- アリュージョニスト以外のネタバレに注意
- サイバーカラテを実践しよう (知ってる作品があったら、説明を追記しよう)
- 最下部のコメントボックスで作品紹介を書き込むと、誰かが追加してくれるかもしれません
- 多分図書じゃなくてもいいと思うよ
- 参照と類似は呪力です。高めよう。
- ほんの少しでも推薦図書に見えたのならそれが推薦図書です(邪視)。追加しましょう。五十音順に並んでいます。
- 編集カラテ入門
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** タイトル
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- 性・性愛・聖婚関連/思想
- 愛する言葉 岡本太郎 岡本敏子
- アイドルについて葛藤しながら考えてみた ジェンダー/パーソナリティ/<推し> 編著:香月考史 上岡磨奈 中村香住
- アイドルの国の性暴力 内藤千珠子
- 愛について 竹村和子
- アメリカの中絶問題 出口なき論争 緒方房子
- 医療倫理 よりよい決定のための事例分析 グレゴリー・E・ペンス
- 産む産まないは女の権利か フェミニズムとリベラリズム 山根純佳
- AVの表現の自由 Hikichin(曳野正二/島根県松江市)
- 男であることの困難 恋愛・日本・ジェンダー 小谷野敦
- オトコのカラダはキモチいい 二村ヒトシ 金田淳子 岡田育
- 男は邪魔! 「性差」をめぐる探究 高橋秀実
- 「男らしさ」の人類学 デイヴィド・ギルモア
- 女のキリスト教史 「もう一つのフェミニズム」の系譜 竹下節子
- 快楽上等! 3.11以後を生きる 上野千鶴子 湯浅玲子
- 河合隼雄著作集10 日本社会とジェンダー
- キャリバンと魔女 資本主義に抗する女性の身体 シルヴィア・フェデリーチ
- 99%のためのフェミニズム宣言 シンジア・アルッザ ティティ・バタチャーリャ ナンシー・フレイザー
- 現実感をなくして失うもの フェミニズム運動の例から ケイヒロ ハラオカヒサ
- 国連が批判する日本の漫画の性表現 「風と木の詩」が扉を開けた
- 孤独とセックス 坂爪真吾
- サイボーグ・フェミニズム【増補版】 編・巽孝之 ダナ・ハラウェイ サミュエル・ディレイニー ジェシカ・アマンダ・サーモンスン
- 坂爪真吾のPRESIDENT Online記事
- ザッヘル=マゾッホ紹介 ジル・ドゥールズ
- さよならハラスメント 小島慶子
- 「支配しない男」になる 別姓結婚・育児・DV被害者支援を通して 沼崎一郎
- 芝原氏と青識亜論の四夜対談(フェミニズムと正義を巡る「議論」に関する議論)
- 証言現代の性暴力とポルノ被害 ポルノ被害と性暴力を考える会
- 小説の生存戦略 ライトノベル・メディア・ジェンダー:ライトノベルは性的消費か? 大橋崇行/ヤマナカ智省
- 「小児性愛」という病 ――それは、愛ではない 斎藤章佳
- 神聖受胎 澁澤龍彦
- 新編 日本のフェミニズム
- 性愛 大人の心と身体を理解してますか 渥美雅子 村瀬幸治
- 性愛論 橋爪大三郎
- 性と聖 性の精神文化史 クリフォード・ビショップ
- 聖なる快楽 リーアン・アイスラー
- 先達の御意見 酒井順子
- 戦闘美少女の精神分析 斎藤環
- 第二の性 決定版 ボーヴォワール
- 男子の性教育 柔らかな関係づくりのために 村瀬幸治
- 男性権力の神話 《男性差別》の可視化と撤廃のための学問 ワレン・ファレル
- 男性的なもの/女性的なもの フランソワーズ・エリチエ
- 男性同盟と母権制神話 カール・シュミットとドイツの宿命 ニコラウス・ゾンバルト
- 中絶技術とリプロダクティヴ・ライツ 塚原久美
- 哲人たちはいかにして色欲と闘ってきたのか サイモン・ブラックバーン
- don't look back into the sun nightswatch1223
- なぜあなたは「愛してくれない人」を好きになるのか 二村ヒトシ
- BLの教科書 編:堀あきこ 守 如子
- 「ファット」の民族誌 現代アメリカにおける肥満問題と生の多様性 碇陽子
- フェミニスト間のポルノ戦争~”Feminist SEX WARS”について フェミニスト・トーキョー
- フェミニズムとの距離感~「性差別表現」は存在してよい/存在しない
- フェミニズムの困難 吉澤夏子
- プライベート・ゲイライフ ポスト恋愛論 伏見憲明
- ペニスの文化史 マルク ボナール,ミシェル シューマン
- ペニスの歴史 デビッド・フリードマン
- ぼくらのSEX 橋本治
- ポルノかポリコレか? あるいは『ONE PIECE』の豚骨ラーメン性についての考察。
- マゾッホという思想 平野嘉彦
- 松戸市VTuber戸定梨香交通安全PR動画削除は「スラットシェイミング」問題である Hikichin(曳野正二/島根県松江市)
- 無神論者になった私が、フェミニストとして居心地が悪い理由 北村紗衣
- ムスリム女性に救援は必要か ライラ・アブー=ルゴド
- モテる構造--男と女の社会学 山田昌宏
- 「許せない」がやめられない SNSで蔓延する「#怒りの快楽」依存症 坂爪真吾
- ラブライブとガルパンをフェミニズムが評価すべき5つの理由 佐倉智美
- リプロダクティブヘルスと環境 共に生きる世界へ 上野千鶴子 綿貫礼子
- レイプ/男からの発言 ティモシー・ベイニケ
- 煉獄さんがいる世界を取り戻したい・・・日本人にとっての「鬼滅の刃」ブームが意味するもの(後編) 倉本圭造
性・性愛・聖婚関連/思想
愛する言葉 岡本太郎 岡本敏子
- (実質的な)夫婦の男女二人の言葉を合わせた本
- 情熱的であり、お互い完全にはわかり会えないことを自覚しながらも、どこか響き合う思いが感じられるような、言葉に込められた熱量が良い
電子化◯
アイドルについて葛藤しながら考えてみた ジェンダー/パーソナリティ/<推し> 編著:香月考史 上岡磨奈 中村香住
- オンライン鼎談をきっかけとして編纂された、「葛藤しながらアイドルを考える」ことの試論集(2022年刊行)
- 「アイドルが好きだけれど同時に問題を感じる」そして「問題を感じるけれど、どうしても好き」な人々が、さまざまな観点からアイドルについて考え、研究している
- その範囲は幅広く、舞台先行のメディアミックス『少女☆歌劇 レビュースタァライト』や韓国アイドルにも及ぶ
- また、きちんと既存の学説をまとめているところもあるため、学術的な資料としての価値もある
- 明確な特徴としては、「性」に関わる側面に対して (批判もあるが)肯定的な傾向があることだろう
- フェミニズムの思想や女性差別反対は前提としてあるものの、
- 「性的消費」を肯定したり、ゲイアイドルやトランスジェンダー、無性愛者のアイドルとの向き合い方について考えたりと、
- 多くの論考からは、あらゆる側面から性やアイドルをしっかりと受け止めようとしている姿勢が感じられる
- わずかな欠点としては、まず一つ一つの文章は短く明確な結論もあまりないこと
- 著者たちがしっかり考え多くのことに配慮しているがために、一つの論考の中にためらいや留保、例外や異論を含むことも多く、
- 要約しきれない悩みをそのまま出力したような有様になったりもしている
- アイドルを観ることの中にある「よさ」(善)と「よくなさ」(悪)の表裏一体性を、檜垣立哉の「賭博哲学」を流用してすべて受け止めようとしている論考もあるが、
- 基本的には、歯切れの悪さが印象に残ってしまう
- けれど逆にそれこそが「葛藤」やアイドルに関わるをきちんと考えていくために、不可欠な姿勢なのであろう
- あとがきにあるように、これはまだ始まりに過ぎないのだ
- 著者たちがしっかり考え多くのことに配慮しているがために、一つの論考の中にためらいや留保、例外や異論を含むことも多く、
- 第二の欠点としては、これらの論考はすべてアイドルを「観る側」応援者の視点でしかないこと
- もちろん、アイドルたちの意見の引用も記述されてはいるが、アイドルを語るなら「アイドル側」演者としての視点はもっと欲しいところであろう
- そして最後の欠点としては、ここで考えられている「ためらい」の「倫理」というのが、さまざまな意味で限定的であり、
- ともすれば独りよがりの「良い子ちゃんごっこ」になりかねない危険を持つことだ
- なるほど、確かに著者たちはアイドルへの自分たちの思いや「加害性」について自覚的であり、それについてはしっかり向き合おうとしている
- それ自体は、素晴らしいことである
- けれど、アイドルオタクには、その「倫理」すべてを管理・支配する支配者や倫理委員会などは存在しないし、未来永劫、存在するべきでもないだろう
- 著者たちがいかに「葛藤」し「倫理的」になることを呼びかけても、その良心をアイドル業界全体に共有させることは難しいし、それを強制させるわけにもいかない
- ならば、「強制力」の無い「倫理」は、一体何の意味を持つのだろうか?
- さらに、これらの「倫理」は下手すると「男性性欲」のみへの非難、(マジョリティの)女性ファンのエゴイズムにとってだけ、都合がいいルールの構築につながるおそれがある
- なにしろこの本だけでも「性的なまなざし」や「観客はアイドルの『燃料』として見合う対価を払えるのか」という論考に挟まって、
- 雑誌投稿で無邪気に、男性アイドルを動物化したり恋人や生モノBLの妄想をくり広げている女性ファンたちの欲望が、堂々と載せられているほどだ
- そこには、二つの論考にみられる「葛藤」や「加害性」への罪悪感などは、どうみても微塵もない
- 同性愛的な視座が、アイドル消費の恋愛至上主義や異性愛規範を崩すとしても、
- 結局それは(女性主体であるというだけで)「性的消費」であり、また別種の恋愛至上主義に過ぎないのではないだろうか?
- マジョリティ女性主体の「葛藤」から始まった「倫理」は、下手するとマジョリティの女性だけに都合がいい「欲望の選別」「善悪の恣意的な線引き」に終わってしまう危険性はないだろうか?
- もちろん、「性的消費」はそれだけでは悪とは言い難い
- 人類はいまだに「性」を用いなければ繁殖・種の存続が不可能であるため、それにつながる「性的消費」のような関わりを禁止することは自殺行為であるし、
- 「不快な相手からの性的まなざし」だけが「悪」だとしても(そしてそれを主に女性のまなざされる側だけが嫌悪しているとしても)
- 基本的には、まず「まなざす」ことや関わりがあってから、対象への好感や不快でない関係性が生まれるものであって、その逆ではない
- 「不快な性的まなざし」を完全に禁止すれば、(ドラマやマンガを含めた)いかなる恋愛も不可能になってしまうだろう
- そしてなにより、人類の大半が性的な欲求に駆動されて異性に関心を持つ以上、「性的なまなざし」の禁止はアイドルファンの大幅な現象をも意味する
- 確かに、アイドルとファンとの関係性は、異性愛主義だけで規定されるべきではないが、
- だからといって、それをすべて否定しアイドル業界全体を縮小させるのは「産湯と一緒に赤子を捨てる」ような暴挙であろう
- 「不快な性的なまなざし」や「性的消費」を非難する論が語る「正義」も、結局はマジョリティの女性のエゴイズムや好悪最優先主義に過ぎないということなのか、
- それについては、もっとよく論議を深める必要があるだろう
- だが当然、野獣のように無制御な「性的なまなざし」を不快として批判することにも正義はある
- たとえそれが、マジョリティや声の大きいノイジー・マイノリティのエゴイズムだからといって、それを主張してはいけないというわけではない
- エゴだからといってその主張をためらえば、どんな不満も欲求も訴えられなくなってしまうし、
- そんな自粛がはびこれば、それは誰もが不満を抱えるディストピアの形成につながってしまう
- ただ、だからといってそれを正義のすべてとするべきではない
- ヴィーガンが肉食獣を嫌悪するような批判があっても問題はないが、
- せめて肉食獣全体に肉食を禁じれば絶滅させてしまうということへの意識や、代替食の準備くらいはしておいて欲しいというだけの話である
- 特に、ジャニーズ事務所がその性的加害で批判される現在こそ、そうした点についてはしっかりと見直されるべきではないだろうか?
電子化◯
アイドルの国の性暴力 内藤千珠子
- リベラル(左翼)・フェミニズムによるアイドル文化と小説の批評書
- 学術系の本にしては分かりやすいし、多様な資料をよく参照していて、フェミニズム文芸批評としては面白いうえに建設的な批評となっている
- ただし、批判内容が筆者本人に跳ね返ってしまっており、そのブーメラン的な視野の狭さは、致命的である
- あるいは、左翼・リベラルそしてフェミニズムの持つ欠点と傲慢さ、そしてその視野の限界が(無意識のうちに)見事に濃縮されているという意味では、これを真の傑作と呼ぶべきなのかもしれない
- その内容は、筆者が類似性を見出した(性的に)嫌いなものを、一つにまとめあげて命名し、批判していくもの
- それは、筆者が所属する勢力・イデオロギーの真逆、すなわち、
- 「大日本帝国」「家父長制」「女性(=筆者)に不快感を与えている男性の性欲の表出」「一方的なまなざし」その全てが、「帝国的性暴力」という連続的な邪悪なシステムとしてつながっている、とするものだ
- 筆者は、かつて帝国の売春管理は平時の性暴力を通じて戦争の訓練となっていたし、
- 現在も日本を支配して女性を性的に消費する性暴力して、アイドル業界やJKビジネスとなって、
- 男性からの加害的な性欲による一方的な視線や、歴史的実証を求めることで慰安婦たちの語りを否定する言説をもたらしている、としているのだ
- そして筆者は、そうした嫌いな文化に対抗する方策として、「共感」を打ち出す
- 彼女は、共感が友敵二元論を超え、その先の「未完成な未来」をもたらしてくれることを期待し、
- (主に敵対する右翼の)他者が自身のメッセージに応えてくれるように訴えているのだ
- にも関わらず、いや、だからこそ、この批評には大きな問題がある
- それは、感性の共鳴としての「共感」自体の限界であり、
- 筆者の感受性や、フィルターバブルに包まれた世界観では認識できないものを見逃す、「死角」=視野の狭さである
- また、この本の表題において顕著だが、筆者のその視野の狭さは、彼女の意図しないところで「暴力」となっていることも問題であろう
- 筆者の主張は、彼女自身の感性を肯定する、自己肯定のための論理にすぎない
- そしてその筆者の感性とは〈「私」の身体が、性的な価値を持った「女」という記号としてまなざされるとき、「私」は毀損され、「私自身」を生きることは難しくなる〉という、二次性徴を迎えた成人としては不適応なものだ
- つまりそれは、有性生殖行う動物としての性質を受け入れることができない、性的な文化・行動様式と人間としての個我を上手く両立できない、というミスマッチであり、
- その感性のもとでは、男性の(一方的になりがちな)性欲などは、暴力や恥ずべき存在としてしか認識されないし、許容されないのだ
→ミヒトネッセ?
