フリーダムトレイルには全部で17の観光名所が含まれます。ひとつずつ紹介します。
Boston Common (ボストンコモン)
フリーダムトレイルの出発地点である観光案内所。/ボストンコモン(公園)の様子。
木の高い所にあるこぶで座って食事するリス。/地面で猫背で食事するリス。
Massachusetts State House (マサチューセッツ州会議事堂)
道路標識で「ボストンまでの距離」はこの議事堂の金色のドームまでの距離を表す。/道路の向いにあるやつ。
Park Street Church (パークストリート教会)
ボストンコモンの北東の角にある教会。ここでボランティアの英会話教室もやっているようです。
Granary Burying Ground (グラナリー墓地)
入口でホチキス止めのガイドを配っている人がいるが、返却時に寄付をせびられるかも。/Samuel Adamsの墓。
Paul Revereの墓。/ James Otis の墓。
King's Chapel (キングス・チャペル)
日本語パンフレットあり。メイフラワー号による英国教会に迫害された清教徒の到着(1620)から約70年が経った頃、ボストンには英国教会徒も増えてきたので、イギリス国王の権力で清教徒の墓地を没収して、英国教会の礼拝堂を建てた。国王用の特別席があるため「王様の礼拝堂」と名付けられた。
King's Chapel Burying Ground (キングス・チャペル墓地)
Benjamin Franklin statue and former site of the first public school, Boston Latin School (ベンジャミン・フランクリンの銅像とボストンラテンスクール)
フランクリン大先生の銅像。/ ラテンスクールの中には今はステーキ屋がある。
この通り(School st.)にはパブが多い。
Old Corner Bookstore (オールドコーナー書店)
現在は、宝石屋が入っており、風情がない。建物に上の説明が貼ってあるだけ。
本屋のボーダーズの向いにある。
フリーダムトレイルを歩くと、ボーダーズを起点にして、ダウンタウンの地図が頭に入る。
Old South Meeting House (オールドサウス集会場)
ここで Samuel Adams らが、会議の末、ボストン茶会事件を実行することを決定したことで有名。
中に入るのには$11とられる。入りませんでした。
Old State House (旧州会議事堂)
無料で入れて、お土産屋や、トイレもある。展示は充実しており、フリーダムトレイルで一番お勧め。
ここで、独立戦争勃発以前のマサチューセッツ州の議会が開かれていた。
イギリス政府が課してきた不条理な印紙税法を受け入れるかどうかをめぐって、
イギリスよりの州知事と植民地議員達の意見が対立し、
市民にも議論を聴いてもらうために、議会を一般人にも公開した。
道路の向い側に、観光案内所があり、ベンチで休憩でき、トイレもある。
Site of the Boston Massacre (ボストン虐殺地跡)
1770年、イギリス政府が輸入品に不条理な関税を課すことに不満を持ってアメリカ植民地の人々は暴動をおこした。その際中、この場所で、イギリス兵が、民間のアメリカ人5人を撃ってしまった。この事件は、アメリカ独立への契機となった。その場所を記念して、マンホールのふたみたいな形にしてある。
Faneuil Hall and Quincy Market (ファニエル・ホールとクインシー・マーケット)
ファニエルホールはもともと(1階が市場で2階が)タウンミーティングを行う場であったが、イギリスがお茶などに不条理な税金を課してくると、反対集会が開催されるようになっていった。
ここで Samuel Adams らが演説を行い、一般の人々にイギリスからの独立を説いた。/ ダンスをやっている人がいたりする。子供を含む黒人ダンサーの集まりは、帽子を手に客を回ってしつこくチップをせびった。
わかりやすい正面から入ると、一階は御土産屋。郵便局もある。/ 実は、裏に隠し扉がある。入っても良い。
裏口からコソーリ入ると2階にはなんと大ホールが。ホールの正面舞台。 / ホールの入口近く。
もちろん無料。たしか2階ホールの入口にトイレがあった。3階には博物館もあるが、週末は休館日でした。
クインシーマーケットの前では、大道芸をやっていることが多い。
この大道芸をしている向い側にファニュエルホール裏口があるのだが、誰も気づかず素通りしている。
Paul Revere House (ポール・リビアの家)
ポールリビアが住んでいた家。その後、他の人ももちろん住んだので、特に残っているものはない。
入館料$5くらいとられますが、たいしたものはないです。卵とかパンがテーブルの上にのってるだけ。
なのに建物内写真厳禁。日本語パンフレット有り。
Old North Church (オールドノース教会)
丘の上にある教会の高さを生かして、リビアの指令で、夜中にコンコードに進撃したイギリス軍の進路を、
川をへだてたチャールズタウンにランタンの数で知らせた逸話が有名。
Copp's Hill Burying Ground (コップス・ヒル墓地)
ここより先は、チャールズ・リバーを渡るので、ずいぶん歩きます。
軍関係の展示があるだけなので、あまり面白くない上、
観光名所間の距離が長くなります。
USS Constitution (コンスティテューション号)
近くにコンスティテューション号博物館もあり、入館無料、寄付歓迎。
弾をセットして砲弾をぶち込むまねゲームが子供に人気。トイレ有り、ウォータークーラー有り。
Bunker Hill Monument (バンカーヒル記念塔)
(トリビア)ボストンの歴史はなぜ特別扱いなのか?
ジョージ3世が二十歳そこそこでイギリス国王の座を継いだ頃、フランスとの戦争の費用をねん出するため、
植民地であるアメリカに対して、お茶などに高い税金をかけました。
当時は、国王の権力は絶対的であり、なぜ王様が偉いかとなどという恐れ多い質問は、
問うてはならない時代でした。
しかし、啓蒙思想家と呼ばれる人たちは、国家とは何か、何のためにあり、どんな形であるべきか、
ということを思索し、「国は国民のためにある」という、今となっては当たり前のことに気づきました。
このような思想は、例えばトマス・ペインの著書「コモン・センス」などで、一般の人々にも知れ渡りました。
この結果、国会議員の枠すら割り当てられていないアメリカに高い税金を押しつけるのは不当であることに
アメリカの人々は気づき、オールドサウス集会場での討論の結果、ボストン茶会事件に代表されるような、
イギリス政府への反抗を始めるという決断を下したのです。
Samuel Adamsたちは、これは筋の通った反抗なのだと、Feuniel Hallで市民に向かって演説しました。
これに対して、イギリス政府は治安維持のために軍を送りこみ、ボストン・コモンに駐留させました。
当時、アメリカ軍の弾薬庫がコンコードにあったため、イギリス軍が弾薬を焼き払うために
コンコードへ向かって進軍したのは自然の成り行きでした。
この時のイギリス軍の進軍経路をまっ先に知らせたのが、ポール・リビアの真夜中の疾駆です。
ただの密偵じゃんと思うかも知れませんが、いちおうアメリカでは英雄扱いです。
どちらの軍が先に手を出して発砲したのかは、今となってはわかりませんが、
Concordでの口火が“世界中に響いた銃声”であったのは間違いありません。
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最終的には、イギリス軍は本国へ撤退し、アメリカ独立宣言が発表されました。
ボストンの歴史は、ただ単に内戦の末にアメリカが独立したというだけのものではなく、
国民が「国のあり方」を考えた上で筋を通した「市民革命」であったことに大変な意義があります。