「」岐の妄想記Ⅲ

Last-modified: 2022-07-29 (金) 00:43:37

素晴らしきリリィたちの尊い触れ合いについて考えるだけで「」岐はもう……

かえゆり朝ごはん【楓、結梨】

ある日の朝、楓・J・ヌーベルが自宅のベッドで目を覚ますと、どこからともなくいい香りが漂ってきた。

「楓さん、おはようございます!もう少しでできますから待っていてくださいね!」

台所へ行くと、妻の梨璃が台所で野菜を刻んでいるところだった。
とんとんとリズミカルな音が耳に響く。みそ汁の入った鍋から立ち上り拡散していく湯気とともに、味噌と出汁と具材の香りが鼻に届き胃を刺激する。
グランギニョル社の総帥としてハードなスケジュールをこなす楓にとって、梨璃の手料理、そして妻婦(ふうふ)で過ごす朝の時間こそが一日の活力の源だった。

「待つだなんてとんでもない、私にも手伝わせてくださいまし」
「楓さん……」

包丁を受け取ろうとした手が梨璃の手と触れ合い、彼女の頬がうっすらとピンクに染まる。
この女性はいつまでも出会った時と変わらず、初々しくかわいらしいいままで、楓を飽きさせないでいてくれる。

「……え……」

その時、二人きりの空間のはずなのに、遠くの方から声が聞こえる気がした。
きっとテレビか何かの音だ。そう思おうとしたが、その声は徐々にこちらに近づいてきているようだった。
無視して梨璃と会話を続ける。

「梨璃さんの方こそ、毎日早起きして大変でしょう?たまには私に任せてくださってもいいんですのよ?」
「大丈夫です!好きな人のためだったらちっとも大変じゃありません!」
「まあ、嬉しいですわ……!」
「……えで……!」

まただ。
耳を傾けてはいけない、あちらに意識を向けた瞬間に、この幸せな空間が崩れてしまう気がした。

「そうですわ、明日は私が「かえで、起きて!」を作ります。梨璃さんは「かえで!」りしていて下さ「かえでかえでかえで~!」」
「ああもう!なんですのあなたは!」

その声がこちらに呼びかけていると気づく頃にはもう、声のボリュームは無視することはできないほどになっていた。
相手にしては駄目だとは思いながらも、思わず怒鳴りつけてしまった。

「かえで、おはよう!」

気が付くと、目の前には薄紫色の、宝石のようにきらめく瞳があった。

「ゆ、結梨さん!?」

自分の体にまたがりこちらを見つめていた、その人物の名を呼ぶ。

「起きた?」
「り、梨璃さんはどこですの?二人の幸せな妻婦生活は?」

先ほどまでの状況と現在のギャップに戸惑いながら訪ねる。
それを聞いた結梨は不思議そうに首をかしげながら返事をした。

「梨璃?梨璃ならお部屋に行けば会えると思うよ?」

結梨の反応は至極まっとうなものだった。
段々と頭がはっきりしてきた。自分は百合ヶ丘女学院の生徒で、ここは寝室である。そして結梨は楓のルームメイトであった。
当然梨璃と結婚などしているはずもなかった。どうやら先ほどまでの幸せな生活は夢の中の出来事だったらしい。

「そ、そんな……梨璃さんの手料理……おみそしる……」

現実を認識した瞬間にどっと悲しみが押し寄せてきた。二度と戻らない宝物を惜しむような、無駄だと思いつつもせずにはいられない嘆きであった。

「お味噌汁なら結梨が作ってあげたよ?」
「えっ?」

どうしてもう少し目覚めるのを耐えられなかったのか、と思いながら悔し涙を流していると、結梨から意外な言葉が聞こえてきた。
すんすんと鼻を動かして匂いを嗅いでみると、部屋に備え付けられてあるキッチンの方から確かに良い香りが漂ってきている。
既に薄れかけている記憶であるが、夢の中で感じた匂いと同じように思えた。というよりも部屋に満ちたこの匂いの影響であのような夢を見たのだろう。

「この前神琳が教えてくれたの。それでね、神琳は雨嘉によく作ってあげてるんだって。だから結梨もね、楓に作ってあげたんだ!」

だから元気出して、と、こちらを咲いたばかりの花のような、みずみずしい活力に満ちた笑顔で励ましてくれる。
聞けば、以前、神琳と雨嘉の部屋に泊まった時に料理の作り方を教わったのだという。
堅物なように見えて、甘えたがり、かつ甘えられたがりな神琳のことだ、興味津々に料理の作り方を尋ねてくる結梨に気をよくしている姿が容易に想像できた。

「結梨えらいでしょ?ほめていいよ?」
「そういうことでしたのね、ふふ、えらいですわ」

お嬢様育ちの楓にとって、誰かに振舞うならともかく自室で食べるための料理など生まれてこの方無縁であり、実際にこれまでキッチンを使用することは一度もなかった。しかしその設備が今日、意外なところで役に立ったようだ。
こちらに覆いかぶさってぎゅっと抱き着いてくる結梨の頭を優しくなでてやる。
細くつややかな髪の毛の、さらさらとした感触が手に伝わって心地がいい。また、かき回されたことで空気中に広がった、結梨の髪の甘くさわやかな香りがふわりと鼻に届いた。
結梨は抱き着いたりなでたりといった、直接的な接触を伴うスキンシップを好む傾向にあるようで、今この瞬間も、よくなついた犬を彷彿とさせる表情で、満足げに体を震わせていた。

「ところで、このエプロンはどうしましたの?」

二人の距離が近いため、これまで視界に映っていなかったが、結梨は制服の上からエプロンを着ているようだった。それはピンク色でフリルのついたかわいらしいもので、結梨の髪色や幼げな雰囲気と良く似合っていた。

「これはね、雨嘉がくれたの!作ったけど使わないから、あげるよって」

確かに、よく見てみるとところどころにデフォルメされたかわいらしい猫の意匠があしらわれており、雨嘉の作品だということが見て取れた。

「ねえ、似合ってる?結梨かわいい?」

結梨は楓から離れ、ベッドを降りて立ち上がり全身を見せつけるようにその場でくるくると回る。

「ええ、とってもかわいらしいですわ」

雨嘉お手製のエプロンを身に着けた結梨は、見た目もさることながら、新しい衣装を誇らしげに見せつけるそのしぐさもまた非常に可憐であった。
朝日を浴びて透き通るように白く輝く真珠のように滑らかな肌、動きに合わせて軽やかに揺れる柔らかで繊細な髪、年頃の女性らしくすらりと伸びた、細いながらも肉付きのよい手足、そしてその整った顔立ちは美しさとかわいらしさを併せ持ち、古い伝承で聞いた水辺の妖精のような魔性さえ感じさせた。
それらを兼ね備えた、ガラス細工のように儚くも美しい容姿の少女が、幼い子供のような無邪気な振る舞いで身に着けた服を見せつけてくる。それがますます彼女の魅力を強調した。

「やったあ!」

素直にほめると、結梨の顔はあふれんばかりの喜びに満ち、再び楓に抱き着いてきた。

「あらあら、こんなに嬉しそうにして……、お二人には後でお礼を言っておかねばなりませんわね……」

と、そこで一つ疑問が浮かんだ。

「そういえば、どうして教えてくれませんでしたの?言ってくれれば手伝いましたのに」

結梨の性格を考慮すると、神琳から料理を教わったその日のうちに、そのことを自慢げに楓に報告してきてもおかしくはなかった。
そうすれば楓だって一緒に作るのを助けてあげるくらいのことはしただろう。

「神琳がね、楓に内緒で作って驚かせてあげようって!こういうの、さぷらいず?っていうんでしょ!」

神琳の入れ知恵であったらしい。確かに彼女にはああ見えていたずら好きな面もある。
自分の知らないところで話が進んでいたのは、手のひらの上で踊らされているようで少し癪ではあったが、それよりも結梨や神琳たちが、自分を喜ばせるためにいろいろと考えをめぐらしてくれたことが嬉しかった。

「全くあの方は……」

照れ隠しに呆れたようなセリフを言うものの、思わず口角が上がってしまっているのが自分でもわかった。

「では早速朝ごはんにいたしましょう」

楓よりも少し平熱の高い結梨の体温が寝間着越しに伝わってきてぽかぽかと心地よく、このままもう一眠りしていたい気持ちもあったが、さすがにそろそろ起きなければならない時間だった。
何より、せっかく結梨が作ってくれた料理が冷めてしまっては台無しだと思った。

「少しお待ちいただけますか?」
「うん、じゃあその間に準備しとくね!」

ベッドから抜け出し、結梨の快活な返事を背に受けながら洗面台へ向かった。
そこで身だしなみを整えてからいつもの制服へと着替える。
一連の作業を繰り返すうちに意識はすっかり覚醒し、結梨の手料理を受け入れる準備が完了していた。

「お待たせいたしました」

着替えを終え机の方へ向かうと、結梨はすでに席について楓を待っていたようだった。

「楓!はやくはやく!」

楓が姿を見せた瞬間に、こちらに上半身を乗り出した結梨から催促が飛んでくる。
相当待ち遠しかったようだった。

「お行儀が悪いですわよ」

微笑ましい行動であったが、同室のリリィの先輩として注意しながら席に着く。

「ごめんなさい……」

結梨の方も自覚はあったのかすぐにおとなしくなった。

「まあ……」

卓上を見ると、お椀に盛り付けられた白いご飯と味噌汁、そして少量の漬物や海苔といったご飯のお供というべきものたちが並んでいた。
見た目こそ素朴であったが、ご飯は一つ一つが粒だってつやつやと銀色にきらめき、味噌汁に立ち上る湯気からは、出汁や具材の豊かな風味が感じられ、丁寧な仕事ぶりがうかがえた。
少なくとも貧相な印象は見受けられず、寧ろそのシンプルな見た目がさわやかな朝の始まりにふさわしく感じられた。

「これらも神琳さんが?」

漬物を指しながら尋ねる。

「うん、ご一緒にどうぞって」

細かいところまでよく気が届くものだ。
単なるいたずら心だけではなく、楓のため、そして何より教え子である結梨のためにサービス精神を発揮してくれたのだろう。

「では、早速いただきましょうか」
「うん!」

二人で向かい合っていただきます、と手を合わせる。
結梨が百合ヶ丘に来たばかりの、まだマナーが身についていなかった頃などは、夢結と楓に両隣を挟まれて指導を受け、梨璃に心配そうに見守られながら食事をしていたことが思い出される。
その彼女が、今や一人で食事をするどころか、自分で作ったものを楓に振舞うまでになった。

