推薦図書
- アリュージョニスト以外のネタバレに注意
- サイバーカラテを実践しよう (知ってる作品があったら、説明を追記しよう)
- 最下部のコメントボックスで作品紹介を書き込むと、誰かが追加してくれるかもしれません
- 多分図書じゃなくてもいいと思うよ
- 参照と類似は呪力です。高めよう。
- ほんの少しでも推薦図書に見えたのならそれが推薦図書です(邪視)。追加しましょう。五十音順に並んでいます。
- 編集カラテ入門
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*** タイトル
-説明1
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- 推薦図書
- 思想
- ロボット/人工知能/サイボーグ関連
- 狭義の呪術関連
- た行
- 退屈 ピーター・トゥーヒー
- 退屈のすすめ 五木寛之
- 他者の靴を履く アナーキック・エンパシーのすすめ ブレイディみかこ
- 「助けて」と言える国へ――人と社会をつなぐ 奥田知志 茂木健一郎
- 脱アイデンティティ 上野千鶴子・編
- <脱恋愛>論 草柳呼早
- 「多文化共生」を問い直す 権五定 斎藤文彦
- 中空構造日本の深層 河合隼雄
- ツァラトゥストラはかく語りき フリードリヒ・ニーチェ
- 償いのアルケオロジー 鵜飼哲
- ティマイオス プラトン
- 敵の顔 憎悪と戦争の心理学 サム・キーン
- 哲学塾シリーズ 岩波書店
- 哲学は資本主義を変えられるか 竹田青嗣
- どうして、もっと怒らないの? 生きづらい「いま」を生き延びる術は障害者運動が教えてくれる 編著:荒井裕樹
- 道徳の系譜 フリードリヒ・ヴィルヘルム・ニーチェ
- 読書について ショーペンハウアー
- ドストエフスキーの詩学 ミハイル・バフチン
- 特攻文学論 井上義和
- 友だちは永遠じゃない 森真一
- コメント
思想
ロボット/人工知能/サイボーグ関連
狭義の呪術関連
た行
退屈 ピーター・トゥーヒー
- サブタイトル(息もつかせぬその歴史)ほど面白くはないが、ある程度参考になるエッセイ
- 退屈は、普通の退屈とインテリがありがたがる「実存的な退屈」に分けられるが、後者はうつ病に様々な感情が複合した幻である。
- 退屈は、子どもっぽいとか怠惰の表れとして切り捨てるべきではないが、同時に哲学で飾り立てる必要も無い。
- 退屈は治療するとかではなく、この感情が発しているアドヴァイスに「注意を払う」といった考え方をするのがベストなのだ
- それは危機の回避をうながし警告してくれる「弱い嫌悪」であり、自分へ向かいそうな怒りや敵意を(自分に対して)隠すための自己防衛のたまものであり、なにより退屈な経験を与えてくれるのだ。
→アレッテ? - 退屈は些細なものとして扱われるべきではないし、些細なものと扱われて良い感情など、ひとつもない
- なぜなら、われわれ人間は感情を通じて世界を知り、自分自身を知るようになるからだ
→ルウテトの後悔するアキラくん推し - 退屈は、知的な面で陳腐になってしまった視点や概念への不満を育てるものであるから、創造性を促進するものでもあるし、批判的内省や思索、夢想、空想の余地を与えてくれる
- そして退屈には、人とその周囲の世界を分かち、人を自分自身へ立ち戻らせる傾向がある
- ただし、慢性的退屈は、気力を吸い取られるし、興奮や怒り、鬱へと悪化しうるものでもある
→アリュージョニスト更新がない時
退屈のすすめ 五木寛之
- 遊び心をもって、どうでもいいことをやる時間を過ごすすすめと、そのサンプル
- 必要なことだけをやって過ごす人生などというものは、むなしい
- ちょっとしたことで心が弾めば、また次の週も元気で働くことが出来るのではないか
- 休日のながい一日を、うつうつと〈ふさぎの虫〉と向き合ってすごすというのも、これはこれでなかなか味わい深い人生の一シーンではあるまいか
他者の靴を履く アナーキック・エンパシーのすすめ ブレイディみかこ
- 単純に共感と訳せない概念「エンパシー」で有名になったベストセラー、イギリスでの子育てエッセイ『ぼくはイエローでホワイトで、ちょっとブルー』の著者による解説と、独自の概念「アナーキック・エンパシー」の布教の本
- その内容自体から、筆者自身とエンパシーの限界が見えてくる本ではあるが、独特の思想は面白いし、歯切れのよい文章はとても読みやすい
- エンパシーについて各種の説を並べ、その性質や欠点を分かりやすく説明しているが、
- 最終的に、相手の立場を知的に理解するコグニティブ・エンパシーに、自己の視座も捨てないアナーキズムを足した自説と、アナーキズムを賛美しながら、政治や著者が勧めたい本などを語るエッセイに落ち着いている
- ただし、肝心のその自説を、著者本人がどれだけ実行出来ているかという点には、大いに疑問が残る
- なにしろ「日本不在が長かったから、平成日本について語るなんて、私には出来ない!」と言ったその舌の根も乾かぬうちに
- 「中年女性が"美魔女"と悪役のように呼ばれるのは、妻や母である彼女たちが美しくなると、家父長制が支配できなくなって脅威となるからだ!」と迷いなく断言しているくらいである
- 他にも「英国老人向けのCMは海外寄付ばかりで日本は美容ばかり、外向きでエンパシーのある英国老人の方が優れている!」という分析のその前後では、
- 「身近な人々へのシンパシーはあっても、違う階級へのエンパシーがなかった」サッチャーや労働党の分裂批判など、英国のエンパシー不足例をあげていたりと、
- その語りからは、直感と思想による偏り、自分を社会に溶け込めない変人ではなく普遍的な真理に同調できる(そして支持してくれる権威がある)特別で孤独ではない人間だと思いたい、左派インテリ的な心情が見え隠れしている
- なにしろ「日本不在が長かったから、平成日本について語るなんて、私には出来ない!」と言ったその舌の根も乾かぬうちに
- そう、著者が身をもって示しているように「アナーキック・エンパシー」には限界がある
- まず、そもそも人間は感情的な共感(エモーショナル・エンパシー=シンパシー)を覚えない対象には、思い入れや理解する必要性を感じないので、
- 「知的な理解による共感」をするにしても、知らず知らずのうちに適当な理解で済ませてしまったり、自己の視座(政治思想的立場)から観たポジショントークで断罪するだけで終わってしまう可能性が大きい
- そして、「エンパシーで補完したアナーキズム(あらゆる支配への拒否)」にしても、それがただの自己満足なエゴイズムやアナーキスト信仰で終わってしまうことも、十分に有り得るのだ
- 著者の比喩を使うなら「他者の靴を真似た飾りだけつけた自分の靴で、その他者を蹴り飛ばしながら自慢げに踊っている」とでも言うべきだろうか
- 「知的な共感」というのは、実践に努力と訓練を必要とする、面倒なスキルなのである
- また、筆者はクロポトキンや『災害ユートピア』での分断の解消を持ち出し「真の利己は利他に通じ、アナーキズムは相互扶助の面がある。混沌は平和なのだから、政府の邪悪な支配と秩序なんていらない!」と語っている
- その視点も確かに否定はしきれない
- だが、災害が終われば消えてしまう現象だけで人類の全てを規定しようとするのは、その災害時の相互扶助を完全無視するのと同じくらい、無理があるのではないだろうか?
