英国連邦(英: British Commonwealth)、通称コモンウェルス(英: The Commonwealth)は、西ヨーロッパのグレートブリテン島ならびにカナダ、オーストラリア、ニュージーランドをはじめとする忠誠を誓う国々(英: Countries of Pledging Loyalty to the Crown)と、多数の連邦自治領(英: Commonwealth Dominions)および連邦海外領土(英: Commonwealth Overseas Territories)からなる主権国家である。
英国連邦 British Commonwealth The Commonwealth | ||||
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国旗 | 国章 | |||
国の標語 | Dieu et mon droit | 目次 | ||
国歌 | God Save the Queen | |||
公用語 | 英語 | |||
首都 | London | |||
最大都市 | ||||
政府 | Monarch | Victoria Ⅱ | ||
Prime Minister | Craig Baldwin | |||
建国 | Laws in Wales Acts | 1535年~1542年 | ||
Union of the Crowns | 1603年3月24日 | |||
Acts of Union of England and Scotland | 1707年5月1日 | |||
Acts of Union of Great Britain and Irelands | 1801年1月1日 | |||
Irish Free State Constitution Act | 1922年12月5日 | |||
面積 | 18,731,800 km2 (7,232,387 sq mi) | |||
水面積率 | 0.051 % | |||
人口 | 1億4800万6364人 | |||
人口密度 | 7.9 /km2 (20.5 /sq mi) | |||
GDP(PPP) | 6兆4810億ドル | |||
一人あたり | 43,789 ドル | |||
GDP(nominal) | 6兆2260億 ドル | |||
一人あたり | 42,068 ドル | |||
通貨 | Pound sterling(GBP;£) | |||
時間帯 | UTC | |||
DST | UTC +1 | |||
ISO 3166-1 | GB/GBR | |||
ccTLD | .gb | |||
国際電話番号 | +44 | |||
歴史
コモンウェルスの成立
第一次世界大戦はヨーロッパの衰退をもたらし、超大国としての大英帝国(British Empire)の地位も陰りが見え始めてきた。第一次世界大戦に連合国として参戦したドミニオンは、それぞれの帝国内における発言権の強化を求めた。1926年にロンドンで開催された第11次帝国会議(1926 Imperial Conference)において、連合王国とドミニオン、植民地の新たな「大英帝国」の形成が議論された。会議は国王皇帝ジョージ5世によって主宰され、連合王国、オーストラリア、カナダ、インド、アイルランド自由国、ニューファンドランド、ニュージーランド、南アフリカ連邦の代表が出席した。会議では「連合王国とドミニオンの地位は全て平等である」とのコンセンサスがとられた。連合王国はドミニオンにある程度の独立性を付加することで、支配権を継続確保しようとした。アーサー・バルフォア(Arthur Balfour)を議長とする帝国間関係委員会(Inter-Imperial Relations Committee)が設立され、将来のコモンウェルスのための取り決めが検討された。帝国間関係委員会では帝国会議でのコンセンサスを基に、連合王国とドミニオンの関係を新しく定義するバルフォア宣言を発表した。
... autonomous Communities within the British Empire, equal in status, in no way subordinate one to another in any aspect of their domestic or external affairs, though united by a common allegiance to the Crown, and freely associated as members of the British Commonwealth. (連合王国とドミニオンは大英帝国における自立した共同体であり、同等の地位を有し、内政や外交のあらゆる面で互いに従属関係にもないが、王冠に対する共通の忠誠によって結束し、英国連邦(British Commonwealth)を構成する諸国として自由な意思によって統合している。) |