- また、彼女は「共感」を通じた融和を訴え、「友敵二元論」の否定を唱えてはいるが、
- その主張が立脚しているフェミニズムと左翼イデオロギーは、そもそもそうした「敵」の存在を前提としている
- 彼女は、自分の立場にそれが含まれていることに気づいていない、いや、その「死角」を看過しているのである
- そのため筆者は、男性性欲の本能的側面だけでなく、「革命」の暴力性を、慰安婦への同調が結果として韓国ナショナリズムや家父長制への賛同を示してしまうことをも、見逃してしまう
- そして男性アイドルへ向ける女性ファンの欲望や、女性アイドルにも女性のファンがいることさえも透明化させてしまう
- 日本が邪悪な男性文化に支配されている、という彼女の論を成立させるには、そうした存在は邪魔でしかないからだ
- 結果として、彼女の論は、表面的には「共感」を求めながらも、
- その実態は、自勢力への完全な同化とそれまでの自我・欲望の消去を強いる、暴力的で一方的なものになってしまっている
- それは、いくら「共感」を、つまり感情的な同調を目指したところで、自分が持っていない異性の性欲や価値観・感性などを所有することは不可能だからだ
- それゆえに、その「共感」の終着点は、結局は「私の価値観に沿って悔い改め、苦しみなさい。そうすれば赦してあげる」といった「価値観の同化」にしかたどり着けなかったのだ
- 当然のことと言うべきなのだろうか、その無自覚な独善性は、彼女が無視した革命の暴力性、連合赤軍の「総括」にそっくりである
- 筆者は確かに、過去に学び、現状の変革と平和を目指した
- だが自己の感性を絶対とするその「共感」がもたらしたものは、結局、彼女たち左翼が忘れ去り「死角」に追いやっていたはずの、忌まわしい過去の罪過の反復でしかなかったのである
- なんと、恐ろしい話ではないか
- なお、アイドル研究の参考としては、田島悠来・編『アイドル・スタディーズ』が中立かつ多様な視点があっておすすめ
電子化×
愛について 竹村和子
- 男性の性の視点から書かれたラカンの理論を、自分なりに読み替えて普遍性を目指しているジェンダー見直し系の本
- ラカンが説明した「不感症」と「性的不能」のメカニズムは、男女両方が経験する、愛の普遍的な二つの側面である
- エロスは本質的に不可能性のうえに成り立つものであり、わたしたちが経験できるのは、その不可能性しかない
- あなたが欲望しているわたしは、あなたの欲望のなかにのみ存在し、そのような幻想のわたしを差し出すわたしは、つねにわたし自身の愛から疎外される
- またすでにあなたの欲望が書き刻まれている私の欲望は、その幻想をあなたに重ねているために、わたしの愛はあなたへの愛につねに失望し、その失望がまた愛を生む
- だがこの愛の疎外と失望こそ、エロスを構成するものである
- 愛と隣合わせの憎しみや臆病さは、わたしが愛するほどにはあなたは私を愛してくれない、わたしはあなたが愛するような者ではない
- つまり、あなたの歓びのなかにわたしがわたしの歓びのなかにあなたが存在している、このウロボロスの輪の中に、愛の経験があるためではないだろうか
- けれども愛の経験が、愛を〈受け取る〉ことと〈与える〉ことからなりたち、その両者が同じことを意味するのであれば、わたしはつねに「不感症」であるとともに「性的不能」でもある
- なぜならわたしは、つねにすでにあなただから
→アキラくんとトリシューラをはじめ、色々な関係
アメリカの中絶問題 出口なき論争 緒方房子
- プロチョイスの立場から、アメリカの中絶問題をまとめた本
- アメリカにおける中絶の歴史や各宗派の方針(当時)の紹介だけでなく、日米の中絶対応の比較についてもしっかり書かれているのが良い
- 中絶問題の根底には、女性の役割を巡る対立が基本にある
- 宗教とか生命とは何かということは問題の根底ではない
- プロライフは、対立思想をプロチョイスではなく中絶賛成とか堕胎屋と呼び、逆にプロチョイスは、相手をアンタイチョイス=女性の有無か産まないかの選択に反対している者、と呼んでいる
- 反対派は、概して妻、母以外の選択肢を持たない人びとであるという
- プロライフ暴力、クリニックへの包囲600件以上逮捕者3万人超え、暴力91件、放火・爆破未遂も含めて200件近く、200人以上の中絶医がクリニックから連れ去られている(77~94年まで。全国中絶連合/NAFの資料)
- 日本の水子供養批判
- 著者には、この「供養」はパートナーや友人・社会からのサポートのないまま中絶した女性が抱く「罪の意識」を寺が「救う」格好で、実は仏教寺院がしっかり経済活動を行っているように思われる
- 寺が真に「胎児の命」を大切に思うなら、「水子」になる前に、それこそアメリカのプロライフ宗教団体と同様、「中絶するくらいなら産みなさい、そしてうちの寺に預けなさい」と言うか、それが無理でも避妊教育をするとか、他の手段がありそうなものだ
- 商業主義に中絶を利用しているように考えられる
- それにくわえて「水子供養」を行うことは、日本社会で中絶や生命の意味、また、真に生殖選択の手段や権利を語る機会が更に失われる「逃げ道」になっていると言えるだろう
- ピル解禁反対派への批判
- ピルがあるから、男は避妊の心配をしなくていいという考え方が出てくれば、確かにそれは困ったことだ
- けれど、時々しか使わないコンドームとときに不安定な月経周期に頼るオギノ式で、いかに多くの女性が避妊を失敗し中絶を繰り返していることだろうか
- ピルを含む全ての選択肢がある中で、女性と男性が自主的に方法を選べるのが最善のはず
電子化×
医療倫理 よりよい決定のための事例分析 グレゴリー・E・ペンス
- 代理母や中絶などについて、さまざまな意見が紹介されている
- 推薦図書/思想を参照
産む産まないは女の権利か フェミニズムとリベラリズム 山根純佳
- 中絶をめぐるリベラリズムとフェミニズムの観点の違いをはっきりさせることを通して、中絶に対して女性が担っている責任と自由の必要性を主張している本
- こまめな内容のまとめがあって、中絶に関する様々な権利論の内容や問題点が把握しやすく、とても分かりやすい本
- ただし、それが行き過ぎて、主張を引用するときに大雑把に要約しすぎるところもある
- 性行為や出産・中絶に対する女性の責任を、社会や男性が分割して担うべきだという、著者の結論自体は堅実であり、見るべきものである
- しかし、著者はリベラリズムに期待しているが、女性(妊婦)の感覚を汲み取れない点への批判が強すぎるところがあり、
- それが、女性にとって役に立つ道具かどうかでしか評価する気がないような、上から目線な感じに見えてしまっている
- それに残念なことに、著者の考察は、自己の主張をまとめるだけで終わるような浅いところがあり、画竜点睛を欠く
- リプロダクティブ・フリーダムの「社会化」や中絶を女性の「自由」として定義することが、かえって女性の負担を増す可能性にまで、考えが及んでいないのである
- 社会制度によって、形だけ女性に「自由」や「最終決定権」を与えたところで、十分な相談などの意思決定時のサポートがなければ、社会的圧力に押しつぶされる人が出ることは変わるまい
- 女性の生き方を最優先すべきという主張についても、単に、年長者やすでに社会的承認を得ている者にはそうでない者に対する生殺与奪権がある、という話に回収されてしまう可能性を考えていない
- 中絶は、妊娠したくなかった女性の問題であると同時に、「妊娠される」つもりがなかった者の生き方の問題でもある
- 胎児にとって、母や周囲に負担をかけて産まれることが将来の不幸を確約するとしても、それを判断しその「生き方」を左右する権利が、果たして「一心同体」の母にあると言えるのだろうか?
- 妊娠されたのが女児であった場合でも、「女性の生き方の問題」として、その生き方の阻害を押し通すつもりなのだろうか?
- それに、親が子供の生死すら握ってよいという考えは、(フェミニストが大嫌いな)最悪のパターナリズムではないだろうか?
- そして「生き方だから」で、本当に中絶に対する女性の罪悪感を除去することが出来るのだろうか?
- かえって「思想上感じるべきではない」胎児の苦痛の想像などで、苦しむ女性もいるのではないだろうか?
- この本が、ある日突然「自分の体の一部が自分ではなくなる」女性の感覚や、リベラリズムの「独立した個人」概念の限界をよく描き出しているだけに、そうした点の掘り下げがないのは実に残念である
- リプロダクティブ・フリーダムの「社会化」や中絶を女性の「自由」として定義することが、かえって女性の負担を増す可能性にまで、考えが及んでいないのである
- 何よりこの本の問題は、筆者が行っている女性(妊婦)の弁護が、おそらく反中絶派にはほとんど通用しないであろうことだ
- どれだけ妊婦が胎児に責任を感じていようが、自分が妊娠してもいない胎児や受精卵の「生命」や「苦痛」(だけ)を想像し最重視している反中絶派にとっては、そんなことは当たり前の感覚でしかないだろう
- 新しいものの見方の提唱や社会的合意抜きでの制度改革だけでは、中絶に関する苦悩への対処としては不十分すぎる
- たしかに「女性の感じ方を尊重せよ」という言説は、もっと耳を傾けられるべきではある
- けれど一方の苦痛を訴えるだけでは、社会が責任を持つべき問題は解決しないし、
- 社会全体が責任を分かち合うべきだとするのならば、その責任を分かち合う人びとの意志や思想や苦痛を無視して、自在に「最終決定権」を振るうことが出来ると考えることには無理があるのではないだろうか?
- それはたしかに妊娠に関して最大の被害を受けるのは妊婦である
- だが、問題が「殺人」と判断される事柄であるならば、それは法や共同体、社会や家族の持つ共通認識や世界観と、衝突せずにはいられないことだ
- 行うべきなのは、(まさに筆者が記しているように)まずはもっと中絶で悩む女性の苦悩を世に知らしめて議論を増やし、男性側や社会に制度的にも精神的にも女性を支えるように働きかけることなのではないだろうか?
- その上で、妊婦が胎児に対する「最終決定権」を握るという合意の形成を狙うべきなのではないだろうか?
- それでも中絶、つまり胎児の扱い方について、社会的に完全な合意を得るのは不可能なのかもしれない
- けれど、本当に中絶に対する女性の苦しみを和らげようとするのなら、そこをスタートラインはそこにしかないのではないだろうか?
電子化×
AVの表現の自由 Hikichin(曳野正二/島根県松江市)
- AVの必要性や表現の自由を擁護するnote記事
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男であることの困難 恋愛・日本・ジェンダー 小谷野敦
- 「男らしさ」は男にとって負担だという思いから、フェミニストとなった過去を持つ男性文学研究者の著書。文学評論や自伝的なエッセイ集
- 「恋愛が西洋から輸入された観念」「イエ制度は近代から作られた人工的なもの」「恋愛や結婚は制度に過ぎない」などの説に反論している
- 漱石の『こころ』は、意図的に西洋作品をパロディしたものであり、裏の「実は「お嬢さん」が先生のこころを得るための駆け引きをしていた」という真実を隠したものであるという説
- 男同士が作り上げるホモソーシャルな世界では、「もてる」ということはその当人の優越を示すのみならず、正しさを示すものとしてさえ了解される傾向がある
→グレンデルヒの童貞蔑視など - 「情熱恋愛における『他者』」
- 「私」と「他者」が持つべき関係として、何らかの理想的形態が前もって提示されているなら、それは「共同体イデオロギー」であって、そこで他者性は消えてしまう
- 「他者」とは、「私」と「他人」との既成の関係が崩壊し、未だ新たな関係の形が見えてこないときにもがきながら差し出す手つきの先(「未来」という「時間」)に現れるものだ。
- 「姦通」を嘆く男たちが求めていたのは「女」ではなく「母」ではないか?
- かつて母がしてくれたように、常に男を中心として思考を巡らし、男の表明されない内心をいち早く察して、彼が嫌がるそぶりを見せようともどこまでも追求してきて、無理無体にその思いごとを聞いてくれることではないのか
→オルヴァ?
オトコのカラダはキモチいい 二村ヒトシ 金田淳子 岡田育
- 「男のカラダが持つ性的な価値」を追求した対談本
- AV監督、腐女子文化研究者、そしてゲイのトークイベントを本にしたものであり、異文化交流が面白い
- 「いまさら聞けないボーイズラブ」から、少年漫画における「雄っぱい」の乳首描写、「心の快楽」などカバーしている範囲も広く
- SM女王様や伝説のマゾが登場したり、「ここテストに出ます」「男の乳首は神と交信するための器官」などパワーワードも連発される
- 岡田育:男性は「欲望の客体」として捉えられる機会が非情に少ない
- それゆえに世の男性は、己の感じた快楽を語ることに消極的であるし、性的なまなざしで見つめられることに不慣れであるし
- もっと言うと、他者から「かわいね」と言われただけで顔を真赤にして逆上したりもする
- でも、男のカラダだって、もっと褒められて、愛でられて、ありのままでキモチよくなっていいんだよ、というのが本書のテーマである
- あなたが男性だとして、「勃起以外の」己の欲望について、いったい何をご存知だろうか?
- あなたが知ったつもりになっている「男の快楽」は、まだまだ氷山の一角かもしれない
- あるキャラクターについて、自分が魅力を感じるようなキャラであってほしい、事細かに注文をつけ妄想してしまうっていうのは、ある意味エゴのかたまりだと思いますよ
- キャラクターたちを自分が自由自在にコントロールしているときは、すごく全能感があって、まさにファルス、支配欲のようなものが、キャラに向けて発露してるように思います
- ハッ!そうか、私は「壁紙」というより、「壁の神」だったんだ……!
- 男カップルが「神さまが見てるよ」とかいうときの……
- せっかく首から上だけで満たされてるなら、できる限りそこを大事にしてほしい
- 自分は何によってどこまで満たされ得るのか
- その可能性について、もっといろいろ考えられるはずだと思うんです
- 一般的に男性が考える「自分のスペック」って、収入とか学歴とか肩書きとかモテとか、男性社会での「力」すなわちファルスだと思うんです
- ノンケ男性の多くがそれを褒められたがるが、それはあくまでも付随するものに過ぎない
- でも女性が、アナルをなめられて感じている男性に「かわいいね」という時は、その人そのものを褒めている
- 何もかもおっぴろげてしまえば幸せになれるというわけでもないんだよね
- 守っているものとか、他人には容易に見せられないフェティシズムとか、自分でも意識できないものこそが心の穴であって、その人を形作っているもの
- 同時に、その人を女とか男たらしめているものでもあるから、無理に壊したりオープンにしすぎたりする必要はないのかもしれない
- もっとも、夫婦と恋人にとっては、ときにはそこに突っ込んでいくことや乗り越えていくことが大事だったり、面白かったりもするけど
- 基本的には、他人に迷惑をかけない範囲で、それぞれが、自分が最も興奮することをすればいいんだと思う
- そのためには、お互いに自分が何に興奮するかを知って、相手に伝えていく必要がありますよね
- 問題なのは、本人たちが「和姦」だと思ってやっているセックスが、女性側からすると、じつは暴力的だったり一方的だったり、レイプまがいの支配でしかないというケース
- 「嫌よ嫌よも好きのうち」ファンタジーならいいけど、現実はねぇ
- ノンケ男子にとって、セックスがペニスを中心とした「攻撃的で支配的な」ものなのは、そもそも社会が男性中心に回っているから
- すべての人間は、心に空いた穴にコントロールされて、いろんなことをする
- たとえばヤリチンも痴漢もレイプ犯も、性欲のせいではなく、心の穴に支配されてそういうことをするのだが
- 彼らは馬鹿だから「自分に穴があいていて、それに支配されてる」という現実を見ず、たんに「俺のちんこ(欲望)は、でっかいなー」と思う
- そう思うことを赦しているのが男性社会だ
- 「何かを格付けしたい」とか「支配したい」「他人より優位に立ちたい」「戦争したい」とかを、でかいちんこだと思って、しかも自慢している
- しかし、そんな社会がもはや破綻しかけているのなら、むしろ男は「でかくて恥ずかしい~」という心持ちであるべきではないか
- 謙虚であれというのではなく、本気で恥ずかしがろうぜ
- マゾ男性に女装させて言葉責めすると、顔を真赤にするがしかしちんこはどんどん大きくなっていって楽しいので
- このM男のちんこが武力のメタファではなく「お金を稼いで経済を回すこと」だったりすれば非常にめでたい
→紀人シナモリアキラ?
- すべての男性には感じやすい、受けの部分「やおい穴」があり、そしてすべての女性には「心のちんこ」がある
- 金田さんと岡田さんは、ほれぼれするような立派なブツをお持ちで、しかもビンビンにそそりたてながら恥ずかしがっておられ、それを見て、ぼくは鼎談のあいだ中ずっと濡れていた
→『邪視』 - 本を一緒に作るのは、猥褻なことだ
- 金田さんと岡田さんは、ほれぼれするような立派なブツをお持ちで、しかもビンビンにそそりたてながら恥ずかしがっておられ、それを見て、ぼくは鼎談のあいだ中ずっと濡れていた
男は邪魔! 「性差」をめぐる探究 高橋秀実
- 男性の筆者が、学者から男装女子やサラ男まで、色々な人に「男が邪魔な理由」を尋ねてみたエッセイ
- 後ろ向きだが、ユーモラスなノリ
- 「ジェンダーフリー」や「男女のらしさ」への批判もあるが、基本的に「性差は存在する」そして「女性の方が男性より優れている」という立場
- ドロシー・ディナスタインの筆者解釈「男女を問わず、私たちには赤ん坊の時に抱いた「自由であると同時に世話されていたい願望」を叶えたいという欲求がある
- 男を「主人」に仕立てることで、「主人」である男を屈服させる喜びと、奴隷としての潜在的な自由を享受するのだ
→ミヒトネッセの間接的な男性差別呪文? - 「男は(女にとって)邪魔であり、邪魔であるからこそ活かされる」
- 女性の脳は、あまりに機能が高いため自家中毒を起こしてしまう
→男を、女性と女性のあいだの「緩衝材」とする視座が、二人の魔女の使い魔であるシナモリ・アキラと似ている - なんだかんだで、Mな筆者のノロケ話に終始した本だった気もする。リア充爆発しろ
「男らしさ」の人類学 デイヴィド・ギルモア
- 世界中に広がる「男らしさ」の文化について比較分析した本であり、「男らしさ」の価値を見直すのに役立つ
- 出版は1993年と古いが、「男らしさ」に取り組んだ文化人類学の開拓者的な本であり、その視座が興味深いので紹介する
- (「男らしさ」について)断言できることは、男が戦うように条件付けられると、「男らしさ」が重要となり、一方男が逃げるように条件付けられると、その反対に重要でなくなるということだ
- おそらく、大部分の社会では、資源の全般的不足と広大な荒野などへ逃亡することが不可能であるため、戦うことが選択されたのだ
- 戦わねばならない戦争があり、成し遂げなければならない厳しい仕事がある限り、私たちの何人かは、おそらく「男のように行動し」なければならないのだ
- しかしまた、どうして一体、このような命令が女を除外しているのであろうか?
