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毛利秀包

Last-modified: 2009-11-09 (月) 10:59:32

生まれ Edit

もうりひでかね

1567年生まれ
1601年没

どんな人? Edit

毛利元就の9番番目の息子

おいたち Edit

誕生
生まれた時はすでに一番上の兄・毛利隆元は死んでた。

領地ゲット
4歳になると備後に所領を与えられるんだけど、そのときに備後の国人・大田英綱?が死んでしまい、その家臣らから大田家の後継ぎになってくれと頼まれ、大田姓を名乗った

小早川家の養子に
12歳の時にお母さんの乃美大方が小早川家の庶流である乃美家出身ってことで小早川隆景の養子になる

人質になる
豊臣秀吉の人質として送られる。

小牧・長久手の戦いに出陣
秀吉のもとで戦いにいくけど、おかーさんがめっちゃ心配して早く戻ってこさせて!と、毛利輝元にお願いした

秀吉のお気に入りに
秀包は豊臣秀吉に気に入られてたので、18歳の時に領地を与えられる

20歳で城主に
久留米城を築き、居城にした

結婚大友宗麟の娘を妻にした

キリシタン大名に
大友宗麟がキリシタンだったので、影響をうけ洗礼する
洗礼名を「シマオ」とし、そしてキリシタン大名となる

文禄・慶長の役
25歳於の時に文禄の役が始まり500の兵士を率いて朝鮮に出兵

別の家をつくる
27歳になると秀吉の養子・小早川秀秋が隆景の養子となったために秀包は廃嫡になっちゃった。
秀包は別家を創設している

関ヶ原の戦い
1600年の関ヶ原の合戦では西軍に加わり、大坂城玉造口を守備することに
京極高次の籠る大津城を兄の末次元康立花宗茂らとともに攻め落城させた。
が、本戦が負大津城を撤退して大坂城に帰る

国でも戦いが!
このとき国許でも戦が起こっており、久留米城を黒田官兵衛鍋島直茂率いる37,000の軍に攻撃を受けていた。城には宿老の桂広繁白井景俊らわずか500の兵しか残っていなかった。
でも、数日城は持ちこたえた後、開城勧告に応じて城を明け渡した。
秀包の正室桂姫?と嫡男毛利元鎮は黒田家の人質に、桂広繁の4男黒寿丸は鍋島家の人質になる。

改易される
関ヶ原の合戦後は改易され、毛利輝元より長門国内に所領を与えられる

小早川姓を捨てる
小早川秀秋が裏切りをし、その余波がくるのを避けるため、小早川姓を捨てて毛利姓に復帰した。

剃髪
大徳寺で剃髪して玄済道叱と称した。

35歳で死去
帰国後は体調が悪化
療養したけど効果なく、1601年に35歳の若さにて病没。

逸話 Edit

小早川隆景は秀包をかなり気に入っていた
●朝鮮出兵では立花宗茂とも並ぶ抜群の武勇を誇った
●息子の毛利元鎮は吉敷毛利家の始祖となる

関連のある人々 Edit


祐筆の人物批評 Edit

祐筆 Edit

●一番手・・・ハガクレ