SS-「夜明け前」

Last-modified: 2018-11-03 (土) 01:48:33

 運命に、そうして出会った。
 それまで己は合理のみで動く人間なのだと、自分自身ですっかり信じていた。
 だからグルービル王が予言した呪われた破滅は回避するのが当然の合理。
 戦士の王と多くに称えられた者の義務として炎の館に封じられた戦乙女を助け出しはしても、彼女の手を取ることはない。
 ある人間は己を指して『救世の装置』と言うだろう。
 反論はない。水が高きから低きへ流れるように、地上に神々の愛が満ちているように、それはそうしたものとして当たり前に振るわれる剣に他ならない。
 不平も不満もない。代わりに大きな幸福もないが、それも納得ずくの半生だった。
 「肯定だ。当方は賢者の予言に逆らうつもりでいた。
  是なる永劫の炎に撒かれた館より乙女は救いはしても、愛する等とは有り得ぬと信じていた。だが―――」
 そして救い出した戦乙女がその瞼を開けた時、それらと同じように自然に受け入れたのだ。
 何千、何万と繰り返そうと、先にどれだけの悲劇が待っていようと、何度だって同じ選択を取るだろう。ここにIFは存在しない。
 ああ。
 これぞ我が運命。これぞ我が愛なのだと。
 
 「一目惚れというのだろうな」
 
 
 ---
 
 
 そうして遙は目を覚ました。
 寝ぼけ眼に映ったものの正体も判別しないままに、意識の覚醒を自覚した瞬間から泥のように凝った思考を無理矢理回す。
 デフォルメされた奴隷たちがせっせと大車輪を回している、そんなイメージ。
 車輪の軸はひどく重かったが回しているうちに微熱を帯びて滑りが良くなり、血の気が脳細胞に行き渡るにつれて歯車が噛み合ってきた。
 置かれた状況を確認する。
 まず感じたのは体の上に乗っている重み。手で探る……柔らかいその触感。毛布だった。
 昨日の記憶を探るが自分からかぶった覚えはない。ふたつの想定先のうちどちらかが自分にかけたのだろう。
 軽く上半身を起こすと少し身体が軋んで痛みを伴った。どうやらソファの上で丸くなってそのまま寝てしまったからか。
 一応なりとも魔術師でありながら、なんて不注意。
 あくまで己は渦中の只中にいるというのに何の心構えもなくぐっすりとこんなところで眠ってしまうなんて。
 「どうしたのかしら……私……」
 かぶりを振りながら愛用の眼鏡を探す。すぐ前の卓上にひっそりと置いてあった。
 つるを耳に、ブリッジを鼻に乗せると視界がすっきりしてくる。焦点が合致したから、というわけではない。元からこの眼鏡に度は入っていない。
 自身が持つ異能に対する拘束具としての性質がこの眼鏡には付与されている。
 かけていることでこの眼鏡が抑えられている限りの『感情』の流入はない、という事実が遥の心を落ち着かせた。
 照明は落とされているが室内は薄っすらと明るみを帯びていた。窓からは薄暮の密やかな光。どうやら時刻は早朝。
 自分の仮の拠点。いつ敵に居場所を掴まれても飛び出せるよう、意図的に選んだ安ホテルの室内が網膜に映った。
 いかにも安っぽいベッドとソファ、申し訳程度に置かれた端の欠けているデスクと、サイドボードの上に乗っている古いテレビ。
 聖書がぽつねんとベッドの枕元に置かれているのが遙が生きてきた文化圏との違いを感じさせる。
 如何にも安ホテルらしく今どきの禁煙室なんてものはなく、煙草のヤニの臭いがつんとしたが、元より呪術を扱う家の生まれだ。
 呪物の香やら薬草やら。こんなものよりよっぽどきつい匂いが日常的に身の回りにある遥には利便性を度外視してまで躊躇するほどのことはない。
 ゆっくりと身体を動かし、足裏を絨毯の上に載せた。
