| キュクロプスセクター、第三主要道路、ターシャの訓練場。 | |||
| 熾烈な苦闘の末、巳ツ男はどうにか抑え込まれた。 だが、誰もその場を立ち去ろうとはしない。 | |||
| 蔵音は見下すかのように、広場の縁に腰掛けるネームレスを見た。 冷静沈着なネームレスの態度に、わずかな綻びが現れる。 | |||
| ネームレス | ……負けました。 | ||
| 蔵音 | あ~ら、ヘビのなんたるかをようやくご理解頂けました?まったくなんてモノをこしらえてくれたんです!? | ||
| 蔵音 | 長すぎる胴体、有り余る攻撃性!こんなもの、なんの役にも立ちゃしませんよ! | ||
| 蔵音 | 重要なのは、障害物をかいくぐれる俊敏さ、それに軽便さ。 | ||
| 蔵音 | 胴体が長すぎれば、怪我をしやすくなる。いざという時、それをどう隠すかにメモリを割かなきゃならない。 | ||
| ネームレス | わかりました。 | ||
| ネームレスはため息をついて、目の前のレトロ風ゲーム機から視線をそらした。 画面には「GAME OVER」の文字列が並んでいる。 | |||
| ネームレス | これが、スネークゲーム…… | ||
| ネームレス | 遊撃戦の入門にちょうどよさそうです。 | ||
| 蔵音 | 当然でござんしょ。ゲームなんてのは元をたどれば、戦闘訓練のために開発されてるんですから。今や完全に本来の目的を見失っておりますけれど。 | ||
| ネームレス | 人間が……戦闘訓練のためにゲームを開発した……? | ||
| 蔵音 | ええ、そうですよ。子どもたちはふざけ合い、動物たちは狩りを習う。これぞ本能。 | ||
| 蔵音はネームレスの手からゲーム機を奪うと、それをゆらゆらと掲げてみせた。 | |||
| 蔵音 | 文明の発展に伴い、ゲームには無数の分岐が生まれた。 | ||
| 蔵音 | バイオレンスを主軸に置いたものもあれば、戦略や演算力を競い合うものもある。こういった自分の記録を自分で破るような、己との戦いタイプもございますね。 | ||
| ネームレス | つまり……人間のゲームとなるために、俺たちは生まれたんですか? | ||
| 蔵音 | そんなわけがないでしょう。ゲームの定義なんざ、とっくに変わっとりますよ。 | ||
| 蔵音 | でもまぁ、それも悪くありんせん。人の本能はより戦いに、心はより平和に親しい。だからこそ、ヘビのように紆余曲折した歴史があるんですから。 | ||
| ネームレス | ゲームの他に、似たような例はありますか? | ||
| ネームレスとの諍いに初めて勝利した蔵音は、ずいぶんと気分がよくなっていた。 | |||
| 指の爪で、手にしたゲーム機の縁を軽く叩く。 | |||
| 蔵音 | ふむ、そうですねぇ……最も典型的な例としては、中国の端午節が挙げられますか。 | ||
| 蔵音 | 本来は屈原(くつげん)と呼ばれる偉人を哀悼するためだったのが、今や一家団欒の祭日と化しとりましてね、ええ。 | ||
| ネームレス | それじゃ、死者を侮辱してるも同然じゃないですか。 | ||
| 蔵音 | 人ってのは苦難に見舞われるほど、幸せを渇望する生き物なのでござんす。 | ||
| ネームレス | 屈原を失った苦痛を乗り越えて、その者が亡くなった日に幸せを追い求めていると? | ||
| 蔵音 | ならあーたは、己の身を投げた命日に人々の無残な生き様を望めと?そんな人間、偉人とはとてもとても。 | ||
| ネームレス | …… | ||
| ネームレス | なら、どうして屈原をリセットしないんです?そいつを尊重してのことですか? | ||
| 蔵音 | 人間とエージェントは違いますよ、そう易々とリセットなどできてたまるもんですか。 | ||
| 蔵音 | 人間の脳のコピー技術は確立されたと聞きますけれど、試そうと考える者はごくわずか……人間は死への敬畏を抱いておりますから、ええ。 | ||
| ネームレス | 死への、敬畏? | ||
| 蔵音 | その点は、数多の土地の文化に体現されておりますね。人間が意識した最初の「絶対的」な理。 | ||
| 蔵音はネームレスに、人差し指を立ててみせた。 | |||
| 蔵音 | 「死んでしまえば、二度と蘇らない」 | ||
| ネームレス | なんのためにそんなことを?生存難易度を上げるのが目的ですか? | ||
| 蔵音 | この世に創造主が本当にいたなら、そうお考えになったのかもしれませんねぇ。 | ||
| 蔵音 | 人間がそう何度も蘇生できたら、過ちを銘記する必要もなくなるわけですし? | ||
| 蔵音 | そうなれば、命は最も大事な手札ではなくなる。人々は己の過失を正すことなく、いとも容易く死と蘇生を繰り返す。 | ||
| ネームレス | 過ちを忘れないために、命の脆弱さすら受け入れる……俺には理解できません。 | ||
| ネームレス | データバンクの資料からして、どれだけ甚大な対価を支払おうと、人間は過ちを繰り返し、自分たちを窮地に立たせ続けている。何度も、何度も。 | ||
| 蔵音 | ……あるいは、それが人間とあーしらの違いなんでございましょ。 | ||