- どうして男だけが「本当の男」になって、うまくリスクを処理して栄誉を獲得するのが許されることになるのだろうか?
- これは哲学者の問題であって、社会学者の問題なので、追求をやめねばならない
- 可能性が無限にあるわけではなく、私たちはゼロから役割を作り上げてもいないから、問うべきではない
- 「真の」男性性を強調する社会では、たとえわずかな強調であっても、また理由が何であれ、三つの道徳命令が繰り返し強調されているように思われる
- ほとんどの社会で一人前の男になるには、女を妊娠させ、被保護者を危険から守り、親戚一同に食料を供給しなければならない
- 「真の」男とは、社会の基本的単位である家族を再生強化するために、自然を手懐けるコト――――つまり、無から価値あるものを想像するために、社会秩序を人為的に作り変え、それを永続させてくれるものだと期待されているのだ
- 男性性とは一種の男の生殖作用であり、その英雄的特性は、男の自己決定と自己鍛錬つまり絶対的な自己依拠性のなかに、一言で言うと、その主体的自律性のなかに存在する
- 攻撃的な性行動がここでは重要になってくる
- 「真の」男性性とは、乏しい資源を獲得するための社会的闘争の中で、行為を強力に遂行して行くための誘因である、つまり、内的抑制を克服することによって集合的利益を促進させてくれる行動基準なのである
→『天獄』?槍の原理?
- 男になるためには、まず第一に彼らが消耗品であるという事実を受け入れねばならない
- 男性性のイデオロギーの中には、自己犠牲ともいえるほどの没我的寛大さと言う基準が含まれている
- 「真の」男は、受け取る以上に与え、奉仕するもの
→シナモリアキラ?
- 男の支援は間接的であるから、概念化するのが難しい
- 男が貢献するために必要な人格的特性は、逆説的であり、我々欧米人が通常養育しようとするパーソナリティとは真逆のもの
- 家族を養うためには、男は、遠くまで出かけていって狩猟や戦闘をしなければならない、気前よくするためには、男は利己的になって相手の男たちを打ち負かして品物を集めねばならない。
- 愛するためには、男は女に言い寄り、巧みに誘い、妻を「勝ち取る」まで、攻撃的でなければならない
→アズーリアが想像した『天獄』の成り立ち?
- 私の主張は、男は生得的に女とそれほど違っておらず、自己の存在をアピールするための動機を必要としているのだということなのだから、フェミニストの基本的な主張を応援するもの
- 新(ポスト)フロイト派の解釈:男らしさは、子供っぽい行動・退行を阻止する手段であり、内なる永遠の子供さらにピーターパン・コンプレックスに対抗する防衛策
- 母親との依存的な一体化を断ち切る、退行願望に対する戦い
- 男性性とは、ウォルター・ペーターの用語を用いれば、男の構築的精神を神聖化する神話的な語りとして特徴づけることができると、私は思う
- 男女の相違は、女が一般に男の管理下に置かれていることにある
- 男はたいてい政治的権威とか法的権威を行使し、また女より身体が大きく力があるために、もし因習道徳によって女を管理できなくても、力や力の脅威によって、強制的に女を服従させることが出来る
- しかし、男は(特に各人が独立してばらばらに社会関係をもつところでは)いつも他人の支配下にいるとは限らないから、社会的に管理することが難しくなる
- このような相違のために、特別な道徳体系(「真の男性性」)というものが、男に適切な行動を自発的に促し、それを確実なものとするために必要とされるのであろう
- イデオロギーというのは、いったん形成されると、その環境と上手く調和し適応して、さらにその環境を強化していくというフィードバック関係というものが発生するという仮説が考えられる
- 世界の男らしさは一枚岩ではない
- しかし)世界の多くで見かける)男らしいイメージやコードの連続体、つまりスライディング・スケール(滑尺)とか多色のスペクトルについて語ることは出来る
→万色?
- しかし)世界の多くで見かける)男らしいイメージやコードの連続体、つまりスライディング・スケール(滑尺)とか多色のスペクトルについて語ることは出来る
- 例外的に攻撃的でなく女性を守ったりもしない男性性=ポリネシアのタヒチ島民とマレーシアのセマイ族=攻撃から逃亡できる広大な空間がある社会
女のキリスト教史 「もう一つのフェミニズム」の系譜 竹下節子
快楽上等! 3.11以後を生きる 上野千鶴子 湯浅玲子
- 社会学者と著述家、女同士が楽しくまじめに語り合った対談書
- 彼女たちの性や人生についての考え方は、多少説教臭くもあるが、それぞれの人生の重みを感じさせて面白い
- 30代後半から40代にかけて、女の性欲はマックスになる
- しかし「女性は性において受け身であるべき」という社会通念にいまだに囚われているためか、現代でもまだ「やらせてあげてる」という意識しか無い女性が多い
- マスターベーションもエステも、全部含めて、自己と自己身体とのエロス的な関係だと思う
- 逆に、自己身体とタナトス的な関係を結ぶこともあり、それが自傷や食べ吐きになる
- セックスが、自己と他者身体とのエロス的な関係だとしたら、気持ちよくないセックスをする理由はない
- ロマンチックラブ、「たった一人のあなたに私をまるごと全部受け止めて欲しい」という自分の全面委譲
- それは女の暴力であり、女の依存性がイデオロギー化しているものでしかない
- 自分にできないことを他人に要求するな
- でもこの種の物語は、相当手強い
- 予測誤差:予測してないほど快楽だが、ある程度予想の範囲内でないと不安になる
- 「生きていてよかった」という実感を得たいなら、冒険と偶然を求めねばならない
→わざわざ危険な異世界に転生したアキラくんやトリシューラが求めているもの?
- 「生きていてよかった」という実感を得たいなら、冒険と偶然を求めねばならない
- 自由を通じて、狭い意味じゃなくて大きな意味での快楽を得たい
- 快楽という言葉は湯山用語で、他の人は「幸福」と言うかもしれない
- 自由そのものが自己目的じゃないから、やっぱり自由を通じて、何が欲しいかなんだよね
- 濃密な、生きてて良かった時間が、大量に私は欲しいんでしょうね。それこそ死ぬまで
電子化○
河合隼雄著作集10 日本社会とジェンダー
→か行参照のこと
キャリバンと魔女 資本主義に抗する女性の身体 シルヴィア・フェデリーチ
- 魔女狩りは、資本主義というシステム(とその支配者である男性権力者たち)が、自らに不都合な女性を抑圧し支配するために行っていたと主張している本
- 新世界における魔女狩り(筆者は偶像崇拝や悪魔崇拝をこれに含めている)も、同じく支配のために行われた威圧であったとしている
- とりあえず、全体の三分の一が参考文献や注釈であるだけに、イラストと魔女狩りなどの情報が充実しているのは良い
- 表題で、戯曲『テンペスト』の登場人物であるキャリバンと魔女が並べられているのは、両者が等しく架空の存在だという筆者の見解に由来している
- そのため当然ながら、魔女狩りが民衆からの自発的な行動であったとする説や、男性の魔女がいたという事実は無視している
- まあ、筆者の言うように、魔女狩りに男性優位の強迫観念が見られたり、インテリ層によって魔女のイメージが流布されていたというのも、また確かな事実ではある
- たとえば魔女は、常に悪魔と邪悪な婚姻契約を結び、それに逆らえなかったとされているのだ
- とはいえ、そうした解釈だけで押し切ってしまうのは、あまりにもイデオロギー的な歴史観すぎるのではないだろうか?
- あるいはこの本は、フェミニズムには歴史の一面を明らかにする力はあるけれども、それで全てを解釈しようとするとボロが出てしまうという好例なのかもしれない
電子化×
99%のためのフェミニズム宣言 シンジア・アルッザ ティティ・バタチャーリャ ナンシー・フレイザー
- 資本主義を全否定し、反資本主義のフェミニズム「99%フェミニズム」による連帯で世界を救うことを呼びかけている本
- 主張を裏付けるデータは無いし、思想的にかなり偏っており、対立する思想に対してひどく攻撃的
- だが、この本はきちんと資本主義が持つ欠陥も指摘しており、単なる極左によるフェミニズム運動の乗っ取りというわけでもない
- この本は、現代世界に合わせてアップデートした『共産党宣言』を目指して書かれているのだ
- 概要を把握したいだけなら、情報量が多い解説やあとがきを読めば十分ではある
- ストライキによる(被害者代表である)女性を中心とした世界的な連帯こそが、希望である
- それに対して、資本主義社会で出世し「ガラスの天井」を破ることを目指す既存の「リーン・イン・フェミニズム」は絶対悪
- 筆者たちにとってあらゆる善は自分たちの側にあり、逆に資本主義に属するものはすべてが悪でしかないようだ
- 資本主義は、「社会的再生産」(social reproduction)にかかるコストを不当に安い値段で搾取し、社会全体の能力を食いつぶしているということだ
- このシステムは、家事や育児など人間の形成に関わる社会的再生産の活動なしには機能し得ない一方で、それにかかるコストを否認し、その経済的価値をほとんど認めようとしない
- 社会的再生産の仕事に必要な力は軽視され、補填必要がない無尽蔵の「贈与」だとみなされているということだ
- 現在の新自由主義のかたちをとった資本主義は、人間を生み出し、社会的つながりを維持する私たち全体の/個人の能力を体系的に枯渇させていく
- 「共働き世帯」が正当化する労働制度は、女性たちにとって解放でもなんでもなかった
- それは結局、強化された搾取と収奪のシステムでしかなく、どうじに、社会的再生産の深刻な危機の動力源でもあった
- 確かに現代では、女性の自立が謳われている
- だがその一方で。貧しい有色人種の女性たちは、共働きを成立させるために低賃金で家事を押し付けられたり劣悪環境の工場で働かざるを得なくなっているのだ
- (メイドを雇えるほど豊かではない)共働きの女性たちも、仕事以外に家事の負担が在ることには変わりはない
- 既存のフェミニズムは、結局のところ資本主義の搾取に加担しただけだったのだ
- 資本主義は、単なる経済のシステムではない
- それは、公的な経済を支えている「非経済的」な関係性や慣習を包み込む、一種の制度化された社会秩序である
- 私たちは、一種の普遍主義を提唱する
- 差異を矮小化したり消し去るのではなく、たがいの差異を真剣に受け止める普遍主義
- それはつねに途上にあり、つねに変化と議論に開かれ、連帯によってつねに新しく築き直される普遍主義である
電子化◯
現実感をなくして失うもの フェミニズム運動の例から ケイヒロ ハラオカヒサ
- 社会運動が人を利用し「運動のための運動」の道具にしてしまうその仕組みを描いているnote記事
- フェミニズム運動に限らず、抽象的な悪に対しての怒りを燃焼させつづけるため、ひたすら苦痛な情報を与え続ける運動のダークサイドの話
- なお、著者はそうした人の「解毒」にも挑戦しているし、相談も受け付けている
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国連が批判する日本の漫画の性表現 「風と木の詩」が扉を開けた
- BLや近親相姦などを表現したマンガの作者である、竹宮惠子などを取材したBBCNEWS JAPAN記事
- 「日本では女性が主体となった性表現が、男性向けのそれと同じくらい発展していることが、他国とは大きく違う特徴だ。
- その中には当然、『性暴力』表現も含まれる。
- 即ち、日本において『性暴力』表現を禁止することは、これまで営々と築かれてきた女性たちによるオールタナティブな性表現に対してもNOを突きつけることになるのだ
- 表現を『禁止』することによっては現実は変わらない。むしろ『性は危険でもありうる』ことを伝えることこそが現実を変えると信じて女性作家たちは表現してきた。その営為を止めてはならない。
- 「非実在児童に対する描写は、具体的に誰かの人権を侵害しているとは思えない。
- それを見て不快になる人の人権を侵害するというなら、その人が訴える権利や制度を整備すればいい。
- しかしどういう影響を与えるか分からない表現を、法律という強い権力で、元から取り締まってはいけない。
- 誰かが傷つくかもしれない、誰かが差別されるかもしれないという可能性を取り締まってはならない。
- 規制はどんどん拡大解釈されていくものだ」
- 物語を伝えるために、なぜ9歳の幼い少年に対する性暴力など、読んでいて辛い描写が必要だったのか。
- 竹宮さんは「現実にそういうことが起きるから。隠したところでなくならない。
- そういうことがあると認めざるを得ないのだと、伝えたいから。
- そして暴力を受けた少年たちの力強さを描きたかった。
- 性暴力を受けても、乗り越えていく人がいるということを知ってほしかった」と説明した。
- 「実際にそういう目に遭っている人が、私の漫画を読んで自分だけではないんだと、自分は独りではないと知り、この作品が私を救ってくれると書いてきた」と竹宮さんは言う。
- このファンレターの内容が本当かどうかは確かめようがなかった。しかし、人間の本能を否定することは決して答えにならないと竹宮さんは確信している。
- 「パンドラの箱を私が開けたのかもしれない。けれども箱を開けなくては、希望の光は出てこられなかったのです」
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孤独とセックス 坂爪真吾
- 成人男性の「孤独と性の悩み」への対応指南書
- 筆者の経験則であるため若干クセが強いし、真摯に問題と向き合っているし、「性犯罪者になる寸前だったがそうならなかった体験記」として貴重な本
- 異性とのセックスに全ての救済を求めていた筆者が「東大とセックスした!」という救済にたどり着くまでの過程は、読み物としてもそこそこ面白いと思う
サイボーグ・フェミニズム【増補版】 編・巽孝之 ダナ・ハラウェイ サミュエル・ディレイニー ジェシカ・アマンダ・サーモンスン
- トレヴィル社から刊行された『サイボーグ・フェミニズム』の増補復刻版
- フェミニズムの文脈で「サイボーグ」を語った記念碑的な論文「サイボーグ宣言」とその批判などが収められている
- 論文自体は、文脈が時代背景に依存していたりしていて読みにくいが、著者との対談など解説が充実しているので、歴史的意義は理解しやすい
- 「魔女」を自称する反戦フェミニストたちの示威手段「Witch-weavings(魔女特有の編み物活動)」や、サンフランシスコ・ベイエリアの「魔女」スターホークが始めた儀式スパイラル・ダンスが話に出てくるところも面白い
- それまで、あくまで生体が主体だったサイボーグを、ハラウェイは、有機体と機械の共生概念として再解釈した
- サイボーグは、二項対立的な世界観が崩壊した後の、多様化する情報化社会での主体のありようを説明するために、格好の引喩として持ち出されたのだ
- 「有機体と機械のハイブリッド。架空の生物であるとともに、現代社会の産物でもある」としたのだ
- 抗生物質の境界線を解体させられた異種混淆の状態において、両者はひとつの個体と認識され、その境界線は身体上においてもはや見極めることが難しい
- SF史におけるフェミニズムの重要さが記述されていたり、サイボーグSF『歌う船』の批評があったりもする
- ただし、批評はシリーズ第一作だけが対象なうえに、思想的偏りが強すぎて本来の文脈を無視しがちなところがあ
- ハラウェイが集積回路の女性たちというサイボーグ像として想定したモデルのひとつは、シリコンヴァレーで働く有色人女性
- 女性でしかも有色人という二重の抑圧構造のもとに居る彼女たちは、単に抑圧されていると断定されるのみの存在ではない
- その世界観は、とても単純なる被抑圧者像に集約されるものではなく、さまざまな政治的ネットワークによって規定される複雑な立場を占めることになる
- マイケル・コロスト『サイボーグとして生きる』にも(素人のものだが)この論文のわかりやすい解説がある
電子化×
坂爪真吾のPRESIDENT Online記事
- 重度身体障害者に対する射精介助サービスを行っている方の考察記事
- 個人的な恨みも入っているが、その記事はフェミニズムやミソジニーについて考えるには役立つだろう
- 『フェミニストが女性差別だけでなく支援団体にも怒りを抱く構造的理由』
- 女性の社会活動家の主語が大きい理由
- 社会問題の解決を目指す運動や事業の過程では、主語を意識して全体化していくことが欠かせない。
- フェミニズムには、「個人的なことは政治的なことである」という命題がある。
- 一見私的な悩み、プライベートな領域の問題だと思われている事柄の中に、実は社会的な差別や暴力、搾取の問題が隠れている、という考え方だ。
- 差別や暴力の被害者が「これは自分だけの問題だから」と考えて一人で苦しまないためにも、「あなたの苦しみは、私の苦しみである」「あなたに対する差別は、私たち全員に対する差別である」といった言い回しで仲間を増やし、連帯していく必要がある。
- その一方で、主語の全体化は、個人や問題の複雑性や多様性を捨象してしまう。
- 被害者が全体化されれば、加害者もまた全体化される。
- 結果として、事件とは無関係な相手や集団を「加害者」呼ばわりしてしまう事故が多発する。
- 本来であれば闘う必要のない相手や集団を「加害者」「性差別者」として認定・攻撃してしまうことで、問題の解決をより困難にしてしまう場合もある。
- 主語の全体化は、あくまで被害者の痛みを和らげるため、そして社会問題を解決するための便宜上の手段にすぎない。
- それ自体が目的や習慣になってしまうと、ただ「男が許せない」「女性差別が許せない」という怒りを都合よくたぎらせるために主語を全体化する、という本末転倒な状態になってしまう。
- 「禍福はあざなえる縄の如し」という格言があるが、被害者と加害者もまた、あざなえる縄の如く絡み合った存在だと言える。
- しかし、「何が差別に当たるか」に関する社会的同意は、マイノリティの一方的な宣言によって形成されるものでもなければ、マジョリティの一方的な反省によって形成されるものでもない。
- 「差別/被差別」「加害者/被害者」「搾取/被搾取」の線引きは、当事者間の関係性や社会状況といった文脈によって決まる、極めて流動的なものである。
リンク
ザッヘル=マゾッホ紹介 ジル・ドゥールズ
- マゾッホ論の古典であり、当時同一視されていたサドとマゾッホの思想を切り離した本
- サド論やフロイト批判、ラカンを踏まえた記述があるし、文章自体も分かりにくいが、マゾヒズム論としてはかなり的確な論に思える(自称マゾヒスト)
- マゾヒズムにおける拷問者の女性がサディストであり得ないのは(中略)まさしく彼女はマゾヒズム的な状況において必要不可欠な部分であり、マゾヒズムの幻想が実現された要素だからなのだ
- 彼女がサディストには決して見られない「サディズム」をもっているからであって、それはマゾヒズムの分身や反射としてのサディズムなのである
→アキラくんにとってのルウテト? - マゾヒストは、自分が受けた処罰の中に、じぶん自身を正当化してくれる理由、さらには法が禁止するとみなされていた快を味わうよう命ずる理由を、逆説的なしかたで発見するのだ
- マゾヒズムのユーモアは、欲望の実現を禁じ、それに違反するなら処罰を下すその同じ法がいまや、まず処罰を行い、その帰結として欲望を満足させるよう命ずる法となることだ
→ルウテトのアキラくんへの嗜虐的な処罰? - フロイト引用:興奮の拘束のみが、興奮を快へと「解消しうる」ようにする、それのみが興奮の放出を可能にする(『快原理の彼岸』)
- 《エロス》を構成するこの拘束を、私たちは「反復」として定義しうるし、またそうしなければならない
- すなわち興奮と連関する反復であり、生の瞬間の反復、あるいは単細胞生物にすら必要な結合の反復である
- 苦痛は、その使用法を条件づける反復形式との関係ではじめてその価値を獲得するのだ
- すなわち、いまや快のほうこそが、独立するおそるべき力能としての反復に随伴し、つきしたがうのである
→アキラくんとアズーリアのPTSD的なトラウマの無限再生、断章編とルウテトのループ?
