存在しないメモスト置き場4

Last-modified: 2022-07-25 (月) 18:25:02
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存在しないメモスト置き場4冊目


レスキューキャット.jpg

レスキューキャット【鶴紗、梅】

レスキューキャット【梅、鶴紗】

「鶴紗、そっちいったゾ!」
「任せろ……!」

午後の由比ヶ浜に私たちの声と激しい金属音、そしてヒュージが発する耳障りな唸り声が響き渡る。

「これで、終わりだ!」

私のティルフィングが最後の一体の胴体に突き刺さり、青黒いマギの煙を吹きだしたその体は活動を停止する。ほどなくして全身がぼろぼろと崩れ落ち、光の粒子となって空気に溶けていった。

「はあ……」
「よく頑張ったな!鶴紗も、お前も!」

戦闘の緊張感から解放されて近くのがれきの上に座り込むと、梅様がこちらに近寄り私と腕の中の存在に声をかける。私も目線を下げてそのぬくもりが無事であることを確認した。

「怖くなかったか?」

その猫は、自分の状況がわかっているんだかわかっていないんだか判断できないのんきな顔であくびをしていた。

◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆

数十分ほど前のことだった。私と梅様がいつものように外出申請もせずに学園の外を散策していると、浜辺の方からにゃあにゃあとかわいらしい声が聞こえてきた。それも一匹や二匹ではなく、複数の声だ。

「にゃにゃにゃっ!?」
「へー、この辺にも溜まり場があったんだな」

猫の存在を前にしてへー、の一言で済ませられるその感性が信じられなかったが、とにかく梅様を引っ張って声の方向へ走った。
声が大きくなる方へ進んでいくと、コンクリート造りの廃墟が見えた。直方体の無機質な建物は角が一部欠けているだけで、行き場のないはぐれ者たちが雨風をしのぐには十分にその形を保っていた。

「はあ、はあ、猫……!」
「気を付けろよー」

梅様の注意を右から左へ素通りさせながら、私は建物の中へと足を踏み入れた。
薄暗い灰色の空間はひんやりとした空気に満ちていて、ガラスがはまっていたであろう四角い穴や壁のひび割れから差し込む陽光に照らされて、埃がきらきらと宙を舞う様子が映し出されていた。

「ふおお……!」

目的の生き物たちはその一室ですぐに見つかった。三毛猫、黒猫、トラ猫。ぶち模様に縞模様。天国だった。
何かのはずみで壊れねじ曲がったのだろう水道の蛇口からはとどまることなく水があふれだしていて、猫たちにとってはさしずめ無料のドリンクバーといったところだろうか。それを目当てに野良猫が集まっているみたいだった。
こんなこともあろうかと、私はキャットフードを常備していた。以前梨璃にこのことを話した時は、私もラムネをいつも3本は持ってるんだ、お揃いだね、なんて言っていたっけ。
はやる気持ちを抑え、制服のポケットに忍ばせていたえさを取り出した。これまでの経験から猫の食いつきは乾燥タイプよりも生タイプの方がいいとわかっていたから、今日持っていたのもそれだった。

「こ、これ……食うか?」

なるべく音を立てないようにパッケージを開き、やさしく声をかけながら猫の集団から少し離れたところへ餌を置く。梅様には雰囲気が硬いといつも言われるが、精いっぱいの努力はしたつもりだ。
猫たちはその香りに惹かれたのかぞろぞろと集まってきた。かなり高級志向のものを選んでおいてよかった。リリィとしての報酬を食費を削ってまでつぎ込んだかいがあるというものだ。
彼らは私が用意した餌に夢中になって群がり、小さな下をぺろぺろと動かしていた。

「ひゃわわぁ~!か、かわいすぎりゅ……!ぐふ、うふふ……!」

思わず声が漏れた。あまりの愛らしさについ群れの中に飛び込みそうになったが、ぐっと我慢した。最初は信頼を得ることが肝心だ。触らせてもらうのは十分に懐いてもらってからでいい。今日はとりあえず美味しいものをくれるやつと思ってもらえればそれでいいんだ。
必死に自分に言い聞かせた。握りしめたこぶしから血が出るかと思った。というか出てたかも。

「……?」

そんなことを考えていると、ふと水場から離れようとしない一匹の猫が目に留まった。白いボディに茶色のぶち模様、エメラルドの瞳のそいつは物欲しそうにこちらを見ながらも、近寄ってこようとはしなかった。
なんとなしに近づくとびくりと体を震わせた。少し後ずさったその体の動きから、その猫がこちらに来なかった理由がうかがえた。

「お前、足が……」

よく見ると右の後ろ脚が普通ならあり得ない方向に曲がっていた。あの足ではほかの猫を押しのけてごちそうにありつくことはできないから、みんなが食べ終わるのを待ってからおこぼれを狙おうとしていたんだろう。
しかし、猫を喜ばせるためだけに人類の智を結集させた嗜好品を前にした彼らの食欲は旺盛で、いくら与えても食べ残しなんてとても出なさそうだった。
野生の世界は厳しい。部屋の隅でじっとうずくまっているだけで分け前がもらえる環境があるだけ幸せなのだろうけれど、群れから離れたその孤独な姿を見ていると、共感のような同情のようなものを感じた。

「ほら、怖くないから」

まだ手元に残しておいた餌を開いて差し出した。ほかの猫に取られないように手渡しになってしまうから、最初は警戒を見せていたけれど、じっと目を合わせるうちにそいつにも気持ちが伝わったのか、恐る恐る口を付けてくれた。

「ふふ、おいしいか?」

返事をするようににゃあ、と一声鳴き、また食事に戻る。気を許してくれたことが嬉しかった。

「!」

その幸せな時間は、突如として鳴り響いたサイレンによって破られた。

「鶴紗、ヒュージだ!」

外から梅様の声が聞こえた。野生の勘で異様な雰囲気を察知したのか、餌に夢中だった猫たちも散り散りに逃げていった。

「場所は!?」
「すぐ近く、目視で確認できる範囲だ!行くぞ!」

梅様が声を張り上げながらこちらへ姿を現し、それを見て私もすぐにチャームを起動して跳び出そうとした。チャームを握るために手元を確認しようと視線を下げたその時、足の悪い猫の姿が目に入った。
ヒュージは人類の敵であると同時にあらゆる生命の敵だ。もし戦闘範囲がここまで拡大したら……、そう思うと放っておけなかった。

「梅様!こいつを抱えて戦っててもいいか!?」
「えっ!?なんかあったのか!?」

当然の疑問だった。言葉は悪いけれど、命がけの戦闘に自分からお荷物を抱えて臨みたがるなどはっきり言って正気の沙汰じゃなかった。下手をすれば自分だけじゃなく梅様も猫も傷付ける可能性がある。その自覚はあった。それでも見捨てたくなかった。

「足を怪我してる!ひとりじゃ逃げられないんだ!」
「ははっ、仕方ないな!落っことすなよ!」

梅様の快活な応答に迷いは消えた。猫を持ち上げると、先ほどの交流のおかげか抵抗もなく素直に従ってくれた。そのまま二人と一匹で廃墟から飛び出した。

◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆

「……」
「壊れちゃったな、溜まり場」

黙っていたのに考えを言い当てられた。いや、目線の先にあるものを見ればバレバレだったか。ケイヴ発生当初よりもヒュージの出現範囲は拡大し、嫌な予感通り猫と遊んでいた廃墟の付近でも戦闘を行わざるを得なかった。
なるべくヒュージを引き離そうとはしたけれど、あれだけ近くで出現されてしまったらどうしようもなかった。
その余波で建物は崩れ落ちてしまい、結果として猫を救出した私の判断は正しかったけれど、彼らの憩いの場は失われてしまった。せっかく見つけた新しいスポットが破壊されたのは悲しかったけど、それ以上に懸念すべきことがあった。

「こいつ、どうしよう……」
「まあ、んー……」

はっきりとした解決策は梅様も持っていないみたいだった。
胸元の小さな友人をぎゅっと抱きかかえる。脚が悪くまともに歩けないこいつが今まで生き延びられたのは、あの廃墟という安全な住処があったからだろう。それがなくなった今、どうやって暮らしていくというのか。
せっかくヒュージから助けられたのに。いっそのこと百合ヶ丘に連れて帰ろうか。さすがに飼うことはできないが、敷地内にいれば少なくとも安全だろう。住み慣れたところを離れるのは寂しいかもしれないが死ぬよりはましだろうか。

「お、来たぞ」

ひとりで考えにふけっていると、それまでじっと黙っていた梅様がふと口を開いた。その声は穏やかで、私が抱いているような不安は感じられなかった。
何が来たのだろう、そう思って梅様の視線を追うと、そこにはあの廃墟にたむろしていた猫たちが集まり、私たちをじっと見つめていた。
いや、「私たち」じゃない。その視線は私の腕の中のたった一匹に注がれていた。
その集団に呼びかけるように一声鳴き、腕の中で猫がもぞもぞと動く。

「そうか、帰りたいのか」

私が地面へ降ろしてやると足を引きずりながら、少しずつ彼らのもとへと歩んでいった。

「……良かったな、じゃあな」

私のつぶやきが聞こえたのか、猫は最後にこちらへ振り返り、別れの挨拶も感謝の言葉ともつかない鳴き声を上げると群れの中へと混ざっていった。

「梅様はわかってたんですか?迎えが来ることを」

思えば、梅様は建物が壊れてしまったことに対して残念そうにはしていたものの、そこまで危機感を抱いていなかったように思える。

「まあな」
「どうして?」

自分が生き残るだけでも精いっぱいな世界で、どうして不自由な肉体を抱えた者が見捨てられないと確信できるのだろう。どうして周囲に迷惑を与えかねない厄介者が周りを信じることができるのだろう。どうして一度居場所を見つけた者がそれを失い再び孤独にならないと考えられるのだろう。
あふれそうになった疑問を一言に圧縮して放った。

「そりゃあ、ちょっとでも一緒にいたら簡単には見捨てられないだろ?」
「え……」
「あいつらずっとあそこで暮らしてたんだろうし、もう家族なんだよ」

返ってきたのは子供向けの漫画のセリフにでもありそうな、単純で幼稚な答えだった。

「そういう、ものなんですか」
「そういうものだぞ」

だから力抜けよ、その言葉とともに梅様は私の肩に腕を回してきた。

「帰るか」
「……はい」

気付けば日は西へと傾き、空はわずかにオレンジに色づき始めていた。

◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆

「あー……、疲れた」
「梅もへとへとだゾ!早く帰って休みたいな!」

帰り道、あれだけ戦った後だというのに、そのセリフに合わないまるで疲れの感じられない声色の返事が返ってくる。この人体力が底抜けなのか?

「……」

帰り道に今日の戦闘を頭の中で振り返っていると、AZの二人だけで戦っていたのにとても戦いやすかった気がした。
私が高出力砲を使用するときは梅様が前に出て、ブレードモードで切りかかる時には援護射撃のけん制があって。大振りの隙にはタンキエムの連撃が差し込まれたし、逆にこっちの攻撃の圧が足りない時には火力を補うような強力な一撃が加わった。
何なら思い出してみれば、猫の安全を、抱えていた私自身が意識しなければならない状況すらなかった気がする。
普段九人で行っていた戦闘が、前衛二人になってハンデを背負ってもなお違和感なく行えていた。そのことに違和感を覚える。

「梅様」
「ん?なんだ?」

並列になっていた視線が角度を変え、交わる。道が荒れていて危ないですよ、そう注意しようと思ったけれど梅様の足取りは確かだった。

「ひょっとして、ずっと合わせてくれてたんですか?」
「……おう!」
「今日だけ?」
「……」

悪いことをしているわけでもないのに、自慢してもいいことなのに。ばれてしまったか、みたいな気まずそうな顔で黙り込む。その沈黙が答えの代わりとなった。
悔しいことにうちの司令塔は優秀だ。世界トップクラスのリンカーの楓はもちろん、レアスキルが本人の指揮能力に影響しない神琳も見事に戦況を読み指示をくれる。
二人とも特定の人物へだけスキンシップが過剰で、距離感がおかしいのかっていつも思っていたけれど、こと戦場においてそれを見誤ることはまずなかった。
だからこそ、普段の戦いやすさはその二人によるところが大きいと思っていたのだけれど、それだけではなかったみたいだ。

「……なんか、すみません。無茶ばっかりで」

自分のこれまでの戦いを顧みると、レアスキルに頼ってずいぶん乱暴な戦い方をしていたように思う。
ファンタズムのおかげで多少激しい攻撃の中に突っ込んでも避けられるし、万が一食らってしまってもすぐに治る。やろうと思えば相打ち作戦だって丸々こちらの得にしてしまえる。
もちろんあの日梨璃に救われて以降その考えは改めたし、激しい戦い方も抑えていたけれど、それでもこれまでの経験で身についていた、自分の特殊な力を前提とした戦い方の癖はなかなか抜けていない自覚があった。

「気にすんな、後輩がのびのび戦えるようにするのが先輩の仕事だからな!」

まるで大したことではないかのように、雑務を引き受けるくらいの軽さで、梨璃の隊長としての書類仕事を手伝っている時とまるで変わらない調子で言葉を発する。
のびのびどころじゃない、一人で好き勝手に戦った時よりも私の実力は引き上げられていたと思う。
というか、こっちは未来読んでるのにそれに合わせて戦いやすいようにサポートするってどういうことだ。縮地があるって言っても後出しじゃんけんにもほどがあるだろう。