- 利己は支配されないために不可欠かもしれないが、それが過ぎれば社会や秩序は保てないし、他者の利己が自らの損=利他の破壊につながることもしばしばだ
- それに、囚人のジレンマでも報復を受けない状態なら裏切りが最適解であるように、平常時では、対立や分断も個人の利益を確保するには最適解なのかもしれない
- 何より、筆者のような立場の人物であれば、アナーキズムとエンパシーを唱えても、商売という利己につなげていけるだろうが、それを万人に敷衍しようというのは、いささか無理があると思わざるをえない
- 結局、利己と利他の接続にしても、エンパシーにしても、まだまだ考察や研究の必要性がある話であることは、間違いない
- まあ、まさにそうした著者の思い込みの激しさや自己ポジションへの執着の強さ、自身が共感できる対象への傾倒こそが、
- この本を読みやすいうえに、読んだけで共感性が高くて他者より抜きん出たインテリになった錯覚を得られるような書物にしているのであろうが……
- とはいえ、著者自身がひとつの「教材」としてエンパシーの限界を示してくれているこの本は、エンパシーについて多くの面から知るには最適な書物であることも、また間違いないであろう
電子化◯
「助けて」と言える国へ――人と社会をつなぐ 奥田知志 茂木健一郎
- ホームレス支援をする牧師との対談新書
- 子どもが引きこもった経験と貧困の支援経験が、話に説得力をもたらしている
- 本当に苦しいと感じている人達には、周囲に助けてといって欲しい
- この世界が柔らかく人間らしい場所であることに気づいて欲しい
- キリスト教の根本思想「自ら傷ついたものこそが叡智を得て、世界を救うことが出来る」
- 救い主は自ら傷つく
- 弱い者、傷つけられている者こそが、我々に救いをもたらしてくれる
- 「絆(きずな)」という言葉には、傷が含まれている
- 他人と会えば、傷つくこともある
- それでも、他者に出会うこと以外に、人生の喜びを深める方法はない
- 他人と出会うことを恐れてはいけない
- 笑える牡蠣:相互多重型支援:助けられた人も他の人を助けることが出来る。
- 311で被災した東北・牡鹿半島の漁師は、支援を受けて牡蠣養殖再開
- その養殖がソーシャルビジネスとなり、こんどは路上の青年たちに対するケアつきの就労支援となるような仕組みを作った
- 助けられた人が、助ける人になる
- 助けられながら、誰かを助ける
- 一つのものに多重の意味が伴う
- 「東へ」だけでなく「東から」も、東日本支援震災支援に必要だった
- 現金だけでなく、自己有用意識や自己尊重意識が必要
- 企業社会の功罪、価値観が一本化
- 一本勝負は無理でこれからは技アリでなんとかしていく人生に
- 自己責任の呪縛
- 「自己責任だから社会や周囲は助けなくていい」という社会の無責任化を招いた
- ほんとうの意味で自己責任を果たすには、社会や周囲の支援、あるべき社会保障などが、きちんと行われていることが前提となる
- 弱さの自己認証
- 敗れる経験が、人を絆へ向かわせる
- 絆は本来、「私とあなた」という人格的関係において成立する
- 対等な関係が前提なのである
- 絆を結ぶとは「~してあげる」と考えているような、そんな自分の安心と安全が脅かされることを覚悟することに他ならない
- 弱さこそが、私たちを結び合わせたのである
- 弱かったから人間になれたのだ
- 「俺は人間か」
- この問いの答えは、他者から聞くしかない
- 人間は、他者と出会うことによって「人」になる
- 「生きていれば、きっと笑える時が来る」
- 他者の言葉が人びとを支え、もう一度立ち上がらせた
- "祈り"とは、どうすることもできないものに対する、ある種の心のおさまりのつけかた
- キリスト教では、祈りは神に対する「委ね」と理解する。
- 傷ついた魂の前では祈りしか無い
- 祈りが霊性に関わる部分:外から差し込む光のようなものを黙って待つ時間
- 霊性への期待、よろしくという委ね、あるいは手放す瞬間
- 現代のキリスト教神学のメインテーマは、魂ではなく霊性
- 神と人、人と人、また自分自身との繋がりであり、そこから利他性も生まれる概念
- なぜ困窮者を支援するのか?
