QBU-88

纏枝という名は、サイバーメディアによる命名ではなく、彼女を目覚めさせた職人たちが名付けたものだ。刺繍における雲模様を表す言葉――互いが植物のツルを骨格に絡み合い、やがて形を成す。「連綿不断、生々流転」の寓意である。

纏枝は自分の名前と、名付け親でもある師匠たちが大好きだった。刺繍は技法だけでなく、それに貢献してきた者たちの存在も継承されるべきだと、彼女は考えた。

そのため、刺繍を紹介したり教える時には、彼女は少しも面倒がらずに、一針一針が誰からどう伝わって来たかを補足した。

大した効果も無く、時には口煩いと批判されることもあったが、纏枝にとってはもはや習慣となっていた。

刺繍の他に、纏枝は目覚めた故郷の方言も好きだった。軽やかで優し気な口調は、いつだって彼女の憧れだった。纏枝には言語関連のソフトウェアが組み込まれておらず、それを学ぶには、人間のように少しずつ勉強するしかない。しかし、この方面におけるシステムの慣性が強すぎるせいで、纏枝が方言を習得することはついぞなかった。彼女はそれがひどく心残りだった。

そこが纏枝と他の同型人形との違いでもあった。纏枝は刺繍がために、土地そのものを愛した。彼女は刺繍の他にもたくさんの物事を学んだ。その積み重ねが徐々に彼女へと浸透し、纏枝を潤していった。より人間らしくなっただけではない、彼女の刺繍の技法も大きく進化を遂げたのだ。

其の形を得、且つ其の神韻を有す。刺繍業界で、それが出来るのは纏枝を置いて他にいないのである。

教授知ってる？古代の東方を起源とする手縫い技術は、かつて途絶えそうになったことがあってね。そこでサイバーメディアが技術を継承するために開発した、エンブロイダリーメーカータイプの人形というのが――あたしなんだ！あたしの手ずから仕上げた作品は、相手が誰であろうと、いくら積まれようと絶対に売ったりしないよ！

古代の文化遺産を丁寧に丁寧に丁寧に守ることがあたしの使命なんだ。だからそのためにあたしは全力で仕事に励む！
教授も一緒だよ。もし肩の荷が重く感じたら、あたしを頼って！全部上手くやっておくからさ！あたしに出来ることであれば、きっと心配いらないよ！

歳の離れた師匠と長く過ごしてきたせいか、纏枝は刺繍の技法だけでなく、妙なところまで彼らに似ていた。

「本日は皆さんに、フィッシング詐欺についてお話したいと思います。ご存知の通り、科学技術の迅速な発展に伴い、詐欺の手段もまた進化し続けています。我が国では、多くの老人がこの問題に……」

2055年『民衆日報』法律普及コラムの被害者欄にて、モザイクのかかった老人の写真に紛れて、一枚の若い少女の写真は異彩を放っていた。

今日もまた1万ディットコインも騙されちゃった！どうしていつもこういう見え透いた嘘に騙されちゃうんだろう……
相手の親切な笑みや魅力的な条件を見るたびに判断力を失っちゃうんだよね……教授、次からは絶対あたしのこと見張ってて！

もちろん、纏枝は日々刺繍だけをしているわけではない。器用な彼女は織物も得意だった。刺繍と織物に違いはあれど、同じ針仕事として通ずるところも多くあった。

休憩時間になると、纏枝はよく協会入り口の傍に椅子を並べ、師匠たちと日向ぼっこをしながら毛糸を巻き、彼らが語る昔話に耳を傾けていた。

服を編み上げたはいいものの、使いどころのない纏枝は、それらをすべて師匠や彼らの家族に贈った。それでも飽き足らず、彼女は普段の様々な奇怪なアイディアを服に織り交ぜるなどして、一種の娯楽として楽しんでいた。

そのへんてこな形や落書きのような模様が、纏枝の手によるものだと知る者は少ない。なにせ纏枝の作品はこの上なく巧みで、含蓄のあるものだと世間から認識されていたからだ。

そういえば、教授はいつもそんな薄着で本当に大丈夫なの？あんまり無頓着だと風邪を引いちゃうよ――うわっ、言った傍から鼻水が！よし、こうしよう。今度あたしのとこに来てくれない？あげたいものがあるの！
……何かって？それはもちろん秘密だよ！今言っちゃったらつまんないじゃん！

リターン・トゥ・ゼロの後、纏枝はマグラシアに囚われたことを不満に感じるどころか、むしろホッとしていた。そしてクラウドの旅を、バカンスだと思うことにした。

無形文化遺産シリーズ人形の立場は特殊だが、特殊なルートからの仕事の依頼は常にあった。ニューラルクラウド計画に参加する前、学習任務を終えた纏枝は、サイバーメディアの計らいで富裕層向けの特注工芸品アトリエへと配属された。彼女自身は、刺繍作業がもたらす達成感と報酬に満足していた。だが文化を生み出す者は往々にして、マニュアル通りの業務に閉塞感を感じるものだ。

だからオアシスに落ち着いてすぐ、纏枝は人形の服装デザインを一手に引き受けた。ここでは時間がたっぷりあるし、皆が自分の仕立てた衣類を身につけ、褒め称えられるのを直に見る事ができる――纏枝にとって、これ以上の誇りはなかった。

あ、来たんだね教授！作戦資料なら整理し終えたよ、まだ他に何かある？
……前に言ってた教授にあげるもの？あれね……できてはいるんだけど、ちょっと後ろ向いてくれるかな……
――どう？あったかい？
特に貴重ってわけじゃないし、ただのスカーフだから値打ちのあるものでもないけど……あ、これはタダであげるよ。お金とかそういうのは……いいから。