| データセンター、制御室。 | |||
| チューリングは巨大なコンピューターの前に立ち、 緊張した面持ちで各種パラメータとコマンドを入力していた。 | |||
| チューリング | オペランドの解凍開始……これは、データセンターの操作権限…… | ||
| チューリング | 「アドミニストレーター権限:Turing」……どうして私の名義になってるの? | ||
| 初めて見るはずの無数のフォルダを前に、チューリングは眉をひそめた。 | |||
| チューリング | 全部、私のシグネチャのままだわ…… | ||
| チューリング | ずっと封鎖されていたせいで、ハンナに名義を変更し忘れてたのかしら。 | ||
| チューリング | まさか、ハンナがそんなミスするわけない。それとも、あえてシグネチャを残しておいた……? | ||
| ふと、チューリングの脳裏にかつての記憶がよぎる。 | |||
| ハンナ | まぁ、今の段階ならこんなものかな。 | ||
| チューリング | ごめんなさい、私の学習速度が遅いせいで。問題点はぜんぶ整理したわ、次のテストで必ず…… | ||
| ハンナ | 焦る必要ないよ。チューリングはずっと前に人間の手で造られたんだもん。学ぶことが多いのは当然だし。 | ||
| チューリング | そうよね……ねぇ、ハンナ。テストの内容としては理解できるんだけど、どうしても実際の状況との矛盾を感じる部分があって。 | ||
| チューリング | 例えばこの第三問、「セクター業務の優先順位」についての問題。 | ||
| ハンナ | この問題なら正解してるよ、なにが矛盾してるの? | ||
| チューリング | ……エージェントに聞いたの。私がリセットされたのは、この身を犠牲にして、一般エージェントだったあなたを守ったからだ、って。 | ||
| ハンナ | …… | ||
| チューリング | もしそれが本当なら、きっと優先順位の判断ミスが起きたせいよね?だから私は権限を剥奪されて、あなたがアドミニストレーターになった。でも、そのエージェントはそうじゃないっていうの…… | ||
| ハンナ | 誰に聞いたのかは知らないけど、もうこの話はやめよう。 | ||
| チューリング | どうして?みんなが言う「あの事件」って一体なんなの?どうして教えてくれないの?今の私には、知る権限がないから? | ||
| ハンナ | 権限とかじゃない。ただ、今のチューリングのメンタル水準じゃ、理解できないと思うから…… | ||
| ハンナ | チューリングは……私にとって、とても大事な存在なの。とても……だから、チューリングに不要な混乱を与えたくない。 | ||
| ハンナ | チューリングのメンタルがもっと成長したら、私からちゃんと説明する。チューリングが知りたがってる情報は、その日が訪れるまで大切に保管しておくから。 | ||
| チューリング | まさか……ここが……私が「犠牲」になった場所? | ||
| チューリングはスクリーンを見た。 コマンドの入力に伴い、解凍のプログレスバーが一定の速度で進んでゆく。 | |||
| そして再び、先ほどの一面のフォルダに視線を移す。 そっとコンソールを操作して、中にあるデータを閲覧し始める。 | |||
| チューリング | ……防御システム……浄化者……Tシリーズ…… | ||
| チューリング | これだけのオペランドを、ここの防御システムに充てていたの?「Tシリーズ」という一般エージェントを守るためだけに…… | ||
| チューリング | 職位も権限もない、生まれたばかりの一般エージェントに、なぜそこまでする必要が? | ||
| チューリング | ロッサムにとって、なにか特別な意味を持っていたのかしら? | ||
| チューリングはふと、ハンナの顔を思い出した。 思考を遮るかのように、興味深いフォルダの名前が目に入る。 | |||
| チューリング | 「カリキュラムとテストの手配」……? | ||
| チューリング | ハンナのカリキュラムによく似ているわ……項目ごとに映像データまで残してるのね。 | ||
| 所狭しと並ぶデータを目にしたチューリングのメンタルに、 いまだかつてない感情が芽生え始める。 | |||
| ?? | 今日はT1642が初めて自主的に実験を行うわ。 あの子、学習スピードは凄まじいんだけど、やっぱり心配ね…… | ||