 まだ思考の歯車は本調子で無い。ソファの背もたれに体重を預けながら深呼吸で室内のひんやりした空気を取り込む。
 本当にすっかり熟睡してしまった。思えばこれほどまでに深く眠ったのは久々だった気がする。
 『聖杯戦争が行われる』という風の噂を掴んで。
 誰にも言わずにこっそりと準備をして、奇跡に輪をかけたような幸運で特級の聖遺物を手に入れて。
 遥々日本からなけなしのお金でアメリカ合衆国の南海岸へとフライトして。
 機を整えて、希望した英霊―――北欧における大英雄を召喚で引き当てて。
 喜ぶ暇もなく繰り出した夜の埠頭で、己が召喚した戦士と並び立つ北欧の英傑と出会って。
 それから―――それから―――。
 あまりに目まぐるしく事が進んだことによる疲れだろうか。
 思えば、いつも何かに追い立てられるようにして生きてきた。真実に心休まった時というのは記憶に無い。
 代わりに浅い眠りの中で悪夢にさらされるのはしょっちゅうだったが、今の眠りの中で見たものはかなり毛色が違ったような気がする。
 むしろあれは御門遙の夢というよりは―――。
 と。己の魔力回路がひとりでに通電したような感覚があった。
 背もたれに預けていた首を軽く前に傾げて前方を見る。誰もいなかった向かいのソファに軽く燐光を発しながら形を取るものがあった。
 「……セイバー」
 「応。マスター、能く眠れたか」
 どこか角張った印象を受ける返事を返したのは遥の召喚したサーヴァント―――『ヴォルスンガ・サガ』の勇者、戦士の王、シグルド。
 戦闘の際に彼が身に纏う魔銀の鎧や外套は召喚されておらず、軽装に眼鏡――本人は『叡智の結晶である』と言い張る――という出で立ちだった。
 ソファに深く腰掛け、背筋には鉄板でも入っているかのようにぴんと貼られている。
 凍土を思わせる、端正なれど氷の佇まいは出会った時から相変わらずだ。双眸の奥で光るアイスブルーの瞳が静かに遥を見つめていた。
 耐えきれなくなってそっと視線を逸らす。
 ……苦手だった。射竦められているような思いがした。
 この揺るぎない大英雄の視線を受けると、脆弱で、醜くて、卑しくて、今にも首を吊りそうな自分の心の柔らかい部分を直視されているような気分になる。
 スケールのあまりの違いに押し潰されそうになるのだ。間違いなく超一級品のサーヴァントのはずなのに、密かに彼を喚んだことを後悔さえしていた。
 扱いきれないという弱音が奥底から滲み出るたびに必死でそこへ蓋をする。
 そのたびにひどい無力感に苛まれる。ああ、こんなところまで来たのに、こんなことにまで関わっているのに。
 呪術を以て他者を傷つけられる強さを持つことはおろか、自分のサーヴァントの視線を受け止めることすら出来やしない。
 「……ええ。お陰様で。
  私が眠っている間、何か変わりはありませんでしたか?そういえば、"彼女"の姿がありませんが………」
 「恙無し。マスターの就寝中、街にも大きな動きは無かったように判断する。
  付近を他のマスターやサーヴァントが偵察ないし通過するということも無かった。
  ベルンの大帝であれば………」
 ふとシグルドが横を向く。つられて遥も視線をそちらに向けた。
 意識が賦活しきっていなかったこととシグルドへ集中していた為に気が付かなかったが、ようやく遥の耳にも異音が飛び込んできた。
 水音だ。部屋に備え付けられている狭いシャワールームからそれは響いてきていた。
 「報告。かの王が沐浴を求めていたので当方の裁量で許可をした。
  この判断がマスターにとって不適なものであれば謝罪しよう」
 「いえ、大丈夫です。支障もありませんし、仮とはいえ剣をこちらへ預けてくれているサーヴァントの細やかな望みです。無下には出来ません」
