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雑学/日本海軍の各隊

Last-modified: 2018-07-15 (日) 16:24:37

日本海軍が編成する部隊には「隊」「戦隊」「艦隊」が存在した。そして戦時には各作戦ごとに「部隊」を編成し作戦に臨んでいた。

目次





戦隊 Edit

軍艦2隻以上で構成される部隊。指揮官は司令官と称し少将若しくは中将が任命される*1。また空母(もしくは基地航空隊)を基幹とする戦隊は「航空戦隊」、駆逐隊を中核とする戦隊は「水雷戦隊」、潜水艦を中核とする戦隊は「潜水戦隊」と別個の呼称を持っている。

開戦時あった主要各戦隊

呼称開戦時の所属艦開戦時の艦隊区分開戦時の軍隊区分解説
第一戦隊長門陸奥連合艦隊直轄主力部隊制度として戦隊が設立された1903年以来、主力である戦艦を擁する戦隊として存在した部隊。日露戦争以来、戦艦を主戦力とした艦隊である第一艦隊に所属していたが、連合艦隊司令部と第一艦隊司令部が分離した1941年8月以降は連合艦隊の直轄部隊になる。
開戦直後に大和が編入されるが、ガダルカナル戦が始まった1942年7月に長門陸奥が第二戦隊に異動となり一時的に解隊され、大和は単艦で直轄となる。1943年に武蔵が編入した事で復活し大和と2隻で戦隊を構成、以後所属をレイテ沖海戦で連合艦隊が実質壊滅するまで存続し続けた。
第ニ戦隊日向伊勢扶桑山城第一艦隊主力部隊設立された日露戦争の頃は戦艦に次ぐ主戦力とされた装甲巡洋艦で構成されていたが、日本海軍の規模が大きくなるに従い、第一戦隊と同様戦艦で構成される戦隊となる。開戦時は連合艦隊直轄となった第一戦隊に替わり第一艦隊の旗艦戦隊だった。
ミッドウェー海戦後に航空戦艦に改装されるために伊勢、日向が外れ、入れ替わるように第一戦隊から長門、陸奥が編入。しかしこれも陸奥の爆沈や、山城の訓練艦任務のため、長門、扶桑で行動する場合が多かった。1944年2月に一時解隊となるが、レイテ沖海戦を前に9月に再結成され山城、扶桑で構成する*2
レイテ沖海戦ではこの第二戦隊を中核に第一遊撃部隊第三部隊、通称「西村部隊」が結成され別路レイテ湾に向かったが、その悲劇的な結末は提督諸氏も御存じのとおりである。
第三戦隊比叡霧島金剛榛名第一艦隊機動部隊(第一小隊)、南方部隊本隊(第二小隊)第一第二戦隊は第一第二艦隊それぞれの中核戦力(戦艦、装甲巡洋艦)であったが、艦隊内でそれらを補佐する軽快な防護巡洋艦で構成する戦隊が必要とされ、第三第四戦隊が編成された。
太平洋戦争開戦時は戦艦ながら元が巡洋戦艦であり、軽快な部類だった金剛型戦艦で編成されていた。その為開戦前の想定では第二艦隊による決戦前の夜戦襲撃に第三戦隊も加わる事となっていた。
しかし実際にはその様な事態にはならず、第三戦隊は開戦以来前線で活躍したが主に二手に別れて行動しているのが殆どで、第一小隊(比叡、霧島)が南雲機動部隊、第二小隊(金剛、榛名)が南方部隊として行動*3し、4隻揃って行動したのはインド洋へ出動した1回だけとなった。ミッドウエ―海戦後は新設された第十一戦隊に比叡と霧島が移動し金剛、榛名の2隻体制となる。
1944年11月、レイテ沖海戦後を経て内地帰投中に米潜水艦の攻撃で旗艦金剛が沈没*4、第一戦隊解隊により長門が2週間ほど在籍したが1945年1月1日に同隊も解隊となる。
第四戦隊愛宕高雄摩耶鳥海第二艦隊南方部隊本隊、南方部隊マレー攻略部隊(鳥海のみ)第三戦隊と同様、日露戦争時に防護巡洋艦4隻で編成、第二艦隊の遊撃戦力として活動した。その後海軍の規模が拡大し、第二第三戦隊も戦艦で構成されるようになると、第四戦隊が夜戦部隊である第二艦隊の中核戦力となり、金剛型が第四戦隊に所属していた時期もある。開戦時は高雄型重巡洋艦4隻で構成され、第二艦隊司令部が戦隊司令部を兼務し開戦以来旗艦を愛宕とている。しかし鳥海は開戦時以来別部隊として行動している。
1943年9月に鳥海が戻り漸く同型艦4隻体制となる。レイテ沖海戦まで4隻とも健在であったが、同海戦で愛宕、摩耶、鳥海が沈み、高雄が大破。同隊はそのまま解隊となる。
第五戦隊妙高那智羽黒第二艦隊南方部隊南比攻略部隊設立されたのは日露戦争時で、2線級の艦艇*5で構成する第三艦隊の基幹戦力とされた。その後も解隊と再編を繰り返すが、太平洋戦争開戦時は妙高型重巡洋艦3隻で編成され南方作戦に参加。最初の本格的海戦である「スラバヤ沖海戦」で活躍する。
ミッドウェー海戦後は那智が第五艦隊に異動し2隻体制となりそのままレイテ沖海戦まで活動する(一時期航空巡洋艦となった最上が行動を共にしていた時期もある)。
レイテ沖海戦では緒戦で壊滅した第四戦隊の生き残りの鳥海を編入するが、翌日のシブヤン海海戦で妙高が損傷し戦線離脱。その翌日のサマール沖海戦で鳥海も脱落(夕刻に沈没)し羽黒1隻となる。その後はシンガポールを拠点に活動するが、生き残りの重巡洋艦が集まる寄合所帯のような状態*6となり、1945年3月には羽黒、足柄で編成される。
5月16日、ペナン沖海戦で羽黒が戦没*7。足柄だけとなりまもなく解隊*8、重巡洋艦を主力とする最後の戦隊となった。
第六戦隊青葉衣笠古鷹加古第一艦隊南洋部隊グアム攻略部隊設立された際は第三艦隊所属の遊撃戦力として防護巡洋艦4隻で構成される。幾度となく解隊、再編を繰り返し開戦時は青葉型、古鷹型重巡洋艦4隻で構成されていた。尚重巡洋艦の各戦隊は夜戦部隊である第二艦隊に所属しているが、同戦隊だけ第一艦隊所属である。
米軍のガダルカナル侵攻時は外南洋部隊に所属しており、旗艦鳥海と共に夜戦を仕掛け大打撃を与える。(第一次ソロモン海戦)
しかし帰投時に加古が潜水艦の攻撃で戦没。10月のサヴォ島沖海戦で古鷹が戦没し旗艦青葉も大破*9し戦線離脱したので、生き残った衣笠は第八艦隊直轄に異動し同戦隊は解隊となった。
第七戦隊熊野鈴谷最上三隈第二艦隊南方部隊マレー攻略部隊日露戦争時に第三艦隊隷下の旅順口哨戒部隊として装甲艦扶桑*10と旧式砲艦9隻を一纏めにして誕生。以後第六戦隊と同じく数次の解隊と再編を経て5度目の編成となった太平洋戦争開戦時は最上型重巡洋艦4隻で編成されていた。
ミッドウェー海戦で三隈が戦没し最上が大破して戦線離脱したため、熊野、鈴谷の2隻体制となる。1944年1月には解隊された第八戦隊から利根、筑摩が移籍し再度4隻体制となるが、レイテ沖海戦で鈴谷と筑摩が戦没し、熊野も大破し内地への帰還途上に戦没。残っていた利根も書類上第五戦隊へ転属となり同戦隊は解隊となった。
第八戦隊利根筑摩第二艦隊機動部隊日露戦争終盤に鹵獲艦を中心に新設された第四艦隊の一部として編成された戦隊。日露戦後即解隊されたが、ワシントン条約下の昭和9年に軽巡3隻で再編。利根型重巡洋艦の就役と共に利根型2隻で新編され、開戦時は機動部隊の一員として真珠湾攻撃に参加する。
その後もその偵察力の高さから艦隊の目として機動部隊に所属し続けたが1944年1月に解隊となり2隻は第七戦隊所属となった。
第九戦隊北上大井第一艦隊主力部隊設立は1936年で水上機母艦神威と第28駆逐隊で構成していた。開戦時は雷撃戦に特化した軽巡洋艦北上、大井で編成され第一艦隊として行動した。
しかし航空機が戦力の中核となった太平洋戦争では活躍の機会はなく、1943年5月に解隊となる。
第十五戦隊五十鈴、嵯峨、橋立第二遣支艦隊支那方面艦隊所属の第二遣支艦隊の基幹戦力として編成される。開戦後は香港攻略戦などに参加するが1942年4月に五十鈴が第十六戦隊に異動となり解隊となる。
第十六戦隊足柄長良球磨第三艦隊南方部隊比島攻略部隊、同南比攻略部隊(長良のみ)1941年に再編された第三艦隊の基幹戦力。司令部は第三艦隊司令部と兼務している。
開戦直後の1942年1月には球磨が新設の第三南遣艦隊に移動、艦隊旗艦も兼ねていた足柄は3月に戦隊を離れ第三艦隊改め第二南遣艦隊の独立旗艦となる。
残る長良も4月には新設の第十戦隊旗艦となるため戦隊を離れ、開戦から半年もせずに所属艦艇が居なくなってしまう。
しかし4月に第十五戦隊から五十鈴が異動し、名取鬼怒も加わり再度3隻体制となる。その後南西方面で活動を続け、1944年10月のレイテ沖海戦時は青葉、鬼怒、浦波という編成であった。
レイテ沖海戦では当初は第一遊撃部隊(栗田艦隊)所属でリンガ泊地より集結拠点のブルネイに向かうがその途上で第二遊撃部隊(志摩艦隊)に配属替えとなり、ブルネイ到着後に志摩艦隊が集結するマニラに向かう。
しかしマニラ湾口前で青葉が雷撃を受け大破、志摩艦隊も集結地を急きょ替えた為合流できず、鬼怒と浦波はミンダナオ経由でレイテ島オルモック湾に増員兵力を送る多号作戦に参加。輸送自体は成功するが帰路に空襲を受け2隻とも戦没*11。部隊は解隊となった。
第十七戦隊厳島、八重山第三艦隊南方部隊南比攻略部隊開戦時は機雷施設艦厳島、八重山、特設機雷施設艦辰宮丸の3隻で編成。第三艦隊に所属しフィリピン攻略戦に加わったが、防御向きの艦種である施設艦にはあまり活躍の場はなく、開戦ほどない1942年1月には解隊となる。
第十八戦隊天龍龍田第四艦隊南洋部隊ウェーク攻略部隊第四艦隊の基幹戦力として練習巡洋艦鹿島と天龍型軽巡洋艦2隻で1940年11月に設立。開戦直前に鹿島が艦隊の独立旗艦となったので戦隊を離れ天龍、龍田の2隻体制となる。
緒戦は中部太平洋で行動していたが、1942年7月に第八艦隊が新設されると移動しソロモン方面で活動。米軍のガダルカナル侵攻の際は天龍のみが突入作戦に参加、第一次ソロモン海戦で活躍する*12
旧式ながら開戦以来前線での激戦にいた戦隊だが12月に天龍が戦没し解隊となった。
第十九戦隊沖島、常盤、津軽、天洋丸第四艦隊南洋部隊ギルバート諸島攻略部隊(沖島)、同グアム攻略部隊(津軽)第四艦隊所属の機雷施設部隊として1940年11月に編成される。開戦時には天洋丸も加えて4隻体制となるがナウル攻略戦で沖島が戦没。7月に新設された第八艦隊に津軽が、北方部隊に常盤が配属される事になり、戦隊は解隊された。
第二十一戦隊多摩木曾、君川丸第五艦隊北方部隊開戦直前の1941年7月に第五艦隊の基幹戦力として球磨型軽巡洋艦2隻と特設巡洋艦君川丸の3隻で編成。司令部は第五艦隊司令部と兼務する。
第五艦隊の担当である北方海域を警戒するが主戦場ではない事から戦力も少なかった。しかしミッドウェー海戦の際に陽動を兼ねてアリューシャン諸島に侵攻する事になり、戦力の増強のため1942年4月に第五戦隊を離れた重巡洋艦那智が編入され艦隊旗艦となっている(君川丸は9月に戦隊から外れる)。
1944年4月には重巡洋艦足柄も加わるが、6月のマリアナ沖海戦には参加せず、7月に木曾が横須賀鎮守府、多摩は第十一水雷戦隊それぞれに異動。続く10月のレイテ沖海戦では第五艦隊が第二遊撃部隊として作戦参加したため戦隊はその基幹戦力として参加した。この海戦で那智は大破した最上と衝突し中破、その傷が癒えぬまま足柄と共にマニラ湾に移動するが、在泊中に空襲を受け那智が戦没。足柄のみとなったので解隊され、足柄は第五戦隊へ異動となった。
第二十二戦隊栗田丸、浅香丸第五艦隊北方部隊特設巡洋艦栗田丸、浅香丸の2隻で編成される。北方海域の哨戒任務に従事し、1942年1月には赤城丸も編入され3隻体制となる。
第二十四戦隊報国丸、愛国丸連合艦隊直轄主力部隊連合艦隊直轄部隊として編成。開戦時には清澄丸も加わり3隻体制となっている。緒戦では南太平洋で哨戒活動に従事しているが1942年3月には解隊となる。
第一航空戦隊赤城加賀、第7駆逐隊第一航空艦隊機動部隊(空母のみ)海軍初の空母を中核とした戦隊として1928年に赤城鳳翔と第六駆逐隊の梅、楠で編成される。以後龍驤加賀が竣役してからはこれら4隻の空母が交代で第一第二航空戦隊を編成している。
開戦時は赤城、加賀と第七駆逐隊ので編成し、第一航空艦隊の基幹戦力として戦隊司令部は艦隊司令部との兼務であった。1942年4月には第七駆逐隊が編成から離れ空母2隻のみの体制となるが、ミッドウェー海戦で赤城、加賀共に戦没し、戦隊は壊滅する。
しかし7月に新設された第三艦隊で、空母翔鶴瑞鶴瑞鳳の3隻で再編成され、ガダルカナルでの激戦を戦う。1944年4月には竣役した新鋭空母大鳳が編入され、代わりに瑞鳳が第三航空戦隊に移籍する
マリアナ沖海戦では大鳳、翔鶴が沈み、残った瑞鶴は第三航空戦隊に異動したので一時的に解隊となる。その後8月に雲龍天城で再編成となり10月には葛城も編入されるが搭載する錬成途上の航空戦力はレイテ沖海戦で小沢艦隊に引き渡して参戦出来ず、結局航空戦力不在のまま連合艦隊直轄となる。この頃には同じく搭載航空機のない隼鷹龍鳳も編入していたが、使い道のない艦艇は次々と予備艦とされ、空母ですらない大和が所属したりもしている。1945年3月には第二艦隊所属となるも坊の岬海戦を経て4月10日に解隊となる。
第ニ航空戦隊蒼龍飛龍、第23駆逐隊第一航空艦隊機動部隊(空母のみ)空母加賀が完成し、空母数に余裕が出来た事で1934年11月に第二艦隊所属の航空戦隊として赤城と第二駆逐隊の峯風、沖風、矢風、沢風で編成。以後交代で戦隊を編成している。1939年には空母蒼龍飛龍が所属、開戦時はこれに菊月卯月夕月?が加わり第一航空艦隊に所属していた。
