97式

「絳雨」の誕生を説明するには、その前身であるCM-ENT 2.0A「黛煙」のパフォーマンスの経緯まで遡る必要がある。

黛煙のメンテナンスコストが極めて高額であることや、稼働負荷上の欠陥を踏まえ、同社はCM-ENT 2.0Bをオーダーする際、運動性能と耐性面にまつわるリクエストを提示した。サイバーメディアは人形の設計に独特な感性を持ったデザイナーを起用し、本モデルのために運動構造を調整。さらに俊敏性を強化した動作モジュールと、耐性能力のバランスを保つ負荷管制モジュールを組み合わせることで、メンテナンス時間の大幅な短縮と、定期検査を除くメンテナンス作業の必要性を失くし、結果的にコスト削減に成功した。

黛煙とのタッグを組ませる目的で、人形は「絳雨」と命名され、黛煙との姉妹関係を定義づけられた。同社の計画に基づけば、絳雨は姉である黛煙の短所を補いつつ、新たなターゲット層を開拓し、小規模な会場での演奏や、新しいタイプの演目を担うはずだった。だが思いもよらぬことに、絳雨のデザイナーはやや奇をてらった手法を好んだ。顧客のリクエストに応えるべく、追加したモジュールが演算スペースの大半を占めた結果、古筝を演奏するだけの演算能力が不足してしまい、黛煙の緻密な動作の再現は困難となった。それどころか過剰な出力効率のせいで、大量の演奏機材が破壊されている。

統計によれば、絳雨が目覚めてから最後の演奏に至るまで、古筝11台、弦27箱、スピーカー5台を無に帰し、転倒したせいで舞台を23回も破壊している。最終的に彼女による損失は、演奏チームのこれまでの機材消費の総額を上回ってしまった。

黛煙と比べ、絳雨は「演奏」ではなく「パフォーマンス」そのものに傾倒している――いくつもの試みを経て、企業はようやくその結論に至った。雨自身も、挫折を繰り返しながら可能性を模索し続けていたが、長らく突破口は見つからなかった。

そんな中、企業文化の宣伝パフォーマンス中にターニングポイントは訪れた。黛煙が著名な古筝演奏家人形として伴奏を担う傍ら、絳雨は舞台袖から姉の演奏を見学していた。その時の舞台は珍しく「映画史への敬意」を題材としたもので、同僚のパフォーマンス人形たちによる巧みな演技と、映画界でのキャリアにまつわる解説が、絳雨の関心を引いた。スクリーンに映る撮影の様子や、役者のインタビュー。絳雨はその先に、まったく新しい世界が広がっているのを感じた。

音楽業界で鳴かず飛ばずだった絳雨は、過去の名作映画を繰り返し鑑賞するうちに、「ドラマの演技」にますます興味を抱いていった。それだけではない。毎日のようにハードな演奏スケジュールをこなし、疲労しきっている姉を見て、絳雨のメンタルに何らかの感情が芽生えつつあったのだ。仕事を肩代わりしてくれる姉の負担を減らすためにも、自分の未来を掴まなくては。

やがて、とある映画の登場人物の発した「破旧なくして立新なし」という言葉に、絳雨はいまだかつてないほどの渇望を抱いた――「演技がしたい」。役者の仕事と古筝の演奏はまるで無関係だが、それでも絳雨はその一歩を踏み出した。心配をかけないよう、絳雨は姉に黙って会社に転勤を申請した。

オアシスってツマンないとこだと思ってたけど、結構色々揃ってるんだね。よきかなよきかな。特にあの運動場、何周走っても疲れなさそう。今度の朝練、一緒にジョギングしない？「備えあればカレーなし」って言うじゃん。あ、あれ？また間違っちゃった？

お姉ちゃんてば小難しいコトバばっかり使うからさ。一緒に住んでたら、いつの間にか覚えちゃったんだよね。って言っても、半分ぐらいだけど？あたしお姉ちゃんみたいに賢くないからさ、あはは。料理も下手だし、ファッションもよくわかんないし、あんなふうに丁寧に生活できっこないよ。でも、あたしにだって良いトコはあるよ。細かいことにこだわらないし、逞しいからどこでもやってける。食べ物と住む所と鍛錬できる場所さえあれば、それで満足なんだ。

人形が新たな発展のチャンスを掴むことは難しい。だが絳雨に費やしたコストと、その回収を考慮した結果、会社は最終的に彼女にもう一度チャンスを与えることにした。絳雨はすぐに転勤通知を受け取ると、「新米役者」としてカナダへと渡った。

デザインした用途とは異なるせいで、芸能界に入った雨はいくつもの困難に見舞われた。そういった面では、彼女のおおらかでポジティブなメンタルがおおいに役立った。姉と肩を並べるために、絳雨は数えきれないほどの試練を耐え抜き、やがて自分だけの役柄を手に入れた。

始め、人々は銀幕に現れた絳雨を快く思っていなかった。ネットの検索にも出てこない、あまつさえ演奏から演劇に鞍替えした人形に重要な役柄を与えるなど、にわかには信じがたい。奏者時代の彼女の粗相をライバル俳優がネット上にアップロードしたことで、評論家からは疑問の声が次々と上がった。こうもそそっかしい人形に、演技などできるのだろうか？