 それを聞いてシグルドは小さく頷く。
 「マスター。他に当方への指示はあるか?何であれ速やかな遂行を約束する」
 「そう………ですね。こうして部屋へ招いておいて今更と思うかも知れませんが、彼女は信頼できるサーヴァントでしょうか」
 「無論。太祖オーディンの名において絶対の保証をする。あの気高き帝王が一度交わした約定を違える事は決して無い」
 それが何でもないことのように、だがはっきりとシグルドは言い切った。
 胸の裡でつい感心してしまう。そこまでこのサーヴァントに言わしめるか。
 こうして試しに聞いてみたが、こうも断言されては『それでもやっぱり』と覆すことは遥には出来なかった。
 「であれば、彼女とふたりきりでも私に危険は無いですね。念のためにもう少し遠くまで周囲の様子を見てきてください。
  何か怪しい様子があれば日が昇ってから改めて確かめに行きましょう。日中であればどの陣営も目立った行動は取れないはずです」
 「承知」
 短く応えたシグルドが瞼を閉じる。同時に燐光を放ちながら仮初の肉体を解き、霊体化してその場を去っていった。
 体重が預けられていたソファがゆっくりと凹みを元に戻す様を見ながら、どっと脱力して深い溜息をつく。
 半分は理性的な判断によるものだったが、半分はなるべくシグルドから遠ざかろうという姑息な思いからだったことを否めない。
 「……………」
 昨晩の記憶を反芻する。
 時間にして5分も無かっただろう。だが遥にはあまりに濃密かつ、なけなしの覚悟を粉砕されるには十分すぎる体験だった。
 ふたりのセイバー。シグルドとディートリヒ。並ぶ者無き魔剣の使い手たち。
 両雄が向かい合った瞬間から迸った、静謐にして激烈な闘気。互いにひとつの頂点を極めた大英雄の対峙。伝説そのもの同士の激突。
 ディートリヒの疑問へとっさに遥が提案しなければ、あのまま決闘は始まっていただろう。
 周囲に被害が出なくて良かったと胸をなでおろす一方、徹底的に打ちのめされた自分を自覚していた。
 次元が違う。
 自分の強さを証明する。他人や霊の感情を感じ取る体質を持つが故に、それらに対し恐れ怯える己の卑屈さを払拭する。
 聖杯戦争を戦い抜ける自分を発見することで、御門の家名に恥じぬ呪術師としての自分を確立する。
 ――――なんて矮小。なんてちっぽけ。なんて他愛ない。
 まるでそれが必然の運命だったように剣を構えあった、2騎のセイバー。
 恐れもなく、無駄な気負いもなく、神聖さを感じるほどに研ぎ澄まされた、誇りという名の切っ先。
 どちらかが消え去るという宿命を全く躊躇うことなく受け入れた精神性。存分の果たし合いに恋焦がれる、最優の戦士たちの無垢なる祈り。
 あの瞬間に周囲に迸った揺るぎなき決意の鼓動に比べれば、自分の願いなど消え入りたくなるくらいお粗末なものだった。
 そんなことにシグルドほどの英霊を付き合わせている自分が恥ずかしくなる。
 自己嫌悪に塗れて何もかも嫌になり、眼鏡を外すと背もたれに体重を預けたまま天を仰いで手で両目を覆った。瞼を通して感じる光すら感じたくなかった。
 ふと、シャワールームから流れていた水音が止まっていることに気付く。
 いつの間に出たのだろうか。視界を覆ったままぼんやりと気配を探り―――それを探り当てる前に声は頭上から降ってきた。
 「どうしたのだハルカ。具合でも悪いのか?」
 女性としては少し低音。声だけ聞くと少年のようでもある。ハスキーボイス気味の僅かにざらついた響きがひどく耳障り良い。
 瞼を塞いでいた手をどけて頭の上を見る。誰もが羨むだろう美しいプラチナブロンドの麗人が………なんともラフな格好で視界に映った。
