丸顔の男を西郷ではなく医師の小田原瑞苛*2であるとも言われる。小田原は顔が丸いためスイカというあだ名があった。

元々この写真は明治天皇や近藤勇を撮影した写真師・内田九一によって東京の九一万寿堂写真館にて明治2年に撮影され幾度も被写体が同定された。最初は左から平野国臣、西郷隆盛、桐野利秋、不明、伊藤博文、大久保利通とされたり*3あるいは最も左の人物が坂本龍馬、伊藤博文とされたりしたが現在は「丸顔の男=西郷隆盛」説を推す人たちからは左から大久保利通、西郷隆盛、島津忠欽(ただたか)珍彦(うずひこ)(いずれも島津久光の子息)、公家侍の小野熊三郎、伊藤博文が写っているとされている。
一時はこの写真を真正の西郷写真として教科書に掲載しようという計画が持ち上がるほどであったが、昭和30年代に鹿児島県の郷土史家により左から橋口半五郎(島津家家臣)、小田原瑞苛、島津忠欽、珍彦、忠斉(ただなり)、不明とされて以来その説が主流となっている。小田原瑞苛と断定したのは小田原を知っていた村の老女の証言による。
丸顔の男を西郷とする根拠は右端の侍が丸顔の男の肩に手を親しげにおいていることと丸顔の持っている刀が薩摩造りの太刀であることである。医者であればそんな大ぶりの刀を持っているはずはない、ということだろうか。それに丸顔の男性の腹が出ていることで手が膝についていないことも根拠の1つだ。何より、西郷は福耳が特徴であったという証言があり、丸顔の男の耳がその特徴に一致する。尤も、前者は右隣の男を勝手に大久保利通と考えているだけに過ぎないのだが。
しかし、この男性を小田原とした場合、彼の墓碑にある「終生鹿児島を離れることがなかった」という文言と矛盾してしまう。それに、小田原の肖像写真が他にないため比較による鑑定もできないのである。
だが、この写真について近年判明していることがある。それは右端の侍の正体は大久保利通であることだ。
これまで右端の侍は大久保だ、いや橋口半五郎だと2説に割れていたのだが最先端の写真鑑定方法により大久保利通と判明した。既存の大久保の写真と顔のパーツが殆ど一致するという写真鑑定でもまれなケースであった。しかし、これだけで丸顔の男を西郷とするには弱いのもまた事実である…。

薩摩藩士13人写真


右端の大男が西郷隆盛とされる。左端は弟の従道か。写真の中心人物が島津久治。加治によりこの写真には若き日の東郷平八郎や伊東祐之が写っていると判定されたが当時の記録には彼らが長崎にいたことなど何一つない。
この写真は近年、小説家・加治将一(かじまさかず)によって西郷や後の陸海軍将校が写っているとされた写真である。
被写体は長崎に出向いた島津久光の子息・久治と若き薩摩藩士らであり、撮影場所は長崎のスタジオで慶応元年に撮影され、初出は大正末期に出版された「日本歴史写真帖」である。
その後戦後になり「維新と薩摩」という書籍に掲載され、そこには島津久治と薩摩藩士が長崎に出向いて撮影したとされている。尤も、加治はこの「維新と薩摩」において比定されているメンバーを「胡散臭い」と頭ごなしに否定しまっているが。
加治は右端の腰に手を当てて写っている大柄の男を以下の証拠から西郷であると断定した。
・大柄であること
・負傷した右腕の腱を隠すように写っている
・ガリガリに痩せた体躯だが写真の撮影された慶応元年は西郷が配流先の沖永良部島から帰還した時期と一致する
だが、この写真にも西郷は写っていない。そもそも加治が人物断定に使用したという「宮之城史」なる書籍は存在せず、また当時長崎にいた薩摩藩士の記録が残っているがそこに西郷の名はなかった。また、加治が同定した人物の名前のうち一人しか記録と一致するものはなかった*4
現在は西郷ではなく島津家家臣の床次正義(とこなみまさよし)が写っているとされている。