| 蔵音 | あーしにもわかりませんよ。生きてるってのはこんなに尊いことなのに、わざわざ危険を冒そうとするだなんて…… | ||
| 蔵音はそれ以上言わなかった。 ネームレスの視線は、訓練場の壁に向けられている。 「ターシャ」と書かれた古びた看板が、同じように黙ったまま二人を見つめていた。 | |||
| ネームレス | ……二度と戻らないものを使って、過ちを銘記する。生きてる者にとっては意味があるかもしれない。だが、戻らなかった死者にとっては? | ||
| 蔵音 | 不公平ですよねぇ?ですが死者は死者、死者に口無しでござんすよ。 | ||
| 蔵音 | どんなに気が進まなくとも、人間ってのは生きたモノにしか目が行かないもんです。だからこそ、あーしは生み出された。 | ||
| ネームレス | あなたが……? | ||
| 蔵音 | だから申し上げてるでしょうに。あーしは民俗学研究家、人間の創り出した痕跡を守り、かつて存在した文明や史料を再現するのが仕事だと。 | ||
| 蔵音 | あーしらは、それらの存在した証を追い求めてるんでござんす。 | ||
| 蔵音 | 慣れ親しんだ建物、故人より伝わる遺品。人間の最も本能的な願い、それは形ある存在で形なき絆を伝承することに他ならない。 | ||
| ネームレス | 形なき、絆…… | ||
| ネームレスの虚ろな表情を見た蔵音は、目をくるっとさせて、狡猾な笑顔を浮かべた。 | |||
| 蔵音 | あーしのメンタルには、たくさんの記録が収められておりますよ。ここにしばらく居させてもらえれば、いつでも…… | ||
| ネームレス | ダメです。 | ||
| 蔵音 | チッ……融通の利かないやっちゃ…… | ||
| 蔵音はうんざりした表情で手をひらひらさせた。 | |||
| ネームレス | つまり、あなたがキュクロプスに留まりたい本当の理由は、自分の責任を果たすため。 | ||
| ネームレス | それに何の意味が?あなたはキュクロプスのエージェントじゃない、あなたにそんな義務はないんですよ。 | ||
| 蔵音 | あーしにだってわかりませんよ。 | ||
| ネームレス | わからない? | ||
| 蔵音 | こうすることの価値を理解はしつつも、そのために危険を冒す意味は、あーしにもサッパリ。ですがね、それをやりやがった人間がいるんですよ。 | ||
| 蔵音 | 死ぬかもしれないとわかってて、彼は戦場に赴いた。人には無価値とすら思える民俗学資料を確保するためだけに。 | ||
| 蔵音 | いまとなっても、あのジジイの考えは理解できやしません。 | ||
| ネームレス | それとキュクロプスと、なんの関係があるんですか? | ||
| 蔵音 | あーしは彼の研究の結晶、彼のあらゆる知識を受け継ぐ存在。 | ||
| 蔵音 | キュクロプスを蘇らせ、戦争による傷跡を癒やすことができれば、あるいは……彼の考えが、少しはわかるかもしれない。 | ||
| ネームレス | そう簡単にいくとは思えませんね。ここの事情は複雑なんです。セクターの問題を無関係な者に解決させるわけにはいきません。 | ||
| 蔵音の言葉を待たずに、ネームレスが立ち上がった。 | |||
| ネームレス | ですが、あなたの話は、俺にとって有意義でした。 | ||
| ネームレス | お礼と言ってはなんですが、これを受け取ってください。 | ||
| そう言って、ネームレスはカラフルなキューブを蔵音に手渡した。 | |||
| 蔵音 | これは? | ||
| ネームレス | 感知増幅モジュールですよ。大蛇を武器として手懐けるつもりなら、こいつがオペランドの節約に役立ちます。 | ||
| 蔵音 | 勝手に決めないでくださる?図体がデカいだけのヘビはいらないと申し上げてるでござんしょう。 | ||
| ネームレス | これも必要ないと? | ||
| 蔵音 | ま……もらえるモンはもらっときますよ。いざという時に使えるかもしれませんし? | ||
| 蔵音 | ありがたく頂戴しましょう。 | ||
| 蔵音は手首をくるんとひねって、キラキラ輝くキューブを袖にしまった。 | |||
| ネームレス | データバンクに戻りますよ。もう一度ヘビのデータをインプットして、再現できるか試してみましょう。 | ||
| キュクロプスのエージェント | 隊長!お話のところ失礼いたします、 第一エリアで未登録のデータの残骸を発見しました…… | ||
| 蔵音 | 隊長ぉ? | ||
| ネームレス | ……すみません、用事ができたようです。あとでまた合流しましょう。 | ||
| 蔵音 | (鬼のいぬ間に、先住エージェントに話を聞けるチャンス!) | ||
| 蔵音 | ああ~、ど~ぞおかまいなく。データバンクへの道でしたら覚えとりますよ。あーし一人でも問題ございませんから~ | ||
| 蔵音 | それじゃ、また明日? | ||
| その言葉を聞いて、ネームレスはしばし黙った。 | |||
| ネームレス | ええ、できることなら、また明日。 | ||
| そう言って、ネームレスは背中を向けると、荒れ果てた街道へと姿を消した。 |
