【召喚獣のアニマに関する議論・考察】

Last-modified: 2022-08-15 (月) 10:48:54

FF10

「究極召喚獣なのに何故シーモアはアニマを召喚しても死なないのか」
「何故ユウナレスカは当時10歳で未熟なシーモアに究極召喚を授けたのか」
といった点は当然のように各所でツッコまれた。
前者は後にアルティマニアオメガでフォローされた(究極召喚の項を参照)が、後者は未だ謎のまま。
絆さえ強けりゃ良いのなら別に旅の必要なんてないよなぁ…。


記憶が定かではないが、召喚士に旅をさせてガードとの絆を太くさせるためじゃなかったか?
究極召喚の正体とかは秘密ってことになってるから、みんな旅=修行だと思ってるが実は違うってことなんだろう。

  • 旅=寺院巡りは召喚士とガードをエボンの教えに染める(染め直す)ことも含まれてるから。行く先々で砂漠のオアシスのように身を休ませ、様々な支援を与えてくれる寺院に感謝するように。
    あるいは各地の実情や各地の住民の期待を見せ、召喚士に「彼らのためにも引き返せない」と思わせるように。
    最初からエボンの教えを侵さない存在(=シーモア(老師の子息))であれば、と究極召喚を与えたんだろう。

身も蓋もない言い方をすれば、
シーモアのように最初から絆の強い親族を究極召喚にすれば済む話では。
表向きに人道的問題がありすぎたり、召喚士(ひいてはエボン教)の立場がゴニョゴニョだったりでとても採用出来るような方法ではなかったのかもしれないが。


旅には、召喚士が究極召喚に耐えうる器になるよう研鑽する目的もある。
各地にある寺院の祈り子と交感・交信すればするほど心身が鍛えられ、召喚士は成長していく。
このことは、シナリオアルティマニアのP57に書いてある。

  • だから、結局「じゃあなんでユウナレスカは未熟なシーモアに究極召喚を授けたのか」っつー話に戻るわけで。
    「授けた後で旅させればおk」とか言うんだったら他の召喚士にも最初からそうさせろと。
    • さすがに究極召喚のシステムを最初から教えてたら断念する召喚士も多いだろう。各地を回らせてのっぴきならない状況を作ってから教えるのがタイミング的にもいいんだろう(これに関しては奇しくもアーロンも同じ結論にたどり着いてたようだし)。それにザナルカンドにはユウナレスカしかいないから何かあったら消してしまえば究極召喚のシステムは漏れないわけだし(アーロンというイレギュラーはあったものの)それなら教団が直接手を下す必要もないし。シーモア母子はとにかく母があれだからユウナレスカも大丈夫だと思ったんじゃないか?ユウナレスカが消さなかったってことはシーモアもユウナレスカに対して面と向かっては拒否しなかったってことだろうし。

つまり、シーモアには最初から資質があった?
あるいは、精神修養が足りてないのに力だけ手に入れるとシーモアみたいになる?
そういえば敵として出てきたアニマは妙に弱かったような…
設定的に負け確定のイベントバトルくらいの戦力差があっておかしくないのに。

  • ルカで登場してペインで魔物砕きまくっていった時の強さはどこに…ってな。
  • その辺は召喚士としての資質的な物なのかもしれない。
    イサールやベルゲミーネ、ギンネムの呼び出した召喚獣がユウナの召喚獣と見た目は同じだがパラメータが違う事からもそれが窺える。
    …システム上の都合とか言わないでよ。
    つまり召喚獣は召喚した者によりその強さが変わるのではないか。
    アニマは究極召喚として授かりはしたが、シーモアの修養もしくは素養が足りなかったためにあの程度に収まったのではないか、と。
  • アルティマニアオメガのP.81によると、「シーモアは母の力を受け入れるのを拒否し」とある。
    (母が祈り子になったのはシーモア10歳時だが、実際にアニマを入手したのはその15年後、シーモア25歳時)
    シーモアの召喚獣アニマが力を満足に発揮出来なかったのは、恐らく内心で否定し続けていたことが原因だろう。
    本人もアニマ召喚時に「私の闇を知るがいい」とか言ってたし。
  • 元々、究極召喚は召喚士と精神を完全に同調させ一心同体になる特殊な召喚過程を要するので、恐らくユウナとの戦いでは使っていない。
    何より、召喚獣と召喚士の心の繋がりの強さが召喚獣の強さに直結するのに、祈り子である母親とは最早想いが完全に食い違っているので、真価を発揮出来る筈も無い。