この宣言によって、連合王国は第一次世界大戦以後におけるドミニオンの政治的、外交的独立の成長を是認した。バルフォア宣言は1930年の帝国会議(1930 Imperial Conference)でも再確認され、1931年12月のウェストミンスター憲章(Statue of Westminster 1931)として成文化されることで実施形態化された。憲章においてオーストラリア、カナダ、インド、アイルランド自由国、ニューファンドランド、ニュージーランド、南アフリカ連邦は「忠誠を誓う国(Country of Pledging to the Crown)」と再定義され、コモンウェルスにおける特権的地位が明文化された。
憲章は帝国領土に速やかに適応され(連合王国と忠誠国の議会からの事後承認および批准は必要とされた)、「太陽の沈まない国」と形容された大英帝国は名実ともに解体し、新たに英国連邦が成立されることとなった。
帝国の縮小
コモンウェルスの成立は必ずしも大英帝国の衰退を制御するものではなく、形成後も縮小を重ねた。ニューファンドランドは第一次世界大戦と世界恐慌による国力の疲弊により1933年に忠誠国の地位からカナダの一州に組み込まれ(1949年に忠誠国に再昇格)、アイルランド自由国は地位にあったが1937年に新憲法を交付し、コモンウェルスから離脱し共和国となった。また、第二次世界大戦におけるインド帝国の役割は大きいもので、戦後インドの地位に大して連合王国は大幅な譲歩を強いられた。インド帝国は忠誠国の地位になかったが、1947年インド独立法によってインド帝国をインド連邦とパキスタンに分割し、将来的な独立を約束した上でそれぞれの国の憲法が施行されるまでコモンウェルス・ドミニオンとすることが定められた。1950年にインドが、1956年にパキスタンが憲法を制定し、共和制に移行したことでコモンウェルスから離脱した。忠誠国であった南アフリカ連邦は1934年の連邦地位法後、人種差別政策を推し進めていった。1960年、アパルトヘイトに基づくシャープビル虐殺事件をきっかけに国際的非難を浴びることになり、孤立の道を歩みはじめると、1961年にコモンウェルスから事実上追放という形で離脱し、共和制に移行した。
植民地の独立
連合王国のクラウン・コロニーは第二次世界大戦後の民族自決運動の波に乗り、次々と独立を果たし始めた。連合王国は1940年代から1950年代にかけてマレーシアやビルマをはじめとするアジア各地の植民地が、1950年代から1960年代にかけてはガーナやナイジェリアといったアフリカの植民地が独立した。1970年代に入るとペルシャ湾沿岸諸国やオセアニア諸国、カリブ海諸国も独立した。1997年の香港返還は連合王国の最後のコロニーの主権損失とされた。これら独立した諸国は共和制を選択するか、コモンウェルスにおける主権国家としてコモンウェルスの君主をその国の君主として戴くかの選択権を有していた。アジアやアフリカの植民地は共和制として独立を選択したのに対し、依然連合王国の影響下にあった多くのカリブ海植民地や忠誠国であるオーストラリアやニュージーランドに近いオセアニアの植民地はコモンウェルス・ドミニオンとして独立することを選択した。
一方で、独立の波を超えて連合王国に残留していた海外領土は2002年にコモンウェルスの海外領土(Overseas Territories)として再分類された。
連邦構成主体
コモンウェルスの構成諸国は大きく3つに分類される。コモンウェルスは、5の忠誠を誓う国々(英: Countries of Pledging Loyalty to the Crown)と、12の連邦自治領(英: Commonwealth Dominions)、14の連邦海外領土(英: Commonwealth Overseas Territories)で構成される。
忠誠を誓う国々
忠誠を誓う国々(英: Countries of Pledging Loyalty to the Crown)には、ウェストミンスター憲章によって主権が認められた大英帝国の旧ドミニオンと、その宗主国である連合王国が含まれている。これらの国々は王冠への忠誠の下、互いに従属されない独自の内政および外交、軍事を保持している。現在の忠誠国は連合王国、カナダ、オーストラリア、ニュージーランド、ニューファンドランドの5ヶ国である。ウェストミンスター憲章施行時、忠誠国はこれらに加えアイルランド自由国と南アフリカ連邦があったが、それぞれ離脱した。ニューファンドランドは一時期連合王国の直轄植民地に降格していたが、1949年に現在の地位に復帰した。
連邦自治領
連邦自治領(英: Commonwealth Dominions)には、第二次世界大戦後に連合王国の統治から独立した旧植民地が含まれている。これらの国々は連合王国に従属されない独自の内政および外交を保持しているが、軍事は王冠軍(英: Armed Forces of the Crown)が担当する。現在の自治領はアンティグア・バーブーダ、バハマ、バルバドス、ベリーズ 、パプアニューギニア、セントキッツ・ネイビス、セントルシア、セントヴィンセント・グレナディーン、ソロモン諸島、ツバルの12ヶ国である。初の連邦自治領は1947年にインド帝国から独立したインド連邦とパキスタンで、この2ヶ国はそれぞれの国の憲法が施行されるまでのコモンウェルス・ドミニオンの地位に置かれた。
