武田晴信/武田信玄(たけだはるのぶ/たけだしんげん)
信玄は法名で、諱は晴信。
生まれ
1521年11月3日 武田信虎と大井夫人の間に嫡男として生まれる。
どんな人?
戦国時代の武将。甲斐の守護大名・戦国大名。
甲斐源氏の末裔にして、甲斐武田家第19代目当主。
武田信玄年表
1521年11月 | 1歳 | 3日、誕生!幼名は太郎。もしくは勝千代。 |
1533年 | 13歳 | 上杉朝興の娘を迎える(上杉の方)。 |
1534年 | 14歳 | 上杉の方が、出産の折に難産ゆえ母子共に死去。 |
1536年 | 16歳 | 元服。足利義晴から一字を賜り、晴信と改名。三条の方を迎える。 |
同年11月 | 初陣。海ノ口城主・平賀玄信を攻める。 | |
1541年 | 21歳 | 海野平合戦に参戦。甲府へ凱旋後、晴信は家臣の助けもあり、信虎を追放後、家督を継ぐ。 |
1542年 | 22歳 | 信濃の諏訪頼重と小笠原長時が攻めるがこれを撃退。 |
同年6月 | 諏訪頼重と高遠頼継による内乱に乗じ、高遠方について諏訪領に侵攻。諏訪を平定。 | |
同年10月 | 諏訪領分割問題を発端として高遠頼継と対立。高遠勢を小淵沢で破る。 | |
1543年9月 | 23歳 | 大井貞隆を攻め、長窪城落城。貞隆は捕らえられる。 |
1545年 | 25歳 | 高遠頼継と藤沢頼親を相次いで降伏させる。 |
1547年 | 27歳 | 志賀城の笠原清繁を攻める。この時笠原勢には上野の上杉憲政が援軍に加わる。 |
同年8月 | 6日、小田井原の戦い?で笠原・上杉勢を破り、佐久郡制圧を完了する。 | |
同年 | 分国法・甲州法度之次第(信玄家法)を定める。 | |
1548年2月 | 28歳 | 14日、上田原の戦い。この戦に敗れ、板垣信方・甘利虎泰・初鹿野伝衛門?らが戦死。 |
同年7月 | 19日、塩尻峠の戦い(勝弦峠の戦い)。この戦で小笠原勢に大勝。 | |
1550年7月 | 30歳 | 小笠原領への侵攻。林城を攻略する。小笠原長時は平瀬城から葛尾城へ。 |
同年8月 | 小県に進撃を開始。 | |
同年9月 | 砥石城に総攻撃を開始するが、大敗。横田高松ら1200名余が戦死。(砥石崩れ?) | |
1551年5月 | 31歳 | 26日、真田幸隆(幸綱)が策略で砥石城を落とす。 |
同年10月 | 24日、平瀬城を攻略。城主・平瀬義兼は自刃。 | |
27日、小岩嶽城の攻撃を開始。 | ||
1552年8月 | 32歳 | 12日、小岩嶽城を攻略。城主・古厩盛兼?は自害。 |
1553年4月 | 33歳 | 苅谷原城攻略。また、虚空蔵山城に放火し、塔原城とともに自落。 |
葛尾城攻略。晴信自身は青柳城で采配を振るう。村上義清は越後へ。 | ||
22日、武田勢先方隊と信越連合軍が八幡にて激突。翌23日に葛尾城を奪還される。 | ||
同年5月 | 一旦、深志城に引き、その後甲府に戻る。 | |
同年8月 | 和田城、高鳥屋城、塩田城を相次いで攻略。また、大井信広が謀叛を起こすも直ちに鎮圧。 | |
同年9月 | 1日、武田軍と長尾軍が川中島で激突。 | |
同年10月 | 17日、甲府に帰還。 | |
1554年 | 34歳 | 甲相駿三国同盟が成立。 |
同年8月 | 嫡男・義信に佐久郡に侵攻させ、自らは下伊那郡に侵攻。 | |
同年12月 | 長尾方・北条高広に反乱を起こさせる。 | |
1555年 | 35歳 | 調略に応じ、栗田鶴寿?が寝返る。 |
同年4月 | 栗田勢が旭山城に籠城したのを知ると、武田方援軍3000を旭山城に向かわせ、自らも後詰として川中島へ出陣し、犀川を挟んで長尾方と対峙する。 | |
同年10月 | 15日、今川義元の調停により、両軍撤退。その後、木曽義康・義昌父子を降伏させ、南信濃を平定。 | |
1556年8月 | 36歳 | 真田幸隆が尼巌城を攻略。城主・東条信広?は越後へ逃れる。更に、長尾方の大熊朝秀を調略し、反乱を起こさせて越後侵攻を図るも失敗。 |
1557年2月 | 37歳 | 15日、葛山城を攻略。高梨政頼の居城・飯山城に迫る。 |
