4-392 の変更点

縁の下の木の葉
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ロイ   「ただいまー……あれ、ヴァイオリンの音が聞こえる……? エイリーク姉さんが練習してるのかな?」
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 首を傾げながら居間に入ったロイの目に、信じられない光景が飛び込んできた!
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リーフ  「ん……やあ、お帰りロイ」
ロイ   「リーフ兄さんがヴァイオリンを弾いている!?」
リーフ  「……そんなに驚かなくてもいいじゃないか」
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 少々不満そうに言いつつ、リーフは再びヴァイオリンの演奏を再開する。
 澱みも乱れもなく、涼やかな戦慄が兄弟家の居間に響き渡る。
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リーフ  「……こんなもんかな」
ロイ   「……」
リーフ  「……下手だからって無反応はひどくないかい?」
ロイ   「い、いや、普通に驚いてるんだよ! リーフ兄さんがこんな優雅な趣味を持っていたなんて……!」
リーフ  「ヴァイオリンが趣味? 僕が?」
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 リーフは小さく苦笑した。
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リーフ  「まさかね」
ロイ   「え、でも……」
リーフ  「今週末、ナンナの家で、彼女の誕生パーティがあってね。お姫様のご学友を招いて、みたいなイベントなんだけど。
      そこでまあ、ちょっとした隠し芸みたいなものを披露することになって。
      名家のパーティだからね、あんまり下品な芸をする訳にもいかないだろう?」
ロイ   「それでヴァイオリンを……」
リーフ  「そういうこと。ま、ロイの反応を見る限り、みんな、
      『まさかあのリーフが!?』みたいには思ってくれるだろうから、一応成功かな」
ロイ   「……兄さん、これ、ずっと練習してたの?」
リーフ  「ん? そうだね、この二週間ぐらいは、隠れてね」
ロイ   「二週間であのレベル……」
リーフ  「え、そんなにひどかった?」
ロイ   「いや、逆だよ。普通に上手かったよ。まさか、たったの二週間であんなに弾きこなすなんて……
     隠し芸と言わず、メインで演奏したって大丈夫だよ、これなら」
リーフ  「……本気でそう思うのかい?」
ロイ   「? うん、もちろんだよ。凄いねリーフ兄さん、これはもう天才と言ってもいいレベルなんじゃ」
リーフ  「……まあ、ロイも僕と同じで、あんまり育ちがよくないものな……分からなくても仕方がないか」
ロイ   「え? 何か言った?」
リーフ  「いや、なんでもないよ……? なんか、騒がしいね?」
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 リーフの言葉を聞いてロイが耳を澄ましてみると、外から何やら口論しているような声が聞こえてきた。
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エイリーク「……ですから、少し無理をすれば大丈夫です」
エフラム 「ダメだ。下手をすれば腕が動かなくなると、司祭も言っていただろう」
エイリーク「ですが兄上、今度の発表会は、テリウス地区の議員の方々が我が校のレベルを確かめるために……」
エフラム 「周囲に事情を話して協力を求めればいいだろう」
エイリーク「他の皆さんだって、それぞれに役割があるんです。誰かの代わりは出来ないと思います。ですからわたしが」
ロイ   「どうしたの二人とも……うわっ、エイリーク姉さん、その腕……!」
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 エフラムと言い争いながら居間に入ってきたエイリークの右腕は、何やらドス黒い紋様に覆われていた。
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リーフ  「これは……何かの魔法か何か?」
エイリーク「……はい。油断しました……」
ロイ   「油断しました……って、一体何が?」
エイリーク「……実は、今日の昼間、我が校にテロ集団ベルクローゼンが現れまして……」
ロイ   「!? ま、まさか、戦った訳じゃないよね!?」
エイリーク「え? え、ええ、もちろんです。わたしたちは避難しようとしたのですが、
      途中で見つかってしまって……おそらく呪術の一種なのでしょうが、腕が思うように動かなくなって……」
エフラム 「……ベルクローゼン自体は、ルネスに時々出没する謎の仮面騎士とやらが撃退したそうだが……
      そんな訳で、エイリークは右腕が動かせなくなってしまったんだ」
ロイ   「えっ!? だ、大丈夫なの、それ……!」
エフラム 「心配するな、解呪方法自体は分かっている。呪いをかけられる前と同じ状態に戻せるさ」
ロイ   「そ、そっか、良かった……」
