| キュクロプス、隔離壁旧跡、ジンのバー。 | |||
| ネームレスが立ち去ってからしばらくして、バーの扉が再び開いた。 | |||
| 蔵音 | おや、もう修復し終えたんです?キュクロプスのエージェントも、なかなかやりますねぇ。 | ||
| ジン | 建物一つを直すのは、難しくありませんよ。セクター全域ともなると、大変ですが。 | ||
| ジン | いらっしゃいませ、蔵音さん。今日は何になさいますか? | ||
| 蔵音 | いいえ、あーしは結構。こいつに一つ、お願いできます? | ||
| 蔵音は懐から立方体を取り出した。 ひとしきりの操作を経て、巳ツ男が悲しげな鳴き声とともに、 カウンターの前に姿を現す。 | |||
| ジン | ふむ……口当たりの優しい、ロングアイランド・アイスティーがよさそうです。 | ||
| 蔵音 | へっ?な、なぜわかるんです? | ||
| ジン | お客様の感情を受け入れ、それを慰めるのが僕の仕事ですから。 | ||
| ジン | それで、蔵音さんのご注文は? | ||
| 蔵音 | 結構だと申し上げているでございましょう。焼き魚以外を口にするつもりはありんせん。 | ||
| ジン | わかりました、すぐに準備してまいります。 | ||
| 蔵音 | だっ、だぁぁぁっ!やめんかっ! | ||
| ジン | ご安心ください、建物には補強が施されています。再び爆発があったところで、経営に差し支えはございません。 | ||
| 蔵音 | はぇ~、そりゃ素晴らしい!――ってなるかっつの。平然とした顔で末恐ろしいこと言わないで頂けます!? | ||
| 蔵音 | この際、単刀直入に聞かせてもらいますよ。ジン、ネームレスの目的をご存知で? | ||
| ジン | いったい何のことだか。 | ||
| 蔵音 | ほぉ。カマをかけるつもりでしたけど……その反応。ビンゴでござんすね。 | ||
| ジン | 何がですか? | ||
| 蔵音 | ここは隔離壁に建てられたバー。戦闘型エージェントどもの動向を、あーたが知らない道理がござんせんもの。 | ||
| 蔵音 | 本当に奴の計画を存じていないなら、「ネームレスに何が?」と尋ねるのが常でござんしょ。真っ先に否定するのではなく。 | ||
| ジン | たいへん優れたロジックシステムをお持ちなんですね。 | ||
| ジン | ですが、お客様の秘密を口外しないことは、バーテンダーとして当然の務めです。オリヴィアさん、もしくは教授のお言葉がなければ、僕からは何も申し上げられません。 | ||
| そう言って、ジンは調合し終えたカクテルを巳ツ男の口に注ぎ、 その頭部を優しく撫でた。 | |||
| 巳ツ男は気持ちよさそうにしている。 瞳に宿っていた暴虐さが、ゆっくりと退いてゆく。 | |||
| ジン | 同様にもし蔵音さんや、こちらの蛇さんに興味を持つ方が現れても、けして情報を漏らしはしませんよ。 | ||
| 蔵音 | たとえ、キュクロプスが戦火に包まれようとも? | ||
| ジン | それはキュクロプスセクターの問題です。 | ||
| 蔵音 | たとえ、その戦いに自身が巻き込まれようとも? | ||
| ジン | それは僕自身の問題です。 | ||
| 蔵音はため息をついて、巳ツ男の額に手をやった。 先ほどまで暴れていた巳ツ男は、今や大人しく蔵音の手に頭を擦り付けている。 | |||
| 蔵音 | 感情を受け止めるだけじゃ、何の解決にもなりゃしませんよ。ジン。 | ||
| 蔵音 | 巳ツ男のように、あーしが取り押さえて、あーたがお酒を注がなきゃ、このバーが無傷でいられる保証はどこにあるんです? | ||
| 蔵音 | あーたの酒は、確かにネームレスに一時の居場所を与えた。けれど、奴の欲求が酒による麻痺を打ち破れば、それによってもたらされる危険は、あーしらの想像を遥かに超える。 | ||
| ジン | 蔵音さん……もし、ここでの事象に干渉するのがあなたの目的だとしたら…… | ||
| ジン | なぜ、エージェントたちに自らの歩む道を選ばせないのです? | ||