明治天皇行幸の際造幣局前で撮影された写真


左端の錦旗を持った人物が西郷ではないかとして話題になった。寝そべった犬がどこかユーモアを感じさせる。
お次は明治五年の明治天皇行幸の折りに大阪の造幣局で内田九一によって撮影された写真である。この中にも西郷が写っているとされる。
元々この写真もまた写真研究家たちには周知のしゃしんであったが2018年初夏にニュース番組で取り上げられ、大河ドラマ*5にあやかり一躍万人に知られるところとなった。
この写真に帽子で顔の隠れた錦旗を持っている兵士が左におり、その兵士がまさに西郷だというのだ。当時の記録でも西郷が錦旗を持参し随行したことが残されている。また、写真の左端では犬が寝そべっており西郷が犬好きであったというエピソードと絡めてその錦の旗を持った兵士が西郷であるとみなす場合もある。
専門家の意見は「背が低すぎる」とのことで西郷とは別人ではないかという意見が多数。
しかしこれを西郷と断定する意見もある。
根拠としては
・明治五年にはダイエットに成功していた
・錦旗を持って明治天皇に随行したという記録はある
・当時の軍服はまだ正式に決定していたわけではなく勲章があったりなかったりした
・右手がだらんと下がっており、これは幼少期の喧嘩で右腕の腱を切ってしまったことによる
と多く上がっている。結局このように意見が割れてしまっているがいずれの意見も辻褄が合う。
また、人相がフルベッキ群像写真の黒マントの男に似ているという指摘もある。
西郷は以前島津久光の怒りに触れ沖永良部島まで流されたがそこで風土病のフィラリア(象皮病)に罹患し、許されて本土に戻る頃には別人のようにガリガリに痩せていた。戊辰戦争後は栄養をつけすぎて逆に激太りしてしまったという。明治天皇はこれを「これは病的な肥満である」とひどく心配し典医のドイツ人医師のホフマンに西郷を診察させ、カルルス塩という医薬品を処方させた。そしてできるだけ脂肪分の多い食材を避け日々運動をするよう明治天皇が直々に西郷に命じた。これにより西郷はダイエットを成功させ、西南戦争の頃にはほぼ普通の体型に戻っていたようである。
明治天皇は西郷を自らの父のように慕っていたという。
例えば乗馬の訓練を西郷に手ほどきされた少年期の明治天皇が落馬し苦痛に思わず泣いてしまったが西郷があえて厳しく「君主たるものこれしきで泣いてはなりませぬ」と諭したことがあった。
また、少年期の明治天皇が反抗期に突入し臣下のいうことに逆らってばかりいた頃にも西郷は「そんなことでは昔の身分に返しますぞ」*6と一喝したという。それ以来明治天皇の反抗期は鳴りを潜めたという。
西郷への明治天皇の慕情は西南戦争で西郷が戦死してからも変わらず、西郷死すの報を聞いた明治天皇は「朕は西郷を殺せとは言わなかった!」と嘆きに嘆き、歌会では西郷隆盛の題で女官たちに和歌を詠ませたという。

ドイツ人ヘルムや陸海軍の要人らと撮影した『ヘルム写真 』


近年話題になっている写真。後列左から乃木希典、大山巌、西郷隆盛、山県有朋、前列左から川村純義、勝海舟、ヘルム、西郷従道が写っているとされる。
最後に紹介する写真は明治7年に陸軍省内で撮影されたと伝わる写真である。
ドイツ人・ヘルムと陸海軍の役人が写った写真で、この中にも西郷がいるとされる。
この写真はドイツで発見され、数年前に日本でも話題になった。この中の西郷とおぼしき人物は背が高いから証言とは一致する。
この写真には山県有朋、乃木希典、川村純義、西郷従道、大山巌、勝海舟、ヘルム、西郷隆盛が写っているとされるがヘルムと西郷隆盛以外はいずれも既存の写真*7とは似ても似つかない別人であった。それに明治7年に西郷は政府をすでに去って鹿児島に帰っているので東京の陸軍省にいるはずはないのである。よって、この写真にも西郷は写っていないことがわかる。