「……楓?」
「し、失礼」

過去に思いを巡らせているとそれだけで胸がいっぱいになってしまいそうだったが、こちらをじっと見つめる結梨の視線に気づき慌てて手を動かす。
まずは味噌汁を一口飲む。

「……!」

具材として入っている野菜の甘みと、鰹節だろうか、魚介出汁由来のうまみ、そして味噌の風味とわずかな酸味が混然一体となり、複雑な味わいが口に広がる。
続いて、厚めのいちょう切りにされた大根を一切れ口に入れる。
火加減が難しい根菜であるが、中まで柔らかく煮えており、口の中で繊維が柔らかくほどけていく感触が快い。

「これは……」

神琳の料理の腕前がかなりのものであることや、結梨があらゆることに対して呑み込みが早いことはわかっていた。
それでも結梨にとっては初めての挑戦であるため、何かしらのミスがあることを予想しており、もし不備があっても気にせず褒めてやるつもりでいた。
しかしそれは杞憂であったようだ。

「……どう?おいしい?」

先ほどまでのはしゃいだ様子とはうって変わって、もじもじと体を動かしながらこちらの様子をうかがう結梨。
期待と不安でほんのりと朱に染まった頬と、上目遣いの視線がなんともかわいらしい。
楓の反応が気になるあまり、自分の分に手がついていないようだ。

「ええ、とてもおいしいですわ……まさかこれほどとは……」

それを聞いた瞬間、不安そうだった結梨の表情が、朝日が二つになったのかと思うほどの笑顔に変化した。

「ほんと!?」

本人も少し自信がない部分はあったのか、再度確認してくる。

「ええ、私嘘はつきませんわ。ですからそう不安がらずにあなたもお食べになって?」
「うん!」

ようやく心配から解放されたようで、結梨の方も手と口を動かし始める。

「ほんとだ、おいしい!」
「でしょう?……って、味見はしていませんの?」
「したはずなんだけど……ドキドキしててよくわかんなかったの」

はしゃいでいるように見えていた結梨だが、その内心は相当緊張していたようだ。

「安心なさって、この出来栄えなら誰が食べてもおいしいというはずですわ」
「うんっ……ありがとう!」

結梨の幸せそうな声を聞いてから食事に戻った。

~~
楓と結梨はしばらく無言で食事を続けていたが、ふと疑問に思ったことがあり、楓の方から会話を再開した。

「ところで、最初に振舞うのが私でよろしかったんですの?梨璃さんや夢結様は……」

結梨の気持ち自体はこの上なくうれしかったが、何となくこういうのは親代わりである梨璃や夢結が最初に味わうべきなのではないか、という罪悪感にも似た感情がないわけではなかった。

「大丈夫だよ!楓で練習してから作ってあげるつもりだから!」
「なっ……!」

予想外に失礼な答えが返ってきて、思わず声が漏れた。

「……ごめんね、嘘だよ」

しかし、一瞬感じた怒りは結梨自身の静かなつぶやきによってすぐさま否定された。
結梨は先ほどの、料理を口にした楓の反応をうかがっていた時と似た様子であったが、その時よりもさらに不安そうで、ずっと照れくさそうに見えた。
あの時はこちらの様子をうかがっていた二つの瞳も、今は下向きに伏せられ、楓を直接見ることをためらうかのように左右に揺れている。

「では、なぜ私に……?」

確かに同室で面倒を見る機会も多く、結梨が楓に心を許してくれていることはわかっていたが、それでもやはり結梨には梨璃と夢結を大事に思っていてほしかった。
自分があの二人よりも優先されるほどの存在なのだろうか。
両親に並ぶほどの存在とは何だろうか。

「だ……だって、朝ごはんって、お嫁さんが作ってあげるもの、なんでしょ……?」

楓が感じた疑問の答え合わせは、結梨がしてくれた。

「な、なな……!」

その言葉とともに結梨は少し顔をあげ、うっとりとした表情で、少しうるんだ目で、じっとこちらを見つめていた。
汗がどっと吹き出し、顔が熱くなるのがわかる。顔だけではない、きっと今の自分は、耳も首も真っ赤に染まっているだろう。

「ねえ、いいでしょ……?結梨を、楓のお嫁さんにして……?」
「ゆ、結梨さん……?」

これも神琳の入れ知恵だろうか。あの娘ならやりかねないが、彼女は人の気持ちに反することや偽りを教えるような人物ではない。
少なくとも結梨が自分のことを思ってくれていることは間違いないのだろう。
それでも、結梨に迫られながら、楓の脳裏には神琳の満足げな笑顔が浮かんできて、あとでしっかりと「お礼」をしなければならないと思った。

【おしまい】

藍ちゃんに千香瑠様が甘える話【千香瑠、藍】

ある夜、ひどい夢に目覚めた。
覚醒した直後だというのに、すでに少しずつ薄れていってはいるけれど、まだその大部分を覚えていた。誰かに罵倒され続ける夢だった。
これまでに出してきた犠牲をお前のせいだと詰め寄られた。それでものうのうと生きることを嘲笑された。リリィとして満足に戦うことすらできない弱さをなじられた。それは私の後悔と、罪悪感と、そして絶望の証だった。
特型ヒュージの影響なんて受けなくても、私の脳は自身に責め苦を与えることをやめようとはしなかった。もっとも、ヘルヴォルのみんなと一緒にいる時だけは例外だったけれど。
最近は私を心配してくれたみんながずっと傍にいてくれたから、悪夢を見ることもなかった。それで少し自信がついて、もう一人でも大丈夫、なんていった矢先の出来事だった。自分で自分が嫌になった。
夢の中で私を責めていたのはヘルヴォルのみんなだったような気もしたし、今まで守り切れなかった人々だったかもしれない、あるいは……。

「真琴……」

頭に浮かんだ考えを振り払おうと、もう会うことのできない親友の名前をつぶやいた。
仲間が、親友が、私にそんな言葉を向けるはずがない。そう自分に言い聞かせて、必死に脈打つ心臓を鎮めようとしたけれど、私の体は言うことを聞いてくれなかった。
むしろ、大切な人たちにひどい役目を背負わせてしまいそうになる自分の胸の内が恐ろしくなり、いよいよもって動悸は激しくなった。
それに呼応するかのように肺と横隔膜も大きく伸縮をはじめ、ベッドの中で肩を上下させ、荒い呼吸を繰り返すことしかできなくなる。

(……安定剤……)

鉛のような手足を無理やり引きずってベッドからはい出し、うめき声をあげながら、暗闇の中手探りで必死に薬を探し求めた。
こんな時に限って、今日保健室でもらったばかりの安定剤をどこに置いたのか全く思い出せなかった。
震える手をめちゃくちゃに動かして机や棚を探し回るせいで、上や中に置かれている小物たちが床に散らばる。それを蹴り飛ばしながら、また別の場所で同じことを繰り返す。
余りにもみっともなく滑稽な行動だったけれど、その時の私にはこうすることしかできなかった。
薬に頼らないとまともに生きていくことすらできないのか、お前は出来損ないだ、と頭の中で声が響いた。
頭の中じゃない。ひとりきりのはずの部屋の中に、ぼんやりと影が見えた。私をののしる声はそこから聞こえていた。少なくとも、私にはそう思えた。

「うるさい……!」

ずきずきと痛む頭を抑えながら、床に伸ばした手に触れたものを片っ端から投げつけた。
幸いなことに、床の上は自分で落としたペンやノートなどの小物であふれており、獲物には困らなかった。
手ごたえはなく影は消え去り、ほどなくして別の場所に現れる。

「この……!」

私は安定剤を探すことさえ忘れてしばらく影と格闘していた。
そうしていると幻覚に抗っているような気分になれて、少しだけ気がまぎれた。

「いい加減に……!」

また影が消えた。後ろに気配を感じたためすぐさま振り返る。

「千香瑠?」
「!」

目の前から聞こえた声で我に返る。
その声はそれまでずっと私を責め立てていた声とはまるで別物の、優しい声だった。

「ら、藍、ちゃん……」
「千香瑠?だいじょうぶ?」

気が付くと幻覚は消えていて、藍ちゃんが心配そうな表情で私の目をのぞき込んでいた。
当然だ、暗い部屋の中で一人、ぶつぶつとうめきながら何もない空間に物を投げ続けている人間なんて、心配するなという方が無茶だ。

「ど、どうしてここに……」
「のどがかわいて目がさめたらね、千香瑠のおへやから声が聞こえたの、そんなものなげたらあぶないよ?」

藍ちゃんの言葉を聞いて、ふと自分の手元を見ると、私が確認もせずに握りしめていたものは、ハサミだった。

「いや……!」

途端に恐ろしくなり藍ちゃんから離れる。
藍ちゃんがこちらに呼び掛けてくれていなかったら、私はこれを思いきり放り投げていたのだ。
チャームも戦闘服も身に着けていない状態でこんなものが当たったらどうなっていたか、幻覚なんて言い訳にならない。

「ごめんなさい、ごめんなさい、ごめんなさい……!」

やっぱり私はここにいていい人間じゃない。そう思いながら必死に謝罪を繰り返す。
いっそのこと、このハサミで喉なり手首なりを切ってしまうのも悪くないかもしれない。それはとてもいい考えに思えた。
私なんかの命では償いにならないかもしれないけれど。たとえ許してもらえなくても、これ以上苦しい思いはしなくて済むし、誰かに迷惑をかけることもなくなる。
そう思ってハサミを開いた手に、柔らかい感触が触れた。

「また、こわいゆめみたの?」
「……」

藍ちゃんが私の方へ近づいて、手を握ってくれたのだ。

「ダメよ、こっちに来たら」
「どうして?」
「わ、私の傍にいたら、危ないわ……」

自分で言っていて涙が出てきた。
そうだ、私は大切な人を守れないどころか、かえって危険にさらす存在なのだ。

「そんなことないよ?」
「!」

藍ちゃんが、私の手を握っていた手を今度は私の体に回して、ぎゅっと抱きしめてくれた。

「ほら、ぜんぜんへいき、ちっともあぶなくないよ?」

子供に言い聞かせるような口調で、優しく語りかけてくる。

「らん、知ってるよ、千香瑠がとってもやさしいってこと、だから、だいじょうぶ」

その温かさにすがりたくなって、思わず藍ちゃんの体を抱きしめ返す。

「……っ」

気が付くと、藍ちゃんの胸に顔をうずめて泣いていた。藍ちゃんは私の体にそっと手を添えて受け入れてくれた。
自分から離れようとしたくせに調子のいいことを、なんて気恥ずかしさと罪悪感がほんの一瞬だけ顔を覗かせたけれど、それもすぐにぬくもりの中に溶けて消えていった。
先ほどまでずっと幻影にさいなまれていた私にとって、自分のことをを否定しないでいてくれる確かな存在が、この上ない救いとなった。