第一航空戦隊と同様1942年4月には駆逐隊が離れ空母2隻のみの編成となるが6月のミッドウェー海戦で蒼龍、飛龍共に戦没し戦隊は壊滅、戦隊司令官の山口多聞少将も戦死する。
その後7月に空母隼鷹飛鷹龍驤で再編成するが、米軍のガダルカナル侵攻時は錬成途上だったため、龍驤のみが臨時に第一航空戦隊の瑞鳳と入れ替わる形で南方に進出し、第二次ソロモン海戦で戦没している。
1943年4月には龍鳳が加わり3隻体制となり、そのまま1944年6月のマリアナ沖海戦を迎えるが、同海戦で飛鷹が戦没、隼鷹も中破し航空戦力も壊滅する。7月に同戦隊は解隊となり生き残りの空母2隻は第四航空戦隊に異動となる。
第三航空戦隊鳳翔瑞鳳三日月、夕風第一艦隊主力部隊1936年に水上機母艦神威を基幹に連合艦隊直轄として編成される。開戦時は空母航空戦隊では唯一第一航空艦隊ではなく第一艦隊所属であった。
緒戦では前線への航空機の輸送や、第一艦隊出撃時の哨戒任務に当たっていたが、1942年4月に解隊され空母は連合艦隊直轄となる。
1944年2月に空母千歳千代田瑞鳳で再編され6月にマリアナ沖海戦に参加。空母の損失はなく艦載機の損害も軽微であったので、機動部隊再編で最も早く戦力化出来ると期待され、唯一生き残った正規空母瑞鶴も同隊に配属されている。
しかし台湾沖航空戦で肝心の航空戦力を提供してしまい、続くレイテ沖海戦では機動部隊の主力ととなるも航空戦力がなかったので、錬成途上の第一航空戦隊から空母発着艦経験者を中心に戦力を掻き集め、どうにか戦隊の搭載可能数の過半数である110機を掻き集め作戦に参加、しかし4隻とも戦没し解隊となる
第四航空戦隊龍驤春日丸、第3駆逐隊第一航空艦隊南方部隊南比攻略部隊(龍驤)1937年に水上機母艦能登呂丸、衣笠丸で第四艦隊所属として編成。開戦時は空母龍驤、春日丸が所属する。第四航空戦隊は第一航空艦隊所属だが真珠湾攻撃には参加せず、当初より南方進出作戦に参加し、1944年4月には祥鳳が加わり龍驤と2隻体制となる(春日丸は入れ替わりに連合艦隊直轄になる)
5月には隼鷹が竣役するが程なく珊瑚海海戦で祥鳳が戦没。ミッドウェー海戦後の7月に解隊となり、龍驤と隼鷹は第二航空戦隊に異動となる。
1944年5月に航空戦艦に改装された伊勢日向で再編されるがマリアナ沖海戦は錬成途上で不参加。その後生き残りの隼鷹、龍鳳も加わり4隻体制となるが、台湾沖航空戦で第三航空戦隊と同様航空戦力を提供し、続くレイテ沖海戦には航空戦力が揃えられなかったので、伊勢と日向2隻が戦艦として参加し、隼鷹、龍鳳は不参加となる。その後は飛ばす航空機もなく、燃料も枯渇し1945年3月に解隊となる。
第五航空戦隊翔鶴瑞鶴秋雲第一航空艦隊機動部隊(朧以外)編成当初は新鋭空母翔鶴と春日丸で構成していたが、瑞鶴完成により春日丸が第四航空戦隊に異動し翔鶴型2隻と駆逐艦秋雲の4隻編成となる。1942年4月には空母2隻のみの編成に改められるが、ミッドウェー海戦後は瑞鳳が編入される。翌7月には3隻揃って第一航空戦隊に異動し、第五航空戦隊は解隊となる。
第一水雷戦隊阿武隈ほか第一艦隊機動部隊(阿武隈、17駆)、主力部隊(21駆、27駆)、南方部隊本隊(6駆)艦隊決戦の主力部隊である第一艦隊を護衛する部隊として編成される。あくまでも主力の護衛を主任務とし、新鋭の陽炎型駆逐艦は1隊のみで、あとは特Ⅲ型、初春型、白露型で構成していた。
真珠湾攻撃では阿武隈と第十七駆逐隊が機動部隊に参加。以後もセイロン沖海戦の頃までは機動部隊の護衛戦力として参加していたが、専門の護衛戦力として第十戦隊が編成されるとその任を解かれ、ミッドウェ―海戦には旗艦阿武隈が修理中のため、隊としては参加していない。その後1943年に北方を担当する第五艦隊の所属となり、キスカ島撤退作戦では戦隊司令の木村昌福?少将のもと作戦を成功させる。
1944年になると戦局が悪化し、第五艦隊も南方の作戦に参加する事になり第二遊撃部隊を編制。戦隊もこれに加わりレイテ沖海戦に参加。この海戦で開戦以来の旗艦阿武隈が戦没。11月にはオルモック湾海戦で司令部が壊滅した第二水雷戦隊に司令部ごと移籍し同戦隊は解隊となる。
第ニ水雷戦隊神通ほか第二艦隊南方部隊本隊(8駆)、南方部隊南比攻略部隊(神通、15駆、16駆)、機動部隊(18駆)第一水雷戦隊が主力の第一艦隊を護衛する部隊として設立したのに対し、第一艦隊の前衛として敵の矢面にたつ第二艦隊の、更に最前線に立つ突入部隊として設立されたのが第二水雷戦隊、通称「花の二水戦」である。そのため所属する駆逐艦は新鋭艦が所属する事が多く、練度の高い精鋭部隊であった。
開戦時は軽巡洋艦神通が旗艦を務め開戦時では新鋭の陽炎型と、その次に新鋭の朝潮型で構成していた。
開戦後、常に最前線で戦い続けた同隊は、その分の損耗も激しくガダルカナル戦の頃からは準新鋭の白露型なども所属するようになったが、それでもルンガ沖夜戦やコロンバンカラ沖海戦などで劣勢ながら敵を撃退するなど活躍をつづけた。
同戦隊は多くの海戦で活躍をしたが、その代償に司令部が壊滅する事例もあり、1943年7月のコロンバンカラ沖海戦と1944年11月のオルモック湾海戦で司令官を含め司令部が壊滅している。しかしその都度同戦隊は他の戦隊から司令部を移籍するという形で再編しており、結局開戦時存在した6個水雷戦隊のうち、最期まで残った戦隊となった。
1945年4月の坊の岬沖海戦で旗艦矢矧を始め多くの艦を失い、4月20日に伝統ある二水戦は解隊となった。
第三水雷戦隊川内ほか第一艦隊南方部隊マレー攻略部隊海軍の規模が拡大した事で常設の第一第二水雷戦隊の他にも水雷戦隊が必要となり、臨時編成の部隊として第一艦隊所属の水雷戦隊として編成された。
旗艦は軽巡洋艦川内、因みに所属する駆逐隊はみな特型駆逐艦で編成された部隊である。
開戦以来南方作戦で活躍したが、ガダルカナル戦が発生するとこれに参加し同島への輸送作戦に従事する。1943年になると第一艦隊からガダルカナル方面を担当する第八艦隊に移籍する。
以後は三水戦にとって苦闘の年となり、3月2日、3日のビスマルク海海戦で駆逐艦4隻*13を失い司令官の木村昌福少将も負傷する。
江戸兵太郎少将が2週間ほど務めた後に秋山輝男少将が司令官となるが、7月6日のクラ湾夜戦で司令官は戦死し司令部も壊滅*14。伊集院松治少将が後任となるが、11月2日のブーゲンビル島沖海戦で旗艦川内が沈んでしまう*15
そして中川浩少将の元再度再建されるが、1944年4月にパラオ・サイパンへの輸送船団の護衛中に旗艦夕張が沈められ、司令部は夕月(未実装)に救助され目的地のサイパンで地上にあがる。しかし6月の米軍のサイパンで地上戦に巻き込まれ、守備隊の玉砕時に司令部も壊滅。残余の艦艇は新設された対潜掃討部隊である第三十一戦隊に移籍、戦隊は解隊となる。
太平洋戦争に参加した水雷戦隊は、どの隊も最前線で戦い続け犠牲も大きかったが、特に三水戦は戦時中で5回も司令官が交代しており、それだけ他隊よりも損耗が激しかった事を示している。
第四水雷戦隊那珂ほか第二艦隊南方部隊本隊(4駆)、南方部隊比島攻略部隊(那珂、2駆、9駆、24駆)第三水雷戦隊同様第二艦隊所属の臨時編成の部隊として設立されたが、設立当初は増強された新兵器である潜水艦(当時は潜水艇)部隊として編成された。登場して間もない潜水艦をどう組織して運用するか確立していなかったこの時代、潜水艇を「潜る事の出来る水雷艇」と考えての水雷戦隊編成であったが、設立から4年後には「第一潜水戦隊」に改称されている。
開戦時は軽巡洋艦那珂を旗艦に編成している。二水戦と同様開戦以来南方作戦に参加しタラカン島攻略戦やバリクパパン沖海戦などを戦った。
これらの戦いで那珂が大破し、ミッドウェー海戦では由良が旗艦を務める。第二次ソロモン海戦では第二艦隊基幹の前進部隊として参加するも接敵はされなかった。その後はガダルカナルへの輸送作戦井従事するが、その間旗艦由良が戦没している。
1942年11月には旗艦が長良となる。戦隊は引き続き本土~トラック諸島間の護衛などを務めていたが各戦隊の戦力損耗から1943年7月に解隊され、各艦は第二水雷戦隊など他の戦隊への補充戦力に回される。
第五水雷戦隊名取ほか第三艦隊南方部隊比島攻略部隊開戦時は南方攻略を担当した第三艦隊に所属していた。それまでの4個水雷戦隊と異なり旧式の睦月型?神風型?駆逐艦で構成する2個駆逐隊で編成し、旗艦は軽巡洋艦名取が務めた。
バタビア沖海戦で活躍し南方攻略がひと段落つくと、第三艦隊と南遣艦隊が再編された際に同戦隊も解隊された。
第六水雷戦隊夕張ほか第四艦隊南洋部隊ウェーク島攻略部隊開戦時は内南洋を担当した第四艦隊に所属。第五水雷戦隊同様旧式の駆逐艦で編成され、旗艦は夕張が務めた。1942年4月には同じく睦月型で構成する第23駆逐隊も加わり3個駆逐隊となっている。ミッドウェー海戦後の7月に解隊され、内南洋方面を護衛する第二海上護衛隊に改編された。
第一潜水戦隊伊9ほか第六艦隊先遣部隊ほか初代は第一艦隊所属として編成された最初の潜水艦戦隊「第四水雷戦隊」を1919年4月に改称して開隊する。
開戦時は第六艦隊に所属。第一~第四の4個潜水隊12隻(速度性能など機動性を重視した海大型で構成)と伊9号の計13隻を擁し、真珠湾攻撃では甲標的による港湾攻撃や、南雲機動部隊に随伴して被弾した味方機の誘導を行ったりとハワイ方面で行動している。伊19伊26は開戦時は同戦隊に所属しハワイ方面で行動していた。
ハワイ作戦後も第一次K作戦などを実施していたが5月に第一潜水戦隊は北方部隊に編入となりキスカ、アムチトカ等の各島の偵察監視などを行う。7月には先遣部隊に復しソロモン方面に進出、伊19による空母ワスプ撃沈や伊26による空母サラトガ撃破など戦果を挙げる一方、連合軍の高度な対潜掃討戦術に多くの潜水艦が沈められ、1944年1月に解隊となる。
第二潜水戦隊伊7ほか第六艦隊先遣部隊ほか初代は第二艦隊貴下の潜水艦部隊として編成された。当初は潜水艦で構成する艦隊はなかったので、水雷戦隊同様第一第二艦隊に各1個ずつ潜水戦隊が編成されていた。
潜水艦艦隊である第六艦隊が編成されると再編されたうえで組み込まれる(それまでの第二潜水戦隊は第三潜水戦隊に改名)。第七第八の2個潜水隊6隻と伊7、伊10潜水艦の8隻で構成し、それらは海大型で構成した第一潜水戦隊と異なり偵察機などを搭載し索敵力を高めた巡潜型で編成していた。
開戦以来東太平洋やインド洋方面で行動していたが、所属艦はどれも老朽艦であった事から1隻の戦没もないまま1942年8月には早くも解隊となる。但し所属していた8隻はその後も活動し続け、全艦が終戦までに戦没している。
第三潜水戦隊伊8ほか第六艦隊先遣部隊ほか1937年12月に当時の第四艦隊貴下の潜水戦隊として編成され初代旗艦は軽巡洋艦球磨。その後も解隊と再編を繰り返し、開戦時は第二潜水戦隊から改名したうえで第六艦隊に所属した。第11,12,20の3個潜水隊8隻と伊8号潜水艦の9隻で編成し伊168も開戦時は同戦隊に所属していた(大鯨も所属していたが開戦間もなく隊を離れ空母への改装工事に入った)。どの艦も第二潜水戦隊時代から引き続き海大型で構成していた。開戦時は第一潜水戦隊同様ハワイ方面で活躍。主に周辺海域の監視哨戒に当たり、太平洋戦争最初の戦没艦(12月9日に撃沈された伊70号潜水艦)を出している。その後ソロモン方面で米軍の反攻が始まると同方面に展開、多くの潜水艦を失い1943年9月に解隊となる。
第四潜水戦隊鬼怒ほか連合艦隊直轄南方部隊マレー攻略部隊開戦時は第六艦隊ではなく連合艦隊直轄の潜水戦隊として編成される。第18,19,21の3個潜水隊8隻(伊号6隻、呂号2隻)で構成していた。この中には先代の伊58号潜水艦もいる。開戦に伴い馬来(マレーの漢字表記)部隊に所属し同方面で行動していたが老朽艦が多く開戦後ほどない1942年3月に同戦隊は解隊となり、呂号潜水艦で編成する第21潜水隊は第六潜水戦隊へ、他の伊号潜水艦は練習潜水艦などに転入される。なおこの際上記の伊58号潜水艦が伊158号潜水艦に改名されており、他の艦も同様の処置を取られている。
第五潜水戦隊由良ほか連合艦隊直轄南方部隊マレー攻略部隊第28~30の3個潜水隊6隻で構成した潜水戦隊。開戦以来第四潜水戦隊同様馬来方面で活動し、ペナン占領後は同地を拠点に印度方面に進出、ベンガル湾などで活躍した。1942年7月に戦隊は解隊となるが潜水隊はそのまま作戦を継続し全ての艦が戦没した。
第六潜水戦隊長鯨ほか第三艦隊南方部隊マレー攻略部隊開戦時は第三艦隊に所属、機雷施設潜水艦4隻で構成する海軍で最小の潜水戦隊となった。オーストラリア方面に進出して機雷施設作業に従事していたが、この戦隊も老朽艦が多く、所属の伊124号潜水艦が撃沈されたこともあり、1942年4月には解隊となった。
第七潜水戦隊迅鯨ほか第四艦隊南洋部隊先遣隊開戦時は第四艦隊に所属し呂号潜水艦9隻で編成する3個潜水隊で構成した。その後第八艦隊が新編され外南洋部隊が編成されると第八艦隊所属に、1943年4月に一時的に第五艦隊に所属し北方方面に出動するが間もなく第八艦隊が所属する南東方面艦隊に移動し、危険な偵察任務などに従事し損耗した。1944年8月になると第六艦隊に所属、この際その運用が大きく変わり輸送潜水艦部隊として活動するようになる。1945年3月に解隊。

