| こんな暗闇は嫌いだ。 | |||
| 計器の電子音、ベッドが稼働する機械音。 そして良く知っている足音と、紙の擦れ合う音。 | |||
| 蔵音 | この音……家に、戻った……? | ||
| 蔵音 | 爺さま、そこにいるんです? | ||
| 滕教授 | よく戻った、蔵音。 | ||
| 蔵音 | 本当に、戻ってこれた……だったら早く教えておくんなまし。 まったく、驚くじゃありませんか。 | ||
| 蔵音 | それにしても、いつどうやって戻ってきたんだか、まるで印象にない…… 視覚モジュールが起動しないのはなぜです? | ||
| 滕教授 | 壊れてるんだ、助手が換えのパーツを取りに行ってる。 | ||
| 滕教授 | お前を送り届けた者が言っていた、人間に銃で撃たれたのだと。 | ||
| 蔵音 | 銃で?やっぱり、戦闘に巻き込まれたか…… あげくに一部の記憶まで失われてる…… フン。まぁ、予想はしてましたけどね。 | ||
| 蔵音 | だから言ったでしょう。 戦闘能力のないあーしらには、戦場は危険すぎるって! | ||
| 滕教授 | すまん……だが、お前の持ち帰ったデータは素晴らしく貴重だ。 | ||
| 老いてもなお力強い手のひらが、私の頭をくしゃくしゃと撫でた。 私はこうされるのがたまらなく好きだった。 | |||
| 蔵音 | フン。焼き魚2匹程度じゃ到底許せやしませんね。 焼きサバ、それも最高級の天然モノをご用意いただかないと。 | ||
| 滕教授 | ははは……安心しなさい、焼きサバなら助手に用意させてる。 | ||
| 蔵音 | ふむ……ま、よござんしょ。 それなら、ここで待たせてもらいますよ。 | ||
| 滕教授 | ああ、ゆっくり休め。 | ||
| 笑みが徐々に遠のくと同時に、耳元で衣類の金具がはめ込まれる音がした。 | |||
| その動作はやや難渋していた。 私が手助けしていた時のような、てきぱきとした音ではない。 | |||
| 蔵音 | ……ちょいと、出かけるんです?今から? | ||
| 滕教授 | 戦火はあらゆる痕跡を呑み込んでしまう、小さな民族の歴史は瓦礫とともに崩れ去る。 | ||
| 滕教授 | お前の修復にはまだ時間がかかる。 だが、あの痕跡たちを待たせるわけにはいかん。 最後の資料データをすぐにでも確保せねば。 | ||
| 蔵音 | 冗談およしなさいよ、少しは年齢を考えたらどうなんです? しかもあすこは戦場ですよ!? 君子危うきに近寄らず、そう教えたのは爺さまでござんしょう! | ||
| 待って、行かないで。 行ってはだめ。 | |||
| 滕教授 | 助手の言うことを、ちゃんと聞くんだぞ。 | ||
| 爺さま、行かないで! | |||
| 蔵音 | ……あーしが回復してからでも遅くないでしょうに! もしものことがあったらどうするんです!? 誰もあーたを助けられやしませんよ! | ||
| 怪我をしてしまう、跳ねた弾丸に脊椎を貫かれて! 私がここにいたのでは、巳ツ子もあなたを守れない! | |||
| 滕教授 | 相変わらず心配性だな。 美味しい魚を持ってきてやる、楽しみにしていろ。 | ||
| その歳でよく勝手なことができたものだ、どうして私の忠告が聞けない? | |||
| 資料採集のためなら、命さえも惜しくないのか。 わからない……なぜそうまでする必要が? そうする価値が本当にあるのか? | |||
| 怒りの叫びが脳内にこだまする。 ガチャン――静まり返った現実の中で、扉は閉じられた。 | |||
| 【警告:行動が制限されています】 【素体損傷率42%、救援を要請してください】 | |||
| さっさと動け! 忌々しい暗闇め……私の邪魔をするな! | |||
| 【警告:行動が制限されています】 【素体損傷率42%、救援を要請してください】 | |||
| 見せろ……動けっての! | |||
| 訊ねなければ……なぜ危険と知っていて、なおも戦地へと赴くのか―― | |||
| ふいに、何者かによって目の前の暗闇が開かれた。 かき立てられた記憶が波のように退いてゆき、 今度は新しい情報が処理モジュールに押し寄せてくる。 | |||
| 蔵音 | ……あまり、愉快とはいい難い夢だわね。 | ||
| 蔵音 | ここは……どこ? | ||
| ?? | 目標の再起動完了、発声システムに問題はなさそうだ。 | ||
| ?? | 名前と、所属するセクターを述べろ。 | ||
| 頭上から冷ややかな男性の声が響いた。 蔵音はふと、何かが後頭部に押し付けられているのに気づく。 | |||
| 蔵音 | ……蔵音。しょ……所属は……クラウドセクター。 | ||