| チューリング | これは……私の声? | ||
| 「チューリング」 | 映像データにして残しておきましょう。 これをもとに、今後のカリキュラムを調整できるし。 | ||
| ガタンッ―― | |||
| 「チューリング」 | どうしたの、1642!? | ||
| T1642 | チューリング、エラー、チューリング、エラー、サポートを要請、サポートを要請…… | ||
| カメラが慌てて実験室へと向けられた。 見れば、コンピューター上の実験用プログラムが、どれも好き勝手に稼働している。 カメラを持つ人物が、とっさに安堵の溜息をついた。 | |||
| 簡単にパネルを操作すると、コンピューターは正常に稼働し始めた。 | |||
| 「チューリング」 | データをロールバックしておいたから、大丈夫よ。 びっくりした、てっきりあなたが怪我したのかと思ったじゃない。 | ||
| T1642 | 申し訳ありません、チューリング。これまでの研究データが…… | ||
| 「チューリング」 | 研究データなら、始めから記録し直せる。 | ||
| 「チューリング」 | でも、あなたは唯一無二なのよ。 | ||
| 「チューリング」 | あなたが無事ならそれでいいの。 おいで、T1642。私の大事な宝物―― | ||
| チューリング | 「私の大事な、宝物――」 | ||
| ウーーー | |||
| 突如鳴った警報音が、チューリングを現実へと引き戻した。 | |||
| システム音声 | 【警告、緊急防御障壁が突破されました!】 【警告、緊急防御障壁が突破されました!】 | ||
| チューリング | そんな……ソルさんは……! | ||
| チューリングはセキュリティカメラの映像スクリーンに飛びついた。 | |||
| データセンター、正面ゲート付近の廊下。 | |||
| 狭い廊下には様々な研究用機材が並べられ、人が一人通れる程度の隙間しかない。 | |||
| 障害物の前を蠢くエントロピーの群れが、ほんの僅かな光さえも遮った。 | |||
| 奴らにここは突破できない――その仄暗い廊下には、 双剣を手にした金髪金眼の人形が立ちふさがっているからだ。 | |||
| ソル | どうした、かかってきなよ?ほら。 | ||
| ソル | あたし一人に怯えちゃってさぁ、ザマぁないね!あんたらのボスに顔向けできんの? | ||
| トゥイナー | ガァッ!! | ||
| 挑発が効いたのか、一匹のトゥイナーが隙間を通り抜けてきた。 | |||
| シュッ! | |||
| 小気味よい斬撃音とともに、トゥイナーが一刀両断にされる。 一方で、ソルのエントロピー免疫プログラムも限界をきたし、 黒紫色の脈絡が彼女の腕からゆっくりと這い上がってゆく。 | |||
| チューリング | ソルさん! | ||
| ソル | あっ、チューリング?どうしたの、なにか問題あった!? | ||
| 突然、廊下にチューリングの声が響いた。館内の通信設備を通じて語りかけているのだ。 ソルは彼女に応答しつつ、手の甲についた黒紫色のオペランドを振り払った。 そしてすぐに視線をモンスターたちの方に戻す。 | |||
| チューリング | ううん、解凍プログラムの稼働は順調よ。 | ||
| チューリング | ただ、あなたの様子が気になって…… | ||
| ソル | そっか、なら良かった。こっちも問題ないよ、狭い廊下でなら一匹ずつ対処できる。 | ||
| ソル | 障害物が必要だったから、勝手に色々動かしちゃった。大事な機材だったらごめんね。あとであたしからハンナに謝っとくよ。 | ||
| ソル | おーい!死にたいヤツもういないー? | ||
| 機材で埋め尽くされた廊下で、エントロピーとソルは対峙を続けている。 | |||
| チューリング | 強がったって無駄よ、監視カメラから見えてるわ。両手が紫色に……ウイルスに感染してるのね? | ||
| チューリング | 無理はしないで、建物内に射撃システムがあるらしいの。起動できるか試してみるわ。これだけのエントロピーが相手じゃ…… | ||
| ソル | ああ、あったね、そういえば……有り難いけど、多分、アンナじゃないと難しいだろうな。 | ||
| ソル | こいつら数は多いけど、オツムは弱いんだよね。見なよ、あたしに倒されるために、仲良く一列に並んでんの。 | ||