 ソファに腰掛けている遥の背中側から見下されている。この視点からだと彼女の豊かな双丘がやたら強調されて見えた。
 同時に羽織っている白いシャツの隙間から覗く乳白色の肌が強力な磁力を放っている。舐めたら甘い味がしそうだとろくでもない感想を抱くほど。
 というのも、本当に羽織っているだけなのでボタンを止めていない前は開きっぱなしで、薄っすら筋肉が浮く下腹部までしっかり見えているのだ。
 おまけに下はショーツ以外何も履いていないので艷やかな太腿からつま先まで遮るもの無く顕になっていた。同性とはいえ美の顕現に少しどきりとした。
 黒曜石の瞳が遥の顔色を検分して体調を確かめている。いささか乱暴にタオルでボブカットの髪を拭きながら。
 伝承では男性だったはずけれども、本当は女性だったんだな……なんてつい感慨を覚え、すぐにはっとなって慌てて居住まいを正した。
 『シドレクス・サガ』の誉れ高き騎士にして王。邪悪な巨人を数多打ち倒した巨人殺しの大英雄―――ディートリヒを前に呆けた態度は取っていられない。
 「い、いえっ!?なんでもありません、大丈夫です!」
 「そうか?ああ、すまないが服は借りたぞ。ハルカと私は体格が似ていて無理なく身につけられるようだったものでな」
 そう言ってディートリヒはくるりと背を向けると、ソファの背もたれに尻を乗せて遥の横へ軽く腰掛ける。
 確かに身長も僅かにディートリヒの方が高いだけでそこまで変わらないし、身体の肉付きもしっかり出るところは出ている遥と似通う。
 遥がトランクケースに詰め込んできた自分の衣服なら全て彼女も着ることが出来るだろう。
 「それは構いませんが……」
 曖昧に了承すると「そうか」と短く返事があって髪の水気を拭うのに集中し始めた。
 備え付けのタオルは面積の広いものでその横顔を隠してしまう。それを幸いに遥はこっそりとディートリヒの様子をうかがった。
 不思議な人物だった。シグルドとは正反対のようでもあり、非常によく似通っているようでもある。
 シグルドが氷晶の刃だとするならディートリヒは焔を鍛った剣だろう。
 多くの戦士集う玉座の間で畏敬を以て迎えられる巌が彼なら、凱旋の隊列の中心で民からの喝采を浴びる華が彼女。どちらも趣の違う形で人を引きつける。
 昨晩手を組むことを決めた後は彼女の独壇場だった。いったいいつこんなに親交を結んだのかと首を傾げるほど道行く人たちから次々に彼女は声をかけられていた。
 マスターもいないはぐれサーヴァントという身ながら服や路銀までどこからか調達していた。なんと伝手から仕事を貰い真っ当に働いて得たのだという。
 虚栄心からくだらない嘘をつくような英霊ではないというのはシグルドが彼女に向ける信用からも分かるので、驚くべきことに本当らしい。
 やる。昨晩出会ったばかりという短い付き合いだが遥にも確信がある。この大英雄は全く鼻白むことなく自分から進んでやる。
 最初に出会った時はあまりのフランクさや気安さに、知識の中にあった威厳ある姿とのギャップを感じていたが……今ではむしろ腑に落ちるものがあった。
 自尊心が無いのではない。少々のことでは小動もしない本物の自負を持つが為に、陳腐なプライド持つ者が嫌がるようなことでも平気で出来る。
 ざわり、と遥の心の奥底で冷たいものが流動する。
 陳腐なプライド。まさに自分が求めようとしていたものだ。これほどまでに麗しい剣たちを使って自分が求めようとしていたものだ。
 シグルドの視線を厭うように、遥はディートリヒの視線も真っ直ぐには受け止められずにいた。
 触れるには一方はあまりに冷たすぎるし、一方はあまりに熱すぎる。