- 逆になぜ、そんなことを問わねばならないのか
- 困窮者を支援することに理由が必要か
- それが人間だからだ それが社会だからだ
- 弱さを踏まえない支援は、結局自分も相手も傷つける
- 「私は一人では生きていけない」この事実にまず立つことが肝心なのだ
- 自己は他者を通じて見える
- できたら、自分が了解できない範囲、喧嘩できる、違っていたら違うと言える相手と出会うのがいいと思います
- 自分の中だけ見ても、自分なんて見つからない
- 喧嘩してでも他者と出会わないと、自分自身に埋没します
- そして、自己絶対化が起こり、他者を切り捨てることになってしまいます
- 学びは出会い。人は出会いで変わる
- 自分のペースが変えられることを極端に恐れていると、誰とも出会えない
- その結果無縁へと向かってしまう
- 靖国は、完全に善なる英霊としてしか祀っていなくて、全的人間の受容になっていない
- 生き物である以上、いい加減なところは人間にはあって、それを許さないとだめ
- 単純な善悪二元論では語れない、人間とはいい加減なもの
- 良き宗教性は、私ではなく「神」が主語。
- 主語の転換が図られないと、本来宗教が持っている人間に対する相対化が発揮できない
- 自己正当化が目的なら、それはもはや自分教
- 人間には他者が必要であり、宗教は他者性の原点
電子化○
脱アイデンティティ 上野千鶴子・編
- アイデンティティに関しての論文を束ね、アイデンティティが「どのように捉えられてきたか」という学説史をまとめたもの
- 母語や既存のカテゴリと自覚するアイデンティティのズレや、アイデンティティの複数性などが、しっかりと語られており、編者のもの以外の論文はわりと読みやすい
- アイデンティティの理論そのものが開放的であったり抑圧的であるわけではないように、脱アイデンティティの理論も、それ自体はただのツールに過ぎない
- 一貫した自己も、自己の発達も、それが社会の役割と同一化するというのも、全て仮説に過ぎない
- 私が何者であるのかという感覚(アイデンティティ)と、他者との関係で自分がどのような者として立ち現れてくるのか(ポジショナリティ・位置性)の関係
→役やツールとしてのシナモリアキラ - 自分の加害者性を指摘することは、苦痛であると同時に快楽である
- なぜなら、自らのポジショナリティを明示的に示すことにより、自己は、示していない同一カテゴリーの他の人間から切り離され「他の無自覚な仲間とは違う、自覚的なよい人間」になれるからである
- 自分の立場を他の立場に置いて満足するのではなく、立場自体を、責任を引き受けることが必要
→シナモリアキラの責任 - ジュディス・バトラーの「エイジェンシー」概念:「主体が語る」ではなく「言語が主体を通じて語る」
- 「私」が表現をするより、むしろ、表現をすることで「私」が生起するのだ
- 私とは、「私」にとって最初の観客であり、主役でもある
- 言葉とは、「私」の親友であると同時に、最大の敵でもある
- 原体験としての言葉を、自分のものとして話せないという”断絶”
- 他者の存在なしに、人は”実存する過去”を手中に収める事はできない
<脱恋愛>論 草柳呼早
- 純愛:死なないと不変のものにならないため、究極の純愛はしばしば心中として描かれる
- 恋を衰えさせないようにするには、互いに変わり続けることが必要だが、そうなると独占出来ない
→シナモリ・アキラ? - モテ:個性消して、つぎつぎ変わる人の好みに合わせる必要がある。
- 特に、個性出したらダメ。自我が強くてもダメ
→他人の欲望に対して受動的なミヒトネッセ?
「多文化共生」を問い直す 権五定 斎藤文彦
- あまり深い考察はないが、根源的なところから「共生」を考えている論文集
- これまでは方法論的な理論展開のみに議論が集中し、「共に生きる」とは何を意味するのか、誰にとっての「共生」なのかという存在論的な議論が後回しになってきた
- 「共生」は、主として支配者側・多数者側から語られており、その概念の語られ方が、否応なく現代社会に埋め込まれた権力関係を再生産しているという問題がある
- 「共生」における「生」もまたすでに「善き生」として語り手によって固定化されるのであれば、それは「共生」ではなく「強制された生」である
→『地下』(『地獄』)?
- 「共生」における「生」もまたすでに「善き生」として語り手によって固定化されるのであれば、それは「共生」ではなく「強制された生」である
- 本来の意味での共生を意味するように求めるのであれば、それは一元化された「自己」と「他者」の解体という方法以外に達成することは不可能であろう
- Biosとしての生(市民としての生=活動)とZoeとしての生(奴隷としての生=労働)との両方を、すべての人々が体現するようにならない限り、「自己」は「他者」の「善き生」を定義し続けてしまうのである
- 奴隷を前提として、良識ある市民が存在するようになってはならない
- BIosとしての生がZoeにつけ加えられるだけでなく、Zoeとしての生がBiosとしての生が付け加えられることを必要とする
- すべての人にBiosとしての生が担保されたとき、すなわちすべての人が他者と異なる自己の主張をもって他者との対話に臨むことを要請するようになること
- これこそが、現代に必要な公共性の創出と言えるだろう
- マジョリティ側に必要性が感じられない場合は、多文化共生コミュニケーションも意味を持ちにくい
- 安易に「共生」を用いることの危険性
- すなわち「共生」概念は、多くの場合、さまざまな状況を正当化する諸勢力の、現状肯定を意味している
- その結果、本来「共生」が対象としている、社会的に恵まれない立場の人々を、場合によってはさらに阻害しかねない
- このような逆説性を意識することによって、はじめて社会的弱者や影響力の弱い文化でも尊重されるように
- 「共生」は、西欧のコスモポリタニズム=全世界の人々を国境を越えて自分の同胞として捉える考え方に極めて近い
- 「共生」仏教用語としては「ぐうしょう」、縁起、多くの生命の間の相互依存
- 日本国はすでに日本人だけが生活する場ではなくなっている。災害に限らず、自治体だけでは支援に限界→「多文化共生センター」
- 仏教概念に基づいた、「きょうせい」(symbiosis)/異なった集団の間の共生という視点と、ともいき(convivality)/異なった個人と個人あるいは個人と集団との間の共生という視点
- その間に、避けがたく存在している対立関係/緊張関係への視点を、一方で見失うことのない共生観が必要
- 国民国家は、国民以外のアイデンティティを嫌う
- 韓国、それまでのウリ(われわれ/オリ)に閉じ込めるナショナリズム教育と多文化教育の間の矛盾がある
- 共生の「生」概念のなかに埋め込まれた権力関係:意味ある「生」のための主体性の確保をいかにするか
- 子どもたちの視野を広げ、国家のための客体性だけでなく主体性も育まねばならない
- 教育で多文化主義やるなら、個々人が生身の他者と交流する機会を提供するだけでなく、社会としての制度的な改革の実践が不可欠
- また、それらを出来得る限り、多文化主義に基づく移民政策に関連付けていくべし
- 生物本能からそのまま引き出せない共生、文化概念など補助が必要なのだ
- 仏教の縁起は、生者だけでなく「死」や「死者」によってささえられ、そのうえに生が成り立っている事実に目を向けるべき
→死人の森?ルウテトの断章『生存』?
