上杉謙信

Last-modified: 2010-03-26 (金) 11:41:41

生まれ

1530年1月21日、長尾為景青岩院?の間に生まれる。

どんな人?

元服後に長尾家家臣や豪族の心をすぐに掴むなど、カリスマ性に富んでいた武将。
自らを毘沙門天の化身と称す、天罰を信じて敵との戦に望む、短気である等、奇抜且つ苛烈な一面もある一方で、
よく涙を流す等、他の戦国大名とは違い非常に繊細な一面があったとされている。
遺品の甲冑の大きさから、身長は156cm程度。
血液型は、誓文の血判からAB型である。
栖吉城で生まれた、という説が伝わっている。

おいたち年表

1530年1歳誕生!長尾為景の末子として春日山城に生まれる。 寅年に生まれたため幼名を虎千代と名づけられる。
1536年7歳春日山城下の林泉寺に入り、天室光育禅師から厳しい禅の修業と文武の道を学ぶ。
同年8月虎千代の兄・長尾晴景が家督を相続。
同年12月虎千代の父・為景が病死。
1543年14歳元服して平三景虎と名乗る。長尾家領統治のため、三条城及び栃尾城に移り、城主となる。
1544年15歳近隣の豪族たちが景虎を若輩者と侮り、攻撃を仕掛けられるものの、栃尾城代本庄氏、三条城代山吉氏、栖吉城主長尾氏の協力もあり、敵を見事撃退。初陣を飾る。
1545年10月16歳12日、上杉家家臣黒田秀忠、景虎の兄・長尾景康を殺害して黒滝城に立て籠り謀反を起こす。晴景の命により景虎は、直ちに秀忠討伐の軍を向ける。その時秀忠は降伏する。
1546年2月17歳黒田秀忠が再び黒滝城にて謀反。景虎は越後守護上杉定実の命により黒滝城へ出陣。大いに破り、黒田氏を滅ぼす。
1548年12月19歳30日。景虎は越後守護上杉定実の調停により、栃尾城より春日山城に入り、兄・晴景と「父子の義」を結び、守護代長尾家を相続する。
1550年2月21歳上杉定実が死去し、越後守護上杉家断絶。将軍・足利義輝は景虎に実質的に国主大名としての待遇を与える。
同年12月 一族の長尾政景が坂戸城に立て籠もり、謀反。
1551年8月1日。長尾政景、景虎に誓詞を送り降伏。これにより越後をほぼ掌握。
1552年1月23歳関東管領上杉憲政北条氏康に敗れ、景虎を頼り越後へ逃走。景虎は憲政一行を快く受け入れ、憲政のために御館を築造した。
同年4月後奈良天皇から従五位下・弾正少弼に叙任される。
1553年2月24歳10日、兄・晴景が病死。
同年6月武田晴信に領土を奪われた、村上義清高梨政頼井上清政島津忠直栗田寛明?ら信濃諸将が、景虎に援助を請う。景虎はこれを受け入れ、直ちに兵八千を率いて川中島へ出陣する。(第一次川中島の戦い
同年9月川中島より帰還。下旬には、精兵二千を率い初めての上洛を果たし、後奈良天皇、次いで将軍・足利義輝に拝謁する。
1554年12月25歳北条城城主北条高広が、武田晴信の調略により謀反。
1555年1月26歳14日。安田城主安田景元柿崎景家らと北条城攻めを行う様に命ずる。
同年2月景虎自ら善根に出陣し、孤立無援となった北条高広は降伏する。
同年7月再び兵八千を率いて川中島に出陣。(第二次川中島の戦い
同年閏10月15日。今川義元の調停により、晴信と和睦して越後に帰還する。
1556年6月27歳出家を決意し高野山へ向かう。この時、箕冠城主大熊朝秀武田晴信と通じ謀反。直ちに春日山城に戻り朝秀を撃破、越後統一を完成させる。
1557年2月28歳15日。長尾方の葛山城が武田勢によって陥落。
同年4月21日。先の盟約違反に激怒した景虎が、善光寺に着陣する。
同年8月29日。両軍は上野原にて交戦するも、戦線は膠着。(第三次川中島の戦い
同年9月景虎、旭山城を再興する以外の戦果もなかったが、越中にて一向一揆が発生した為、撤退。
同年足利義輝から長尾・武田の両者宛に和睦を勧告する御内書が届く。
同年上杉憲政養子となる。
1558年29歳上野に出陣する。下野にも進出するも失敗。
1559年4月30歳3日。兵五千を率い、上洛。
同年5月1日。正親町天皇、次いで足利義輝に拝謁。その後は京周辺の仏閣等を周る。
同年6月29日。帰国の途に着く。
1560年1月31歳正親町天皇の即位大典に幣物を献上して祝賀する。
同年3月松倉城主椎名康胤を助ける為、富山城主神保長職を討伐。
同年8月関東管領上杉憲政を奉じて、厩橋城に入城。厩橋城で越年する。
