コプリーセクターの端、某生体観測所。 | |||
割れた窓の隙間から吹き込む風が、長く鋭い音を鳴らした。 | |||
ふいに草むらが動いたかと思うと、中から一人の人形が顔を出した。 | |||
末宵 | ……こちら末宵。ファイアウォールを迂回し、目標セクターへの潜入に成功。 | ||
末宵 | 今のところエージェントの姿はない。セクター端の観測所も無人だ。あとで現在の座標と映像情報を送る。 | ||
末宵 | ……あのエージェントか?忘れるもんか。でもエントロピーの痕跡は見当たらないな。 | ||
末宵 | ……うん、わかってる。なるべく衝突は避けてターゲットの捜索を優先、だろ。問題ない。 | ||
末宵 | 増援は必要ないかな。慎重にいくさ。末宵アウト。 | ||
通信を切ると、末宵は周囲を見渡した。 | |||
末宵 | くどいヤツ。初塵だけの任務だったら、ドレーシーもここまでうるさくないくせに。 | ||
末宵 | にしても、ここは確かにヤバいな……ターゲットはここにいるのか? | ||
末宵 | 土壌の採取完了。エントロピー液による汚染の痕跡はなし…… | ||
末宵 | 海水は大丈夫そうだな。地下もキレイだ。 | ||
末宵 | 正常すぎて、逆に異常。 | ||
末宵 | 情報によると、ここにエントロピーがいるはずなんだけど……汚染されてないのは、一体どういうことだ? | ||
末宵はその場でくるくると二度回った。焦る気持ちを素早く抑えつける。 | |||
末宵 | 違う、エントロピーじゃない。ターゲットを見つけ出すことが最優先だ。 | ||
末宵 | でもここ、人っ子ひとりいないんだけど…… | ||
末宵 | エージェントが全員エントロピーに喰われた、ってわけじゃないよな。 | ||
末宵 | いや、ありえない。そうだとしても何かしらの痕跡が残るはずだ……それに浄化者が黙ってないだろ…… | ||
末宵 | 仕方ねーな。あのへんの建物、片っ端からあたってみるか。 | ||
末宵は注意深く、とある建物に近づいた。 読み取ったマップ情報からすると、ここは生態観測所のようだ。 | |||
やや寂れた電子ゲートは固く閉ざされている。 末宵は識別エリアを慎重に迂回し、ゲートロックをハッキングしようとした。 ふいに、彼の視線が暗いスクリーン上に留まる。 | |||
末宵 | ……電気が通ってないのか? | ||
軽く扉を押すと、ゲートが音を立てて開いた。 緩慢とした機械の作動音がかすかに聞こえる。 | |||
末宵 | 廃棄されてるわけじゃない、まだ誰かが使ってるんだ。 | ||
末宵 | だったらなんで電気が通ってないんだ?オペランドが足りないのか?それとも、閉じとく意味がないから……? | ||
彼は考えながら、生態観測所へと足を踏み入れた。 | |||
機械の作動音をたどっていくと、すぐにとある部屋に着いた。 部屋の中央にはいくつもの作業台が並べられていて、 そこから伸びる無数のコードが地面に散らばっている。 | |||
末宵 | 制御室なのか? | ||
作業台は稼働しているようだが、部屋にエージェントの姿はない。 | |||
末宵は武器を握ったまま、制御室を進んだ。 精密かつ複雑な機器の間で視線を泳がせる。 | |||
末宵 | 生態学か……あいにくだな、オレの知らない領域だ。 | ||
末宵はとあるデスクの前へやってくると、おもむろに引き出しを開けた。 中にはレポート用紙がぎゅうぎゅうに詰まっている。 | |||
彼は軽く頭をふってデスクから離れた。 制御室の壁に沿って、いくつかの展示棚が置かれている。 その上には用途の知れない無数のビンが並べられていた。 | |||
末宵 | ん……? | ||
生態学の実験とは無縁だが、末宵は本能的に一抹の違和感を覚えた。 | |||
末宵 | 薬……違うな、試薬か?なんで機械だらけの部屋にこんなものが? | ||
末宵 | 妙だな。42Labみたいな最先端企業じゃなくても、一介の研究員がこんなズボラな真似するわけがない。 | ||
末宵 | 待てよ、まさか…… | ||
末宵はそっと棚に近づいた。 目の前にあるのは、いたって平凡な木製の展示棚だ。 だがどうしたわけか、それを目にした末宵のメンタルはざわついていた。 | |||
末宵 | (なんだ、この不安は……) | ||
末宵 | (自分じゃ気づかないことに、無意識に感づいたのか?それとも……) | ||