さよならハラスメント 小島慶子
- 元女子アナの筆者による、楽しいインタビュー集
- さまざまな人と対談しながら、フェミニズムの観点からのハラスメント対策を考察している
- 筆者自身、男尊女卑的な価値観を内面化していたり、「面白さを引き出す才能を見せたい」「善意」から他人の性格をいじって自己アピールしていた過去があり、それを正直に告白しているのが良い
- 怒るのは悪いことか:桐野夏生
- 世間は、はっきりとした思想信条がある人よりも、なんとなくまともに見えそうな態度をとっておこうという人のほうが多いと思うんですよ
- 人ってオセロみたいなもので、黒ばっかりのところにシロが一人だと様子見だけど、それが二人になると急に間が全部ひっくり返って、黒の真ん中に白い線が通ったりする
- そこから連鎖反応的に景色が変わることはあると思うんです
- だから「まともに怒る人」がメジャーなメディアに複数登場することは大事だと思います
- テレビを「褒める」ことも大切
- ハラスメントは必要悪という「常識」を変えるような、ポジティブな視点で作られたものを褒めていくことも効果があると思う
- 批判ばっかりしてると制作サイドは縮こまるばっかり
- 近代の男性の呪い
- 女性に対する「優越志向」「所有志向」「権力志向」
- 差別的な言動が人気者になれるかのような人格を高めるように思えるかのような、不思議なメカニズム
- 人間は性別だけでなくいろんなものでできあがっている
- そういうふうに自分と他者を見ると、多くの物事が変わっていく
- そのためには、自分がハイブリッドだということに気づかないといけない
- 社会が加害者のケアをすると同時に、女性が男性の不安定さを理解することも大事
- 男性は自分のことを語らないので、もっと開示して欲しい
- 加害者に対して何が悪かったのか教えるべきだし、その後の更生プログラムをしっかり作っていくことが必要なんだけど、それが出来ていない
- 男らしさの呪いにかかった人に必要なのは、恩赦の方の赦し
- 弱音を吐くことを赦すこと
- 自分の弱さを直視するということのチャンスを与えないといけない
- 男性たちが今いろんな矛盾を抱えているということを、まず男性に気が付かせる
- で、その弱さを攻撃に転化せずに他者と共存する力を男性がどう見つけるかということです
- 母への恨みを乗り越えた経験
- 最終的には母の抱えた生きづらさと自分の生き辛さの共通点が見えてきて、親を客観視するところに至りました
- 自分が苦しんだということを自覚し、苦しいと表明することを自分に赦せたということ
- それから母も苦しいと言えなかったんだということを発見する
- 同じように母親に対する恨みを抱えながら、まったく言語化出来ていない男性たちがたくさんいる気がする
- そして、その彼らの抑圧された母への怒りのようなものが、私たち女性に向けられているような
- 母の過剰な保護と父の不在への怒り
- 彼らが平和裏に母殺しを成し遂げてソフトランディングするためにはどうすればいいんだろうとずっと考えています
- こわがらなくていいんだよ
- 現状変えても、変わっても良いんだよ、批判の目を自分に向けてもいい
- 男性は支配欲だけではなくて女性に依存している
- パートナーに「セックスできるママ」を求めている
- ならいっそ、ママを求めずにはいられない弱い自分がいることを認めても良いんだと、きちんと彼らに伝えるべきだと思うんです
→ルウテト、トリシューラのママ否定
- 基本的には、絵に書いたような対等な男女関係なんてないと思う
- 対等って、コミュニケーションの回路が閉ざされていないとき、つまり、相手に対してある程度自分のことが言えて、相手のことが聞けるということで生まれるもの
- それは差別やないかと思ったときに、それを指摘できるようなコミュニケーションなら、ある程度対等と言える関係が成立するのではないかと思う
- 小島:男を値踏みする女と、男を見下す男が自分の中にいる
- 女性は男性のことをかなりひどく言っても許されてきた
- でもそれは、女性が弱者である前提があるから成り立つ
- 男性優位社会を変えていくには、女性が男性に対する偏見を自覚して、自分は被害者であり加害者でもあったということを認めないといけない
- 不完全性をむしろ許容する
- ピュアを目指しすぎずに多様なもののより集まりの中で生きる生き方みたいなものが、特に男性には必要なんじゃないかな
- みんなそれぞれ不完全だけど、いいところをシェアしあって、ゆるくつながる感じが心地良い
- アルコール依存症のミーティング
- 実は弱さをオープンにすることが、他の人の力に、エンパワーになるんだ
- 人とつながるひとつの方法
- その自分の体験がほかの人の力になる
電子化×
「支配しない男」になる 別姓結婚・育児・DV被害者支援を通して 沼崎一郎
- さまざまな経験を経て、フェミニズムに目覚めた男性の話
- 本人の感情描写は薄いが、「産ませる性」としての「男性にとってのリプロダクティブ・ライツ」という視点があるのが、独特で良い
- ただ筆者は、男女の身体的能力差も、ジェンダーが全て決定しているという過激な社会構築説を信奉しており、そこは受け付けない人も多いかもしれない
- 職場の化学物質が、男性に媒介されて女性と胎児に影響を与えるなら、男性もリプロダクティブ・ヘルスを守られるべき
- その責任が、企業にはあるはず
- 男性には、女性と子供の「権利を守る義務」が課される
- しかし、義務を果たすにはそれなりの資源が必要だ
- 経済的・社会的・政治的なサポート体制がなければ、「権利を守る義務」を果たすことは出来ない
- 男性が、個人として、あるいはカップルとして「子供の数と、出産の間隔、そして時間を自由にかつ責任をもって決定すること」ができるためには、
- つまり、男性が生殖義務を果たすためには、国家と企業が経済的・社会的・政治的環境を変革し、男性に「義務を果たす権利」を保障することが、求められる
電子化×
- つまり、男性が生殖義務を果たすためには、国家と企業が経済的・社会的・政治的環境を変革し、男性に「義務を果たす権利」を保障することが、求められる
芝原氏と青識亜論の四夜対談(フェミニズムと正義を巡る「議論」に関する議論)
- 表現の自由派のネット論客「青識亜論」(せいしき・あろん)氏と、表現を攻撃するフェミニストを擁護する「芝原めい」氏のtwitter議論
- 論理と定義にこだわる二人の話はやや読みにくいが、感情論の必要性、対話を放棄した攻撃で正義を通す方法論の肯定など、
- 出てくる話題は、これらの問題にとってかなり重要なものである
- 結局のところ、議論は合意を得られず平行線に終わったのだが、
- それでも、対立する陣営の二人がこれほど対話と相互理解を行えた例はめったにない
- そして、これらの議論によって、「理屈に合わなくても嫌なものを排除するのは正しいこと」という、
- 芝原氏たちフェミニスト(の表現規制派の一部)の価値観それ自体が、
- 反差別を掲げる彼女たち自身にとって最悪の敵であることは、より明らかになったように思える
- はたして、それがこれからの社会において、深刻な分断と女性差別をかえって強めるような結果をもたらしてしまうのかどうか……
- それは、彼女たちと我々次第なのだろう
togetterまとめ
証言現代の性暴力とポルノ被害 ポルノ被害と性暴力を考える会
- ポルノ規制派の(一部)の思想がよく分かる本
- この本を出した団体は、暴力ポルノで有名な監督・バクシーシ山下の著書『ひとはみな、ハダカになる』が、児童文学で知られる出版社から売られたことへの抗議活動から始まったもの
- 男性が虐待されるポルノグラフィもまた、支配と従属をエロチックにするという男性的なセクシャリティと結びついているとするなど、その規制基準は独自の【邪視】にもとづく
- ポルノの暴力性についての記述は豊富だが、性のアブノーマルや危険な要素についての考察、ポルノを滅ぼした後にそれを求める欲望にどう対応するのかという対策、代わりのロールモデル準備などの視点に欠けている
- 「人間性を投げ捨てる自由」や性と人間のアブノーマルな部分に対する見識がないのも、気がかり
- また、ポルノを排除する手本として、児童図書関連の雑誌の表紙から「パイプをくゆらすおじいさん」が削除された嫌煙の事例を挙げているが、そのファシズム性を感じ取れていないあたり、その問題意識はかなり危うい
- ポルノ被害を新しく定義し分類しているが、その「被害」はかなり広範囲にわたるため、全てを防ぐには強大な権力を必要とするだろう
小説の生存戦略 ライトノベル・メディア・ジェンダー:ライトノベルは性的消費か? 大橋崇行/ヤマナカ智省
「小児性愛」という病 ――それは、愛ではない 斎藤章佳
- 依存症施設で勤務していたソーシャルワーカー(精神保健福祉士)が、治療現場での経験と印象をもとにして書いた本
- 子どもへ性加害をする犯罪者の「認知の歪み」の恐ろしさ、その治療の必要性を強く訴えている
- 加害者の実態が記述されているうえに、自助グループで更生を志している、子どもへの性加害経経験者へのインタビューもあるのが良い
- 性犯罪者の治療方法の改善についても、具体的に提言している
- 男児への性加害にも触れているし、海外の性犯罪再犯防止策も少しだが紹介している
- ただ、データが逮捕された犯罪者や著者が知っている犯罪者だけに偏っているため、犯罪者でない小児性愛者についての判断材料としては使えないだろう
- ポルノの犯罪への影響についてもデータが全く無く「テレビで誰がが話していた」どまりとなっている
- また、筆者には、依存症や性犯罪者の恐ろしさを強調するあまり、実写の児童ポルノとマンガなどのフィクションを区別しないどころか、積極的に同一視していこうとする傾向がある
- その反面、積極的に自己の治療に専念しようとする小児性犯罪者には寛容であり、あくまで治療に専念しようとする姿勢もある
- 子どもに性加害をするものは「小児性愛障害」であり、それにはアディクション(依存症)の側面もある
- 虐待を受けて小児へ性加害をするのは少数派、多数派は、ふとしたきっかけで依存症になる
- 子供と日常的に触れ合うようになって、はじめて子どもへの性嗜好を自覚したものも
- 依存症は、意思が弱い人やだらしのない人だけがかかるものではない
- 依存するきっかけは、誰にでも起こりうる
- それは、自分で解決できず相談もしにくい
- 依存症には「死なないために依存する」サバイバルスキルとしての側面がある
- 原因と責任の区別
- 回復責任/再発防止責任
- トラウマ追求しても悪化するだけ、まずは行動の矯正が必要
- 小児性愛障害という精神疾患に陥った事自体には責任はないが、治療という義務を果たさないのは本人の罪・責任
- 逆境体験もないまま小児性愛者になるものもいる
- それなのに常に5%の男性が小児性愛障害者になることには、私はそこに社会からの影響を見ずにはいられない
→それだけ安定して出現するものなら、逆に遺伝子の突然変異などの要因も大きいと考えるべきでは?
- それなのに常に5%の男性が小児性愛障害者になることには、私はそこに社会からの影響を見ずにはいられない
- 児童ポルノを見ているからといって、現実の子どもに加害をするとは限らない――これは断言できます
- しかしそれを理由に、加害者らが100%に近い割合で児童ポルノを見ていたという事実を矮小化することはできません
- 児童ポルノを愛好するほとんどの人が現実とファンタジーの区別がついても、そのなかから1人でも現実に加害をする者が出てくれば、それは対策が必要だということです
- 子ども(にしか見えない者)を性的対象としていい、性行為をしていいという認知を持つ者が少なからずいる社会は、子どもにとって安全に生きられる社会ではありません
→因果関係と相関関係の取り違えでは?連続殺人鬼がみんなスプラッター映画見ていたらそれも規制すべき?不倫や戦争を描いた作品も?
- 認知が歪んでいくと、実際に加害行為を「する」のと「しない」とのあいだにある溝はどんどん埋まっていく
→逆に埋まるのなら「しない」でも「した」のと同じ満足感を得て、犯罪行動をしなくなるという可能性もあるのでは? - 性暴力には、男尊女卑社会の問題が集約しています
- これは裏を返せば、日本社会に男性と女性は対等であるという考えが浸透し、男性が「常に優位でいなければならない」という脅迫的な思い込みから解放される日がくれば、この国の性暴力は減るということです
- 弱く小さいものを賛美する「かわいい」という言葉は、未熟な余生を再生産し、ひいては性加害につながる
- 未熟な女性を評価し、再生産しようとする男性たちと、自分を決して脅かさない存在である子どもに「受け入れられたい」と願う小児性愛障害者らとの違いは、もしかすると紙一重しかないのかもしれません
→どのみち男性の方が強者であるなら、女性が相対的に弱者で未熟として捉えられるのは避けがたいのでは?それを愛することを防げば、競争社会の迫害しか残らないのでは?
