浅井長政

Last-modified: 2010-02-02 (火) 09:35:21

生まれ

浅井久政の嫡男
六角氏の居城・南近江観音寺城下(現在の滋賀県安土町)で生まれる

どんな人?

小谷城の城主
織田信長の義弟で、正妻は戦国時代の美女・お市

祐筆・愛の採点(10点満点)

判断力・・・3点 やっぱり朝倉を選んだというコトで
勇敢さ・・・10点 浅井家を確立させたので
政治力・・・7点
イケメン度・・・5点 肖像画はいまいちですよね

おいたち年表

長政が生まれた頃の浅井家は六角家に負けていて、初代当主・浅井亮政の代に手に入れた領地を失っていました。
六角家の家臣のような立場にいたのです。

そのため長政も母親の小野殿と共に六角家の人質になっていました。

長政の父・浅井久政は六角氏との外交に力をいれていてかろうじて北近江を維持
家臣の中には浅井久政の弱腰な政策に反発する者も多く、また先代に活躍した武将も世代交代という名目で低い扱いを受けていたのです。
そんな状況でした。

1545年0歳幼名は猿夜叉丸
1560年15歳元服する。この時、六角氏は六角・浅井の関係が臣従関係にあることをはっきりさせるため長政に対して六角氏の当主六角義賢の一字をとって「賢政」と名乗らせた
1560年15歳六角家の家臣・平井定武の娘との婚姻
1560年15歳VS六角家との野良田の戦いに参戦。で見事な戦ぶりでした。。
この戦いぶりが重臣の赤尾清綱海北綱親遠藤直経らを心酔させた。
この時援助してくれたのが朝倉家だったため、以後恩を感じる。
この戦いの六角家は短期間で寄せ集めの軍備しかできなかったから。また合戦後は朝倉氏との関わりを少なくした独立政治を行う。このあたりから弱腰の久政に代わって長政が主導権を握るようになってきます
1561年16歳「長政」と名乗るようになる 
1563年18歳六角家で。観音寺騒動が起きる。
これは六角氏の筆頭家臣であった。後藤賢豊が暗殺されるという事件。
これにより六角家を離れて浅井家にやってくる人が増えた 
1563年18歳長政が美濃へ遠征に行く。が、長政がいないことを知った六角家が軍を動した。
長政はすぐさま引き返して六角軍を撃破!殿(しんがり)となった海北綱親はたった500の兵で見事な働きをした。以後、六角家内は政策失敗により弱体化していき、浅井家との間ではこう着状態が続く 
?年?歳ある時、浅井家に織田信長の使者がやってきた。
織田信長織田信長はと膠着状態が続いていて、なんとかこの状況を打破しようと、不破光治を使者として送り、長政と同盟を提案した。
同盟の条件は浅井家にとってすごくいいものだったが、浅井家臣の中では織田信長を信用できない!と、意見が割れた。
重臣・遠藤直経も反対だったという。
なぜこの有利な同盟に反対意見が出たかというと、織田家は浅井家の盟友である朝倉義景と仲が悪かったから。結局最後は長政の決断によって同盟が成立した。
そしてこのとき「同盟がある限り、織田は朝倉を攻撃しないこと。もし朝倉を攻める時があったとしたら必ず一報をいれること」という条件で同盟成立となった。
この同盟によって信長は上洛進路を確保することができ、朝倉氏に滞在している15代将軍足利義昭も手中にする。長政は織田信長という大勢力との繋がりができたことによって、他の大名に大きな牽制になった
1567年23歳織田・浅井の同盟により織田信長の妹と結婚  
1568年24歳7月、朝倉家にいた足利義昭はまったくに上洛してくれない朝倉義景に見切りをつけ、織田信長の元へいく
1568年24歳9月、織田信長は上洛を開始!上洛の道中、反抗する六角氏を攻撃しまくり、長政の最大の宿敵だった六角家が比叡山に撤退した。そして浅井家も足利義昭を守り上洛を掩護した
1570年26歳が、織田信長信長が長政と交わした「朝倉家を攻めない」という約束を破って破り、徳川家康と共に琵琶湖西岸を通過して越前の朝倉方の城を攻め始めた。 
1570年26歳織田信長が朝倉家を攻めたことを知った長政は、恩義のある朝倉家を助けることに。
織田徳川軍を背後から急襲した。信長は殿を務めた池田勝正の功績などもあり、苦戦しながらも近江を脱出した(金ヶ崎の退き口)。
こうして織田信長と対立することに
1570年6月28日26歳姉川の合戦 浅井・朝倉連合軍VS織田・徳川連合軍の戦い。
この戦いで浅井軍の先鋒・磯野員昌が織田軍の備え13段のうち11段まで崩すというものすごい猛攻を見せた。織田軍は敗走の用意をしていたという逸話がある。
が、朝倉軍が全然ダメで、結局この戦は織田・徳川連合軍の勝利となった。また、藤堂高虎は名もない兵として参戦して多くの武功をあげ、長政に感状を送られた 
1570~26歳姉川の合戦信長包囲網が続いた。本願寺家。毛利家・武田家・上杉家などの大名が信長を攻めた
1571年27歳長政は朝倉家や一向宗らとともに信長へ攻撃を開始した。この時森可成森可成、織田信治らを討ち取るも、浅井家と協力しあっていた比叡山延暦寺が信長に比叡山焼き討ちされてしまう
1572年7月28歳織田信長がとうとう動き出した。長政は朝倉義景に援軍を要請。義景は1万5000の軍勢を率い駆けつけた。ずっと睨み合いが続いたが、浅井・朝倉連合軍は織田軍に数で劣っていて苦しい状態だった。
1572年9月1日28歳武田信玄が上洛のため動き出した。武田信玄は長政にも書状を出した。長政としてはじわじわ攻めてくる織田信長をぜひ信玄にどうにかして欲しかった
1572年12月28歳応援にきてくれていた義景の兵たちが寒さと疲れのため帰国してしまった。
そのため浅井長政も動くことができなくなった。武田信玄はせっかくの信長つぶしのチャンスに何をしてるのか!と激怒し再出兵を促す手紙伊能文書義景に送った。が、義景はシカトし続けた
1573年2月29歳武田信玄の要請に応えない義景にシビレをきらした。信玄とうとう動き出すことに。が、信玄は寒さと長い陣の疲れに加え、義景に対してのストレスが重なり、以前から深刻な状態であった持病を悪化させてしまい病死してしまう。仕方なく武田軍は甲斐に退却。これにより。信長包囲網は消え、信長は長政・義景に目を向けるようになる
1573年7月29歳ついに信長は3万の軍を率いて長政の北近江に攻めてきた。
長政は義景に援軍を要請し、義景は2万の軍で駆けつけるんだけど、戦いもしないで越前に撤退してしまう。
信長は逃げる朝倉軍を追撃。そして一乗谷の戦いが起き、朝倉家は滅亡してしまう。
この後、織田軍を浅井氏に向けた。長政に反撃の手段は無く、信長の大軍によって一方的に勢力範囲を削られるのみであった。
ついに本拠の小谷城が織田軍に囲まれてしまう。(小谷城の戦い
が、信長は長政を気に入っていたので何度も降伏勧告を行った。降伏した後は大和へ新領地を与えるという、裏切りを許さない信長にとっては破格の案も出した。
不破光治木下秀吉使者として送られたが長政は断り続け、最終勧告も決裂した。
1573年9月1日29歳ついに織田軍に攻め込まれ、父親とともに自害する