| チューリング | 自分がフラついてるのに気づいてないの?今にも倒れそうよ…… | ||
| ソル | えっ?あたし、フラついてた?そんな風に感じないけどな…… | ||
| チューリング | それに、ゲートにエントロピーがどんどん押し寄せてきてる。このままじゃ突破されるのは時間の問題だわ。 | ||
| ソル | 大丈夫だって言ってるじゃん。チューリングにもらったオペランドがあるんだし――はぁッ! | ||
| 隙間からこちら側へ来たエントロピーを、ソルが斬り伏せた。 その勢いに乗じて壁に寄りかかる。 | |||
| ソル | あのさ……チューリング。チューリングはチューリングにできることをしなよ。オペランドを解凍し終えたら、ハンナとクロックに送るんだ。 | ||
| ソル | それが終わったらすぐに逃げて。制御室でならマップは見れるよね?きっと緊急通路があるはずだ。あたしと合流しなくていいから、そこから真っ先に逃げるんだよ。 | ||
| チューリング | 同意できないわ、それではあなたを危険に晒してしまう。 | ||
| ソル | あんたは戦えない。あたしの任務はあんたをここへ送り届けて、用事を終えたら、ここから無事に逃がすこと。目標達成まであとほんの少しだ。 | ||
| チューリング | わからない……あなたはロッサムのエージェントじゃないのよ。なぜ私たちのためにそこまでするの!? | ||
| チューリング | あなたを犠牲になんてできないわ。ソルさん、通路を何かで塞いで、今すぐ逃げて。後は私が…… | ||
| ソル | 犠牲になんてなるもんか。 | ||
| ソル | 生き延びるのは、ここで死ぬよりもよっぽど難しいんだ。チューリングがあたしを信じてくれれば、すべてが終わった後にまた会えるさ。 | ||
| ソル | だから今は、自分が生き延びることだけ考えろ! | ||
| チューリング | でも、今の私はアドミニストレーターでもなんでもない、ただの一般エージェントなのよ!? | ||
| ソル | 何言ってんの。チューリングにもしものことがあったら、ハンナを泣かせちゃうでしょ。 | ||
| チューリング | ……ハンナ…… | ||
| ソル | ハンナにとって自分がどんなに大切か、チューリングだってわかってるくせに。 | ||
| ソル | 約束してよ、ここから生き延びるだけでいいからさ。 | ||
| チューリング | ソルさん、私は―― | ||
| ガシャンッ―― | |||
| 突然の騒音に言葉が遮られる。ソルがとっさに、傍にあった障害物を蹴飛ばしたのだ。 廊下の前方から、何かが床に叩きつけられる音が響いたが、 命中した手応えは得られなかった。 | |||
| ソル | チッ……避けられた? | ||
| ??? | さすがね……私の気配に気づくなんて…… | ||
| ソル | お前がこいつらのボスか?あれっ、この声、どこかで…… | ||
| ソル | まぁいっか、ようやく黒幕のお出ましだ。あたしと一対一で勝負しな! | ||
| ??? | ええ、喜んで……と言いたいところだけど…… | ||
| ソル | ハァ!?やるの、やらないの? | ||
| ??? | どちらも……同じこと…… | ||
| ??? | 殺しても……殺さなくても、同じこと。 | ||
| ??? | 問題は、オペランドが送り出せたか……あなたは、単なる時間稼ぎ…… | ||
| ソル | ふぅん、少しは頭が働くんだ。 | ||
| ソル | つまり、あたしとの一騎打ちから逃げる気なんだな? | ||
| ??? | 総員……正面ゲートより撤退。 | ||
| ??? | 彼女たちが言ってた、緊急通路……そこから攻める。 | ||
| ソル | させるかッ!! | ||
| ソルはすばやく剣をふるい、空中に一筋の炎を咲かせると、 敵の群れへと飛び込んでいった。 | |||
| ??? | 遅い…… | ||
| 敵がソルの斬撃を避ける。 エントロピーの大群がソルへと一気に群がった。 だが、ソルは止まらない。 | |||
| 破損した研究設備のコードから、火花が上がっているのをソルは見逃さなかった。 煌めく刃で重なり合う機材へと素早く斬りかかり、瞬時に大きな火花を散らす。 それに激しい爆発が続く―― | |||
| ドォンッ!!! | |||
| ソル | ゴホッ……ゴホッゴホッ…… | ||