1561年32歳年が明けると軍を率いて南下し、北条方の諸城を攻略。
同年3月小田原城を包囲する。また、その間に上杉憲政より山内上杉家の家督と関東管領職を譲られる。名を政虎と改める。
同年4月松山城を落とし、越後へ撤退。
同年8月一万八千の兵を率い、川中島へ出陣。
同年9月10日、両軍、設楽が原にて激突。(第四次川中島の戦い志駄義時?庄田定賢ら戦死。
同年12月足利義輝より『輝』の字を拝領、輝虎と改める。
1562年9月33歳7月と9月に越中に出陣。
1563年2月34歳北条・武田連合軍が松山を攻撃。援軍に向かうも到着を待たずに松山城は降伏。激怒した政虎は松山城将・上杉憲勝の子を斬り捨てたといわれる。また、その鬱憤晴らしか騎西城を落とす。
同年4月小山城を攻略。
1564年1月35歳29日、和田城攻略を止め、小田城攻めに向かいこれを攻略。城主・小田氏治は土浦城の菅谷政貞の元へ逃亡し、再起を図る。その後、唐沢山城を攻める。
同年2月17日、唐沢山城主・佐野昌綱降伏。色部勝長らを唐沢山上に留めて守らせる。
同年3月武田信玄が信越国境に接近。直ちに関東から春日山城留守将の蔵田五郎左衛門?萩原伊賀守?に実城を死守するよう厳命を出す。
同年7月下旬、兵を率いて春日山城を発する。
29日に善光寺に着陣。
同年8月1日、更科八幡宮に戦勝祈願をする。
3日、仙川を渡り川中島に進み、武田勢との決戦に臨み、対峙する。(第五次川中島の戦い)。飯山城を修復する。
同年10月両軍撤退。また、佐野昌綱が背く。
24日、沼田城に着陣。
27日、唐沢山城を攻略。
同年11月24日、虎房丸?と佐野の人質三十余名を連れ、色部勝長と共に帰国。
1565年1月36歳8日、武田信玄が上野に侵入したとの報が入り、直ちに沼田城将松本景繁河田重親?小中大蔵少輔?新発田長敦に警戒する様に命じる。
同年11月北条氏康武田信玄が関東の上杉方諸城を攻撃。出陣要請を受けた輝虎は関東に出陣。
27日、館山城主里見義弘が参陣する。
1566年2月37歳小田城攻めを開始。
17日、小田城陥落。
同年3月千葉胤富の属城である臼井城の原胤貞を攻める。しかし、千葉胤富北条氏康原胤貞を支援した為、攻略を諦める。
同年5月9日、関東より帰国。
同年閏8月12日、関東に出陣する為、上野の小泉城主富岡重朝に報ずる。
同年9月5日、上野の金山城主・由良成繁が背き、北条方に通じる。
29日、武田信玄、上杉方の箕輪城を攻略。
同年12月関東に出陣して沼田城に入り、佐竹義重に参陣を促す。
1567年2月38歳下野の佐野昌綱が再び背く。小山秀綱?太田資正に参陣を促し、昌綱の唐沢山上を攻める。
同年4月6日、厩橋城将・北条高広北条氏康に応じて謀反を起こす。輝虎は沼田城将の松本景繁小中大蔵少輔?柴田右衛門大夫?北条高広討伐を命じる。
同年5月16日、色部勝長を唐沢山城将に任命し、自身は春日山城に帰還する。
1568年越中の椎名康胤一向一揆と結び越後を脅かし始める。輝虎は、兵を率いて椎名の松倉城を攻め、さらに神通川を亘って放生津に陣を張る。
同年3月16日、守山城を攻撃し始める。しかし鳥坂城主中条藤資から「本庄繁長謀反」の報せを受け、攻撃を中止する。
25日、春日山城に帰還する。
同年10月20日、輝虎、春日山城を発する。
同年11月7日、本庄城攻めを開始。
同年12月28日、会津の蘆名盛氏と米沢の伊達輝宗が、本庄繁長を赦免するよう願い出るが、輝虎はこれを拒否する。
1569年1月39歳9日、本庄繁長、少数の兵で輝虎の陣に夜襲をかける。この戦いにて色部勝長が戦死。
同年3月本庄繁長蘆名盛氏伊達輝宗を通じ輝虎に助命を願い出る。これを容れた輝虎は、繁長の子である本庄顕長?を人質をすることを条件として本領を安堵し、自身は春日山城に凱旋する。
同年8月20日、椎名康胤を討伐する為に越中に出陣、境川を越える。
22日、松倉城を攻撃開始。攻略する。尚、攻略後は、河田長親?を番将として配置する。
同年12月20日、関東出兵。沼田城に入り、関東諸将に参陣を促す。
26日、北条氏政は沼田城の輝虎に歳暮を送る。尚、関東で年越をする。
1570年1月40歳11日、佐野昌綱の唐沢山城を攻め、これを北条氏康に報じ、武蔵の岩槻城を太田資正に返還するよう要求する。