同年7月 | 5日、別働隊に命じ、信越国境近くの小谷城を落とす。 | |
同年8月 | 29日、上野原にて両軍は交戦するも、戦線は膠着。 | |
同年10月 | 同年9月に長尾景虎が撤退すると、自らも甲斐に撤退。 | |
同年 | 足利義輝から長尾・武田の両者宛に和睦を勧告する御内書が届き、晴信は和睦の代わりに信濃守護職を要求し、これが許され、武田方の信濃支配が幕府により正当化される。 | |
1558年 | 38歳 | 和睦を無視して北信濃へ出陣。義輝は御内書を送り和睦無視を責めるが、晴信は「信濃守護の職責を果たす為」と自らの正当性を主張し、逆に景虎を責める。 |
同年9月 | 善光寺如来を甲府(甲斐善光寺)に移す。 | |
1559年 | 39歳 | 出家し、名を徳栄軒信玄と改める。 |
同年9月 | 生島足島神社に願文を捧げる。 | |
1560年9月 | 40歳歳 | 北条氏康の要請に応じ、北信濃へ出陣。海津城を築く。 |
1561年8月 | 41歳 | 16日、武田方家臣・高坂昌信によって上杉政虎の出陣を知った信玄は、甲府を進発。 |
24日、妻女山に陣取った政虎に対し、信玄は千曲川を挟んだ位置にある塩崎城に入る。 | ||
29日、戦線硬直を避けるため、川中島の八幡原を横断して海津城に入る。その後、山本勘助・馬場信春に上杉軍撃滅の作戦立案を命じる。 | ||
同年9月 | 9日深夜、高坂昌信・馬場信春らの別働隊を妻女山に向かわせ、自ら率いる本隊は八幡原に布陣。 | |
10日、両軍、川中島にて激突。武田信繁・山本勘助・諸角虎定らが戦死。 | ||
同年11月 | 上野に出陣し倉賀野城を攻める。 | |
1562年11月 | 42歳 | 北条勢と共に関東に出陣。松山城を攻める。 |
1563年2月 | 43歳 | 北条勢と共に松山城を攻略。 |
同年冬 | 上野に出兵し、岩櫃城を攻略。 | |
1564年 | 44歳 | 会津の蘆名盛氏を誘い、その隙に野尻城を攻略し越後へ侵入する。 |
同年7月 | 飛騨?での争いに加担し、山県昌景らに江馬方の味方として向かわせる。 | |
同年8月 | 武田・上杉双方が川中島で再び対峙。 | |
同年10月 | 両軍、川中島から撤退。 | |
1565年5月 | 45歳 | 上野?に出陣し、倉賀野城を攻略。城主・倉賀野尚行は越後へ。 |
1566年9月 | 46歳 | 箕輪城攻略。城主・長野業盛は自刃。 |
1567年10月 | 47歳 | 義信死去。 |
1568年12月 | 48歳 | 6日、徳川家康と共に今川領へ。信玄は駿河侵攻を開始するため、甲府を発つ。 |
11日、内房に布陣。 | ||
12日、サッタ峠の戦い(第一次合戦)。 | ||
13日、駿府占領。今川氏真は掛川城へ逃れる。 | ||
1569年1月 | 49歳 | 秋山信友に、信濃より遠江へ侵攻を命じる。また、サッタ峠の戦い(第二次合戦)が始まる。 |
同年4月 | 睨み合いの末、両軍撤退。武田方は穴山信君を江尻城に残し、駿府等駿河の大半を放棄し甲斐に撤退。駿府は家康が占領。 | |
同年6月 | 再び駿河に侵攻。三島城・古沢新城を囲むも攻略出来ず。大宮城を攻略。 | |
同年9月 | 5日、信玄が碓氷峠を越えて上野?に侵入。 | |
7日、小山田信茂が小仏峠を越えて武蔵に侵入。 | ||
10日、信玄の本隊は鉢形城を包囲。 | ||
下旬、小山田隊と合流し、滝山城を包囲。 | ||
同年10月 | 1日、小田原城攻撃開始。数日で甲斐に引き揚げる。 | |
6日、北条?勢の追撃により、三増峠の戦いが起こる。 | ||
同年11月 | 再び駿河に侵攻。 | |
同年12月 | 興津城・蒲原城を攻略して駿府を占領。 | |
1570年1月 | 50歳 | 花沢城を攻略。城主・大原資良?は高天神城の小笠原長忠?の元へ落ち延びる。 |
同年4月 | 駿河・伊豆へ侵攻。吉原・沼津で北条?勢と戦う。 | |
同年7月 | 正室・三条の方死去。 | |
同年8月 | 伊豆方面へ侵攻し、韮山城・興国寺城を包囲。 | |
同年10月 | 上杉輝虎が北条?方の援軍として兵を送る。このため、信玄は兵を引く。 | |