 向こうから声をかけられたのはそうして再び思考が沼に沈んでいきそうになった頃だ。
 「しかし……」
 「えっ?あ…」
 「君がもう起きているとは思わなかった。てっきりまだ眠っているものだとばかり」
 「……これでも魔術師ですから。日の出より前に目覚めるように身体が出来ているんです。
  日本の呪術においても日の出や日の入というのは重要な時間帯ですから、物心ついたときからそう育てられてきました」
 「ふーん。我々からすると単になるべく1日を有効活用するための行いだが、魔術師にとってはまた違った意味があるか。道理だな」
 何気ない感心を口にしながらディートリヒがタオルを丁寧に畳んでいく。ぱたん、ぱたんと、二つ折りにして更にもう半分に。
 「シグルドの姿が無いが、彼はどうしたんだ?」
 「付近の偵察に出てもらいました。きっとすぐに戻ってくると思います」
 「そうか。そろそろ日も昇るし大事は無いと思うが、どのみち彼なら心配はないな。
  では今日はどういう予定なのだ?このまま夜になるまでこの部屋に留まるという手も無くはないが」
 「いえ、日が出ている間になるべく広範囲を歩き回って情報収集しようと考えています。
  もし他の陣営の魔術師が工房を設置しているなら魔術の痕跡が見つかるはずですし、そこから相手がどういう魔術師か探れます」
 「いいな。どうあれ足を使うのは私好みだ。机上で練っただけの推論よりも多くの真実を得られるものだ」
 口調はあくまで親しげ。
 そんな気はしていたが、どうやら当然のように遥たちへついてくる気らしい。
 髪を拭き終えたディートリヒが遥の方へ顔を向けて微笑むので、慌てて俯くように視線を逸した。
 後からさすがに気分を概してしまったかと怖くなったが、続く言葉からすると全く気にした様子はなさそうだった。
 その後も彼女の口をついて出るのは昨晩の食事のことや、この街の感想など。とりとめない内容をまるで十年来の友人のような気安さで語りかけてくる。
 根暗な自覚がある遥だったがそれでも会話に詰まらず時折相槌を打てたのは、そうした彼女の空気感が大きかった。
 お喋り好きなのだろうが捲し立てるように話すではなく、こちらのペースや感じたことに合わせてくれているような気さえする。
 だからだろうか。
 ふと会話が途切れた後、ややあって彼女がこんなことを尋ねてきたのは。
 「………シグルドと何かあったか?ハルカ」
 「……そんなことは」
 「違うな。私もか。どこかこう…私たちに遠慮しているような気色がある。
  別に今に限ったことではなく、出会った時からずっとだな」
 「……」
 「思うところあるなら聞くが?」
 他者の精神を読む遥の異能など無くとも、十人が聞けば十人が彼女の言葉に遥を詰問するような嫌気は無いと答えるだろう。
 静かで、穏やかな寄り添い。白んできた部屋がそう見せているのだろうか。老賢者が若き弟子の苦悩の吐露に聞き入るような、緩やかな鷹揚。
 そんなだから、遥はつい気が迷ったのだ。
 サーヴァントとの不仲なんて仮にも手を組んでいる相手とはいえ知られるべきではないというのに。
 平常ならどんな相手にもしないだろう告白がぽつりと口をついて出てしまった。
 「………私は、私のセイバーに軽んじられてはいないでしょうか。私は彼のマスターに足るのでしょうか」
 「……」
 「………っ!すみません、忘れてくださいっ!」
 自分でもなんで呟いてしまったのか分からない。
 猛烈に気恥ずかしかった。同時にこのまま消えてしまいたくなるほど自分に落胆した。
 曲がりなりにも呪術の名門の後継たる自分が言霊も考えずにこんなことを口にするなど。言葉にしてしまった以上、もう拭えない。
