生まれ
どんな人?
戦国時代の武将 秀吉子飼いの将
おいたち年表
母が秀吉の妻・ねね・(北政所)の妹だったことから、幼い頃から子供のいない秀吉のもとへ
子飼いの将として可愛がられ、成長していく
大活躍をし、七本槍の一人に数えられる
豊臣家内で「武功派」として実力をつけていくも、同じ豊臣家家臣で「文治派(頭脳派)」の石田三成と対立しはじめる
秀吉が死ぬとその対立は悪化
失敗に終わるも、三成を五奉行から失脚させ、スッキリ!
そんな時、徳川家康が「上杉景勝ってムカつく!あいつやっつけに付き合ってよ」と言って来たので、一緒に小山まで進軍
そこで「石田三成が大坂で兵を挙げた!」というニュースを聞き、家康が「みなさぁーん!聞いてくださぁーい!三成が君達の妻子を人質にして大坂でワシを倒すために挙兵しましたぁーー!みなさんどうしますかぁーー!?」と叫んだ
すると正則、憎っくき三成の思いから「ワシは家康殿につくぞ!」と大声を張り上げた
正直、そこにいた武将たちは「えっ!?マジ!?どうする?相手は豊臣家の後継ぎ・秀頼のために家康をやっつけるっていってんだよね?俺たち秀吉さんには世話になったし、どーすればいいの?」と思ってた
そこに豊臣家のお偉いさんだった正則がこういったもんだから、「なんだぁ!正則さんが家康の味方するんだったら安心だよ」と、みんな家康につくようになった
この時点で正則は、私怨からダイスキな豊臣家のためにとんでもない失敗をしてしまったのである
こうして家康率いる東軍は勝利
大嫌いな三成は処刑された
が、こっからがタヌキオヤジ家康の謀略スタート
家康にとって天下ゲットに邪魔なのは「豊臣家」
その豊臣家恩顧の家臣である福島正則はめちゃくちゃうざったい存在だった
江戸幕府が開かれてから、福島家にアレコレ難癖をつけはじめた
決定的なのは、お城のある広島に台風がやってきてお城が壊れまくった
正則は幕府に「お城直します」という届出を出した(この頃は、武家諸法度というのが出来てて、幕府の許可なしにお城を直しちゃダメという決まりがあった)
が、幕府はいつまでたってもOKしない
我慢できなくなった正則は「どうなってんの?」と詰め寄ると家康家臣の本田正純が「ちょっとだけなら直していいよ」という返事をした
これが罠だった
幕府は「正則が幕府の許可なしに勝手に城を修復した!謀反の兆しあり!」と怒った
正則は「え?本多正純に許可もらったよ!」と言い張ったが正純は「聞いてないよ」攻撃
仕方なく正則はまた城を壊し、元の状態にして釈明したけど幕府は「フン!何をいまさら!領地没収じゃ!」と、正則の領地を没収した
福島家の家臣はめちゃくちゃ怒り、「幕府と戦ったる!」と言い出したが、正則が「家康殿が生きていたらヒトコト文句を言いたいけど、徳川秀忠じゃな」と呟き、とうとう死んでしまった
ちなみに正則が死んだ後、家臣たちは遺体を火葬したんだけど、これも幕府が「火葬の許可は出してない」とイチャモンをつけ、とうとう福島家の領地は全て没収となった
とりあえずお家取り潰しだけは免れた、気の毒な家となった
年 | 0歳 | 誕生! |
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その他
性 格・・・人情味溢れてる
ポリシー・・・武功派こそ忠臣
好きな人・・・太閤様・秀頼様・おね様
自 慢・・・敵に後姿を見せたことがない!! 筋肉
家臣談・・・「正則様は本当に敵に後姿を見せないんですよ。戦いの時も、逃げる時は背中を見せないように後ろ歩きするんですよ!びっくりしましたよ!」
ヒミツ・・・実は一度だけ敵に姿を見せた 「いやー、このワシとしたことが、生涯で一度だけ敵に後姿を見せてしまったのじゃ。実はな、ワシが浮気して家に帰ったらな、妻が薙刀を持ってワシを待ち構えて追っかけてきたんじゃよ。いやー、あの時は、怖かった。」
逸話
●敵に背中を見せてしまった
敵に背中を見せない!!というのがポリシーの清正
ところがなんと、ただ一人背中を見せてしまった相手がいるのです
友人に語ったところによると
「オレ、一度だけ背中みせちまったんだよー。それがさ、女遊びして帰ってきたら奥さんが長刀もって待ち構えててさ、オレの顔見るなり切りかかってきたんだよ~。あれにはまいったよ」
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祐筆の人物批評
祐筆
●一番手・・・ハガクレ