一 エミシの目覚め

Last-modified: 2018-05-26 (土) 15:03:57

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新羅の動き

縄文的な狩猟採集中心の生活を続けていたアイヌ、エミシの人々が、建国に至った理由は、当時の朝鮮半島の情勢が大きく影響していた。


6世紀後半、朝鮮は百済、任那、新羅の三国に分裂しており、北の満州地域には高句麗が建っていた。

小国分立状態の任那地域の支配を巡り、百済、新羅は激しく対立し、協力者や同盟を求める動きを活発に行っていた。


百済は五経博士の派遣など、文化の供出で一早く倭と関係を深めたが、
新羅は倭と貿易をするものの百済ほどの緊密さもなく、
唐、高句麗との関係も思わしくなかった。


危機感を抱いた新羅の支配層は、倭の商人から聞いたエミシの話に目をつけた。
「倭の北には蝦夷(エミシ)と呼ばれる勇猛果敢な者たちがおり、朝廷と抗争を繰り広げている」
倭の目だけでも半島から逸らしたいと考えた新羅には耳寄りな情報であり、彼等を支援しようという動きが高まるようになる。


こうして570年頃から、探索のための小さな船団が組織され、本州北部を目指し進むようになる。
とはいえ朝鮮半島南部から東北へのルートは日本海横断航路とも言えるもので、船団はかなりの犠牲を出したとされる。
それでも新羅が船を出し続けたのは、ひとえに孤立した国際情勢から抜け出したいという願いがあったからだろう。

こうして587年、船は出羽南部(山形盆地南部)に到達した。
これがエミシ、アイヌの先進文化との出会い、そして後の建国へと繋がることになる。

その頃の東北では、稲作や初期の製鉄術が伝わっており、小国分立の状態であった。
盆地南部にあった国「九齒(クシ)」もその一つである。

地域では有力なクニではあったが、新羅人からすればやや期待はずれであった。
エミシ全体でまとまって倭人と対抗しているわけでもなく、
(地方豪族との土地争いが多く、エミシ全体の危機感は上がってはいたもののまだ薄かった)武器も粗悪なものが目立った。


船員の報告書である。
「長い距離を経て彼等(エミシ)の元へ辿りつきました。倭の攻撃で連帯感は強めているようですが、
良い武器を持たぬ、遅れた地域でございます
倭の脅威を一部の指導者が感じているらしいのが救いであります」
中国文化を吸収し、アジア世界の中でも先進地域だった半島の人々からすれば、エミシはもはや未開の人々であった。

帰還した使者から報告を受けた新羅では、次の船団を送るべきか話し合われた。
不安定な情勢の中で航海による出費を危惧する声もあったが、
1 新しい製鉄術や農業技術など、新羅内では普及しきった技術を伝え、エミシの力を高めてもらう
2 近隣諸国(主に伽耶)に売れるような物品を献上させ、航海の赤字をできるだけ減らす

の2点を守り、再び船団を送る方向に決まった。
こうして船団は、新羅と東北の間を、定期的に往復するようになる。

持ち込まれた技術は半島では当たり前のものであったが、純度の高い鉄を作り出す技術、寒冷地の農業技術を学んだエミシは大いに喜んだ。

ただ、彼らが新羅に返礼できる品は石綿や金等の、
僅かな鉱石しかなかった。
そこで選ばれたのは北方に住むアイヌの人々だった。

稲作をする事なく、縄文時代を受け継ぎを発展していたアイヌ美術にはオホーツクの文化が入り込み、
列島の中でも異彩を放つものになっていた。
まだ北方から集めた毛皮、羽なども僅かながら取り扱っており、
これらを多く入手すれば、新羅人達を喜ばせられるだろうと九齒は考えたのだった。

貿易関係

縄文時代から列島では広範囲な交易が行われていた事もあり、

新羅が香料や仏具、書籍を、
アイヌが毛皮、羽、装飾品を、
そして九齒が中継地となりつつ織物、鉱石を輸出する関係は、
620年代には完成していた。

九齒、アイヌからの産物に価値を認めた新羅は、頻度はさして上げなかったものの船団を少しずつ大きくしていった。

半島南部の貴族にはアイヌの首飾りをつけるものが現れ、
オオワシの羽は良質な矢羽として新羅の軍に使われた。
新羅は関係の悪化しつつあった高句麗にも羽の冠を送り、王を喜ばせたという。

九齒はより純度の高い鉄器の技術を習得、貿易による交通の発達で周辺諸国をまとめ、
ヤマトへの抵抗を一層激しくした。

アイヌも似たように、一部のコタン(村)が貿易と大陸からの寒冷地作物により経済力をつけ、
他のコタンを飲み込んで部族連合のようなものを形成した。
アッサプを中心として活動していた為に、現在ではアッサプ連合と呼ばれる。

解説

当時の東北には、庄内平野の九齒が出羽南部(山形)をまとめ、
太平洋側の仙台平野には農業に長けた日高見の国が存在します(アイヌとの関係は薄いのでこれまで登場しなかった)
二国は対大和同盟を結び、中央に頑強に抵抗しています

アッサプ連合は九齒と経済関係を強め弟分として認められています
九齒と日高見が対等な関係で、
九齒の下にアッサプがあると考えると分かりやすいでしょう


ただアッサプ連合はアイヌだけの物ではなく、
支配層は粛慎(アシハセ)(樺太、アムール川下流から南下してきたオホーツク系民族)が中心であったと考えられています。
彼等は、唐との交流によって技術力、軍事力を保持しており、中国語をある程度解した為に貿易の際も有利でした。
九齒の城跡からも粛慎のものと見られる骨が見つかっており、通訳をしていたと推測されます。

建国

東北地方が繁栄を手にする一方で、
大和中央との関係は、にわかにきな臭いものになってきた。
友好国の高句麗を新羅、唐が合同で攻撃した事、
鉄資源、文化の輸入元である百済も2国によって干渉されている状態は、大和の安全保障を脅かすものであった。
九州の防備が急ぎ足で固められる一方、
後背の安全も確保しようと東北への進出が定められた。


こうして政府は高志(新潟)の豪族阿倍野比羅夫に180もの軍船を与え、北方へ向け出発させた。
目的は九齒やアッサプの支配の及ばない部族を恭順させ、進出を楽にさせること、
そして、エミシの軍事力がどれほどのものか調べる、
いわゆる威力偵察であった。

偵察と言っても軍船一隻には50~100人が乗っており、
兵士の数だけでも5000~8000人はいたとされる。