「よしよし、だいじょうぶだよ、こわくないよ」

声を押し殺して泣く私に、ずっと優しい言葉をかけ続けてくれる。
しばらくそうやって慰めてもらっていると、だんだんと心が落ち着いてきた。

「ありがとう藍ちゃん、もう大丈夫よ」

藍ちゃんに押し付けていた顔を離してそう告げる。

「よかった、千香瑠が元気なほうがね、らんもうれしい」
「心配かけてごめんなさいね、でも安心してちょうだい、すっかり元気になったから」

涙をぬぐって笑顔で答える。

「……」
「藍ちゃん?」

私の言葉を聞いた藍ちゃんは、じっと考えこむようなそぶりを見せた。
何か変なことを言ってしまっただろうか。

「よし、きめた、きょうはらんがいっしょに寝てあげる!」
「えっ?」

驚いて、思わず声が漏れる。

「ちかる、さっきウソついたでしょ」
「……っ」

確かに、完全に大丈夫だとは自分でも思えていなかった。
今落ち着いていられるのは藍ちゃんがいてくれているおかげで、一人になるとまた元に戻ってしまうのでないかという不安は振り払えなかった。
心配をかけたくなくて付いた嘘だったけれど、こうも簡単に見破られてしまうなんて。

「ね、いいでしょ?」
「……じ、じゃあ、お願いしてもいいかしら……?」

最近はずっと誰かに甘えていたとはいえ、やっぱり改めてお願いするとなると少し気恥ずかしかった。
けれど、お願いを口にすることで藍ちゃんが寄り添ってくれていると実感したのか、胸につかえていた鉛のような重さはいつの間にかなくなっていた。
やはり私には傍にいてくれる誰かが必要なのかもしれない。

「やったー!」

そう言うと藍ちゃんはベッドの上に跳び乗り、ぺたんと座り込んでこちらを見ながらベッドの上をぽんぽんと叩いて見せた。

「ほら千香瑠、おいで?」

はたから見ると、藍ちゃんがはしゃいで甘える側で、私はそれに付き合ってあげているように見えるかもしれない。
実際普段の私たちはそんな間柄だった。ねだる藍ちゃんに私がごはんやお菓子を作ってあげて、おいしそうに食べる姿をそっと見守る、そんな関係。
その甘える甘えられるの立場が今この瞬間は逆転していることに、そわそわしたむず痒いような気持ちを感じながら、私は藍ちゃんのもとへと向かった。

「わっ」

私は藍ちゃんの隣へ座るや否や、彼女を抱き締めた。

「きょうの千香瑠、あまえんぼさんだね、いいよ?らんにいっぱいあまえて?」

突然抱き着いたというのに、藍ちゃんは先ほどと同じように、嫌なそぶりをかけらも見せることなく、私を肯定してくれた。

「ぎゅーっ」

私を抱き返してくれるその腕から伝わる、程よい圧迫感が私の心を満たしていった。

「藍ちゃん?」
「なあに?」
「その……、き、今日はこのまま、ぎゅってしたまま、寝てもいいかしら……?」

これまでもヘルヴォルの誰かにそばにいてもらうことはあった。
けれど、抱き合ったまま寝るなんてことはまだ経験がなかったため、このお願いには相当の気恥ずかしさがあった。
それでも藍ちゃんは穏やかな笑みとともに返答をしてくれた。

「うん、いいよ、らんも千香瑠とだっこしたまま寝たいな」

そのまま二人で横になり布団をかぶる。

「えへへ、千香瑠といっしょのおふとんだとね、あったかくてきもちいい」
「私も気持ちいいわ、藍ちゃんといると、胸の奥までぽかぽかしてくるみたい……」

藍ちゃんの小さな体から伝わって来る体温と、とくんとくんと一定のリズムで刻まれる鼓動が心地いい。
温度と振動、そして誰かと触れ合っているという安心感が、先ほどまで休まることのなかった私の脳を、少しずつぼんやりとさせていった。

「ふぁ……」
「おねむになったらいつでも寝ていいよ、らんがずっとそばにいてあげるね」

そういうと藍ちゃんは私の背中を抑えていた手をゆっくりと動かし始めた。

「なでなで、ぽんぽん、いいこ、いいこ」
「んぅ……」

さすったり、軽くたたいたり、まるで赤ん坊をあやすみたいな動きだ。どこで教わったのだろう。

「一葉のおへやでよんだの、夜にねむれない子はね、なでなでぽんぽんしてあげるとね、朝までぐっすりなんだって」

私の疑問に答えるかのように、藍ちゃんから説明がされる。
あの時の育児本だろうか、その本が誰のために用意されたのか知ったらきっと驚くだろうな、もしかしたら子ども扱いされたことに対して、またご機嫌斜めになってしまうかもしれない。
そんなことが頭に浮かんで少しおかしかった。

「ん……、よし……よし……いい、こ……」

しばらくそうやっているうちに眠たくなってきたのだろう、私を撫でる手の動きとあやす声が、少しずつ途切れがちになる。
私のために無理して起きようとしてくれていたことが、申し訳ないと同時にとてもうれしかった。
半分目の閉じかけたその幼い表情を、私もまた、重たいまぶた越しに眺める。

(おやすみなさい、そして、ありがとう……)

言い表しようのない幸福感につつまれながら、私の意識は少しずつ、温かく深い水の底へと沈んでいった。

その夜見た夢はもうほとんど薄れてしまっているけれど、ぼんやりと覚えている。誰かに温かく包まれているような夢だった。
それは私の救いと、そして希望の証に違いない。
夢の中で私を包み込んでくれていたのは誰だったか、記憶には残っていなくとも、考えるまでもなかった。

命日は1つでいい【琴陽、御前】

※舞台 The Lost Memories のネタバレがありますわ。

命日は1つでいい【琴陽、御前】

 都内某所。
 少々古びたマンションの一室にて。

「どうかしたのですか?」

 朝の飯時である。
 琴陽はなにやら落ち着かない様子の御前に話しかけた。
 俯いて朝刊ーー1週間も前のーーを見ていた御前がちらりと琴陽を見返す。

「別に。……なにもないわ」

 そう言って御前は再び朝刊のテレビ欄ーー1週間も前の!!ーーへ視線を落とす。しかしその目は動いておらずまともに読んでいないのは明らかだった。そもそも御前はテレビをほとんど見ない。
 なんでもないわけないだろうと思ったが「左様ですか」と聞き流し、琴陽は静かに配膳を進めた。ちゃっちゃとダイニングテーブルに簡素な朝食を並べていく。朝の炊事は琴陽の仕事だった。取り決めたわけではなく二人での生活が始まってから自然とそうなっていた。

「準備できましたよ」
「ありがとう琴陽」

 朝刊を折りたたんで御前が前へと向き直る。
 以前、琴陽は「炊事当番でも作りますか?」と御前へ持ちかけたことがあった。遠巻きに御前が琴陽の調理を見つめることがあり、ひょっとすると御前はご飯を作りたいのではないか?と琴陽は考えたのだ。しかし返ってきた答えは「あなたのご飯を食べていたいわ♡」というもので、結局そのままになった。
 あの時は御前の言葉にいい気分になっていた琴陽だったが、その後の様子や、料理を失敗しても一切口出ししてこない御前を見ていると「ひょっとしてこの人はご飯が作れないんじゃないか? ときどき調理を覗いてくるのは料理というものを勉強しようとしているだけじゃないのか?」という疑念が湧き始めていた。湧き始めていたがとりあえずその話題には触れないでいた。今日も触れるつもりはなかった。
 二人はお行儀よくいただきますと手を合わせてからご飯を食べ始める。

「いいお出汁のお味噌汁ね」

 美味しそうにお味噌汁を啜る御前。
 琴陽の作るお味噌汁に出汁は入っていないのだが今はまぁどうでもよかった。琴陽は御前の落ち着かない様子の方がずっと気になっていた。

「今日はなにか予定でもあるのですか?」
「えっ。な、ない、わよ?」

 この方はこんなに嘘が下手だっただろうか?
 御前は都庁での壮大な一件以来、憑き物が落ちたように柔らかくなったがそれとこれとはまた話が別だ。今朝から妙にそわそわしていて、御前の所作には落ち着きがない。
 いよいよ琴陽は怪訝な目で御前を無遠慮に見つめ回した。

「あのぉ」
「なにかしら」
「……先ほどから、なにか隠していらっしゃいますよね?」
「……いいえ? どうしてそう思うのかしら?」

 態度がおかしいからですよ。

「いつもと違うご様子なので」
「そ、そう?」
「読んでたその新聞、1週間前のですよ」
「……あら。そう」

 それきり沈黙。
 かちゃかちゃと食事をする音がダイニングを支配する。琴陽はそのまま沈黙に身を委ねた。耐えきれなくなったのは御前の方だった。

「あのね、実は……」

 バツが悪そうに語り始めた御前の口から出てきたのは、眩暈がするような悩みの種明かしだった。

◇◇◇

 御前は名を白井咲朱(しらいさあや)という。
 白井咲朱は長らく戦死したことになっており生きていない存在だった。
 しかし先の一件で、白井咲朱の生存は明るみに出た。そこで御前の中で一つの問題が生じることとなった。

「まだ実家に……連絡していないのよ」
「はぁ」
「それで、今日は私の命日なんだけど」

 言いながら御前は憂鬱に目を染めた。
 生きているのに命日があるとは妙な状況である。

「流石に、そろそろ連絡を入れないといけないと思って……」
「なるほど。それで今日、やっと実家を訪ねようと思っているわけですね」
「ええ。そういうことなのだけれど……でも」
「音信不通にしていたこの何年間を両親になんと申し開きしたものか、ということですか?」
「うっ!」

 両親に御前としての数年間を赤裸々に話すには後ろ暗いものがありすぎた。

「そもそも、ご実家の方は御前の生存をご存じなのですか?」
「それはきっと、夢結や各方面から伝わっていると思うのだけれど、でも、私の方から一切連絡をしないというのは、ちょっと……流石に不義理がすぎると思って……」
「不義理どころか妹の命を……ですものね」
「うっ!」

 話しづらいどころではなかった。
 単に失踪していたというだけでも胃が潰れるような思いがする。御前の心情については、琴陽にはもう想像もつかない。

「朝ご飯を食べたら実家へ行こうと思っていたのよ。でも……いよいよ行くとなると、なんだか心細くて」
「なるほど」

 御前はしおらしい表情を見せた。これは御前というよりは白井咲朱の表情なのだろう。

「……」

 琴陽は御前を見つめる。
 今まで、御前は仮面を被り続けてきた。それは物理的な意味でも心理的な意味でも。多くの場合、表情というものは意識的に作られるかあるいは理性的に抑制される。しかしあれ以来、御前はどこか、素の表情を曝け出すことに注力しているように映った。それは長らく仕舞い込んでいた白井咲朱の人格を思い出すための作業のように思えた。ひょっとすると、その感情の表出は琴陽に対する意思表明の意味合いもあるのかもしれない。自分はもうかつての「御前」ではないのだと。