結論

以上のように西郷写真は数多くのパターンが存在する。しかし、これらからもって西郷は写真を撮影してもらっていないと考えるのは早計である。そもそもフルベッキ群像写真中の黒マントの男の身元は全然わかっていない。西郷であるという説を肯定するにも否定するにも根拠があまりにも乏しいのだ。現在フルベッキ群像写真中のメンバーは半分しか判明していない。それが判明されれば黒マントの正体も判明するだろう。
西郷写真_____人々はこの古くて新しい歴史のミステリーに挑み続けてきた。肖像画が多く存在するなか写真と言えるものは一枚もない。その不思議さや奇怪さが人々を駆り立てる。
岩倉具視に随行し条約改正のために渡欧していた旧友の大久保利通が手紙を自分の写真と一緒に送ってくるとそれに対して「みっともないことは止めろ」(要約)と苦言を呈した返事を送っているというエピソードは有名だ。
しかし西郷が大久保利通らを見送るとき、帰りに記念として西郷本人の写真が撮影されたという記録もある。また、写真師の上野彦馬が撮影した坂本龍馬や高杉晋作の他に西郷を撮影した写真もあるそうだ。現在までこれらの写真は見つかっていないがもしその写真が見つかれば幕末史の見方が変わるかもしれない。

おまけ 『ヘルム写真』の人物同定に使われた『御下命写真帖』とは何か?

先ほど述べた『ヘルム写真』の同定には明治時代の元勲の肖像写真を集めた『御下命写真帖』が使用された。
これは1880(明治13)年ごろ明治天皇の命により、当時政府の要職についていた元勲や陸海軍の将校の写真を撮影し天皇に提出させたアルバムである。
こちらには伊藤博文や岩倉具視、三条実美や『ヘルム写真』に写っているとされた軍人らの写真が納められており写真はすべて会わせると4000人分を越えるという。
しかし、この中には例外もいる。
例えば、写真撮影は明治13年だがその頃にはすでに亡くなっている大久保利通(暗殺)、木戸孝允(病死)、公卿の大原重徳(おおはらしげとみ)(病死)などが生前の写真をトリミングし収録されている。
収録されなかった人物としては以外に多く、江藤新平、前原一誠、後藤象二郎、島津久光、徳川慶喜、徳川家達、そして西郷隆盛がいる。
江藤や前原、西郷はいずれも政府を辞してから士族を率いて反乱を起こしている。それは政府に弓引く行為として賊軍と見なされ、写真が掲載されることはなかった*8
島津久光は明治維新後隠居生活をしていたが明治新政府の政治改革の方法に納得がいかず、廃藩置県のおりには激しい怒りを見せている。政府による断髪令を拒否し死ぬまで月代に髷で通した。そういう久光であるから写真撮影の以来があっても無視していたと推測される。
徳川慶喜の場合、戊辰戦争の折は賊軍を見なされていたが勝海舟の計らいで賊軍扱いされることは明治初年以降なくなった。慶喜は宗家に配慮した行動をとり続けており政府への写真の提出を辞退していたのはその理由による。宗家の子息の家達は当時イギリスに留学していたため写真の提出する資格はなかった。慶喜はそこも考慮にいれていたと思われる。
ちなみに、参議を担当したことがある後藤象二郎が収録されていない理由は不明。

コメント

  • めっちゃ詳しいですね。感心しちまった -- 2021-01-24 (日) 13:06:07

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*1 酒井忠篤
*2 瑞苛の『苛』は本来は『加の下に可』
*3 尤も、撮影者はフランス人のロステル(ロッシュの間違いか。とはいってもロッシュの故郷のフランスは幕府を全面的に支持する立場だからこうして討幕派の面々の写真を好き好んでとる可能性はゼロだと考えることもできる)で撮影地は長崎であるとまでされたが完全な誤りである
*4 仁礼景範(にれかげのり)。後の海軍大将。
*5 「西郷どん」。鈴木亮平主演
*6 天皇を降りて皇太子に戻っていただきますぞ、という意味か
*7 この写真撮影から3年後に明治天皇の命により政府の官僚たちの写真が撮影され、アルバム『御下命写真帖』として明治天皇に届けられた。上記のうち西郷隆盛とヘルム以外はアルバムに記載されている。
*8 西郷は大日本帝国憲法発布の折恩赦で名誉を回復された。江藤や前原の名誉回復は西郷より少し遅い