――下校時間。歩は玄関で外履き靴に変えていた。
しかし彼女はどこか腑におちないような表情だった。それは会議室での一件なのか、それとも――。
「椎葉」
振り向くとそこには竜馬が立っていた。ドクンと心臓の鼓動が強く打つ。
『椎葉さんも……流君のことが……』
エイコから言われたことが再び頭の中に浮かび、再びその『意識』に変換される。
そして魅いるようにこちらを見つめる歩に竜馬は、
「おい!」
「あ……っ」
我に返り、首をブンブン横に振った。
「大丈夫か?」
「うん……」
珍しく一緒に歩いて帰る二人。空は淀んでいて積乱雲が彼らへ向かってきているように動いていた。これは一雨降りそうである。
「お前ら、会議室で色々とあったんだな。犯人はまさかの戸田とはな、恐れ入ったぜ」
「…………」
――歩は黙り込んだ。その表情からはあまり心地よくなさそうな心境であろう。
「羽鳥から聞いたが、戸田は俺まで嫌ってたんだとな」
「……らしいね。流君はどう思う……?」
普通の人間なら、胸ぐそ悪くなるような事実だが竜馬は無表情だ。
「別に。嫌われるというか恨まれるのはもう慣れてっから。けどムカつくのがある」
竜馬の口調に怒がこもる。
「キレエならはっきり言えってんだ。こんな回りくどいことされたら心底不愉快だ。現に今日のテストので羽鳥じゃなく俺だったら、あの場で間違いなく戸田を八つ裂きにしてた」
あまりに物騒なことを言うが、本気でやりかねない男、竜馬である。
「あいつ、ついにお前に謝ったんだってな。お前、ホントにやるじゃねえか」
しかし、歩は。
「あたし……なんかすっきりしないんだ。確かに戸田は心から謝った、普通ならそれで済むはずなのに……なんか……自分の過去を盾にしたような気がして、そしたらあたしや廣瀬が『犠牲』になった、そう思うと……」
すると竜馬は、
「椎葉、聞くがお前、アイツをまだ恨んでるか?」
「……分からない……」
「昔、アイツに何があったか知らねえけどよ、してきたことはいきなり謝れても当然許せんことばかりだな。
だがな、これだけは言える、『もう前の戸田ではない』とな」
竜馬は話を続ける。
「逆に考えろ、戸田は前みたいに能面のような人間じゃねえ。これからお前に、イジメに対してちゃんと向き合っていけると思うぜ。
お前は心強い味方を手に入れたということに刮目しろ」
「心強い……味方」
言われるまで考えたことのなかった彼の見解に、彼女は先程までうつ向いていた顔を上げて、竜馬を見た。
「戸田はあれでも教師、担任だ。許すか許さんかはお前の勝手だが、アイツにこれからどうしてほしいのか、そこは素直に伝えるべきだ。
今のお前ならできないはずはないだろ?」
「……」
彼女に残っていたしこりが剥がれ始め、一つの希望が生まれた、生まれ変わった担任、戸田という心強い味方――。
「前を見ろ、瞳をそらさず生きてることを確かめろ。そしてお前自身が世界を変える風になれ!!」
「流君……うんっ!!」
やっと彼女に笑顔が戻った。
そうだ、昔みたいに弱い自分ではない。
彼女は断固たる自信を手に入れたのであった――。
その時、空の向こうから稲光が。数秒後に爆発のような音が。
「そういやあ雨降るつったな。お前傘は?」
「あーーっ!!学校に忘れたーーっ!!」
ポツポツと降り始め、次第に勢いが強くなっていく。学校に戻ってもずぶ濡れになるのは目に見えていた。
「こっからだと俺のアパートの方が近いな。よし椎葉、寄ってけよ、雨やむまで」
「え、ええーーっ!!?」
「早く行くぞ!!」
そして二人は急いで竜馬のアパートへ向かった。結局ずぶ濡れになった二人はすぐに部屋に入ると、彼はすぐにバスタオルを持ち出して投げ渡した。
「とりあえず頭でもふけ。あと服も乾かさねえとな、俺の服と体育用の短パンあるが使えよ」
当然の如く、彼女は赤面し、顔を横に振った。
「えっ、い、いいよいいよそんな!!!」
「風邪引くぞコラア!古いがまだ使える石油ストーブで、真上にかければすぐに乾く」
「……」
為すままに言われた通りにする歩。バスタオルと服を借り、もう一つの空き部屋を借りて、濡れた髪をくしゃくしゃに拭き、濡れた制服を脱いで竜馬のシャツと短パンを着替える。
サイズが違いすぎて、ブカブカだ。幸い短パンはヒモがあるので落ちることはなさそうだ。
(わーすごくブカブカ……足がスースーする)
歩は何を思ったのか、竜馬のシャツのニオイを嗅いで、恍惚した。
(流君のニオイ……って!!)