「わかりました。私もついて行きますよ」
「!!」

 琴陽は手を伸ばしてテーブル越しに御前の手を握り、優しく微笑みかけた。

「い、いいの? お願いしてもいいの?」

 御前が琴陽の手を握り返す。以前はもっと、この手のひらを妙に大きく感じた。でも今は、琴陽が感じるのは白井咲朱の等身大の手の大きさだった。

「どうしてそんなに弱気なんですか? もちろんついて行きますよ」
「あ、ありがとう琴陽!! あなたがついてきてくれると本当に心強いわ!! ええ!! ええ!!」

 御前からこれほど感謝されたことが今まであっただろうか?
 琴陽は苦笑した。

「とりあえず、ご飯を食べてしまいましょう。冷めてしまいますから」
「ええ! そうね!」

 琴陽が同行すると約束して心のつかえが取れたのか、促されるまま御前はにこにこと箸を進め始めた。

「琴陽のご飯はおいしいわね!」
「ありがとうございます」

 何度もおいしいを繰り返しながらご飯を口に詰める御前はなんだか可愛らしく見えた。その姿は以前の御前とはまるで重ならない。
 あれから御前は超然とした振る舞いをしなくなった。貫禄というか、年長者の佇まいは残しつつも、所作の節々には親しみやすさが滲んでいる。琴陽が見上げていた御前は地に足をつき、もはや琴陽と同じ視線に立っていた。

「琴陽がいてくれて本当によかったわ。ありがとうね琴陽」
「わかりましたから……なんだか照れくさいのでそろそろやめてください」
「うふふ」

 御前ははにかむような、どこかぎこちない微笑みを琴陽に向けてくれる。表情から険が取れた御前は、自分の表情筋の使い方を丁寧に改めているように思えた。最近は迷いのある表情を見せることも珍しくなく、かつての自分を引っ張り出してその着心地を確かめているようにも見える。仮面を剥ぎ、素顔を晒すことに努めているその姿を琴陽は見守りたいと思っている。今まで知らなかった白井咲朱としての新しい御前の表情を見るたびに、琴陽は絆が深まっていくような気持ちになった。琴陽は御前のことをもっとよく知りたかった。今まで、彼女のことを何も知ろうとしてこなかったから。

「食べたら、着ていくものを一緒に選びましょうね」
「ご実家へご挨拶に向かうなら、私はルドビコの制服ぐらいしかありませんよ。私よりも御前の正装はあるのですか?」
「……あ、あら。それは考えてなかったわ」

 まさか御前が百合ヶ丘の制服に袖を通すわけにもいかない。かと言って今まで着ていた戦装束では派手過ぎる。

「行きがけにスーツでも買って着て行きますか?」
「……そうね。そうしましょう」

 こくこくと頷く御前はどこか幼さを感じさせた。何もかもを完璧にこなすような印象が、前はあった。少なくとも琴陽にはそう見えていた。
 でも今は、長い間隠してきた顔を琴陽に見せてくれる。日に日に親しみを増す御前と生活をしていると、彼女の妹になったような錯覚を覚えることさえあった。御前は私をどう思っているのだろう。妹のように思っているのだろうか。琴陽はそんなことを聞いたりはしない。聞くつもりもない。でも、御前が自分をどう捉えているのか気になっている。

「御前は……」

 琴陽は箸を置いた。俯きがちに御前の瞳を見つめる。

「以前とは変わられましたね。ずっと傍にいたのに、実際は遠くにいたんだと今になって思います」
「……琴陽?」

 御前は席を立ち、顔に陰りを見せた琴陽の側に寄り添った。

「ごめんなさいね。きっと、戸惑わせてしまっているわよね。今までの私と、今の私と」
「いいえ、御前のせいではありません。私が御前のことを見ようとしていなかったせいです。あなたのことも、自分のことも、きちんと向き合おうとしていなかった」
「それこそ私の方こそ向き合っていなかったわ! 尊大に振舞って、貴女に慕われて、崇められて、それで心地よくなっていた。そういう自分でいることが一番、楽だったから」
「でも、私にとってもその御前に付き従うことが、一番楽で、幸せでした」
「琴陽……」

 どうしてこんな話をし始めてしまったのだろうか。
 琴陽は自分で自分がわからなくなった。でも"こんな話"をする必要が自分にはある気がしていた。御前が捨て去った仮面に琴陽は未練がある。御前の方も未練がましい琴陽の思いに気づいているはずだ。
 意を決して、琴陽は訪ねた。

「呼び名を……変えた方がいいでしょうか」

 御前。

 それはもう彼女の名前ではないが、琴陽はその呼び方を変えなかった。変えたくなかった。琴陽が一番苦しい時に助けてくれたのは白井咲朱ではなく御前だったから。御前という名前は琴陽の中で特別だった。自分の名前よりもずっと。自分だけが口にする特別な呼び名。

「そのままでいいわ。私が最初にあなたにそう名乗ったんですもの」
「でも」
「いいのよ。いいの。私は御前の命日を作るつもりなんてないから。命日なんて、白井咲朱のだけで充分よ」

 適切な言葉が見つからない。でも、"御前"という呼び名は絆の証のようなものだった。琴陽と咲朱を結びつけている楔。
 琴陽は、御前も自分の思い入れに気づいているのだろうと、なんとなく感じていた。事実、あの日以降も、御前から呼び名について訂正を求められたことはない。琴陽は御前に甘えていた。

「琴陽。私は御前の仮面を捨てはしたけれど、あなたとの思い出まで捨てる気はないわ。あなたがそう私を呼んでくれるのを、なんていうか、私も嬉しく思っているから……ね?」
「……はい」

 御前が琴陽の頭を抱き寄せた。気づけば琴陽は泣きそうになっていた。
 琴陽にはずっと不安があった。高みに行くという目的を失った今、御前と琴陽が一緒にいる意味は曖昧になった。極論で言えば、もう一緒にいる意味はないのだ。それぞれが元の立場に戻ってもよかったはずだった。
 もしも、咲朱様と呼び続けたら、別れが近づいてきて、本当に現実になってしまう感じがして嫌だった。そんな子供じみた不安が琴陽の心にいつも絡みついていた。白井咲朱に戻れば、御前は白井夢結の姉に還るのではないかと。自分の傍から離れていってしまうのではないかと。
 御前が琴陽の頭を撫でる。心地がいい。

「私にはまだまだあなたの力が必要だわ、琴陽」
「御前……」
「私のお母様はね、怒るととても怖いの。だから一緒に来て……お願い」

 しんみりとした空気の中、さわやかに御前が笑った。
 なんだその理由は?と琴陽は破顔した。
 色々台無しだった。

『命日は1つでいい』終わり

お姉様の水難 Another【梅、夢結】

お姉様の水難 Another【梅、夢結】

スレでご依頼されたものですわ!
本文はガーデン裏サイトに……

あなたの色に染める【千香瑠】

あなたの色に染める【千香瑠】

 夢。
 夢を見る。
 それが私の日課となりつつある。

「それではみなさん、おやすみなさい」

 消灯の時間が迫っていた。
 夕食後に簡単なミーティングを行い、そのまま歓談に興じていた私たちは就寝の挨拶を交わし合ってヘルヴォルの控室を出て別れた。エレンスゲのリリィはみな個室だ。自室に戻った私はシャワーを浴びて夜着に着替える。髪にヘアオイルを馴染ませてドライヤーをかけていく。
 時計を見ると22時になろうとしていた。

「……いいタイミングね」

 私はパソコンを起動する。立ち上がると手早くインターネットブラウザを起動してお気に入りのサイトへ飛ぶ。


リリィ夢小説ポータルサイト りりぽた

新着夢小説 最新5件
New! 22:00
 タイトル:【長編】決して折れぬ楯 第27話
 作者:ホワイトローズ

New! 21:58
 タイトル:黄昏を駆る貴公子
 作者:ノーハッピー☆

New! 21:45
 タイトル:jealousy-law
 作者:アインベルト団

New! 21:11
 タイトル:貴女に傅きたいだけ
 作者:いじん

New! 20:49
 タイトル:ベッドの中の暴君
 作者:名無し


「更新きてるわ……!」

 りりぽたにNew!の表示が立ち並んでいる。その中にちょうどいま22時に更新されたものがあった。


New! 22:00
 タイトル:【長編】決しておれぬ楯 第27話
 作者:ホワイトローズ
 タグ:#エレンスゲ女学院 #A.kzh様


 誰が書いているのかはわからない。
 しかしこの投稿者ホワイトローズは決まって22時に投稿されるように設定しているようだった。ホワイトローズは不定期に――連日投稿することもあれば一週間以上空くこともある――A.kzh(あいざわかずは)夢小説ばかりをりりぽたへ投稿していた。

「私の知り合いなのかも……」

 広いようで狭い世界だ。
 ひょっとしたら顔見知りのリリィの可能性はじゅうぶんある。しかし詮索をするのはマナー違反のような気がして、投稿者について考えるのはやめた。

「この人の作品だけは安心して読めるのよね」

 寝る前に、夢小説を読む。キーを叩く。
 この習慣は偶然に生まれた。
 私がりりぽたに出会ったのは、エレンスゲやヘルヴォルの風評を調べようとネットで検索をかけていたときだった。りりぽたに触れ、そこで初めて夢小説というものの存在を知った。まったくの異文化だった。

 まず、この”夢小説”というものについてすこし説明をしたい。


リリィ夢小説ポータルサイト りりぽた
貴女の名前→[ 千香瑠_ ](テキストに表示されます)


(なにかしら、このサイト……ゆめ……小説?)