- すべての人はそのパーソナリティに「加害者性」が潜在している
- 内面の問題を他者、弱い者への(精神的)暴力で解消しようとすること自体には、男女差はそれほど無いように思います
- しかし、女性と男性の「自分より弱い者」の数には絶対的な差があるし、女性の方が男性より性的にも弱い
- 「自分はいざとなったらそうしてしまう可能性がある」ということに多くの男性はあまりに無自覚です
- すべての男性が、ときどき立ち止まって自分の中にも(子どもへの性暴力の)芽があるのではないかと問いかける必要があるということです
- 「自分は何があっても絶対に、弱いものに対して暴力的にならない」と断言する人ほど、リスクが高いと私は考えます
- 社会内での治療
- 医療・教育・福祉の三つのアプローチを組み合わせる
より専門的な知識などは、原田隆行『痴漢外来』を参照のこと
電子化○
- 医療・教育・福祉の三つのアプローチを組み合わせる
神聖受胎 澁澤龍彦
新編 日本のフェミニズム
- 日本のフェミニズムの財産目録を目指して作られたアンソロジー集
- 参考文献・読書案内も豊富で、全集というより資料を探すための索引としての傾向が強い
- 『5 母性』
- 優生保護法の改悪阻止運動などだけでなく、「三歳児神話」が「人づくり」のために政策で作られてきたことなど、丹念な取材をうかがわせる詳しい内容となっている
- 国のために、(職業的に)自らの首をしめる受胎調節の指導に駆り出さえた産婆など、女性たちの談話が載っている
電子化×
性愛 大人の心と身体を理解してますか 渥美雅子 村瀬幸治
- 講談もやる女性弁護士と、性教育の専門家である男性大学講師による、書簡形式の対話集
- エロス以外の季節感豊かな話題に加え「不倫をしたことがありますか?」や「セルフプレジャー(オナニー)は必要」など、大人同士のガチなトークが繰り広げられている
- 貧困のために日本で売春をするしかなかった女性たちや、男友達だけで心中した社長たち、DVや母子不分離、オランダの公費による障害者向けの性的サービス事業など話題も幅広くて楽しい
- 男と女が、死ぬのでもなく、恨むのでもなく、へこたれずしたたかに人間を生きる、そうした取り組み
- 日本人は、性を相手の人との”関係”を育てながら、快楽と結びつけて肯定的に考えたり学んだりしてこなかった
- 生涯を通じた教育によって、セックスを「暴力と支配のイメージや意識」から「強調とコミュニケーションのイメージ、意識」に切り替えなければならない
- (互いに相手の気持に配慮しあって)快感を得たい、与えたいという願いを持つこと、それはとても大切な人間的な願いであって、それを「いやらしい」とか言って相手を非難、攻撃するようなことは相手の人間、人格への侮辱だと思います
- 女性にとっては、日常生活全部が前技であり、そこで良好な関係が築けてなければセックスなど論外(要約)
- オーガズムは良いワインを造るようにじっくりと時間をかけ、手順を踏んで創りあげてゆくもの、そうやって初めて味わうことのできる「祭りの時間」
→聖婚などアリュージョニストいろいろ - 暴力は、相手の原論や存在を力によって押さえ込み支配しようとする行為”敗者の行為””コンプレックスの表現”
→イアテムなど - 重い障がい者男性:人生にとっての性(セックス):肉体的精神的にくつろげ自己を再確認できるという意味で性は重要です。
- とくに自分で体を動かすことが出来ない人にとって性的接触は自分の体を肯定的にとらえるチャンスです
性愛論 橋爪大三郎
- 性や性愛の問題を考察している論考
- フェミニズムが陥っている行き詰まりを打破することを目的としており、誰にでも届くニュートラルな言葉(フェミニズムではない文体)を使って語られている
- その内容は、「ひとはなぜ愛するか」に始まり、「わいせつ」についての考察、性愛観の変遷の歴史振り返り、そしてフェミニズムが陥った陥穽についての分析へと至る
- 特に、性愛観に「神という絶対の空白を中心とする愛の関係」を持ち込み、主体を創り出したとされるイエスの言葉の分析が面白い
- ただ、もともと1982~95年ごろに発表した論文や書籍をリメイクしたものなので、その言説の古さは否めない
- フーコー『性の歴史』や近年の科学の発展、LGBTQの研究の成果なども反映されていないため、現在から見ると見当外れに思える部分もある
- けれど、それでも著者が独自に行った考察であることの価値もまた、確かであり大澤真幸と上野千鶴子という二人の社会学者の解説がそれを裏付けている
- 最終的に著者は、性愛世界については、その彼岸(世界のそれ以外の部分・権力論と言語論)の考察が不可欠でありそれが終わるまで真実はわからない、という結論に達する
- だが、それが判明しただけでも、それまでの考察には十分意義があったと言えるのではないだろうか?
- 精神の営みである愛は、どこかで肉体と接続している
- 性愛の特異な点は、相手も自分と同じ権利で自分(の体)を欲しているということを受け容れなければ、成り立たないということ
- 性愛の場では自己中心性がいわば「実践的に乗り越え」られるのである
→『正しい聖婚』?
- 猥褻の両価性:一方では、性にまつわる否定的・反価値的な情緒反応の発露で迎えられ、しばしば人倫に抵触する攻撃的な反社会性のしるしとされる
- 反面、他方では、性愛の対象に向かう積極的なエネルギーと相関する、およそ良いものとして思い描かれる
- 性愛領域=性的な相互作用が優位を占める、身体の相互性の至近域
- 性愛領域を、社会関係の独自で特異な領域として発見し確定することで、猥褻の諸問題を解きほぐすことが出来る
- ワイセツ現象は、文脈の取り違え、すなわち、性愛領域の事象を公然領域(非性愛領域)の側へ取り出すことによって成立している
- ワイセツを見出す視線は、必ずこの非性愛領域の側にあるのだ
→『邪視』?
- ワイセツを見出す視線は、必ずこの非性愛領域の側にあるのだ
- 性や性愛の領域に人びとの注意を向けさせ、考察を深めさせたのは、フェミニズムの非情に大きな功績の一つだった
電子化◯
性と聖 性の精神文化史 クリフォード・ビショップ
- さまざまな文化における性的な要素をまとめた本
- 一つ一つの項目は短いが、結婚から魂、狩り、ネクロフィリアなど扱われている要素は多岐にわたる
- フロイトなど西洋近代の記述も少しある
電子化×
聖なる快楽 リーアン・アイスラー
- 西洋史の歴史書『聖杯と剣』のテーマを発展させたもの
- 現代の世界は、支配形態の世界観に支配されているとして、古代に遡って協調形態の世界観への移行を目指す本
- 暴力と支配をエロティシズム化するのではなく、エロティックなものを霊化する世界、暴力と苦痛を通じての救いという神話ではなく、いたわりと快楽を通じての救いという神話を目指し
- 盲従、苦悩、自己卑下を要求する神が居ない未来を描いている
- また、聖婚を協調形態の世界観ならではのものとして肯定している
- 精子と卵子の結合に対する記述なども、支配的・攻撃的なステレオタイプに支配されている
- 生物学には、サイバネティクスという別のモデル(見方)が存在するのだから、そちらを採用するべき
- 精子は「モリを打つ」ではなく「橋をかける」や「糸を投げる」と表現することが出来る
先達の御意見 酒井順子
- 三十代未婚女性のわだかまりを書いたベストセラー『負け犬の遠吠え』の著者による対談集
- 刊行2005年の古い本だが、様々な価値観を持つ女性たちとの本音ぶっちゃけ赤裸々トークは、勝ち犬負け犬女性男性問わずに参考になる・・・かも?
- 「負け犬」は、勝ち負けとは関係なくて、偶然そういった状況になっただけ
- 人生は、勝ち負けで測られるのではなくて、自分が満足しているかどうかじゃないかと思う
- 勝ち負けには、ユーモアがない
- 仕事や本が負け犬の子ども
戦闘美少女の精神分析 斎藤環
- オタク論の古典のひとつ
- 「萌え」を実感できない筆者は、戦闘美少女を「もう一つの現実」に「セクシュアリティの磁場」をもってリアリティをもたらす存在であると定義し受け入れている
→コルセスカ? - 戦闘美少女=ファリック・ガールは外傷や必然性なしに戦闘力を与えられた空虚な存在であり、異世界を媒介する巫女あるいはメディアである
- 戦闘美少女の発揮する力は、彼女の主体が操るものではなく、異世界感ではたらく一種の斥力のような作用を体現しているのではないか
- 「空虚であること」によって欲望やエネルギーを媒介する女性=力動精神医学における「ヒステリー」
- 「無根拠であること」こそがマンガ・アニメという徹底した虚構空間の中では逆説的なリアリティを発生させる
→シナモリアキラ?
- 筆者は、この本におけるアイディアを『キャラクター精神分析』などの後の著書で発展させている
第二の性 決定版 ボーヴォワール
- 「女性はいかにして女性となるか」を追求したフェミニズムの古典
- その実態は「女性を主題とした博物誌」とでも言うべきものであり、歴史や神話、文学から女性の一生まで、女性のあらゆることに対して言及している本である
- 実存主義の用語が多く、解読には注釈だけでなく、巻末の用語解説を必要とする
- その範囲は、性のめざめから思春期の同性愛的なふるまい、信仰の性的な面、そして新婚初夜などの失望が一生尾を引くさまにまで及んでおり、抜粋すればそのまま性教育のサブテキストにも使えそうなほどだ
- これは科学的なデータに基づいた本ではないし、やたらと文章の主語は大きいが、文学や精神病患者の記録を元にしたその言葉には、異様な説得力がある
- その説得力は、「女性差別によって生じた」とされるあらゆる女性の苦しみと、女性がもたらすさまざまな加害を伝えるためにあり、
- ひいては、そうした苦しみを無くすためには、男女の対立と女性差別を無くすことが必要である訴えている
- 現代から見て、この本の最大の特徴は「女性も加害者側に回ることがある」ということを、はっきりと認めていることだと思われる
- もちろん、最終的には男性たちが構築したシステムに責任がある、としてはいるが、その加害の描写は克明であり、男性個人には責任がないケースもあることもしっかり言及している
- そもそも、歴史的に女性が差別されるようになったのも、(相対的に)肉体が虚弱なため当時の仕事で男性と対等になれなかったためだとしており、
- そこには男性を「悪意をもった上位階級」として憎むような視点がほとんど存在しないのだ
- ただ、ボーヴォワールの論旨にも、3つほど問題が見受けられる
- まず、彼女は、その実存主義哲学の立場から女性差別問題を分析しているのだが、
- それは要するに、成長と自立を求める「超越」が善、そうではない「内在」にとどまる依存や停滞は、悪だとするものだ
- この立場から言えば、当然、愛され女子となることに熱中して学業や仕事の手を抜いたり、玉の輿を狙って実力以上の収入や地位を得ようとするようなタイプの女性の行動は、否定される
- ボーヴォワールは、男女平等が実現すればそうした生き方のメリットはなくなり、性行為も金になる「勤め」にはならなくなるだろう、と予想してはいるのだが……
- はたして本当に、そうした日は来るのだろうか?
- 現在、上位階級との上方婚は、魅力と労働能力が別カウントされる女性にとって、まだまだ固有の選択肢として存在している
- 更に言えば、妊娠・出産において労働能力を失わざるを得ない女性にとって、その間の母子の生存を保証するための収入は、不可欠なものだ
- たとえ男性と同等の収入を得られる時代となっても、女性にこの不利な点がある以上、結婚相手は自分より高い収入を得られる相手であるに越したことはない
- それは、この21世紀においても否定できない現実である
- 加えて、ボーヴォワールは、男性社会に抑圧され「内在」にとどまった依存的な立場を強要されているために、女性たちが有害な存在になってしまっている姿を多く描いている
- 善悪二元論的で単純有害な政治観による行動、反対のための反対でしかない政治運動、余暇を費やすためだけの慈善活動、そして子どもの甘やかしと(自分が受けた)女性差別的な教育の再生産……
- 彼女の主張では、これらの問題は、女性が男性と全く同等に扱われれば、たちどころに解決する容易な事柄だ
- だが残念なことに、これは女性差別が解消したところで、完全に解決する問題ではなさそうなのだ
- そもそも、彼女自身が言及しているように、男性にも「内在」に留まって同様の振る舞いをする者も非常に多い
- つまり、そうした振る舞いは別に性別に限定されるものではないのだ
- そして最後にして最も重要な問題は、ボーヴォワールが奉じる実存主義哲学が、果たして本当に問題を解決できるのかということである
- 実存主義は、もはや現代では人気を失い、その存在すら忘れ去られている
- まず、彼女は、その実存主義哲学の立場から女性差別問題を分析しているのだが、
- 真にボーヴォワールの夢見た未来を実現させるためには、まず第一の問題への対応として、妊娠・出産時に高収入な夫がいなくても生活が保証される制度が必要であろう
- そして残りの問題を完全に解消させるためには、実存主義哲学の理想通りに「超越」的な生き方をする者が、もっと増えなければならないだろう
- それら、彼女の理想を完成させるという宿題は、いまだ我々に課せられた責務として残されたままなのである
- 真の男女平等のためにクリアしなければならない条件は、まだまだ多く、その解決策はいまだ未知のままなのだ……
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男子の性教育 柔らかな関係づくりのために 村瀬幸治
- 男女のあいだに「柔らかな関係」を作るため、男子に自分の性を肯定する考え方を教えている本
- データに基づき、対等な目線でやさしく語りかける文章が、とてもいい
- また、射精に関する誤解の訂正、男子の性被害、セルフプレジャー(オナニー)の独自価値、ふれあい・交流による「快楽の性」などにも触れており、教材として役立ちそうな点も多い
- 授業を受けた学生たちのインタビューや性教育のこれまでこれからの一覧表もある
- 柔らかな関係づくり=自分と相手の姓を尊重し、柔らかく関わっていく力
- 「自らの性(性器を含むからだ、性的欲求、マスターベーションも含む性的ふるまいなど)に肯定的になれないと、相手の性、人間の性そのものに対して肯定的になりにくいのではないか
- 相手の性に対し優しく肯定的に対応するには、自らの性をよきものとする肯定的な理解が必要不可欠なのではないか、ということである
- 男子のかなりの割合に自らの性に対する嫌悪感、忌避感、不潔感、コンプレックスなどがある
- 自体愛・自己快楽/相手とする「相互愛」:それぞれが独自の意味と価値を持つ性行為であり、どちらかの代替行為ではない
- セルフプレジャーは必要悪ではなく価値ある行為
- セルフプレジャーによって自分の性・性器の感覚をよくわかっている方が、メイク・ラブにおいて自分の感覚の好悪を相手に伝えることが出来、そのことでより楽しく深いセクシュアル・コミュニケーションが成り立つ可能性が大きくなる
- 性欲が沸き起こるのは、本能ではなく生理現象である
- 意思や理性で消し止めることは出来ないが、しかし、人間は誰しも生理的欲求のままに行動するわけではない
- 欲求はコントロールできないが行動はコントロールできるのだ
- 私たちは長い人生を生きる中でいつもセックスパートナーが居るとは限らない。
- 結婚していても、相手にセックスに応じる義務はないし、生涯の間にセックス・パートナーがいない時間のほうがずっと長い
- 我慢するよりほかないではなく、自分の性欲を自分で管理して手なづけて管理することを当たり前と考えたほうが健康的
- そのセルフプレジャーも、いつも写生しなければならないという義務感から自らを開放していくべき
- 「性の快感」を射精のみに重点化するのは、性生活のあり方を帰って窮屈にし、互いに追い詰めてしまうのではないか
- 性の問題は相互関係であって、お互い性の知識を深め相手の性を知ることが大事
- 性には多様な側面があり、多様な性がある
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男性権力の神話 《男性差別》の可視化と撤廃のための学問 ワレン・ファレル
- 「男性が受けている性差別」の被害を主張することで、女性だけを被害者にする現代社会に問題を提起している本
- (今の社会で当然視されてている)男性だけが負う兵役や犯罪被害などを問題化し、男女両性が真に平等な社会を作るべきだと、データに基づいて主張している
- 女性が受けると酷い扱いとして社会問題になるものが、対象が男性だと問題にならないのはなぜだろうか?
- 抑圧されてきたのは女性だけではない
- 男女両性が、彼ら自身を異なった方法で、異性の「奴隷」にしてきたのだ
- 結婚は、生きるのがやっとだったステージⅠの時代から、ステージⅡへと移行してきた
- かつては、女性はお金を稼ぎ良く保護してくれることを、男性は家事と子供の世話をしてくれることを愛と呼ぶ労働の分化の時代だった
- だが、ステージⅡの時代となると、愛は共通の興味関心と共通の価値観を意味するようになった
- 女性は再定義された愛を求めて尊敬や承認を要求できるるようになってきたが、男性がそれを求めることは「中年期の危機」と呼ばれ否定される
- また、男女両性において、ステージⅡに必要な人間関係言語のトレーニングが不足している
- そのトレーニングでは、女性が自分にあまり興味がない男性を誘うことを学ぶのと同様に、男性は「ノー」を使う重要さを学ぶだろう
- デートレイプのすべての解決方法は、犯罪化ではなく再社会化だ
- 男性が私達の社会で引っ張っていくものである限り、男性は私達の社会のレイピストでありつづけるだろう
- もし私たちがレイプを減らしたいと思うなら、私たちの法律は教育においてジェンダーの変化や異性の理解を学ばせる必要がある
- そして魅力のあまりない少女が提供しなければならないものに少年は感謝する教育を受け、それによって美への中毒が減り、少女の本質への少年の興味が増えるだろう
- フェミニズムの欠陥は、支配と性差別が一方通行のものであるという前提である
- フェミニズムは、この点で非常に伝統的な運動であった
- 男性が責任を負い、何が起こっているのかを知るべきであり、女性は責任をとらないという根本的な信念を保持した
- その信念は(本当かどうかは別として)女性が本質的に劣るか、または愚かであることを含意している
- 女性解放運動に対する皮肉な立場だ
- しかし、おそらく重要なことだが、男性が女性の束縛に責任を負うという信仰は、王子が彼女を救出するだろうという信仰の裏返しである
- 実際は、過去において男女両性が次世代を生存させるために、性役割を行うことに束縛されていた
- 権力、家父長制、支配、性差別は、実際は男性の使い捨てを表す言葉ではないのだろうか?