開戦後に編成された主要各戦隊

呼称編成時の所属艦編成時の艦隊区分編成時の軍隊区分解説
第十戦隊長良ほか第一航空艦隊機動部隊1942年4月に第一航空艦隊固有の護衛部隊として長良を旗艦に、第七、十、十七の3個駆逐隊で編成された部隊。その構成は「水雷」とはつかないが、従来の水雷戦隊と同様である。只秋月型駆逐艦が完成し第六一駆逐隊が編成されると第十戦隊に配属され対空戦闘力が強化されている。
マリアナ沖海戦までは空母部隊の直衛戦力として機動部隊と共に行動していたが、1944年10月のレイテ沖海戦では第二艦隊基幹の第一遊撃部隊に配属され戦っている*16。所属の駆逐隊のうち、四駆はスリガオ海峡で、六一駆はエンガノ岬で司令部が壊滅したため第十戦隊は解隊、十七駆も内地帰投中に台湾沖で雷撃を受け旗艦浦風が沈み司令部がまたしても壊滅してしまう。残余の艦艇は第二水雷戦隊に配置換えとなる。
第十一戦隊比叡、霧島第三艦隊機動部隊1942年7月、空母を主力とした常設艦隊である第三艦隊が再編された際に、それに所属する戦艦部隊として第三戦隊から比叡、霧島が移籍して編成された。
以後空母機動部隊と共に行動しているが11月の第三次ソロモン海戦では空母支援部隊に所属せずガダルカナル島に突入して砲撃をする挺身隊に所属して参加する(尚、金剛、榛名の第三戦隊は、ソロモン方面で唯一行動可能だった第二航空戦隊を基幹とする空母支援隊の護衛に回っている)。11月13日の第一夜戦で比叡が米巡洋艦部隊の集中打を浴び舵を損傷、撤退できぬまま翌日米軍機の空襲を受け総員退艦のうえ沈没。15日には霧島が再度突入し米新鋭戦艦2隻と交戦し沈没。所属艦艇を失った事で第十一戦隊は解隊となった。
第三十一戦隊五十鈴ほか連合艦隊直轄対潜機動部隊マリアナ沖海戦後の1944年8月20日に、対潜掃討部隊として編成された。サイパン陥落の際に同島に所在し壊滅した第三水雷戦隊を解隊し、その所属駆逐艦に海防艦を加えて編成した。旗艦も元第三水雷戦隊旗艦だった名取を予定していたが編成直前に戦没したので五十鈴が初代旗艦となる。
以後南シナ海方面で活動していたが、10月のレイテ沖海戦では機動部隊本隊の直衛戦力が不足した(元々直衛戦力だった第二遊撃部隊[第五艦隊基幹]が別行動となってしまった為)事を受け急遽機動部隊本隊に所属して出撃している。
海戦後、壊滅した第一水雷戦隊の代わりに第五艦隊に配置換えとなるが、直後に旗艦霜月が米潜水艦の攻撃を受け沈没、江戸兵太郎司令官が戦死する。その後鶴岡信道新司令の元礼号作戦などに参加、第五艦隊解隊後は第二艦隊所属となり1945年4月の大和の沖縄特攻では当初は参加する予定だったが取りやめとなり、出撃時の前路警戒などを行った。第二艦隊解隊後は連合艦隊に所属し海上挺進部隊として本土決戦時の敵上陸船団攻撃任務を受け持つ。軽巡洋艦北上ほか、残余の駆逐艦を掻き集めて編成された同戦隊は終戦まで残存する唯一の水上戦闘部隊として存在した。
第十一水雷戦隊龍田ほか連合艦隊直轄1943年4月に新造の駆逐艦を錬成する部隊として編成される。僚艦を失い所属戦隊も解隊されていた龍田を旗艦に、教導役として第六駆逐隊が所属し、夕雲型では玉波以降、秋月型では新月以降、松型では松以降の各艦および島風が竣工後に編入され、練成を行った。1945年7月15日に解隊され、これによりすべての水雷戦隊が解隊される事となった。
第八潜水戦隊伊10第六艦隊1942年3月に第六艦隊内で編成された潜水戦隊。旗艦は伊10号潜水艦でペナン島を占領し、インド洋で通商破壊戦を実施するための基地が建設、同戦隊はここを拠点に活動した。またドイツから派遣されたUボート部隊もここを拠点としている。こういった事情のため第六艦隊所属ではあったが指揮系統は第一南遣艦隊に所属していた。1945年2月に解隊。
第十一潜水戦隊第一艦隊1943年4月に練習部隊となった第一艦隊所属の練習潜水艦部隊として編成された。その為戦時中に完成した潜水艦の殆どは同隊に所属した経験を持っている。1944年1月からは第六艦隊所属となり、引き続き練習任務に従事するが、多くの艦は出撃したまま戻る事はなかった。終戦まで存続し1945年9月に解隊