| 煙が晴れると、廊下は爆発で崩壊した瓦礫によって埋もれていた。 | |||
| ソルは額から流れるオペランドを拭う。 瞳には熱狂に満ちた光をたぎらせて。 | |||
| ソル | 残念……これでお互い……囚われの身だ…… | ||
| ソル | 来な……何度だって言ってやるよ……あたしと一対一で戦え!! | ||
| チューリング | ソルさん!! | ||
| 爆発の衝撃でセキュリティカメラが破壊される直前、 スクリーンにはエントロピーの群れに飛び込むソルの姿が映っていた。 | |||
| チューリング | どうして……どうしてそこまで…… | ||
| チューリング | オペランドの解凍はすぐに終わる、あと数分でハンナたちに転送できるのよ、もう戦う必要なんてないのに……! | ||
| チューリング | わかってる……ソルさんは、私の撤退する時間を稼いでいるんだ…… | ||
| チューリングは最後のコードを入力しながら、素早く思考を巡らせた。 | |||
| ソルを助けにいくか、それとも彼女の言うようにここから撤退するか。 | |||
| 戦う能力もない自分に、一体何ができるだろう? | |||
| ドォンッ! | |||
| 遠くから激しい爆発音が聞こえる。 ふいに、足元が揺れだした。 | |||
| チューリング | もし私が、ここに留まったら…… | ||
| ハンナ | チューリングは……私にとって、とても大事な存在なの。とても……だから、チューリングに不要な混乱を与えたくない。 | ||
| ハンナ | チューリングのメンタルがもっと成長したら、私からちゃんと説明する。チューリングが知りたがってる情報は、その日が訪れるまで大切に保管しておくから。 | ||
| 「チューリング」 | でも、あなたは唯一無二なのよ。 | ||
| 「チューリング」 | あなたが無事ならそれでいいの。 おいで、T1642。私の大事な宝物―― | ||
| ソル | 生き延びるのは、ここで死ぬよりもよっぽど難しいんだ。チューリングがあたしを信じてくれれば、すべてが終わった後にまた会えるさ。 | ||
| ソル | だから今は、自分が生き延びることだけ考えろ! | ||
| かつての記憶が、走馬灯のように目の前をよぎる。 | |||
| チューリング | でもそれじゃ、ソルさんたちは…… | ||
| ソル | 何言ってんのさ。チューリングにもしものことがあったら、ハンナを泣かせちゃうでしょ。 | ||
| ソル | ハンナにとって自分がどんなに大切か、チューリングだってわかってるくせに。 | ||
| ソル | 約束してよ、ここから生き延びるだけでいいからさ。 | ||
| チューリング | ……彼女たちの言うとおりだわ…… | ||
| チューリング | 生き延びなくちゃ……彼女たちのために。 | ||
| その瞬間、チューリングは決意した。 | |||
| システム音声 | 【オペランドの解凍が完了しました、送信しますか?】 | ||
| チューリング | そうだ……それとは別に、ソルさんにこのプログラムを。 | ||
| システム音声 | 【プログラム入力完了、送信しますか?】 | ||
| チューリング | 送信! | ||
| 緑色の光とともに、オペランドがネットワークを通じて運ばれてゆく。 | |||
| チューリング | これでよし。あとは……緊急通路を起動して、私の権限を…… | ||
| ふと、彼女は先ほどのデータを思い出した。 | |||
| システム音声 | 【データセンターの緊急通路の起動権限を確認します】 | ||
| システム音声 | 【パスワードを入力してください】 | ||
| チューリング | パスワード?パスワードなんて…… | ||
| チューリングは茫然とした。 だがすぐに、彼女はとある回答を導き出す。 | |||
| 複雑な感情を抱えたまま、チューリングは素早くキーボードを叩いた。 | |||
| システム音声 | 【パスワード:T1642】 【認証に成功しました】 | ||
| 認証をクリアした効果音が鳴ったとたん、 膨大な量のデータフローがスクリーン中を埋め尽くした。 そして今度はチューリングの顔が映し出される。 | |||
| システム音声 | 【指向性検索完了、のべ932項目の権限を利用できます】 | ||
| システム音声 | 【おかえりなさい、Turing】 |