逸話

●三代将軍徳川家光が1632年9月15日に浅井長政に従二位中納言を追贈
●善政を行ってたので、ずっと人気があった
●長政とお市が結婚する時、信長はとても喜び、通常は浅井側が結婚資金を用意するのが当時のしきたりだったが、信長自身が婚姻の費用を全額負担した
●資料があまりないので、逸話などが少ない

●長政 愛妻お市の方に裏切られる

織田信長が朝倉攻めをした時、朝倉と仲良しだった浅井長政は義兄である信長を裏切ることを決意!
これを知った信長の妹であり、長政の妻であるお市の方は、袋の中に小豆を入れ、両端をヒモでしばり信長のもとへ送ります
つまり、「両方縛られてますよ~。小豆は信長軍のことで、敵に挟まれてますよ」という意味
長政の裏切りを知った信長は、すぐさま撤退するのでした

関連のある人々

両親

浅井久政浅井家二代目
小野殿

平井定武の娘・・・最初の正妻
・・・二度目の妻
八重の方・・・側室

子供

茶々・・・長女
・・・次女
・・・三女
くす?・・・庶子。松の丸殿の侍女

万福丸?・・・嫡男

織田信長
朝倉義景・・・同盟を組んでいた相手
豊臣秀吉・・・小谷城を攻め込んだ

祐筆の人物批評

愛・・・生きていたら信長のいい右腕になったかもしれないのに。残念です

祐筆

●一番手・・・愛
●二番手・・・ハガクレ ちょこっとつけたしとかしました