 自分の喉から出た自分の意思はそのまま心に着底する。
 駄目だ。もう耐えられない。シグルドが帰ってきたときどういう顔をしてどう接すればいいのか分からない。
 ディートリヒの前でだらしない格好は出来ない、とばかりに張った姿勢も崩し、思わず片膝を抱えて顔を押し付けた。
 こんな暗い自分は嫌だ、ずっと怯えて生きていくのは嫌だ、そう叫んで必死で齧りつくようにして前を向いてここまでやってきたのに。
 こうしている間にも心がだんだん後ろを向いていく。『普段通りの』自分に戻っていく。
 影絵のように揺らめく周囲に合わせて自分も影絵になって、今にも自死しそうな思いで笑顔を取り繕っているいつもの自分に。
 もう嫌だ。何もかも捨てて逃げ出したい―――
 「………君に必要なものは。まぁ、推測だがそう遠くないはずだ」
 ソファが小さく軋みを上げる。遥が身じろぎして生まれた音ではないので、ディートリヒが腰を浮かせたのか。
 絨毯なのでただでさえ足音は小さくなるのに英霊の身のこなしと合わさるとほぼ無音だ。どこへと彼女が歩を進めたのかも分からない。
 ああ、そのまま離れていって欲しいだなんて遥は心の隅で願ったが―――起こったことは、その真逆だった。
 「―――――ぁっ」
 「…………………」
 言葉に出来ないほど柔らかな感触が後頭部に生まれた。
 続いて片膝を抱える格好ごと、後ろから腕が回される。最後にこつんと頭頂部付近に添えられたのは頬骨の硬さだろうか。
 ソファ越しに後ろから抱きしめられているという事実を理解するまでには少々の時間が必要だった。
 暖かい。人間であっても英霊であっても人肌の温もりは変わらないらしい。それを知覚するだけで心の何処かがバターが溶けるように熱で緩んだ。
 何かを言おうとして、何も言葉にならなくて、そうして遥が戸惑っている間にすぐ耳元に囁かれる。
 「君はまず、誰かに優しくされるべきだな。とても単純だがきっと一番の薬だ。
  自分で自分の中に火を熾せない者は火種を他者から分けてもらう他にない。そうしてでもいいからまず自分を暖めなさい」
 「………暖………」
 「私は君の苦しみは知らないし、どういう生き方をしてきたかも知りはしない。
  だが君が寒々しい思いをしていることだけはとてもよく分かる。これでもたくさんの人間を見てきたからな。
  だから、事情を知らない私が君に示してやれる最大限の優しさとはこうした物理的な温もりだけだ」
 奇をてらわない、迂遠な伝え方もしない、直球で投げ込まれる気遣いは彼女によく似合っている。
 優しく丸みを帯びた囁きが冷えた心に染みる。じわりと眼球が熱くなって視界がぼやけた。
 どういうわけだか涙が吹き出てきた。泣いたらいけない。泣いたら。ここで泣いたらきっとここまで懸命に支えてきたものが折れてしまう。
 でも、それもこのサーヴァントには遥が何も言わずともお見通しだった。
 「こんなことで折れてしまうようなものはさっさと折れてしまえ。
  どうせひとつ山を越えられたところで長続きなどしないよ。砂上の城だ。
  折れたとしても、君はそれでも頑張ってきたのだろう?いいんだ。それが1歩目になる。
  それを自覚できたなら君は2歩目が踏み出せる。そのために今できることをやり切るんだ。後で自分にも他人にも言い訳しなくてすむように、全部やるんだ。
  そうして自分の中に火を熾すすべを知りなさい。君は、まずそこからだ。
  自分がどうなるべきかとかどうあるべきかとか、そういうことはその後の話なんだ」
 言葉は焚き火の温度に似ている。
 つう、と頬を雫が伝う。それで彼女が言うように心の何処かで何かが粉々に砕けてしまったが、何故か覚悟していたよりも激しい痛みはなかった。