エフラム 「だが、準備に少々時間がかかるらしくてな。それまではあまり腕を動かす訳にはいかないんだ。
      だから、しばらくは安静にして、ヴァイオリンの発表会なんて休めと言っているんだが」
エイリーク「いえ兄上、それほど深刻なものではありません。大丈夫、ヴァイオリンを弾くぐらい……」
エフラム 「嘘をつくな。腕を動かそうとするたび、微妙に顔をしかめているだろ、お前。
      ……本当は、今だって痛くて痛くてたまらないはずだ。違うか?」
エイリーク「……わたしは」
エフラム 「……俺に嘘を吐いたって意味がないことぐらい、お前はよく分かっているはずだ。
      俺達は、双子の兄妹なんだからな」
エイリーク「……ですが、発表会が……」
エフラム 「だから事情を話して欠席すればいいだろう」
エイリーク「わたしの出番は最後です。発表会の締めを務めさせていただくことになっているのです。
      そんな大役を、こんな直前になって急に他の人にお任せする訳には」
リーフ  「……事情は、何となく分かったよ」
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 それまで黙っていたリーフが、急に口を開いた。
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リーフ  「エイリーク姉さん。その発表会って、いつ?」
エイリーク「……今週末の、土曜日ということになっていますが……?」
リーフ  「ふむ……土曜日、か……あと三日、ってところかな」
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 カレンダーを眺めていたリーフは、「まあ、仕方ないか」と小さく呟き、エイリークに向き直る。
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リーフ  「なんとかできるかもしれないよ、姉さん」
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 その日から三日間、リーフはほとんど部屋に篭りきりになった。
 エイリークの方は、渋々ながらエフラムの説得とリーフの提案に応じ、
 学院を休んでずっと家で安静にしていた。
 そして、いよいよ土曜日、ルネス女学院の音楽発表会の日がやって来たのである。
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 女学院の音楽発表会は、同地区内のコンサートホールを借り切って行われた。
 教養高き女学院のものとはいえ、あくまでも学生の発表会であるから、さほど客は多くない。
 だが、どういう気まぐれか、今回の発表会にはテリウス地区の議員の面々が顔を見せている。
 普段から研鑽を重ねている楽器の演奏や歌などを披露する学院生たちの顔にも、いつもとは違う種類の緊張が見て取れる。
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アナウンス「……以上、ニ学年、ターナさんのフルート演奏でした」
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 壇上のターナが笑顔でお辞儀をするのと同時に、客席から一斉に拍手が飛ぶ。
 その光景を見下ろしながら、テリウス地区の議員の一人であるルカン氏は、退屈そうに鼻を鳴らした。
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ルカン  「フン。伝統ある女学院といえども、所詮はこの程度か」
ヌミダ  「いや全くでございますな」
バルテロメ「くすくす……子供の稚拙で未熟な発表会を観覧するのも、高貴なる者の義務というもの……」
ヘッツェル「そ、そうですな……」
オリヴァー「……」
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 半ばルカンへの追従ではあるものの、それぞれに厳しい評価を下す議員たちの中で、
 ただ一人「美の庇護者」を自認するオリヴァーだけは、静かに目を瞑って沈黙を守っていた。
 彼は過去にちょっとした問題を起こしているために既に議員ではないが、
 その後もこういった『美』に触れる機会があれば、お構いなしに参加しているのである。
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オリヴァー(うむうむ……ここでもまた、近い将来『美』を守り、育てていく若者たちが育ちつつある。
      このオリヴァーの胸に、しっとりとした喜びが満ち溢れてくるようじゃ。良哉良哉)
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 内心で満足げに頷きつつ、オリヴァーはプログラムに目を落とす。次が最後の発表のはずである。
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オリヴァー(エイリーク……おお、毎週ワシの美術館を訪れる、勉強熱心な小鳥ではあるまいか。
      これは是非とも研鑽の成果を見せてもらわねばなるまい)
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 その頃、舞台袖では、自分の出番を終えたターナがほっと胸を撫で下ろしていたところである。