- ルソー『カンディド』:震災からの復興で、神の善意を盲信する「楽天主義」からの脱却
- 主人公最後のセリフ「庭を耕す」は、本年の文化に回帰するためであろうと同時に、人間が過去の慣習、生活、文化、社会を切断する行為であった
- 階級の変更であり、それまでの長い漂流を可能としていた資産を保証する、貴族階級を脱し、自力で新しく生きようとする行為
- 神の思し召しの現状肯定の後の空隙を埋めるのは、カントが目指した科学精神科人間の自覚的意思
- アレント、差異を持った人々が公共の場で議論と対話を持つことが、ホロコーストのような悲劇を避ける唯一の方法
- 多文化の存在それ自体が、画一化した社会による暴走を防ぐ
- 悪を抑圧するという意味で正義
- 逆に言えば、それは余裕のある人々による寛容さを基礎としたリベラルな言説などではなく、社会における公共性を担保するための厳格な政治的要求であり、社会全体を貫徹すべき規範と位置付けるべし
- しかし実際の社会での扱いは、偽善、良くて好意的な行動でしかない
- 共生の強制
- 自己責任の名の下に善き生を押し付けてきた新自由主義と同じ、恩恵を受ける多数者から語られてきた
- 共生の暗黙の前提
- それが成り立つには、当然ながら「悪しき生」が必要とされる
- 逆に言えば、「善き生」に基づいた共生概念自体が、「悪しき生」を生み出しているとも考えられる
- 例:先住民族差別。怠惰な悪しき生が、市場経済に参加する善き生になることによってのみ、共生が成立する
- 言葉を換えれば、文化の商品化を通した商品経済への参加しか、先住民族の「生」が認められていない
- そのために、それまでの迫害や強制の歴史が不問に
- ガラスのコップ:サポートが請負会社まかせで、日本社会と決して混じり合うことがない移民たち
- 主体性の尊重は、一つの制度で自動的に保証されるものではなく、しばしば対立する各種の利害関係者が、意識して育んでいかなければならないものなのであろう
- 巧妙なカラクリを見抜き、弱い立場にある個人や集団の主体性が尊重される仕組みを考えていく必要がある!
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- 巧妙なカラクリを見抜き、弱い立場にある個人や集団の主体性が尊重される仕組みを考えていく必要がある!
中空構造日本の深層 河合隼雄
- 日本神話の世界観は、中央が空白
- 上下左右、男性原理と女性原理といった対立するものを、無為の神々が対立させずに共存させている
- 日本の中空構造は、西欧が持っている「中心による統合のモデル」のように絶えざる「異物」の排除を必要とせず、対立構造や矛盾と共存できる可能性をもつ
- その反面、中央が空で力を持たないため、無責任の体系になったり、中枢に外敵が侵入してしまいやすいのも、また日本の構造の特徴である
→媒介としての【シナモリ・アキラ】
- 現在、その中空構造は危機的状況だが、手軽な解決策などはない。地道に現状を把握して改善すべし
- 母性は全てのものを全体として包み込む機能をもつのに対して、父性は物事を切断し分離してゆく機能をもっている
- 西洋の父性と、日本の父性は異なる。ヤンキー的全体主義は日本的なものであり、その導入よく考えてやったほうが良い
- 西洋の父性は近代科学を発展させた「論理と個人責任」であり、いわば「自己主張できる強い個人」
- それに対して過去の日本にいた「強い父」というのは社会制度に守られた家長というシステム的なものであり、なんでも受け容れる母性社会の補償としての制度に過ぎない
- 日本にはもともと西欧的な「父性」などは存在しなかった
- ありもしなかった「日本の父性の復権」を唱える人物は、実は日本とは異なる西欧のシステムで、日本の構造を破壊しようとしていると言える
→イアテム?
- 日本の「母性社会」は、相対的なものであり、アジアの他の国に比べると、父性と母性のバランスが取れているということも出来る
ツァラトゥストラはかく語りき フリードリヒ・ニーチェ
- 永劫回帰というループの元祖的概念
- 己のみを頼みにする「超人」は、サイバーカラテの理念とは真逆の存在だが、ループを超越するという意味では案外近い存在なのかもしれない
- まあ、おそらくルウテト様の方は「超人」とは絶対に相いれないだろうけど
償いのアルケオロジー 鵜飼哲
- 反死刑論者のエッセイ
- アルケオロジーとは、考古学またはフーコーの「記録の集積の中から,多音声の声を聞き取ろうとする」従来の連続性ある歴史に対立する概念らしい
- オウム真理教が逮捕された頃の古いものであり、解答のない問題提起だらけなので、内容は多少人を選ぶ
- パレスチナ問題における、「二つの文化が本質的に異質な贖い(あがない)の、謝罪の、罪の概念を持っている場合、その共同体間で生じたことはいったいどうやって贖われるのかという問題」などの視点は貴重
- お互いの罪の思想、復讐の思想、贖いの思想、赦しの思想相互が翻訳可能なのかどうかという問題にも繋がる
- 人が人を殺すときには、常に心の中でおそらく何らかの言いわけをしている
- 「すでに自分はある形で傷つけられたから、自分には殺す権利がある」と、どこかで言いわけをしていない殺人というものが果たしてあるのだろうか?