| ?? | ふむ、稼働ロジックも問題ない。立ってください。 | ||
| 蔵音は体を起こして、周囲を見渡した。 | |||
| そこは戦いを終えた後の廃墟だった。 彼女はちょうど、くぼんだ瓦礫の中に収まっている。 | |||
| 蔵音 | ……思い出した。とあるセクターに入ったはいいものの、アドミンセンターにたどり着く前に、何かに爆撃されて…… | ||
| 蔵音 | ここはどこなんです? | ||
| ?? | キュクロプスセクターです。立てないんですか? | ||
| 蔵音 | その視覚モジュールが正常なら、足が押し潰されてることくらい、気づいてもよさそうなものですけれど。 | ||
| ?? | その程度の瓦礫、エージェントなら容易くどけられるでしょう。 | ||
| 蔵音 | あのですねぇ……措辞は精確にお願いできます?こんな重たいオペランドの塊を甘ったるいウェハースなんぞに例えられるのは、キュクロプスのエージェントぐらいのものでございますから。 | ||
| ?? | 通常、エージェントは所属するセクターを離れられないはずです。 | ||
| 蔵音 | 正論をブン投げてる暇があったら、そのやんごとなき御手で、瓦礫をどけてくださると有り難いんですけどねぇ、ええ。 | ||
| 赤髪のエージェントは彼女を見た後で、 その足を押さえつけている瓦礫をすべて取り除いた。 | |||
| 蔵音 | それで、このセクターは一体全体どうなってるんです。ここじゃ爆弾が降るんですか? | ||
| ?? | 運が悪かったですね。上位浄化者の攻撃で、このエリアの建物が崩壊したんです。 | ||
| ?? | 今、セクターを少しずつ建て直しています。あなたを見つけられたのも、それが理由です。 | ||
| 蔵音 | ふぅん。で、その上位浄化者と絶賛戦闘中であらせられると。 | ||
| ?? | いえ、上位浄化者はもういません。それに、戦ったのは俺たちじゃない。 | ||
| 蔵音 | さすがは軍需セクター。上位浄化者の怒りを買うとは、威勢のいいことで。 | ||
| 蔵音は立ち上がって、自身の状況を一通り検査した。 | |||
| 蔵音 | (損傷率は高くない。衣類がわずかに千切れたのと、ほんの掠り傷だけ。そんなことよりも……) | ||
| 蔵音 | ちょいと訊ねますが、あーしを見つけた時、近くに蛇がいませんでした? | ||
| 蔵音 | こう、小さくて可愛らしい蛇ですよ! | ||
| 身振り手振りで説明しながら、蔵音は対応する知覚モジュールを起動した。 | |||
| 電子音声 | 【対応するAIアクセサリを検知、損壊率89%】 【強制スリープモードに移行しました……】 | ||
| 蔵音 | ………… | ||
| 蔵音 | 困ったことになったもんです。たとえ修復しても、記憶データは吹っ飛んでるでしょう。ま~た、とんでもなく長い話を聴かせてやらないと。 | ||
| ?? | あなたは周辺で唯一生き残ったエージェントですよ。何を探してるのかわかりませんが、ここを速やかに離れたほうがいい。 | ||
| 蔵音 | 戦いはとっくに終わったんじゃ? | ||
| ?? | 戦争は、いつ始まってもおかしくありませんから。 | ||
| 蔵音は見知らぬエージェントの視線を追って、遠くを眺めた。 かつて、セクターに起こったであろう物語は、すでに廃墟の中へと埋もれている。 | |||
| 滕教授 | 戦火はあらゆる痕跡を呑み込んでしまう、小さな民族の歴史は瓦礫とともに崩れ去る。 | ||
| 滕教授 | お前の修復にはまだ時間がかかる。 だが、あの痕跡たちを待たせるわけにはいかん。 最後の資料データをすぐにでも確保せねば。 | ||
| 蔵音 | (戦争……再建……なんて見慣れた景色。爺さまが向かったあの場所と同じ……) | ||
| 蔵音 | (あのジジイ、こんな場所のために意固地になって……?) | ||
| ?? | 状況はわかったでしょう、ボーっとしてないで行ってください。 | ||
| 蔵音 | ま、待って……! | ||
| ?? | 他に何か用でも? | ||
| エージェントの訝しげな眼差しに、蔵音は一瞬言葉を失った。 とっさに出た声がけに、彼女自身も驚いていたのだ。 | |||
| 蔵音 | えぇ、っと……その…… | ||
| 蔵音 | ……こ、ここにしばらく、居させておくんなまし。 | ||
| エージェントが奇妙な表情を浮かべる。 | |||
| ?? | なぜここに居たいんです? | ||
| 蔵音 | (あーしは、なぜここに居たい?) | ||