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ターナ  「あー、ようやっと終わった」
エイリーク「お疲れ様、ターナ。とても素晴らしい演奏だったわ」
ターナ  「ふふ、エイリークにそんなこと言われたら、お世辞でも嬉しくなっちゃうな」
エイリーク「お世辞とかじゃ」
ラーチェル「そんなことより、エイリーク」
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 と、後ろから声をかけてきたのは、当に自分の出番を終えて、舞台袖で友人達の活躍を見守っていたラーチェルである。
 ちなみに彼女の演目はピアノで、なかなか独特というか奇抜な演奏を披露して喝采を浴びた後だった。
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ラーチェル「その腕、大丈夫なんですの?」
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 ラーチェルの言うとおり、エイリークの右腕は、まるでその下の何かを隠すかのように、包帯でグルグル巻きになっていた。
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ターナ  「……この間の、ベルクローゼンとの戦いのときについた傷よね」
エイリーク「大丈夫ですよ、兄上が大袈裟に包帯を巻いてくださっただけですから」
ラーチェル「……本当ですの?」
エイリーク「……ご心配なく。何の問題もありませんから」
ラーチェル「……それならよろしいのですけど」
セライナ 「続きまして、二年エイリークさんのヴァイオリン独奏、『交響曲・炎の紋章』です」
エイリーク「……出番のようです」
ターナ  「頑張って、エイリーク!」
ラーチェル「……無理はいけませんわよ?」
エイリーク「ええ、分かっています。では、また後ほど……」
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 静かに一礼して、エイリークは壇上に上る。
 だが、ヴァイオリンを持った彼女が客席に向かって頭を下げたそのとき、突如として会場内の全照明が消えてしまった。
 光から闇への唐突な転調に、会場内が大きくざわつく。
 徐々に混乱が高まり、ともかく明りを確保しようと誰かが出口に向かって歩き出しかけたそのとき、
 舞台の上から静かで華麗な戦慄が流れ出し始めた。
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オリヴァー(……これは……)
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 闇の中、目を閉じたオリヴァーは、じっとヴァイオリンの音に耳を傾けた。
 普通に考えれば、先程舞台の上に立ったエイリークが、このアクシデントを物ともせずに演奏を始めた、と解釈するところである。
 事実、他の客達も皆そう考えたようで、皆ざわめくのも席を立つのも止めて、じっとヴァイオリンの音色に耳を澄ましている。
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ルカン  「ほう……」
ヌミダ  「ぬう……」
バルテロメ「くすくす……これは……」
ヘッツェル「なかなか……」
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 先程まではあれほど辛らつな評価を下していた議員達が、口々に感嘆の声を漏らす。
 実際、見事な演奏である。澱みも乱れもない美しい旋律は、闇に染み入るように静かに響き渡った。
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 そうして演奏が終わって十秒もしない内に、ようやく照明が回復した。
 そのとき、舞台の上のエイリークは完全に演奏を終えており、客席に向かって深々と頭を下げているところであった。
 会場全体から、割れんばかりの拍手が沸き起こる。
 静かな表情のまま舞台を降りるエイリークを、オリヴァーは含みありげな微笑で見送った。
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リーフ  (……何とか、成功したか)
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 華やかな会場からは少し離れた、コンサートホールの裏口通路。
 ヴァイオリンのケースを持ったリーフは、一人深々と息を吐いた。
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リーフ  (どうだったかな。夢中で弾いてたからよく分かんないけど、一応、エイリーク姉さんに恥は)
エイリーク「リーフ」
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 急に背後から声をかけられたので、少々驚いた。
 慌てて振り返ると、そこに息を切らせたエイリークの姿が。
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リーフ  「やあ、どうだったかな、エイリーク姉さん」
エイリーク「……素晴らしかったと思います。皆さん、とてもいい演奏だったと口々に褒めてくださいました」
