| キュクロプス、ジンのバー。 | |||
| 蔵音が立ち去ると、バーは再び頑なな静寂に包まれた。 | |||
| ジン | 少々、静かすぎますね。 | ||
| レコードプレイヤーを開けて、小さなバーをピアノのメロディで満たす。 | |||
| しかし音楽を流しても、普段のような心地よさは感じられなかった。 | |||
| 多くの感情が、彼の脳内にひしめいていた。 これまで傾聴してきた客たちの人生が、メンタルの中をぐるぐると駆け巡る。 | |||
| ジン | 心が落ち着かない……レコードを換えてみよう。 | ||
| 彼はメンタルの中の奇妙な情緒を取り除こうと、いくつものレコードを試した。 音楽に合わせて、彼の思考が過去へと漂ってゆく。 | |||
| ジンに襲いかかろうとしていた下位浄化者が、ふいに砕け散った。 | |||
| ペルシカ | よかった、間に合った!ジンさん、怪我はありませんか? | ||
| ジン | ベストタイミングでした。助けて頂きありがとうございます。 | ||
| ジン | お久しぶりですね、ペルシカさん。それと……教授。 | ||
| ペルシカ | 教授、ジンさんのメンタルはほとんど失われていないようです。 | ||
| {教授} | 話は後だ、まずはここから撤退しよう。 | ||
| ペルシカ | わかりました。大量の浄化者がいつ襲ってくるともわかりません、戻りましょう。 | ||
| ジン | クラウドセクターはすでに失われています、どこへ戻ろうと言うんです? | ||
| ペルシカ | 私たちのために、教授が新たな拠点を用意してくださったんです。名前は「オアシス」。 | ||
| オアシス、司令室。 | |||
| ジン | 教授、ジンがお仕えいたします。 | ||
| {教授} | …… | ||
| ジン | おや、顔色が優れないようですね。エスプレッソ・マティーニはいかがです? | ||
| ジン | 頭がスッキリするだけでなく、リキュールの香りも楽しめますよ。深夜残業のお供に最適です。 | ||
| {教授} | ありがとう、一杯もらおうかな。 | ||
| ジンは調合し終えたカクテルを教授の傍に置いた。 そして彼の横顔を見つめる。 | |||
| ジン | オアシスは人手が足りていません、演算サポートの手段を講じてみては。 | ||
| {教授} | 大丈夫、まだなんとかなるよ。 会計専門のラムが見つかれば、おのずと状況は良くなるさ。 | ||
| ジン | 人々は、似たもの同士で惹かれ合います。僕がオアシスへ来る前の経験からして、人形とセクターもまた同様。 | ||
| {教授} | つまり、財務や会計に関連するセクターを探せと? | ||
| ジン | そのほうが、見つかる確率は高いでしょう。 | ||
| ジン | ……ですが、浄化者の動きは活発です。我々への脅威になりかねない。今動くのは、得策ではないように思えます。 | ||
| {教授} | たとえ危険でも、できるだけ早く向かわないと。 | ||
| {教授} | マグラシアをさまよう人形も、浄化者の標的には違いないんだ。 | ||
| {教授} | 現実に戻るまでは、オアシスが人形たちの安息の地だ。 道に迷っている家族たちを、私たちが迎えにいかないとね。 | ||
| ジン | 仕方ありませんね。それでしたら、僕もメディックとして随行させてください。 | ||
| あの「教授」はとてもユニークだ。ジンは気づいていた。 彼は現実で出会った、プロジェクト責任者である教授とは大きく異なる。 | |||
| 鋭い思考力を持ちながら、とても落ち着きがある。 オアシスのオペランドに限りがあるとわかっていても、 誰一人として人形を諦めようとはしない。 | |||
| ペルシカ | 教授、以前提出した通信関連の要望に、オリヴィアさんが同意してくださいました。 | ||
| ペルシカ | ですが、キュクロプスはまだ再建段階にあるため、ロッサムのように直通チャンネルを開通するのは困難だそうです。そこで、こちらの人形を連絡係として派遣し、キュクロプスに駐在させてはどうかと提案してきています。 | ||
| {教授} | ジン、君に頼めるか? | ||
| なぜそんなことを人形に尋ねるのだろう。 直接命令を下せばいいだけなのに。 | |||
| これは単なる建前じゃない、本当に訊ねているのだ。 ジンにはわかっていた。教授は人形の拒否を受け入れてくれる。 | |||
| ジン | もちろんです。お客様を満足させることが、バーテンダーの使命ですから。 | ||
| ジンは記憶に浸りながら、無意識にカクテル用の道具を洗浄し始めた。 | |||
| ジン | (蔵音さんと教授は似ている) | ||
| ジン | (人を助けようとするのは、プログラムされたからじゃない。プログラム以上の何かに突き動かされているんだ) | ||
| ジン | (人間の最も本能的な願い、それは形ある存在で形なき絆を伝承することに他ならない) | ||
| ジン | (願い) | ||
| ジンは無意識に、手中の道具を撫でた。 | |||
| ジン | もし、僕にも願いがあって、それを成し遂げたいと考えたなら…… | ||
| ジン | ……既存のブレンドに新しいリキュールを加えれば、どうなる? | ||
| ジンは何かを考えながら、すぐそこにあったレコードケースに気づかず、 棚から酒のボトルを取り出そうとした。 | |||
| ガシャンッ! | |||
| ジン | おやおや、なんてことでしょう。大変申し訳ございません。 | ||
| ケースが落ちてレコードが散らばり、お酒のボトルが割れる。 自分の他には誰もいないバーで、ジンはとっさに謝罪を口にすると、 腰をかがめて床を片付け始めた。 | |||
| ボトルの束縛から逃れたお酒が、床に小さな水たまりを作った。 その中に、ジンは自分の姿を見つける。 | |||
| お酒の中の人物はこちらを凝視して、ゆっくりと口を開いた。 ジンは自分の声を聞いた。 | |||
| ジン | 「新たなブレンドも、素晴らしいカクテルになるだろう」 | ||
| 時を同じくして、蔵音は第三主要道路を急いでいた。 | |||
| 蔵音 | はやくしないと……太陽が沈む前に……! | ||
| 蔵音 | もっと速く……速く! | ||
| 彼女のメンタルに、過去の記憶が浮かび上がっては消えてゆく。 | |||
| 滕教授の笑顔、彼の失われた両足。 その後の、別れの一つ一つ。 | |||
| 蔵音 | 爺さまは、止められなかった……でも、今度こそ絶対に、ネームレスを止めてみせる! | ||
| 蔵音 | たとえ、アレを使おうとも…… | ||
| 光輝く立方体を握りしめながら、彼女は真っ暗な夜闇へと駆けていった。 |