連邦海外領土
連邦海外領土(英: Commonwealth Overseas Territories)には、民族自決運動を越えて連合王国に残留した連合王国海外領土(英: British Overseas Territories)が2002年に再分類された地域が含まれている。これらの地域は再分類後はコモンウェルスであるが、事実上連合王国の従属下にある領土として置かれており、首長は連合王国政府によって任命される。連邦海外領土は元来連合王国の海外領土であった地域が含まれているのであり、オーストラリアのクリスマス島といった忠誠国の海外領土はこれに含まれないことに注意したい。忠誠国の海外領土は忠誠国の主権下に置かれ、それらの統治は各忠誠国によって分かれる。現在の海外領土はアクロティリおよびデケリア、アンギラ 、バミューダ 、南極地域、インド洋地域、ヴァージン諸島、ケイマン諸島、フォークランド諸島、香港、ジブラルタル、モントセラト、ピトケアン諸島、セントヘレナ・アセンションおよびトリスタンダクーニャ、サウスジョージア・サウスサンドウィッチ諸島、タークス・カイコス諸島の15地域である。
軍事
第一次世界大戦以前より、各ドミニオンは防衛の政策を自由に実行することができた。というのも連合王国はコロニーの防衛費を本国が拠出するのを好まず、コロニーの防衛はコロニーが実施すべきとの姿勢を取っていた。実際、1867年のBNA法(英: British North America Acts)で北アメリカの3つのコロニーが統合しカナダ連邦が成立したのも、北アメリカにおけるコロニーの防衛費をドミニオンに負担させるという連合王国の思惑の下行われたものであった。1907年の帝国会議(1907 Imperial Conference)において、カナダとともにオーストラリア、ニュージーランド、およびニューファンドランドがドミニオンの地位を認められ、南アフリカも1910年の統一でドミニオンに昇格した。会議では、起こりうる大戦争や大英帝国内の紛争に備え、ドミニオンの軍隊を増強する必要性が唱えられ、大英帝国の防衛に対するドミニオンのコミットメントが検討された。ロンドンで行われた軍事パレードでは、各ドミニオンから部隊が派遣され検閲を受けた。各ドミニオンでは防衛法が制定され、男子の兵役が義務化された。徴兵制は当初、白人を対象にしたものであったが、入植者社会への同化を促進させるとして先住民族に対しても同様に行われることとなった。南アフリカ連邦では、人種平等の名のもとにアフリカ人の入隊を推奨した。
ドミニオンの自己防衛が推奨された一方で、王立海軍は大英帝国全レルムの海上防衛を依然として担った。各ドミニオンは沿岸防衛のために独自の海軍を有していたが、王立海軍の艦隊はドミニオンにも駐留された。20世紀初期のドイツ海軍の大拡張に対する帝国の対応として、1902年に日本との防衛同盟が締結されると、日本帝国海軍が太平洋を保護し、王立海軍はドイツに対抗するために本国に艦隊を集中させた。しかし、この王立海軍の再配置はオーストラリアとニュージーランドに日本の脅威を増殖させる事となった。連合王国はオーストラリア艦隊をオーストラリアに引き渡した上で、それまで沿岸警備だけの役割であったオーストラリア海軍を再建設させた。これを機として、各ドミニオンが地政学、安全保障の観点から沿岸防衛の域を越えた規模の海軍を保持することとなった。
現在のコモンウェルスの防衛は忠誠を誓う国々の軍隊によって担われている。すなわち王冠軍、カナダ・ニューファンドランド軍、オーストラリア国防軍、ニュージーランド国防軍がコモンウェルス・レルムを防衛している。それぞれの軍はそれぞれの国を防衛するが、王冠軍は連合王国のほか、連邦自治領および連邦海外領土の防衛を担当している。各軍隊は緻密な連携関係にあり、1951年に連邦防衛取極(英: Commonwealth Defence Arrangement)が締結されてからは、忠誠国国防相は毎年連邦防衛会議を開催するほか、毎年合同軍事演習が数回実施されている。
王冠軍
王冠軍(英: Armed Forces of the Crown)、通称女王陛下の軍隊(英: Her Majesty's Armed Forces)は、3つの軍種で構成されている; 王立海軍および王立海兵隊?(女王陛下のネイバル・サービスを形成)、陸軍?、王立空軍?、連合王国の軍隊である。部隊は国防省(英: Ministry of Defence)によって管理され、国防大臣が議長を務める国防評議会(英: Defence Council)によって運用されている。最高司令官(英: Commander-in-Chief)はコモンウェルスの君主、即ち王冠(The Crown)であり、軍の兵員は王冠に忠誠を誓う。王冠軍はコモンウェルスのうち、連合王国と連邦自治領、および連邦海外領土を保護し、コモンウェルスの世界的な安全保障上の利益を促進し、国際的な平和維持活動を支援する責任を持つ。王冠軍は、18世紀、19世紀、20世紀初頭に大英帝国を支配的な世界大国として確立する上で重要な役割を果たした。世界中の紛争に介入し、勝利することで、大英帝国はしばしば世界の出来事に決定的な影響を与えた。現在、王冠軍はコモンウェルスで最も大規模な軍隊であり、バーレーン、ブルネイ、ケニア、オマーン、カタール、シンガポールに基地と施設を有し、部隊を駐在させているほか、忠誠国であるカナダやオーストラリアにも部隊を派遣している。