リーフ  「ああ、それは良かった。上手く騙せるかどうか、ちょっと不安だったんだけど」
エイリーク「……リーフ……」
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 エイリークの表情は複雑である。その理由がよく分かっているリーフは、苦笑気味にヴァイオリンケースを持ち上げてみせた。
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リーフ  「……なかなか、似てたでしょ?」
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 その言葉どおり、先程会場で見事にヴァイオリンを弾きこなしてみせたのは、エイリークではなくリーフなのだった。
 別行動を取っているマルスに協力してもらって会場の照明を落とし、
 客の混乱を突くような形で、エイリークの代わりにヴァイオリンを弾く。
 そうすることで、誰の面目も潰すことなく、本当は主役不在のこの場を何の問題もなしに乗り切ってみせたのだった。
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リーフ  「……三日間、部屋に篭りっきりでエイリーク姉さんのヴァイオリン演奏のビデオを見続けた甲斐はあったかな。
      僕らのことなら何でも撮りまくるミカヤ姉さんの困った癖にも、今回は感謝しなくちゃ。
      いやー、でもバレずに済んでよかったよ。形を似せるのだけは得意なんだ、僕」
エイリーク「そんな、形を似せるだけ、なんて……実際、巧みな演奏だったと……」
リーフ  「いいよ、嘘吐かなくても」
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 気遣うようなエイリークの台詞を遮って、リーフは笑った。
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リーフ  「僕はね、結局のところ偽物なんだよ。表面上はそこそこ上手く出来る自信はあるけど、
      本当の達人の域に達することは絶対に出来ない。
      どんなことでもAランク程度にはこなすことができるけど、
      SランクやSSランク級には一生かかってもなれっこない……
      そのことが、自分にもよく分かる。それが、僕っていう人間なんだ」
エイリーク「……」
リーフ  「……今日の演奏だってさ。聞く人が聞いたら、どことなく偽物っぽいというか、
      心に響かないというか……そういうのが分かったはずさ。全く、耳の肥えた人がいなくて本当に良かった。
      下手をしたら何もかもが台無しになるところだったからね」
エイリーク「リーフ……」
リーフ  「気遣いはいいよ。これでも、自分なりに納得してるつもりだから。
      それに、さっきも言ったとおり、形を似せるのだけは得意だからね。
      こういう風に誰かの代わりをこなしたり、本物が来るまでの繋ぎになることが出来るのなら、
      多分、僕っていう人間にとっては、それで上出来なんだと思うんだ」
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 リーフはヴァイオリンケースを持ち直すと、笑って片手を上げた。
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リーフ  「それじゃ、エイリーク姉さん。僕、これからちょっと行くところがあるから」
エイリーク「リーフ」
リーフ  「ん?」
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 エイリークは、弟に向かって深く頭を下げた。
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エイリーク「わたしが軽率だったばかりに、ご迷惑をおかけしました。そして、本当にありがとうございます。
      あなたは、あなたが思っている以上に、立派にわたしの助けになってくれましたよ」
リーフ  「……尊敬するエイリーク姉さんの役に立てたとしたら、僕としてもこれほど嬉しいことはないよ」
エイリーク「……わたし、もっと努力します。今日のリーフの気持ちを、無駄にしないためにも」
リーフ  「うん。エイリーク姉さんは、僕と違って本物だからさ。
      いつかきっと、どんな人の心にも響く演奏が出来るようになると思うな」
エイリーク「……そうでしょうか」
リーフ  「僕が保証するよ……なんちゃって」
エイリーク「それなら、わたしも少しは自信が持てます」
リーフ  「……いや、ここは『あなたの保証なんて当てになりません』とか言ってほしいところなんだけど」
エイリーク「どうしてですか? リーフの、人や物を見る目は、誰よりも確かだと思います。
      そうでなければ、わたしの演奏を完璧に真似ることも、自分の実力を把握して動くことも出来ないでしょう。
      そんなリーフの言葉なら、何よりも信じられると思います」
リーフ  「……相変わらず恥ずかしいこと堂々と言うね、姉さん」
エイリーク「恥ずべきことなど一つも言っていません」
リーフ  「……うん、いや、僕としてはその台詞自体が凄く恥ずかしいんじゃないかなーって……まあいいか」
