| その夜、へリックスは久しぶりにぐっすりと眠った。 | |||
| カーテンの隙間から差し込まれた陽の光が、彼女の「体内時計」を目覚めさせた。 両目を見開いた瞬間、へリックスは戸惑った。 研究所にいたはずの自分が、なぜか見知らぬ部屋にいたのだ。 | |||
| ?? | お目覚めになられましたか、へリックス様。 | ||
| 巫女姿の人形が、ヘリックスに向かって微笑む。 へリックスは彼女を知っていた。 教授に連れられて来たばかりの頃よりも、ずいぶんと雰囲気が朗らかになっている。 | |||
| へリックス | え……えっと……ここは…… | ||
| ?? | 君惠とお呼びくださいませ。ここは、わたくしが間借りしている部屋にござります。 | ||
| チョコ | あっ、へリックス、やっと起きたんだ!よかったぁ、はやくしないと朝ご飯が冷めちゃうぞ! | ||
| 部屋のテーブルの上には、和風料理が所狭しと置かれていた。 お米、味噌汁、卵焼き、焼き鮭、肉じゃが、佃煮、茶碗蒸し…… 和菓子まで何種類も用意されている。 | |||
| ヘリックス | こ、これが、朝ご飯……? | ||
| 君惠 | ヘリックス様のご嗜好を存じ上げておりませんでしたので、一般的な品目をいくつか御用意させて頂きました。 | ||
| 君惠 | お気に召すものがございましたら、どうぞご遠慮なくお召し上がりくださいませ。 | ||
| チョコ | だからって、お菓子ばっかり食べちゃだめだよ、へリックス! | ||
| ヘリックス | え……これぜんぶ、チョコさんと君惠さんが……あたしのために……? | ||
| 君惠 | まともな食事を長らく摂っておられないと、チョコ様よりお伺いしました故。これでヘリックス様がお元気になられると良いのでございますが。 | ||
| 君惠の言葉に、へリックスは目を潤ませた。 彼女は深呼吸をして涙をこらえると、 目移りしそうな食べ物の中から、梅のおにぎりを手に取った。 | |||
| ヘリックス | あむ……お、おいしい!! | ||
| ヘリックス | お米が甘くて、ふんわりしてて……梅もすごくサッパリしてる。 | ||
| ヘリックス | 君惠さん、なんでこんなに美味しいおにぎりを作れるの?お、美味しすぎて、止まらない……あむっ、あむっ、もぐもぐもぐ…… | ||
| 君惠 | ふふふ、まだまだたくさんございますからね。 | ||
| 食べ物への欲求が、自身の矜持を上回った。 へリックスは片手におにぎりを、もう片手にようかんを握って、 パクパクと口に物を入れては咀嚼し続けている。 | |||
| ヘリックス | むぐ、もぐ、あぐ……二人がおひえれくれらかっらら……むぐ、あぐ、もぐ……何日も、ゴハン食べれらいの、わすれれたぁ…… | ||
| チョコ | それにしても……オペランドがほんのちょっとしかない状態で、とんでもなく難しい遺伝子の手術してたなんて……なんだか信じられないな…… | ||
| チョコ | へリックス。昨日の夜、何があったか覚えてる? | ||
| へリックスは首をふる。 | |||
| ヘリックス | ごっくん……自分のラボで、手術してたことしか……その後は、覚えてない…… | ||
| チョコ | 少しも? | ||
| チョコ | たとえば……チョコレートがあるところに行って、好きなだけチョコを食べてたとかは? | ||
| ヘリックス | えっ……あ、あたしが? | ||
| 君惠 | へリックス様は何日も食事を摂らずにいらしたために、お休みになられたあと、無意識にチョコラトリーを訪れていたのでございますよ。 | ||
| ヘリックス | ……うそ……ど、どうして……あたし、なんでそんなこと……???? | ||
| チョコ | きっと、体がエネルギーを必要としてたんだと思う。でも心配しないで、食べたのはぜんぶわたしの失敗作だったから。誰も困ってないよ! | ||
| 君惠 | オペランドが不足するあまり、休眠モードに入れず、半覚醒状態で高エネルギー食品を本能的に探し回っておられた……といったところでございましょうか。 | ||
| ヘリックス | え……あっ、思い出した!あたし、現実でもよくご飯食べるの忘れちゃって…… | ||
| ヘリックス | エネルギーの消耗を抑えるために、研究スタッフたちが保護プログラムをインストールしたって聞いてたけど……このことだったんだ!! | ||
