長篠の戦い

Last-modified: 2010-01-13 (水) 17:08:05

どんな戦いなのか

武田信玄が死んだ後、新当主となった武田勝頼
父に負けじと色んな城を攻めまくっていました

が、父の家臣だった人たちは「もっと落ち着きなされ」と勝頼をたしなめまくり
勝頼はいつまでも父の信玄と比較されるのが嫌で仕方なかった

そんな中、武田家臣の奥平貞昌?が家康側に寝返ったのです
怒った勝頼は長篠城にいる奥平を攻め込むことに!!

そして迎え撃つは徳川と織田でした
ここで織田信長は「鉄砲」を使ってみようと思ったのであります

織田・徳川は各武将に命じて、陣の前に穴を堀ってそこに木の柵を作るように命令しました
これが「馬防柵」
最強武田の騎馬隊を食い止めるとともに、鉄砲を三段に分けて発射するための柵です

まず最初の千人が銃を発射すると、すぐ次の千人が撃つ
これを繰り返し行う方法を使うことに
考えに考えた信長の作戦でした
そしてこの馬防柵は延々と続いて造られたのです

武田軍では軍議が開かれていました

信玄時代からの武将である馬場信房山県昌景内藤昌豊らは、連合軍のこの異様な構えを見て不安を抱きました

「今回の織田・徳川連合軍は決してバカではない。それに背後には長篠城で籠城している兵もいる。今回はちょっと危険だ。一度甲府に戻ってから体勢を立て直そう」と勝頼に言ったのです

が、勝頼は聞かなかった

信玄さえ落すことの出来なかった高天神城をも落とし、ここらで一発デカイ戦いに勝利して、自分が武田家の後継ぎだということを、世間に知らしめたかったのです

こうして勝頼は、重臣らの意見も聞かず、長篠城の包囲を解いて織田・徳川連合軍の元へ進軍していったのです

夜、酒井忠次は兵3000人を連れて鳶ヶ巣山へ向かいました

そして鬨の声を挙げ、奇襲したのです
不意をつかれた武田軍は、あっけなく逃げていきました
鳶ヶ巣山を奪ったのは、連合軍にとってものすごく価値のあることでした
退路を絶たれるばかりか、全軍の食料補給基地でもあったのです
補給を絶たれては、武田軍は長い間滞陣することができない
すぐさま勝負に出ることを選ばざるを得なかったのです

さらに酒井隊はそのまま長篠城を監視していた武田軍の小山田昌?行らを攻撃
小山田隊は退却していったのです

武田重臣である馬場信房は何とかこの戦いを止めさせたかった
それは長年の戦場の癇であり、「今回は分が悪い。それに悪い予感がします」とひっきりなしに勝頼に言いました

だけど勝頼は「臆病風に吹かれたか?敵が目の前だというのに、引き返すことが出来ようか!武田家の面目が丸つぶれじゃ!」と激怒しました

怒鳴られても信房は「では、長篠城をどうにかして奪い取りましょう。数千人の被害は出ますが、籠城?に持ち込んだ方がいいと思われます」と意見しました
信房はあの妙な織田・徳川連合軍の陣構えが気になって仕方なかったのです

が、信房の意見は実現不可能となってしまいました
酒井忠次が鳶ヶ巣山を攻略し、長篠城近くに布陣してた小山田隊を撃破してしまったのです
この時勝頼が、信房の意見をすぐ聞き取り、長篠城を奪い籠城していれば、歴史は変わっていたかもしれないですね~

武田家の重臣達は、何度も勝頼に「今回は止めた方がいい」と進言しました
ですが勝頼は聞く耳持たず
それどころか「臆病者どもめ!」と逆ギレしてくる始末

山県昌景内藤昌豊馬場信房ら重臣達は「こうなっては仕方が無い」と覚悟を決めました

今生き延びて勝頼のもとで武田家滅亡をみるより、華々しく戦って討ち死にし信玄殿の恩義に報いようと酒をくみかわしたのです

早朝、信長は本陣を極楽寺山から弾正山北部へ移しました
弾正山南部には家康がいて、両軍トップが近くに布陣したのです
右翼には徳川軍の大久保忠世榊原康正政?本多忠勝石川数正鳥居元忠
中央には織田軍の羽柴秀吉・丹羽長秀滝川一益
左翼には織田軍の佐久間盛信?らが布陣しました。
そして最前列には前田利家佐々成政らの足軽部隊。つまりは「鉄砲隊」がいたので
武田家臣は最後にもう一度だけ勝頼を諌めようと試みました

家臣一同の代表となったのは山県昌景
「ここまで来た以上、もう合戦するなとは申しません。ですが、こちらから仕掛けず、敵に川を越えさせ、敵から仕掛けるようにいたしましょう」と言いました

皆、馬防柵の中にいる鉄砲隊が、どんな働きをするか不安で仕方がない
見当がつかないものは避けて、あちらから仕掛けさせようとしていたのです
が、勝頼は「まったく、本当にお前らはだらしがないな!人間はどこまでも命が惜しいのだな!」とバカにしたのです

昌景は憤りました
そして「ワシは討死いたす。勝頼殿も大将であるのだから、討死は覚悟の上なのであろうな?」と言い捨てました

他の家臣達は昌景が最後にお願いしに行って、どうなったかを陣所で待っていました
すると昌景が戻ってきて「みな討死じゃぁ!」と大声で叫び、怒りの形相のまま赤備えを率いて飛び出して行ったのです