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 苦笑しつつ、リーフは身を翻す。
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リーフ  「それじゃあ、今度こそ行くよ。多分マルス兄さんが会場のどこかにいると思うから、そっちもよろしく」
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 言い残し、リーフはコンサートホールの裏口から外に出て行った。
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 それとほぼ同時刻、他の議員達とは別に、一人で会場を後にしようとしていたオリヴァーに、暗がりから声をかける者がいた。
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マルス  「何も言いませんでしたね」
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 端的な言葉である。だが、何を言われているのかはすぐに理解できた。
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オリヴァー「はて、何か言うべきことがあったとは思えんが」
マルス  「……分かっていらっしゃるんでしょう? 代役のことですよ。
      確かに僕の弟はよくやりました。会場で聞いていたほとんどの人たちが、差異に気づかないほどにね。
      でも、分かる人には分かったはずです。あの演奏が、本物のエイリーク姉さんのものとは、
      比べようもないほど薄っぺらで、味気ないものでしかないことに」
オリヴァー「ほほ、自分の弟に対する評価にしては随分と手厳しいようじゃな」
マルス  「彼も真面目な男ですから。気を使って甘い評価をするよりは、
      厳しくても率直な評価を下した方が喜ぶんですよ」
オリヴァー「なるほど」
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 一つ頷いた後、オリヴァーは髭をしごきながら答えた。
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オリヴァー「確かに、そなたの言うとおりじゃ。
      あの演奏は、技巧的にはなかなかのものじゃったが、本物の『美』には遠く及ばなかった。
      足りなかったものが何なのか、言葉で言い表すことはできん。
      だが、至高の美を追求するワシの魂は、あの演奏を聞いても少しも震えなかったのだよ」
マルス  「……では、何故何も言わなかったのですか?
      美を追求するあなたには、あんな形だけの演奏はとても許容できるものではなかったはずでしょう」
オリヴァー「ほほ、それはな、演奏以外の部分に美を見出しておったからなのじゃ」
マルス  「他の部分、ですか」
オリヴァー「そう……あの演奏が、可愛い小鳥の囀りでないことは、出だしの音色を聞いただけでも分かった。
      形ばかりがよく似た、最低の演奏。だが、同時にこうも思った。
      『それでも、これだけよく似せるのにはそれなりの努力が必要だったはずじゃ』とな。
      分からなかったのは、何故こんな小さな発表会の代役などに、そこまでの努力を注ぎこめたのか、じゃ。
      そう思って目を細めたとき、深い闇の中に一人の少年の姿が浮かび上がったような気がしたものじゃ。
      ワシはな、誰かのためにあそこまでの力を傾注することができた、その心に美を見出したのだよ。
      誰かのために力を奮い、共に生きようとする心……うむ、実に素晴らしい美である。そうは思わんか、少年」
マルス  「……そうですね。全く、その通りだと思います」
オリヴァー「ほほほ、良哉良哉。可愛い小鳥も、今日代役を引き受けてくれた誰かの気持ちに応えようと、
      また更なる努力を重ねて素晴らしい美を生み出してくれることじゃろう。
      心と心の響き合いはまた新たな美を生む。ほほ、良哉良哉」
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 巨体を揺すって愉快そうに笑いながら、オリヴァーは悠然と歩き去っていく。
 その大きな背中を見つめながら、マルスは肩を竦めるのだった。
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マルス  「……思っていた以上に面白い人だな。尊敬しますよ、オリヴァーさん。
      どうやら、この町にも、まだまだ僕の知らないことはたくさんあるみたいだ」
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 会場を後にしたリーフは、近くで馬を借り、ユグドラル地区、ノディオン家の邸宅を目指した。
 だが、邸宅に着いたときにはもう既に周囲は闇に包まれており、邸宅も火が消えたように静まり返っていた。
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リーフ  (……間に合わなかったか。覚悟はしていたけど)
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 ため息を吐きつつ、リーフは馬を下りる。