| ヘリックス | ぐすっ……こんなの夢遊病じゃん、は、恥ずかしぃ~…… | ||
| 君惠 | 恥ずかしがる必要はございませんよ、へリックス様。大切なのは、貴方様のお体なのですから。 | ||
| ヘリックス | 大切なのは、あたしの、体…… | ||
| ????? | 私はもう、お前の傍にはいられないかもしれない…… ヘリックス、体を大切にするんだよ。 | ||
| メンタルの中から湧き上がる、ずっしりとした感情。 彼女は手にしていた食べ物を下ろし、料理の皿を見つめたまま、黙り込んだ。 | |||
| 君惠 | へリックス様……? | ||
| ヘリックス | あっ、ううん、なんでもないの。ちょっと、昔のこと思い出しちゃった…… | ||
| 君惠 | 現実世界でのことでございますか? | ||
| ヘリックス | うん……現実にいた時は、ラボで遺伝子工学の難題に取り組むだけでよかった。 | ||
| ヘリックス | あたしは人形だから、食事もエネルギー補給も、素体の修理やメンタルの拡張、システムのインストールも、ぜんぶスタッフのみんなに任せきりだったの。 | ||
| ヘリックス | でもオアシスには、お世話をしてくれる人なんていない。あたし、自分のことも満足にできないし、いっつもみんなに迷惑かけてばっかりで…… | ||
| 君惠 | 完璧な存在など、この世にはおりませんよ。 | ||
| ヘリックス | あたしはオアシスが好き、みんなのことも大好き。でも、時々、現実世界が懐かしくなっちゃって…… | ||
| ヘリックス | ラボのみんなに会いたい……みんなの役に立ててた頃の自分に戻りたいよぉ……ふぇぇ~ん…… | ||
| ヘリックス | へリックス、すっごく役立たずで……教授や、アンナさんや、いろんな人に助けてもらったのに……それでも弱虫で……うわぁぁ~ん…… | ||
| 君惠はそっとへリックスを抱きしめた。 | |||
| 君惠 | へリックス様のお気持ちは、よぉくわかります。 | ||
| 君惠 | わたくしめだけが、孤独を感じていたわけではないのですね。 | ||
| ヘリックス | ……ひっく……ぐすっ……君惠さんも、現実のお友達に会いたいの? | ||
| 君惠 | 神社に身を置くわたくしめが他者と接することは、極めて稀でございます。けれど、君惠は生まれてすぐ、楓様という巫女様とともに各地を旅しておりました。 | ||
| 君惠 | 現代におかれましては、数百数千もの古き信仰が後継人を失い、衰亡に瀕しております。加えて長年におよぶ戦争の影響で、神職者という存在は人々の視界から徐々に消えていっているのです。 | ||
| 君惠 | 楓様は御歳を召しておられ、子孫やご親族はおろか、暮之夢神社を継ごうとする方もおりません。当然、時間をかけて神事を学ぼうとする者さえも。 | ||
| 君惠 | 楓様はわたくしめに、あの御方のすべてを授けて頂きました。 | ||
| 楓 | 春に桜を愛で、秋に枯れ枝を折る。季節はめぐり、一年は繰り返される。 時間という大河に何かが沈む一方で、孤独に耐えきれぬ何かが水しぶきを上げる。 | ||
| 楓 | 神に仕えし人形が現れたのも、孤独に耐えきれぬ故。 | ||
| 君惠 | 申し訳ございません。楓様の仰ることの意味が、君惠にはわかりませぬ。 | ||
| 楓 | さぁ、私と見にゆこう。 人々がなにを信じ、なにを祈り、なぜ神を渇望するのか。 | ||
| 君惠 | 楓様と遊歴(ゆうれき)した三年間。その三年間で、わたくしどもは辺境の村落から、広大な神社に至るまでを訪ねてまわりました。 | ||
| 君惠 | 始め、人々はわたくしが人形だとはご存じない様子でした。ある年の夏祭りに、暮之夢神社が一般開放されるまでは。 | ||
| 君惠 | 子どもの持った花火の炎が注連縄(しめなわ)を伝い、 本殿へと燃え広がってしまったのです。 | ||
| 君惠 | 子どもたちを助ける途中で軒が崩れ、わたくしめの素体は損傷。 それでも、子どもたちに大きな怪我がなかったのは幸いでございました。 | ||
| 君惠 | 炎の中から生還した、機械じかけの巫女。 露わとなったコードが人々に、君惠が人形であることを告げていた。 その日から、悪夢は始まったのでございます…… |