艦隊 Edit

戦隊複数で構成される部隊。指揮官は司令長官と称し中将が任命されるのが基本であるが、開戦時に複数艦隊を統率指揮していた連合艦隊支那方面艦隊は大将が司令長官を務めた*17。太平洋戦争開戦時は第一から第六までの番号艦隊と、第一及び第十一の二個航空艦隊、南遣艦隊、第一から第三までの遣支艦隊があった。
艦隊司令長官は他の中将の職とは違い、いわゆる親補職であり天皇から任命され、武官としての扱いは大将と同格という別格扱いだった。同様のに鎮守府司令長官がある。

  • 開戦時の連合艦隊所属艦隊
  • 第一艦隊
    日露戦争前までの日本海軍では艦隊は常備艦隊という一つの艦隊で構成していた*18が、日露戦争を目前に主力の戦艦を中核とした第一艦隊と、準主力の装甲巡洋艦を中核とする第二艦隊とに分割され、以後第一艦隊は日本海軍の主力艦隊として存在した。
    連合艦隊が編成される際は第一艦隊の司令部がこれを兼務するのが常備艦隊時代からの慣習となり、連合艦隊が常設化されて以降もそうであったが、米国との戦争が現実味を帯びてきた1941年、戦時編制発令時に多数の艦隊(第三~第六艦隊、第一・第十一航空艦隊)が編制されて連合艦隊の規模が拡大したため、第一艦隊独自の司令部が置かれる事になり、高須四郎中将が任命された。またこれと同時に長らく第一艦隊の戦艦部隊の中核であった第一戦隊が連合艦隊直轄となり第一艦隊から離れ、もう一つの戦艦部隊である第二戦隊が第一艦隊の司令部戦隊となる。開戦時の旗艦は戦艦日向
    開戦後は貴下の戦隊は各作戦地域に派遣されていたが、主力の第二戦隊は桂島に停泊し続け周囲から「桂島艦隊」と揶揄された。ミッドウェ―海戦では主力部隊として出撃するが会敵せぬまま帰還。その後貴下の部隊を正式に他艦隊に移籍させ訓練艦隊として活動、マリアナ沖海戦前の1944年2月に栄光の第一艦隊は解隊となる。最後の艦隊司令長官は皮肉にも南雲機動部隊として空母が主力となる事を実証した第一航空艦隊の司令長官だった南雲忠一中将であった。
  • 第ニ艦隊
    第一艦隊と同様日露戦争前に常備艦隊を二つに分けて編成したのが始まり。ワシントン軍縮条約による大量廃艦の影響を受けた1921年度の1年間だげ解隊されていた。創設以来巡洋艦を中核に編成する遊撃部隊と位置づけられ戦艦を中核とする第一艦隊と連携して作戦行動をとるようにしていた*19
    太平洋戦争開戦時は重巡洋艦の殆どや、名門水雷戦隊である第二水雷戦隊などが所属する前衛夜戦部隊であり、旗艦は第四戦隊の重巡洋艦愛宕だった。桂島で停泊し続ける第一艦隊をしり目に最前線で戦い続ける。中核の重巡洋艦部隊に大きな損害を受けることなく、逆に解隊された第一艦隊の戦艦を編入し、空母機動部隊として編制された第三艦隊と共に第一機動艦隊を構成、その前衛戦力となる。しかしマリアナ沖海戦で空母機動部隊が大打撃を受け、有力な水上戦力として唯一の存在となる。
    レイテ沖海戦では敵攻略部隊を殲滅する任務を帯びるが基地航空隊との策応に失敗して大損害を被り作戦も失敗、続くフィリピンの戦いで駆逐艦など残った艦艇の多くに損害を被り、内地に帰還した艦艇も燃料不足のため活動停止状態となってしまう。それでも旗艦大和以下10数隻が稼働状態であったが、1945年4月に沖縄戦が始まると旗艦大和以下残余の艦艇10隻で突入作戦を決行するも壊滅。4月20日をもって解隊となる。
  • 第三艦隊
    元々は日露戦争前に常備艦隊が第一第二艦隊として再編された際、旧式艦艇で編成された第二線部隊である。日露戦争開戦時は連合艦隊の貴下ではなかったが、間もなく編入されている。その後も解隊や再編を繰り返している。
    開戦前の戦時編成発令で編成された。旗艦は第十六戦隊の重巡洋艦足柄。フィリピン攻略を主任務としている。蘭印占領をもって第一段作戦が完了したので、攻略に特化した編制から駐留に特化した編制へ変更されることになったので、開戦から1年と経たぬうちに第二南遣艦隊へ改称された。
  • 第四艦隊
    日露戦争末期、樺太攻略戦の護衛のため、旧式艦や日本海海戦時の鹵獲艦艇を中心に編成された。戦争後に解隊となるが、その後も海軍大演習時の仮想敵艦隊役としてその都度編成された。
    太平洋戦争開戦時は中部太平洋方面を担当する部隊として設立され、練習巡洋艦鹿島が独立旗艦として所属した。その担当海域は広大で当初より戦力不足が懸念され、実際警戒網は貧弱で、米機動部隊のゲリラ行動を抑える事は出来なかった。史上初の空母同士の海戦である珊瑚海海戦も南洋部隊として五航戦を基幹とするMO機動部隊などを指揮する。ミッドウェ―海戦後に新たに第八艦隊が編成されソロモン方面などが担当区域から外れるが、1943年末からは内南洋にも米軍の反攻が始まり11月にはタラワ、翌年1月クェゼリンが相次いで陥落。2月にはトラック島空襲で中心機能が機能不全となり、司令長官が更迭されている。パラオに司令部を移した第四艦隊は3月に新たに第十四航空艦隊と共に中部太平洋方面艦隊の所属となるがサイパン島に司令部を置いた中部方面艦隊は6月からの米軍のマリアナ侵攻で壊滅し第四艦隊はパラオに取り残され7月に連合艦隊直轄に戻る。しかし敵勢力圏に取り残され戦力も地上部隊や若干の基地航空隊だけで艦艇はゼロという状態となり、ほぼ無力化された状態のまま終戦を迎えた。
  • 第五艦隊
    元々は日中戦争時の増援艦隊として設立された。開戦時は北方海域を担当する部隊として編成された。旗艦は第二十一戦隊所属の軽巡洋艦多摩。元々主要作戦域ではなかった為警戒程度の戦力しかなく、各艦隊には必ず1つは所属していた水雷戦隊も第五艦隊固有としては所属していない。
    しかしミッドウェ―海戦で陽動として占領したアッツ島、キスカ島を占領維持する事になった事から戦力も強化され、旗艦として重巡洋艦那智や、第一艦隊に所属していた第一水雷戦隊も第五艦隊所属となった。1943年8月には第十二航空艦隊と共に北東方面艦隊を編成している。
    比較的平穏であった事もありマリアナ沖海戦頃でもかなりの戦力を保持していたが、捷号作戦で空母機動部隊の前衛である第二艦隊が別任務を与えられたので代わりの前衛戦力として第五艦隊が割り当てられることになり、第二遊撃部隊を編成している。しかし実際のレイテ沖海戦では台湾沖航空戦の残敵掃討に第五艦隊を使用したため機動部隊と合流できずに南西方面部隊所属となりレイテ湾突入に加わる。
    レイテ沖海戦後もフィリピン方面に留まり多号作戦などを指揮するが那智を始め多くの艦艇を失った。12月には北東方面艦隊から正式に南西方面艦隊に配属を変えている。1945年2月に解隊となる。
  • 第六艦隊
    潜水艦部隊として設立された唯一の艦隊。旗艦は練習巡洋艦香取。開戦時はハワイ方面の偵察、特殊潜航艇による真珠湾突入、東太平洋での通商破壊、オーストラリア方面の機雷敷設に従事した。通商破壊作戦から機雷施設作業、包囲された地域への隠密輸送任務など多くの任務を行ったがその損害も大きかった。1944年11月からは人間魚雷「回天」の運用も開始している。劣勢の中でも戦い続け、開戦時から存在した各艦隊で唯一作戦行動可能な艦隊として終戦まで存在した。
  • 南遣艦隊
    太平洋戦争前の仏印進駐に際に警備のために編成された艦隊。設立時の旗艦は練習巡洋艦香椎。設立時の所属艦艇で海軍製なのは旗艦香椎と海防艦占守だけという小艦隊であったが、太平洋戦争開戦後は南方侵攻の先鋒となることから戦力が増強され重巡洋艦鳥海が配備され旗艦となったのを皮切りに第七戦隊や第三水雷戦隊などが増強されている。しかし1942年1月にはフィリピン攻略部隊が編成されたことを機に艦隊は「第一南遣艦隊」となり解隊となる。
  • 第一航空艦隊
    世界初の空母を中核とした艦隊として編成された。開戦時の旗艦は航空母艦赤城。本来は第一、二、四、五航空戦隊とそれに付随する駆逐艦で構成される部隊*20だが、開戦時は軍隊区分で機動部隊を編制、第一、二、五の3個航空戦隊*21と第三戦隊の戦艦2隻、第八戦隊、第一水雷戦隊で部隊を構成し「南雲機動部隊」の通称で知られている。開戦以来破竹の進撃を続けた日本軍の代表的存在であったが、ミッドウェー海戦で大敗北を喫し空母4隻を損失。その後は空母機動部隊の常態化のため新たに第三艦隊が設立され残余の空母はそこに配属となり、第一航空艦隊は解隊された。なお1943年7月に基地航空隊として再結成されており、レイテ沖海戦では史上初めて「神風特別攻撃」を実施している。
  • 第十一航空艦隊
    基地航空隊を基幹とする初めての艦隊。開戦時はフィリピン、マレー、ジャワへの航空攻撃などを実施している。「大空のサムライ」こと坂井三郎や「ラバウルの魔王」と恐れられた西澤広義などが所属した台南海軍航空隊も同艦隊所属の部隊である。ガダルカナル戦が始まると司令部をテニアン島からラバウルに移し南東方面の航空作戦の主力となり、貴下の部隊は「ラバウル海軍航空隊」とも呼称された。しかし相次ぐ激戦で航空戦力を失い、1944年には航空隊はラバウルに撤退するが司令部は引き続き同地にあって米軍に抵抗し同地で終戦を迎えた。
  • 第一遣支艦隊
    第三艦隊*22を1939年11月に改称した艦隊。日中戦争の中、上海を拠点に揚子江流域で活動した。第三艦隊時代は出雲*23を旗艦に、第三戦隊(那珂阿武隈由良)や第一航空戦隊(加賀)、第一水雷戦隊(旗艦:夕張)、二個遣外艦隊*24等を擁する有力な艦隊であったが、戦線が大陸内陸部に移動した事と、アメリカとの緊張状態から、第一遣支艦隊改称時は砲艦を主力とする第十一戦隊*25と陸戦隊である特別根拠地隊で構成される艦隊となっていた。太平洋戦争開戦時は他の遣支艦隊と共に支那方面艦隊に所属していたが、開戦まもない1942年1月に特別根拠地隊が警備隊に縮小された事もあり、1943年8月に艦隊自体が「揚子江方面特別根拠地隊」に降格となり、艦隊としては解隊となる。但し部隊としては引き続き活動し、砲艦の多くを失いながらも地上部隊は終戦まで活動を継続した。
  • 第二遣支艦隊
    第一遣支艦隊と同様、第五艦隊*26を1939年11月に改称した艦隊。広州を拠点に南シナ海に面する流域を担当していた。第五艦隊時代は第九戦隊(妙高長良)を基幹に第十戦隊(天龍龍田)、第五水雷戦隊(旗艦:夕張、3個駆逐隊)、第三第四航空戦隊(神威など特設水上機母艦部隊)を擁するかなり強力な艦隊であった。しかしこれも第一遣支艦隊同様改称時は戦力を引き抜かれ*27、太平洋戦争開戦時は第十五戦隊(五十鈴、砲艦2隻)と水雷艇2隻、それに地上部隊という貧弱な戦力となっていた。開戦初頭に陸軍が香港を占領すると拠点を香港に移すが、五十鈴を始め海上戦力の多くを連合艦隊に引き抜かれ、残った小艦艇も戦闘で失い、末期には地上戦力のみとなる。しかし開戦時の遣支艦隊で唯一艦隊として終戦まで存続した。
  • 第三遣支艦隊
    他の遣支艦隊と同様、第四艦隊*28を1939年11月に改称した艦隊。青島を拠点にし、同様に青島を拠点とする欧米の艦隊を牽制し、同海域の警備活動をしていた。第四艦隊時代は足柄を旗艦に、第九戦隊、第十四戦隊(天龍、龍田)、第四水雷戦隊(旗艦:木曾、3個駆逐隊)、第五水雷戦隊(旗艦:夕張、2個駆逐隊)で構成*29で構成していたが、改称時には瑞穂と水雷艇5隻に大幅に縮小され、更に太平洋戦争開戦時は日露戦争時代の装甲巡洋艦磐手と水雷艇2隻、他は地上部隊となっていた。1942年4月には艦隊は解隊され青島特別根拠地隊として終戦まで山東半島で活動し続けた。
