【中村光一】 の変更点


 *概要 [#ba7d6dac]
 ドラゴンクエストシリーズのプログラムを担当したゲームクリエイター。香川県丸亀市出身。
 [[【チュンソフト】]]の社長(現在はスパイク・チュンソフトの会長)で、FC版1での[[【リムルダール】]]の町にいる[[【ちゅん】]]のモデルにもなっていると思われる。
 [[【ザッザッザッ】]]の生みの親。
  
 子供の頃からパソコンのプログラミングを趣味にしており、プログラム雑誌にも頻繁に投稿し、読者からの人気も知名度も高い常連だったという。
 高校3年生のとき、[[【エニックス】]](現[[【スクウェア・エニックス】]])が開催した「第1回ゲームホビープログラムコンテスト」に「ドアドア」で応募し、みごと入賞。その若い才能が注目されることとなった。
 このコンテストを機に、同じく「ラブマッチテニス」で入賞したフリーライターの[[【堀井雄二】]]、エニックスのゲームプロデューサー[[【千田幸信】]]らと知り合う。
  
 高校卒業後に上京し、大学入学早々にチュンソフトを立ち上げ、エニックスのゲームのプログラムを担当した。
 ファミコンソフトでは、エニックスのファミコン初参入となった自身のコンテスト入賞作「ドアドア」、次に堀井と初めてコンビを組んで制作した[[【ポートピア連続殺人事件】]]、そして、おなじみのDQ1~DQ4である。
 [[【ドラゴンクエストマスターズクラブ】]]のインタビュー記事によると、DQ1は音楽ルーチン以外のすべてのプログラムを担当、DQ2はメイン部分、DQ3はシステム設計やプログラムの構想といった SE(システムエンジニア)レベルの仕事、DQ4はディレクションとクオリティチェックのみを担当し、プログラマーの会議には参加していたが実際の作業は担当者に任せていたという。
 ドラクエはスーパーファミコンに舞台を移したDQ5までを担当し、その後はエニックスからは離れ、自社ブランド製品を開発している。
  
 ドラクエシリーズのヒットで彼も一躍 “時の人” となり、ゲーム雑誌やテレビ番組といったメディアへの露出が増えていった。
 当時、徳間書店より出版されていた『ファミリーコンピュータmagazine』というゲーム雑誌では「D.Q.II Q&A」というコーナーを担当し、次のような回答を寄せていた。
 -呪文を封じられた魔物が[[【なかまをよぶ】]]こともできなくなるのは、声を出せなくなったから。
 -[[【ムーンブルク王女】]]がLv29を超えると次Lvまで経験値を正しく教えてもらえないのはハーゴンのイヤがらせ。
 -[[【ムーンブルクの王女】]]がLv29を超えると次Lvまで経験値を正しく教えてもらえないのはハーゴンのイヤがらせ。
 -[[【デビルロード】]]の[[【メガンテ】]]で全滅した後に復活した頃、そのデビルロードもその場で力尽きて突っ伏している。
 -[[装備品を売り払っても攻撃力や守備力が変化しない>【装備技】]]のは、装備したつもりになっているだけ。そのために装備を確認するとハッと我に返ってしまって元に戻る。
 
 このようにユニークというか、世界観を壊さないようなコメントになっているのは、読者の年齢層に配慮したからなのか、それとも立場上あからさまに「バグです」「プログラムミスです」とは言えなかったからなのか…。
 次作のDQ3では『ドラゴンクエストマスターズクラブ』で堀井が似たようなコーナーを担当したが、こちらはかなりプログラムやシステム寄りの回答を寄せているのとは対照的である。
  
 中村はさらにDQ3の発売後に放送されたテレビ番組のインタビューで既に、現在でいうネットワークゲームについて言及している。
 昭和60年代といえばまだインターネットは一部の大学や研究機関などでしか利用されておらずパソコン通信が一般的だったが、それも広くは普及していなかった時代である。
 この先見の明こそが「天才プログラマー」と呼ばれる所以ではなかろうか。
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