彼は頭をふって、メンタルからの忠告を抑えつけようとした。 | |||
末宵 | (怖がることないさ) | ||
末宵は展示棚に手を伸ばす。 | |||
??? | 【外のエージェントはここにいるべきじゃない】 | ||
末宵 | ! | ||
末宵はとっさにふりむき、声のする方へ長槍を向けた。 | |||
青い髪をしたエージェントは長槍と末宵を順に見た。声に起伏は見られない。 | |||
??? | 【今すぐ立ち去れ】 | ||
末宵 | …… | ||
末宵 | 誰だ、お前? | ||
??? | 【今すぐ立ち去れ】 | ||
末宵 | ……質問に答えろよ。 | ||
??? | 【今すぐ立ち去れ】 | ||
末宵 | いい加減にしろよ。お前、アドミニストレーターだな? | ||
??? | …… | ||
??? | 【外のエージェントはここにいるべきじゃない】 | ||
末宵 | チッ。 | ||
末宵 | コプリーセクターのアドミニストレーター、タラナム。だろ? | ||
タラナム | ……! | ||
末宵 | ロボットの真似はいい、お前のことは知ってる。 | ||
末宵 | (ビンゴ。レポート用紙に名前があったからな……) | ||
末宵 | ゴホン。で、ここにはお前一人か? | ||
タラナム | ……お前には関係ない。 | ||
タラナム | 立ち去れ。 | ||
末宵 | お前な…… | ||
末宵 | (ダメだ、エージェントと衝突するわけには……んー……) | ||
末宵 | まぁ聞けよ。オレは異常エージェントじゃないし、お前らのセクターを攻撃するつもりもない。 | ||
タラナム | 正常なエージェントなら、自身のセクターでの仕事に戻るべきだ。立ち去れ。 | ||
末宵 | あっれー?なら、ここの「正常なエージェント」たちはどこに行っちまったんだ?アドミニストレーターさん? | ||
タラナム | ……お前には関係ない。はやく立ち去れ。研究がある。 | ||
末宵 | No.316。 | ||
タラナム | ……! | ||
末宵 | 覚えてないか?それとも、あえて忘れたか。 | ||
タラナム | ……立ち去れ。 | ||
タラナムの態度に末宵は肩をすくめると、傍にある機械の上に腰かけた。 | |||
末宵 | 半月前、オレたちはマグラシアをさまよってたエージェントを助けた。 | ||
末宵 | そいつはエントロピー……コンピューターウィルスに感染してた。メンタルをぼんやりさせてね。 | ||
末宵 | 何を聞いても答えない。でも、そいつがどっかのセクターから追放されたのは確実だ。 | ||
末宵 | そしてそのセクターは、ウィルスによる攻撃を受けているはず。言いたいことはわかるよな、アドミニストレーターさん? | ||
タラナム | ……立ち去れ。研究がある。 | ||
末宵 | それしか言えねーのかよ、お前は。 | ||
末宵 | とっくに調べはついてるぜ。そのエージェントはコプリーから来たんだ。 | ||
末宵 | お前が知らないはずないよな? | ||
タラナム | ……知らない。 | ||
タラナム | セクターは正常に稼働している。ウィルス警報もない。 | ||
末宵 | 人っ子ひとりいないのが「正常」か? | ||
タラナム | …… | ||
タラナム | 見えていないだけ。 | ||
末宵 | ……? | ||
タラナム | ここのエージェントは皆、水中で海洋の生態を観察中だ。外界とは隔たれている、お前には見えない。 | ||
末宵 | ……へぇ、マジで? | ||
末宵は嘲笑うかのように、眉を吊り上げた。 | |||
タラナム | そう。他所のエージェントとは異なる。 | ||
タラナム | 立ち去れ、我々には仕事がある。 | ||
末宵は長槍を戻した。だが視線はタラナムに向けられたままだ。 | |||
末宵 | だったら、あのウィルスに感染されたエージェントはどう説明する? | ||
タラナム | ウィルスの駆除は浄化者の仕事。 | ||
末宵 | なら浄化者はどこだ? | ||
タラナム | 奴らなら、いつでも呼び出せる。 | ||
タラナム | 浄化者が来ればお前は追い出される。立ち去れ。 | ||
末宵 | …… | ||
末宵 | (衝突は避けないと……本当に浄化者を呼ばれても困るしな……) | ||
末宵 | ……わかったよ。ま、お前の職務怠慢を問い詰めに来たわけじゃねーし。 | ||