  • 開戦後に編成された主要各艦隊
  • 第三艦隊(再編)
    1942年6月のミッドウェー海戦で空母4隻を失った連合艦隊が、それまで軍隊区分として編成していたため所属部隊同士の連携訓練などがとりにくかった機動部隊を艦隊として常設化することとし、7月に編成された。新編の第一第二航空戦隊に、それまで作戦毎に各艦隊から派遣されていた護衛戦力を新設の第十戦隊、第十一戦隊として編成し艦隊に配属、他にも第二艦隊から重巡洋艦部隊である第七第八戦隊を加えて構成した。
    司令長官には第一航空艦隊から南雲忠一中将が草鹿龍之介参謀長と共に就任。8月より発生したソロモン方面での激闘に参加し、第二次ソロモン海戦や南太平洋海戦では米機動部隊と渡り合う。南太平洋海戦後は司令長官は南雲から小沢治三郎に替わる。
    第三艦隊新編の際は空母部隊である同艦隊の前衛部隊として第二艦隊がこれに当たる事としていたが、第三艦隊司令長官の南雲より第二艦隊司令長官の近藤信竹中将の方が先任であり、「同階級者の場合は先任が指揮を執る」という規定から近藤が両艦隊を指揮を執る事になり有名無実化していた。このため南太平洋海戦後に草鹿参謀長より「機動部隊指揮官が所在部隊を統一指揮する必要があるが、前衛の第二艦隊司令長官が指揮するのは作戦上具合が悪い」という意見具申を受けて、1944年3月にようやく建制として「第一機動艦隊」が設立され第二第三艦隊が所属、第三艦隊司令部がこれを兼務する事となり問題も解決した*30
    マリアナ沖海戦で大敗し、続く米軍迎撃作戦である捷号作戦では主力は基地航空艦隊とされたが、空母機動部隊も出来るだけ再建するという判断から部隊の再建が図られ、1944年9月の時点で空母8隻(瑞鶴瑞鳳千歳千代田隼鷹龍鳳雲龍天城)に航空戦艦伊勢日向、艦載機も400機を擁し、マリアナ沖海戦時と同程度まで回復していた。しかし10月12日から始まった台湾沖航空戦で再建した艦載機の大半を連合艦隊の命令で提供し、続けて米軍がレイテに侵攻すると提供した航空戦力を収容する間もなく、内地の残存機を110機掻き集め、空母4隻で出撃する羽目になり、当初の「機動部隊として航空作戦を行い敵を北方に引き付けて基地航空隊と共同してこれを殲滅する」という作戦から「自らを''として敵を北方に引き付けて基地航空隊と共同してこれを殲滅する」に変更せざるを得なくなる。結局参加した空母4隻(瑞鶴、瑞鳳、千歳、千代田)の全部と護衛艦艇の多摩秋月初月を失い、11月に第一機動艦隊と共に解隊となった
  • 第七艦隊
    1945年3月末より、米軍による機雷攻撃(飢餓作戦)が開始されたことに伴い、西内海地域の関門、対馬、朝鮮各海峡防衛と船舶の安全輸送確保の為に編制、司令部は九州の門司に設置された。形式的には連合艦隊所属だが、実質は海上護衛総隊所属であった。戦争末期の編成のため、その戦力は日露戦争時代の旧式艦である「常盤」と数隻の海防艦でしかなかった。なお、第八艦隊設立以後長らく第七艦隊が欠番だったのは、唯一の潜水艦部隊である第六艦隊の他にもう1艦隊潜水艦部隊を設立する構想があり、それに第七艦隊を充てるつもりであったからとも言われている。
  • 第八艦隊
    戦線の拡大により、第四艦隊が担当する中部太平洋方面が手薄となったため、その方面を内南洋、外南洋に分け、新たに外南洋を担当する艦隊として1942年7月に編成された。初代司令長官は「三川艦隊」の名で艦これでは著名な三川軍一中将。編成時は重巡洋艦鳥海を旗艦に第十八戦隊(天龍龍田)、第三十駆逐隊(睦月弥生卯月望月)と掃海艇などの小艦艇で構成していたが、米軍のガダルカナル侵攻を受け前線部隊として戦った。特に米軍上陸を受け反撃に出た「第一次ソロモン海戦」での活躍は有名*31。ガダルカナル戦では最前線部隊として奮戦したが、戦線が移動した後は水上艦艇も多くが引揚げられ、ブーゲンビル島ブインに置いた司令部からソロモン諸島に点在する基地間の輸送任務及び海軍陸戦隊の指揮を行い終戦を迎えた。なお、三川の後任で最後の司令長官となった鮫島具重中将は最上艦長時代に一少尉に殴られた経験をもち、司令長官時代には潜水艦長となっていたその少尉に助けられるという経験をしている。
  • 第九艦隊
    ガダルカナル戦後、主要戦線がニューギニアに移動した事を受け、第八艦隊が担当した外南洋からニューギニア方面を分割して新たに担当する艦隊として1943年11月に編成された。しかしその戦力の殆どは陸戦隊などの地上部隊や駆潜艇などの小艦艇であり、まともな戦闘艦艇は修理のなった駆逐艦不知火と施設艦「白鷹」だけであった。司令部をニューギニアのウエワクに置いたが米軍がホーランジアに上陸するとこれを迎撃する(ホーランジアの戦い)。しかし大敗しサルミへの撤退途上司令部が壊滅し、遠藤喜一司令長官ら幕僚が全滅する。1944年7月に解隊。
  • 第一航空艦隊(2代目)
    開戦前に編成された初代と異なり、1943年7月に基地航空隊として編成された。初代司令長官は開戦時の第四航空戦隊司令官だった「角田覚治」中将。中部太平洋方面に展開し絶対国防圏防衛の航空戦力の中核であったが、マリアナ沖海戦以降の米軍の侵攻で壊滅。角田長官も司令部のあったテニアン島から脱出できずに司令部ごと全滅する。新たに寺岡謹平中将を司令長官に据えて残存戦力を元に再建に乗り出すが、1944年9月のダバオ誤報事件で錬成途上の戦力に大打撃を受けてしまう。その責を問われて寺岡長官は更迭され、新たに大西瀧治郎中将が就任するが、艦隊戦力は10月12日からの台湾沖航空戦で更に壊滅的打撃を受け、司令部は窮余の策として体当たり攻撃「神風特別攻撃」を実施、以後この作戦は日本軍全軍で採用されるようになる。1945年末には拠点としたフィリピンから台湾に移動しルソン島に侵攻する米軍と戦ったが、戦力は完全に枯渇し1945年6月に解隊となった。
  • 第二航空艦隊
    1944年6月に編成された基地航空部隊。直後に発生したマリアナ沖海戦とマリアナ諸島での一連の戦いには錬成途上のため参加していない。その為第一航空艦隊が壊滅した事もあり、続く米軍侵攻への反攻作戦である「捷号作戦」では戦力の中核と位置付けられ、4号まである作戦のうち1~3号までは同航空艦隊が中核戦力として参加する事になっていた。台湾及び南西諸島に展開していたが、1944年10月12日からの台湾沖航空戦で戦力の過半を失う。それでも続くレイテ沖海戦では中核として米機動部隊への攻撃を実施し、空母「プリンストン」を撃沈し一矢報いている。同海戦で第一航空艦隊が神風特攻を実施し戦果を挙げた事を受け、第二航空艦隊でも特攻作戦を開始、以後レイテ島での一連の戦いで特攻作戦を実施し続ける。米軍がルソン島に上陸する前日の1945年1月8日に解隊。
  • 第三航空艦隊
    本土防衛の基地航空部隊として1944年7月に編成される。編成当初は関東地方を拠点としていたが硫黄島陥落後は九州に移動、硫黄島や沖縄方面への攻撃を担当した。紫電改部隊として活躍した第343海軍航空隊も、当初は第三航空艦隊に所属していた。
  • 第五航空艦隊
    第三航空艦隊と同様本土防空の基地航空部隊として1945年2月に編成。沖縄への特攻作戦の中核となる。終戦後に司令長官だった宇垣纏中将による特攻が行われた。
  • 第十航空艦隊
    錬成部隊として1945年3月に編成された。その為所属部隊は練習部隊であり即戦力は保持していない。
  • 第十二航空艦隊
    第五艦隊と共に北東方面艦隊を編成した際に同方面の基地航空部隊として1943年5月に編成された。しかし戦力の多くを南方や本土に転属されてしまい、終戦時には北東海軍航空隊と若干の地上部隊や魚雷艇だけ保持する部隊となっていた。
  • 第十三航空艦隊
    南西方面艦隊所属の基地航空部隊として1943年9月に編成された。米軍が南西方面艦隊の所在するルソン島に侵攻すると指示を受けれなくなった事もあり、新設の第十方面艦隊に所属をかえている。
  • 第十四航空艦隊
    中部太平洋方面艦隊所属の基地航空部隊として1944年3月にテニアン島にて編成される。米軍の侵攻を予測し5月に同島に進出した第一航空艦隊に所属部隊を譲渡し僅か2か月で実質的に解隊となる。
  • 第一護衛艦隊
    元々南西方面艦隊所属であった第一海上護衛隊を1944年12月に発展解消させた部隊。本土からシンガポールの航路防衛を担当する。1945年1月に行われた南方から本土への物資輸送作戦「南号作戦」の中核となる*32。しかし米潜水艦の跳梁跋扈によりこのルートでの輸送を断念、以後は日本沿岸航路の防衛に専念する。なお終戦時に一部の海防艦が停戦命令を無視して樺太や朝鮮に入港し邦人救助を行っている。
  • 第一南遣艦隊
    前述の南遣艦隊を改名して編成。司令長官は引き続き小沢治三郎中将。陸軍のシンガポール攻略戦を支援する。その後は拠点をシンガポールに置き、マレー半島・インドシナ・ビルマ・ニコバル諸島・アンダマン諸島などに根拠地隊を派遣、同方面の警備に当たっていた。戦争全期間を通して主戦場とならなかった為たいした損害は受けなかった。1942年4月には後述する南西方面艦隊が設立されると同艦隊に所属。その頃の所属艦として占守や第五駆逐隊の面々などがいる。その後米軍がフィリピンに侵攻し司令部をマニラに置く同艦隊の指揮を受けれなくなると、新設の第十方面艦隊に所属した。晩年にはシンガポールに避退していた高雄妙高等も所属している。
  • 第ニ南遣艦隊
    1942年3月に第三艦隊を再編改称した艦隊。司令長官は引き続き高橋伊望中将。インドネシア攻略戦に参加し、攻略後はボルネオ島・セレベス島・スンダ列島・西ニューギニアを管轄した。しかし一艦隊が任されるには広大過ぎたので、1943年11月には第四南遣艦隊が新設され、区域の東半分を管轄した。再編時は足柄を旗艦に、第16戦隊(この頃の編成は名取鬼怒五十鈴)とそれなりの戦力を保持していたが、相次ぐ戦いで戦力を引き抜かれ戦争後半の頃は駆潜艇や掃海艇などの小艦艇と警備隊などの陸上兵力で構成する部隊となっていた。第一南遣艦隊同様主戦場とはならず、フィリピン戦からの動きは第一南遣艦隊同様であり、そのまま終戦を迎えた。
  • 第三南遣艦隊
    上記二個艦隊と異なり、1942年1月に2個根拠地隊から新編された部隊。フィリピン攻略戦に参加し、以後は南方と本土の航路を護る任務を受け持ち、第一海上護衛隊が配属された。新編時には球磨も所属していた。尚第一海上護衛隊は後に海上護衛総隊に移譲されている。1944年8月からは南西方面艦隊司令部の直轄部隊となるが、この為同司令部は3個の艦隊司令部(南西方面艦隊、第三南遣艦隊、第十三航空艦隊)を兼務する事になってしまう。以後の流れは後述の南西方面艦隊と同じである
  • 第四南遣艦隊
    上記の通り第二南遣艦隊の広大な管轄を補完するために1943年11月に新設された。
    スンダ列島やバンダ海周辺の島嶼部の防衛を担当する。

