生まれ
しまづよしひさ
1533~1611
どんな人?
戦国時代の大名
おいたち年表
1533年 | 1歳 | 薩摩の島津貴久の嫡男として誕生! |
1554年 | 12歳 | 初陣。岩剣城攻め |
1566年 | 34歳 | 父親から家督を譲られる |
1570年 | 38歳 | 薩摩統一 |
1572年 | 40歳 | 木崎原の戦い。日向国の伊東義祐を破る |
1573年 | 41歳 | 禰寝氏を帰順させる |
1574年 | 42歳 | 伊地知家・肝付家を帰順させ大隅統一 |
1576年 | 44歳 | 伊東義祐を亡命させ三州統一。が、伊東義祐は大友宗麟を頼ったため大友家と争いが始まる |
1578年 | 46歳 | 耳川の戦いで大友宗麟に勝利する |
年 | 歳 | 大友家が衰退していくと、龍造寺隆信た勢力拡大に力を注ぎ始める |
1581年 | 歳 | 球磨の相良家が降伏し帰順 |
1582年 | 歳 | 龍造寺隆信の圧迫に耐えかねた有馬晴信が救助を要請 |
1582年 | 歳 | 龍造寺家のの千々石城を攻め落とす |
1583年 | 歳 | 有馬家の親戚・安徳城主・安徳純俊が龍造寺家に背く。 義弘は新納忠堯・川上忠堅らを援軍似出し深江城を攻撃 |
1584年 | 52歳 | 沖田畷の戦いで弟の島津家久を総大将とし、龍造寺隆信に勝利。龍造寺家が島津に降る |
1584年 | 歳 | 肥後国の隈部親永・筑前国の秋月種実・筑後国の筑紫広門らが、次々と島津氏に降る |
1585年 | 53歳 | 肥後国の阿蘇惟光が降る。九州統一まで大友家のみとなる |
年 | 歳 | 豊臣秀吉からこれ以上九州で勢力拡大・戦をするなという書状が届く |
年 | 歳 | 豊臣秀吉の書状を無視し、大友家の所領である筑前国の攻撃を命じる |
年 | 歳 | 子供がいないため、弟の島津義弘に家督を譲る |
1586年 | 54歳 | 岩屋城の戦い。島津忠長・伊集院忠棟を大将にし、高橋紹運の篭る岩屋城を落とす |
1587年 | 55歳 | 豊臣秀吉の九州征伐が始まる |
年 | 歳 | 戸次川の戦い。大友家の鶴賀城を攻め落とした。 が、大友軍の援軍として仙石秀久、長宗我部元親、長宗我部信親?、十河存保らが九州に上陸。 乱戦の結果、島津が勝利する |
年 | 歳 | 豊臣秀長率いる毛利・小早川・宇喜多軍など15万人が豊前国に到着 |
年 | 歳 | 根白坂の戦い。島津家に従っていた家々が次々と豊臣に降伏 |
年 | 歳 | 出水城主の島津忠辰が抗戦せずに降伏 |
年 | 歳 | 秀吉と交渉に当たっていた伊集院忠棟が、自ら人質となり豊臣秀長に降伏 |
年 | 歳 | 島津家久も降伏する |
年 | 歳 | もはやこれまでと、剃髪して龍伯と名乗る |
年 | 歳 | 伊集院忠棟とともに泰平寺で豊臣秀吉と会見。正式に降伏する |
年 | 歳 | 島津義弘・島津歳久・新納忠元・北郷時久?らが抗戦を続けた。 義久は彼らに降伏を命じるが皆不満がたまる |
1592年 | 60歳 | 豊臣に反抗的な態度をとり続けた弟の島津歳久が死去(自害) |
年 | 歳 | その後も島津家内では豊臣政権に不満を持ち続ける家臣が多く存在 |
1600年 | 68歳 | 関ヶ原の合戦。西軍に与し、島津義弘を派遣する |
1604年 | 72歳 | 大隅の国分に国分城(舞鶴城)を築き移り住む |
1611年 | 79歳 | 死去 |
豊臣政権下の島津
豊臣秀吉に降伏した島津だが、家内では納得できない者が多かった。
義久が皆に降伏を命じても不服で、弟の島津歳久は、秀吉の駕籠に矢を射るなどといった事件も起こした。
島津が降伏後の秀吉の采配は、まず義久に薩摩一国を安堵し、島津義弘には大隈一国を安堵した。
また、義久に男児がいなかったため、義弘の息子に日向諸縣郡を安堵した。
九州のほぼ全域を支配していた島津にとって、この結果は不服であり、家臣らは豊臣に反発を強くした。
秀吉によって新たに九州の国を安堵された高橋元種や伊東祐兵などは、いつまでも島津の家臣が立ち退いてくれないと豊臣秀長に訴えたほどである。
また、島津は豊臣秀吉の刀狩令にもあまり力をいれず、何かと豊臣に反発。
京都に島津家の兵を滞在させろという命令の時も、兵がなかなか集まらなかった。
このため、豊臣政権内では「島津は従順ではない」と批判があがっていく。
このような状態の中、豊臣秀吉が朝鮮へ出兵することを決定した。
秀吉は諸大名に朝鮮へ向ける兵を派遣するよう命じるが、島津家は決められた兵を集めることができなかった。
さらに家臣の梅北国兼が名護屋へ向かう途中で反乱を起こす。
これに怒った秀吉は、島津は豊臣に服従する気がないと判断し、特に反抗的な態度をとっていた島津歳久の首を要求した。
義久は歳久に自害を命じるという事態にまで到ってしまう。
島津家の両殿体制
1585年に家督を弟の島津義弘に譲ったが、実際は義久が握っていた。
そのため「両殿体制」となっていた。
関ヶ原の合戦での島津家
逸話
●三人いる弟がみんな優秀だったので愚兄賢弟の生きた見本と陰口をたたかれた。が、おじいちゃんの島津忠良は当主というのはこういうタイプがいいと可愛がってくれた
●徳川家康は義久にすごい興味を持ってた
●
関連のある人々
父・・・島津貴久
正室・・・島津忠良の娘・花舜夫人
継室・・・種子島時尭の娘・円信院殿
娘・・・玉姫
娘・・・亀寿(島津忠恒の正室)
●島津家の家臣
●一門
島津久保
家臣
伊集院忠朗
伊集院忠倉
伊集院忠棟
伊集院忠真
伊集院久治
頴娃久虎
上原尚近
上井覚兼?
梅北国兼
川上久隅
川上忠克
川上久朗
川田義朗?
喜入季久?
許儀後
猿渡信光?
種子島恵時
種子島時尭
種子島久時
東郷重治?
東郷重位?
新納忠元
新納忠堯
新納忠増
祐筆の人物批評
祐筆
●一番手・・・ハガクレ
○二番手・・・島津ファン