- 暴力は、つねにすでに復讐であるという仮説
- エミール・バンヴェスト:『インド・ヨーロッパ諸制度語彙集』
- インド=ヨーロッパ諸語では昔から、経済的な負債の問題と道徳的な負い目の問題に深いつながりがある
- ニーチェの「道徳的行為の計算可能性なくして主体概念は成立しえない」とした問題とも深く結びついてくる
- 利子の問題:借りた以上に返さねばならない
- 「生まれる」という不思議な贈与。
- 出産は、おそらく一番感謝されないからこそ感謝しろと文化上で位置づけられている、奇妙さがある
- インド=ヨーロッパ諸語では昔から、経済的な負債の問題と道徳的な負い目の問題に深いつながりがある
ティマイオス プラトン
- 二つのものが第三のものなしに二つだけでうまく結び合わされることは不可能です。というのは、それら二つのものを結合させるためには、両者の間に一種絆のようなものがなければならないからです
敵の顔 憎悪と戦争の心理学 サム・キーン
- 「敵」とは「われわれ」の否定的な側面が投影された虚像に過ぎないとする、ユング心理学の「影」(シャドゥ)説に基づいた本
- 多くの資料を用いて、デフォルメされた「敵」のイメージがいかに形作られ広められているか、また敵対している陣営同士の相手についてのイメージがいかに似通っているかを明白に示している
- われわれ人類は敵対人(ホモ・ホスティリス)つまり、敵対する種、敵をつくる動物なのだ
- 自分では否認している敵意という重荷を敵に担わすため、敵をスケープゴートにまつりあげずにはいられない
- たぶん、何よりも、われわれの関わる戦争は、強迫的な儀式であり「影」のドラマなのだ
- われわれはそこで、いつもわれわれが否定し軽蔑するわれわれ自身の暗部を抹殺しようとし続けている
- 生き残りへの最高の希望は、敵と戦争についての考え方を変えることだ
- われわれが、政治的なパラノイアの論理と敵意を正当化するプロパガンダの創作過程を理解するようにならないかぎり、戦争を抑制することは不可能である
- 責任転嫁をやめた時、つまり戦争責任を外国の謎に包まれた機関に押し付けるのをやめて、自らの暴力性にあえて目を向けた時から、解決は始まる
- 戦争の主な責任は、悪者や心のねじけた人間にではなく、ごく当たり前の善良な市民たちにある
- 国際関係においても、対人関係においても、自分の「影」の投射を認め、自分は無力だが罪の汚れがないという幻想を捨てれば、責任と目的を自覚しながら満足のゆく行動が取れるだろう
- 平和を目指すのであれば、悪魔を自らの一部と自覚し、自分の力の限界を受け入れることがどのみち必要になる
哲学塾シリーズ 岩波書店
- 竹内章郎『新自由主義の嘘』
- 市場の限界=市場は、自然環境・社会の安全性・貧富の格差・労働のあり方・家庭生活そして、人間個人の無償利用をしている
- 市場は、コストをその外部に押し付けているとも言える
- 労働能力以外を市場は評価できない
- 社会保障や労働券などの社会権も必要、市民権だけでなく
- 「能力の共同性」論:能力は、個人の私的所有物とは言い切れない。
- 例:人間らしい感情を持たせないためにコミュニケーションを省いた、ナチスの子育てでは赤ちゃんは生命力を維持できずに死亡していった
- 他者や社会・文化との共同において能力は成立する
- 障害も環境との関わり合いで困難になるかが決まる
- 能力:人間個人の自然性と環境との関係そのもの
- 強制や共同は、単に個人と個人や集団相互が助け合う場面で、初めて生じるのではない
- 個人の能力の次元で、すでに共同や強制が成り立っている
- 他人を「助ける」場合も、その能力も他者や環境の力の賜物であり、本人が威張ってやるようなことはなにもない
- 「助ける」に「してやる」も「してもらう」もない・上下関係もない
→パーンの『技能』と「荒野の自力救済」の否定?
哲学は資本主義を変えられるか 竹田青嗣
- 個人の承認と世界の繁栄を繋げる本
- 簡単にまとめると人類はみんな【邪視者】。【邪視】で闘争しないで、なんとか折り合って共存共栄しようよ!
- トリシューラやリールエルバ向け
- 哲学は、真理では無く共通了解「原理」を探し求める学。原理は、自然科学の法則のように、暫定的なゴールであり新しい説のスタート地点
- 資本主義と近代国家は、暴力による解決を避けるために産み出された「自由」を守るルールゲームであり、その代替システムは無い
- 近代国家の原理が「自由」にあることを周知させて、欠点を是正すべく話し合うことが大切
- 基本的な考え方は『人間的自由の条件』の方が分かりやすい。
- というか、著者独自解釈の「現象学」について知らないと分かりにくいかも
どうして、もっと怒らないの? 生きづらい「いま」を生き延びる術は障害者運動が教えてくれる 編著:荒井裕樹
- 障害者文化論と日本文学を専門とする編著者が、70年代の障害者運動にあった思想を探っていく対談集
- 障害者運動に関わった人びとの人柄や運動の実情が、その言葉とともに紹介される楽しい語りあいになっている
- 表題は、この本の中心人物であり、行動綱領に「われらは愛と正義を否定する」と記した運動家・横田弘の言葉
- 彼は脳性まひ者であり、当時の社会が障害者の存在を認めず、黙殺しようとしていることに怒りと抵抗の声をあげた
- 著者は、故人である彼の思想と人柄を追いつつ、そこに「憎悪」ではなく、「怒り」を見ている
- 「憎悪」は、相手の存在自体を拒絶するが、「怒り」は、共生のために嫌われたり傷つけられることへの葛藤を乗り越えるもの
- 異なる事情を抱えた人間同士が生きていくためには「それをやられたらダメだ」という一線があり、
- それを守るためには、怒らない時があるのだ、としているのだ
- ただ、この本にも、欠点がないわけではない
- まず、横田氏などは女性差別やジェンダーの面から批判されているが、その批判の詳細やその反省をどう活かすか、という点はそれほど述べられておらず、隔靴掻痒の感がある
- 原一男氏の「生活者」でしかなかったという妻たちの否定と、家族以外の幸せも考える「表現者」の対立にしたところで、
- そこには、夫たちの運動を支えながら、同時に家事や育児、近所づき合いに追われていた彼女たちへの抑圧があったことは間違いない
- 広い範囲の人びとを救う運動ができる「表現者」のその活動は、実は「生活者」の献身と犠牲なくしては成り立たないものだったのだ
- まず自分の家族の苦しみや幸福にすらきちんと向き合えていないのならば、それは、彼が尊敬する横田氏が激しく否定した「健全者」の傲慢=「愛と正義」と大して変わらないのではないだろうか?