「怖いカオしてどうしたんだ?」

思わず表情に出ていたのか、慌てて眉間のしわを伸ばす。

「いえ、なんでもないです」
「お腹痛かったらおんぶして縮地で運んでやるゾ!」

戦闘後なのに、どこか怪我しているんだったら、とは言ってこなかった。私の特殊な体質を気遣って言葉を選んでくれているんだろう。
改めて思い返すと、この人はいつもそんな感じだった。何でもないような平気な顔で、明るい声で、がさつそうな雰囲気さえ漂わせながら、いざ近寄ると繊細なガラス細工を壊さないように、そっと優しく触れてくれる。
今日だって猫に夢中な私についてきてずっと待ってくれていた。猫の群れが迎えに来るまで黙って傍にいてくれた。
戦いの場でも日常でも、そんなことばかり……。器用で不器用な優しさだ。

「大丈夫です。その、……アールヴヘイムってすごいんですねって、考えてました」

本当はレギオン名じゃなく名指しで伝えたかったけれど、照れくさくてごまかした。

「お?ようやく尊敬する気になったか?」
「……いえ」

今更そんなこと聞かなくても、もうとっくに尊敬してましたよ。

「ちぇー」

当然否定の真意は伝わるはずもなく、子供のように間抜けな不満の声を漏らす梅様と並んで百合ヶ丘へと歩いた。
へとへとで、早く学園に戻って休みたかったけれど、校舎のシルエットがだんだんと大きくなっていくのが少しだけもったいなく感じた。

【おしまい】


愛しき人との待ち合わせ.jpg

愛しき人との待ち合わせ【咲朱、夢結】

愛しき人との待ち合わせ【咲朱、夢結】

 四月が終わった途端に夏日が続いた。
 季節は指揮者不在のままデタラメな緩急(テンポ)を奏でているようだ。ヒュージの出現以来その傾向は続いていて、花の遅咲き早咲き狂い咲きは珍しくもない。新宿御苑の花々も混乱した開花をみせていると聞いた。

「明日のことなのだけれど」

 夜、夢結に連絡をとった。

「日差しがきついそうだから、涼しい格好の方が良いわよ。帽子を被ってきなさい。日焼け止めも忘れずにね」
『はい、そうします。わざわざ、ありがとうございます。咲朱お姉様』
「二人でお出かけなんて久しぶりだもの。楽しみにしているわ」
『わたしも楽しみにしています』

 夢結が高等部に上がってくる前に、私は前線を退いていた。中等部の夢結が戦場に立つのはもう少し先の話になるだろう。歳の離れた妹の行く末をそばで見守りたかったけれど、こればかりはどうしようもない。私のスキラー値はもう減退が始まっている。CHARMを起動できなくなる日もそう遠くないはずだ。

『お姉様。五月からいよいよ百合ヶ丘に赴任されるんですよね』
「ええ。特殊カリキュラムの教導官だから、夢結と顔を合わせることはあまりないかもしれないけれど」
『それでも、嬉しいです』

 受話器越しに響く夢結の声は、私には喜色にあふれて聞こえた。

「本当なら夢結の目の前で戦いたかったんだけれどね。貴女の後ろで、先生の一人として背中を押すことになるわ」
『……わたしも咲朱お姉様のお背中、見たかったです』
「逆に私が貴女の背中を見ることになるのよね。なんだか不思議な感じ。もう、私のマギの減退は始まってる。じきに貴女に守られる存在になるのよ、私。お姉ちゃんなのに」
『それは、仕方のないことです。リリィは、長くは続けられませんから』
「それでも教導官として貴女のそばにいられるなら、私は戦場にだって立つわ。まだレアスキルだって使えるのよ」
『もう、また無茶を言って』

 もともと、卒業の前から教導官になる話は来ていた。テスタメント育成のために百合ヶ丘の教導官になって欲しいと学園側から話を持ちかけられていたのだ。断る理由はなかった。教導官になれば遠巻きながら夢結の背中を見守ることができる。それに、夢結とともに戦場に立つ機会はなくても、リリィたちの道をならすことで夢結が戦う環境を整えたかった。
 そのため、卒業直前の三月からずっと忙しかった。基本的な教導官としての準備はもちろん、カリキュラムの試案を立ち上げてまとめたりするのに時間のほとんどを費やした。そもそも、私は「テスタメント」の最初の覚醒者だったので、その育成カリキュラムに前例などあるはずもなく、手探りで育成理論を仕立て上げることになったのだ。もちろん周りの協力もあったけれど手の回らない忙しさがあり、卒業の余韻に浸る間もなかった。三月にあった自分の誕生日はおろか、四月にあった夢結の誕生日を祝う暇もないくらいに。
 その代わり、私は五月のゴールデンウィークを丸々空けることに成功した。ほとんど無理やりだったが予定を曲げて妹との時間をつくった。でも、このぐらいのわがままは許されて然るべきだろう。学院側もそこまで私に無理強いはできない。

「新宿御苑、入園は9時からだけど待ち合わせは10時だからね」
『はい。わかっています』
「あと、暑いみたいだからちゃんと涼しい格好で」
『それはさっき聞きました。わたしは大丈夫ですから、お姉様』

 私は夢結には過保護になってしまうきらいがある。お母さんを通り越しておばあちゃんみたいなことを言ってしまう。

『忙しいのに、時間をつくってくださってありがとうございます、お姉様』
「いいのよ。私が一緒に過ごしたかったんだもの」

 久しぶりに姉妹水いらずの休暇を過ごす場所として、私は新宿御苑を選んだ。私も夢結も花は嫌いではなかったし、都心ならエリアディフェンスもあるからヒュージの出現警報に気を煩わされることも少ない。戦いのことは忘れてただの姉妹として日常の思い出を作りたかった。

「夢結、じゃあまた明日ね。おやすみなさい」
『はい。おやすみなさい、お姉様』

 通話を切って、自室の整理を始める。
 私はいま、白井の実家に帰ってきていた。実家にある私物の整理をするためだ。赴任するにあたって新しく教導官の部屋をもらったは良いものの、在校していた間はずっとルームメイトとの相部屋だったから、教導官室は持ち物の少ない私には少々広すぎた。家具をいくつか増やそうと思い、結局は使い慣れた実家の家具を移そうと考えたのだ。新しく家具を買ってもいずれ百合ヶ丘を出るときに処分しなければならないことを思うと、実家から移した方がいい。

「やっぱり、ルームメイトのいない寮は少し寂しいわね」

 荷物をまとめながら私は百合ヶ丘の教導官室を思い起こした。
 がらんとした教導官室は新しい未来を感じさせることはなく、むしろ、取り残される憂鬱に満ちていた。卒業後は一般社会に帰っていく仲間が多かったから、百合ヶ丘に残ること自体が卒業生とは違った一抹の寂しさを孕んでいた。四月になり同学年がいなくなって、一年下の後輩も三年生となり、来年にはまた彼女らも卒業していく。現役時代の私を知る人間はあっという間にいなくなるだろう。そう思うと、仲間とともに戦場を駆けた日々が胸の裡で騒めくのだ。
 戦場が思い出になってしまうことに耐えられないリリィもいる。しかし、現役の戦士として役割を全うしたいと思っても、マギの衰退がそれを許さない。リリィの花は一度しか開かない。だからこそ、私は教導官として種をまき、誰かの実を結ぶことを望んだのだ。

「夢結の初陣、付いて行きたかったわ」

 夢結にはどんな仲間ができるのだろうか。いまの夢結の交友関係を私は詳しく知らない。あの子は善い仲間に巡り会えているのだろうか。きっと明日根掘り葉掘り聞き出そう。
 百合ヶ丘に持っていく荷物に、幼かった頃の夢結との写真を入れた。ぜひ机の上に飾っておきたい。
 明日に備え、私は早めに支度を済ませてベッドに入った。久しぶりの実家のベッドはどこか他人行儀に私を迎え入れた。遠い昔にここで夢結と一緒に寝たりもしたはずなのに、私の体が大きくなったからだろうか。ボタンを掛け違えたような寝心地を感じながら、私の意識はゆっくりと眠りに引き込まれていった。

◇◆◇

 翌日。
 駅を出ると日差しが肌を刺してきた。
 太陽は焦がすような熱をともなって景色を白く染め上げ、ガラスに覆われたビル群をギラギラと燃えあがらせていた。

「真夏みたいな日照りね」

 昨晩に夢結へ電話しておいてよかった。夢結が熱にやられたり、日差しに肌を傷めるようなことがあっては悲しい。きっとあの子は帽子を被ってくるだろう。
 それにしても、あの子は今日、いったいどんな服装で来るだろうか。百合ヶ丘では私服を見る機会はあまりない。ほとんどを学生服で過ごすせいだ。初夏の装いに身を包んだ夢結を誰よりも先に見ることができるのは楽しみだった。

「自分の身だしなみもチェックしておかないと」

 夢結の目に映る私の服装に乱れなどあってはならない。通りすがり、ビルのガラスを姿見にして身なりを整え直す。大丈夫。私は姉として夢結の隣に立つにふさわしい格好をしているはずだ。
 時間にゆとりを持って、御苑の新宿門に到着する。待ち合わせは苑内にしておいた。外では待つときに手持ち無沙汰になるからだ。

「大人一人です」

 予約していたチケットを見せて中へ入る。
 新宿御苑といえば観菊会や観桜会が有名だけれども、植物や建物の多くは戦災で一度消失したそうだ。いま御苑を彩っている花々は、戦後に再建されて植え直されたりしたものが多いらしい。

「夢結はもう来ているかしら」

 時間ギリギリに来るような子ではないし、むしろ私は妹が早くに来すぎることを想定していた。苑内は広く、茶室や休憩所も数が多い。立ちっぱなしで時間を無為にしてはいないだろうか。うまく時間を潰していて欲しいけれど。
 まず私は待ち合わせ場所の西休憩所を覗きに行った。休日とあってなかなか賑わっている。しばらく群衆に目を走らせたが夢結の姿は見当たらなかった。

「電話してみようかしら」

 急かすようで少し気がひけるけれど、会えるなら早く会いたい。私は夢結の携帯を鳴らした。夢結はすぐに出た。

『もしもし、夢結です。お姉さま?』
「ああ、ごめなさいね夢結。時間はまだ早いのだけれど、ひょっとしたらもう待ってくれてるのかなって思って電話しちゃったわ」
『いいえ。わたしも電話してみようか迷っていたんです。かけてきてくれてありがとうございます、お姉様』

 やはり夢結はもう苑内にいるようだった。どこにいるか聞き出して私は夢結の元へ向かう。
 はやる気持ちから知らず知らず歩みは早足となる。強い日差しは木漏れ日からも感じられ、じんわりと体を汗ばませていく。朝のうちからこれならお昼どきにはもっと暑くなるだろう。でも、夏ほどの湿度はなく、気持ちのいい暑さだった。
 夢結は「上の池」にかかる橋の袂に立っていた。
 立花の風に黒い長髪と白いワンピースが揺れている。見慣れているはずの妹は、私服であるというだけで別人の様相を描き出し、夏日の中でくっきりと浮き出て見えた。夢結は、こんなに大人びた風合いをみせる子だったろうか。

「夢結」
「お姉様」

 お互いに笑みがこぼれた。ほんの一月ばかり顔を合わせる機会がなかっただけだったが、ひどく懐かしい気持ちになった。あるいは、このように穏やかな時間を迎えること自体に懐かしさを覚えたせいかもしれない。

「お姉様、来られるの早かったんですね」
「夢結の方こそ。待たせちゃったみたいでごめんなさいね」
「いいえ。わたしが待ちきれずにはやく着き過ぎてしまったんです。それに、待っている時間も楽しんでいましたから」

 そういって夢結は背後に広がる池面を振り返った。新緑を帯びた草木に囲まれた上の池の庭園は、伝統的な日本庭園の様式を強く感じさせる。景観はまったく見事なもので、散華途中の桜の花びらが池水をまばらに化粧している様も良い雰囲気だ。

「少しシーズンは過ぎてしまったけれど、桜もまだ残っているのがあるわね」
「今年の春は寒かったせいで、遅咲きの花が多いと聞きました。五月になった途端に夏日が続いてしまいましたけれど」
「雨にならなくてよかったわ。それに、お日様に輝く貴女の素敵なワンピース姿も見れたことだしね」

「そ、そうですか」

 夢結は気恥ずかしそうに顔を逸らせた。麦わら帽子のつばに横顔が隠れる。照れた顔を覗き込んでみたいと思ったけれど、いじわるかなと思って自制した。

「お姉様も、そのワンピース、お似合いです」
「あら。お世辞も言えるようになったの? 成長したわね」
「お、お世辞なんかじゃなくて、本当に、素敵です。咲朱お姉様」
「うふふ。ありがとう夢結。貴女に褒めてもらえるのが一番嬉しいわ」

 はからずして、私と夢結は同じ服装に身を包んでいた。示し合わせたかのように白のワンピースと麦わら帽子。夢結は私ほどの背丈はないけれど、小柄というほどでもなく、一緒にいるといかにも姉と妹というシルエットになる。贔屓目に見ても、いまの私と夢結が御苑を並んで歩けばなかなかの絵になるのではないだろうか。

