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石田三成

Last-modified: 2012-06-22 (金) 20:33:04

生まれ Edit

いしだみつなり

どんな人? Edit

祐筆・愛の採点(10点満点)

判断力・・・7点 
勇敢さ・・・10点 徳川家康に挑む姿勢はすごいです 
政治力・・・10点 
イケメン度・・・5点 肖像画を見る限りでは・・・ (^^;

おいたち年表 Edit

1560年0歳近江国坂田郡・石田正継の子として生まれた
1574年15歳長浜城主だった豊臣秀吉小姓にスカウトされる  
1577年18歳秀吉の中国毛利攻めに従軍  
1583年24歳賤ヶ岳の戦いに参加。近江水口城主に。
ちなみに父の石田正継も近江国に3万石もらった   
1584年25歳小牧・長久手の戦いに従軍   
1585年26歳豊臣秀吉の関白就任に伴い、従五位下治部少輔に叙任   
1586年27歳秀吉の命により上洛した、上杉景勝と秀吉の間を斡旋した  
1587年28歳秀吉の九州攻めの後、博多町奉行になり町の再興する   
1588年29歳薩摩国の島津義久と秀吉の間を斡旋する。
1588年29歳島左近を家臣にした
1590年31歳小田原城攻め。武蔵国忍城の水攻めを行うが失敗。
常陸国の佐竹義宣と秀吉の間を斡旋し、佐竹義宣と仲良くなる
1590年31歳近江国佐和山城主になる  
1592年33歳文禄の役(朝鮮出兵)では朝鮮総奉行になる  
1593年34歳五奉行制ができ、その一人になる   
1595年36歳関白豊臣秀次事件が起きる   
1596年37歳豊臣秀吉の命令でキリシタンを弾圧する  
1598年39歳豊臣秀吉が死去  
1599年40歳加藤清正福島正則ら七将から襲撃され、佐和山城に蟄居となる   
1600年41歳関ヶ原の合戦。敗北し斬首

逸話 Edit

太閤検地で一番頑張ったのはこの人
豊臣秀吉の命令で蒲生氏郷を毒殺したという噂がある
●江戸時代には三成は超悪人だった。(徳川の世なので)
豊臣秀頼は三成の淀殿との間にできた子供という噂もある
●2009年の大河ドラマ「天地人」では直江兼続と親友のようだけど、実際は会ったことがあるかどうかわからないらしい
●秀吉にスカウトされたのは、お茶の入れ方がよかったから
●身長が低かった

季節はずれの果物

ある時、毛利輝元から豊臣秀吉にものすごく立派な桃が届いた
この季節に桃など珍しく、秀吉は大喜びするはず・・・だった
が、三成は「この時期に大変珍しいものなので、秀吉様はとても喜ぶでありましょう。が、季節はずれのものを食べて病気になっては大変です」と、桃を送り返してしまった
このエピソードは主君に対する三成の気配りを伝えるものであります

大谷吉継との友情逸話

有名な逸話であります
秀吉は茶会がダイスキで、よく武将たちを集めて茶会を開いていました
その中に大谷吉継が参加

が、この時の吉継はらい病を患い、顔中の皮膚は解け落ちそうで包帯を巻いて出席
さて、茶会が始まり秀吉がたてたお茶を、みんなで少しづつ回し飲みしていました
吉継の番になると、なんと吉継の膿(鼻水という説もあり)が茶碗にポトリと落ちてしまったのです

次の小西行長はそれを見て一瞬手が止まりました

もちろん、その茶席にいた人々も気がつき座がシーンとしたのです

すると三成がその茶碗をさっととり、ごくごく飲み干したのです
そして「いやいや、上手い茶であった」と言ったのでした

これにより吉継は「三成のためなら死んでもいい」と思ったのでした
●忍城水攻めの際、中心になって城を守っていたのは城主成田氏長の娘甲斐姫だったために、これに失敗した三成は「女の守る城も落とせぬ戦下手」と揶揄された

関連のある人々 Edit

父・・・石田正継
母・・・岩田氏の娘

兄弟
石田弥次郎
石田正澄
石田光重
女(福原長堯室)
女(熊谷直盛室)


正室・・・皎月院(宇多頼忠の娘)


石田重家
石田重成
辰姫?(荘厳院)・・・(津軽信牧と結婚))
娘(岡重政と結婚)

豊臣秀吉
島左近
小早川秀秋

祐筆の人物批評 Edit

愛・・・頑張って調べました (^^) 今まで関ヶ原では東軍派だったけど、西軍の見方が変わりました。島左近いいですね

由衣・・・戦下手をわかっていて、島左近をすごい禄で雇ったのは自分をよくわかっていると思います。が、やはりカリスマ性は足りなかったんでしょうね。

祐筆 Edit

●一番手・・・愛
●二番手・・・ハガクレ
●三番手・・・小西りん