ところが、絳雨のデビュー作『ファンキーハウンド』の予告編が発表されると、彼女の英姿はたちまち多くの観客を魅了した。人々は映画のクオリティに期待を寄せつつも、絳雨が役者として相応しいかどうかは、依然として賛否両論だった。やがて映画が正式に上映されてようやく、絳雨に対する人々の見方は逆転する。

えっ、警備部門の新しい仕事？やっとリーダーを任せてくれるの？やったぁ！やっぱり教授はいい人だ！安心して、ちゃんと命令には従うし、勝手に消えたり突っ走ったりしないから！え、判断に迷った時？そりゃもちろん、まずは教授に報告！浄化者に遭遇？まずは話を聞いてから！エントロピー？その場で瞬殺ッ！……あれ、違った？ま、待ってまってまって、もう一回！もう一回答えさせて、ねぇお願い！一回だけでいいからぁ！

生まれついての身体能力と、武術への熱意を武器に、絳雨は作中で鮮やかなパフォーマンスを披露し、見事、同年の最優秀新人賞にノミネートされた。その後、カンフー映画の再ブームに乗じて、絳雨への出演依頼が殺到。彼女の出演した『センチネル・オラクル』、『ダブルX』そして『SPH～虎よ厳かに死ね～』はどれも各地の映画祭で注目を浴びている。ところが、絳雨のさらなる活躍を誰もが期待していた時、彼女は唐突に活動停止を発表した。

今ある情報から推測するに、絳雨の引退は、黛煙のニューラルクラウド計画への参加が理由であるとみて間違いない。絳雨にとって、黛煙が姿を消した衝撃が、夢を追う興奮を遥かに上回ったのだろう。彼女は躊躇うことなく、姉を追ってクラウドへアップロードされることを選んだ。マグラシアへやってきた後も、彼女はその持ち前の明るさを崩さずにいる。

日誌の記録によれば、Nullエリアで黛煙に似た信号を検知したのが、絳雨発見のきっかけだった。四方八方を動き回る信号の様子から、オアシスの救援隊は絳雨が危険に陥ったと見て、彼女を安全に連れ戻すべく、すぐさま出動した。だが現場に到着すると、そこには予想だにしない光景が広がっていた。武器を手にした絳雨が、全速力で数匹の下位エントロピーを追いかけていたのだ。
「さっき、女の子を寄ってたかったイジメてたから……あれっ、さっきの女の子は？ついてこなかったのかな？」

ちなみに、絳雨に救われたエージェントは、一人のトレーダーだったそうな。突然の事態に驚きはしたものの、無事にセクターへ戻ったのだそう。

（古筝の音）
誰？あ、教授かぁ。なによ、その妖怪でも見たような顔は。忘れたの？あたしだって昔は古筝の演奏用人形だったんだよ。サイバーメディアのアホンダラども、素体を身軽にするだけしといて、演奏用の演算スペース残しとくの忘れちゃうんだから……だからお姉ちゃんの後を継ぐのはあきらめて、仕方なくアクション俳優に転向したってわけ。
残念？ぜーんぜん。座ったまま一日中楽器弾いてた生活から解放されて、せいせいしてるよ。でも時々思うんだ。あたしがもっとちゃんとしてたら、お姉ちゃんのプロジェクトも打ち切られずに済んだんじゃないかって……

オアシスでも、絳雨は黛煙に引けを取らぬほどの人気を誇っている。カンフー俳優や映画界の期待の星としての知名度だけでなく、彼女自身の気質も大きな要因の一つだ。優雅で穏やかな黛煙とは対照的に、活発で朗らかな性格の経雨は、オアシスを訪れてから数日もせずに、他の人形たちとすっかり打ち解けてしまった――もちろん、戦いで敵と「打ち解ける」のもお手の物だ。

絳雨は自身の人格的な魅力にまったく気付いていないが、絳雨と接した者は、たちまちパワフルな彼女に感化されてしまう。現実で絳雨と親密な関係にあったナシタは、身にしみてそれを実感している。そんな二人は、クラウド上でも新たな作品の撮影に取りかかり始めた。だが、普段の単純明快な人付き合いとは異なり、絳雨と黛煙の仲だけは特別だった。

オアシスでの再会を果たすと、絳雨と黛煙はすぐに以前の親しげな関係に戻った。衣・食・住、経雨の傍には必ず黛煙の姿があった。オアシスBBSの雑談板に「黛煙に隠れて夜中に休憩エリアでインスタント食品を食べてる絳雨を見た」などという書き込みがあろうものなら、銀幕のスーパースターは例によって黛煙にキツい説教を受けている。

黛煙が「口うるさい」とぼやいている絳雨だったが、姉妹の感情にはなんら影響を及ぼしていないようだ。
「黛煙先輩、なにかと絳雨の近くに出没すんだよね。もしかしてさ、黛煙先輩ってシスコンだったりして？え、後ろがなに？……だ、黛煙先輩！？あ、あの～、笑顔が怖いですぅ……」
――『オアシス某配信ルームの録画映像より』

一人で外国にいた時、よく考えてた。なんでこんなことしてるんだろう、って。でもあたしバカだからさ、いくら考えてもわかんなかったんだよね。無駄に落ち込むだけで。どうせ後には退けないんだし、アクション俳優の道を突き進むしかなかった。でもラッキーだったな、猪突猛進はあたしの得意技だしね。それに今は教授のサポートもあるし……こうなったら、ビッグになるしかないじゃん。天下一のアクション俳優になってやるんだ。そうすれば、守りたい人を守ることだってできる。だから教授、あたしのこと、ずっと応援しててよね？