| 蔵音 | それがいかなる犠牲をもたらすか、わかっているからでございます。 | ||
| 蔵音 | なんでもかんでも流れに任せるってんなら、ネームレスがあーしを追っ払うためだけに、二度も救う必要はなかったんですよ。 | ||
| ジン | それが彼の責務なのかもしれません。 | ||
| 蔵音 | 責務だろうが本心だろうが無理強いされようが、奴のしたことは変わりんせん。 | ||
| 蔵音 | ネームレスはあーしを助けてくれた。それに報いねば。たとえ、奴がそれを望んでいなかったとしても。 | ||
| ジン | もし、彼があなたの意見を聞かなかったら? | ||
| 蔵音 | こちらが勝てば、意見を呑ませることは容易い。勝者こそが王。それが戦闘型の「習わし」ってモンでござんしょう? | ||
| ジン | 彼に勝てると? | ||
| 蔵音 | どうなろうと、あーしは行きますよ。 | ||
| ジンは手元のグラスを目の前に掲げた。 透明なガラスの向こうにある、蔵音の表情。 そこに見慣れた面影を感じたような気がした。 | |||
| ジン | ……ですが、浄化者の動きは活発です。我々への脅威になりかねない。今動くのは、得策ではないように思えます。 | ||
| {教授} | たとえ危険でも、できるだけ早く向かわないと。 | ||
| {教授} | マグラシアをさまよう人形も、浄化者の標的には違いないもの。 | ||
| {教授} | 現実に戻るまでは、オアシスが人形たちの安息の地よ。 道に迷っている家族たちを、私たちが迎えにいかないとね。 | ||
| ジン | ……あなたは、教授とよく似ている。 | ||
| 蔵音 | 教授? | ||
| ジン | はい。「山に虎有りと明らかに知り、偏として虎山へ向かう」……中国のことわざでしたか。 | ||
| 蔵音 | ほぉ、その表情……あの教授がそこまでの傑物でしたとは。 | ||
| 蔵音 | けれど今のあーしらには、もっと大事なことがございましょう? | ||
| ジン | 「人間の最も本能的な願い、それは形ある存在で形なき絆を伝承することに他ならない」……そう、おっしゃっていましたね。 | ||
| ジン | ネームレスさんを阻止することが、あなたの「願い」なのですか? | ||
| 蔵音 | ……ちゃんと考えたことなんざありゃしませんけどね、そう思ってもらってかまいませんよ。 | ||
| 蔵音はややイライラした様子でテーブルを小突いた。 ジンがにわかに笑い出す。 | |||
| ジン | これまで、ネームレスさんの注文といえば冷水ばかりで、僕のお酒を飲もうともしなかった。 | ||
| 蔵音 | へ? | ||
| ジン | 今日、バーの修復を待っている時に、あなたとネームレスさんが、訓練場にいらっしゃるのを拝見しました。あそこがかつて、どんな場所だったかご存知ですか? | ||
| 蔵音 | ええ、まぁ。ターシャの訓練場だと聞きはしましたよ……それが? | ||
| ジン | よろしければ、キュクロプスの陽が完全に沈んだあと、そちらに身を隠していてください。 | ||
| 蔵音 | ターシャの訓練場から最も近いのは…… | ||
| 蔵音 | ……あいつ、アドミンセンターにいくつもりか…… | ||
| ジン | それ以上は、僕にもわかりません。 | ||
| 蔵音は「フン」と鼻を鳴らすと、巳ツ男を連れて立ち去ろうとした。 | |||
| 蔵音 | それで十分。礼を言いますよ、ジン。 | ||
| ジン | 蔵音さん、お待ち下さい。 | ||
| 蔵音 | 時は黄昏、急ぎませんと。何の用です? | ||
| ジン | 僕の記憶が確かなら、あなたは救助されてから今まで、オペランドを少しも補給していない。 | ||
| ジン | こちらのリキュールから好きなものをお選びください。きっとお役に立てるはずです。 | ||
| ジンの視線を追って、蔵音は彼の背後のキャビネットを見た。 | |||
| 蔵音 | 立ち酒ねぇ……よござんしょ。あーしに信条を破らせるからには、失望させないでおくんなまし。 |