 出会ったとき、私は夢小説という言葉の意味がわからなかった。
 結論から言えば、夢小説では打ち込んだ自分の名前が主人公の名前として使用される。つまり、憧れのリリィのパートナーとしてテキスト上に出力されるのだ。
 例えば、私の名前を打ち込めば……


貴女の名前→[ 千香瑠_ ](テキストに表示されます)

作者:星岡☆ジュリエット

(中略)

「おい千香瑠。お前、こんな格好して……誘ってんのか?」
「か、一葉……さん」
 そんな……一葉さんが着ろっていったから着たのに。
 私はバニーガールのまま身をよじる。
 私の太腿のうえを一葉さんの手のひらが這う。
「さん付けはやめろっつたろ千香瑠。それとも、お仕置きが欲しいのか?」
 甘く囁くように一葉さんが耳打ちしてくる。駄目。頭がくらくらする。近すぎるよ一葉。
「あっ、やっ、待って! 駄目ッ! 一葉……こんなところで…!!」
「いいんだよ。私に任せろ」
「か…一葉ぁ……!!」
 一葉の手がグッと私を引き寄せ、衣装の中へと侵入してきた。


 これが初めて読んだ夢小説だった。
 テキストに指示されるがまま名前を打ち込んで読んだ初体験がこんな感じだったので私は困惑した。それと同時にうまいことを考えるものだと感心もしていた。

(ど、どうかしているわ……何なのこれは)

 胸がどきどきと鳴っていた。
 私はりりぽたがどういうサイトなのか見極めるためにその奥へと足を踏み入れていった。ヘルヴォルとして確かめる義務があった。
 探索の結果、この夢小説というものは一口では言い表しようがないほどにさまざまな趣向があるようで、一葉ちゃんの場合はなぜか「オレオレ系」のキャラにされていることが少なくないようだった。一葉ちゃんは粗野な喋り方なんてしないのに。

(……私がこんなものを読んでいていいのかしら)

 はじめは戸惑いが大きかった。
 実在の人間(リリィ)を他者が書いているという状況は必ずしも健全ではない。少なくとも、りりぽたを健全ということはできなかった。それは夢小説について何も知識を持っていなかった私にも判別できた。夢小説というのはある種の禁忌を犯している。背徳を前提としている。そんな確信があった。

(読むことにすら罪悪感があるのに、こんなにたくさんの夢小説が書かれているのね……)

 この夢小説投稿サイト「りりぽた」には一時間に数件の投稿がある。一日あれば50件を下らない数になり、さらにそれらを読みに訪れる読者の数は日に千人を軽く超える。結構な規模である。しかし、私はつい先月までりりぽたも夢小説も知らなかった。

(こういうサイトを見てるというのは口に出しづらいものね)

 大っぴらに話題に出せるようなものではないのは何となくわかった。特に私のような立場ならばなおさら。
 夢小説には登場人物の、リリィの名前のタグが付いている。

(知っている人の名前がいくつもあるわ……)


#A.srh様
#F.kit様
#I.M.hmr様


 知っている人というのは「知り合い」という意味だ。
 表記はぼかされているが上から天野天葉、船田純、一之宮・ミカエラ・日葵。彼女らとは御台場迎撃戦やヘルヴォルの外征で出会っていた。
 これだけではなく、相当数のリリィが夢小説というキャンバスに描かれている。例えばそれは百合ヶ丘のリリィだったり、御台場女学校、ルドビコ女学院、神庭女子藝術高校、そしてエレンスゲ女学院のリリィだったりした。
 その中でも、私が真っ先に見つけて検索をかけた人物。
 エレンスゲ女学院、相澤一葉。


タグ[#A.kzh様]


 タグをクリックすれば自動で検索が実行される仕組みになっている。
 A.kzh様タグをクリックする。


タグ検索結果
A.kzh様 122件のHIT


 今年の4月にヘルヴォルが結成されてから今日にいたるまで、私たちは東京のいたる所へ外征出たり活動を続けてきた。それに呼応するかのようにA.kzh様夢小説の数は徐々に増えてきている。

(こんな形でヘルヴォルの活動が広まっていることを体感するなんて)

 もともと私は自分たちの活動が、一葉ちゃんの頑張りがどのぐらい認知されているのか知りたくてネットで検索をかけたのだけれども、思いもよらぬ形でその広まりを知ることとなった。りりぽたに投稿されているA.kzh様夢小説では、一葉ちゃんはかねがね一貫して正義感の強い人物として描かれており、悪意のある人物のように描かれていることはなかった。ヘルヴォルの活動は着実に実を結んでいるのではないだろうか。少なくともリリィの間では。
 しかし、喜ばしいことばかりではなかった。
 それは夢小説が持つ性質にある。


作者:マヨマヨッピー

(中略)

 耐えきれなくなった一葉が私を庇うように前へ出た。
 壇上の前面に立った一葉にエレンスゲの生徒たち全員の視線が集まる。

「もうしわけありません千香瑠様。私にはもう隠すことなんてできない!」
「一葉っ! 駄目っ!」

 言っても止まらなかった。
 一葉がマイクを掴む。
 喧々諤々だった講堂が静まり返る。
 みんな、一葉を見つめていた。

「皆さん聞いてください」

 一葉は高らかに宣言した。

「――私と千香瑠さまは婚約しています」

 講堂は阿鼻叫喚に包まれた。

「今日を持って、私、相澤一葉はヘルヴォルを辞任し、千香瑠様とともに生きていきます」


 ……一葉ちゃんはヘルヴォルを辞めたりなんてしない。

 夢小説は夢小説であってドキュメンタリーではない。空想の産物でしかない。
 どこかの誰かに素描された一葉ちゃんはあまりに現実の一葉ちゃんとかけ離れていて、私はそれを一葉ちゃんだと認めることができなかった。
 いま示した夢小説では、私の婚約者である一葉ちゃんがエレンスゲの呪縛から解き放たれるために私を連れて外の世界へと出ていく、そういう物語になっていた。
 上の物語の結末も受け入れがたいものだった。


(中略)

 一葉の背に掴まって、夜のハイウェイをバイクで駆けていく。
 私は振り落とされないようにぎゅっと一葉に抱き着く。
 振り返ってももう追っ手はいない。
 見上げれば夜空には月が出ている。
 周りは既に廃線となった道路で、人も車もいない。
 私は恐る恐る一葉へと肩越しに呼びかけた。

「ねぇ一葉、もうリリィには戻れないよ……これで本当によかったの??」

 怯えを含んだ私に対し、一葉の答えは溌剌としていた。

「ええ、これでよかったんです。実は私、本当はリリィになんてなりたくなかった。天性の能力があったから続けてきただけで。ずっと。ずっと貴女と遠くに行きたかった」
「……一葉」

 一葉の真摯な言葉に胸が震えた。


 真摯?
 これが真摯ですって???

「一葉ちゃんはこんなこと言わないわ」

 りりぽたに投稿されている夢小説の中の一葉ちゃんは、いや、A.kzh様はまったくの別人として私の目に映った。どの一葉ちゃんもあまりにも王子様然としすぎていて、一葉ちゃんの持つ愛らしさやときおり見せる1年生らしい初心なところが描かれていなかった。いや、そんなところは枝葉末節に過ぎない。問題は、改竄されたA.kzh様の人格だ。
 一葉ちゃんが持つ確固たるリリィとしての理想像。
 一葉ちゃんの行動の諸原理。

「リリィになんてなりたくなかった、そんなこと、一葉ちゃんは絶対に言わない」

 夢小説にあったのはただひたすらに見せかけだけのカッコよさだった。
 あるいは弱さを一切見せない超人の如きリリィ、はたまた愛に熱をあげる全くの別人。
 しかし、それらを読んでいる人が何千人といて、あまつさえ高評価さえされている。
 りりぽたはそういうところだった。


あとがき
作者:マヨマヨッピー

会ったこともないけど書いちゃいました(^^♪
kzh様はバイクとか好きらしいですよ!
てか写真見たら顔めっちゃ好みでヤバすぎ!!!
A.kzh様可愛いとカッコいいが同居してる~!略奪されたい~!

追記.高評価ありがとうございます~人(*´ω`*)


「~~~~ッ!!!!!」

――耐え難い。

 思わず椅子から立ち上がりディスプレイに掴みかかる。
 ヘルヴォルであるという理由で理不尽に中傷されるなら、私は耐えられる。でも、一葉ちゃんを歪曲されることは私の心を激しくかき乱した。一葉ちゃんがリリィとしての責務をほっぽりだして恋人と逃げ出すような人間だと描写され、なおかつそれを評価する人たちがいるなどとは……あまりに……度が過ぎている。
 さらに別の物語のA.kzh様はもはや一切弁解の余地なく別人だった。


作者:夢見がちな夢子さん

(中略)

「千香瑠さんにはお話があります。他のメンバーは出て行ってください」

 隊長の命令にメンバーは従った。
 私を残して他のメンバーがぞろぞろと出ていく。
 リリィとしては新人の、ほとんど落ちこぼれの私を何故一葉様がヘルヴォルに指名したのか。
 最後の隊員が出て扉が閉まった。
 控室に私と一葉様だけが残された。

「千香瑠さん。私はヘルヴォルのリーダーです。つまり、序列1位。知っていますね?」
「はい」
「序列1位ってことは、私の方が上だってことです」
「……はい」
「ヘルヴォルの方針は私が決める。貴女はそれに従う。わかりますよね?」

 一葉様の手が伸びてくる。

「で、でも……一葉様」
「でもは禁止、と言いましたよね? 私は何もいじわるを言ってるわけではありませんよ。私たちには結束が必要です。そう、何があっても乱れぬ結束が。厳しい戦場でお互いを守るための絆が」

 一葉様が、私を選んだ理由って。
 う、嘘?!

「あの宣言に嘘はありません。私は何一つ諦めず、全てを守る。もちろん貴女もです」
「か、一葉様」
「千香瑠さん。親交を、深めましょう」

 ぐっと抱き寄せられた。
 逆らい難い強い力だった。
 でも、私が逆らえなかったのは力が一葉様の力が強かったからじゃない。
 私に、逆らう気持ちがなかったからだ。
 一葉様の言葉に嘘がないことは先の戦いで知っていた。実際に、戦場で体験していた。勇ましく戦うこの人についていきたいと思った。
 一葉様の手が私のブレザーを脱がした。流れるようにブラウスのボタンを外しにかかる。

「もし本当に嫌だったら。これには、逆らってもいいですよ?」

 強いリリィというのは、往々にしてこういうところがあると、誰かから聞いたことがある。
 私は、逆らわなかった。


 ……何?
 ……何なの?
 この作者は一葉ちゃんを何だと思っているの?

