オアシス、D71臨時観察拠点、会議室。 | |||
広いとは言い難い会議室に、白衣を着たエージェントが大勢詰めかけている。 彼らは室内に散らばり、手中のファイルを交換しながら、ひそひそと話し合っていた。 | |||
ボニー | 皆さん揃ったみたいですね……こっ……これより会議を始めます。 | ||
だらしないエージェント | だからさぁ、今ウィルスの増殖形式を討論したって何の意味も…… | ||
几帳面なエージェント | だったら、なにが問題だっていうの? | ||
ボニー | み、皆さん……お静かに……! | ||
だらしないエージェント | さっきから言ってんじゃん、肝心なのは…… | ||
ボニー | み、みな……皆さん……皆さん、静かにしてくださぁぁい! | ||
だらしないエージェント | あん? | ||
ボニー | ヒッ……ご、ごごごご、ごめんなさい…… | ||
イムホテプ | ……皆さん、お静かに! | ||
ボニーの傍に立っていたイムホテプは、こうなることを見越していたようだった。 彼女はデスクを二度ほど力強く叩いて、皆の注意を前へと向けさせた。 | |||
イムホテプ | ボニーさん? | ||
ボニー | ファッ!?は、はい……だ……第二回医療共有会議を始めます。A班の責任者の方から、進捗をご報告頂きます。 | ||
フローレンス | はいはい、進捗ね。理論段階はすでに終えてるよ、今は…… | ||
イムホテプ | フローレンスさん。ここには初めましてのお医者様が大勢いらっしゃるの。最初からご説明頂ける? | ||
フローレンス | ……チッ、面倒だね。 | ||
フローレンス | 私はA班を取り仕切るフローレンス。私たちは、ウィルスのソースコードを研究している真っ最中なの。 | ||
フローレンス | つ・ま・り、コンピューターウィルスの、一番敏感で一番ふか~いところにあるアレだよ。喩えれば、DNAみたいなものかな。 | ||
フローレンス | 教授たちはウィルスの発生源を探しに行ったけど、それだけをアテにするわけにもいかないでしょ? | ||
フローレンス | というわけで!理論構築はすでに終わったから、これから臨床実験を始めるつもり。以上。 | ||
イムホテプ | 臨床実験……具体的な状況をお聞かせ願えないかしら? | ||
フローレンスは眉を吊り上げ、 ロングデスクのもう一方に座るパナケイアを一瞥してほくそ笑んだ。 | |||
フローレンス | えぇ……どうしても聞きたいの?本当に言っちゃうよぉ? | ||
フローレンス | すでに100種類以上に及ぶ特殊配列を手に入れてる。ソースコードの生物学的標的は、その中にあると見て間違いないね。 | ||
フローレンス | 残念ながら、計算による論証は限界に近づいてる。研究を進めるためにも、直接臨床実験段階に入ろうと思ってるの。 | ||
フローレンス | 早い話が、指標をリセットしたいってことね。 | ||
ボニー | し……指標を、リセットぉぉ!? | ||
イムホテプ | ……それは、死亡指標のことを指しているの? | ||
フローレンス | ま、そんなとこ。意味は大体合ってる。 | ||
フローレンス | オアシスにもいるよね?助かりそうにないエージェントがさ。 | ||
バンッ―― | |||
パナケイア | 駄目です! | ||
フローレンス | パナっちってば、マジメになっちゃって。だから言いたくなかったんだよね~ | ||
パナケイアは満面の笑みを浮かべるフローレンスを無視して、発言を始めた。 | |||
パナケイア | A班班長の要求には同意しかねます。患者が生きている限り、医者はそれを救うべきです。 | ||
フローレンス | あぁ、なんて眩しい!パナっちは天使だね! | ||
イムホテプ | 静かになさい、フローレンスさん。 | ||
フローレンス | はーい…… | ||
イムホテプ | それじゃ、パナケイアさん。B班の研究についてご紹介頂ける? | ||
パナケイア | もちろんです。教授がソースコードを見つけにご出発なされたからには、患者の容体を安定させるのが私たちの役目。 | ||
パナケイア | 我々B班が開発した薬剤なら、ウィルスの進化を大幅に抑えることができます。アントニーナさんの救急コードと組み合わせれば、すべての患者にシークエンシング可能です。 | ||
パナケイア | これが最も安全な手段です。感染を一種のコンピューターウィルスによるものではなく、数百種のウィルスとみなして研究を行うのです。 | ||
パチパチパチ―― | |||
黙っていたフローレンスが、にわかに拍手をしだした。 | |||
フローレンス | 最も安全なんじゃなくて、最もバカな手段の間違いでしょ? | ||
フローレンス | 素晴らしい演説だったよ、パナっち。ほんっと、完璧なプランだよね。 | ||
フローレンス | 具体的な進展が一切ないことを除けば、B班の研究はまさにサイコー。 | ||
パナケイア | 何が言いたいの、フローレンス? | ||
フローレンス | だから、具体的な進展がひとつもないって言ってるの。 | ||
フローレンス | 患者の容体を安定させてから、一人ずつ対処していくって?ウィルスをなんだと思ってるの?まさか、教授の受け売りじゃないよね? | ||
フローレンス | あのセクターじゃ散々な目に遭ってたくせに、教授に拾われてからもその体たらくとはね。 | ||