同年2月18日、北条氏康は誓詞を送り、岩槻城を太田資正に返還し、人質を返すことを約束する。
同年3月5日、輝虎と北条氏康が和睦。(越相同盟)
同年4月10日、沼田城にて、三郎と対面し、父子の義を定める。
20日、春日山城に帰還。
25日、三郎景虎と名付け、故・長尾政景の娘を景虎の妻とし、春日山城・二の曲輪に置く。
同年9月5日、武田信玄が厩橋城を侵略しようとしているとの報を聞き、上野に出陣。
同年12月衝突は無く、帰還する。
13日、春日山城にて越中平定の祈願文を納める。尚、これより法号・謙信と称する。
1571年10月41歳3日、小田原城にて、北条氏康が病死。
同年11月大田城主佐竹義重が、武田信玄に通じ、小田原城主・北条氏政や小田城主・小田氏治らを攻める。救援を求められた謙信は、再び関東に出兵。上野の惣社に布陣し、武田勢と対峙する。
同年12月武田信玄の属城・石倉城を攻撃しようとしたが止めて、沼田城に入る。尚、関東で越年する。
1572年閏正月42歳前述の石倉城を攻略。城郭を破却して厩橋城に凱旋。次いで、信玄・北条氏政と利根川を挟んで対峙する。
同年4月何の成果も無いまま、春日山に帰還する。
同年8月18日、越中に入り、富山城を攻撃。
同年9月18日、武田信玄が春日山城大手口に侵攻するとの報に驚き、春日山城の警備を厳命する。
同年10月1日、富山城を攻略。
18日、越中の椎名康胤が降伏を申し出るが許さず、帰還した。
1573年1月43歳越中に入り一向一揆を攻撃する。椎名康胤らが降伏。富山城に守兵を置き帰還する
年3月5日、椎名康胤が再び背く。謙信は再び越中に入り、富山城を攻撃。
年4月12日、武田信玄病死。
25日、謙信は、越中から春日山城に帰還。
同年7月椎名康胤神保長職を討伐して越中平定。
同年8月10日、加賀・越中国境の朝日山城を攻めるも、一向衆の鉄砲攻撃に苦戦。
21日、北条氏政が上野に侵入。関東諸将の要請により越中から帰国し、関東出兵の準備を進める。
1574年1月44歳26日、関東出陣の触れを出す。
同年2月5日、沼田城に入る。徳川家康と呼応して武田勝頼を討伐しようとする。
同年3月上記を警戒して、織田信長加納永徳筆の「洛中洛外図屏風」一双を謙信に送って機嫌を取る。
同年4月13日、北条氏政と利根川を挟んで対峙し、進んで由良成繁の上野・金山城を攻め、武蔵の鉢形城・忍城・騎西城を放火する。
同年閏10月19日、武蔵の羽生城を破却し、騎西城に放火して、この日に厩橋城に入る。
同年12月越後に帰国する。
1575年1月45歳11日、養子・喜平次顕景に加冠し、景勝と改めさせる。
同年2月16日、諸将の軍役を定める。
1576年2月46歳本願寺蓮如と講和。
1576年3月蓮池城を攻略。城主・椎名康胤は自害。
同年5月18日、本願寺蓮如との和睦が成立。
同年9月上洛への道を開く為、越中に進軍。
8日、湯山城を包囲し、飛騨口に2城を築き、一向一揆に備える。
同年12月能登に侵攻、その大部分を平定する。
19日、七尾城を包囲する。
24日、石動山城を築き、直江景綱河田吉久?吉江資堅らに守らせる。
1577年1月47歳木楽口にて七尾城兵と交戦、打撃を被る。
同年2月七尾城総攻撃の準備を進めていたが、北条氏政が謙信方の関東諸城を攻撃。関東諸将の要請を受ける。
同年3月春日山城に戻り、関東出陣の陣触れをする。この時、能登畠山氏の重臣・長続連が織田方に寝返り、謙信方の熊木城・富木城を奪回し、穴水城に迫るとの報せを受ける。
同年閏7月春日山城を出陣し、能登を目指す。
17日、天神川原に陣を定める。
同年9月15日、遊佐続光に密書を送り、内応を誘う。続光は、温井景隆?と共にクーデターを起こし、長続連を含む長一族を殺害し謙信に投降。七尾城は陥落。(七尾城攻め)
18日、謙信、織田勢が手取川を越えたとの報を受ける。
23日、織田方は七尾城落城を報せを受けると浮き足立ち、夜陰に紛れて退却し始めるも、大雨のせいで手取川が増水して逃げ場を失い、そこに上杉勢が急襲を仕掛ける。(手取川の戦い)?
26日、七尾城を修築。鯵坂長実?河田長親?遊佐続光らに守らせ、春日山城に帰還する。
同年12月23日、謙信は、上杉軍団81名の動員名簿「上杉家家中名字尽本」を作成。
1578年3月48歳9日、春日山城の厠にて倒れる。
13日、そのまま一度も目覚める事無く、没。法名・不識院殿真光謙信。