カナダ・ニューファンドランド軍
カナダ・ニューファンドランド軍(英: Armed Forces of Canada and Newfoundland)は、統合化による一軍制で構成されているカナダとニューファンドランドの軍隊である。最高司令官英: Commander-in-Chief of the Armed Forces of Canada and Newfoundland)はコモンウェルスの君主であり、カナダ総督(英: Governor-General of Canada)がこれを代表する。カナダ・ニューファンドランド軍の起源は19世紀初頭の先住民族やアメリカに対抗するために組織された民兵組織である。1949年にニューファンドランドが忠誠国に昇格する際、その安全保障について隣国かつ共通の防衛理念を共有するカナダと統合する機運が高まり、カナダとニューファンドランドの議会で軍隊統合法(英: Military Integration Acts)が施行されることとなった。一方で、軍隊のイニシアチブはカナダ側が握っており、ニューファンドランド国内ではカナダと内政・外交同様に軍事も乖離すべきとの批判が高まっている。冷戦下、カナダ・ニューファンドランド軍はソヴィエト連邦とアメリカ合衆国の間にあるその地政学上の背景から王冠軍を除くコモンウェルスの軍隊の中では最大規模のものとなり、現在もその規模は縮小しながら小さくない軍事力を維持している。その任務も国防に留まらず第三国戦争への軍事支援、平和維持活動に積極的に参加している。
オーストラリア国防軍
オーストラリア国防軍(英: New Zealand Defence Force)は、3つの軍種で構成されている; 王立オーストラリアおよびオーストラリア陸軍、王立オーストラリア空軍、オーストラリアの軍隊である。最高司令官英: Commander-in-Chief of the Australian Defence Force)はコモンウェルスの君主であり、オーストラリア総督(英: Governor-General of Australia)がこれを代表する。1901年にオーストラリア連邦政府が各州が有していた軍隊を統合し、国防軍を設立した。国防軍は2つの世界大戦において重要な役割を果たし、国益を最大に確保した。第一次世界大戦では、ANZAC軍団をガリポリに派遣した。その結果、戦後パリで行われた講和会議では、オーストラリアが旧ドイツ植民地であるニューギニア島東半分を委任統治することが認められた。第二次世界大戦では、太平洋の島々を次々占領し戦線を拡大する日本帝国軍を抑え、大陸上陸を阻止した。第二次世界大戦後、王冠軍の極東戦力縮小に伴い国防軍創設期から伝統的に維持してきた専守防衛政策を放棄し、国内基地からの敵地攻撃能力を強化する政策に転換した。王立海軍と王立空軍の能力を高め、陸軍の大部分を大陸北部に移動させることで国内の防衛をより一層強化させることを実現させた。
ニュージーランド国防軍
ニュージーランド国防軍(英: New Zealand Defence Force)は、3つの軍種で構成されている; 王立ニュージーランド海軍およびニュージーランド陸軍、王立ニュージーランド空軍、ニュージーランドの軍隊である。最高司令官英: Commander-in-Chief of the New Zealand Defence Force)はコモンウェルスの君主であり、ニュージーランド総督(英: Governor-General of New Zealand)がこれを代表する。1840年のワイタンギ条約の後、1845年に民兵組織が設立されたものの、ニュージーランドの防衛はオーストラリア地方軍や帝国の他の地域から配備された王冠軍に強く依存していた。 1862年に植民地防衛軍法(英: Colonial Defence Force Act)が施行されると、翌1863年に初の正規軍が設立された。1909年の防衛法(英: Defence Act 1909)では、マオリ族を含む男子の強制軍事訓練が実施された。以降、独立したニュージーランド国防軍が形成され、1941年には王立海軍ニュージーランド師団が王立ニュージーランド海軍として独立した。ニュージーランドは地理的にオーストラリアと近いことから、軍事的にも密接にリンクしている。1911年から始まったニュージーランドの将官候補者をオーストラリアはダントルーンの王立軍事学院で訓練を受けさせる協力関係は今日まで続いている。また、第一次世界大戦中、オーストラリア・ニュージーランド軍団(ANZAC)が結成、ガリポリ上陸作戦に投入され失敗に終わったが、その功績は両国の軍事史における重要な出来事となっている。
関連項目
連合王国/関連項目
最終更新 | 2019-08-15 (木) 17:06:41 |
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