- パトリアーキー(男性支配)は、男女の生存に必要であったため、男女によって強化された文化内の優位性、責任、搾取の男性領域と定義できる
- リーダーが女性でも、戦闘で犠牲になった兵士のほぼ100%が男性だったのは変わらない
- 男性は多くの場合、十分な食料があり、十分な水があり、攻撃から彼らを隔離できていると考えられる社会において、非暴力的になる
- 男性が人を殺す必要がないとき、女性は人を殺す男性をあまり選ばなくなり、そして男性はあまり殺さなくなる
- 男性への暴力の目的の一つが女性への保護であるため、私たちは男性への暴力を称賛し、女性への暴力を非難する
電子化×
男性的なもの/女性的なもの フランソワーズ・エリチエ
- レヴィ・ストロースの後継者と言われた女性人類学者による、女性差別の起源についての説と差別への対策をまとめた二巻組みの本
- 男女の示差的原初価、つまりあらゆる文化において、太陽と月、熱と冷、天と地のように、全てのものは男と女の二極に分類され、その価値は序列づけられる
- これらの対立は非常に強固であり、男性的なものと女性的なものの区別を可能にしているが、優位な極は常に男性的なものに、劣位な極は女性的なものに結び付けられるのだ
- 男性も女性も何千年も前からの古い表象体系の犠牲者だという事実を生きているのである
- したがって、男女がともにこの体型を変える努力をすることが重要である
- 女性だけが持つ出産能力、男性にはない「法外な能力」にこそ、序列の原因がある
- 女性は自分と同じもの(娘)だけでなく、自分と異なるもの(息子)までも生むことが出来る
- これに対して、男性は女性の体を介することによってしか、自分と同じものを作ることが出来ない
- この不公平、この不思議を乗り越えるために、男性は自分たちの無能力を補うために女性の出産能力を占有する必要があった
- こうして、男性は生殖における男性的要素の優位に根ざした象徴体系を作り上げたのであり、この体系が女性の従属をもたらし、人間の思考の基盤を作り上げたのである
- したがって、女性の体の自由の獲得、つまり避妊の権利の獲得こそが、男女の示差的原初価に基づいて築かれた男性支配から脱却するための主要な手段となるのだ
- クローン技術などで、男性が息子を作り女性が娘をつくることになるならば、社会は存続不可能になるだろう
- もはや再生産のために、他者の身体の助けを借りる必要がなくなり、その結果、異なる血族集団に属する男女の性的出会いによる社会的絆は失われることになるだろう
- 男性クローンは、卵細胞と子宮を提供する女性の体を大量に必要とすることになる
- それは、男性が自分と同じものを再生産できるように、女性が卵細胞を生産するだけの役割に追いやられることを意味している
- そうなれば、女性の体は完全に道具化され、男性の幻想の実現のために隷属させられてしまうだろう
男性同盟と母権制神話 カール・シュミットとドイツの宿命 ニコラウス・ゾンバルト
- ドイツの思想家カール・シュミットや彼に似通っていると思われる人物たちを通じて、ドイツを支配した思想を分析している本
- その内容は、筆者の【邪視】であり裏付けとなるデータなどはほとんど無いが、一つの解釈としてはアリかもしれない。
- 定義があいまいな「軍人」対「市民」の構図、「女々しい男性」や「ホモセクシュアル」「平和主義者」への憎悪、「友」と「敵」の区別、それらの背後には、性的抑圧から来る近親憎悪や女性性に対する恐怖があった
- 血液神聖説:血によって人間は罪を負うのであり、血によって人間は救済される
- 犠牲は無垢であるほど、象徴的な贖罪の機能にふさわしい
- 国家主義者の理想は、「無性化した人間」宦官と子宮を摘出した女性だった
- 彼らが恐れたのは、性の解放やそれによる女の解放、そして「カオス」「アナーキー」「女による支配」「自由な愛」を渾然一体と溶け合わせた「天上的な原始状態」すなわち「母権制」である
- 『テオドーア・ドイブラーの『北極光』』:シュミットの秘め隠した思想の現れ、両極である男性と女性の融和を描いた詩『北極光』、その意義を示唆したエッセイ
- ヨーゼフ・フォン・ゲレス「ヘルマフロディテ(=ヘルマフロディテス)は、人類の課題である
中絶技術とリプロダクティヴ・ライツ 塚原久美
- より女性の心情を汲み取った中絶、ひいては、もっと女性の自主性と選択を尊重した社会を実現するための方法を提言している本
- 日本と海外、それぞれの中絶の文化や技術進歩の歴史・実態の比較、そしてフェミニスト倫理の歴史を分かりやすくまとめている
- 加藤尚武編訳『バイオエシックスの基礎』における論文の削除など、日本の生命倫理学の問題点についても解説していて参考になる
- 文章はほとんど専門書だが、巻末の用語集や注、索引、写真や図が充実しているので、素人でもあまり苦労せずに読み解くことが出来る
- 特に「視座」(観点)の問題についてこだわっているのが、大きな特徴
- その主張に置いて著者は、中絶関連の選択は、女性側の視座にのっとって行われるべき、と主張している
- (多くの)女性たちにとって、流産や中絶の大半は妊娠初期に行われるため、排出される胚は、「重い月経」「血の塊」にしか見えない
- だが、それに対して中絶反対派は、いわば偽物の「成長過程の写真」による胎児の可視化(と妊婦の不可視化)で、偽りの中絶イメージを広めているのだ
- つまり、筆者の主張するところによれば、反中絶派が持ち出す「胎児と妊婦」の対立などは、女性たちの視座に立脚しないネガティブなプロパガンダである
- それは、実在せず、否定されるべき虚像に過ぎないのである
- また、生殖コントロールの科学と技術の章では、中絶技術の進歩を、女性たちが自主性を手に入れる勝利の歴史として描いており
- 非医師の堕胎師や女性たちががった道具や方法が人気を博していくその描写が、文章に明るさと一種の清潔さをもたらしている
- また、日本の中絶の実情分析で医者側の心情のことまで考えるなど、そのカバーしている範囲や問題を捉える視野も広い
- 反中絶の派閥に属していたのに、冷静に判断して中立的な判断を下した男性がいたという貴重な事例の記述もある
- クープ公衆衛生局長は、レーガン大統領によって、中絶を受けた女性の精神悪化を立証するための調査を命じられた
- だが彼は、プロライフ的な信念の持ち主であるにも関わらず、中絶が女性の精神衛生に悪いとも悪くないとも断言できないと結論したのだ
- ただ、この本にも一つだけ難点がある
- 弱者としての女性の擁護に集中するあまり、そうしたフェミニスト倫理を実行していくうえで生じてしまう矛盾にまではあまり目が行き届いていない説も、引用されているのだ
- その矛盾とは、二つの「個人」像の食い違いである
- 一つ目は「ケア社会の個人像」とでも言うべきもの
- 筆者は、日本の中絶実情の章やリプ(中略)ライツの話では、個人の決断には社会の精神・制度面におけるサポートが前提として不可欠だと語っている
- これは、「自立した個人」には実は依存が不可欠なのだとする「ケアの倫理」に通じる話であり、ここでは各個人へのサポートは社会とその成員にとっての当然の義務である
- そして二つ目は「近代的な個人像」と呼ぶべきものであり、これは前者が乗り越えようとしているより古いイメージなのである
- 紹介されているフェミニストの論の中にあるこちらの概念では、個人は誰にも依存しないことがデフォルトの姿であり、依存とは悪である
- ただ、これはこれで、妊婦に対する国家や男性の干渉への対抗や、妊娠と同時に女性が突然抱えてしまう(肉体に対しての)自己決定権の損傷への反発としては当然の思想ではある
- だが、この二つの「個人」のあり方に対するイメージは、相容れないものなのだ
- 胚や社会に依存・干渉されることを嫌悪する女性たち自身も、社会や家族などに依存しなければ自由に選択も出来ないし、生きていくことすら出来ないのである
- 後者の限界を補うために前者の概念が持ち出されている以上、おそらくは後者の主張はより検討され、止揚されることを免れないのではないだろうか?
- 女性は、様々な意味での健康を保つため、中絶において自由な選択をするために周囲の支援を必要とする、そこまでは良い
- だがそれは同時に、その支援を要請される周囲からの、意図や感性や価値観の影響や干渉を受けることを意味してはいないのだろうか?
- 国家や男性や家族の支援を必要とするのなら、一方的に依存したり利用するだけでなく、何らかの「お返し」が要請されるのではないか?
- もしそうだとすれば、妊婦の「自由な選択」や胚を「重い月経」として捉えるその視座の絶対化にも、限界が出てくるだろう
- 中絶が社会で支えるべき問題と認識されるとき、それは女性だけが独走して処理できるような問題ではなくなるのだ
- とはいえ、この本の筆者が求めているのは、あくまで女性たちの視座を反映した議論であり、主体的な選択のための条件の成立である
- 筆者は、複数の他者との関係が相互に相容れない場合のことも考慮しており、そこには予定調和的な答えなどないと断言している
- 彼女はただ、「自己」を関係性の中で捉えることで、かえって中絶に関しての選択権は、妊娠した女性本人にしかないということが理解される、と考えているのだ
- 確かに、著者が主張するように、議論が広まり、女性の主体性や視座がより多くの人に認識されていけば、こうした問題も乗り越えられていく可能性は高いだろう
- ただし、国が性教育の書籍を絶版に追い込んでおきながら、もう一方で出産を推奨する小冊子を配布しているような現状では、それは遥か彼方にある努力目標に過ぎないことも、また事実であろう
- いわば「貞節教育」と少子化解決のための女性の「産む機械」扱いであり、現在の日本は、まだまだ女性差別的な政策が横行する、時代錯誤な国家に過ぎない
- この国に旧態依然とした政策を止させるために、女性側の視座や倫理をさらに宣伝・布教する必要があるだろう
- そうしなければ、リプロダクティブ・ライツは絵に描いた餅で終わってしまうのだ
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哲人たちはいかにして色欲と闘ってきたのか サイモン・ブラックバーン
- ざっと色欲に関する西洋の思想史を振り返り、色欲を肯定しようとするエッセイ
- 最終的に、「ホッブズの和合」を見い出し、その解釈で色欲=「欲」(ルスト)を肯定している
- ホッブズの和合:性欲は性の快感だが、それには二つの精神の喜び、喜びたいという欲望と喜ばせたいという欲望も含まれている
- そして他者を喜ばせることから得る喜びは、性的なものではない
- それは精神の喜びないし快感であり、自分にこれほど他人を喜ばせる力があると想像する喜びである
- 「和合」は、喜びと欲望を互いにフィードバックしあう循環、取り違えも、秘密の計略も、欺瞞も一切ない純粋な相互関係
- その喜びは、何かをしている喜びであり、自分自身が関係するけれど、ナルシシズムというわけではない
- その主題は、自分自身を喜ばせることではなく、あくまで他者を刺激すること
- ここで言われる「欲」(ルスト)は、まるで一緒に音楽を奏でるようなものだ
- 快感とその反応のシンフォニーを
don't look back into the sun nightswatch1223
- 独自の視座や知識から、性や愛を描いたフィクションを分析しているブログ
- 「『やがて君になる』あるいは異性愛主義/百合の可能性について」[[恋愛対象
- 「ねじれた表現」としてのBLなどが良いと性的指向が食い違うことの意味について>http://nightyqueer.hatenablog.com/entry/2018/01/29/223807]]
リンク
なぜあなたは「愛してくれない人」を好きになるのか 二村ヒトシ
- AV監督が、自分自身を研究材料として失敗恋愛を分析した本
- 別の言い方をするなら、(著者を含む)性的に節操がない男性「ヤリチン」とヤリチンにばかり恋をしてしまう女性の心理を追究している本である
- ダメな恋愛をしてしまう原因を「心の穴」=親に植え付けられた思考・感情の癖に求めているあたり、仏教思想に通じるところがあるかもしれない
- 男女が恋愛の失敗について共に冷静に考察している本は、現代において非常に貴重であるし、恋愛に限らない人生の必読書と言っても良いかも?
- この本は、旧題『恋とセックスで幸せになる』に新章を加えたものだが、追加部分によって実質的には別物になっている模様
- 端的に言って「ヤリチンが面倒くさい女性を説得しようとする本」が「ヤリチンに恋してしまう女性が、当のヤリチンと互いの精神的な悪癖について探求する本」になっているのだ
- 女性たちとの対談によって、ヤリチンである著者のエゴや欠点が白日の下に晒されているのが実に良い
- 生徒と教師の逆転現象が発生し、幸福のために必要な自己受容を、提唱した当の著者自身が逆に教わって変わろうとしている形になっているところが、面白いのだ
- 自分の「心の穴」をきちんと知ることが、幸せへの道
- 「心の穴」とは、「こういう状況だとこう行動してしまう」という感情や考え方の癖
- 心の穴を塞ぐことは出来ない
- だが、その存在に苦しめられないようにすることは出来るし、当人が苦しまなくなることで、周囲の関係も良くしていくことが出来る
- どんな親が育てても「心の穴」は出来てしまう
- 心の穴からは、あなたの魅力も湧いてくる
- 自分を愛することが出来ている人は、自分の心の穴を無理に塞いだりコントロールしようとせず、それと上手く折り合いをつけている人
- 自己受容していない人は、恋愛の相手を使って「自分の心の穴」を埋めようとする
- 自分を嫌いだから、「愛してくれない相手」に興味を持ってしまう
- ダメ出しを愛のムチに感じても、それは相手がこちらを支配したいだけ。
- 自分を好きな相手を見下してしまうのも、自分が嫌いだから
- 恋とは、(自分にないものか逆に似たところといった)相手の心の穴への反応
- 自己受容していない人にとって、恋と憎しみは同じである
→ミヒトネッセのトリシューラへの恋?
