武田信玄

Last-modified: 2010-02-04 (木) 15:29:33

武田晴信/武田信玄(たけだはるのぶ/たけだしんげん)

信玄は法名で、諱は晴信。

生まれ

1521年11月3日 武田信虎大井夫人の間に嫡男として生まれる。

どんな人?

戦国時代の武将。甲斐守護大名戦国大名
甲斐源氏の末裔にして、甲斐武田家第19代目当主。

武田信玄年表

1521年11月1歳3日、誕生!幼名は太郎。もしくは勝千代。
1533年13歳上杉朝興の娘を迎える(上杉の方)。
1534年14歳上杉の方が、出産の折に難産ゆえ母子共に死去。
1536年16歳元服。足利義晴から一字を賜り、晴信と改名。三条の方を迎える。
同年11月 初陣。海ノ口城主・平賀玄信を攻める。
1541年21歳海野平合戦に参戦。甲府へ凱旋後、晴信は家臣の助けもあり、信虎を追放後、家督を継ぐ。
1542年22歳信濃の諏訪頼重小笠原長時が攻めるがこれを撃退。
同年6月諏訪頼重高遠頼継による内乱に乗じ、高遠方について諏訪領に侵攻。諏訪を平定。
同年10月 諏訪領分割問題を発端として高遠頼継と対立。高遠勢を小淵沢で破る。
1543年9月23歳大井貞隆を攻め、長窪城落城。貞隆は捕らえられる。
1545年25歳高遠頼継藤沢頼親を相次いで降伏させる。
1547年27歳志賀城の笠原清繁を攻める。この時笠原勢には上野の上杉憲政が援軍に加わる。
同年8月 6日、小田井原の戦い?で笠原・上杉勢を破り、佐久郡制圧を完了する。
同年分国法・甲州法度之次第(信玄家法)を定める。
1548年2月28歳14日、上田原の戦い。この戦に敗れ、板垣信方甘利虎泰初鹿野伝衛門?らが戦死。
同年7月 19日、塩尻峠の戦い(勝弦峠の戦い)。この戦で小笠原勢に大勝。
1550年7月30歳小笠原領への侵攻。林城を攻略する。小笠原長時は平瀬城から葛尾城へ。
同年8月 小県に進撃を開始。
同年9月 砥石城に総攻撃を開始するが、大敗。横田高松ら1200名余が戦死。(砥石崩れ?
1551年5月31歳26日、真田幸隆(幸綱)が策略で砥石城を落とす。
同年10月 24日、平瀬城を攻略。城主・平瀬義兼は自刃。
 27日、小岩嶽城の攻撃を開始。
1552年8月32歳12日、小岩嶽城を攻略。城主・古厩盛兼?は自害。
1553年4月33歳苅谷原城攻略。また、虚空蔵山城に放火し、塔原城とともに自落。
 葛尾城攻略。晴信自身は青柳城で采配を振るう。村上義清は越後へ。
 22日、武田勢先方隊と信越連合軍が八幡にて激突。翌23日に葛尾城を奪還される。
同年5月 一旦、深志城に引き、その後甲府に戻る。
同年8月 和田城、高鳥屋城、塩田城を相次いで攻略。また、大井信広が謀叛を起こすも直ちに鎮圧。
同年9月 1日、武田軍と長尾軍が川中島で激突。
同年10月17日、甲府に帰還。
1554年34歳甲相駿三国同盟が成立。
同年8月嫡男・義信に佐久郡に侵攻させ、自らは下伊那郡に侵攻。
同年12月長尾方・北条高広に反乱を起こさせる。
1555年35歳調略に応じ、栗田鶴寿?が寝返る。
同年4月栗田勢が旭山城に籠城したのを知ると、武田方援軍3000を旭山城に向かわせ、自らも後詰として川中島へ出陣し、犀川を挟んで長尾方と対峙する。
同年10月15日、今川義元の調停により、両軍撤退。その後、木曽義康義昌父子を降伏させ、南信濃を平定。
1556年8月36歳真田幸隆が尼巌城を攻略。城主・東条信広?は越後へ逃れる。更に、長尾方の大熊朝秀を調略し、反乱を起こさせて越後侵攻を図るも失敗。
1557年2月37歳15日、葛山城を攻略。高梨政頼の居城・飯山城に迫る。
同年7月5日、別働隊に命じ、信越国境近くの小谷城を落とす。
同年8月29日、上野原にて両軍は交戦するも、戦線は膠着。
同年10月同年9月に長尾景虎が撤退すると、自らも甲斐に撤退。
同年足利義輝から長尾・武田の両者宛に和睦を勧告する御内書が届き、晴信は和睦の代わりに信濃守護職を要求し、これが許され、武田方の信濃支配が幕府により正当化される。
1558年38歳和睦を無視して北信濃へ出陣。義輝は御内書を送り和睦無視を責めるが、晴信は「信濃守護の職責を果たす為」と自らの正当性を主張し、逆に景虎を責める。
同年9月善光寺如来を甲府(甲斐善光寺)に移す。
1559年39歳出家し、名を徳栄軒信玄と改める。