だが、考えてみれば一応バージ=エボン寺院からガガゼトまで越えて来てるから、形式上召喚士(シーモア)とガード(シーモアの母)がちゃんと旅をしたことになる。
ユウナレスカが資格ありと判断する可能性もゼロではないだろう。
…そう考えると、母かなり強いな。

  • 召喚士が未熟でもガードが強けりゃOKなのか?
    究極召喚授与のシステムって無茶苦茶というか本末転倒というか、(『シン』の復活を除いても)いろいろと破綻してるなぁ。
    • 結果うまくいかなくても召喚士なんて使い捨てだからエボンの体面さえ保てればどうでもいいんだろう。エボン教の目的はシンの打倒ではなくエボン教の維持(スピラシステムを見ても明らかだけど)なんだから。「修行をさせた」という事実さえ作ってしまえば、うまくいけばよし、うまくいかなくても「善戦むなしく」とか「素質が足りなかった」とか「本人の鍛錬が足りなかった」とかとにかく口実付けられるから教団のせいにはならないだろうし。

元から繋がりの深い関係で、信頼関係があるならオフィシャルな祈り子たちより簡単に深く交感できそうな気はする。
召喚士が各地の寺院を回る制度だって、教団が「『シン』と戦う救いのヒーロー」をなるべく民衆の間を広く回らせるために整えたんじゃなかろうか。
シーモア母子はグアド族間の対立が原因で流された身なわけで、それが堂々と寺院巡りの旅をしてるのがバレたらヤバいはずだし。


確かシーモア母子に関するストーリーで、シーモアを守る力となるために自らアニマの祈り子になったという設定があった気が。
それで結局それが原因でシーモアが歪んでいくという話だったような。

  • それは「志願した」という意味であって、「自力で祈り子になった」という意味ではないと思う。

あんな辺鄙な廃墟に母子二人だけで飛ばされ、そこでの生活から後にザナルカンドまで向かうことを考えれば十分「修行」に値すると思うのだが。
召喚士の器と絆を鍛えるのが目的なら、決められたルートを通るだけが修行ではないはず。

  • 自ら苦行に挑むならそれは「修行」と言えるだろう。現に他の召喚士はそうしている。
    だが、監禁生活は修行と言えるのか? それで心身が鍛えられると言えるのか?
    流石にそれはこじ付けが過ぎると思うぞ。実際シーモアは監禁生活で負の感情まっしぐらだし。

究極召喚に修行が必要かどうか自体微妙なところ。ゲーム中に出てくる修行に関する話のほとんどはエボン寺院ソース。授ける当の本人であるユウナレスカは絆の話しかしない。

  • ユウナレスカが究極召喚を授けるにあたり気にすることがあるとしたら機密の維持くらいだろう。シーモア母子に世界のため等のキラキラした目的意識は無いので授けるに差支えはなく、結果無駄になっても別に問題はない。気軽に授けておkと思われる。
    • といっても強力な究極召喚をホイホイ教えていいものなのか…結果的にシーモアが使わなかった(使えなかった?)し秘密もホイホイ漏らさなかったからよかったもののシーモアが危険人物になったことを考えると危ない橋渡ったなあと思う。まあユウナレスカはもうまともな人の心を失ってたから彼女なりの条件を満たしてる人間には全員教える機械みたいになってたのかもしれないが。つーかそれなら絆とか説きはするけど絆があるかどうかは見抜けなさそうだよな。後述の刺客さえ倒してザナルカンドに辿り着きさえすれば(そしてもちろんそのパーティーに召喚士とガードさえいてユウナレスカの言葉を拒否らなければ)未熟だろうがなんだろうが誰にでも教えるんじゃないか?その条件が物理的に難しいだけで。それなら召喚士の力が強くなってる可能性は高いし、絆の条件を満たしてる可能性も高い。つまり見切り発車なわけだが、シーモアまでは実際にそうだったんだろう。
  • ユウナレスカは人っ子一人いないあんな辺鄙な所に一人ぼっちだし電話みたいな機械かスフィアがなければ寺院からの連絡も受け取れないから「全部の寺院回ってきました!」って言えば案外ころっと騙せちゃったり……なんて。

ユウナレスカはザナルカンド遺跡エボン=ドームでそれぞれ刺客を放っている。それらを倒せれば資格ありと見なす。刺客を倒すために召喚獣が必要かどうかだろう。

  • その理屈が通ると、結局「召喚士が未熟だろうが弱かろうが強い身内がガードならOK」ということになってしまうわけだが。
    • まあ本来召喚獣を上回るほどの力を持つ一般人(ガードとはいえ)が少ないというのもあるんじゃないか?とは思う。