武田信繁(たけだのぶしげ)
官職である左馬助の唐名から「典厩」と呼ばれる。
生まれ
どんな人?
性格は誠実で、しかも文武両道であった。
幼い頃から利発な少年ゆえに、父・武田信虎の愛情を一身に受け、ついには嫡男である晴信を廃嫡して信繁を嫡男としよう考えるも、当の信繁は、幼い頃から兄・晴信に対して絶対的ともいえる忠誠を尽くし、父が追放されてもそれは変わらず、いち早く兄に忠誠を誓った。
生涯年表
1525年 | 1歳 | 誕生! |
1541年 | 17歳 | 父・信虎追放。 |
1542年 | 18歳 | 伊那侵攻に従軍。 |
1548年2月 | 24歳 | 上田原の戦いに従軍。 |
同年7月 | 塩尻峠の戦いに従軍。 | |
1551年2月 | 27歳 | 1日。吉田氏の名跡を継ぐ。 |
1561年9月 | 37歳 | 10日。川中島の戦いにて、戦死。法名は松操院殿鶴山巣月大居士。 |
逸話
●愛用の鶴の鞭が典厩寺に残されている。
●第四次川中島の戦いにおいて、討死を覚悟し春日源之丞に形見を託している。
●その死を知った信玄は、人目を憚らず慟哭したという。
関連のある人々
●武田信虎
●武田信玄
●村上義清・・・一説に信繁を討ち取ったと言われている。
●望月信頼?
●武田信豊
●望月信永?
祐筆の人物批評
鱒「さわやかなイメージがあります。名将と言っても過言ではありませんね。」
祐筆
●一番手・・・鱒