同年9月生島足島神社に願文を捧げる。
1560年9月40歳歳北条氏康の要請に応じ、北信濃へ出陣。海津城を築く。
1561年8月41歳16日、武田方家臣・高坂昌信によって上杉政虎の出陣を知った信玄は、甲府を進発。
24日、妻女山に陣取った政虎に対し、信玄は千曲川を挟んだ位置にある塩崎城に入る。
29日、戦線硬直を避けるため、川中島の八幡原を横断して海津城に入る。その後、山本勘助馬場信春に上杉軍撃滅の作戦立案を命じる。
同年9月9日深夜、高坂昌信馬場信春らの別働隊を妻女山に向かわせ、自ら率いる本隊は八幡原に布陣。
10日、両軍、川中島にて激突。武田信繁山本勘助諸角虎定らが戦死。
同年11月上野に出陣し倉賀野城を攻める。
1562年11月42歳北条勢と共に関東に出陣。松山城を攻める。
1563年2月43歳北条勢と共に松山城を攻略。
同年冬上野に出兵し、岩櫃城を攻略。
1564年44歳会津蘆名盛氏を誘い、その隙に野尻城を攻略し越後へ侵入する。
同年7月飛騨?での争いに加担し、山県昌景らに江馬方の味方として向かわせる。
同年8月武田・上杉双方が川中島で再び対峙。
同年10月両軍、川中島から撤退。
1565年5月45歳上野?に出陣し、倉賀野城を攻略。城主・倉賀野尚行は越後へ。
1566年9月46歳箕輪城攻略。城主・長野業盛は自刃。
1567年10月47歳義信死去。
1568年12月48歳6日、徳川家康と共に今川領へ。信玄は駿河侵攻を開始するため、甲府を発つ。
11日、内房に布陣。
12日、サッタ峠の戦い(第一次合戦)。
13日、駿府占領。今川氏真は掛川城へ逃れる。
1569年1月49歳秋山信友に、信濃より遠江へ侵攻を命じる。また、サッタ峠の戦い(第二次合戦)が始まる。
同年4月睨み合いの末、両軍撤退。武田方は穴山信君を江尻城に残し、駿府等駿河の大半を放棄し甲斐に撤退。駿府は家康が占領。
同年6月再び駿河に侵攻。三島城・古沢新城を囲むも攻略出来ず。大宮城を攻略。
同年9月5日、信玄が碓氷峠を越えて上野?に侵入。
7日、小山田信茂が小仏峠を越えて武蔵に侵入。
10日、信玄の本隊は鉢形城を包囲。
下旬、小山田隊と合流し、滝山城を包囲。
同年10月1日、小田原城攻撃開始。数日で甲斐に引き揚げる。
6日、北条?勢の追撃により、三増峠の戦いが起こる。
同年11月再び駿河に侵攻。
同年12月興津城・蒲原城を攻略して駿府を占領。
1570年1月50歳花沢城を攻略。城主・大原資良?は高天神城の小笠原長忠?の元へ落ち延びる。
同年4月駿河・伊豆へ侵攻。吉原・沼津で北条?勢と戦う。
同年7月正室・三条の方死去。
同年8月伊豆方面へ侵攻し、韮山城・興国寺城を包囲。
同年10月上杉輝虎北条?方の援軍として兵を送る。このため、信玄は兵を引く。
同年12月上野に出陣し、沼田城の輝虎と対峙。
1571年1月51歳興国寺城・深沢城を包囲。
同年3月高天神城を包囲。
同年4月三河に侵攻。足助城・大沼城・田代城を攻略。野田城を攻撃。城主・菅沼定盈は吉田城に退却。家康は酒井忠次が武田軍を二連木城で食い止めている間に、吉田城に入る。
同年5月甲斐に撤退。家康は野田城以下この時信玄が手に入れた城を取り戻す。
同年12月甲相同盟?、復活。
1572年1月52歳謙信が関東に出撃したため、信玄は箕輪城に出撃、両軍対峙する。
同年9月29日、山県昌景に命じて別働隊を率いて三河を侵攻させる。また、秋山信友に命じて別働隊を率いて東美濃に侵攻させる。
同年10月3日、信玄の本隊が出陣。青崩峠を越えて徳川方の犬居城城主・天野景貫の道案内の元、遠江?を侵攻。
13日、馬場信春に本隊の一部を預けて二俣城に進撃させ、自らは本隊を率いて南下。僅か一日で天方城・飯田城・向笠城・一宮城等を攻略、木原に着陣する。
14日、一言坂にて、徳川方を追撃(一言坂の戦い)。二俣城へ向かう。
16日、二俣城を包囲する。
同年11月山県昌景が本隊と合流する。
同年12月19日、二俣城を攻略(二俣城の戦い)。城主・中根正照らは浜松城に落ち延びる。
22日、三方ヶ原の戦い。戦後、刑部に着陣する。
1573年1月53歳10日、宿泊先の刑部を出発。野田城に向け、侵攻。
同年2月16日、野田城を攻略。城主・菅沼定盈は、既に徳川?方に捕らえられていた奥平貞勝と人質交換される。長篠城へ入城。
同年4月12日、信玄没す。