逸話

●慈悲深い人物であった。北条高広は2度、本庄繁長は1度、謀反したのにも拘らず帰参させている。また、幾度も反乱を起こした佐野昌綱や、椎名康胤も降伏すれば命まで奪うことは無かった。
●戦場においては、たとえ銃弾が頭をかすめたとしても、自分には当たるわけが無いと信じて恐れもなく戦った。
●村上義清が景虎を頼って越後に来た時の事。謙信は義清に「晴信の兵の用い方はどんなものか?」と聞いた。
 義清は「ここ十年間晴信が勝利を得ているが、後の事を考えて慎重に物事を運び、軽率なことは少しもなく、かっても戦前より一層用心深くなり、十里動く所を三里か五里にとどめている」と答えた。
 景虎はそれを聞くと「晴信の兵の使い方は、後々を大切にするという事、つまり国を多く取ろうという考え方が基本となっているからだ。自分は国を取る事は考えず、また後々の勝利も考えず、目前に迫っている一戦を大事にするだけである」と言ったという。
●部下達は、謙信の食事により出陣の有無を知った。
●信玄の死を食事中に伝え聞いた謙信は「私は好敵手を失った。再び彼のような英雄にはもう出会えないだろう」と言った。
●信玄が父親を追放したり、謀略を駆使して敵を貶めたりする事は、謙信の道徳観に反しており、謙信は信玄の行いに激怒したと言う。