「じゃあ、さっそく見て行きましょう」
「はい!」

 手を繋いで歩き始める。今度は早足などではなくゆっくりと。
 私は御苑については、かなり、気合を入れて調べ上げていた。夢結が「あのお花はなんでしょうね?」などと口にしたらすかさず解説を入れるためだ。姉は博識でなければならない。パンフレットだけでなく、四方八方手を尽くして新宿御苑に関する知識を頭に詰め込んでいた。

「これは、変わった桜ですね」

 さっそくである。
 橋の欄干にまで垂れ下がった桜の枝を見ながら、夢結が声を漏らした。その桜は八重咲きで、花を下の水面に向けて咲いていた。

「これは泰山府君(タイザンフクン)ね」
「泰山府君? 道教の神様、ですか?」
「ええ。でも、里桜の一種で日本で作られた品種のはずよ。名前の由来は世阿弥の能「泰山府君」にあるわ。藤原成範が桜の花の短命を儚んで泰山府君に祈りを捧げ、それに応えて開花が二十一日間にまで延びたという話よ」
「そんな謂れがあるのですね」
「元は平家物語にある故事らしいけれど、そこでは天照大神に祈ったことになっているわね。冥府の神と天上の神では全然違うのに、おかしな遍歴ね」
「すごいですお姉様! さすがです! 博識です!」
「たまたま知っていただけよ。うふふ」

 いい感じに気持ち良くなった私は上機嫌のまま夢結と花々の観覧に邁進する。もはや気分は夏真っ盛り。最高の一日になる予感がグツグツと湧き立っていた。

◇◆◇

 楽しい時間とはかくも早く過ぎてしまうものなのか。
 私たちは腕を絡ませながら仲良く新宿御苑を巡り、昼時には茶室で軽く昼食を済ませ、午後からは西洋式庭園や大温室を遊覧した。

「そろそろ閉園の時間ね」

 日はまだ高い位置にあった。しかし閉園は16時と早く、メインイベントの終わりが近づいていた。この後は新宿駅のデパートで買い物をしてから夕食をとり、一緒に百合ヶ丘まで帰る予定だ。

「歩き通しだったから結構疲れたわね。夢結、足は大丈夫?」
「はい、大丈夫です」

 たびたび休憩を挟んではいたけれど、広大な新宿御苑を満喫するとなるとリリィの私たちでも疲れがくる。夢結が足を痛めたりしていないか注意していたけれど大丈夫そうだ。

「今日は、すごく、楽しかったです」
「私もよ。こんなにゆっくり時間を過ごせたのは、本当に久しぶり。もっとたくさん、こういう時間が取れると良いのだけれど」
「お姉様は、忙しいですからね」

 私の身の上では叶いそうもない願いだった。テスタメント育成のカリキュラムは実験的な要素を多分に孕んでいる。それでも成功させなければならない。ヒュージは待ってはくれない。テスタメントの育成理論を開拓すれば人類全体での大きな力となる。次代を担う夢結たちリリィには必要な力だ。第一線に立てない分、私はリリィ育成に全霊を捧げると決めていた。

「リリィの花咲く命も延ばしてくれたら良いのに」
「え」

 泰山府君の由来を思い出して、つい口に出てしまっていた。

「どうせなら、教導官としてではなく、リリィとして貴女の隣に居たいわ。天に祈れば、私ももう少し戦っていられるようになればいいのに」

 桜の花は一週間ほどで散ってしまう。それを伸ばすことができればどんなに良いだろう。ただの姉妹としてではなくリリィとして、夢結と肩を並べて戦う自分に思いを馳せる。マギの減少を抑えることができたなら、下がり続けるスキラー値を止めることができたなら、夢結の初陣に付き添うこともできるのに。勇名を馳せたリリィには、卒業後もしばらくは現役のリリィとしてCHARMを振るう人もいる。私はどのくらいまで咲き残っていられるのだろう。できることなら、本当に、教導官などではなくリリィとして夢結のそばについていたかった。

「……お姉様。それは違います」

 不意に、立ち止まった夢結に、繋いだ手を引かれた。
 振り返ると、夢結の瞳には火が宿っていた。今日はみせることのなかった戦士としての表情が、強い眼差しが私を見据えていた。

「咲朱お姉様はもう、十分にお勤めを果たされました。本当なら、すべてを引退して、日常に帰ってもよかったのに、百合ヶ丘で教導官になる道を選んでくださいました。初め、お姉様が教導官になると聞いたとき、私は嬉しかったんです。引き止める気も起きないくらい、嬉しかった。本当なら、止めるべきなのに。あなたといられる時間が増えたことに、一人にならずに済むと甘えて、喜んでいました」
「……夢結」
「ごめんなさいお姉様。お姉様が教導官の道を選んだのは、もしかして、わたしが頼りないせいでしょうか? もし、わたしを心配して、わたしを見守るためにヒュージとの戦いを続けようとお考えなのでしたら、今からでも、わたしはあなたを止めるべきなんじゃないかって、ずっと、ずっと考えていました。だってお姉様はもう、なすべきことを十分になされたんですから」

 夢結からの突然の吐露に、私は戸惑った。思いがけない言葉だった。夢結がそんなことを考えていたなんて想像もしていなかった。
 学院から持ちかけられたとはいえ、私は自分の意志で百合ヶ丘の教導官になることを望んだ。夢結もそれを喜んでくれた。そのことは私の中では完結していて、夢結がそれに悩んでいたことに気づかなかった。

「リリィの開花は短い。マギの減衰で、戦場を退かねばならない悔しさを、わたしはまだ知りません。でも、その日が来たのなら、寂しさを堪えてお姉様にお疲れ様でしたと言いたかった。言わなければならなかった。でも、わたしは……」
「もういいわ、夢結。貴女の気持ちはよくわかったから」

 私は夢結を抱きしめた。夢結の目が涙ぐんでいたから。
 この子は、私に対する罪悪感をいつから抱いていたのだろう。任官を喜んでくれたことはよく覚えている。逆の立場で考えれば、きっとこの子の気持ちがわかったはずなのに。
 開花時期を過ぎたリリィは弱くなる。教導官は率先して戦場に出ることはないが、ゼロというわけではない。実際、私は実地訓練としてテスタメントの運用を戦場で指導することも想定していた。戦死のリスクはある。特にテスタメントは自己の防御壁を犠牲に仲間のレアスキルを拡張するものなのだから尚のことだ。夢結からして見れば、私は薄氷の上に立っているように見えたのかもしれない。否、私が立っているのはまさしく薄氷なのだろう。
 夢結が臆病に抱きしめ返してくる。私は大丈夫だと聞かせるように腕の力を強める。夢結の焦燥が愛おしかった。

「百合ヶ丘への任官は私の意志よ。間違いなく、私の願い。だから貴女が思い悩むことはないわ。罪悪感を覚える必要なんてないのよ。こんなに思ってくれていたのね。ありがとう、夢結」

 閉館を告げるアナウンスが流れ始めていた。見渡せば、いつの間に観光客も姿を消しており、もう私たちしか残っていない。風が吹くたびに遅咲きの桜たちがさらさらと花びらを零し、散っていく時間を惜しむように泣いている。
 麦わら帽子越しに夢結の頭を撫でながら、私は上を見上げた。
 頭上には桜が咲いている。八重咲きの泰山府君が私を見下ろしている。じっとその花弁を見つめていると「いつまで咲いているつもりだ」とこちらが問われているような気がした。

「心配しないで夢結。貴女を悲しませるようなことはしないわ。私は貴女が高等部に上がってくるのを楽しみに待っているから」
「咲朱お姉様……」

 夢結の成長に、私はちゃんと向き合えているだろうか。この子を子ども扱いして、守られるばかりの存在だと心のどこかで思ってはいないだろうか。私の心象にある夢結はいつも幼かった。けれど、それは事実ではない。夢結は日々成長していて、リリィとして前線に立つ準備を整えつつある。私が思っている以上にこの子は大きくなっているのではないか。
 妹を守りたいと思うのは姉のエゴだ。寄り添うのなら、私は真っすぐにこの子を見守ろう。私の腕の中にあるこの蕾は、きっと大輪の花を咲かせるだろうから、開花する瞬間を見逃さないようにしよう。

「ゴールデンウィークはまだ始まったばかりよ。ほら、行きましょう」

 夢結も私も変わっていく、けれど、変わらないものだってあるはずだ。
 私は夢結の手を引いて歩き始めた。
 昔と同じように。

愛しき人との待ち合わせ【咲朱、夢結】


仮想訓練場の応酬.jpg

仮想訓練場の応酬【雨嘉、チャーミィ、???】

仮想訓練場の応酬【雨嘉、チャーミィ、???】

 お昼休みのラウンジ。
 雨嘉と神琳とミリアムは三人でランチをとっていた。

「チャーミィといっしょに訓練?」

 不思議そうな声を漏らしたのは雨嘉だ。
 雨嘉の視線はサンドイッチを頬張るミリアムに向けられている。

「新しい仮想訓練システムのテスターを募集しておっての。チャーミィと一緒に訓練してくれるリリィを集めておるのじゃ。できるだけ幅広い層をな」

 チャーミィを仮想訓練に組み込む。
 神琳と雨嘉に目配せしながらミリアムは話を続けた。

「ひとりで訓練するよりもアドバイザーを付けた方が効果的なのではないかと意見があっての。試験的にじゃが、リリィのコーチングをしてくれるAIシステムを作っておるんじゃ。まぁAIと言っても大層な代物ではないがの。チャーミィが横に付いてあれこれ口出しつつ、リリィの訓練を見守ってくれるという感じじゃ。どうじゃ雨嘉。受けてくれんか?」
「べつにいいけど……どうしてわたしに?」

 ミリアムの頼みはわかった。しかし、雨嘉はどうにも腑に落ちない。なぜミリアムはわざわざ自分をテスターに選んだのか。自分以外にもリリィはたくさんいるのにどうしてわたしなんかが。そんな後ろ向きな疑問が雨嘉の中で湧いてしまっていた。

「深い意味はないんじゃ。しいて言うなら雨嘉はかわいいもの好きじゃろ? リリィの中にはチャーミィなんかいらんという者もおるでの」
「えっ。チャーミィのこと嫌いなリリィがいるの?」
「チャーミィというよりもアドバイザーじゃな。口出しされるのは好かんと、デュエル形式で一人黙々と訓練する方が好きなリリィも珍しくはないからのう」

 なるほど、それはたしかにそうかもしれない。雨嘉にもなんとなくそれは想像できた。

「どうじゃ雨嘉。テスターをお願いできるかの?」

 雨嘉には断る理由も気持ちもない。ただ「自分なんかが本当にテスターでいいの?」という思いがまだ少なからずあった。その迷いは視線となって泳ぎまわり、神琳へとたどり着く。オッドアイが雨嘉を見返す。

「他でもないミリアムさんの頼みですし受けて差し上げたら? なにより楽しそうじゃないですか。チャーミィと一緒に訓練だなんて」

 神琳は雨嘉を後押しした。その目は好奇心に光っていた。
 ルームメイトの勧めもあって雨嘉は決心した。

「う、うん。わかった。テスター、やってみるよ」
「助かるぞい! じゃあ後で雨嘉のCHARMにシステムを組み込んでおくからの!」

 そんな感じで雨嘉は仮想訓練をチャーミィと行うことになったのだった。

◇◆◇

『はじめまして! ぼくはチャーミィ!』

 さっそくである。
 翌日の仮想訓練場で雨嘉は驚嘆していた。

「す、すごい。本当にチャーミィだ……」

 雨嘉の目の前にはチャーミィがふよふよと浮かんでいた。その大きさは5歳児くらいだろうか? いかにもマスコットです!といったサイズ感だった。

『今日からぼくがきみの仮想訓練をお手伝いするよ! よろしくね!』

 チャーミィのぱっちりお目目がきらりと光る。
 チャーミィといえばCHARM教則本に載っているマスコットキャラクターでこれを知らないリリィはいない。
 目の前のチャーミィがホログラムだとはわかっていても、あの教科書に載っていたチャーミィが出てきて喋っていることに雨嘉の心は歓喜に震えていた。

「チャーミィって、こんな声だったんだ……!」

 やたら愛嬌のある声だった。どこかで聞いたような声の気もするがたぶん気のせいだろう。

『きみの名前を教えて!』
「え。あ、うん。わたしは雨嘉。王雨嘉だよ」
『雨嘉だね! これからよろしくね雨嘉!』
「う、うん。よろしく……ね」

 チャーミィと自己紹介し合い、仲良くなった。こんなことが現実に起こるだなんて。雨嘉は胸のときめきを止められなかった。
 チャーミィがくるりと回ってみせ、ぱちりとウインクをした。一体何の意味があるのかさっぱりわからないがチャーミィのモーションはいちいちかわいい。デフォルメされているのにその表情もバリエーションが豊かでマスコットの実像としては100点満点といえる完成度だった。チャーミィは愛らしく、その瞳に見つめられると思わず雨嘉の頬は緩んでしまう。

『それじゃあ雨嘉のことを教えて! 雨嘉はレギオンでどこのポジションを務めているのかな?』
「ポジションはBZだよ」
『ありがとう! じゃあ次は雨嘉の愛用してるCHARMと主な戦い方を教えて!』
「使ってるのはアステリオンで、戦い方は……後ろから援護射撃したり……かな」
『雨嘉はレアスキルやサブスキルは持っているかな?』
「えっと、レアスキルは天の秤目で……」

 まるでゲームのキャラクタークリエイトのようだった。次々に繰り出されるチャーミィの質問に雨嘉は答えていく。きっとこの情報が訓練の内容やアドバイスに活かされるのだろう。そう思うとわくわくした。

『ありがとう! 雨嘉のことがなんとなくわかったよ! それじゃあ雨嘉! 今日からいっしょに頑張ろうね!』
「う、うん! 頑張ろうね!」

 雨嘉はまるでテーマパークにきたみたいなテンションになっていた。ミリアムからチャーミィの仕様についてはいくらか聞いてはいたが、話で聞くのと実物を見るのとでは全然違う。テスターを受けてよかったと心の底から思った。

『それじゃあ、今日はどんな訓練をする?』

 チャーミィがさっそく仮想訓練のコーチングをし始めた。雨嘉は緩んでいた気を引き締め直してチャーミィへと向き合う。

「えっと、やっぱり、後方からの射撃訓練かな……」
『後方からの射撃訓練だね! 苦手な地形はあるかな?』
「苦手な地形……狭いところとか、込み入った地形は、射線が通りにくくて苦手かも」
『じゃあ今日は混み入った市街地戦をいっしょにやってみようよ! 障害物のある狭いフィールドでの戦い方を訓練しよう!』
「う、うん! わかった!」

 チャーミィが直々に訓練内容まで提案してくれることに感激を覚えた。まるで本当にチャーミィが寄り添ってくれるような感じがした。

(思ってたより楽しいかも……!)

