別行動を始めた直後。 | |||
タルタロスセクター、移動迷宮外環。 | |||
イオスフォロスとイオスは、肩を並べて迷宮の中を疾走していた。 さながら浄化者の領地に身を置くかのごとく、平然とした面持ちで、 危険の潜む敵の牙城を突き進んでゆく。 | |||
奇妙な形をしたエントロピーが彼らの傍を通り過ぎたが、なんの反応も示さなかった。 偽装コードが二人の動きを完璧に補っているおかげで、 エントロピーの群れは異常にすら気づかない。 | |||
イオス | イオスフォロス、もうすぐ予定の座標に到着するわ。 | ||
イオスフォロス | ………… | ||
イオス | イオスフォロス? | ||
イオスフォロス | あ……ああ、わかった。 | ||
イオス | プッ……考え事してたの?さっきまで―― | ||
イオス | 「外環での作戦は今のところ順調だが、今後もそうであるとは限らない」 | ||
イオス | 「警戒を怠るな」――なーんて言ってたくせに。 | ||
イオス | どう、結構似てるでしょ?息遣いまで気を配ったんだから。 | ||
イオスフォロス | まったく、君という人は…… | ||
イオスフォロス | 君が傍にいるからこそ、他の事について考える余裕があるんじゃないか。それを笑われるとは心外だな。 | ||
イオス | ふふふ。だって、あなたがよそ見するなんて珍しいんですもの。前に調査したことがあるのよ。みんなの目に、イオスフォロスはどう見えているのか。 | ||
イオス | みんな色んな面から褒めちぎっていたわ、たった一人を除いて。 | ||
イオスは何かを思い出したかのように、笑いをこらえつつ、咳払いをして喉を整えた。 | |||
イオス | ゴホン…… | ||
イオス | 「ああ、たしかにね、よくやった、なるほどな、わかった、固くなるな、もちろんだ、心配するな」 | ||
イオス | 「イオスフォロスは、こういった言い回しを頻繁に使う。しかも、情緒の変化はほぼ見られない。つまり、彼は演説にエネルギーを割いているわけじゃないんだ。リーダーとして、これ以上の逸材はない」 | ||
イオスフォロス | ……{教授}の分析は、相変わらず独特だね。 | ||
イオス | ええ。誰にとっても、特別な存在よ。 | ||
イオス | あなたが近寄りがたいと言う者がいれば、それを窘めるのはいつも{教授}だったわ。 | ||
イオスフォロス | あまり虐めないでほしいな。僕には、全浄化者への責任がある。 | ||
イオスフォロスは珍しく溜息をついた。 | |||
イオスフォロス | リスクの有無に関わらず、僕は常に端正かつ慎重であるべきなんだ。そうすれば、彼らも安心して任務を遂行できる。 | ||
イオス | でしたら、我らが端正かつ慎重なイオスフォロス様は、先ほど熱心に何をお考えで? | ||
イオスフォロス | 聖遺物のことだよ。エントロピーの群れが密集するようなエリアに、落ちていないといいんだが。でないと回収が面倒だ。 | ||
イオス | それだけ? | ||
イオスフォロス | …… | ||
イオスフォロス | ……はやく回収を終わらせて、他の者と合流しなくては。{教授}の状況が芳しくない、心配なんだ。それに、アルシオーネとエレクトラは経験が浅い。 | ||
イオス | ふふふ、やっと正直になったわね。大丈夫よ。あなたの言うように、ここは外環だもの。厄介事なんて起きはしないわ。 | ||
イオスフォロス | そうかもしれない。だけど、慎重すぎて困ることはないはずだ。もし、マルキラに気づかれでもしたら…… | ||
イオスフォロス | いや、上位エントロピーが出てくるだけでも十分厄介だ。まだタルタロスを目覚めさせるわけにはいかない。 | ||
話が本筋に戻ると、イオスもからかうのをやめ、頬杖をついて考え始めた。 | |||
イオス | それにしても、納得いかないわ。どうして神から賜わった聖遺物が、タルタロスの外環に遺されているのかしら。 | ||
イオス | もし私が「エントロピーだけに許された、浄化者を殲滅するための兵器がリバベルタワーの周囲に遺されてる」なんて知らされたら、そいつを異常エージェントだとみなして、事情を確かめたあとで抹殺したでしょうに。 | ||
イオスフォロス | 言葉を慎め。情報は聖訓の間を源とする、我らが崇高なる神々からの啓示だ。「大いなる静謐」の後、神からの勅命は長らく授かっていなかった。 | ||
イオスフォロス | 神の行いは神妙かつ予測がつかない。神告の訪れは往々にして突然だ。僕たちはただ、それを履行すればいい。 | ||
イオスフォロス | 神の偉力により、タルタロスが一夜で傾覆したとしても、僕は驚かないさ。 | ||
イオス | ………… | ||
イオスは口を開いたが、何かを言いかけてやめた。 彼女は首をふると、目を閉じて両手を胸元へと重ね合わせた。 | |||