さすがに変態すぎると気づき、すぐにやめた。着替えると空き部屋の戸を開けた。
「流君、ありがと……」
彼女の頭に血が沸騰した。
上半身裸の竜馬が頭を拭いている光景に。
プール授業時などで一度は見ているハズなのだが、この時の歩から見た竜馬は並みならぬ男らしい魅力を出していた。
その鍛えぬかれた筋肉隆々の体格、現代の高校生、いや日本人にはなかなか成せない筋肉。割れた腹筋、モリっとした胸筋、両腕……男なら欲しくなる要素が彼は持っていた。雨に濡れて、男臭さを発散したその姿に、歩の未熟なハートを一撃で貫通された。
「な、な、流く……服着て服!!」
「ん?服か。そんなもんプールの時間とかで見慣れてんだろ。つかお前の髪型変になってんぞ」
「い、いいから早くしてっっ!!」
歩の心の高鳴りはピーク直前に達していた。
――二人は石油ストーブの熱気がこもる、この室内に対面で座っていた。彼女の制服はちょうど石油ストーブの真天井のハンガーに掛けて干していた。
「暑いが少しガマンしろよ」
「う……うん……」
今は9月の中間、暑さが残るこの季節にストーブはキツイ。額から汗が吹き出してきて、バスタオルで拭いた意味がない。
「雨やまねえな」
「……」
自分の部屋で普通にくつろぐ竜馬に対して、歩……それは。
(男の子の家に来るのって……流君以外で……小学校の時以来かな……っ)
彼女は竜馬という、端から見れば信じられないと思われる、見た目硬派な男の家にいると事実にひたっていた。
中学時代はもはやもう会うことさえ叶まぬ元親友の女子、しーちゃんこと、篠塚夕子ばかり依存して遊んでいた自分とは一変していることに。
――その時、雷が近くに落ちた。古い建物が爆音と共に振動した。
「ひゃあ!」
雷が苦手である歩は、前めりになったときなんと竜馬の胸元にたどり着いていた。
「あ、ごめ……」
しかし再び雷が落ち、歩はビクッと身震いしたが――。
「こわいか、椎葉」
なんと彼は包帯の巻かれたごつごつの左手で彼女の背中に優しく触れて、安心させようとした。
今、竜馬と密着している歩の顔はまさに熟したリンゴのように真っ赤になっていた。
(あたし……流君の胸元にいる……固いけど……あったかいや……)
歩の細く綺麗な両手は竜馬の体に触れていた。凄い男性特有の筋肉質を、全身で感じとる。そして竜馬の身体のにおい……それは歩に秘められたある『意識』を覚醒させた。
竜馬は男、自分は女。痛烈に感じていた。性別が違う二人が密接する、自分で掴んだ触感、嗅覚、視覚が認知して脳に送りこまれ、実感させる。
――『意識』、それは『異性』を意味している。
(流君……っ)
歩はこう思った。このまま時間が止まっていればいいのに、と。歩は顔を上げた。竜馬の顔がはっきり見えた。
悪人顔と言われ、人から敬遠されやすいほどに濃いが、普通の男性とはまた違う、特徴的な男臭さを持つ、そして意外にも近くで見ると整った顔立ち。濡れて乾かないボリュームのある髪が彼女をさらに魅了した。
そして彼女は『異性』から、彼に対して前から溜まっていたとある心情と融合してワンステップ上の『意識』へ到達する。
「……流君」
「椎葉?」
「わ……わたし……その……ねっ」
歩と竜馬の顔は密接した。互いの熱い息が当たり合うほどに。
「あたし……な、流君のこと……」
ストーブで室内温度が上がっているのもあり、興奮している歩の感情は一気にピークに達し抑えきれない、この時、彼女はまさしく『恋乙女』だった。そして、
「……すきぃ」
……と。