 チャーミィがシミュレーターに状況設定を入力してくれたのか、仮想訓練場が作り変えられていく。仮想システムは精巧なチャイナタウンを形作り、ほどなくして、雨嘉は繁華街のまんなかに立っていた。

『状況設定は夜の繁華街だよ。建物や構造物、狭い路地なんかで射線が通りにくいからよく狙おうね。夜の暗がりにも注意だよ!』
「うん、がんばる!」

 期待に雨嘉の胸が弾む。

『じゃあ、ぼくはいったん消えるね! 声でアドバイスするよ!』
「えっ。チャーミィ消えちゃうの?」
『ぼくの体が出ていると雨嘉の視界の妨げになったりするからね。でも、ちゃんと声でアドバイスするよ! 一緒に頑張ろうね!』
「う、うん!」

 チャーミィとともに訓練が始まった。

◇◆◇

『ナイス! うまいね雨嘉!』
「あ、ありがとう」

 訓練は順調だった。
 ヒュージとの市街地戦は、東京圏防衛構想における主要な戦場だ。その訓練を行うことは重要で、とくに後方から射撃によるサポートを行う雨嘉は熟達する必要があった。
 雨嘉は咄嗟の判断でヒュージを撃ち抜き、確実にチャイナタウンからヒュージを駆逐していく。

「数が、多い!」

 路駐された車の影や雑居ビルの隙間から次々とヒュージが湧いてきた。はじめはまばらだった敵影は徐々に数を増していき、雨嘉の限界を確かめるかのように、ヒュージたちの攻撃は激しさを増していった。

(チャーミィが設定をいじってくれてるのかな?)

 リリィ自身の能力に合わせて逐次的にシミュレーション設定を変え、訓練内容を更新してくれているのなら素晴らしいことだった。いちいち手動で設定を変える必要がなく訓練に集中できる。

「逃がさないっ!」

 アステリオンの弾丸が物陰に逃げようとしたヒュージを貫く。
 雨嘉は優秀だった。
 苦手な地形といっても、まるで戦い慣れていないなどということは決してない。むしろ、こなれた動きで戦場を駆け、手堅くヒュージを撃破し続けていた。

『いいね! 雨嘉はすごく射撃が得意なんだね!』
「え。そ、そう、かな……」

 見事な動きをみせた雨嘉をチャーミィが褒めたたえた。AIだとわかっていても、チャーミィに褒められるとつい照れてしまう。雨嘉の耳がほんのり赤らんだ。

『よし。じゃあもっと前に出てみよう! 雨嘉!』
「えっ。でも」

 突然の提案に雨嘉は戸惑った。
 いま、雨嘉はビルの陰に隠れてヒュージと応戦している。
 矢継ぎばやに飛び出てくるヒュージたちの砲火は激しく、軽々しく身を晒すのは自殺行為のように思えた。

「前に出るにはもうちょっと敵の数を減らさないと」
『苦手な地形だから勇気がいるかもしれない。でも、チャレンジしてみようよ、雨嘉』
「!」

 チャーミィの言葉に雨嘉はハッと息を飲む。
 たしかに、チャーミィの言う通り、雨嘉の動きには硬いところがある。教科書通りの定石をなぞろうとして、動きが堅実になりすぎているきらいがあった。
 実際の戦場は目まぐるしく状況が移り変わり、危険を冒して行動しなければならない場面もすくなくない。チャーミィの提言を「無謀」と切り捨てるのは躊躇われた。

「……わかった」

 雨嘉は覚悟を決めた。
 物陰からわずかに顔を出し、天の秤目で彼我の距離を測る。
 困難を押しのけて最短でヒュージたちを制圧するルートを見つけ出す。

「……ここ!」

 雨嘉は飛び出した。
 迷うことはあっても、一度決めてしまえば思い切りはいい方だ。淀みなく弾丸のなかを突っ切ってヒュージへと向かう。

「やぁあああ!!」

 炎上するチャイナタウンを雨嘉が駆ける。煙を吹く自動車を飛び越え、置き看板を跳ねのけ、ヒュージを斬り、撃ち抜いていく。雨嘉は目まぐるしく変わるアステリオンのモードを巧みに使いこなす。きわどい距離と角度から、屋上にいるヒュージも雨嘉が構えたCHARMの砲塔が火を噴けばアステリオンの弾丸に貫かれて爆散する。
 雨嘉は敵の射線を掻い潜りながら全力で安全圏まで距離を詰める。
 しかし、

「きゃっ」

 多勢に無勢。
 幾重にも重なるヒュージからの攻撃をさばき切れず、ついに雨嘉は被弾して路地を転がった。倒れて動けなくなった雨嘉にヒュージたちが集中砲火で畳みかける。致命傷と判断され仮想訓練が強制終了した。

「うぅ……」

「やっぱりだめだった。やられちゃっ」
『敵の攻撃が激しいときは身を隠すことも大事だよ。次は気を付けようね雨嘉』
「……た?」

 チャーミィの言葉に、雨嘉は耳を疑った。

(前に出ようって言ったのはチャーミィなのに)

 もやもやした感情が雨嘉の胸のうちにじわりと滲みだす。

『ほら、雨嘉。訓練を再開するよ! まだ疲れてはないよね?』
「え。……う、うん」

 まぁ、AIだし仕方ないよね。
 人間の心の機微というものを機械に学習させるのは難しい。そのぐらいのことはアーセナルでなくとも雨嘉もわかっていた。引っかかるものはあるけれど、チャーミィに愚痴を吐いても仕方ない。
 気を取り直して雨嘉は訓練を再開する。

『普段できない動きも仮想訓練だから気楽にやってみようね!』
「……うん」

 うすうす感づいてはいたがチャーミィのアドバイスにはすこしチグハグなところがある。ミリアムが言っていた「大層な代物ではない」というのはこういうことなのだろう。人間を模した会話はできるけれど、それは知能ではなく知能に見せかけた人工無能なのだ。

(まぁ、これは仮想訓練だし。肩ひじを張らなくてもいいよね……)

 チャーミィの言う通りに気楽にやろう。
 雨嘉はそう気持ちを切り替え、再び夜の繁華街へと身を投じていった。

◇◆◇

 シチュエーションは屋上からの狙撃訓練。

「あっ」

 雨嘉はヒュージに背後を取られ、被弾してしまった。
 チャーミィの提言を受け、いつもならばしない"積極的な"位置取りをした結果、ヒュージの接近に気づくのが遅れてしまった。

『訓練だと思って気を抜いてると、いざというときに実力が発揮できないよ?』
「……」

(チャーミィ……さっきは訓練だから気楽にやろうって言ってくれたのに……)

 二人で訓練を始めて小一時間ほどが経ったが、チャーミィの指示とアドバイスに対する心のもやもやは雨嘉の中で徐々に大きくなってきていた。

「ねぇ、チャーミィ」

 意を決して、雨嘉はチャーミィの訓練方針に意見しようと口を開く。チャーミィの指示はちょっとアグレッシブすぎる。このままでは自分のためにならない気がした。
 しかし、雨嘉が言葉を続けようとしたそのとき、チャーミィが叫んだ。

『雨嘉! 路上に市民が出てくるよ!』
「えっ」

 チャーミィの言葉に反応して、雨嘉は屋上から路地を見下ろした。
 すると、飲食店からサラリーマン風の市民が一人飛び出してきたのが見えた。サラリーマンは前後をヒュージに挟まれており、その距離は10mと離れていない。すぐにでも救出しなければ命が危ういのは明らかだった。
 
「な、なんでこんなところに一般人が?!」

 先ほどまで市民の姿などはなかった。おそらくチャーミィが訓練内容を変更したのだろう。雨嘉が突発的な事態に対応できるように。
 突然はじまった救出訓練に雨嘉は心を乱されたが、いつもならばすぐ平静に戻り行動に移す冷静さがある。気弱なところもあるが、こと戦闘において、雨嘉は優秀なリリィなのだ。しかし、

『雨嘉! はやく助けてあげて!』
「で、でも」

 雨嘉は困惑していた。
 それは視線の先の市民、サラリーマンの挙動にあった。

「なんであんな変な動きしてるのあの人!?」

 出てきたサラリーマンは狂っていた。
 両手と両足を広げ、飛んだり跳ねたり、反復横跳びしたり、すさまじい挙動を繰り広げている。まるでラジオ体操を3倍速でやっているような動きだ。

「チャーミィ! あの人の動きなに?!」
『あの人はパニックを起こしてるみたい! ヒュージから守ってあげよう!』
「む、難しいよ!」

 サラリーマンがあまりに激しく飛び跳ねるので、奥のヒュージとサラリーマンの射線がチラチラとかぶるのだ。市民は超人的な身体能力を有しているようで、飛び跳ねる時は垂直に一メートルほど跳躍していた。

「あの運動能力おかしくない?!」
『迷ってる暇はないよ雨嘉! はやくヒュージを排除するんだ!』
「っ!!」

 ヒュージが出てきた市民に気付き(まぁあれだけ激しく動いていればいやでも気付くだろう)、その鋭利な触手を振りかぶった。このままでは、次の瞬間にはサラリーマンの体はズタズタに引き裂かれるだろう。

「させない!!」

 ヒュージと市民の挙動を予測し、雨嘉はトリガーを"2度"引いた。
 アステリオンが連続して火を吹き、マギの篭った弾丸を吐き出す。驚嘆すべき速射と正確なターゲッティングだった。撃ち出された初速1800m/secの弾丸は、果たして、2体のヒュージを正確に撃ち抜いた。

「……あ」

 しかし、ヒュージと同時に、市民の頭部も無惨に破壊されてしまっていた。他ならぬ雨嘉の弾丸によって。

『市民を、撃っちゃったね……』
「――――」

 市民の頭部を撃ち抜いてしまった。
 その事実にトリガーにかかった雨嘉の指先が震えた。

『次は落ち着いて狙おうね!』
「……」

 チャーミィの声は明るい。
 これは仮想訓練であって、現実ではない。しかし、シミュレーターが作り出した市民の姿は雨嘉の目に焼き付いた。頭部をなくして路地に横たわる姿は、今まで戦場で見てきた遺体に重なって、雨嘉の心を苛んだ。

(人を撃っちゃった……)

 訓練であっても、そのショックは大きかった。雨嘉は優秀で、訓練であっても誤射することは滅多にない。中等部時代ならばいざ知らず、百合ヶ丘に入る頃には仮想訓練での誤射率はほぼゼロになっていた。撃てないときは撃たない。その線引きの判断も雨嘉は身につけていたはずだが、今回は咄嗟のことで引き金を引くことを優先してしまった。

(胸が苦しい……)

 気持ちを落ち着けようと、雨嘉は息を整える。
 これは訓練だ。市民はシミュレーターが作り出した幻影で実在しないものだ。それになにより、あんなイカれ……おかしな動きは現実の人間ならしない。今の失敗は無茶な設定で訓練をしたせいだ。
 そうやって心の中で自分に言い聞かせて、雨嘉は徐々に平静を取り戻していく。

(そうだよ。今のはサラリーマンさんの動きがおかしかったからだよ。1メートルもジャンプするとか絶対変だよ)

 冷静になった雨嘉はショックから立ち直ったが、今度は訓練内容に対する深い憤りが湧いてきていた。
 チャーミィは少し、いや、かなり無茶な難易度で仮想訓練を設定している気がする。

「ねぇ、チャーミィ。訓練の難易度なんだけど、ちょっと下げ……」

 雨嘉は訓練を少し優しくしてほしいと言おうとした。
 しかし、またしてもチャーミィが叫び、その声をかき消した。

『雨嘉! また無辜の市民が襲われているよ!』
「えっ!?」

 驚いた雨嘉が再び路地を見下ろすと、立ち並んだ飲食店の中からワラワラと市民たちが路上へ姿を現し始めていた。その数は一人や二人などではない。5人、10人と市民の数は増えていく。