同年12月 | 上野に出陣し、沼田城の輝虎と対峙。 | |
1571年1月 | 51歳 | 興国寺城・深沢城を包囲。 |
同年3月 | 高天神城を包囲。 | |
同年4月 | 三河に侵攻。足助城・大沼城・田代城を攻略。野田城を攻撃。城主・菅沼定盈は吉田城に退却。家康は酒井忠次が武田軍を二連木城で食い止めている間に、吉田城に入る。 | |
同年5月 | 甲斐に撤退。家康は野田城以下この時信玄が手に入れた城を取り戻す。 | |
同年12月 | 甲相同盟?、復活。 | |
1572年1月 | 52歳 | 謙信が関東に出撃したため、信玄は箕輪城に出撃、両軍対峙する。 |
同年9月 | 29日、山県昌景に命じて別働隊を率いて三河を侵攻させる。また、秋山信友に命じて別働隊を率いて東美濃に侵攻させる。 | |
同年10月 | 3日、信玄の本隊が出陣。青崩峠を越えて徳川方の犬居城城主・天野景貫の道案内の元、遠江?を侵攻。 | |
13日、馬場信春に本隊の一部を預けて二俣城に進撃させ、自らは本隊を率いて南下。僅か一日で天方城・飯田城・向笠城・一宮城等を攻略、木原に着陣する。 | ||
14日、一言坂にて、徳川方を追撃(一言坂の戦い)。二俣城へ向かう。 | ||
16日、二俣城を包囲する。 | ||
同年11月 | 山県昌景が本隊と合流する。 | |
同年12月 | 19日、二俣城を攻略(二俣城の戦い)。城主・中根正照らは浜松城に落ち延びる。 | |
22日、三方ヶ原の戦い。戦後、刑部に着陣する。 | ||
1573年1月 | 53歳 | 10日、宿泊先の刑部を出発。野田城に向け、侵攻。 |
同年2月 | 16日、野田城を攻略。城主・菅沼定盈は、既に徳川?方に捕らえられていた奥平貞勝と人質交換される。長篠城へ入城。 | |
同年4月 | 12日、信玄没す。 |
逸話
●騎馬軍団として有名ではあるが、鉄砲も重視していた。
●信濃に出陣した時、一羽の鳩が武田軍の陣中に舞い降りた。鳩は縁起の良い鳥であると言われていたので、兵士たちは口々に囁いて喜んだ。だが、その理由を聞いた信玄はすぐさまその鳩を撃ち殺してしまう。これは、そういう事を信じている様では、もしも合戦に鳩が飛来しなかった場合に、落胆したり不安を感じたり敵を恐れる心が生じて、合戦が危機に瀕する事の無い様に、という配慮であった。
●信玄は、終生上杉謙信を上杉姓で呼ばなかった。関東管領・上杉家の格式は甲斐守護の上に位置しているので、最期まで長尾姓で呼び続けていたという。
●躑躅ヶ崎館には水洗トイレがあった。
●甲州金(碁石金)の制度を整えたと言われている。
関連のある人々
父母
兄弟
●武田竹松
●武田犬千代
●武田信繁
●武田信基
●武田信廉
●武田信是
●武田宗智
●河窪信実?
●一条信龍?
●武田信友
●武田勝虎
●定恵院(今川義元室)
●南松院?(穴山信友室)
●禰々?(諏訪頼重室)
●菊御料人?(菊亭晴季?室)
●亀御料人?(大井信為室)
妻妾
●正室:上杉の方(上杉朝興の娘)
●継室:三条の方(三条公頼の娘)
●側室:諏訪御料人(諏訪頼重の娘)
●側室:根津御寮人?(禰津元直?の娘)
●側室:油川夫人(油川源左衛門?の娘)
子女
●武田義信
●海野信親?
●武田信之?
●黄梅院(北条氏政室)
●見性院(穴山信君室)
●武田勝頼(諏訪勝頼)
●真竜院?(木曽義昌室)
●仁科盛信
●葛山信貞?
●武田信清?
●菊姫(上杉景勝室)
●松姫(織田信忠と婚約)
主要家臣
●板垣信方
●甘利虎康
●飯富虎昌
●諸角虎定
●原虎胤
●馬場信春
●高坂昌信
●山県昌景
●内藤昌豊
●浅利信種
●原昌胤
●小山田信有
●小山田信茂
●駒井政武
●横田高松
●多田満頼?
●木曽義康
●木曽義昌
●穴山信君
●武田信豊
●山本勘助
●小畠虎盛?
●小幡昌盛?
●小幡憲重
●小幡信貞?
●真田幸隆
●真田信綱
●真田昌輝
●真田昌幸
敵対した主な人物
●諏訪頼重
●高遠頼継
●小笠原長時
●村上義清
●上杉謙信
●北条氏康
●今川氏真
●徳川家康
●織田信長
祐筆の人物批評
むっちゃん・・・武田家は滅亡してしまったのが悲しいです。それにしても鱒さん、よくここまで書きましたね!感服します
祐筆
●一番手・・・鱒