 硝子のようにきらきらと光る欠片の中に遥は佇んでいた。
 穏やかに語りかけていたのが一転、ディートリヒの囁きが稚気の混じったものになる。
 「それにな。シグルドは君が思うよりも人間臭い男だぞ?」
 「……そうなのでしょうか?」
 「そうとも!かつての連れ合いの話をしてみろ、俄然乗り気になっていつまでも語るぞ?」
 シグルドの連れ合い、というとやはり有名なあの逸話が思い浮かぶ。
 遥は先程までの眠りで見た夢を脳裏に浮かべた。マスターは経路(パス)の繋がったサーヴァントの生前を夢に見ることがあるという。
 ならばあの夢はシグルドの記憶か。後にシグルド自身の命を奪う原因となる、儚げで美しい戦乙女の姿。易々と忘れられるものではない。
 「でも、『彼女』との関係は悲劇で幕を閉じて……」
 「ふん。"たかが"己の死程度で真の愛を忌避するようならあの男は英霊になどなりはしないよ。
  君たちには超然とした存在に映るかもしれないが、彼もまた愛を語り友愛を尊ぶ普通の男でもある。勿論、私もだ。
  英雄への敬意も結構だが、まずは私たちをひとりの人間として見てくれると嬉しいものだな」
 「………彼もそう思っているでしょうか」
 「勿論さ。私が見抜くようなことは当然あの男も看破しているはずだ。きっと君のことを待っているんだよ」
 考えたこともなかった。
 召喚してからこの方、稀代の英雄であるシグルドへどうにか釣り合うマスターであろうとただそれだけを念じていた。
 それは内心では自分が彼に相応しいマスターではないという卑小な思いの裏返しだったことは今では否めない。
 こちらの要求へ唯々諾々と従うシグルドを前にしていながら彼からの失望を恐れ、彼が主の不足を嘆いていないか怯える日々。
 それらが全て遥自身の独り相撲で、ずっ己に比べれば遥かにちっぽけだろう遥のことを見守っていてくれていたのかもしれない―――なんて。
 ディートリヒの腕の中で小さくゆっくりと深呼吸する。
 心苦しさは相変わらずだったが胸を塞いでいた瓦礫は取り除かれたらしく、胸中を微風が吹いている。
 少しだけ気が楽になった。
 「もう大丈夫です。ありがとう、ディートリヒ」
 「そうか。ならいい」
 短い返事のあとに、すっと熱が離れていく。
 よくよく思い返すとずっと後頭部に当たっていた極上の柔らかさは彼女の豊かな胸部だったらしい。今更ながらつい頬が赤くなる。
 振り返ると、片手でシャツのボタンを止めながら片手で自前の衣類の皺を伸ばす器用なディートリヒの姿があった。
 まるで今のがなんでもないことだったかのように飄々としているのが少し悔しい。
 「シグルドならもうすぐそこまで戻ってきているぞ。さて、朝食は何にするかな。楽しみだな」
 などと呟きながらテレビのリモコンを手にしている。
 若干呆れつつも彼女が言う通り自身の経路の反応を感じた。魔力の流れの変化を覚える。
 互いの距離が至近になったことにより対流する魔力の量が変わったのだ。すぐそこまで、というよりもうこれは―――。
 座っていたソファから遥は立ち上がった。
 玄関の方へ向かいながら霊体の動き、見えざるものを見る。今しがた部屋に侵入したそれは先程と同じようにゆらりと燐光放って遥の前に形を取った。
 「帰還した。遅くなったか、マスター」
 「いいえ。お疲れ様でしたセイバー」
 現れた氷の偉丈夫がねぎらいの言葉を受けて静かに頷く。
 横顔が一瞬部屋の奥へ向き、ソファの上でニュース番組を視聴し始めたディートリヒと視線で挨拶を交わしあった。
 昨晩会ったばかりなのにもうこんな関係でいる。同じ時代の空気を吸って生きた者同士だからこそ通じるものがあるらしい。