 今日はルネス女学院の音楽発表会の日だったが、同時にノディオン家の令嬢であるナンナの誕生パーティの日でもあった。
 エイリークの代役を引き受けたとき、リーフはこちらに出席することは半ば諦めていた。
 それでも、最後まで諦めずに、急いでここまで来たのだったが。
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リーフ  (……怒ってるだろうな、ナンナ。どうも言い出しにくくて、結局欠席することは伝えないままだったし)
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 固く閉ざされた門を遠目に見つめながら、リーフは肩を落とす。
 幼馴染の顔を思い浮かべると、胸がちくりと痛んだ。
 だが、今更考えても仕方のないことである。それに、自分の選択が間違っていたとは思っていなかった。
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リーフ  (仕方がないな。学校で会ったら謝ることにして、今日はもう帰ろう)
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 そう思って、再び馬に乗ろうとしたときである。
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ナンナ  「リーフさま」
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 不意に、闇の中から声が聞こえてきた。
 驚いて振り返ると、ノディオン家邸宅の大きな門のそばに、見覚えのある人影がひっそりと立っていた。
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リーフ  「ナンナ」
ナンナ  「やっぱり来てくださいましたね」
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 ナンナは屈託なく笑っている。パーティのときの衣装から着替えていないらしく、清楚なドレスを身に纏っていた。
 どことなく気まずい思いをしながら、リーフは馬を引いて門の方に歩み寄った。
 邸宅の敷地内にいるナンナと、門を挟んで話し始める。
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リーフ  「パーティはもう終わってしまったんだろう」
ナンナ  「ええ。とても楽しかったです。たった一つのことを除いては」
リーフ  「……ひょっとして、僕のこと?」
ナンナ  「……寂しかったです」
リーフ  「ごめん。本当は、もっと前に伝えるつもりだったんだけど」
ナンナ  「いいんです。リーフさまが理由もなく約束を破るような方ではないことぐらい、よく知っていますから」
リーフ  「……でも、結果的には約束を破ってしまったよ。君の誕生パーティに出席できなかったわけだし」
ナンナ  「いえ、まだ大丈夫ですよ」
リーフ  「そう? それじゃ、今からでも遅くはないかな」
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 リーフは笑って、馬の背からヴァイオリンのケースを下ろす。
 そして、中から楽器を取り出し、弓を弦に当てた。
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リーフ  「本当は、隠し芸でやるつもりだったんだけど。今からじゃ、近所迷惑かもね」
ナンナ  「構いません。誕生日ですもの、きっと皆様許してくださると思います」
リーフ  「その理屈はどうかな」
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 苦笑しつつ、リーフは演奏を始めた。
 曲目はもちろん、今日の昼間にエイリークの代役で弾いた、『交響曲・炎の紋章』である。
 夜の町に、澱みも乱れもない、だがどことなく薄っぺらな旋律が響き渡る。
 一通り演奏を終えて、リーフはナンナの方を見やる。彼女は門越しに、拍手を送ってきた。
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ナンナ  「素晴らしかったです」
リーフ  「はは、お世辞が上手いね。君ぐらい教養が高い人なら、僕の演奏が偽物だってことぐらいは」
ナンナ  「でも、素晴らしかったです」
リーフ  「……セティさんとかなら、もっといい演奏を聞かせてくれたんじゃないかい?
      僕としては、ああいう、本物の人たちの引き立て役というか、ピエロをやるつもりでこれを練習していたんだけど」
ナンナ  「……わたしは今のが一番好きです」
リーフ  「……そうか。ありがとう、ナンナ」
ナンナ  「いえ。……もう一度、聞かせてくださいますか?」
リーフ  「いいとも。遅れてきたお詫びに、君が飽きるまで弾いてあげるよ」
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 夜の紋章町に、再びヴァイオリンの旋律が流れ始める。
 それは、澱みも乱れなく、しかしどこか薄っぺらで、それでも間違いなく、優しい音色なのだった。
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