●家臣の亡霊に悩まされた!?

上杉家に仕えていた柿崎景家
景家は猛将で、常に上杉軍の先鋒として活躍していました

が、景家に謀反があるという信長の謀略にひっかかった謙信
景家を殺してしまったそうです

そんな謙信は死ぬ前、無実を訴える景家の亡霊に悩まされたと言われております

●敵に塩を送る・・・の美談

謙信のライバル・武田信玄の領地は海がないため、駿府や相模から塩を買っていました
が、駿府の今川家と信玄がケンカ
怒った今川は、相模の北条と相談して「あいつのとこに塩を送るのやめようぜ!」と、塩止め作戦をスタートさせたのです

それを聞いた謙信は「信玄と争うのは弓矢である。米や塩などがなくては民が気の毒である」と、信玄のところに塩を送ったのです
まさに「敵に塩を送る」なのでした

※が!これは美談であって、ホントのところはただたんに「商売」のため。というのも、謙信のいる越後の塩はずっと前から信州の松本にも送られていた。ということで、謙信は塩止めをせず、そのまんまフツーに商売をしていたのであります

関連のある人々

父・・・長尾為景
母・・・青岩院(虎御前)
養父・・・長尾晴景上杉憲政
兄弟
長尾晴景
長尾景康

仙桃院長尾政景室)

養子・・・上杉景勝上杉景虎畠山義春山浦景国

養女・・・山浦国清室(朝倉義景の娘)

越後の国人衆

鮎川清長
鮎川盛長
荒川長実
色部勝長
上野家成
大熊朝秀
小国頼久
柿崎景家
加地春綱
河田長親?
北条高広
小島弥太郎
斎藤朝信
新発田長敦
下平修理亮?
竹俣清綱
竹俣慶綱
直江景綱
中条藤資
中条景泰
本庄実乃
本庄繁長

山吉豊守

安田長秀
安田景元
安田顕元
吉江宗信
吉江景資

他国の家臣

大石綱元

小島職鎮?

上泉信綱

倉賀野尚行

神保長職
神保氏張
神保長城

椎名康胤
長尾輝景
長野業正
長野業盛
温井景隆?
遊佐続光
大宝寺義勝?
大宝寺義興?

藤田信吉?

上杉一門

上杉景信
上杉景勝

山浦国清
上条政繁?
山本寺孝長
山本寺定長

千坂景親?
桃井義孝
長尾景通?

上杉四天王
柿崎景家
直江景綱
宇佐美定満
甘粕景持

●他

加藤段蔵

主な敵対勢力

武田信玄
北条氏康
佐野昌綱
一向衆?
畠山春王丸?
織田信長

祐筆の人物批評

むっちゃん・・・戦国時代の人物の中では好きな人ベスト3に入ります。清廉潔白というイメージがあります。あ、女性説というのも気になります

由衣・・・謙信が天下を欲しがったら、天下は取れたかもしれません。が、天下を取らず義をとるという姿勢は、歴史上の人物の中でもほれ込むに値します。彼の志に打たれた直江兼続など、優秀な家臣を残しているのも上杉ならでは。

かこりん・・・すごいね!これ作った人

祐筆

●一番手・・・
●二番手・・・鱒
●三番手・・・ハガクレ 逸話をちょこっとプラス