 りりぽたにある夢小説を読み進めるうちに、私の心は凍り付いていった。
 悲しみ。怒り。憤り。
 もう心穏やかにはいられなかった。
 少なくとも数千人がこれらを読んでいる。これらが衆目に晒されている。まるで一葉ちゃんが磔にされて投石を受けているような感覚。一番大事なものが傷つけられていく苦しみ。一葉ちゃんが掲げる信念や込めた思いを知りもしないで好き勝手に一葉ちゃんを書いた小説モドキが……
 酷い作品だと一葉ちゃんが戦場で窮地に陥って愛する人だけを引き連れて逃げ出す物語さえあった。


作者:ド紫式部

(中略)

「一葉っ! 私はいいから、奥に市民が残ってるの! そっちを助けて!」
「もう手遅れですっ! 一人しか助けられない! ここで貴女を失うわけにはいかない!」
 一葉が私の手を掴んだ。
 崩れかかったビルから、一葉は無理やり私を外へ連れ出そうとする。
 私はくじけた足でそれに抗おうとするが、無駄な抵抗だった。
「なんで諦めるの?! 助けるって言ったじゃん! 私は覚悟ができてる! 私じゃなくて市民を助けて!」
「駄目です! 出ますよ!」
「でもっ!」
「私はッ!! ――貴女の方が大事なんだ!!」
「――一葉」
 抱きかかえられて外へ出た。
 外にはまだヒュージがうじゃうじゃいた。
 ヒュージの合間を縫って、一葉は燃え盛るビルを離れていく。
 わき目に逃げ遅れた人たちを残して、ヘルヴォルの仲間を残して、私たちは逃げる。
 背後で、ビルが倒壊する音が響いた。
 轟音とともに粉塵がやってきて、私と一葉を巻き込んだ。


 駄目。
 これは無理。
 容認できない。

「……ふっ……ふざけないでっ!!」

 ディスプレイの夢小説に向かって怒鳴りつける。

「一葉ちゃんは……一葉ちゃんはそんなことしないッッ!!」

 握り締めた拳をキーボードに叩きつけようとして、しかし、なんとか堪えた。
 私の体は、心は、怒りでわなわなと嘶いていた。

「ど、どうして……どうして一葉ちゃんをそんなふうにするのよッッ!! ……どうして……ッッ!!」

 一葉ちゃんが他の人を置いて逃げるだなんてそんなことは絶対にしないどんな状況だってたとえ一人でも戦場に残って命を賭して戦い続ける恋人だけ連れて市民も仲間も置き去りにヒュージから逃げるなんてありえないこれを一葉ちゃんとして描いているだなどとはあまりにもふざけている一葉ちゃんを侮辱している尊厳を蔑ろにしているものを知らないにもほどがあるこれを夢小説というのならば悪夢だ悪夢の小説だこんなものがまかり通っているなんて許されない許されてはならない許してはいけない。

「はぁ……はぁ……はぁ」

 しかし、ただの読者にすぎない私は無力だった。一葉ちゃんの傍にいるのに、一葉ちゃんを正しく知っているのに、間違った夢小説を止めることも消すこともできない。
 私にできるのは低評価をクリックすることだけ。

(駄目よ……こんなの絶対に駄目……何とかしないと……)

 初日の印象で言えば、私にとってりりぽたというサイトはゴミ溜めに等しかった。
 ただし、ごく一部ではあるけれども賞賛に値するものも投稿されていたのは事実だ。

「……! あら、あらあらあら!? これは良いわね!」

 例として、十分に鑑賞に耐えうる一品のひとつを下に示そう。


作者:残響の堕天使(アンビエント・シトリナ)

(中略)

 死んだ。
 絶対に死んだ。
 そう思った。

 でも。

「はぁあっ!!」

 爆発。

 ゆっくり目を開けると目の前にリリィが立ってた。
 紫紺のレギオン服。
 CHARMを振り抜いたリリィ。
 ヘルヴォルの相澤一葉様。

「えっ!!」

 私を粉々に打ち砕くはずだったヒュージの魔弾は、彼女が弾いたのだ!

「一葉……様?!」

 どうして!?

 昨日、私は一葉様を突き放した。
 とてもひどいことばを吐きかけた。
 嫌われたって思った。
 なのに。

「どうしてここに」
「話は後です! アレを片付けます!」

 言い捨てて一葉様がヒュージに向かって行った。
 Blutgang(ブルトガング)が吠える。

ドガガガガガン!!

 ヒュージはあっけなく屠られた。
 一葉様が振り返る。

「私は貴女を嫌ったりなんてしてませんよ」

 まるで私の心を読んだかのように一葉様がゆってきた。
 一葉様は微笑んだ。

「一葉様の悪口いっぱい言いました。なのに、なんで」
「千香瑠様が私と同じだからです」
「えっ」

 同じ?
 違う。
 違うよぜんぜん違う。
 一葉様は強い。
 私はただのマディックで、弱くて、中途半端だ。
 ヒュージと向き合うのがいつも怖い。

「私はマディックです。でも一葉様はヘルヴォルの、エレンスゲのトップリリィじゃないですか。ぜんぜん違いますよ」
「千香瑠様。マディックも、リリィも、向き合っている恐怖は同じものです。スモール級だとか、ラージ級だとか、戦っている敵の強さなんてどうでもいい。自分にやれる精いっぱいをやって、貴女がここにいるのなら、千香瑠様は私と同じです」
「同じ……」
「そもそも私だって一人でできることには限りがあります。どんなリリィもギガント級を1人で倒すことはできない。できないことだらけで、自分が嫌になることもあります」
「……」

 飾らない言葉。
 優しい目だった。その一葉様の目は真剣だった。
 慰めの言葉ではなくて、きっと本心から言ってるんだ。
 なんて、なんて強い人なんだろう。

「だから一緒に戦ってください。千香瑠様。私を助けてください」

 一葉様の手が私の頬に触れる。
 一葉様の言葉が優しくて。嬉しくて。綺麗で。
 私は泣いていた。


「そうそう一葉ちゃんはこういうことを言うのよ。きっと言うわ」

 現実にも似たようなことがあった。ひょっとするとそちらのことをモデルに書き起こした小説なのかもしれない。しかしそう考えると、これを書いたのはシエルリントのマディックということになるのだろうか? 作者の名前もどこかシエルリントを連想させる趣がある。


タイトル:UnBroken Blutgang
作者:残響の堕天使(アンビエント・シトリナ)


「この方からは一葉ちゃんへの敬愛を感じるわ」

 私はアンビエント・シトリナさんをお気に入り作者に登録した。
 お礼というわけではないが、ほんのささやかながら感想も、丁寧に言葉を選んで感謝の気持ちを伝えてみた。こういう清涼剤がなければ私は泥水を啜り続ける羽目になっただろうから。
 こういった素敵な出会いもあったがそれは例外的なものだった。りりぽたの夢小説を探るそれは、枯れた金山の小川で砂金を浚うに等しい行為だった。
 苦痛を伴いながらも私はその日のうちにりりぽたにあるA.kzh夢小説を読破した。

☆☆☆☆☆

 
 りりぽたに出会った日。
 その日から私はA.kzh様タグの夢小説が増えていないか監視を始めた。それはごく自然なことだった。お菓子作りでチョコレートの温度を綿密に監視するように――37度でもなく39度でもなくそれは38度に保たれねばならない――夢小説を監視することが私の日課になった。そしてそれは決して楽な作業ではなかった。

「……ま、また、またこんな小説が……」

 その日、新しく投稿されていたのはまた浮気の類の夢小説だった。
 どういうわけか一葉ちゃんが瑤さんと恋仲になっていて、しかし、結局一葉ちゃんはどこの馬の骨とも知れない女学生と駆け落ちするというとんでもない話だった。駆け落ちなどと表現されているが明確にこれは浮気だ。一葉ちゃんがそんな不誠実なことをするわけがない。するわけがないのに、また高評価が付いていた。夢小説に付いた賞賛のコメントを見ていると胸が張り裂けそうだった。


コメント 投稿:nmmn大好きさん
マジメな人が本当に大事な人を見つけて駆け落ちするって…なんだかドキドキしちゃいました! A.kzh様のキャラ付もgoodです! 連載頑張ってください(๑╹ω╹๑⋈ )応援してます♥


「違うッッ!!!! そんなことしないッッ!!! そんなの一葉ちゃんじゃないッッ!!!!」

 私は拳をキーボードに打ち付けた。衝撃でキーが弾け飛び、ばらばらと床に飛び散る。

「はぁっ! はぁっ! あああああああああああ!!!!」

 結局、まともな夢小説はほんの一握り。
 私の神経は日ごとに衰弱していった。

(私は一体何をしているのかしら……こんな生活を送っていては駄目よ……ヘルヴォルの活動に差し障るわ)

 夜、眠れなくなった。
 ベッドから這い出して、夜毎にキーを叩く。
 夢小説など見なければ良い、いや、見るべきではないのだろう。
 私はりりぽたから離れるべきだった。
 べきだったのに離れられなかった。

「千香瑠様? 顔色がすぐれないようですが、大丈夫ですか?」

 数日。たった数日。
 それなのに、私は一葉ちゃんに心配されるまでになった。
 それは単にストレスの問題ではない。表面に出さないように努めていたけれど、無理だった。私はそこまで強くない。
 この疲労はきっと、睡眠の時間よりも質が落ちているせいだろう。この頃、いやに眠りが浅かった。

「ごめんなさい。最近、寝つきが悪くて。でも大丈夫よ。今日はしっかり眠るようにするわ」
「そうですか……無理はなさらないでくださいね」
「ええ。ありがとう一葉ちゃん」

 現実の一葉ちゃんと触れ合っている間は、夢小説の中のA.kzh様のことを忘れられた。実在の一葉ちゃんとお話しすると安心できた。
 私の知っている一葉ちゃん。
 大事な人。美しい人。
 私の憧れの、リリィ。
 一葉ちゃんを失望させたくない。
 平静を取り戻すために飲む薬の量をすこしだけ増やした。

(これは戦争よ……千香瑠……計画を立てるの。私はヒーローじゃない。弱い私が戦うためには平凡な、でも、しっかりとした戦略が必要なはずよ。大丈夫。一葉ちゃんのようにやるのよ)

 私はスケジュールを組んだ。つまり、りりぽたの時間・眠る時間を明確に分けることによっていくらか生活のリズムを調律した。休日やヘルヴォルの活動が少ない日には特に念を入れて予定を組み込んだ。
 りりぽたとの闘争は、おそらく年単位になる。

「一葉ちゃんの正しい姿を伝えないと……」

 そう思う一方で現実の私は非力だった。
 敵は多く、味方は少ない。
 私にできることと言えば、良いものを書いている作者に感想と高評価を贈ることぐらいだ。
 そしてその間にも粗雑なイミテーションがネットにアップロードされていく。


作者:ぽぽんの実

(中略)

「……一葉っ!?」
 自室に戻ると、何故か部屋の中に一葉がいた。
 ベッドに腰をかけて、私へ鋭い視線を向けてくる。
「おやおや、随分と遅いお戻りでしたね千香瑠様」
 口調とは裏腹に一葉の表情はあまりに険しい。怒りだ。私に対する怒りを感じる。
「な、なに? どうしたの?」
「どうした……ですか。それは私のセリフでしょう? 千香瑠様?」
 一葉が立ち上がってコツコツとパンプスを鳴らして歩み寄ってくる。
 私よりも背が小さいはずなのに、一葉はずっとずっと大きく見えた。
 一葉が目と鼻の先にまで迫ってくる。私は後退して、ドアにどんとぶつかった。
 追い詰められた私へ、一葉が手を突き出してきた。
ーードンッ!
「千香瑠様。私が何も知らないとでも? あなたは酷い人だ。私を騙すなんて」
「だ、騙すって……何? 何の話をしているの?」
「とぼけないでください!」
 怒鳴られて私はびくりと体をふるわせる。怖い。怖いよ一葉。どうして怒っているの?
「実は今日、あなたに発信機を付けていたんですよ」
「……え」
「声も聞かせていただきました。随分と、恋花様と仲がよろしいようですね?」
「ち……ちが」
「違わないっ!!」
 いつも優しい一葉が私を怒鳴りつけた。
 そのことがあまりにショックで、ぽろりと知らず涙が出た。


 ぽぽんの実さん、貴女は何が言いたいの? ヤンデレ化って何ですか? 一葉ちゃんなら人のプライベートを探るために人に発信機を取りつけてあまつさえ盗聴すると、そう言いたいのかしら?