「な、なんでこんなに人がいるの!?」

 どういう状況設定なのか、避難誘導の訓練さながらだった。しかし今の雨嘉はたった一人だ。どう考えても捌き切れる状況ではない。無理なものは無理なのだ。

「なんで急にこんなに出てくるの?!」

 喚きながらも雨嘉は狙撃を敢行する。ヒュージと市民とが入り乱れる地獄のような戦場をどうにか収集させようと、照準を合わせてトリガーを引き続ける。

『きっとあの人たちは逃げ遅れてたんだよ! 雨嘉! 助けてあげて!』
「お、多い! 市民の数が多い!!」

 もはやヒュージより一般市民の方が多い。狭い路地は休日の繁華街のような有様である。

『雨嘉! 急いで!』
「~~っ」

 射線が被る、どころの話ではない。これではめくら撃ちと同じだ。市民の被害は避けられそうもなかった。
 本来なら、他のリリィが市民を守りつつ物陰などへ誘導し、チームでヒュージの排除を行う。しかし、今の訓練設定では雨嘉ただ一人で全てをこなさなければならず、フィールドを屋上に固定した狙撃訓練の設定では、市民のそばに駆け寄ることもできない。あまりに無茶な狙撃訓練だった。

「ぁああああああ!!!」

 それでも雨嘉は訓練をやめなかった。ここが本物の戦場なら、迷っている暇などないのだ。
 雨嘉の叫びとアステリオンの咆哮が仮想訓練室に響いた。

◇◆◇

「はぁっ……はぁっ……」

 最後の1体を葬り、路地のヒュージは掃滅された。
 雨嘉の全身はびっしょりと汗で濡れ、額には前髪が張り付いていた。ドクンドクンと脈打つ心臓は、耳の奥でうるさいぐらいに鼓膜を叩き、雨嘉の体をも震わせていた。

『やったね雨嘉! すべてのヒュージを排除したよ!』

 明るくチャーミィの声がそう告げると、雨嘉は脱力して座り込んだ。過度の緊張から解き放たれ、握りしめていたアステリオンを床へと投げ出す。

「お、終わった……」
『お疲れさま雨嘉! いいトレーニングになったみたいだね!』

 なにがいいトレーニングなんだと思ったが口に出す元気はなかった。雨嘉は完全に疲弊していた。

『でも、一般市民に死者4名、重傷者3名、軽症者7名。みんなは、守れなかったね……』
「うっ」

 チャーミィが淡々と被害を報告してきて、雨嘉は呻いた。
 あまりに無謀な訓練だった。孤軍奮闘とはこのことで、雨嘉の動き、狙撃の速さと正確性は驚嘆に値するものだったが、しかし、雨嘉にとってはそうではない。罪のない市民を巻き込み、死傷者を多数出させてしまった事実が重くのしかかっていた。

『それに雨嘉はまた一人、市民を撃っちゃった……』
「ごっごめんなさい!! ごめんなさい!!」

 雨嘉は親子連れの、母親の胴体を撃ち抜いてしまった。
 シミュレーションは精巧にできており、倒れ伏して動かなくなった母親に縋る子供の姿まで鮮明に再現していた。雨嘉の網膜に焼き付いたそれは幻影となって心を蝕んでいた。

「うぅぅぅぅ」

 明らかに、訓練の内容がおかしい。市民を誤射した雨嘉を責めるのはあまりに酷というものだ。
 しかし、市民救助に失敗したという結果は本物で、それが雨嘉を煩悶させていた。もしもこれが実戦だったらと考えずにはいられないのだ。ヒュージを貫いた弾丸が後にいた親子連れを巻き込んでしまった場面がフラッシュバックする。母親の肩を揺さぶる子供の姿に息が詰まり、胸が苦しくなる。

『でも救えた命もある。悲しんでいる暇はないよ雨嘉。さあ、気持ちを切り替えて次の訓練を頑張ろう!』
「そ、そんなにすぐ切り替えられない……」

 床にへたり込み雨嘉は俯いたまま動けなかった。アステリオンを握るのが怖かった。シミュレーション上でとはいえ、人を撃ち抜くのは雨嘉の精神にヒビを入れるのに十分な破壊力があった。

(もうやだ……今日の訓練終わりにしたい……)

 訓練を始めてからまだ2時間に満たない。いつもならこんなに疲れることはないのだが、あまりに過酷な条件設定のために雨嘉はすっかり困憊していた。

(チャーミィに言って、今日はもう終わりにしよう。ミリアムにはできるだけ長く訓練して欲しいと言われたけれど……わたしには無理だよ……)

 完全に心を折られた雨嘉は、チャーミィに訓練の終了を願おうとした。

「ねぇ、チャーミィ、今日はもう……」

ーーWooooooo!!

 サイレンが鳴り響き、雨嘉の声をかき消した。

「な、なにこの警報音?!」

 けたたましく鳴り始めた警報に雨嘉は気が動転した。
 今まで何度も仮想訓練をやってきたけれど、このような警報は聞いたことがなかった。

『臨時ミッションだよ雨嘉!』
「り、臨時ミッション?」

 これもチャーミィ独自の訓練メニューなのだろうか。
 しかし、先ほどの救護訓練も臨時ミッションと言って良いほどの急転換だったが、いったいなにが違うというのか。
 突然、景色が歪み始めた。

「フィールドが?!」

 フィールドが再生成される。
 狙撃訓練用の屋上フィールドは形を変えて、雨が降りしきる繁華街のど真ん中に設定し直された。
 嫌な予感がした。

「なに?! 今度はなにが起こるの?!」
『暴走した雨嘉を止めるために百合ヶ丘のリリィが出動したよ! なんとかやりすごして!』
「!?」

 百合ヶ丘のリリィが? わたしを止めるために?
 意味不明なミッション内容に雨嘉は混乱した。

「チャーミィ! 意味がわからないんだけどどういうこと?!」
『市民に向かって発砲した雨嘉を捕まえるために百合ヶ丘のリリィが出撃してきたよ! なんだか凄く怒ってるみたい! 話を聞いてもらうためにも一度倒してみよう!』
「えぇっ?!」

 チャーミィの説明はちっともわからない。
 しかし、雨嘉は前方の雨沫の中に人影を認めた。暗闇の奥でCHARMのクリスタルコアが煌めいている。混乱しながらもアステリオンを拾い上げて正面へ構える。

「だ、だれ?!」

 宵雨から現れたのは3人のリリィだった。
 そのリリィたちは雨嘉と同じ百合ヶ丘の制服に身を包み、手にはグングニルを持っている。
 しかし、その相貌は曖昧な形をしていた。モザイクがかかっているような、誰とも判別のつかない顔立ちだ。

「チャーミィ! この子たち誰?!」
『百合ヶ丘の平均的な生徒を模したAIだよ! さあ、来るよ雨嘉! がんばって!』
「平均的な生徒っ?!」

 チャーミィの言葉を理解するより先に、リリィたちからの攻撃が飛んできた。

「くっ!」

 3人のリリィは連携が取れていた。
 前衛と中衛と後衛。スリーマンセルの基本的な動き方をしっかりと踏襲したそれはデュエル世代の戦法を思い起こさせる。

(この子たち……強いっ!)

 3人の攻撃をいなしながら雨嘉は後退する。多数を相手に広い路上で戦うのは不利だ。狭い路地にでも連れ込んで疑似的な1対1の形を作る必要がある。
 雨嘉は守りに徹しながら、自分に有利な地形へと徐々に移動していく。
 3人の苛烈な攻撃はつらかったがさばき切れないほどではない。それはきっとAIの性能に起因していた。一般的にAIの知能はリリィに劣る。機転の利かせ方が上手くないのだ。チャーミィが言った「平均的な百合ヶ丘のリリィ」というのはそういうことだ。癖のない戦い方は教本をそのまま写像したかのようだった。

(よし、この位置なら……!)

 うまいこと3人を路地へと誘いこんだ。フレンドリーファイアを嫌って3人の手数が激減する。
 雨嘉がレアスキルを発動する。攻勢に転じ、一気に畳みかける。

「天のはか…」

――ズガン!

 反撃しようとしたそのとき、雨嘉の頭部が後ろから撃ち抜かれた。

(!? いったい何が)

 斃れる雨嘉が見たのはビルの屋上に立つ2人のリリィの姿だった。
 そう、敵は3人ではなく5人だったのだ。
 誘いこまれていたのは敵ではなく自分のほうだった。それに気づいたときにはもう、シミュレーションは強制終了していた。敗北だった。

◇◆◇

『雨嘉、やられちゃったね。敵をいい位置におびき出すのはうまい戦略だけど、相手もそれをやってくるから注意しようね』
「…………」

 致命傷と判断され、仮想訓練が終了した。
 フィールドが消失して同時にリリィたちの姿も消え去った。
 仮想訓練場はチャーミィと雨嘉の二人だけとなる。

『疲れちゃったかな? 一旦休憩しようか。休んだらまた一緒に頑張ろうね!』
「…………」

 チャーミィが何か言っているが、雨嘉の耳には入ってこない。
 雨嘉は放心した表情でふらふらと立ち上がると、仮想訓練場の脇に設けられたベンチまで歩き、糸が切れたように座り込んだ。俯いたまま両手で頭を抱え込む。気分が悪かった。

(むちゃくちゃすぎるよ……なんなのこの訓練……)

 同胞のリリィに頭を撃ち抜かれた瞬間、嫌な感触が走った。
 もちろんそれはシミュレーション上でのことで、実際には撃たれてなどいないのだが、感触として雨嘉の頭部は破壊されたのだった。その死の感触は雨嘉のなかに残り精神を苛んでいた。

「チャーミィ、わたし、もうすこし優しい訓練がいい」

 虚ろな瞳のまま雨嘉がつぶやいた。もはやチャーミィの方を見てすらいない。まるで地面に話しかけているかのようだ。

「こんな訓練、もういや」
『雨嘉……』

 チャーミィのホログラムがふよふよと雨嘉のそばへと飛んできた。チャーミィは労わるような、慈しむような視線を気落ちした雨嘉に投げかける。

『ぼくは最新のリリィスタッツに基づいて適切な訓練を提供しているんだ。もうちょっといっしょに頑張ってみようよ』
「……無理だよ。わたしには、厳しすぎる……」

 雨嘉の心はバキバキにへし折れていた。仮想訓練とはいえ同じリリィに首を切られたのが効いていた。それも理由が「市民への発砲」だというのだからなおのこと雨嘉には耐え難いものがあった。

『雨嘉は優秀なリリィだから、今ぐらいの訓練がちょうどいいと思うよ』
「ちょうど良くないッ!!」

 思わず雨嘉は声を荒げて反発した。
 顔を上げてチャーミィの顔を正面から見据える。その瞳には明確な拒絶の意志が宿っていた。

「さっきからずっと訓練内容が激しすぎるよ! 最初はちょうど良かったのに、途中からものすごい勢いで難易度があがった気がするんだけど! 絶対おかしいよ!」
『落ち着いて雨嘉。これは全部、雨嘉のためにやっているんだよ? もうすこし頑張ってみようよ?』
「……なにその言い方……違う……これはわたしのためなんかじゃない。こんな訓練するなんて、絶対に変」

 訓練中に溜まっていた不満が一気に噴出していた。我慢していたあれやこれやが怒りとなって口から出てくる。

『ぼくは最新のリリィスタッツに基づいて適切な訓練を提供し……』
「やめて!!」

 時折繰り返されるbot染みたチャーミィの返答が雨嘉の気をおかしくさせた。チャーミィの人間的な振る舞いと人の気持ちがわからない機械的な振る舞いとに、雨嘉の心は翻弄され、感情をかき乱された。

「チャーミィおかしいよ! わたしは狙撃訓練がしたいだけなの! なのにどうして百合ヶ丘のリリィと戦わなきゃいけないの?! 同じ仲間だよ?! いくら訓練だからってありえないよこんなの! チャーミィはわたしをどうしたいの?! なんでこんなひどい訓練するの?!」
『お、落ち着いて雨嘉……きみは疲れてるんだ』
「そうだよ疲れてるよ!! なんでこんな訓練するの?! チャーミィ、わたしのことなんて全然考えてくれてないじゃん!!」
『――雨嘉……』

 激しい雨嘉の言葉にチャーミィは表情を曇らせた。その瞳は戸惑いに細められ、悲しみの色をたたえている。愛くるしい笑顔から一転してチャーミィの顔は悲痛に歪んでいた。
 チャーミィの変化を見て、雨嘉は我に返った。乱れた息を整える。

「わたし、もう、チャーミィとお話ししてると頭が変になりそう。わたしの知らないわたしが出てくる……こんな気持ちになりたくない……」

 チャーミィは悪くない。チャーミィは悪くない。
 雨嘉は訓練中ずっと心にそう言い聞かせていた。しかしもはやそれも限界に達していた。

「ごめん……もう終わろうチャーミィ。わたしたち……一度……距離を置いた方がいいと思う……」
『……わかったよ雨嘉。今日の訓練は終わりにしよう』

 やっと言葉が伝わった。雨嘉はそう感じた。終了を宣言したチャーミィに雨嘉は安堵する。

(ああ、やっと終わる。息苦しかった仮想訓練が)

 解放されると思った途端、雨嘉の心は軽くなった。

『お疲れさま、雨嘉』

 チャーミィが申し訳なさを滲ませた笑顔でねぎらいの言葉をかけてくれる。
 そんなチャーミィの笑顔を見ると雨嘉の心はちくりと痛んだ。

「……うん。チャーミィもお疲れさま。……ごめんね、怒鳴ったりして」
『気にしないで、大丈夫だよ。雨嘉は激しい訓練で少し疲れちゃったみたいだし、そんな日もあるよ』
「……ごめんね。ううん、ありがとう」

 雨嘉はチャーミィのことを嫌ってなどいない。悪いのは組み込まれているAIなのだと理解している。
 多々、不可解な挙動を見せるチャーミィだけれども、その言動は全体を通してみれば柔らかく優しいものだった。失敗してもチャーミィはダメ出しばかりするわけではなく、いいところを探して褒めてくれる。ミリアムが言ったようにこのチャーミィは試験運用の段階に過ぎず、これから改良されていくシステムなのだから不出来があるのは仕方のないことだった。雨嘉はチャーミィにつらく当たりすぎたことを申し訳なく思った。

「……また、明日、いっしょに頑張ろうね」
『うん! よろしくね雨嘉!』

 今日はうまくいかなかったけど、明日またいっしょに頑張ってみよう。雨嘉はそう思った。
 ふたりは見つめ合い、チャーミィが二コリと笑みを浮かべるとつられて雨嘉も笑顔になる。
 なんだかチャーミィと心が通じ合ったような気がした。ささくれ立っていた気持ちも落ち着き、雨嘉は暖かな気持ちになっていた。
 和やかな空気で二人して笑い合う。
 警報が鳴り響いた。

ーーWooooooo!!!