連合艦隊・各方面艦隊など Edit

  • 同じ艦隊と表記されるが複数の艦隊が集まって構成される艦隊もある。著名なものとしては日本海軍の「顔」でもある連合艦隊がある。開戦時にはこの他にも支那方面艦隊(第一~第三遣支艦隊ほかで構成)があった。開戦後戦域が拡大すると広大な海域を連合艦隊だけで指揮をするには無理が出てきたため、戦域を複数に分割したうえで新たに「方面艦隊」を設置。水上艦隊と基地航空艦隊でそれを編成する、司令長官は基地航空艦隊の司令長官が兼務する形にしている。
    また米艦隊と正面から渡りあう決戦部隊も第一機動艦隊として二個艦隊編成とし、これら複数の方面艦隊などを連合艦隊が指揮する形とした。但し単独の艦隊すべてが連合艦隊直轄でなくなった訳ではなく、例えば潜水艦部隊で構成される第六艦隊や、台湾沖航空戦などで中核戦力となった第二航空艦隊などは連合艦隊直轄のまま留め置かれている。
  • 第一機動艦隊
    方面艦隊とは異なるが、連合艦隊の決戦戦力のうち、空母を基幹とする第三艦隊と水上艦艇を中核とする第二艦隊で第一機動艦隊を編成し、それを連合艦隊が指揮する形とし、1944年3月に編成された。マリアナ沖海戦、レイテ沖海戦を戦うがレイテ沖海戦後の1944年11月に第三艦隊と共に解隊、第二艦隊は連合艦隊直轄となった。
  • 南東方面艦隊
    1942年12月に編成された方面艦隊。ソロモン・ニューギニア方面を担当し、水上艦隊の第八艦隊と基地航空隊の第十一航空艦隊で構成される。
    ソロモンでの一連の戦いで最前線部隊として善戦するが、トラック諸島への空襲やマリアナ諸島失陥により本土との航路を遮断され、孤立無援の中自給自足体制を敷き、終戦まで活動を実施した。
  • 南西方面艦隊
    1942年4月に南方侵攻が一段落し、占領地の警戒部隊として編成された。そのため当初は上記のような水上艦隊1、基地航空艦隊1の編成ではなく南遣艦隊と第三艦隊を名称変更した第一第二南遣艦隊などで構成していた。
    しかし連合軍の侵攻で担当域も戦場となると基地航空隊の第十三航空艦隊なども配備される。フィリピンに米軍が侵攻するとそれに対応するため所属部隊も増やされ、一時は組織上は6個水上艦隊、2個基地航空艦隊を擁する大部隊になっている。
  • 中部太平洋方面艦隊
    マリアナ諸島など中部太平洋を担当するために1944年3月に編成された。第四艦隊と第十四航空艦隊で構成される。しかし6月からの米軍のマリアナ侵攻で壊滅し7月には解隊、もっとも短命な方面艦隊となる。因みに司令長官は南雲忠一であり、サイパンで自刃した。
  • 北東方面艦隊
    千島、アリューシャンなど北東海域を担当するために1943年8月に編成された。第五艦隊と第十二航空艦隊で構成される。しかし南方からの米軍の反攻に対応するため、比較的静穏な同海域から次々と部隊が引き抜かれ、1944年12月に第五艦隊の南西方面艦隊への異動をもって北東方面艦隊は解体した。
  • 第十方面艦隊
    元々南西方面艦隊所属だった第一南遣艦隊、第二南遣艦隊、第十三航空艦隊だが、米軍のルソン島侵攻でマニラに司令部のある南西方面艦隊との通信が途絶し指揮が出来なくなったので、それらの部隊で1945年2月に新たに編成した艦隊。
  • 海上護衛総隊
    米潜水艦の通商破壊戦に対抗して1943年11月に設立された護衛専門の部隊。南西方面艦隊所属だった第一海上護衛隊(後の第一護衛艦隊)と第四艦隊所属の第二海上護衛隊を基幹に編成された。戦力装備とも乏しい中、通商路の確保に死闘を繰り広げる。
  • 海軍総隊
    大和の沖縄特攻も失敗に終わり、水上戦力をほぼ失った海軍が、1945年4月25日に編成した残存戦力を結集した部隊。それまで連合艦隊とは別であった支那方面艦隊や、海上護衛総隊、各鎮守府や警備府*33を新たに設けた海軍総隊として一括し、海軍総隊司令部は連合艦隊司令部が兼務した。なので実質的には連合艦隊が全ての残存戦力を指揮下に置いた形となった。
    なお南西方面艦隊と南東方面艦隊も当初は連合艦隊から海軍総隊の直轄となっていたが、5月29日に連合艦隊司令長官に小沢治三郎が中将のまま任命され、彼が海軍総隊司令長官を兼務する事になると、草鹿任一南東方面艦隊司令長官と大河内伝七南西方面艦隊司令長官は同じ中将で兵学校も同期ながら中将昇進が小沢より先任の為、海軍の慣例の「階級が同じの際は先任者が指揮を執る」に反する事になるので、両方面艦隊は軍令部直轄に移動し海軍総隊の指揮下から外れており、結局連合艦隊が前線力を指揮下に置くという前提は崩れている。
日本海軍の艦隊構成の移り変わり

Edit

軍艦ではない艦艇で、駆逐艦や潜水艦等は上記の通り2隻以上で隊を編成し、それが軍艦1隻に相v当する戦略単位とされた。そのため指揮官は軍艦艦長と同様の大佐が任じられ、司令と呼称された。駆逐隊や潜水隊のほかにも、基地航空隊や空地分離後の空母艦載部隊の航空隊(例:台南海軍航空隊、601海軍航空隊)等も存在した。

駆逐隊 Edit

駆逐隊の定義については艦娘用語を参照のこと。
駆逐隊の番号は、所属する鎮守府ごとに分けられている(当初は1駆~40駆まで。後に41駆~70駆を追加)。したがって新旧は番号順になっていない。
駆逐隊には、以下のものがある(括孤内は開戦時または開戦後最初の編成時の編成、所属先)。

  • 1~10:横須賀
    • 第一駆逐隊(野風・波風・沼風・神風、大湊警備府所属)
    • 第二駆逐隊(村雨夕立春雨五月雨、第四水雷戦隊所属)→(早霜・秋霜・清霜
    • 第三駆逐隊(汐風・帆風、第三航空戦隊所属)
    • 第四駆逐隊(野分萩風舞風、第四水雷戦隊所属)。満潮も後に在籍
    • 第五駆逐隊(朝風春風松風旗風、第五水雷戦隊所属)
    • 第六駆逐隊(、第一水雷戦隊所属)
    • 第七駆逐隊(、第一航空戦隊所属)。響も大戦末期に在籍、は開戦時は第五航空戦隊所属だった。
    • 第八駆逐隊(朝潮大潮満潮荒潮、第二水雷戦隊所属)
    • 第九駆逐隊(朝雲山雲・夏雲・峯雲、第四水雷戦隊所属)
    • 第十駆逐隊(秋雲夕雲巻雲風雲、第十戦隊所属)
  • 11~20:呉
    • 第十一駆逐隊(吹雪白雪初雪、第三水雷戦隊所属)。開戦前には深雪も所属していた。後に解隊した第十二駆逐隊から叢雲が移籍。天霧も在籍
    • 第十二駆逐隊(叢雲・東雲・薄雲・白雲、第三水雷戦隊所属)
    • 第十三駆逐隊(若竹・呉竹・早苗、呉鎮守府所属)
    • 第十五駆逐隊(黒潮親潮・早潮・夏潮、第二水雷戦隊所属)。後に陽炎が移籍
    • 第十六駆逐隊(初風雪風天津風時津風、第二水雷戦隊所属)
    • 第十七駆逐隊(浦風磯風浜風谷風、第一水雷戦隊所属)。後に雪風・初霜も在籍
    • 第十八駆逐隊(陽炎不知火、第二水雷戦隊所属)
    • 第十九駆逐隊(磯波浦波綾波敷波、第三水雷戦隊所属)。後に天霧も在籍
    • 第二十駆逐隊(朝霧・夕霧・天霧狭霧、第三水雷戦隊所属)
  • 21~30:佐世保
  • 31~40:舞鶴
    • 第三十一駆逐隊(長波・巻波・高波、第二水雷戦隊所属)。巻波・高波戦没後に朝霜・岸波・沖波が編入
    • 第三十二駆逐隊(朝顔・芙蓉・刈萱、鎮海警備府所属)1943年8月20日に早波・涼波・藤波で再編、第十一水雷戦隊に所属
  • 41~50:横須賀
    • 第四十一駆逐隊(冬月・霜月)*3461駆解隊時に涼月を編入。宵月・夏月編入。1945年8月15日に雪風が一時在籍
    • 第四十三駆逐隊(松・竹・梅・桃、第十一水雷戦隊所属)
  • 51~60:呉
    • 第五十二駆逐隊(樫・檜、第十一水雷戦隊所属)
    • 第五十三駆逐隊(楢・桜・柳・椿・欅・橘、第十一水雷戦隊所属)
  • 61~70:佐世保
    • 第六十一駆逐隊(秋月照月)。照月戦没後に涼月・初月・若月が編入