 なぜ知りもしない人のことをこのように書くのか。書けるのか。
 一葉ちゃんを淫蕩的饒舌の上に転がして味わっている彼女たち。
 このような荒廃した一葉ちゃんの肖像が衆目に晒されていると思うと、まるで胸にナイフを突き立てられてゆっくりと引き裂かれていくような気持ちになる。
 りりぽたの小説を読むたびにこみ上げてくる、なにか重いもので執筆者の頭を潰してやりたいという暴力的な欲求。
 私は夜毎にキーを叩く、叩く。
 もちろんスケジュールは遵守しながら行動する。これは長期戦であり、一時の感情だけで動いて摩耗することは許されない。

(これは一葉ちゃんじゃないわ。A.kzh様という別人なのよ。落ち着きなさい千香瑠)

 夢小説のリリィはテクストの中の存在であって、実在の人物とは何の関係もない。
 タグに付いている[A.kzh様]は[A.kzh様]でしかなく、読者の多くはきっと相澤一葉という個人に関心はない。
 他のリリィを題材にした夢小説でも、写実主義的な傾向はあまり見られない。事実、あの船田純か「ふぇぇ……お姉ちゃん」などと情けない声をあげている夢小説もあった。よくよく考えてみればそれは当然なのかもしれない。彼女らは一葉ちゃんを、実在の英雄の日常を「知りようがない」のだ。
 一葉ちゃんはエレンスゲのトップレギオンのリーダーとして毎日を忙しく過ごしている。一葉ちゃんの日常に寄り添う機会などヘルヴォルメンバーしかあり得ない。同じエレンスゲ内のリリィでも一葉ちゃんの人となりについては意見が大きく分かれるかもしれない。
 作家たちは実際の一葉ちゃんがどんな人なのか想像するしかない。ネット上で見られる一葉ちゃんに関する情報は断片的なものだけだ。直近では新宿都庁奪還での戦闘やルドビコ女学院の国定守備範囲への外征の活動報告などで、無味乾燥な戦果報告などが多い。一言二言のインタビューが載っている記事もあるけれど人物を探る情報としては心許ないだろう。
 結局、私を悩ませていたりりぽたの作家たちは――もちろん全員がそうというわけではないけれど――夢小説という文化内でパターン化されてきた王子様的なパーソナリティーに[A.kzh]を当てはめているだけだった。私の懸念である「一葉ちゃんの人間性が誤った形で広まっている」というのは恐らく杞憂で、作者と同じく、りりぽたの読者の多くは夢リリィが"完璧"にニセモノであることをほぼ完全に了承して読んでいる。


「私はあなたを諦めたくはない! あんな女とは別れて私と来てください! 千香瑠さん!」
「か……一葉」


 このように、A.kzh様がしばしば略奪愛を行うのは一葉ちゃんが発する言葉の強さにあるのかもしれない。

『私は、なにひとつ諦めずに戦いたい』

 四月。
 大講堂に響いた言葉はあの場にいた全員が知っている。
 G.E.H.E.N.A.が擁するエレンスゲの理念とは真向から対立する相澤一葉の理念。
 実話としてそのような背景があったからこそ、逆境に立ち向かう一葉ちゃんの力強さに魅せられて、「私を連れ出してくれるリリィ」という期待が寄せられたのかもしれない。

「だったら、本当の相澤一葉を広めればいいの……そう……本当の一葉ちゃんを」

 夜毎にキーを叩く。
 目的は明確になった。
 もはや私の指は軽い。

☆☆☆☆☆

 私は落ち着きを取り戻した。
 A.kzh様の夢小説は相変わらず数を増やしているけれど、その描き方に苛まれることは無くなった。
 この夢小説という文化圏に対する私の理解が進んだからだろう。
 あるいは、作家の中に同志を見つけたからかもしれない。

 同士、同好の士。
 話を冒頭に戻そう。

  • 作者:ホワイトローズ

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    作者名:ホワイトローズ
     6月28日 22:00 【長編】決して折れぬ楯 28話 【#エレンスゲ女学院 #A.kzh様】
     7月3日 22:00 シーライン・ドライブ 【#エレンスゲ女学院 #A.kzh様】
     7月5日 22:00 【長編】決して折れぬ楯 29話 【#エレンスゲ女学院 #A.kzh様】
     7月7日 22:00 【長編外伝】星と花火と楯の瞳 【#エレンスゲ女学院 #A.kzh様】

 薬にばかり頼ってはいられない。自分の心は自分で律するべきなのだ。一葉ちゃんがそうであるように私もそうでありたい。あそこまで綺麗な心を持てるとは思わないけれど、一葉ちゃんに恥じぬ自分でありたい、そういうふうに生きたい。
 ほんの少し工夫したことで、私はまた眠れるようになった。

「これは私じゃない。私じゃないの」

 夜毎にキーを叩く。
 正しい情報が拡散されるというのはいいことだ。
 私が広めたいのは相澤一葉であってA.kzh様ではない。
 夢小説という体裁をとって私は真実を拡散する。

「……就寝の時間ね」

 時間で決めたルールを守る。
 パソコンの電源を落として、私は就寝前に明日の授業の準備をする。忘れ物がないようにカバンの中身を確かめる。時刻はもう23時を回っている。もう体調を崩して一葉ちゃんに心配をかけるようなことはしない。
 部屋を消灯してベッドへ潜り込む。
 夢を見るために瞼を閉じる。

(私にはできなくてもホワイトローズにならできる。大丈夫。心配する必要はないのよ千香瑠)

 夢。
 夢を見る。
 夜毎にキーを叩く。
 それが私の日課となりつつある。

あなたの色に染める【千香瑠】 終わり

かえゆり身だしなみ【楓、結梨】

「じっとなさっていてくださいね」
「うん!」

ある日の朝、自室を出る前に、楓は結梨の身だしなみを整えてあげていた。
基本的には結梨身の回りのことは結梨自身で行わせるというのが一柳隊で決めた方針であった。発案者は夢結だが、これには楓も賛成だった。ずっと結梨の面倒を見ていた梨璃だけは少し残念そうにしていたが、本人の成長のため、という夢結の言葉で納得してくれた。
この部屋に来たばかりの時はまだ至らない部分もあったが、夢結や梨璃と協力して熱心に指導した甲斐もあり、ほどなくして結梨は最低限の自分のことは自分でできるようになった。
それでもたまに結梨から楓に、髪を結ったり、一緒に寝たりしててくれないかと子供のような頼みごとをしてくることがある。
それが怠慢やだらしなさからくるものではなくある種のスキンシップとしての要求であることは楓にも分かっていたため、基本的に結梨からのお願いを断ることはなかった。これも同室の義務──といった責任感がないわけではなかったが、それ以上に、承諾した時に結梨が見せる笑顔が好きだった。
結梨はそういう時には大抵、物欲しそうだったり寂しそうだったりといった、普段の素直で快活な彼女とは少し違った遠慮がちな表情を見せる。その憂いが晴れぱっと輝く瞬間に、楓も幸せを感じずにはいられなかった。

「ではいきますわよ」

鏡台の前に腰掛けた結梨の長い髪を一房ずつ掬い上げ、丁寧にくしけずっていく。
結梨の繊細でつやのある髪の毛は触り心地がよかった。質のいい絹糸を連想させるそれは手入れ前の状態でも十分に美しく、楓がわざわざ櫛を入れてやる必要もないのではないかと思えた。
とはいえ、必要がなくとも結梨が喜んでくれるというだけでも十分に意味がある。これは身だしなみを整えるための行為であると同時に、コミュニケーションの機会でもあるのだ。それは二人でゆっくり会話をする時間というだけではなく、触れ合いという非言語的なものも含む。

「えへへ~」

結梨が気の抜けた声をあげる。鏡越しに見えるその顔は、目じりが下がり口がふにゃふにゃと開いた、緩み切った笑顔だった。
それはいつだったか、梨璃と夢結の二人きりのお茶会を遠目から観察した時に見えた梨璃の表情を思い出させた。梨璃と直接血のつながりはない結梨であったが、たまにこういったそっくりな表情やしぐさを覗かせるあたり、やはり影響を強く受けているのだろうか。

「どういたしましたの?」

櫛を動かす手を止めることなく声をかける。

「髪さわられるのね、きもちいいの」
「ふふ、それは何よりですわ」

単純に頭皮の神経が刺激される心地よさに加えて、信頼できる人物に頭を触られるというのは、心理的な落ち着きを得ることができる。それは楓もよく知るところであった。
弱点である頭部を無防備にさらけ出し自由に触らせても良いと思える相手がいるというのは、それだけで精神に大きな安定を与える。
だからこそ幼い子供は親に頭を撫でられることを最大級のご褒美として求め、ベッドの上の恋人は互いの頬に触れあうのだ。
髪の手入れもそれに近い意味を持つ。今のこのスキンシップは、結梨が楓をそれらの存在と同じように見てくれているということの表れであり、楓の心も満ち足りたものを感じる。