 「報告する。ここを中心に様子を探ったが、やはり異常はない。
  日中に調査を行うならばここからは離れた地区へ赴くことを進言する」
 「分かりました。あなたの判断を信じます。………、………」
 四角く答えるシグルドを前に小さく息を吐く。
 心を定めて、彼の胸元に落としていた視線を上げた。召喚してから初めてじっ、と見つめ返した。
 透明度の高いアパタイトのような、寒夜に光る星々に似た静謐な瞳が同じようにじっと遥を見つめていた。
 眼鏡の奥で氷点下の眼がきらきらと輝いている。意外にも、向けられている視線はそこまで冷たくはない。
 案外、優しそうな目をしているんだな、と思った。とても綺麗なものを自分は喚んだのだな、と感じた。
 この僅かな時間で吹っ切れるほど人間は単純に出来ていない。事実、今にも膝が笑いそうだ。
 シグルドの涼やかな視線へ勝手にたくさんの不純な勘繰りを載せて自分から潰れようとしている。そう、彼ではなく自分が自分の膝を折ろうとしている。
 それでも、『今できること』とはこれ以外に思いつかなかった。
 脆弱で、醜くて、卑しくても。見苦しい開き直りだったとしても、それでも遥はシグルドに釣り合うマスターでありたいのだ。
 そのために毎日を積み上げてきたのだ。たとえ折れて粉々になってしまったとしても、まだその残滓が鈍く光っている。
 不意にシグルドの瞳がほんの僅か細められた。表情筋はまるで動かずに目元だけがすっ、と動いた。
 余人が見たところでそれが何を意味したのかまるで分からなかったろう。ただ何故か遥には伝わるものがあった。
 あるいはそれは曲がりなりにもふらつきながらも、彼のマスターとしてここに立っている遥だから分かったのかも知れない。
 (笑っ………た…………?)
 「………初めて当方を見たな」
 「えっ?」
 「失言。さして重要なことではない。忘却を推奨する」
 シグルドは素っ気なくそう言って外套と鎧の装着を解除した。
 遥には今の小さな呟きにどれほどの意味をシグルドが込めたのかは分からない。ただ、何か大事な契約を今初めてしたような気がした。
 マスターとサーヴァントの契約とは別の、とても大切なことを。
 背中を押されるように遥はつい口を開いた。
 「そ……それと!いろいろ考えた結果……あなたのことを、もっとよく知らなければならないと思ったのです!
  確かにあなた方サーヴァントはある意味では我々魔術師の礼装のひとつでしかないのかもしれません。
  ですが、その……今よりももっと円滑な関係であったほうが、今後も有利になるだろう……と!」
 「……………」
 シグルドは何も言わない。
 なけなしの勇気で彼の存在感に耐えながら考えを述べる遥を、ただただ静かに聞き入ってくれている。
 じっくりと、辛抱強く、待ってくれている。
 「なので……あなたのことをもっと教えてもらえませんか。
  どう考えているのか……とか。あなたの生前の話とか。例えば、私が先程まで夢の中で見ていたあなたの記憶。
  あなたが愛した方の話、とか」
 「ふむ。我が愛、ブリュンヒルデか―――」
 心なしかシグルドの眼鏡が輝いた気がした。朝日を浴びてとかではなく、ひとりでに。
 「他の話についてはともかく、その話題は時間の節約のため朝食時に語るとしよう。
  ――――なんせ。長くなる」
 「え」
 ………遥が近所のカフェで焼き立てのベーグルをもりもり咀嚼している間、シグルドの語りは終わらなかった。
 ディートリヒは終始楽しげだったが、遥は己のサーヴァントの見方を少々変える必要が生じたのだった。
 
 
 ---
 
 
 「帝王よ」
 「なんだ。いいだろう?このくらい」
 「………フ」