小ネタ

  • 五航戦の秋雲など、駆逐隊に所属しない戦隊直属の駆逐艦もわずかながら存在した。
  • 島風は生涯駆逐隊に所属していない。
  • 鎮守府付きとして連合艦隊に所属していない駆逐艦も存在した。主に老朽駆逐艦で、開戦時の神風型・峯風型(未実装)がこれに当たる。
  • なお、公式ノベライズ「陽炎、抜錨します!」には「横須賀鎮守府所属の第十四駆逐隊」が登場するが、14駆は上記のように本来は呉鎮所属であり、また、史実の14駆は開戦前に解隊された後編成されていない。

航空隊 Edit

航空隊は海軍が航空戦力を拡充する中で1916年に横須賀海軍航空隊を開設したのが始まり。主に基地で航空機を運用する部隊として編成された。なお空母搭載の航空機はその空母に所属する固有の部隊のため、「赤城航空隊」や「飛龍航空隊」というのは通称であり、基地航空隊の様に独立した部隊名という訳ではない。
当初は開設時の地名から部隊名を命名(鹿屋空や美幌空など)していたが日中戦争のため開設された特設航空隊は二桁の番号が割り振られた。
だが現地名や通し番号名だと、その航空隊がどうゆう種類の航空機部隊なのかが判別しづらく*35、そのため太平洋戦争が始まると命名基準を統一する事になり、外戦部隊とすべての特設航空隊は3桁の数字で表すようになる。数字は位毎に意味を持たせており、これによりこの部隊がどういった種の部隊であるかが分かるようになっている。その内容は

  • 百の位
    • 1:偵察航空隊
    • 2:艦上戦闘機航空隊
    • 3:局地戦闘機航空隊
    • 4:水上偵察機航空隊
    • 5:艦上爆撃機(攻撃機)航空隊
    • 6:艦載機航空隊
    • 7:陸上爆撃機(攻撃機)航空隊
    • 8:飛行艇航空隊
    • 9:海上護衛航空隊
    • 10:輸送機航空隊
  • 十の位
    • 0~2:横須賀鎮守府所管
    • 3~4:呉鎮守府所管
    • 5~7:佐世保鎮守府所管
    • 8~9:舞鶴鎮守府所管
  • 一の位
    • 奇数:常設航空隊
    • 偶数:特設航空隊

となっている。
ただし内線部隊*36や通称「乙航空隊*37」と呼ばれる部隊は引き続き部隊開設時の地名を部隊名にしている。

  • 艦これに関わる航空隊
    • 601空
      太平洋戦争中期までは空母飛行隊は各空母に所属していたがこれを改め、航空戦隊が所属する空母の航空機を一元指揮し、作戦時に各空母へ航空機を派遣する方式に改めた。この形で最初に設立したのが第六○一海軍航空隊、略して601空で、ろ号作戦後に翔鶴瑞鳳艦載機を基幹に編成した。第一航空戦隊用の航空隊だが、同戦隊の司令部は第三艦隊司令部が兼務していたので部隊も第三艦隊附扱いであった。マリアナ沖海戦時は空母航空隊では最大規模かつ優秀な練度を誇っていたが、出撃前の1か月ほどタウイタウイに停泊していた際、まともに訓練が出来なかった*38ために練度低下を招いてしまう。
      結局マリアナ沖海戦は大敗し601空は壊滅。部隊は再編に取り掛かるが一番の損害を受けた事もあり再編終了は他の空母航空隊と比べて一番遅い1944年末までかかる見通しだった。この間空母が瑞鶴1隻だけとなった第一航空戦隊は解隊され、瑞鶴は第三航空戦隊に移動するも、雲龍天城が竣役した事で一航戦は再編されている。
      10月の台湾沖航空戦には601空は再編が一番遅かった事もあり参加はしなかったが、直後に米軍がレイテ方面に侵攻し捷一号作戦が発動すると、「当分は機動部隊は出撃させないから」と説明されて三航戦所属の653空らを提供していた第三艦隊に連合艦隊は非情にも出動を命じる。第三艦隊には錬成中の601空と、台湾に出動していた部隊で本土に残留していた数機を掻き集めて出動。601空は全機瑞鶴に収容されて出撃し最後の空母機動部隊として戦った。
      レイテ沖海戦後に再度再編に入るが信濃(未実装)、雲龍が相次いで戦没した事で空母部隊再編は断念され、601空は基地航空隊として第三航空艦隊に編入され硫黄島の戦いに参加。特攻部隊として第二御盾隊を編成し出撃。1945年2月21日、硫黄島を包囲する米機動部隊を襲撃し、Gambier Bayの妹であるBismarck Seaを撃沈しSaratogaを大破(戦線離脱)に追い込んでいる。沖縄戦でも特攻作戦に従事するが壊滅し、以後は関東の防空に専念しつつ終戦を迎える。
  • 631空
    パナマ運河破壊のために建造された潜水空母「伊四百型潜水艦」に搭載する航空隊として編成された。晴嵐を使用した部隊だが戦局の悪化でパナマ運河破壊作戦自体が立ち消えとなり、米機動部隊の前進陣地であるウルシ―泊地への攻撃が任務となり、その事前偵察のために彩雲やそれを運用するための地上要員も必要な事からトラック諸島やシンガポールにも要員が派遣されている。また晴嵐の開発が遅れた事から練習機として瑞雲が使用されている。結局ウルシ―泊地攻撃に向かう途上で終戦となったので実戦をすることなく解隊となった。
  • 634空
    航空戦艦として改装された伊勢日向で再編された第四航空戦隊の所属航空隊として編成された部隊で、水上爆撃機の瑞雲と艦上爆撃機の彗星*39で編成された。尚、瑞雲押し発言など瑞雲にかかわりの深い日向だが日向の搭載機は彗星が予定され、瑞雲搭載は伊勢が予定されていた。
    マリアナ沖海戦前に再編された四航戦は錬成中でもあり同海戦には参加しなかったが、参加した空母航空隊は壊滅状態となり、634空は残存戦力では最大規模の空母航空隊となってしまう。更に解隊された第二航空戦隊から隼鷹龍鳳が転属となり、二航戦所属の航空隊である652空も残余機共々634空に吸収され、結局634空は第三艦隊では最も戦力化が有望な航空隊となり、1944年9月時点で保有数176機にまでなっていた。
    しかし10月に始まった台湾沖航空戦で連合艦隊から634空、653空の投入が命じられ南九州に展開するが艦上機隊は大きな損害を受けてしまう。更にレイテ方面への米軍侵攻が始まりレイテ沖海戦が始まると、四航戦は搭載機がないまま、伊勢と日向が戦艦として参戦、634空はそのまま基地航空隊としてフィリピンに進出し米軍攻撃に従事。レイテ沖海戦後の四航戦解隊後は第二航空艦隊に編入され艦上機は別隊に移動、水上機隊として活動し礼号作戦にも参加。沖縄戦でも参加し終戦を迎えている。
  • 343空
    第三四三海軍航空隊は二回編成されており、最初は零戦装備の部隊として編成され1944年6~7月のマリアナ方面での一連の戦いで壊滅、解隊となった。艦これで登場するのは二代目の343空で通称「剣部隊」。源田実大佐を司令官に最新鋭の紫電改や紫電、彩雲を装備した。隊員もその時点で生き残っていた熟練搭乗員を集めたとも言われており、菅野直や鴛淵孝、武藤金義、杉田庄一といったエースパイロットが所属していた。編隊戦闘を重視した事もあり、1945年3月19日の九州沖航空戦ではF6F、F4U等の米軍機約160機を紫電改56機、紫電7機で迎撃しこれを撃退、米軍に「強力な航空隊が現れた」と驚かれ警戒されている。
    続く沖縄戦では特攻作戦はせず終始特攻機の護衛や制空権確保に努め、203空に所属していて共に戦った岩本徹三中尉はF6Fを面白いように海面に叩き落とす343空の見事な戦いぶりを自書に書き残している。
    大活躍の反面劣勢の中の相次ぐ戦闘に熟練搭乗員も次々と倒れていき、前述の4パイロットは全員戦死している。拠点を大村飛行場に替えていた際には目の前で長崎市への原爆投下を目撃している*40
  • 931空
    戦争後半の1944年に海上輸送路の防衛専門部隊である海上護衛総隊直属の大鷹ら改装空母の航空隊として編成。旧式化した九七式艦上攻撃機?48機で編成され、運用時は12機1チームで護衛、休養、訓練のローテーションを組んでいた。
    米軍に比べて対潜攻撃能力に乏しいため有効に活用できず、確実な敵潜水艦撃沈戦果はないまま戦局悪化により空母による南方の通商路確保は断念され、931空は南西諸島に移動し沖縄方面や対馬海峡、台湾海峡などの哨戒任務に従事。特攻作戦はせず沖縄戦途上からは天山に機種変更し米機動部隊への夜間雷撃戦にも従事。最後の出撃となった1945年8月12日には米戦艦ペンシルヴァニアに魚雷を命中させ大破させている。
  • 鹿屋空
    鹿屋基地サーバーのモデルとなった鹿屋海軍航空隊基地に所属していた航空隊。上記の数字の航空隊と異なり太平洋戦争開戦前からあった航空隊で陸上攻撃機隊と艦上戦闘機隊で構成されていた。日中戦争では木更津空と共に第一連合航空隊を編成し山口多聞少将の指揮のもと激戦を繰り広げる。太平洋戦争時は第十一航空艦隊に所属し仏印に進出し、マレー沖海戦にも参加している。名称変更に伴い陸攻隊は「第七五一海軍航空隊」、艦上戦闘機隊は第二五三海軍航空隊」となり共にラバウルでの激闘で損耗。253空は最後までラバウルで戦っていたが1944年2月にトラック諸島が大空襲を受けた事でトラックに撤退、更に米軍のマリアナ侵攻を受けて同地に移動するが壊滅し解隊となる。751空もテニアンでマリアナ沖海戦に参加し壊滅している。
    尚錬成部隊として二代目の鹿屋空も編成されている。
  • 芙蓉部隊
    岩川基地サーバーのモデルである岩川海軍航空隊基地に所属していた第一三一海軍航空隊所属の3個飛行隊の総称で夜襲戦法を多用し、戦闘機(後に彗星爆撃機)を用いて沖縄方面の爆撃、哨戒に従事していた。また指揮官の美濃部正少佐は「特攻に反対した指揮官」として有名である*41。元々は鹿屋航空基地に配備されていたが沖縄戦が始まり空襲が激化すると航空隊を南九州の各地に分散配備する事になり、芙蓉部隊は山間部にある岩川基地に移動、滑走路に刈草を敷き牛を放牧したり、移動式の建物を設置したりなど、徹底的な偽装を行った結果、岩川基地は終戦まで一度も被害を受けたことがなかった。
    岩川基地移動後の芙蓉部隊はそれまでの夜襲戦術も効果を発揮しなくなった頃で特攻機の護衛や敵への陽動作戦などに終始し終戦を迎えている。
  • 東カロリン空
    この部隊はこれまでの航空隊とは異なり通称「乙航空隊」と呼ばれる部隊の1つで1944年7月に編成された最初の乙航空隊の1つでもある。トラック諸島を拠点にカロリン諸島・マーシャル諸島などの防衛を担当したが各地の警備隊の元で自給自足の生活を行い、実質戦力のない名目上の部隊であった。