- また、この本では時代や社会の変化によって、過去の運動のやり方は若い世代にとって合わなくなってしまった、とも語られてもいるのだが、
- ならば、どうやって運動の歴史を今に活かせばいいのか?
- その答えについては、読者に丸投げされたままなのである
- ならば、どうやって運動の歴史を今に活かせばいいのか?
- 最後に、この本は、相模原障害者施設の殺傷事件や、その背景にある世間の風潮への批判でもある
- だが、編著者の提唱する「怒り」と「憎悪」の弁別が世間に受け入れられない場合、
- あるいはそれも、事件の犯人の「憎悪」や「正義」と同一視されてしまうおそれはないのだろうか?
- そして、犯人を駆り立てた「思想」や「憎悪」と、この本で語られる「怒り」との間に、本当にそれほど明確な差はあるのだろうか?
- たとえば犯人である植松 聖は、衆議院議長に陰謀論を説く手紙を送っているが、もしかすると、それもまた自身の「有用性」を示そうとする、彼なりの「共生」の試みだったのではないだろうか?
- だとすれば、彼はこの本の定義を十分に満たす形で、「怒り」を世に示していたと言えてしまうのではないか?
- 確かに、彼の「正義」は独善的なものであり、(意思疎通が出来ない)障害者の心と存在価値を認めないような、反人権的で非道なものだ
- だが、方向性だけなら、実は大きく変わらないのではないだろうか?
- 自己主張を当然のものとする編著者や、彼がリスペクトする横田氏の「怒り」肯定も、
- 自分から権利や想いを主張できない人間を軽んじかねない、という意味では、同じ方向性に陥りかねないとも言えるのではないか?
- 確かに、単に怒りの表明を肯定することだけでも、スタートラインとしては必要であり、正しいことなのかもしれない
- けれど、植松のような独善性に陥ることをさけるためには、それを補強する「何か」が必要不可欠なのではないだろうか?
- たとえば、怒りが正当な抗議として受け止められるために、
- その怒りを正当化(承認)できる文脈を共有させていく努力や、受け止める側のリテラシー(読解・受容能力)を向上させる技術の開発などに、もっと力を入れるべきなのではないだろうか?
- そのためには、この本で語られている「感覚を耕す」という方向性をもっと突き詰めるべきであり、「怒り」よりそちらの方が必要なのではないか?
- この本からは、確かに著者たちが説く70年代の運動の尊さやその価値は伝わってくる
- しかし、それ以上に、その方法論の限界のほうがより良く見える気がするのである
- あるいは、そうした疑問が尽きない点こそが、議論のたたき台として適しているというこの本の強みなのかもしれないが……
- 以下要約など
- 障害の軽重も人間同士の力関係に反映される
- 夫婦だと、軽いのはだいたい女の人
- この世界には「怒りでしか守れないもの」があることを全身全霊で訴えたのが、七〇年代の障害者運動でした
- 調整弁として使われてしまう立場にある人が、なぜか経営者側の目線でそれを「セオリー」だと言ってしまう
- 個別の不安や不満を吐き出すことを、社会に波風を立てる行為だと思いこんでしまう
- 結果、自分を苦しくさせているかもしれないシステムを、いつの間にか「セオリー」などといって内面化してしまうことがある
→市場資本主義の化身のようなグレンデルヒに支配されていたゾーイ・アキラ?
- 「つらい」こと」を「つらい」というのは、社会を問い直す第一歩です
- 「生きにくさの象徴」だった「障害」が、社会全体がドンッて落っこちて、みんなが生きにくくなってしまったときに
- 不十分ながらも福祉のサポートがあったり、世間からの配慮が期待できる「障害」が、皮肉なことに相対的な位置が上がってしまった
- あるいは、「障害」ということであれば「なにかができないことへの自己責任」から開放されるような感覚があるのかも
- 今は体を壊すまで働いても、誰からもなんの「配慮」ももらえないと感じている人が多い
- 逆説的に「生きやすさ」が出た「障害」への妬みが生じているのでは?
- 「障害者としてカテゴライズされたらなんとかしてやる」というのは、インクルーシブな社会ではないし、我々が求めてきたものではない
- 運動を起こすにも、権利を云々するにも、とにかく「自分は生きていて良いんだ」って思えないと始まらない
- 「行動綱領」も、「理想的な社会」を目指したテーゼなのではなく、「自分だって生きていていい」という実感をつかみとるためのテーゼだったんだと思います
- それは、生きていくこと自体にすり減ったり、疲弊したりしている現代の人たちとも、どこかで響き合うと思うんですね
- 怒ればおかしなムードは変えられるかもしれない
- 怒りのインパクトは、ムードで権力握っている人たちをおびやかす
- 例:「保育園落ちた日本死ね!!!」
→本当に動かせたのだろうか?
- 陰謀論に飛びつくヒトたち
- とにかくなにか邪悪なものが支配をしていて、本来あるべきものが歪められているという発想が強い
- 純粋、あるいはプリミティブなものに回帰しようとしてナショナリストになっていくのが非常に多い
- 「本来の日本を取り戻せ」
→編著者を含むリベラルや左翼の主張も根本的なところでは同じではないのか?