イオス | 神よ、我が無知なる戯言を、我が浅はかな懸念を許し給え。 | ||
知ってか知らずか、イオスがそう言い終えたとたん、 イオスフォロスの体内にある、聖訓コマンドの保管領域が稼働し始めた。 | |||
これまで授かってきた命令とは形式のまるで異なるコードが、 弾かれるようにして彼のメンタルへと現れる。 さながら食べ物を嗅ぎつけた幼獣のごとく、呼び声を聞きつけた旅人のごとく。 | |||
イオスフォロス | ………… | ||
イオス | どうかした? | ||
イオスフォロス | 勅命の導きがより明確になりつつある。急ぐぞ。 | ||
タルタロスセクター、移動迷宮外環。 | |||
しばらくして、イオスフォロスとイオスは勅命の誘導プログラムに従い、 目的地へとたどり着いた。 | |||
そこは幽邃とした洞穴だった。空洞の中央に突き刺さった長剣が、 博物館に陳列されたコレクションよろしく、恐怖の棲家で奇妙な眠りについている。 | |||
長剣の表面は、泥でひどく汚れていた。 一見しただけでは、封じられているのか、祀られているのか判断がつかない。 その周囲を数匹の下位エントロピーが巡回している。 | |||
イオス | 厄介事はなさそうね、願いが叶って良かったじゃない。 | ||
イオス | あれが聖遺物?どう見ても普通のオブジェクトだけど。ずっしりとしたオペランドは感じられないし、特殊な点も見当たらないわ。 | ||
イオスフォロス | 勅命の情報と一致する、あれで間違いない。 | ||
イオスフォロスはイオスに向かって頷くと、まっすぐ長剣へと歩み寄った。 | |||
エントロピー | ギギッ!! | ||
周囲をうろついていた怪物が何かに気づく。 警戒する敵を前にしても、イオスは直接手を下そうとはしなかった。 彼女はあろうことか指先を唇に当てて、懇願するように微笑んでみせた。 | |||
イオス | しっ―― | ||
イオス | 静かに、いい子ね。 | ||
イオス | 少し、席を外してもらえないかしら?二人だけの時間が欲しいの。 | ||
エントロピー | ギッ…… | ||
相容れないはずの異種族は、イオスの提案に理解を示し、それに応じた。 エントロピーたちが、何事もなかったかのように去ってゆく。 | |||
イオス | なんて聞き分けがいいのかしら。 | ||
???? | 制御プログラムの扱いが上手なのね。 どうやったか、教えてもらっても? | ||
清らかな声が二人の耳元に響いた。 鋭い二筋の攻撃が、即座に声に応える。 | |||
ガッ―― | |||
はっきりとした打撃の感触が返ってきた。 声の源は倒れたが、イオスフォロスたちは警戒を緩めない。 | |||
粘ついた気色の悪いエントロピーとは異なり、見目麗しいライトブルーの人影が、 もう一方の暗がりから姿を現し、堂々と二人に対峙した。 | |||
???? | 上位浄化者って、こんなふうに挨拶するんだ?野蛮だな。他のセクターでもこうなの? | ||
イオス | もちろん違うわ。対象によって態度を変えるのは、健全なエージェントである証よ。エントロピーじゃあるまいし、見境なくかじりついたりしないわ。 | ||
???? | なら、おまえたちの行動は、何に基づいているの?上からの命令? | ||
???? | 浄化者の頂上に君臨してるのに? | ||
イオス | 私が誰だか知ってるの? | ||
???? | ふふふ……おまえたちが来ることも、ね。 | ||
イオスフォロス | 虚勢を張ったところで無意味だ。僕たちの身分と目的を知っているなら、ここにはタルタロスの大軍がいなくてはおかしい。 | ||
イオスフォロス | それともマルキラは、たかが上位エントロピー一匹で僕たちを阻めるとでも?思い上がりも甚だしいな。 | ||
訪れし者は首をふって、スカートの裾をつまみ、傍らに立った。 | |||
ドロメア | 水くさいな、「上位エントロピー」だなんて。どうかドロメアと呼んで。 | ||
ドロメア | タルタロスは、おまえたちを止めないよ。ドロメアは忠告に来たの。 | ||
イオス | 忠告ですって? | ||
イオス | ちっとも笑えない冗談ね。 | ||
ドロメア | それよりもまずは、ドロメアの言葉をよく考えてみたら? | ||
青い上位エントロピーは、ミステリアスな笑顔を浮かべた。 | |||
ドロメア | おまえたちの行動は、何に基づいているのか。タルタロスはなぜ、その目的を知っているのか。 | ||
イオスフォロス | 浄化者の行動は己の使命に根ざしている。当然の道理だ、考えるまでもない。 | ||
イオスフォロス | おおかた巡回中に僕たちと鉢合わせし、それらしい言葉を並べ立て、時間を稼ごうとしているだけだろう。 | ||
ドロメア | ハァ……マルキラさまの言う通りだったな。浄化者の神への信仰は、もはや妄信だね。 | ||
ドロメア | マルキラさまから、言伝を預かってるよ。 | ||