大久保忠世・忠佐の兄弟は、「今日の戦いは、本当ならば徳川と武田の戦いであって、織田は加勢にすぎませぬ。先に織田勢によって戦いの火蓋が切られるのは、徳川の恥である。よって、我ら大久保が進んで戦いを仕掛けようと思います」と家康に言いました

家康は「もっともである」と、大久保隊に鉄砲隊を付けてくれました
そして大久保隊は、馬防柵を飛び出して、武田軍の第一陣である山県昌景隊を挑発していたのです

山県昌景は「赤備え」で有名な猛将でした
甲冑・旗差物・鎧など全てが「赤」
武田軍の勇猛第一と言われていた猛将でした

その頃、最後の願を勝頼に聞き入れてもらうことが出来なかった昌景
憤怒の形相で、3000人の赤備えを率いて大久保隊に攻めかかってきたのです
大久保隊は慌てて馬防柵の中へ逃げ込みました
そして鉄砲隊が一斉に山県隊めがけて発射されたのです

鉄砲隊は途切れることなく発射し続けました
第一列目が撃ち終わったら、次の列に交代
こうして3列の鉄砲隊が発撃の切れ間なく、襲い掛かってきたのです
みるみるうちに山県隊の騎馬が撃ち倒されていきました

それでも弾丸の間をくぐって、何とか馬防柵までたどり着いた者もいましたが、柵を乗り越えようとすると撃たれ、屍だらけとなって行ったのです

次に武田軍第二陣の武田信廉が突撃してきました
ですが山県隊と同じく、鉄砲の前に屍の山を造ったのです
武田第三陣の小山田信茂・第四陣の武田信豊も突撃しましたが、一斉射撃の前に崩れ去りました

これを見ていた馬場信房は、もはや黙って仲間達が討たれて行くのを見ていることはできませんでした
右から信長本陣に迫っていったのです。

この猛進は凄まじく、馬防柵を打ち破るほどでしたが、前田利家・佐々成政の鉄砲隊が前に出て、一斉に射撃しました

鉄砲の命中率・量はものすごく、馬場隊は撤退。
馬場隊とともに進んだ真田信網?穴山信君らも敗走しました

中央本陣でこの様子を眺めていた内藤昌豊も、目の前で繰り広げられる悲惨な戦況にいてもたっても居られなくなり、何とかこの状況を打破しようと、自ら先頭となり1000騎を引き連れ滝川一益隊めがけて飛び出しました
内藤隊1000騎は3000の滝川隊をかなり散乱させました
が、鉄砲は容赦なく射撃を繰り返しました。

とうとう内藤昌豊は、銃弾の前に命を落としたのです
もはや武田軍は悲惨なことになっていました

それでも屈せず、陣形を建て直して何度も攻め続けました
もはや自滅するのを覚悟したかのような突進だったのです。

赤備え山県昌景隊は、17箇所の銃弾を受けてもひるまず、兵が減っても陣形を建て直し、突撃を繰り返すこと13回
弾が右腕を貫通すると、采配を左手に持ち替え奮闘
左手も弾丸で撃たれると、采配を口に加えてまで挑んだのです
が、馬に銃弾が当たってしまい、落馬してしまいました
そこを徳川軍が襲い掛かり、とうとう首を討たれてしまったのです

もはや織田・徳川連合軍の勝ちは確実のものとなりました

用心深い信長は、ここにきてとうとう「総攻撃じゃー!」と命令を出したのです
武田家の馬場信房は総攻撃がかかったと知ると、すぐさま勝頼に退却を勧めました
勝頼はこの悲惨な戦場に焦りまくりでした

すると信房「勝頼殿!勝敗は運でありますぞ!なぁに、勝頼殿はまだ若い。これから再挙できまする!」と勝頼を元気づけました

信房は勝頼だけでも退却させなければと、自ら殿軍となりました
そして勝頼退却を見届けると、ここを死に場所と決め、単騎で突撃していったのです

700騎を率いて6000人の佐久間信盛隊を突き崩し、信長に「馬場信房の働き、比類なし」と言われるほどでしたが、やはり兵の数が少なすぎた
とうとう討ち取られてしまったのです

信長は退却する武田軍を追撃させました

15000人の武田軍のうち、甲斐に戻ってきたのはわずか3000人となったのです
この合戦時、本国守備として留守番役をしていた高坂昌信

わが最強の武田の騎馬隊が完敗し、仲間が撃ち取られまくったと聞いて大ショック

慌てて逃げて帰ってきた勝頼の服をすぐに着替えさせ、敗戦の見苦しさをみせないようにしました
凱旋を装わせ、領民を安心させたのです

この戦いは武田軍の完全な負けに終わりました

それどころか、名だたる武将達が討たれまくり

足軽は補充できても、戦歴をつんだ武将に代わりはなかなかいない

山県昌景馬場信房内藤昌豊真田信網?原昌胤甘利昌澄?ら、信玄時代の名将たちが殆ど討死したのです

それでも勝頼は、心配してくれた人たちに対し「いやいや、今回の負けはたいした事はない。まだ高坂昌信・穴山信君・武田信豊小山田信茂らが残っているし。だから心配しないでくれ」と言っていました

というか、弱みを見せたら潰される時代
こう言うしかなかったのです

重臣達の意見を聞かずに、功を焦った勝頼

この戦いは最強・武田家に暗い影を落すこととなってしまったのでした

参加武将