| スリープモードから目覚めたばかりのせいか、蔵音のメンタルはひどくもつれていた。 | |||
| 蔵音 | (戦後のデータを採集するため?自分の安全を懸念して?それとも……) | ||
| 蔵音 | あ……あーしの蛇が……じゃなかった、パートナーが破壊されちまいましてね、ええ。ただ、メンタルデータは残ってるんで、新しい媒体を探してやらないと。 | ||
| 蔵音は混沌とする現状から、セクターに居残る理由を必死に探し出した。 説得力があるとは言えないが、とっさに見繕った言い訳のおかげで、 彼女はいつもの堂々としたスタンスを取り戻した――言い争いは彼女の十八番だ。 | |||
| 蔵音 | あれは大事なパートナー兼用心棒でして。こんな状態でNullエリアをぶらついて、誰が安全を保証してくれるんです?あーたが守ってくれるとでも? | ||
| ?? | そういった要望は、残念ながら今のキュクロプスには応じられませんね。 | ||
| 蔵音 | まぁまぁ、最後のは冗談ですって。そう固いこと言わず。あーしがここに残れば、少しは力になれるかもしれませんし?互恵からの勝利こそが正義というもの! | ||
| ?? | 必要ありません。 | ||
| 蔵音 | あっそ……なら戦闘は?浄化者と戦ってるんなら、味方は多いに越したことはないでしょう? | ||
| ?? | ……自分の身も守れないような人形が、戦いに役立つとは思えませんが。 | ||
| 蔵音 | だ、だったらサポーターメカニズムは?シグネチャコードのアーカイブは?使えそうなものは一つもないんです? | ||
| 蔵音 | ちゃんとしたゲストの身分でも? | ||
| ?? | …… | ||
| 蔵音はしつこく食い下がった。 やがて、平静なエージェントの表情にようやく一抹の変化が現れる。 | |||
| ?? | あなたはキュクロプスのエージェントじゃない、他に行くべき場所があるはずです。 | ||
| 蔵音 | はて、「行くべき場所」とは? | ||
| ?? | 通信手段はあるようですね、こちらへ。 | ||
| 蔵音はスカートをたくしあげ、エージェントの後を追って、 起伏の激しい廃墟から平らな大通りへと出た。 | |||
| エージェントは黙って先を歩いている。 戦いの後の重苦しい気配が実体を持ったかのように、 蔵音の知覚システムを圧迫していた。 | |||
| 蔵音 | …… | ||
| 蔵音 | やはりエージェントといえど、戦乱の重苦しさからは逃れられませんか。 | ||
| ?? | 重苦しさ? | ||
| 蔵音 | ええ、鬱屈した感情ですよ。どの顔にも笑みはなく、足取りは効率だけを追い求めてる。 | ||
| 蔵音 | 戦下の世じゃ、生き残ることがすべてですから。 | ||
| ?? | それが俺たちの使命です。 | ||
| 蔵音 | 戦って、そして生き残る。だろうと思いました。 | ||
| ?? | 不思議に思わないんですか? | ||
| 蔵音 | 人形も先住エージェントも変わりませんよ、人間に与えられた使命のために行動する。 | ||
| 蔵音 | 理解できない事柄なら山程ありますがね。結局のところ、それぞれで使命は異なりますから。 | ||
| 蔵音 | 例えば、とある場所の文化情報を確保するために、極めて危険だと知っていて、それでもなお戦火に飛び込んでいくだとか。 | ||
| ?? | …… | ||
| ?? | あそこの人形たちの中で、疑問を持たなかったのは、あなただけだ。 | ||
| 蔵音 | あそこの人形たち? | ||
| ?? | 着きました。 | ||
| 赤髪のエージェントが足を止めた。 蔵音がつられて前を見る。 | |||
| 曲がりくねった壁の残骸が、セクターを隔てるかのように、遥か遠くへと伸びている。 まるでかつてそこには、巨大な壁がそそり立っていたかのごとく。 | |||
| 今や壁は崩れ、その破片はあらかた取り除かれてはいるが、 残された痕跡が手術痕のように目立たしい。 | |||
| 故にその残骸の間にある、傷ひとつない建物がひときわ目を引いた。 | |||
| 蔵音 | あれは……バー、でござんすか? | ||
| エージェントは蔵音を連れてバーの扉を押し開いた。 | |||
| ?? | ジンさん、あなた方のセクターのエージェントを連れてきました。 | ||
| ジン | ありがとうございます、ネームレスさん。 | ||
| カウンターの奥に立っていた金髪の人形が、蔵音と赤髪のエージェントにお辞儀をした。 | |||
| ジン | こんにちは。サポーターとしてキュクロプスに駐在する、オアシスのジンと申します。 |