 フィールドが形成される。
 繁華街、夜、天候は暴風吹すさぶ雷雨。

『最後の臨時ミッションだよ! CHARMを構えて雨嘉!』
「なんでそうなったのかな?!」

 突然、雨嘉は豪雨の中へと放り出された。
 いい感じに終わろうとしていたところで臨時ミッションが始まって今日一番の叫び声を上げる。

「いま終わるって言ったよね?! 終わるってチャーミィ言ったよね?!」
『暴走した雨嘉を止めるためにロザリンデ・フリーデグンデ・v・オットーちゃんが出動したよ!』
「何の何の何?!」

 状況に頭が追いつかない。
 しかし臨時ミッションは始まっていた。シミュレーターは雨嘉を待ってなどくれない。

『きたよ雨嘉!』
「!?」

 暴風に雨嘉の黒髪が舞い上がる。
 雨嘉が見据えた視線の先、しぶきをあげる雷雨のなかから一人のリリィが現れる。 
 そのリリィに言葉はなく、眼差しで雨嘉へと語り掛けてきた。
 どしゃ降りに濡れた長い銀髪は夜の中でも美しく、その下に飾られたブルーサファイアの瞳が冷ややかに雨嘉を見つめる。

「ロザリンデ……様」

 絶体絶命の状況に雨嘉は自身のアステリオンを正面に構える。
 シミュレーターが再現したロザリンデはゆったりとCHARMを片手にぶら下げている。しかし、その佇まいには瞬きも許されないようなプレッシャーがあった。一瞬でも目を離せば即死の斬撃が飛んでくる、そんな気配をロザリンデは纏っている。

(どういうこと?!)

 なにが起こっているのかチャーミィに問いただそうとした。
 が、それより先に斬撃が飛んできた。

――ガキン!

 ロザリンデが一気に距離を詰め、雨嘉を両断しにかかったのだ。
 危うく斬られそうになる雨嘉だったがアステリオンの刃を受け止める。ラージ級のごとき重い一撃に雨嘉の体幹が揺れた。

「なんでロザリンデ様なの?!」

 理不尽な状況に雨嘉が叫んだ。

『特務レギオンの任務で雨嘉を捕まえに来たみたい! お話を聞いてもらうためにも一度倒して落ち着かせよう!』
「さっきもだけど倒して落ち着かせるってなに?!」

 そんな無茶苦茶な話があるものかと思ったが臨時ミッションとやらは始まってしまっている。
 雨嘉は歯を食いしばり、アステリオンでロザリンデを押し返そうとする。しかし、ロザリンデの刃はびくとも動かない。むしろ雨嘉の方が押し負けてずりずりと後退させられていた。

「ロザリンデ様って3年生の方だよね!?」

 慌てた頭で記憶からロザリンデのことを思い出す。ロザリンデは雨嘉とはほとんど関わりのない人物だ。うろ覚えの知識しかない。チャーミィが解説を加える。

『そう! ロザリンデちゃんは3年生で特務レギオンLGロスヴァイセのリリィだよ! AZポジションでデュエルの達人とも言われているとっても強い強化リリィだね! 使用CHARMは雨嘉と同じアステリオン! 力試しにちょうどいいかも!』
「全っっっっ然ちょうどよくないけど!?!?」

 百合ヶ丘の3年生と言うだけで相当ヤバい上澄の中の上澄である。その中でなおデュエルの達人などと称されているのだとしたら、それはもう化け物だ。

「やぁっ!!」

 アステリオンを変形させてロザリンデの刃を逸らす。変形機構のそうした運用はCHARMを破損させる恐れがあったが仕方なかった。至近距離で競り合って勝てるような相手ではない。
 咄嗟の機転で空いた距離は5メートルほど。しかし、AZのトップリリィ相手に安心できる距離では決してない。

『気を付けて雨嘉! ロザリンデちゃんがフェイズトランセンデンスを発動するよ!』
「レアスキルも使うの?!」

 目の前のロザリンデはシミュレーターが作った偽物なのだからレアスキルなど使うはずもないと、雨嘉は勝手にそう思っていたがぜんぜんそんなことはなかったようだ。
 混乱の極み突き落とされた雨嘉だったが、リリィとしての本能が体を戦いに向かわせる。ほとんど直感的に、雨嘉は後ろへ飛び退った。遠距離ならまだしも近接でロザリンデと渡り合うのは不可能だ。さらに距離を空ける必要があった。

「近づかせないっ!!」

 アステリオンを速射に切り替えて弾幕を張る。望むべくは遠距離戦だが、ロザリンデがそうやすやすとそれを許すとは思えない。距離を空けるにしても中距離が精々だろう。それでも勝機があるとは言い難い。
 とりあえず10メートル。それぐらいの距離は欲しい。

「えっ」

 弾幕をばらまいた矢先、雨嘉は信じられないものを見た。
 この密度の弾幕なら近づけない。マギの消費を惜しまずに射出した無数の弾頭はそれこそ暴雨のようにロザリンデへと飛来した。
 結論を言えば、相性が悪かった。

『Phase Transcendence』

 青色の爆発が起こった。
 ロザリンデのマギが奔流する。
 無限大のマギに支えられた強化リリィの体躯は文字通り超人的な動きで雨嘉の弾幕を掻い潜った。必要があれば超音速でアステリオンの弾を斬り、払い、柄で受け流した。悪夢のような動きだった。ロザリンデはたやすく雨嘉へと距離を詰めた。

(速すぎる……!!)

 雨嘉の弾幕が暴雨ならロザリンデの太刀筋は雷光だった。
 距離を空けるどころではない。縮められている。
 正直、信じられなかった。
 3年生と1年生で、ここまで実力の差があるものなのか。強化リリィだからでは済まない。リリィにこんな動きが可能なのか。

(シミュレーターじゃリリィの動きを完全には再現できないのに……!!)

 目の前のロザリンデは偽物に過ぎない。知力に劣るぶん本物のロザリンデより弱いはずなのだ。
 しかし、それでもなお模造されたロザリンデは圧倒的な実力をほこっている。それは夢結の姉を思い起こさせた。
 ロザリンデの凶刃が目前に迫る。天の秤目でしっかりと見えた。避けられない。

「きゃあああああ!!」

 雷鳴が轟く。
 ロザリンデの乱撃に雨嘉は切り刻まれた。

◇◆◇

「ミリアム。わたし、テスターやめる」

 翌日のラウンジ。
 険しく、沈鬱な表情の雨嘉がミリアムを捕まえてそう宣言した。

「どうしたんじゃ雨嘉? 顔色がなんだか……」

 ただならぬ雨嘉の気配にミリアムは戸惑いの声を上げた。
 ミリアムの視線に対し、雨嘉はふるふると顔を横に振りながらアステリオンを差し出した。

「ごめん。わたしはチャーミィのテストに耐えられない。わたしのCHARMからチャーミィをアンインストールして」
「……な、なにがあったんじゃ?」
「思い出したくない……ごめん。チャーミィをアンインストールして」
「雨嘉、一体どうし」
「アンインストールして」
「お、おぉ……わかったぞい」

 気圧されてミリアムは雨嘉のアステリオンを受け取った。
 雨嘉とチャーミィの間に、一体なにがあったのか。それを雨嘉の口から聞くのは難しそうだった。しかし、工房でCHARMからデータを吸い出せばなんとかなるだろうと、ミリアムは算段をつけた。

「これ以上続けたら、わたし、チャーミィのこと嫌いになりそう。だから、ごめん」
「本当になにがあったんじゃ?!」

 そうして雨嘉のCHARMからチャーミィはアンインストールされた。
 後日、他のチャーミィのテスターたちから「訓練の難易度がおかしい」と苦情が入ってミリアムが原因を調査したところ、自動で最高強度の訓練へ進むように百由が設定を書き換えていたことが判明するのだが、それはもう少し後の話である。

仮想訓練場の応酬【チャーミィ、雨嘉、???】終わり


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メイクアップ!【恋花、藍】

リリィのイメージアップ戦略の一環として、ヘルヴォルの5人がライブに出演した日のこと。

「ほら、じっとしててね?」
「んー」

あたしは控室で、藍にメイクをしてあげていた。
今はメイクの終盤、リップを塗る作業をしているところだ。
小さな口の、控えめに突き出された唇を赤く染め上げていく。
小柄で言動も幼いから無邪気な印象を与える藍だけど、赤を加えることで少し大人っぽい雰囲気にできるかな、なんて思ってこの色を選んだ。
それに、肌も髪も色素の薄い藍のビジュアルには、強めの色がいいアクセントになるかもしれない。今日はステージの上に立つんだから少しくらい派手でも問題はないよね。

「もうちょっと我慢ね~?」
「ん」

みずみずしくつやのある肌や唇は化粧のノリも良く、メイクしているあたしも結構楽しい。
口を動かせないから、さっきから藍の返事が「ん」だけで構成されているのがなんだかおかしかった。
我慢とは言ったけれど、藍はさっきから特に嫌がるそぶりも見せずに素直に受け入れてくれていた。
まあそもそも藍の方から「らんにもお化粧して?」ってお願いしてきたんだし、当然と言えば当然かもしれない。
見た目は中等部どころか初等部と間違えそうなほど幼いし、実際普段の言動も幼いんだけれど、こういうことに関しては年相応の乙女なところも垣間見せてくれる。

「……」

藍の外見やしぐさと実際の年齢のギャップは、単なるかわいい要素ではないことはわかっている。
あたしたちと出会うまでこの子は戦いしか知らず、まともな教育を受けていなかった。
高校生なのに義務教育修了レベルに達していないなんて言うけれど、お金の概念が身についていないなんて、小学校の中学年すら怪しかったと思う。
そのどうしようもない過去は日常のふとした瞬間に顔を覗かせ、あたしの心にうっすらと影を落とすことがある。

「?」
「……!な、なんでもないよ?」

黙っていると藍が不思議そうな顔でこっちを見つめてきた。暗い気持ちを悟られないように慌てて明るい声を取り繕う。
せっかくのライブ前だってのにこんなんじゃだめだ。考えを切り替えないと。
昔の事なんて気にするな、藍は皆と一緒に過ごす中で、どんどんと知識や経験を積み重ねて変わっていっている。
今だってそう、きっと出会ったばかりの頃の藍だったら、こんな風におとなしくメイクを受け入れてくれることもなかったはずだ。
少しずつだけど確実に良い方に進んでいる。そう思うと暗い気持ちはだんだんと薄れていった。
あたしの心境の変化を察してくれたのか、藍も安心したように再び目を閉じる。

「……」

気持ちが前向きに切り替わりると、今度はさっきとは別のことが気になり始めた。

(やばい、なんか緊張してきた……)

藍が無防備に目をつぶって、こちらにすべてを委ねて、唇をつん、と突き出している。
別に他意はないし、藍だってそんなこと思ってはないだろうけど、この姿勢をじっと眺めているとつい別のものが頭に浮かんでしまう。
小さな唇に自分で塗ってあげたリップが部屋のライトを反射した艶めきが、妙に気になって仕方ない。
確かに藍はお人形さんみたいな顔立ちだし、ちっちゃくてかわいいと思ってはいたけれど、その「かわいい」はあくまで妹とかに感じる親愛を同じもののはずだったのに。

(何意識してんだ、相手は藍だぞ……!)

頭に浮かぶ雑念を必死で振り払って、作業スピードを速める。この見つめ合うような姿勢でなくなれば、きっと変な考えも起こらなくなるはず。
無心でリップを塗り終えて、爆速でチークとハイライトを入れる。この速度で普段のメイクができれば、毎朝あと10分は長く寝ていられると思う。
あらかじめどんなふうにメイクするかある程度決めておいてよかった。もしノープランだったら、今から藍の顔をじっと眺める必要があったわけで、確実に挙動不審なのがばれていただろう。

「はい!おしまい!!」

ぜえぜえと肩で息をしながら藍に終わりを告げる。
自分でも気づかなかったけれど、集中するあまりに息を止めていたみたいだった。

「恋花、なんかへん、どうしたの?」
「な、なんでもないから!」

動揺を悟られないように作業スピードを速めたせいで、かえって不審に思われてしまった。

「でも顔赤いよ?」
「!」

緊張と軽い酸欠で顔が熱くなっているのは自分でも感じていた。
藍はあたしの体調不良を心配してくれたみたいで、身を乗り出しておでこを近づけてくる。

(ち、近……!)