部隊 Edit

日本海軍では「艦隊区分」と言われる通常の艦隊編成の他に「軍隊区分」と言われる戦時での作戦に沿った編成があった。これはどちらかというと「仮想敵国(アメリカ)の主力艦隊との決戦」に備えた編成であり、多種多様な作戦に対応するには支障のある面もあった。そのため「軍隊区分」という作戦遂行時のみ編成される組織をその都度構成し、それを「~部隊」と称していた。

  • 例えば「南雲機動部隊」の呼称で知られる「機動部隊」も軍隊区分での編成で指揮官の南雲提督が本来指揮するのは第一航空艦隊所属の第一第二第五の3個航空戦隊だけであり、第三戦隊と第一水雷戦隊は第一艦隊、第八戦隊は第二艦隊が本来の所属である。よってこの事例だと「南雲機動部隊=第一航空艦隊」というのは正確ではなく、真珠湾攻撃に参加した「比叡」や「利根」などを「第一航空艦隊所属」と考えるのは間違いである。
  • 他にもレイテ沖海戦での「第一遊撃部隊」「第二遊撃部隊」「機動部隊本隊」もそういった「軍隊区分」上の編成である。そのため例えば「第二遊撃部隊」はレイテ沖海戦の際、配属をそれまでの機動部隊から南西方面部隊(南西方面艦隊を基幹とする軍隊区分編成)に替えているが、基幹の第五艦隊は北東方面艦隊に所属したままであり、これが南西方面艦隊に所属替えとなるのはレイテ沖海戦後の12月である。同様に第一遊撃部隊は海戦前に配属を機動部隊から連合艦隊直隷としているが、基幹の第二艦隊はレイテ沖海戦後に第一機動艦隊が第三艦隊と共に解体されるまで第一機動艦隊所属である。
  • また「三川艦隊」と呼称される場合のある第一次ソロモン海戦時の第八艦隊も軍隊区分の「外南洋部隊」としての編成であり、参加艦艇のうち第八艦隊に所属しているのは「鳥海」「天龍」だけで、第六戦隊(青葉、衣笠、加古、古鷹)は第一艦隊、軽巡「夕張」駆逐艦「夕凪」は第二護衛隊所属である。
  • 著名な各部隊
    • 機動部隊
      開戦時は第一航空艦隊(第四航空戦隊欠)を基幹に第一艦隊より第三戦隊、第一水雷戦隊、第二艦隊より第八戦隊の各所属艦艇を加えて編成された空母を中核とする部隊。蒼龍らが言及している「南雲機動部隊」はこの時期の機動部隊を指している。機動戦力として真珠湾攻撃を始め多くの戦線に派遣され、その距離は開戦から半年で地球を一周できるほどだった。1942年6月にミッドウェー海戦で大敗し空母4隻を失ってしまう。
      その後第一航空艦隊が解隊され、護衛戦力などが常設化された第三艦隊が新編されるとそれが基幹戦力となる。以後も空母を中核とする軍隊区分として運用される。
      マリアナ沖海戦の頃は指揮官が替わり、その名前から「小沢機動部隊」とも呼称されていたが、マリアナ沖海戦、レイテ沖海戦後に第三艦隊が解隊されると共に機動部隊も消滅した。
      最後の作戦参加となったレイテ沖海戦では基幹戦力となる第三艦隊の他、連合艦隊直轄である第三十一戦隊や第十一水雷戦隊からも艦艇が参加している。
    • 外南洋部隊
      ミッドウェー海戦後に新設された第八艦隊を基幹にソロモン、ニューギニア方面で活動した部隊。三川艦隊という場合は第八艦隊ではなく、普通は此方の方を指す。米軍のガダルカナル侵攻時は第八艦隊を基幹に第一艦隊所属の第六戦隊等も編入されていた。以後ガダルカナル方面の作戦を指揮し、第三次ソロモン海戦では挺身攻撃隊を支援する任務を行っている。
    • 第一遊撃部隊
      マリアナ沖海戦までは機動部隊の前衛部隊として行動していた第二艦隊を捷号作戦では機動部隊と分離して運用する事になり、新たに編成された部隊。通称の「栗田艦隊」の方で知られている。詳細は該当項目→「栗田艦隊」を参照されたし。
    • 第二遊撃部隊
      捷号作戦で機動部隊前衛の任務から離れた第二艦隊の代わりに前衛任務を行う第五艦隊を基幹に編成された部隊で、通称の「志摩艦隊」が有名。第五艦隊と南西方面艦隊直轄の第十六戦隊などで編成された。
      設立当初は再編された第二戦隊*42や、妙高型重巡洋艦4隻で再編成した第五戦隊、秋月型駆逐艦で構成する第61駆逐隊などで編成するかなり有力な部隊として計画していたが、その後の紆余曲折で捷一号作戦発動の頃は第五艦隊だけの部隊となっていた。
      運用方針も二転三転したため殆ど作戦に寄与しないまま後退し、その道中で「阿武隈」を、また分派先で「鬼怒」「浦波」「不知火」「若葉」を失っている。
      レイテ沖海戦後は南西方面部隊指揮下としてレイテ島への増援部隊派遣作戦の「多号作戦」を実施、その為第一遊撃部隊や機動部隊本隊の中小艦艇の殆どが第二遊撃部隊の指揮下に移動し作戦に参加している。
      しかしこの作戦も多くの艦艇が失われ、レイテ島失陥により「多号作戦」も終了し部隊は解隊された。




*1 但し駆逐艦、潜水艦は軍艦ではなく補助艦艇のため、それら2隻以上で構成する隊(駆逐隊若しくは潜水隊)を「軍艦1隻に相当する員数をもつ単位の部隊」として数えている(そのため駆逐艦や潜水艦の責任者は「艦長」とは呼ばずに「駆逐艦」「潜水艦」と呼ぶのが正式で、かつ階級も軍艦艦長が多い大佐ではなく中佐である)
*2 長門も編入される予定だったが第二艦隊や第一戦隊の反対を受け取りやめとなった
*3 但しミッドウェー海戦の際は第一小隊(比叡、金剛)、第二小隊(榛名、霧島)で行動している
*4 この際戦隊司令官の鈴木義尾中将も戦死する
*5 日清戦争時の主力であった三景艦(松島、厳島、橋立)や清国海軍からの戦利艦の鎮遠など
*6 解隊された第四戦隊から高雄、第二十一戦隊から足柄、第七戦隊から熊野と利根が編入されるが、利根と熊野は書類上であり、程なく利根は外れ熊野は戦没した
*7 戦隊司令官の橋本信太郎中将もこの時戦死
*8 実際には5月6日付で解隊となっているが編成表上は羽黒が戦没するまで表記されていた
*9 戦隊司令官の五藤存知少将もこの時重傷を負い数日後に死亡する。
*10 初代。艦これに実装されているのは二代目
*11 司令官の左近允尚正中将らは後続していた輸送艦に救助される
*12 龍田は別行動中で不在だった
*13 白雪朝潮荒潮時津風
*14 旗艦新月(未実装)が戦没したため
*15 司令官ら司令部幕僚は救助された
*16 但し秋月型が所属する第四一、六一両駆逐隊は引き続き機動部隊本隊に所属し、第四駆逐隊は別動隊である第一遊撃部隊第三部隊に配属となったため、第十戦隊として行動した駆逐隊は第十七駆逐隊のみである
*17 大将以外で司令長官を務めたのは其々の最後の司令長官となった小澤治三郎と福田良三の2名のみ
*18 日清戦争時には旧式艦で西海艦隊を構成し常備艦隊と合わせて連合艦隊を編成していたが、戦争後に西海艦隊は常備艦隊に吸収され連合艦隊も解隊されている
*19 日清戦争でも常備艦隊は三景艦など低速ながら大型砲を搭載した主力艦で編成した本隊と、高速の巡洋艦吉野などで構成した第一遊撃部隊とに分かれて行動し、黄海海戦でも第一遊撃部隊がその高速を活かし、本隊と共に敵を挟撃し続けた事が勝因ともなっている
*20 1942年4月に艦隊固有の護衛部隊として第十戦隊が新設され配属されている
*21 第四航空戦隊のみ南方部隊に編入
*22 太平洋戦争開戦時の第三艦隊の先代にあたる艦隊で支那方面艦隊に所属
*23 日露戦争時の第二艦隊旗艦を務めた装甲巡洋艦
*24 球磨、八雲を基幹に砲艦や二等駆逐艦で構成する部隊。日中戦争前までは支那方面を警備する艦隊だったが、日中戦争を受け第三艦隊に組み込まれていた。しかし部隊の編成替えが遅れたため、第三艦隊設立から1年ほど艦隊に艦隊が所属するという異例の状態となっていた
*25 後に戦隊自体は解隊され、太平洋戦争開戦時は砲艦は艦隊直轄となっていた
*26 太平洋戦争時の第五艦隊の先代
*27 改称時の構成は鳥海と2個駆逐隊、2個基地航空隊
*28 太平洋戦争時の第四艦隊の先代
*29 但し第五艦隊編成時に第九戦隊、第十戦隊(第十四戦隊より改称)、第五水雷戦隊が移動する
*30 もっともこの時点では第二艦隊司令長官は小沢の1期後輩の栗田健男中将となっており、先任問題は解決されていた。
*31 なお艦これでは「三川艦隊」繋がりで第六戦隊(青葉、衣笠、古鷹、加古)の面々も一緒にされる場合があるが、厳密にいうと第六戦隊は解隊されるまで第八艦隊に所属しておらず、第一艦隊の所属である。「三川艦隊」とは後述する軍隊区分での編成である「外南洋部隊」を指しているものであり注意が必要である
*32 同時期に戦闘艦艇を用いて行われた物資輸送作戦である「北号作戦」と対比する形で命名された
*33 鎮守府・警備府はレイテ沖海戦前に軍隊区分として連合艦隊の指揮下に入ってはいた
*34 1944年9月15日に再編された第六十一駆逐隊に次ぐ秋月型で構成された駆逐隊。
*35 例えばサーバー名にもなっている鹿屋空は陸攻と戦闘機の部隊だが前述の美幌空は陸攻だけの部隊、ラバウルで活躍した台南空は戦闘機だけ、横須賀空は教育などもする教導部隊である。通し番号名でも第一航空隊は陸攻と戦闘機、第二は艦爆と戦闘機、第三は戦闘機だけと雑多だった
*36 搭乗員養成部隊や本土近辺の哨戒•護衛部隊
*37 航空基地警備や整備などの支援任務を帯びた航空隊で輸送や移動などのための最低限の航空機しか保有していない
*38 泊地入口に敵潜水艦が出没し谷風水無月などが撃沈されてしまい外洋に出て訓練するのが危険だった事、泊地内の大きさは空母が航行訓練するには狭かった事、タウイタウイが赤道近くで無風状態の日が殆どで航空機の発着も無理だった事などが要因
*39 伊勢、日向には着艦能力は無いので彗星は専用の台座に乗せられた状態で収容され水上機用のカタパルトで台座ごと射出、帰還時は付近の味方飛行場や友軍空母に収容される事になっていた
*40 8月9日は激戦続きであったため機体の整備と搭乗員の休養に充てており、迎撃は叶わなかった
*41 但し美濃部自身は特攻作戦を否定していた訳ではなく、代案なければ特攻もやむなしという考えだった。硫黄島の戦いの際は部下に命じてすらいる。彼は安易な特攻への依存を否定していただけで、晩年の自書にも「戦後よく特攻戦法を批判する人がいるが、それは戦いの勝ち負けを度外視した戦後の迎合的統率理念にすぎない」「当時の軍籍に身を置いた者にとって負けてよい戦法は論外」「不可能を可能とすべき代案なきかぎり特攻もまたやむをえない」「戦いの厳しさはヒューマニズムで批判できるほど生易しいものではない」と記述している。
*42 山城、扶桑、長門