- 自己受容していない人にとって、恋と憎しみは同じである
- 人は生きている以上、誰かに迷惑をかけたり傷つけないでいることは不可能だと思う
- 誰かに傷つけられている人も、誰かを傷つけている可能性もある
- その逆で誰かを傷つけている人も、誰かに傷つけている可能性がある
- 罪悪感は抱かなくていい
- ただその事に気づけばいい
- 「自分を好き」には、自己受容とナルシシズムの二種類ある
- 自己受容:自分を認めて、愛すること。ありのままの自分を認めて受け入れること
- 向上心の源でもある「ナルシシズム」=自分への恋
- プライドが高いことでもあり、頑張りすぎると疲れる
- 基本的に、自己受容が出来ていない人ほど、ナルシシズムが強い
- ナルシシズムは、あっていい
- それが完全に零になると、生きがいまでなくなってしまう
- ヤリチンも自己受容していない女性も、相手を使っている
- 親に対する不満を相手に再現させている
- 「キモいオタク」も「ヤリチン」も、どちらも女を愛せない
- オタクの男は、モテはじめると簡単にヤリチンになる
- ヤリチンが「多くの女性とセックスできる自分が好き」というナルシシズムで心の穴を埋めようとしているように、
- 自己受容していないオタクは、「モノや概念が好きな自分」「それについて他人より詳しく知っている自分」が好きで、そのナルシシズムで心の穴を埋めようとしている
- そのモノや概念には、スポーツ・仕事・お金なども含まれる
→グレンデルヒ? - 言ってみれば、ヤリチンとは「セックスおたく」のこと
- どちらの男たちも「インチキ自己肯定」で心の穴をごまかしている
- 生身の女性とセックスが出来る「ヤリチン」は、それにプライドをもって「俺はイケてる」と開き直ることが出来ます
- キモいオタクも、生身の女性という存在を忘れたフリが出来れば、モノや概念の世界だけで「自己肯定」できてると思い込むことが出来ます
→二次元性愛の人など例外を考えても良いのでは?恋愛の過大評価は恋愛至上主義やそれによる抑圧につながるのでは? - しかしそれらは、じつはプライドを守るために「自分は変わらなくて、いい」と開き直って、インチキ自己肯定しているだけなのです
- 昔は、男性も女性も自己受容できるシステムが別々に用意されていたが、現在はそれが完全崩壊している
- 現在の女性は、かつては入れなかった男性ビジネス世界に参入したうえに、母や妻という伝統的な女性の世界も手放してはいない
- このように欲望の分母が多くなったことで、女性は多すぎるタスクに躓いて、自己否定が普通の精神状態になってしまいがち
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- このように欲望の分母が多くなったことで、女性は多すぎるタスクに躓いて、自己否定が普通の精神状態になってしまいがち
BLの教科書 編:堀あきこ 守 如子
「ファット」の民族誌 現代アメリカにおける肥満問題と生の多様性 碇陽子
- ファット・アクセプタンス運動とフェミニズムの「ぎこちない関係」について記述あり
思想を参照のこと
フェミニスト間のポルノ戦争~”Feminist SEX WARS”について フェミニスト・トーキョー
- フェミニズム内部のポルノ承認についての論争「フェミニスト・セックス・ウォーズ」について解説するnote記事
- 参考リンクが多数あって分かりやすい
- リンク
フェミニズムとの距離感~「性差別表現」は存在してよい/存在しない
- はてな匿名ダイアリー記事
- 「性差別的な表現」が成立する条件、「オタクとフェミニズムの対立」構図を唱えることへの批判、表現者の責任とその限定
- そして「表現の取り下げ」以外に「性差別的な効果」の抑止方法を模索すべき、という主張
リンク
フェミニズムの困難 吉澤夏子
- 1993年に書かれた、フェニミニズムが直面した「現代的困難」について追求している本
- 考察が、単なるフェミニズム批判にとどまらず、平等や暴力的でない性について、深く考察されている本質的なものになっているのが素晴らしい
- 「理想的」にかわいらしさを追求した〈女の子〉の代替可能性や、二重の差別がある差別構造、平等が必要とする最低限の差異の話など、アリュージョニストなテーマが展開されている
- 私にとって「平等な社会」とは(中略)「女だけ」というかたくなな態度をとる必要のない社会である
- フェミニズムは、「平等な社会」とはいったい何かという根本的な問いに答えることなしには、暫定的な実践すらできないという段階にきている
- 平等は、差異を必要とするが、同時に差異そのものの還元でもある
- 「人間はみんな平等」という理念は、人間の行為や状態に対して「人間(的)であること」とそれ以外を区別するという(暗黙の)操作を前提にして、初めて成立する
- これは、明らかな矛盾である
- ドヴォーキンの『欲望という名の電車』分析への批判
- つまり、ドヴォーキン自身が意図した議論とは裏腹に、ブランチは、性関係が性差別であるという現実を生きることはけっしてなかったのだ
- ブランチは現実の男性たちとの性関係において「やさしさと感受性を備えた性交」=〈愛ゆえの性交〉すなわち差別の証ではない平等な性交を求め、その性的欲望を燃焼させた
- そしてその欲望は、けっして満たされることはなかった
- だから、そこにドヴォーキンは絶望を見る
- しかし、われわれは逆に、だから、そこに性愛の可能性を見るのである
- なぜなら、ブランチがこの現実の世界の中で、〈愛ゆえの性交〉の意味を知りそれを求めることができたということ、そのこと自体がすでに「性関係がすべて性差別である」という信念を突き崩す突破口の存在を示唆するものに他ならないからだ
- ブランチは、けっして男性との関係から離脱しようとか、「女であること」を忌避しようとか、ラディカル・フェミニズムが落ちていったそうした罠に、けして陥ることがなかったのである
- むしろ彼女は「女であること」に徹底的に内属することによって、自らの生を全うしようとする
- われわれは、このブランチの生への志向性にこそ、多くを学ぶことが出来るのではないだろうか
- なぜなら、「性関係はすべて性差別である」という信念を、事実として受け入れて生きるということは、最終的に自らの存在そのものを否定し尽くすしかないところまで自分自身を追いやっていくことを意味するからである
- もし、その信念を事実として受け入れて生きようとすれば、徹底的に女性であることを忌避するか、レズビアン・フェミニズムを実践するしかない
- しかし、女性であることを捨て事実上男性になること、あるいは、男性と一切関係を持たず女性だけで社会を作って生きることが、はたして男女平等を達成したことになるのだろうか
- たとえば、ユダヤ人差別を解消するために「ユダヤ人であることをやめる」か「ユダヤ人だけが集まって社会を作る」の二択しかないと言われて納得することが出来るだろうか
- それは、ユダヤ人差別をなくすためには、ユダヤ人がこの世からすべていなくなればよい、と言っているのに等しい
- 生物学的に性差を解消しようとすることは、女性という性をこの世から抹殺してしまえばいいと言っていることにもなる
- そのような社会が全体として平等であるとは言えないだろう
- ラディカル・フェミニズムの抱え込んだ矛盾は、「個人的なことは政治的である」というインパクトある主張と引き換えに、性愛という領域の固有性を打ち砕き、雲散霧消させてしまったという点にある
- 「性関係はすべて性差別である」というドヴォーキンの破壊的な思想の意義は、けっして否定できない
- しかし、その意義は、いわば思考実験という知的な営みの中でのみ意味を持つものだと言えるだろう
- われわれが現実に、この世界の中に生まれ育ち生きるしかないということを考慮するなら、この信念を現実に受容して生きることの不可能性に思い至るはずだ
- 「女であること」(そして「男であること」)から一瞬たりとも逃れられないという状況こそ、われわれがまさによって立つ場所なのである
- ここから自由になれるかもしれないという錯覚のもとに発想されるいかなる思想も、最終的な説得力を欠くものとならざるを得ないだろう
- ラディカル・フェミニズムは、いわば見知らぬ人びととの間で成立する平等とまったく同じ意味での平等を、個人的・私的な関係にまで浸透させようとしたのだ
- 確かに、われわれの個人的・私的な関係のすみずみにまで、政治的な関係が貫いている、という事実認識は、ある意味では正しい
- そこに個人的・私的な関係が堕ちていく悲惨の極みがあることは事実だ
- しかしまた、もしわれわれが人生の経験の意味に少しでも触れるような瞬間があるとすれば、それはこのきわめて個人的・私的な関係の内部にこそあり
- またそこにしかない、ともいえるのではないだろうか
- それが愛の関係と呼べるものであろう
- ドヴォーキンは、ブランチの物語の中で問われているのは「感受性を備えた人間が、己をセックスに至らせてしまうその感受性の過剰と要求に駆り立てられながら、いかにして生き続けられるのか、という問いである」と述べている
- ブランチは、生き続けることを選択した
- 「死の対極は欲望である」ということば通り、けっして達成されることのない欲望に身を焦がしながら、死の対極である生への志向性をもち続けたのである
- もし本当に、男性と女性の性関係がすべて性差別だとすれば、世界の中の男性と女性の関係性がすべて差別的な関係性に覆い尽くされるならば
- その世界に生きる人々は、自分たちの関係が差別的であることに、決して気づくことはないはずだ
- たとえば「性関係はすべて性差別である」と認識する瞬間に、その認識をくじく裂け目のようなものが穿たれるのではないだろうか
- それは、「差異の構図」に内在しつつ「差異の構図」が何であるかを知っているということとまさに同じことである
- ラディカル・フェミニストは、「個人的なものは政治的なものである」というテーゼの下に「愛ゆえの性交」のイデオロギー性を、現実の男性と女性との個人的な関係性の中に看破しそれを糾弾しようとする
- しかし、われわれの行為の領域の中には、たとえそれが別の人から見て誤謬であったり欺瞞であったりしても、行為する各人の選択に委ねたほうが良いものがある
- その行為の選択が、直接に行為当事者以外の人びとに否定的な結果をもたらさない限り、つまり「個人的なもの」である限り、できるだけそのような自由の領域は広くあるべきであろう
- そうであるとすれば、ラディカル・フェミニストの糾弾は、攻撃を受けた者たちにとっては、「差別ゆえの性交」という信念の一方的な押しつけに過ぎない
- こうした糾弾は、自由についての最小限の原理のもとで、正当性を持ち得ない
- ラディカル・フェミニズムは、この世界はすべて「差別ゆえの性交」という事実に覆い尽くされている、ということを明らかにしようとした
- しかし、われわれの議論は、ラディカル・フェミニズムは、自らが意図したのとは裏腹に(偽りの)「愛ゆえの性交」=「差別ゆえの性交」と真の〈愛ゆえの性交〉の間にある決定的な区別をすでに知っていた、という事実を示したのである
- われわれは〈愛ゆえの性交〉が何であるのかをすでに知っているのだから、もはや「差別ゆえの性交」に囚われることはない
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プライベート・ゲイライフ ポスト恋愛論 伏見憲明
- 日本でゲイであることを早期にカムアウトした先駆者が、性について個人的な見解を述べた本
- 自分の性格の悪さや性的指向を、ざっくばらんに語っているのが印象的
- 〈男制〉〈女制〉それぞれの性に期待される社会・文化的役割、思考・行動型
- 理性や論理で割り切れないからこそ、性差別の問題は解決困難
- 自由が嫌いな人もたくさんいる
- 人はそんなに論理的に出来ているわけではない
- 自由や平等の理念の枠から出ちゃう人がいるのも、また多様な有り様
- 同性愛を結婚などの制度で保証されたら、傲慢になるから嫌な人もいる
- 子どものカミングアウトが、保守的な親を抑圧することも
- 誰しも時代の制約を受けざるを得ないわけだから、こちらの論理が受け入れられないからといって一刀両断にしてしまうのは、あまりに慈悲がない
- 時代から完全に自由になれる人間などいないのだから
- 結婚への疑惑:生涯における排他的かつ絶対的なパートナーが前提なのは、おかしい
- 相続権や手術への許諾権など、カフェテリアのように権利は分散させるべき
- セックスを選択しなくて良い
- 「関係」は〈自我〉の過剰を〈消費〉する装置
- セクシャリティーはパーソナリティーの屋台骨なので、誰も冷静になれない
- 誰しも、自分自身を完全に客観化は出来ない
- 性(エロス)は、自分自身の意思や理性とは別のところで発動されてしまう、不自由なもの
- それゆえに、性を全体的な関係性の中に内包しようとすれば、ロマンチック・ラブイデオロギーのような強固な〈物語〉な物語が必要となるわけです
- ゲイのしんどさ:性(エロス)を共有する以外の関係が得られない情況にもってきて、社会の側からは、より全体的な関係性の中に性(エロス)を含んでこそ正当であるというメッセージが押し付けられる
- ロマンチック・ラブイデオロギーから逸脱することによって与えられる”孤独”という強迫観念から身を護るためには、どうしてもそれに変わる〈物語〉が必要
- その「性(エロス)を共有してこそ永続的で排他的な関係が獲得され、それによって救済される」という洗脳をぬぐいきれないのであれば、その線にそって新しい関係を模索していくしかないでしょう
- 人が全体的な関係性(そこに性を含もうが含むまいが)を欲するのは、生きていく上で共感というものが不可欠だからでしょう。
- 自分一人では自身を支えきれないのが人間なのです
- だから固定的かつ永続的な他者というのが必要になってきます。
- 共感と言っても相手がくるくる変わってしまうようでは、自我の安定は図れないからです。
- 愛とは共感によって個と個が支え合うこと、たいていの人は信仰にでも帰依しない限り、個のみに立脚することは出来ないのでは
- 〈性(エロス)の論理〉は、イメージをめぐる欲動、〈イメージの回収〉
- イメージは、視覚的なものばかりでない
- 対象が象徴する〈物語性〉と同化したい、あるイメージを取り戻したいというのが、人の欲動であり、その基礎がセクシャリティ
- ゲイ差別は二重。再生産主義からくる断罪、女性蔑視からくるオネエ差別
- 〈ヘテロ・システム〉(性器によって二分化されたセクシャリティーの文化)を変えていくためにできることは、性を〈イメージ・ゲーム〉として捉え直し、ゲームに参加しているのだということをみなが了解し合うことです。
- 性をゲームの中に囲い込む
- つまり、性における関係が、社会的な関係に還元されないためのルールづくりをすることが、まず必要
→コルセスカの『浄界』が、彼女を自由にする可能性?
- 性には、禁止すると、逆に増幅される性質がある
- 言語的に内面化されたイメージと社会的なありようを区別する必要がある
- そうして自らのセクシャリティーを「自然」という感覚からはがして、少しずつ相対化して客観視していく
- 演じるものとして捉え直す、性をあまり過大評価しない、関係の中の一つの遊戯としてつきあっていけばいい
- 自由の別側面
- 諸々の幻想を相対化すると、たいていのことは出来なくなる。価値もなくなってしまう
- 生きている充実感や生きがいを感じるというのは、〈自我〉を〈消費〉している感覚
- セクシャリティーとは、原初の胎児へ帰ろうとする欲求、無への志向、全体性への回帰によって形成される
- イメージのレベルでの異性の親からの〈他者性〉の回収
- つまり、感受性に対する違和感、異質感、疎外感が異性の親との間で生じることから、セクシャリティーは生じるのです
- 異性の親から心傷を与えられること、同一化の拒絶
- あるいは、同性の親の子供に対する強い固執
- どちらか一方の性別の象徴たる親との一体感、調和が崩れるということ
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ペニスの文化史 マルク ボナール,ミシェル シューマン
- 古今東西、古代の呪術から現代のスナックまで、ちんちんにまつわる話をこれでもかと詰め込んだ一冊
- 図をつけて説明されている割礼のところは読んでてとても痛いぞ
ペニスの歴史 デビッド・フリードマン
- 聖なる存在から「悪魔の杖」「シフトレバー」「ものさし」「破城槌」「割れない風船」と多様に変化してきたペニスの見方や扱い、つまりは「男の神話」の歴史をまとめた本
- おそらく『ペニスの文化史』などの類書との最大の違いは、「死の破城鎚」としてのイメージ(文化)を広めたフェミスト=アンドレア・ドウォーキンのインタビューも載っていること
- かつてはセックスに開放的なことを誇りとしていた彼女が、夫から性的虐待を受けて逃亡を続け、フェミニストに救われて考えを変えるようになったその経緯を、意外に穏やかで理知的なその実像と共に知ることが出来る
- 男とペニスの関係の背後には普遍的法則、そこから生じる「コントロール」の問題がある
- ペニスは男のなかで最上の部分なのか、それとも男の獣性なのか?
- 男がペニスを支配しているのか、それともペニスが男を支配しているのか?
- ペニスの使用が悪用になってしまうのはどのような場合か?
- 肉体の器官すべてのうち、ペニスだけが男をこうした矛盾に直面させる
- ペニスは執拗にもなり気乗り薄にもなるもの
- 創造もすれば破壊もする道具
- 肉体から分離しているように思われることの多い肉体の一部
- しかし、現代の勃起産業によって、ペニスはコントロール可能なモノとなった
- だが、その副作用や影響はまだ完全には解明されていないし、そのためにかかる費用の値札は隠されているのだ
ぼくらのSEX 橋本治
- 既製品の「正しいSEX]というのは存在しないから、これから「あなたのための正しいSEX]を考えようという本
- 上手く内容をまとめられないが、全体的にやさしくてユーモラスな精神が感じられて、読んでいるうちに性に対する暴力的な意志が薄れて行く本
→ミヒトネッセやイアテム、グレンデルヒの暴力的性差別発言への解毒に使えるかも?
ポルノかポリコレか? あるいは『ONE PIECE』の豚骨ラーメン性についての考察。
- ポルノ自体の重要性を説いている、サブカル系ライター海燕さんの記事(後半は有料)
弱いなら弱いままで。
マゾッホという思想 平野嘉彦
- マゾッホのマゾヒズムとその作家性のつながりや、彼のマゾヒズムが「母権的マゾヒズム」だとするマゾッホ観を主張している
- 内容はいまひとつまとまりがないが、マゾッホが結んだ三つの契約を詳しく分析しており、マゾッホの生涯にも詳しい
→契約による自己の自由放棄とか、アキラくんっぽい - マゾッホ研究の先駆者であるドゥルーズの解説もあり、分かりやすい
- 『毛皮のヴィーナス』における、模写に対する欲情
→とりあえず、トリシューラは、マゾッホの理想である「毛皮をまとった女主人」にしか見えない - 女の姿を借りて語りかける自然
→キュトス的な大地母神?
松戸市VTuber戸定梨香交通安全PR動画削除は「スラットシェイミング」問題である Hikichin(曳野正二/島根県松江市)
- 女性キャラクターなどの表現を性的だという批判についてのまとめ
- ツイッター上で炎上を起こすフェミニスト批判のnote記事
- 第二波フェミニズムと第三派フェミニズムの対立を取り上げており、古いフェミニズムは悪であり淘汰されるべきという論調となっている
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無神論者になった私が、フェミニストとして居心地が悪い理由 北村紗衣
- シェイクスピアとフェミニズム批評を専門とする筆者による、WEBマガジン「WEZZY」の連載「お砂糖とスパイスと爆発的な何か」の記事
- 前回の「フェミニストの私が、魔女になることを諦めた理由」と合わせてフェミニズムの多様さとその実態が伺えて面白い
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ムスリム女性に救援は必要か ライラ・アブー=ルゴド
- イスラムを専門とする文化人類学者の著者が、欧米のイスラム「反差別」運動を批判している本
- 欧米におけるムスリム女性の捉え方や働きかけは的外れである、と強く抗議し、現実のムスリム女性たちとその多様な抵抗に目を向けるように訴えている
- 欧米がイスラム女性に向ける憐憫のまなざしには、オリエンタリズム的な幻想やキリスト教を至高とする独善、西欧にもある同様の問題の無視があるなどの批判は、手厳しい
- 特に、戦争の口実としてムスリム女性の差別を利用する「道義的十字軍」が強く否定されている
- 欧米がイスラム女性に向ける憐憫のまなざしには、オリエンタリズム的な幻想やキリスト教を至高とする独善、西欧にもある同様の問題の無視があるなどの批判は、手厳しい
- 筆者はフェミニズムを十分に評価してはいるが、それでも、周囲に受け入れられやすい問題としてムスリムなど国外のことばかりを糾弾するような姿勢については、きっぱりと否定している
- また、女性差別以外に経済格差による問題があるとして、筆者があげる例も痛烈
- それによれば、夫がヨーロッパ人女性の愛人となって援助を受けて遊び暮らしていたり、子どもさえ彼女の子として連れ歩かれている家庭もあるという
- 経済格差は、それまで男性だけの「特権」だった行為をヨーロッパ女性にも可能とさせているのだ
- これはどう見ても、女性差別の問題ではない
- 著者は「ムスリム女性の権利は、それぞれの場で、国家法や宗教法などの様々な制度や手段を駆使しつつ追求されている」と語っているように、
- ムスリム女性も、実際は、ちゃんと彼女たちなりに自立しており、自分たちで身を守る力ぐらいはある、ということを誇っているのだ
- その他要約
- 空港の本屋でベストセラーになっているムスリム女性の悲劇は、まるで奴隷制を描いた「プランテーション・ポルノ」の後継のようだ
- そうした「ポルノ」も、最初は他者の痛みを想像を持って経験することを意義としていたが、やがては奴隷女性との商業的な緊縛ファンタジーに堕してしまった
- 虐待を性的に空想することが読者を捉えて離さなくても、加害者が感情移入して涙を流しさえすれば読者の道義性は保証され、結果このジャンルは加害者を免罪する手助けとなるのだろうか
- うわべだけの挿話や極端な事例は、女性たちの多様な人生経験やその文脈のほんの一部しか伝えてくれない
- しかし、女性への虐待は文化、国家、宗教的境界を越えて起こっていることを忘れてはならない
- 「ポルノ」は、特に西欧の女性読者に、はかない感情的真実を通じて感情的なエネルギーを送り込むという、もっとも重要な効果をもたらしている
- 卑劣に束縛されているムスリム女性より、自分が上にいることを安心させているのだ
- 西欧社会も似たような物語に事欠かないということには無自覚なまま、この類の本は、私たちはこのような暴力から自由でいられるというファンタジーを助長していないか
- 大衆小説や劣悪な人類学の語りでは、西欧社会にうまく同化した移民だけが、リベラルで人間的な価値を独占しているかのように描かれる
→『呪文』
- 名誉犯罪を巡る本には、芸術的で卓越した表現で愛を詠うことでよく知られる、アラブの文芸文化が決定的に欠けている
- 名誉犯罪は、もともと部族社会の伝統であり、宗教は無関係
- 名誉犯罪に関する高い関心は、特定の暴力を超時代的なものと見なし、自分たちとは異質の、特定のコミュニティの文化実践として固定化してしまう
- ムスリム女性のファッションを、ごみ袋に例えたりしてそ、その「強制」を非難する西欧社会の比喩について
- ヴェールは、頑迷な信仰心のみならず、自らのモラルを顕示する行為
- ユダヤ教超正統派の女性もかつらで髪の毛を隠しているのに、なぜムスリム女性のファッションにだけ憤るのか?