- 障害者たちの運動をが練り上げた「思想」を一般の人たちに伝えるような活動が、日々の忙しさのせいで後回しになってしまう
- 本来なら語り部(ストーリーテラー)がいるべきだが、日本の障害者運動はそうした存在を出すことが出来なかった
- 全体の「99」に対応するのが、社会運動や政治
- その全てに対応しようとすると、全体主義になって悪い影響のほうが大きくなってしまう
- だから、残りの「1」は文学でないと救えない
- 2009年のグッドデザイン賞「ダンススタジオ兼ALS患者独居住宅『スペースALS-D』
- 日本の障害者運動の強みは、高邁な思想を持っている人間だけが運動をするのではないこと
- だれかにとっての「当たり前」は(他の)誰かにとって窮屈である場合もある
- 今は立場の弱い人たちの方が、空気を読みつつ、気を使っている
- マイノリティの側から「健全者」とレッテルを貼り直す
- 「健全者」を中心とする文化やシステムは様々な不備があるので、そこに参加するのではなく、、むしろその不備を批判していく
- 「人間の尊厳が目減りしていくことへの危機感が足りない」
→死者の代弁 - 障害者が地域で生きるために越えていかねばならないハードル
- どれだけ一緒に同じ場所で生きてきたかという身体感覚が必要なのではないか
- ちょうど、横田氏たちが体を張って町に出ていって、通行人に駅の階段の上まであげてくれるように頼んでいたようなことの積み重ねで、「感覚を耕す」ことが必要なのでは
電子化◯
道徳の系譜 フリードリヒ・ヴィルヘルム・ニーチェ
- (彼の著書『ツァラトゥストラはかく語りき』の解説書でもある)『善悪の彼岸』の注釈書にして、哲学者ニーチェ自身によるニーチェの入門書
- 三つの論文とその序文から成り立っている
- ニーチェの著書の中ではかなり分かりやすいが、それでも当時のヨーロッパの人間を対象にしているため、
- 少し事前知識が必要そうなところもある
- 残忍で暴力的であっても、強く能動的な者こそが真に優れており、その真逆の同情・弱者・受動的な者は最悪
- 「強弱」と「善悪」は別物ではなく、弱者は善人になることもなければ強者になることも出来ない、とする独自の思想を説いている
- 彼によれば、道徳、世間における「善悪」というのは、もともと支配された弱者たちが支配側の貴族(暴力に優れた人びと)へ抱いた
- 反感(ルサンチマン)を元にしたもの
- 「良心」も抑圧されて内側へ向けられた「残忍性の本能」
- ユダヤ人、特にキリストや十二使徒パウロやペテロやマリアが広めた「人間のために十字架で犠牲になる神」という逆転した信仰こそ、
- 反貴族的で邪悪なものであり、人間を「畜群」するものであったとしている
- ニーチェは、「善悪」の語源を追求しており、その論は完全に無根拠というわけでもない
- その思想の背景には、子供の頃から頭痛などに健康上の問題を抱えており、おそらくそのことに根強い劣等感を抱いていた(要出典)彼の経歴があるのだと思われる
- しかし、民族と優劣を結びつけるその思想は、どうしようもなく人種差別的であり、優生学的でもある
- ただ、後に彼の思想を利用したナチスとは、先述のようにやや違いがあり
- 彼は、独自に定義した(キリスト教徒が含まれる)「弱者」全般を嫌っていたのだと思われる
- また、彼は「実際に文化的に敗北している『強者』は本当に『強者』だと言えるのか?」という疑問につながりそうな考え
- (歴史的に民衆は勝利しているし、人種の混合やキリスト教化は成功している)を自ら提示してもいるのだが、
- それに対し、きちんと答えを出してはいないようにも見える
- ただ、後に彼の思想を利用したナチスとは、先述のようにやや違いがあり
- そもそも彼は、先に「悪い敵(悪人)」を設定しておいて、その真逆として自分を「善人」と規定するような思考を否定しているが、
- 一部要約
- 貴族は、自分を際立たせるものとして敵を要求する
- それは、極めて多くの尊敬すべき点を有する敵に限る
電子化△(岩波版なし)光文社古典新訳文庫版はkindleunlimitedで0円
読書について ショーペンハウアー
- 読書して他人の意見の受け売りをやるより、自分の頭で考えた方が良いという(存在が矛盾ぎみな)本
- 習得しただけの真理は、義手や義足、義歯、蝋製の鼻のようなもの
- 本から拾い集めた他人の意見で構成された説は、異質な素材を集めて作られた自動人形のようなものだ(まず自説を立てて、自説の補強のために文献を学ぶ場合を除く)
→外力?サイボーグ?アンドロイド?
電子化◯Kindlieunlimitedで0円
ドストエフスキーの詩学 ミハイル・バフチン
- 曰く、「それぞれに独立して互いに融け合うことのないあまたの声と意識、それぞれがれっきとした価値を持つ声たちによる真のポリフォニー(注:多声楽)こそが、ドストエフスキーの小説の本質的な特徴なのである」
- 三章で歌われたエスニックポリフォニー。【連関合成】。みんなの力を繋ぐけれど融血呪とは違う。それってこれを参照してるのでは?
電子化×
特攻文学論 井上義和
- 特攻文学を「薬でもあり毒でもある」もの、哲学者ジャック・デリダの言う「パルマコン」とみなし、その対処に挑戦している本
- 著者は、特攻の肯定/否定とは別の軸を立てること、戦死を否定しつつ特攻隊員をその尊厳とともに包摂することを目指している
- すなわち「否定と両立する包摂」なのだ
→相反するものの両立を目指すシナモリアキラ?否定された抵抗の歴史を肯定することが出来る方法?