藍の顔が目の前にある。いつも膝にのせてあげたりしていてこれくらいの距離感は珍しくもないはずなのに、まっすぐ見つめていられないくらいに心臓が高鳴る。自分でしてあげたメイクが憎らしい。
思わず立ち上がって逃げ出しそうになったけど、藍の優しさをはねのけるわけにもいかず、あたしは大きく開いたままの口をわなわなと震わせながら、黙ってその場で固まっていることしかできなかった。

「あっ」

おでこに藍の肌とは違う感覚が触れる。
その柔らかい感触で、皮膚と皮膚の接触が、メイクのために頭に巻いてあげていたヘアバンドで遮られたんだって気づいた。

「ふふっ」

小さなうっかりをごまかすみたいにして、恥ずかしそうに目を細める。
そんなかわいらしい仕草でさえ少し大人びて見えて、いつもならすらすらと口をついて出ただろうからかいの言葉さえ、ほんのひとかけらも思いつかなかった。

「恋花?」
「な、なに……?」

名前を呼ばれたことで、さすがに目を合わせないわけにはいかなくなってしまった。
こちらをじっと見つめる金色の瞳に引き込まれそうになる。

「ちゅっ」
「!」

厚手の布を挟んで額をくっつけたまま、藍の顔が角度を変えて、鼻と鼻が、唇と唇が触れ合った。

「らんも、もう子供じゃないんだよ?」

口を離してから、頬を赤く染めながらそんなことをささやいて、また近づいてくる。
あたしの脳は現実をまだ受け入れられないみたいで、せっかくメイクしたのにまたリップ塗りなおしだな、とか、まだ本番までは時間あるよね、なんて、纏まらない思考が浮かんでは消えていった。

【おしまい】


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すってんあかりん【灯莉、姫歌】

あたし、定盛姫歌は同じレギオンの同級生、丹波灯莉と二人でガーデン近隣の哨戒任務にあたっていた。
近くにケイブが発生したという報告もあって油断はできない。
できないんだけど…

「ちょっと灯莉ーっ!一人で勝手に進むんじゃないわよーっ!」
「も~、定盛おっそーい!」

思えば灯莉と二人きりの任務というのは珍しいかもしれない。
基本はレギオン単位での出動になるし、先輩たちが多忙な時も大抵はもう一人の同級生の紅巴と三人いっしょだ。
いつもなら紅巴がそれとなくフォローしてくれたりもするんだけど…
灯莉は勝手にどんどん進んでいくわスケッチブック片手に珍しい虫を見つけたとかで道を外れるわで相変わらず自由気まま。
ここは姫歌がしっかりしないと…!

歩いて行くうちにちょっとした山道に入った。
ここも哨戒の範囲のはずだけどなだらかな山道でもそれなりに骨が折れそうだ。

少しだけげんなりしているあたしを後目に、灯莉は山道でもひょいひょいと軽やかに登っていく。
この子の前世は鹿かなにかだったのかしら…。

「だからちょっと待ちなさいってば!」
「定盛もうへばっちゃったの?」
「灯莉が無駄に元気すぎるのよ」
「え~?でもそんなんじゃ定盛が目指してる武道館に行けないよ~?」
「う!確かにそうね…。アイドルは体が資本だもの。夢の武道館ライブの成功のためにはこんなところで音を上げてちゃいけないわ。
灯莉もたまにはいいこと言うじゃない」
「だよね~☆でも今年のM-1の決勝会場が武道館になったってぼく知らなかったよ」
「そうそう、これまではテレ朝スタジオだったのが…って、なんでM-1を目指してることになってるのよ!」
「あれ?R-1のほうだったっけ?」
「お笑いから離れなさい!何度も言ってるけど!姫歌たちが目指してるのは!ア・イ・ド・ル!」
聞いているのかいないのかやっぱり定盛おもしろ~い☆なんて言いながらさっさと先に行ってしまう灯莉。
まったくもう…。

しばらくすると少し開けた場所に出た。

「わぁ――!」

そこは小さな滝ときれいな小川が流れる澤だった。
こんなところにこんな映えスポットがあるなんて。きっと穴場なのだろう。

「ねえねえ定盛ー、ちょっとそこの川に入ってみようよ~」
「何言ってるの姫歌たちは遊びに来たんじゃないのよ」
「え~?じゃ~ひとりであそんじゃお~っと☆」
「こら灯莉っ!また勝手なことを…」

「ひゃあっ、冷た~い!定盛もこっち来ればいいのに~」
「濡れるから嫌!」
「どうせすぐ乾いちゃうよ」
「そういう問題じゃないでしょ。って、ああもう、そんなに走ったら転んじゃ…」
「ふぇっ?」

ばっしゃーんっ!

あたしが言い終わるより先に灯莉は小川の真ん中で派手に転んで尻もちをついていた。

「もう、言わんこっちゃない!」

あたしは慌てて灯莉に駆け寄る。
当の灯莉は服が濡れるのも全然気にしていない様子で能天気に笑っている。
ホントにこの子ったら…。

「ほら、いい加減行くわよ」

灯莉の方を見る。
濡れた髪が肌に張り付き、雫を滴らせている。
笑ってはいるが流石に少し恥ずかしかったのかいつもより頬が上気してるようにも見える。
衣服も濡れて少しだけ透けていて。
なんだか…いつもの灯莉じゃないみたいだった。
そんな灯莉を見てあたしは…

きれい…

って、何を考えてるのあたし!
相手はあの灯莉よ!?なんであたしが灯莉にドキドキなんてしなくちゃいけないの!
そんなのありえないわ。
そりゃあ、あたしほどじゃないにしても灯莉にはアイドルの才能があるって思っているし、
アイドルとしての可愛さは十分認めているわ。
でも灯莉は…そう、大切な仲間で、友達で…そういうのじゃないじゃない!
変な思考を振り払うように頭を振るが、それでも灯莉から目が離せない。
そんなあたしを灯莉はきょとんとした顔で見つめていた。
そして何かを思いついたようににまっと笑うとこちらに向けて手を差し出してきた。

「定盛、起こしてー」
「はぁ?そのくらい自分で起きれるでしょ。…ってまさか今のでどこか怪我したの!?」
「んーん。別に怪我してないよ。ただちょっと腰が抜けちゃって起きられないんだ」
「しょうがないわね。ホントに世話が焼けるんだから」
そう言ってあたしはなんでもないことのように差し出された灯莉の手を握る。
そう、なんでもないことだ。
なんでもないことなのに。
それなのに、なんで。
なんでこんなにドキドキするの?
灯莉の手は体温が高くて柔らかくてまるで赤ちゃんの手を握っているみたいだ。
あたしが今こんなにドキドキしているなんて、きっと灯莉は知らない。
もしこの気持ちが手のぬくもりを伝って通じてしまったら。
あたしと灯莉の関係はそれでもこのままでいられるのだろうか。

ほんの数秒のはずなのに永遠にも近いような時間。
「ねえ定盛ー早く起こしてよー」
そんな灯莉の声に我に返るようにあたしは灯莉の手を引こうとして――

「えいっ☆」

逆に灯莉のほうへ引っ張られていた。

「えっ!?ちょ、きゃあああぁっ!?」

ざっぱーんっ!

灯莉に手を引っ張られたあたしはおよそアイドルらしくない恰好で小川の中にダイブしていた。

「あはははっ!定盛引っ掛かったー☆ぼくとおそろいでびしょ濡れだねっ☆」

けらけらと笑う灯莉はあたしがよく知るいつもの灯莉そのものだ。

「あーかーりー!今日という今日は許さないわよ!」
「わー!定盛が怒ったー!逃げろー☆」
「待ちなさーい!それにあんた普通に起きれるじゃないの!」

それからは灯莉と任務の時間ぎりぎりまで水辺で追いかけっこして…本当に何してるんだか。

そういえば前に灯莉が何か変なことを言っていた気がする。
いや、この子が変なのはいつもなんだけど。
いつかの雨に濡れたあたしを見てこんなのあたしじゃない、なんて。

…そんなの、お互い様じゃない。
このあたしを見惚れさせたんだから。
責任、取ってもらうわよ。


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やめられない刺激【紅巴、純】

やめられない刺激【紅巴、純】


 こんにちは、土岐です。
 いきなりですが、皆さまは麻婆豆腐の来歴というものをご存じでしょうか……?
 僭越ながらご紹介させていただくと――日本豆腐協会(Japan Tofu Association)のHPによれば――麻婆豆腐の起こりは清王朝末期、四川省の都・成都に住んでいたチャオチャオという女性にあるそうです。

(前略)……文字から想像すると「麻というお婆さんの考えた料理」と想像しがちですが、それは間違い。「麻」はあばたという意味で、「婆」には身持ちの固いおばさんという意味があります。チャオチャオ自身は「羊肉料理」と名付けたのですが、彼女が亡くなってからは誰ともなく「あばたのおばさんの豆腐料理」として『麻婆豆腐』と呼ばれるようになったのです。
 日本豆腐協会 豆腐の歴史 History of Tofu より

 もともとは、今でいうところのB級グルメの位置付けだったようですが、広く親しまれるようになり、伝統的な中華料理として高級店でも取り扱われるようになったのでしょう。ちなみにこの料理を日本へ持ち込み、一般家庭まで浸透させたのは「料理の鉄人」陳建一氏の父・建民氏の功績ということです。日本で麻婆豆腐を広めるに当たって建民氏は日本人に合わせて少々まろやかな風味にしたようです。ちなみに本場の四川省麻婆豆腐のことを陳麻婆豆腐と言ったりもするようですね。
 ……はい。
 いきなり長々とすみませんでした。
 土岐はいま、ちょっとした中華料理店に来ています。お一人様です。

「あっ、あの、すみません」

 忙しそうにしている店員さんに声をかけます。でも、なかなか気付いてもらえません。
 あっ、目が合いました。大丈夫そうです。こっちに気付いてもらえた雰囲気です。よかった。
 しばらくして、店員のお姉さんがお待たせしましたと土岐のテーブルに来てくださいました。

「ご注文でしょうか?」
「は、はい」

 わたしはおずおずとメニューを一個一個指さしながら注文を伝えます。わたしはこの注文するときの瞬間が苦手です。なんだか、自分でもよくわからないのですが店員さんに恐縮してしまいます。どうにか無事に注文を伝え終わりました。

「かしこまりました!」

 わたしの注文を復唱してからお姉さんは奥へと引っ込んでいきました。今日は平日で、まだお昼になったばかりですがなかなかに混んでいます。さすが、テレビでも紹介されている人気店です。
 ……あっ。
 申し遅れましたが、土岐は辛い物が好きです。大好きです。
 そういうわけで今日は中華料理店に来ているわけです。目当てはもちろん麻婆豆腐で、日本人に合わせた陳麻婆豆腐ではなく、本場中国の辛口麻婆豆腐をお出ししているお店です。というよりも本場を超えている辛さ、昨今の激辛ブームによって生まれたモンスター麻婆豆腐ともいうべき激辛麻婆豆腐を食べにきています。しかもここは、取り分けして食べ合う本場スタイルの中華料理店なので一品の量が多いです。一皿で2~3人分はあります。ですから、今日は朝からご飯を抜いて挑んでいます。つまり、土岐は本気です。本気で麻婆豆腐を楽しむためにこのお店に来たのです。
 お料理を待つ間、お水をちびちびと飲みます。土岐はいま、すこし緊張しています。お店は値段設定が高めで、ヒラのリリィである土岐にはアウェーな雰囲気のお店です。女の子一人で来ているという事実も土岐のアウェー感を強めています。落ち着かない感じでコップに何度も口を付けます。ゴクゴクとお冷が進みます。

「あら? あなたは……」

 ふいに声をかけられました。
 なんだろうと顔をあげると純(きいと)様と目が合いました。
 ……純様?

「!?!?!?」

 土岐の目の前にロネスネス隊長の純様が立っていらっしゃいました。
 驚きのあまり鼻からお水が出そうになりましたがなんとか堪えます。

「グラン・エプレの……土岐紅巴さんね。ごきげんよう」
「ごっごっごきげんようございます!?」
「……あなたはどうしてこのお店に?」
「えっ?! えっと、それは、……ま、麻婆豆腐を、食べに来ました! すみません!」
「いえ、謝らなくても」
「あっはい! すみません!」

 どうしてここに純様がいらっしゃるのでしょうか?
 突然に純様と遭遇した土岐は動悸が激しくなります。こういう不意打ちのリリィ摂取はたいへん危険です。土岐の挙動不審に磨きがかかってしまいます。元々土岐は御台場女学校――中等科――の生徒です。純様ひいては船田ツインズに憧憬の眼差しを向けたことは一度や二度ではありません。初対面ではありませんが、今まで純様と接触したのはルドビコ女学院への外征ぐらいで、お話したというほど言葉を交わし合ったわけではありません。こんなに近くで、しかも二人きりでお話するのは初めてです。土岐のお手手はテーブルのうえでぱたぱたとせわしなく動いてしまいます、いけません、落ち着きのない子だと思われてしまいます。

「そう、あなたも麻婆を食べに来たんですのね。それは普通の麻婆ではなくて、それのことですわよね」

 純様がすっと指さしたのは行儀の悪い土岐のお手手、ではなく、テーブルに広げて置かれたメニューの一品でした。このお店のイチオシメニューとしてでかでかとA4写真がパウチされた激辛麻婆豆腐です。

「は、はい! 激辛のほうです!」
「……あなたも辛いのがお好き、なのかしら?」
「すす好きというか何というか、これは一度食べておかないといけないと思いまして」
「あら? 好きなわけではないんですの?」
「いえ! す、好きです!」
「そう。まぁ、一人でここに来るぐらいですものね」

 純様が土岐の顔をじっと見つめてきます。なぜでしょうか。わたしが辛い物が好きだというのが意外だったのでしょうか。

「あっあの、純様。先日はありがとうございました」
「? なんですの?」

 純様が怪訝な顔をしました。あれ、あのときのことを覚えていないのでしょうか?