- なぜ私たちはオペラに短パンで行くのはふさわしくないと分かっていながら、ブルカを脱がない女性がいることに驚くのだろうか?
- 70年代以降、アメリカ・フェミニズムは、猛烈なバックラッシュや人種差別批判によって成果を上げられなくなった
- そのためアメリカのフェミニストたちは、周囲への働きかけが容易なヴェール着用、女性器切除などの壮大な抑圧行為に注目するようになった
- 身近ではない問題を取り上げることで、彼女たちは「人権の擁護者としての米国、という大きな政治的議論の末端」に安定した場所を確保することが出来たのである
→欧米のフェミニストが、海外のポリコレ違反について口出しするようになった理由のひとつ?
- フェミニズムの功績も忘れてはならない
- その運動は、女性への暴力や性暴力を、公的な倫理や法的課題として(公的領域の問題として)再定義し、人生の私的領域における隠蔽されるべき、またありふれたこととして捨て置くことを許さなかった
- しかし、女性が名誉犯罪の被害者とされる社会とそうでない社会における、近親者による殺人や暴行事件の割合比較が出来ないのは、問題である
- 抑圧、選択、自由という用語は、ムスリム女性たちの人生の力強さや鮮やかさを描き出すためには使えない、なまくらな道具
- これらの用語は、こうした女性たちの大変な努力や、喪失や寂しさを表す歌、さらには権利に対する激しい怒りを理解するためにはほとんど役に立たない
- 権利やその侵害と言った語りは、貧しい人びとの複雑な生を(私たちに比べ)常に分かりやすいものとして翻訳してしまう
- 道徳体系は、実際には複雑
- 西欧のフェミニストたちは、ナショナル、あるいはインターナショナルな権利をめぐる政治を理解するべき
- 権利という概念を「誰がどのように変わりつつあるのか」で認識すべきなのだ
- 著者がこの本を書いたのは、ムスリム女性の権利は、それぞれの場で、国家法や宗教法などの様々な制度や手段を駆使しつつ、追求されていることに気づいてもらうため
- 筆者は、語る
- どこの社会にも正義についての論争があり、権力や権利についての抗争があり、変化を追い求める人々がいることを肝に銘じたい
- そして、西欧のフェミニストたちは、丁寧な分析と批判的内省、わたしたちに共通する人間としての感覚に自覚的になって、(援助)選択して欲しい、」と
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モテる構造--男と女の社会学 山田昌宏
- 性差別について研究した社会学の新書
- ナンシー・チョドロウの理論などなどに基づき、ジェンダーがもたらす困難を追求している
- 本書の目的は「レッテルを貼る」のではなく、自分たち人間を縛る「社会的制約」を明らかにすること
- 筆者は、全ての抑圧を無くすことが可能だともそれで幸福になれるとも思わないが「社会的制約」を明らかにすることで「枠への態度を決める自由」
- つまり、多様な生き方を選択する条件=主体性を手に入れることが出来る、と考えている。
- 枠を変更することを目指すのも良いが、枠の存在を指摘すること自体を非難しても、何にもならない
- 性アイデンティティ確立と性愛対象から、男女がそれぞれ異なる困難を抱え続けることは避けられない
- メディアによって、これまでとは真逆のジェンダーイメージ(「素敵な異性」)を幼少期から伝えることができればその改善は可能だろうが、そのようなことは困難であろう
- 性差別の背景にある非対称構造
- 男性は「(仕事が)できる人だけがモテる」がため、オール・オア・ナッシングになりやすい
- 一方、女性は「できる」と「モテる」が関係ないため、両方を実現させるために男性の二倍の努力が必要
- と、それぞれ異なる困難を抱えている
- 仕事が「できない男」はモテず、逆に、仕事が「できる女」も男性から倦厭されがちなのは、なぜか?
- それらの現象の背後には、仕事が「できる」ことが、男女の差別化の目印として扱われてきたことがあったのだ。
- しかし、現代の西洋そして日本では、男だけが「価値が計れる労働」=市場労働を専門にこなす生き方は、経済的に難しくなっている。
- 日本は、非正規雇用が女性雇用の主であり、非正規から正規になれないため、西洋と異なり「出来る」と「モテる」は分離してない、
- 収入的に妻子を養えない「できない男性」が増えてきている
- 要するに、環境が変わらないまま、それが実現できる層と、それが実現できない層に分裂しているのが、現状である
- 実現できる層は、「できる」男性と、彼らと結婚した「モテる」女性
- 実現できない層は、増大しつつある「できない男性」と(「できる男性」と結婚できなかった「モテない」女性である
- 男女差別の感情が抱える2つの問題
- 1 好き・嫌いに埋め込まれた規範:自分の意思で選択できない
- そして、異性愛を前提にすると、男女は感情に基づいてお互いに選び合う必要がある
- 2 男性である・女性であるというアイデンティティの問題
- 社会の中で、自分の男としての/女としての居場所を保つことは基本的な欲求であり、それによってプライドや安心感が保たれている
- 近代社会は、自分で自分のアイデンティティを作り上げることが人生の課題となる社会である
- 選択の自由がたくさんある反面、仲間はずれになったり必要とされなくなる可能性もある
- 近代人が持つアイデンティティ欲求を満たすためには、自分の力で仕事と結婚相手を見つける能力(仕事能力」「性的魅力」が、各人に必要とされる
- 男性の傾向
- 1 性的対象への強い衝動
- 2 同性との親密関係形成のモデルがない
- 3 女性と違って。親密対象と性的対象の区別が曖昧
- 女性の傾向
- 1 親密性は同性間で満足できる:女性にとって、親密関係は獲得するものではなく、あるものである
- 2 親密対象と性的対象を区別できる
- 3 性的衝動は人為的に形成されなくてはならない
- 異性愛の衝動が生じるには、外部から「父」またはそれに相当する男性からの「誘惑」がなければならない
- つまり、親密対象である母親と一緒にいる以上に、すばらしいことが起きる可能性があるよという外部からの誘いが必要
- 母子関係の再現ではなく、理想的な関係があるはずだという信念を受け入れることが必要なのだ
- そのためには、ロマンチック・ラブ・イデオロギーが必要であり、女性が性的対象を理想化する傾向が強いのも、これが理由である
→二章でトリシューラを誘ったアキラくん?
- ケアを男性をやることには、やる方受ける方双方に抵抗感がある
- 女性には「男らしくする」という選択肢があるのに対して、男性には「女性らしくする」という選択肢を取ることは、社会的になかなか認められない
- しかし、男性が女性らしく「したいと思わない」という感情、女性らしい男性に対して生じる「違和感」という感情が、男性自身にインプットされているのは、実は女性差別が存在していることの結果である
- 性別規範からの逸脱の許容度が男女によって異なるのは、男性の方が女性よりも地位が高いとも思われているからなのだ
電子化○
「許せない」がやめられない SNSで蔓延する「#怒りの快楽」依存症 坂爪真吾
- SNSでの争いを依存症の一種であると断じ、そこからの離脱を呼びかける本
- 表現規制やトランスジェンダー論争、そしてミソジニストについて、一定の知見を得るには便利であり、
- なぜ、内輪ばかりで争っているのか、なぜいつも攻撃的なのか、などという疑問に対する一つの答えが見つかるかもしれない
- ただ、筆者も毀誉褒貶が半ばする普通の人間であるため、その文章には、自分の「善意」を悪く取ったフェミニストたちへの怒りが見え隠れする
- アンチ・フェミニストやミソジニストに対する批判もあるが、基本的にはフェミニスト批判が中心であると言える
- また、無限に怒りを燃やして攻撃する行動をマンガ『るろうに剣心』の武器「無限刃」にたとえるあたり、非オタクには読みにくい本かもしれない
- また筆者は、仏教的な思想に基づき、「怒りからのソーシャル・ディスタンス」の確保を呼びかけている
- タイムラインの断捨離、過剰な被害者意識の代わりに、人間関係の構築と生活習慣の改善を心の松葉杖に
- そして、炎上発生時に、依存アカウントを特定、適切な医療・福祉支援につなぐ「サイバーソーシャルワーカー」の創設を提案している
- ただ、筆者はこれだけSNSでの怒りの蔓延を嫌っていながらも、議論自体は否定していない
- 彼は明言はしていないが、「議論抜きではジェンダーをめぐる社会課題は解決しない」として、
- 課題を解決し、健全な変化を起こすため(怒りから距離を起きつつ)議論を継続していく社会になることを望んでいるようだ
- 彼は明言はしていないが、「議論抜きではジェンダーをめぐる社会課題は解決しない」として、
- トランスジェンダーの困難
- 「理解されない」以前の問題として、「そもそも自分が何者なのか分からない」というアイデンティティをめぐる問題を抱えがち
- トランスジェンダー内でも、意見や状態の違いがあり、それによって序列化や分断が生じた
- 一部の性的マイノリティが編み出した生き延びるための知恵「カテゴライズしない力」
- カテゴライズしない(されない)力を外部への攻撃や内部でのマウンティングのために悪用すると、一気に地獄になる
- カテゴリーそのものの問い直しを続けること=自らを名付け、カテゴライズする圧力に抵抗し続けることは、一歩間違えば、怒りの無限増幅装置になる
→言理の妖精のデメリット?
電子化◯
ラブライブとガルパンをフェミニズムが評価すべき5つの理由 佐倉智美
- ブログ「佐倉智美のジェンダーあるある研究ノート」の記事
- 萌えアニメをフェミニズム観点から肯定的に評価
- 著者は、性同一性障害なMtFトランスジェンダー
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リプロダクティブヘルスと環境 共に生きる世界へ 上野千鶴子 綿貫礼子
- 出産に関わる女性の権利と環境問題についての論をまとめた本
- 出版が1996年と古いが、基本的な問題認識は古びていないと思われる
- 話題も水俣病やチェルノブイリなどだけでなく、陣痛促進剤の問題や南北問題にも触れている
- 「リプロダクティブ・ライツ/ヘルス」と言ったとき、わたしの念頭に浮かぶのはつぎのようなことである
- 産みたいときに産みたいだけ産む権利と能力を
- 産みたくないときに子どもを産まない権利と能力を
- 埋めないと分かったときに、その事態を受け入れる権利と能力を
- そして、どんな子どもでも生命として受け入れる権利と能力を
- 「生殖からの疎外」も、「生殖への疎外」も、どちらも味わわずにすむのが、性と生殖の「自己決定権」の内容であろう
- 自己決定に必要な条件を作っていく努力も必要だ
- 可能な限りの選択肢とそれに関する公正な情報が示されること
- 選択にあたって脅迫や利益誘導を受けず、どの選択をしても結果が不利にならないこと
- 政治的、経済的、社会的な力を女達が取り戻すことと言う
- そのうえで、新しい生命観を創ることで、「科学」の在り方を変えることも、母になること、よい子を産むことを女に強制する社会を変えることも可能だろう
- 確立した個なしには共生はありえないし、多様な関係性なしに個の確立もないのだから
- ひとびとが自分たちの自給基盤を自分で管理し続けられる社会と経済への展望を持つこと
- 必要なのは、女性のケーキの取り分を大きうしたり平等にするだけでなく、戦争や搾取なしに全く新しいケーキを焼くこと
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レイプ/男からの発言 ティモシー・ベイニケ
- 男性のレイプ観の背景にある先入観を研究した本
- 集められている男性たちの発言は統計学的に公正ななものではないが、バラエティ豊かで示唆に富む
- 付録の対談:・強姦は女性の存在そのものに対する殺人行為
- 強姦ができることが男らしさの証明だという社会の鋳型、男性性の神話のなかで、男性もどれほど苦しんでいるかというところの証明がなされている
- 性行為のバリエーションであるという解釈があるために、強姦の犯罪性が立証できにくい
- またそれを助長するようなサブカルチャーがあるので、男には強姦願望があり、女には被強姦願望があるという神話と幻想が再生産されやすい
- レイプとは言えないまでも準レイプ状況はほとんどの人が体験しているのではないか?
- レイプというのは階級制のもとにおける強者の、弱者に対する支配と暴力の形態
- レイプは実際には日常的なものなのに、レイプは自分とは無縁なものと思い込みがち
- 怒りと結びついたアンガーレイプ、自分の社会的に去勢された部分を回復したいというパワーレイプ
- レイピストを弁護するわけではないが、男性の抑圧を見なければ、レイプの発生原因から目をそらすことになる
- レイプは加害者に罪を償わせて終わりではなく、なぜなのかという問いかけを一番多く必要とする犯罪
- 男らしさ、積極的アプローチやお金を男に要求する女性向け作品も
- 女性の方でも、ひとりの人間として生きていく生き方というのをどこまで自分のものにできるのかという問題がある
- レイプの被害を隠さなきゃいけない社会とは?
- 性暴行というのは、個人とその個人をとりまくあらゆる人間関係も破壊してしまうほどの、恐ろしい犯罪
- じらしているのではなく臆病なだけだったり、男性からは合意に見えても同情でセックスしたり根負けして後で強制されたと語られることもある
- 男性はたえず女性の外見から行動を仕掛けられているように感じている
- 男も女も、自分のほうが行動を仕掛けられている、自分は受動的だ、と感じているのかもしれない
- 女性の外見は武器であるという考え方は、性的快感は人を無力にするという考え方と、切っても切れない関係にある
- 女性の外見は武器であるというテーマは、レイプを正当化し、レイプされた女性に対する冷たい態度を正当化するのに用いられる
- 多くの男はこんなふうに考える――――俺に対して力をおよぼし、その力を濫用するような人間たちには同情できない
- ジョージ・ラーコフによると、女性の外見は武器であるという考え方は、もっと一般的な、すべて知覚は受動的であるという見方の一部である
- 知覚は、感覚器官に働きかける外部からの刺激によって説明される
- すなわち、何か私の身に起き、私には選択の余地がないとされるが、これは嘘である
- 人間は自分の知覚するものに対して、意識的であれ無意識的であれ、能動的に知覚し、選択している
- 男たちはしばしば、女性の身体をこそこそ盗むようにして知覚することを選択する
- これが、女性を欲望の対象としてポルノグラフィー化する、あるいは「物」として観る人間性を無視した「まなざし」であり、レイプを女性の責任にする思考の原因である
- 女性の身体部位のみに性的な興奮を感じることは、その女性を物におとしめ、ポルノグラフィーとして盗んでいるのと同じこと
→【邪視】、ミヒトネッセの固有呪術?
煉獄さんがいる世界を取り戻したい・・・日本人にとっての「鬼滅の刃」ブームが意味するもの(後編) 倉本圭造
- 真の多様性と生きやすい社会の構築について語るnote記事
- 実は煉獄杏寿郎は、現代では生き延びられないタイプの人間だったのではないか?という視点からの解釈
- 「女性らしさ規範・男性らしさ規範(≒ジェンダー)というものが、社会マネジメント上果たしていた機能」に注目し、その価値や意義を評価することが、
- 真に多様で生きやすい社会を作り出すために必要なのだ、と呼びかけている
- 前後編だが、後編だけでも文意は把握できる
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