逸話

●騎馬軍団として有名ではあるが、鉄砲も重視していた。
●信濃に出陣した時、一羽の鳩が武田軍の陣中に舞い降りた。鳩は縁起の良い鳥であると言われていたので、兵士たちは口々に囁いて喜んだ。だが、その理由を聞いた信玄はすぐさまその鳩を撃ち殺してしまう。これは、そういう事を信じている様では、もしも合戦に鳩が飛来しなかった場合に、落胆したり不安を感じたり敵を恐れる心が生じて、合戦が危機に瀕する事の無い様に、という配慮であった。
●信玄は、終生上杉謙信を上杉姓で呼ばなかった。関東管領上杉家の格式は甲斐守護の上に位置しているので、最期まで長尾姓で呼び続けていたという。
●躑躅ヶ崎館には水洗トイレがあった。
●甲州金(碁石金)の制度を整えたと言われている。

関連のある人々

父母

武田信虎
大井の方

兄弟

武田竹松
武田犬千代
武田信繁
武田信基
武田信廉
武田信是
武田宗智
河窪信実?
一条信龍?
武田信友
武田勝虎
定恵院今川義元室)
南松院?穴山信友室)
禰々?諏訪頼重室)
菊御料人?菊亭晴季?室)
亀御料人?大井信為室)

妻妾

●正室:上杉の方上杉朝興の娘)
●継室:三条の方三条公頼の娘)
●側室:諏訪御料人諏訪頼重の娘)
●側室:根津御寮人?禰津元直?の娘)
●側室:油川夫人油川源左衛門?の娘)

子女

武田義信
海野信親?
武田信之?
黄梅院北条氏政室)
見性院穴山信君室)
武田勝頼(諏訪勝頼)
真竜院?木曽義昌室)
仁科盛信
葛山信貞?
武田信清?
菊姫上杉景勝室)
松姫織田信忠と婚約)

主要家臣

板垣信方
甘利虎康
飯富虎昌
諸角虎定
原虎胤
馬場信春
高坂昌信
山県昌景
内藤昌豊
浅利信種
原昌胤
小山田信有
小山田信茂
駒井政武
横田高松
多田満頼?
木曽義康
木曽義昌
穴山信君
武田信豊
山本勘助
小畠虎盛?
小幡昌盛?
小幡憲重
小幡信貞?
真田幸隆
真田信綱
真田昌輝
真田昌幸

敵対した主な人物

諏訪頼重
高遠頼継
小笠原長時
村上義清
上杉謙信
北条氏康
今川氏真
徳川家康
織田信長

祐筆の人物批評

むっちゃん・・・武田家は滅亡してしまったのが悲しいです。それにしても鱒さん、よくここまで書きましたね!感服します (OO;

祐筆

●一番手・・・鱒