末宵は数歩後ずさり、ゆっくりと制御室を出た。 | |||
タラナムはゲートの前までついてきて、末宵が生態観測所を立ち去るまで、 彼の一挙一動を静かに眺めていた。 | |||
ゲートの閉ざされる重たい音が室内に響いた。 | |||
タラナム | …… | ||
タラナム | 【対象は指定エリアを離脱しました】 | ||
タラナム | 【……安全のため、さらなる確認を行います】 | ||
タラナム | 【確認完了、パラメータに変動なし】 | ||
タラナム | 侵入された痕跡はなし。 | ||
??? | そんなんで安心するんだ? | ||
タラナム | !!? | ||
天井から突如、一筋の光が放たれる。 タラナムが反応できずにいると、頭上からとある人影が彼女の前に降り立った。 | |||
末宵 | ……なるほどね、建物の下に隠してたのか。 | ||
末宵 | 悪いな、そりゃオレの領域だ。 | ||
タラナム | お前…… | ||
末宵 | 動くな! | ||
末宵は再びタラナムに長槍を向けた。今度は彼女の喉元に切っ先を当てて。 | |||
タラナム | う…… | ||
末宵 | 最初から怪しいとは思ってたんだよな。だが、まさかここまでやるとは。 | ||
末宵 | 言え。エージェントどもをどこへやった? | ||
タラナム | 【アクセス権限がありません】 | ||
末宵 | こんな時にトボける気かよ? | ||
末宵 | ……まぁいいさ。この部屋でなら、色々見つかるだろうしな。 | ||
末宵 | あの端末のデータを片っ端から検索すれば…… | ||
タラナム | ……やめろ。 | ||
末宵 | ん? | ||
タラナム | 【優先レベルを調整中……】 | ||
タラナム | わかった。お前をエージェントのもとへ案内する。 | ||
末宵 | 案内……? | ||
タラナム | そう。このルートを進めばいい。 | ||
末宵 | ……お前が噓をついてない証拠は? | ||
タラナム | 私も同行する。 | ||
タラナム | 必要なら、いつでも私を稼働停止にできる。 | ||
末宵 | ……フン。 | ||
末宵は返事をする代わりに、長槍を軽く動かした。 タラナムが大人しく扉を開ける。 | |||
すると、真っ黒な通路が目の前に現れた。 | |||
末宵 | お前が先だ。 | ||
タラナム | ああ。 | ||
道がどこへ通じているかはわからない。末宵は焦る気持ちを必死に抑えた。 | |||
末宵 | (さっきの話とここの環境からして、ことと次第では、本当に「ターゲット」が見つかるかもな……) | ||
末宵 | (いや、マジかよ?長い間追い求めてたものが、こんなちっこいセクターにあったりするか?) | ||
末宵 | (でも、本当だったら……証明できるかも……) | ||
タラナムは急に歩を止めた。つられて末宵も立ち止まり、前方を見た。 | |||
末宵 | なんだよ、おい? | ||
タラナム | ……道がない。 | ||
末宵 | 道がない?お前が案内してんだぞ? | ||
タラナム | 塞がれている。 | ||
末宵 | はぁ?お前、ここのアドミニストレーターじゃねーのかよ。 | ||
末宵はそう言いながらタラナムを追い越し、前へと進んだ―― | |||
ふいに頭上から黒紫色の海水が降り注いだ。末宵はとっさに身を強張らせる。 | |||
末宵 | ――エントロピー液!? | ||
海水は瞬時に二人の立っていた場所を呑み込んだ。末宵は荒波に押し流される。 | |||
再び海面に顔を出すと、タラナムは慣れた様子で、 壁にある手すりのようなものをつかんでいた。 彼女の半身はエントロピー液に浸かっているが、なんら影響は受けていないようだ。 | |||
末宵 | どうして……あいつは確かに何も…… | ||
タラナム | …… | ||
末宵 | くっそ、油断した……お前なんかに、このオレが負けるわけ……! | ||
末宵の声がだんだんとエントロピー液に埋もれてゆく。 その数秒後、タラナムは彼から視線を逸した。 | |||
タラナム | (沈んでいない、潜ったか) | ||
タラナム | (いずれにせよ、彼女からは逃れられない) | ||
タラナム | ……許せ。 | ||
そう言って、タラナムは真っ暗な道を去った。 | |||
彼女の背後で、通路の扉は轟音とともに閉ざされた。 |