「メイルストロム討伐のとき、純様に庇っていただきました。あのときは、本当にありがとうございました」
「ああ、あれのことでしたの。それはもう、あのときにお礼を頂いておりますわ。もう気になさらないでくださいまし」

 先日、ルドビコ国定守備範囲の補強のために御台場女学校とヘルヴォル、一柳隊、そして叶星様率いるグラン・エプレが長期外征いたしました。土岐たちはそのときギガント級メイルストロムと戦い、あやうく一撃をもらいそうになったところを純様に守っていただいた経緯があります。
 純様のCHARMはB型兵装という攻撃特化のCHARMです。故に防御に向いているものではありません。負傷すれば大けがをしやすい諸刃の剣のCHARMなのです。もちろん土岐はその日のうちに救っていただいたことに感謝の気持ちを伝えました。それでもやはり久しぶりにこうして純様に謁見できると感謝の念をあらわさざるを得ません。
 と、そのとき、わたしは重大な事実に気づきました。
 ツインズの純様がお一人様のご様子なのです。

「……あ、あの」
「なんですの?」
「今日は、初様は……」

 飲食店に来られているのに純様の姿しかないというのはおかしなことです。お二人はいつもご一緒のはずなのです。初様はどうしたのでしょうか?

「姉様は、今日は来られなくなってしまってわたくし一人ですの。本当なら一緒に昼食を頂く予定でしたのに……」
「そ、そうだったんですか」

 ぼかされましたがなにか理由があるようです。とても気になりますが踏み込んでいいのかどうか土岐には判断が付きかねました。それに純様との不意の遭遇で土岐の心は平常とはほど遠い状態です。嗚呼、でも。できることなら初様とも近くでお話したかったです。残念でなりません。

「? どうしてあなたがそんなに残念そうな顔をするんですの?」
「い、いえ! ちょっと欲が出ただけですすみません!」

 表情に出てしまうのは悪い癖です。土岐は努めて表情を改めます。

「……? もしよろしければですけれど、ご相席してもいいかしら?」
「えっ?!」
「ああ。勿論、お一人が好きなら断ってくださいまし。あなたの邪魔をしたいわけではありませんから」
「めめっめっ滅相も無いです!」

 なんだかとんでもないことになってきました!?
 流れで純様とご相伴にあずかることになりました。

「すみません。予約していた船田ですが、こちらの方と食事をしたいので奥へ移動しますわ」
「かしこまりましたー」

 通りがかりの店員さんに純様が申告してくれました。というか純様は予約してたんですね。抜かりがない、流石です。
 では奥へ、と純様に先導されて土岐はそのお背中についていきます。土岐の目の前で純様の黒髪が揺れています。店内の照明をきらきらと反射してとてもお美しいです。なかなか機会が無いのでサイドの蝶の髪飾りも目に焼き付けておきます。……嗚呼、こういう意匠だったんですね。

(それにしてもどうしてご一緒しようと誘ってくださったのでしょうか……それも他学校の土岐などと……)

 そんな疑問を抱えながらも口に出せず、土岐は黙って純様の後についていきます。狭い廊下を進むと引き戸の奥に個室がありました。こちらのお部屋は先ほどの騒々しい店内と打って変わってとても静かです。4人掛けの円卓がいくつか置いてあります。もちろん全部ターンテーブル付きです。
 船田様と立札のされたテーブルに純様がお座りになられました。

「……座りませんの?」
「あっ! はい!」

 純様の一挙手一投足を眺めていた土岐はつい座ることを忘れていました。着席を勧められて土岐は慌てて腰を下ろします。あっ、この椅子もさっきのよりいいやつです、クッションがふかふかしています。

「……」
「……」

 座ってから沈黙が訪れました。
 純様はメニューに目を通されています。土岐はバレないようにこそこそ純様をガン見します。摂取できるときに摂取しておく、リリィオタクの基本です。

「……どうかしたんですの? わたくしの顔に何か付いてます?」

 速攻バレました。

「いっいえ! ちょっと、お顔を見ておこうかと!」
「顔を? どうしてですの?」
「えっ!? ど、どうしてと言いますと……」

 馬鹿正直に言ってしまった土岐は退路を失いました。すっかり気が動転しています。この会話はどこへ向かって進んでいるのでしょうか。漕ぎ出したばかりですが行き着く先が何も見えず不安でなりません。

「わ、わたし、実はもともと、御台場の生徒だったんです」
「あら? そうでしたの」
「あっでも、居たのは中等科まででしたし、課程もアーセナルでスキラー値とか足りなくて……リリィではありませんでした。船田姉妹のお二人とお近づきになったこともありません」
「アーセナルだったんですのね」
「はい。結局は神庭に行ってしまいましたが、ふ、船田姉妹のことは武勇を聞いていましたし、遠巻きながら訓練を行なっている姿も見ていました。それで……せっかく近くにいるのだからお顔をよく見ておこうと思いまして……」

 説明になっているのか自分でもよくわからない説明をし終えて、土岐は息を吐きました。スターリリィと二人きりで声が引き攣ってしまっています。嬉しいはずなのに命が縮むような心持ちです。

「はぁ……そのお話とわたくしの顔を見ることとの繋がりはわかりませんが、そうでしたのね」
「はい」
「でも、どうして神庭へ? 御台場は合いませんでしたの?」
「ちち、違います!! わたしは追いかけるとずっと決めていた方達がいて!! それは高嶺様と叶星様で!! お二人を追いかけて神庭女子へ進学したんです!! 御台場女学校がどうとかではないです!!」
「高嶺と叶星を追いかけて?」

 純様が驚いたような表情を見せました。こういうお顔をするのは珍しいことです。

「……それは、ずいぶんと思い切ったことをしますのね。燈みたいな……」
「す、すみません」
「謝ることはないですわ。なるほど。それでリリィになったんですのね」
「はい。運よくというか、どうにかリリィになって、神庭へ入学することができました」
「運だなどとそんなに謙遜なさらなくても大丈夫ですわ。努力だけではどうにもならないこともありますが、あなたは努力でリリィになったのでしょう? 何も恥じることなどないではありませんの」
「は、はい。ありがとうございます」

 純様に励まして貰えました。お世辞でも純様のような実力者に認めてもらえるとすごく嬉しいです。そして心なしか土岐を見る純様の視線が少し変わったような気がします。なんだか珍しい生き物を見るような……そんな眼差しが……

「お冷やお持ちいたしました!」

 店員さんがやってきました。わたしと純様にお冷やとおしぼりを置いてくれます。
 純様が口を開きました。

「持ち帰りで激辛麻婆豆腐、乾焼明蝦(エビチリ)、蟹粉炒飯(カニチャーハン)をそれぞれ二人前お願いしますわ」

 さらさらと純様が注文を済ませます。
 あれ……持ち帰り?

「こちらの方のお代もこれで。お釣りは結構です」
「かしこまりました!」

 あっ。
 純様がさっさと先に会計を済ませてしまいました。それも、わたしの分もお支払い下さったようです。申し訳ないので止めようとしましたが純様に視線で追い払われました。あっあっ、店員さんが部屋を出て行ってしまいました。土岐はどうしたらよいのでしょうか。

「あ、あの! 純様」

「邪魔をする気はないと申しましたわ。わたくしは戻って、姉様とご飯をいただくことにしますわ。土岐さんは休日なのでしょう? 水を差してしまったようですからお支払いぐらいさせてくださいまし」
「水を差すだなんてとんでもないです! そそそんなことはありません!!」

 あまりにも悲しい誤解です。これは土岐の挙動不審が生んだ悲劇です。

「でもすっかり緊張してらっしゃるじゃないですの。わたくしが声をかける前までの顔、とても嬉しそうでしたわよ。今日、激辛麻婆豆腐を食べるの楽しみにしていたんでしょう?」
「そ、それは……」

 はぅぅ。痛恨のミスです。緊張のあまり表情や声がカチカチになって純様に気を遣わせてしまいました。本当に純様とお食事をするのは苦痛でもなく喜びなのですが、もはや何を言っても納得してもらえそうにありません。申し訳なさに冷や汗が出ます。

「それに、勘違いしないでくださいませ。わたくしは気分を害した訳ではありませんわ。その、なんというか、わたくしはやはり姉様と一緒にご飯をいただきたいですし……持ち帰ることにいたしますわ」
「あっ……はい」

 と……尊い。
 唐突にツインズの尊みを摂取できました。
 土岐は知っています。初様は別に辛いものが好きな訳ではないという事実を。むしろ苦手だという衝撃の事実を。もちろん土岐はそんなことを純様に言うつもりはありません。お二人の仲睦まじい関係に水を差す行為です。土岐はただ静かに、純様がテイクアウトしてきた激辛麻婆豆腐と乾焼明蝦を前にした初様に思いを馳せます。純様と楽しそうに語らう裏で味覚と格闘している初様はきっとお美しいです。

「では、わたくしは向こうで料理の出来上がりを待ちますので。良い休日を。ごきげんよう」
「ごっ、ごきげんよう!」

 純様がご退室なさられました。あぁ、やっぱりもうちょっとご一緒に過ごしたかったです。無念です。
 でも、あの純様に土岐の努力を認めてもらえました。動機が不純だとか怒られるかと思いましたがまっとうに褒められてとても気分がいいです。
 土岐は純様との会合の余韻に浸ります。ついでに純様が座っていた席に移ります。ほんのりと体温が残っていて心地よいです。これもいい気分です。

「おまたせいたしましたー! 激辛麻婆豆腐でーす!」

 そんなことをしているうちに来ました!!
 本日の土岐の目的が来ました!!

「ごゆっくりおめしあがりくださいませ」
「はいっ!」

 激辛麻婆豆腐。
 底の深い円形の大皿にたっぷりと麻婆豆腐が乗っています。2人前はゆうに超えている量です。素晴らしいです。ルビーのように真っ赤なラー油がてらてらと輝いています。色見はとっても辛そうです。しかし、芳醇なひき肉と花椒(ホアジャオ)の香りが食欲をこれでもかとそそります。豆腐にはしっかりと火が通っていて水っぽさはありません。正統な四川麻婆豆腐そのものです。

「……はぁはぁ」

 レンゲを持ちます。手が震えます。禁断症状のようにぶるぶると震えます。見ているだけでよだれが口の中にいっぱいに広がりつつあります。いけません汚いです。しかしとまりません。はやく、はやくこの麻婆で口のなかを蹂躙したいです。土岐の粘膜をあますところなく豆板醬と唐辛子で塗りたくりたい。
 小皿など不要。
 大皿からすくってそのまま口へと運びます。禁断のダイレクトアタックです。

「ほ、ほほぉおぉおぉお……!! おっ! おほっ!!」

 めちゃくちゃ熱かったです!
 お口から吐き出しそうになりますがさすがに無作法がすぎるので我慢します。あっつあつです。口の中で豆腐がぶるぶると沸騰しています。

「ふっふっふぅぅー--!!」

 ほふほふと情けない声を漏らしながら口の中の麻婆豆腐を冷まします。いま、土岐の周りにお客さんはいません。純様がVIPルームに案内してくださったからです。まぬけすぎる姿を衆目に晒さずに済みました。ありがとうございます純様。

「……お、おいひぃでぅ…っ!!」

 すごく美味しくて、すごく辛い。
 幸福に味があるとしたらきっとこういう味に違いありません。土岐は幸せを噛みほぐします。豚肉とニンニクの匂いを調和するかのように、ふりかけられた長ネギの清香が土岐の鼻をすぅっと抜けていきます。満点です。100点満点の麻婆豆腐です。

「はぁあぁああ…………」

 味わった麻婆を呑み込むと粘膜が灼かれていくのがわかります。持っている熱以上の熱を麻婆が土岐の体に刻み込んできます。たまりません。これが辛みの醍醐味ではないでしょうか。土岐は五臓六腑が麻婆の旨味辛味に染みわたっていくのを全身で享受します。嗚呼、エクスタシー。
 それから土岐は至福の時間を過ごしました。
 大皿の激辛麻婆豆腐は土岐の胃を十分に満たしてくれました。
 惜しむらくは、純様とこの喜びを共有できなかったことですが、純様が初様とのお食事を望まれるというのであれば仕方がありません。でもいつか、純様とこのような料理を分け合って食べられればと、土岐は心の奥で願っています。


やめられない刺激【紅巴、純】
おわり