「私も、結梨さんの髪を触るの好きですわよ」

素直に気持ちを口にする。この触れ合い自体が一種のコミュニケーションであるとはいえ、直接伝えるべき言葉というのもある。

「じゃあ、これからずっとしてくれる?」
「それはいけませんわ、ご自分でなさいな」
「えー、ケチー」

結梨はぷくっと頬を膨らませて眉を吊り上げる。
楓としても別に結梨の世話をするのが嫌なわけではない。
出会ったばかりの頃は梨璃の頼みだからと仕方なく面倒を見ていた時もあったが、その段階はもうとっくに過ぎていて、結梨の存在は楓にとってもかけがえのないものとなっていた。お邪魔虫だなんて思っていたのが嘘のように感じるほど、結梨と過ごす何気ないひとときは楓にとって大切なものになっていた。
もちろん梨璃への愛情が薄れたわけではけっしてなく、運命の相手をあきらめるつもりは毛ほどもなかったが、だからと言って結梨のことをその時間を奪う存在として疎ましく思うことはなかった。
しかし、だからこそ甘やかしすぎるわけにはいかなかった。

「ご自分のことはご自分でなさると、夢結様や梨璃さんとも約束したでしょう?」
「むー……しかたないなあ、二人にめんじて許してあげる!」

一瞬だけ不服そうな様子を見せた結梨だったが、すぐに笑顔に戻る。楓も本当は結梨にいろいろとしてあげたいし、本当のところを言うと少しだけ惜しい気持ちがあるのだが、彼女の自立を考えればこの方がよいだろう。

「寛大なお心遣い、感謝いたしますわ」
「結梨えらいでしょ?」
「ええ、わがまま言わないなんてとても立派ですわ」

整えている途中の髪を乱さない程度に、称賛の意を伝えるためにやさしく頭を撫でる。
そうするうちに結梨の機嫌も直ったようで、彼女の楽し気な表情を確認してから、また髪をとかす作業に戻る。

「もっと撫でていいよ?」
「これ以上したらまた櫛を入れなおしになってしまいますわよ」
「ちぇー」

とりとめのない会話をしている間に、一通り櫛を通し終わった。

「では編んでいきますわね」

側頭部から後頭部にかけての髪を大きく左右の二束に分け、それをさらに三つに分けて丁寧に編んでいく。

「~♪」

結梨はご機嫌な様子で喉の奥からかすかに声を発している。
楓の手が動くにつれて、結梨のまっすぐでさらさらとした髪の毛は、次第にふんわりとボリュームのある二本の三つ編みへと形を変えていった。
髪を下ろした状態では身長よりも長い髪の毛が幽霊のようなシルエットを与え、どこかこの世のものではないような雰囲気を感じさせた結梨だが、髪型を整えることでかなり印象が変わる。
二本のおさげは無邪気で活発な印象を与え、目の前の少女の持つエネルギッシュな生命力が引き出されるようだと楓は感じていた。

「いかがかしら?」

髪のセットが完了してから結梨に鏡を見るように促す。結梨は首を左右に回して側面や後頭部までチェックをした。
一通り確認を終えた結梨は顔を少し上に傾け、楓と鏡越しに目を合わせる。

「かわいい!さすが楓!」

楓としてはいつも結梨が自分でしている通りの髪型にしてあげたつもりなのだが、本人には違いが分かるのだろうか。
何にしても褒めてもらって悪い気はしない。

「まあ、光栄ですわ……あら?」

と、そこで楓は、結梨の服装が少し乱れていることに気付いた。具体的には、リボンタイの一部が襟の下に隠れてしまっていた。
おおかた楓との交流が楽しみで細かいところまで気が回らなかったといったところだろうか。大したことのない乱れとはいえ、見過ごすわけにもいかなかった。

「あなた、タイが曲がっていましてよ」
「へ?」
「ほら、なおして差し上げますわ」

そう言いながら、後ろから首元に手を回してタイを整えてやる。
結梨は最初だけ少しくすぐったそうに身をよじったが、おとなしく楓の手を受け入れてくれた。

「ありがとう!」
「まったく、夢結様に見つかったらお説教されていたところですわよ?」
「楓がなおしてくれるから大丈夫だもん!」

なぜかどことなく自慢げな表情で、元気な反論が返ってくる。あまりべったり依存されるのも良くないのだが、同室の存在として頼りにされていること自体は楓としてもいい気分だった。
確かに、少なくとも楓が面倒を見ている以上はだらしない恰好で外に出すつもりはなかった、それはリリィとして、そしてヌーベル家のものとしての誇りである。
とはいえそれを当然のこととされても教育上よろしくないため、嬉しい気持ちを悟られないようにしながら忠告しておく。

「そんなことを言っていてはいけませんわよ?あなたも一人前のリリィですもの、これくらいは一人でしていただかなければ」
「うん!結梨、気を付けるね!」

楓の「一人前のリリィ」という言葉がよほどうれしかったのか、結梨は反省しているのかしていないのかわからない満面の笑みで答える。
もう少し厳しくした方がよいのだろうかと一瞬迷いが生じたが、結梨の笑顔を見ているとその疑念も薄れていってしまった。
まあ今回は楽しいひと時を妨げるのも悪いし、次からしっかりと言い聞かせればよいだろう──と、つい自分に言い訳をしてしまう。

「ええ、期待していますわよ」
「えへへ~」

結梨の頭にぽんぽんと触れる。結梨の顔が先ほどと同じ幸福感に満ちた表情になり、くすぐられた大型犬のように気持ちよさそうに、自分から頭を楓の手に擦り付けてくる。
先ほど撫ですぎないように気を付けたというのに、結局髪が少し乱れてしまった。この程度ならすぐに直せるし止める必要もないだろうと、また甘い考えが湧いてしまう。

「ねえ、結梨さん?」
「なあに?楓?」
「私達リリィが、なぜ身なりをきれいにしておくかご存じかしら?」
「なんでって、かわいいからじゃないの?」
「その通り、かわいく、美しく、かっこよく、それらこそがリリィの本質ですわ」
「でしょ!」

楓に肯定され、結梨は満足げな笑顔を見せる。

「リリィというのは、守るべき人々や共に戦う仲間にとって頼もしく、そして自分自身が誇らしく思えるような、素敵な存在でなければなりませんわ」
「うん」
「ただ勝つためだけに戦う、というのはナンセンスですもの」
「なんせんす?」
「意味がない、ということですわ、力のままにCHARMを振るうだけではなく、見るものに希望を与える華麗な戦いをしなければ」

「リリィ脅威論」という説が昔存在した。楓たちが生まれるよりも前、ヒュージやマギといった存在が確認されたばかりの時代の、カビの生えたような論説である。
超常の力を操るリリィ──その時代はCHARMユーザーと呼ばれていたそうだが──とにかく、彼女らを危険視し、挙句の果てにはヒュージと同一視すらするという内容のものであった。
楓も教養として学んだことはあるが、残っている新聞記事やデモの映像記録などの資料はどれも的外れで胸の悪くなるようなものだった記憶がある。
もちろん現在ではそのような説を唱えるものはほとんど残っておらず、公言しようものなら奇異の目を向けられることは想像に難くない。リリィが危険な存在であると考えるものは今やほとんど存在しない。
それはほかでも無い、迫害を受けたリリィたち自身の努力によって勝ち取られた地位である。身を挺して人々を守り、美しく誇り高く戦う姿によって自分たちの存在を認めさせたのだ。
彼女らの戦いは、決して多数派に受け入れられるための媚びへつらいなどではなく、力あるものとして信念を貫くその姿が、それを見る人々の心に響いたのだと楓は信じている。

「ふーん、そうなんだ……」
「ええ、私たちの戦いはただ勝つためだけのものではない、ということを覚えておいてくださいまし」

リリィが華やかな衣装や、時には戦闘に不向きなほどの装飾を身に着けるのもそのためである。
美や誇り、正義といったものこそがリリィをリリィたらしめ、人にとどめるよすがとなる。それらを欠き敵の殲滅のみを求めるならばそれは、マギに支配され、人類を襲う以外の行動を忘れて暴れ狂うヒュージと何ら変わりはない。
リリィなら誰しもが内に持っている己の心の核となるものを周囲へ表明し、より強く自覚し、確固たるものとするために自らを着飾るのだ。

「……」

結梨は少し考えこむそぶりを見せ黙り込んだあとに、楓の方を振り返る。

「ねえ、わたしはどう?結梨はみんなに希望を与えられてる?」
「結梨さん……」

その瞳は少し不安げに揺れ、これから帰って来る楓の答えに対して、期待とともに恐れを抱いているようだった。
結梨がれっきとしたリリィであることを楓は疑っていない。楓だけでなく、一柳隊の仲間をはじめをした百合ヶ丘中の、さらに言えば世界中のリリィが同意するはずである。
しかしその少し特殊な出自からか、結梨自身が周囲に認められることを人よりも強く求めているように思えた。

「もちろんですわ」

結梨の首元に両腕を回し、ゆるく抱きしめる。

「あなたが戦う姿にみんな勇気をもらっていますのよ?」

結梨を励ますための嘘などではない、本心からの言葉だった。
本当は戦う姿だけでもなく、勇気だけでもない。彼女と共に過ごしたあらゆる時間から楓たちは多くの物を受け取っていた。周囲の人々に希望や喜びを与える結梨は、間違いなくリリィのあるべき姿を体現していた。
結梨から得たものは余りにも多く、とても言葉ですべてを伝えきることはできないが、少しでも伝わってくれるだろうか。

「楓……」

結梨はさらに言葉を紡いでいく。

「結梨かわいい?」
「ええ」
「結梨きれい?」
「ええ」
「結梨かっこいい?」
「もちろんですわ」

同じような内容の短い問答が反復される。それは何度も確かめることで不安をぬぐい去ろうとしているようでもあり、繰り返し喜びをかみしめているようでもあった。

「よかった……」

首に回した楓の手に結梨の手がそっと触れる。伝わって来るほんのりとしたぬくもりが、血の通った確かな存在を感じさせた。

「まあ、わたくしから見ればまだまだですが」
「む……!」

少し茶化すと頬を膨らませて抗議の意を伝えてくる。

「落ち着いてくださいまし、いずれもっと立派なレディになれますわ」
「ほんと?楓みたいになれる?」

かと思えばフォローを入れた瞬間にぱっと明るく色づく。感情豊かなその表情は間違いなく人間のものだった。

「ええ、そのためにももっと勉強しなければなりませんわね」
「じゃあ今日は、いっぱいおしゃれ教えてね!」
「仕方がないですわね、今日は梨璃さんと過ごそうと思っていましたのに……」
「じゃあ梨璃も一緒に!いいでしょ!」
「まあ、ではなおのこと断る理由はありませんわ」
「やったあ!」

結梨の頼みとあらば梨璃も快く引き受けてくれるのではないだろうか。夢結が一緒に来ることも考えられる。
いっそのこと、一柳隊のみんなでお互いにメイクをしたり着せ替え合ったりするのもいいかもしれない。
結梨の楽しげな姿につられて、楓も心が弾むのを感じた。

【おしまい】