フローレンス | 「おやおや~、パナっちが困ってるみたい。教授がソースコードを持ち帰るまで、進化せずに大人しくしていよう!」な~んて、ウィルスが考えると思う? | ||
フローレンス | 冗談よしてよ。私たちはね、死神とレースしてるも同然なの。負けた方は身ぐるみ剥がされちゃうんだから、一枚残らずね。 | ||
パナケイア | まだ起きてすらいないことに、よくそこまで極端になれたものね?フローレンス、あなたのそれは人助けなんかじゃない、殺人よ。 | ||
ボニー | あ……あああの……お二人ともケンカはやめてください! | ||
フローレンス | ケンカなんかしてないよ、パナっちと現状を分析してるだけ。 | ||
パナケイア | めちゃくちゃなのよ、フローレンス。そんなの単なる推測に過ぎないわ。 | ||
フローレンス | 知らないの?現実は推測から来てるんだよ。感染がどれだけ恐ろしいか、パナっちも見たでしょ? | ||
パナケイア | あなたね――! | ||
イムホテプ | そこまで! | ||
ボニーとともに会議の進行役を務めていたイムホテプが、 事態をみかねて勢いよくデスクを叩いた。 会議室が再び静かになった。 | |||
イムホテプ | どちらも納得いかないのなら、規定に基づき投票を行いましょう。 | ||
イムホテプ | 投票結果を議決とみなし、票数の多かった方に医療センターの全リソースを提供するわ。 | ||
フローレンス | え~……またそれ?教授がいたら、こんな臆病なマネしなくて済むのに。あ~あ、教授が恋しい。 | ||
パナケイア | あのお優しい教授が、仲間の命を危険に晒すはずないわ。 | ||
フローレンス | さて、それはどうかな? | ||
数分後、投票の結果が出た。 | |||
A班とB班、それぞれの投票数は―― | |||
パナケイア | 引き分け!?どうして……あなた方、一体何を考えてるんです?! | ||
イムホテプ | パナケイアさん、落ち着きなさい。引き分けとなれば、医療センターはいかなる一方も支持できないわね。 | ||
イムホテプ | 数時間後に、第三回医療共有会議を開くわ。班長のお二人の、より詳細かつ具体的なデータとプランを期待して。 | ||
フローレンス | ちぇっ、時間の無駄だってのに。それじゃ、お先に~ | ||
パナケイア | フローレンス! | ||
ボニー | パ……パパパ、パナケイアさん、どうか怒らないで…… | ||
ボニー | こんな時です、もっと大事なことに体力を使ってください。 | ||
パナケイア | ……うん、わかった。ありがとう、ボニー。 | ||
オアシス、D71臨時観察拠点、B班実験室。 | |||
オペランドの凝縮液が、パナケイアの操作で試験管へと注がれてゆく。 化学反応は完了間近だ。 | |||
しかし肝心な時に、パナケイアがオペランドの制御を緩めてしまう。 データが過剰に流れ込んだせいで、試薬はたちまちオシャカになった。 | |||
パナケイア | …… | ||
パナケイア | 67号の薬剤配合の原料を取って、もう一度試してみるわ。 | ||
メガネのエージェント | …… | ||
パナケイア | どうしたの? | ||
メガネのエージェント | あの、パナケイアさん。少しお休みになったらどうですか? もう5回も実験に失敗していますよ。 | ||
メガネのエージェント | あなたのルールだと、3回失敗した時点で、一旦状態を整えるはずでは? | ||
パナケイア | あ…… | ||
パナケイア | そうね。ごめんなさい、気が急いていたみたい。冷静にならなきゃね。 | ||
メガネのエージェント | A班が心配なんですか? | ||
パナケイア | ……うん。明日もし、フローレンスが完璧なデータとプランを出して来たら、って考えちゃって。 | ||
メガネのエージェント | ありえませんよ……それに、先輩方は必ずB班を支持してくださるはずです。 なにせ、あなたが正しいのは明白なんですから。 | ||
パナケイア | 違う……そうじゃないの…… | ||
パナケイアの瞳が、一瞬のうちに暗くなった。 | |||
パナケイア | フローレンスの言う通りよ、私たちには何の進展もない。 | ||
メガネのエージェント | そんなまさか! あれだけのエージェントの容体を安定させたのに! | ||
パナケイア | だから?この種のコンピューターウィルスは、凄まじい速度で進化し続けてる。フローレンスの言う通りなのよ。私たちは、対症療法を施しているに過ぎない…… | ||
パナケイア | いずれは、ウィルスに薬物耐性が備わってしまう…… | ||
メガネのエージェント | ……妥協するおつもりですか? フローレンスさんが患者を実験に使っても、かまわないと言うんですか? | ||
パナケイア | …… | ||
メガネのエージェント | 確かに、私たちの方法では限界があるかもしれません。 ですが、プロセスを無視して強制的に臨床段階へと入るのは、我々の初志に背きます。 | ||
メガネのエージェント | 私たちが選ばれないからと言って、A班の過激なやり方に賛同すべきだとは思えません。 | ||
パナケイア | ……そうよね。何があったとしても、極端に走るのは良くないわ。 | ||
パナケイアは深呼吸をして、デスク上の書類データを整理し始めた。 | |||
パナケイア | フローレンスに会ってくるわ。今ある成果をもとに、新しい方向性を探るよう説得してみる。 | ||
メガネのエージェント | い……今ですか!? | ||
パナケイア | 今よ! |