- すなわち「否定と両立する包摂」なのだ
- 筆者の思索は真摯であり、真に戦前の軍国主義を乗り越えるために、
- そして、平和と繁栄を維持するために軍事力が不可欠なこの世界で、日本がきちんと活動していくために必要なものだと思われる
- だがしかし、それが受け入れられるのは難しいだろう
- ナショナリズムと愛国心という、国への自己の同一化をもってアイデンティティと精神安定剤にしている右派や、特攻隊員の美を自らの権威に利用している政治家はもちろん、
- 左派にしたところで、教条的な反戦と否定の思考で、特攻隊員や自衛隊員の尊厳を否定しがちだからだ
- けれど、同胞の戦死を受け入れなければ、そして私たち国民が、その戦死の上で平和を享受していることを認めることをしなければ
- 私たちはこれからも自衛官に、日陰者としての犠牲を払わせ続けてしまうだろう
- 過去に逆戻りするためでなく、現在の世界をきちんと生き、これからも国際社会で日本が活動していくためにこそ、
- 著者のような、犠牲とその責任をきちんと受け止める、建設的な思想が必要なのではないだろうか?
- 〈妖しい力〉を言葉で包摂する
- 「刃物」を「鞘」に収めるように、できるだけ多くの人が共有できる言葉に置き換えて、安全に取り扱えるようにする社会工学的なプロジェクトを目指したい
- 「私たちが同胞の戦死を受け入れられるのは、どのような条件のときか」という条件思考
- 「同胞の戦死を受け入れるための条件」をめぐる問いがなければ、どれほど研究が進展しても「未来の戦死に向き合う」構想は出てこないのではないか、と思うのです
- 日本の戦時中は、自己陶酔的な大言壮語でごまかしながら、命の軽視に拍車がかかり、
- 敗戦後はそれが反対方向に振り切れて、戦死そのものを「あってはならないもの」として想像することさえも禁止してきました
- その結果、自衛隊に命がけの任務を託しておきながら、戦死のリスクに備えない
- 死んだ仲間とともに生きた戦中世代の存在と、それを疎外してきた戦後社会の問題
- 戦死者は「同期の桜」共同体の「死んだ仲間」であり続け、「我々の死者」とはならなかった
- 私たちが「我々の死者」を取り戻すためには、まずは、戦中世代をーー裏切りと謝罪を同時に行いながらーー「我々の生き残り」として取り戻す必要があるのではないでしょうか
- 戦中世代を捨象して、現在の私たちが過去の戦死者に直接向き合おうとする「我々の死者」論は、
- 二〇〇〇年代以降に台頭してきた特攻の自己啓発的受容のような、命のタスキリレーの想像力にも、たやすく接続してしまうように思われます
- 著者を批判する中でも、特攻文学好きに対する「理解対話派」についての分析
- 特攻文学の分類と分析
- 「人を感動させる特攻の物語をつくる」課題
- 「国家による戦争動員への加担」というトラウマを解除し、それを制御できるようになるためのワーク
- 外在的な規準の高みから対象を断罪する(悪魔化)のではなく、その内在的な論理を私達自身の問題として発見すること(人間化)
- 自分の中に動員する側にも動員される側にもなりうる可能性を見出すこと
- 動員のメカニズムを自家薬籠中の物にしてしまうこと
- 動員を正当化する論理や物語に精通することは、トラウマを解除し制御するためには、必要な綱渡りだと著者は考える
- 「命のタスキ」論:特攻文学の中にある感動の理由。日常と地続きにありながら、私たちを力づける価値観
- これは、私たちが大切にしている価値観の極限形態ではないか?
- 著者の提案・戦死者慰霊の、二つの水準による包摂
- 民俗の水準
- 市ヶ谷の防衛省敷地内メモリアルゾーンの「限定開放」と市ヶ谷・九段・千鳥ヶ淵を一体と捉えた「三社参り」
- 儀礼の水準
- 多様な愛国心から持続的な物語へ
- 愛国心の持ち方は多様であってよいけれど、祖国のために命をかけた存在に対しては、一致して敬意を払う
- 民俗の水準
- リベラル(多様性に寛容)な民主主義社会におけるナショナリズムの形においては、愛国論と戦死論という二つの水準を方法的に区別してはどうか
- 「愛国心の持ち方は多様であってよいけれど、祖国のために命をかけた存在に対しては、一致して敬意を払う」
- 愛国論は「国」とそれに「向かう「心」
- 戦死論の対象は、「祖国のために命を捧げた存在」とそれに対する「儀礼」
- 儀礼によってつくられる感情もあるという反論にも一理あるが、「分断と対立」の現代において、儀礼の感情創出効果は限定的
- 天皇の代替わりも東京五輪も熱狂を持続させなかった
- 戦死論が想定する儀礼では、刹那的な愛国感情ではなく、共同体の起源をめぐる持続的な物語こそをつくりたい
- 厳粛な儀礼を通じて、私たちの生活が「祖国のために命を捧げた存在」によって支えられてきたことを一致して確認するのです
- 命のタスキを託される「祖国の想像力」は、国家に対する批判原理にもなる
- 戦死者への原始的な感情の本来の受け皿である、共同体の起源をめぐる持続的な物語に包摂していくような言葉を鍛えることではないでしょうか
- 「国のために戦う」から「戦う人に敬意を払う」に
- 「自国への誇り」から「身代わりの負い目」へ
- 「危険だけど託す」責任の重さに向き合うべきではないか?
電子化◯
友だちは永遠じゃない 森真一
- 「無縁社会」説は、真実なのか?
- 社会学者である著者が、一時的協力理論(PCT)プロヴィジョナル、コーポレーション、から見た社会の話
- PCTは、(教育分野)の活動理論で提唱される「ノットワーキング」概念に近い考え方
- 「ノットワーキング」:人々が、「関係の糸」を結んでほどいたり、また結んだりする運動のこと
- 現代は「多縁社会」であり、社会はあらゆるモノとの(不完全な)一時的協力によって(不完全なかたちで)成り立っている
- 組織の「境界」を越えることで、逆に組織の存在意義を守り、問題を解決している具体例も紹介
- 一時的協力はほとんど上手くいかないが、リトライすること、無理だと決めつけないことが大切
- ただし、不完全さを肯定することと、不完全さに居直ることは違う
- 「共創」:サービスを即興劇に例えるものであり、提供者と受け手が積極的にかかわり合い、場と空間、時間をともに作り出す
- 客がサービスの利用に対して主体的にかかわることを「損」とする「お客様」社会化こそが、共創の価値を享受するチャンスを手放す真の損である
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