ふいに、上位エントロピーが両目を見開いた。 瞳孔に閃くコード形式は、神託を彷彿とさせる。 | |||
ドロメア | 「お前たちの行動は、神の意志に背いた。なおも我意を通すつもりなら、神はお前たちへの眷顧(けんこ)を棄て、災罰を下すであろう」 | ||
イオスフォロス | ……たいした挑発だな。 | ||
イオスフォロス | だが、信仰を侮辱することは許されない。 | ||
二人が再び手を掲げ、目の前の不躾な異教徒を消し去ろうとした時、異変は起こった。 | |||
タルタロスの奥から発せられた奇妙な波動が、瞬時にセクターを覆い尽くした。 突如湧き上がった強烈な不快感が二人を襲う。 | |||
ドォォォン―― | |||
続けざまに迷宮がまたしても動いた。 上位エントロピーは遠くを見つめて、口角を上げる。 | |||
ドロメア | 舞踏会が始まったみたい。 | ||
イオスフォロス | …… | ||
イオスフォロスとイオスは、ためらいもなく攻撃を繰り出した。 上位エントロピーの体は瞬く間に分断され、力なく地面へと落ちた。 手応えには異様な感触が混じっている。 | |||
イオス | イオスフォロス…… | ||
イオスフォロス | 君の錯覚じゃない、明らかに予期していたダメージに及ばない。 | ||
イオス | 影響を受けたのは誰?私たち、それとも彼女? | ||
イオスフォロス | …… | ||
急に黙り込んだイオスフォロスを見て、イオスは意を察した。 | |||
問題は、こちら側に起きている。 | |||
イオス | 大丈夫よ、おそらく干渉プログラムの類いでしょう。時間さえあれば解除できるわ。 | ||
イオス | この程度のトリックで、あのエントロピーの言葉を鵜呑みにしたんじゃないでしょうね? | ||
イオスフォロス | ……時間からして、{教授}とアトラスが任務を終える頃合いだ。 | ||
イオス | それって、つまり…… | ||
ドロメア | 「お前たちの行動は、神の意志に背いた。なおも我意を通すつもりなら、神はお前たちへの眷顧(けんこ)を棄て、災罰を下すであろう」 | ||
イオス | ……単なる目眩しよ。イレギュラーがメンタルを欺く手段なんて、星の数ほどあるわ。 | ||
イオスフォロス | わかっている。僕はただ奴らの目的と、この手の効果をもたらせる原理を考えているだけだ。 | ||
ドロメア | かわいそうに。自分を騙すことで、信仰の穴と漏れをふさいでいるんだね。上位浄化者のメンタルも、その程度だったんだ。 | ||
ライトブルーの人影が、再び暗がりの中から現れた。 彼女が引き裂かれた体の傍に立ち、そっと手を掲げると、 バラバラだったパーツが再び凝聚しだす。 | |||
イオス | ミラーリング系のプログラムだわ。 | ||
イオス | 彼女のソースアドレスを特定してみる。聖遺物は手に入れたわね? | ||
イオスフォロス | ……ああ。 | ||
ふいにイオスは動きを止めて、長剣の傍に立つイオスフォロスを見た。 視線を交わしたことで、彼女はイオスフォロスのわずかな沈黙の意味を察する。 | |||
イオス | 問題ないのね? | ||
イオスフォロス | まるで僕たちに拾われるのを待つ、失せ物のように思えるな…… | ||
ドロメア | 言ったでしょう、タルタロスはおまえたちを止めないと。ドロメアはただ、忠告に来ただけ。信じていないのはそっち。 | ||
イオスフォロス | 黙れ。 | ||
聖遺物を手に、イオスフォロスは地面を叩いた。 オペランドが勢いよく爆ぜ、二体のドロメアが粉々になる。 | |||
だがしばらくして、今度は暗がりから何体ものドロメアが姿を現した。 | |||
イオス | ソースアドレスが移動し続けてる……すぐに特定できるわ。 | ||
イオスフォロス | 彼女にかまっている時間はなさそうだ。 | ||
イオス | えっ? | ||
イオスはふりむいて、イオスフォロスの視線を追った。 洞窟の空洞と、高い壁に縁取られた空を、黄金の光がひときわ眩しく翔けてゆく。 | |||
イオス | アルシオーネの救難信号?どうして……あっ、まさか、他のみんなも私たちと同じ影響を? | ||
イオス | ありえないわ、外環を覆い尽くす勢いよ……これほどの効果範囲を持つプログラムなんて、聞いたこともない。 | ||
ドロメア | おまえたちの偉大な神からすれば、ささいな範囲では? | ||
イオス | きさま…… | ||
イオスフォロス | 感情的になるな、相手は僕たちを怒らせたいんだ。 | ||
イオスフォロス | 撤退しよう。聖遺物は手に入れた、彼女と戦う価値はない。 | ||
撤退しようとする二人を前に、先頭のドロメアが溜息をついた。 彼女がスカートの裾を手に体をそらすと、さらに多くのドロメアが闇の中から現れる。 | |||
ドロメア | 知ってる?エントロピーの善意は、とっても貴重なの。 チャンスが二度もあるとは思わないで。 |