Top > 三式戦 飛燕(飛行第244戦隊)

三式戦 飛燕(飛行第244戦隊) の変更点


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 |>|>|>|>|~No.177|
 |&attachref(装備カード一覧/weapon177-ni.png,nolink);|>|三式戦 飛燕(飛行第244戦隊) |>|陸軍戦闘機|
 |~|>|>|>|~装備ステータス|
 |~|~火力||~雷装||
 |~|~爆装||~対空|+9|
 |~|~対潜||~索敵||
 |~|~対爆|+3|~迎撃|+4|
 |~|~[[戦闘行動半径>基地航空隊]]|4|>|BGCOLOR(#ccc):|
 |~|>|>|>|~装備可能艦種|
 |~|BGCOLOR(#ccc):COLOR(#ddd):駆逐艦|BGCOLOR(#ccc):COLOR(#ddd):軽巡洋艦|BGCOLOR(#ccc):COLOR(#ddd):重巡洋艦|BGCOLOR(#ccc):COLOR(#ddd):戦艦|
 |~|BGCOLOR(#ccc):COLOR(#ddd):軽空母|BGCOLOR(#ccc):COLOR(#ddd):正規空母|BGCOLOR(#ccc):COLOR(#ddd):水上機母艦|BGCOLOR(#ccc):COLOR(#ddd):航空戦艦|
 |~|>|>|>|~備考|
 |~|>|>|>|開発不可、改修不可&br;実装時点では全ての艦娘に装備不可、[[基地航空隊]]にのみ装備可能&br;2016年春イベントE-5甲作戦突破報酬&br;2016年9月作戦ランキング褒賞|
 |>|>|>|>|LEFT:三式戦「飛燕」を駆り、東京調布に展開して首都防空に奮戦した陸軍戦闘機隊、飛行第244戦隊です。&br;戦いの最終局面では、「飛燕」を空冷化した信頼性の高い「五式戦」に機種転換し、敵新型機に対抗していきます。|
 *ゲームにおいて [#game]
 -2016年5月3日アップデートで実装された新装備で、陸軍機初のネームド機。
 現在の入手方法は[[2016年春イベントE-5>開設!基地航空隊/拡張作戦#area5]]甲作戦クリア報酬のみ。
 -艦娘には装備できず、[[基地航空隊]]にのみ装備可能。
 --艦娘は問わず&color(Red){装備画面で「・・・」(その他)選択で装備ロック/ロック解除が可能};。誤廃棄には注意したい。
 -同時実装された[[三式戦 飛燕]]と同じ陸軍戦闘機に属し、性能としては[[三式戦 飛燕]]の完全上位互換。
 -行動半径が[[三式戦 飛燕]]に比べて1大きく、2016年夏イベントでの基地航空隊仕様変更((戦闘行動半径は最小値が基準となり、最小値より遠くのマスは選択できなくなった。二式大艇やPBYなどの飛行艇で行動半径を若干延長することは可能。))により、4マス目に基地航空隊を送る場合は有力な選択肢となる。
 --具体的な例としては、16夏E4の道中で強敵である「拠点港湾要塞(再建中)」が4マス目で、ここで基地航空隊を使う場合は強力な戦闘機の一つとなった。
 -詳しい使用方法は[[基地航空隊]]を参照。
 --「出撃時」の制空値((対空+迎撃×1.5で計算))は対空+15相当と[[震電改]]に匹敵し、「防空時」の制空値((対空+迎撃+対爆×2で計算))は対空+19相当と、''&color(Red){陸戦トップの防空能力};''を有する。
 ---ただし陸戦扱いのため撃墜ボーナスは7%であり、防空次点の[[雷電]](ボーナス10%)等の局戦と比べると撃墜ボーナス値が低い。
 ---防空トップの座は約2年後に登場した[[紫電改(三四三空) 戦闘301]]に譲っている。
 //---ただし陸戦扱いのため撃墜ボーナスは7%であり、防空次点の[[雷電]](ボーナス10%)等の局戦と比べると撃墜ボーナス値が低い。
 //---防空トップの座は約2年後に登場した[[紫電改(三四三空) 戦闘301]]に譲っている。
 **性能比較表([[装備最大値/局戦・陸戦早見表/テーブル]]より転送) [#ze5b319b]
 #table_edit(装備最大値/局戦・陸戦早見表/テーブル)
 
 *小ネタ [#neta]
 -飛行第244戦隊は大日本帝国陸軍の飛行戦隊の1つ。中でも首都防空の任を担っていたので隊員たちは近衛飛行隊と自称し、日本の空の最終防衛線と言える部隊であった。
 --その為、装備に関しては優先で最新鋭の物を回されて、整備も優秀な人員が控えているのでトラブル続きの三式戦の稼働率も高くエリート中のエリート部隊である。
 --編成は1941年7月下旬。皇居防衛のために士官学校の教官・助教を中心として144戦隊の名で編成された。当初の戦力は九七式戦闘機(([[九六式艦戦]]と同世代の戦闘機。こちらも九六艦戦同様の単葉固定脚))19機であった。
 ---ちなみにかのドゥーリットル空襲にも邀撃に出ている。
 が、やはり旧式の九七戦ではどうにもならず、1942年4月には新型の二式単座戦闘機及び二式複座戦闘機を追加配備している。
 また時を同じくして戦隊名は244戦隊になった。
 --1943年8月、使用機種を三式戦闘機に変更。が、この部隊でもやはりハ40に悩まされ、以後244戦隊は整備に力を入れていくことになる。
 --1944年11月、B-29による帝都空襲が始まると244戦隊も邀撃にあがるようになったが、高高度を飛行するB-29の撃墜は容易ではなかった。そのため空対空体当たり部隊、通称「震天隊」が編成され帝都に飛来する敵機にその身をぶつけていった。
 ---ちなみに体当たり攻撃が行われたのは帝都空襲時のみで、名古屋に向かう編隊に対しては投弾後の機体に対して追撃を加えかなりの数の撃墜破を報告している。
 //---迎撃高度に上昇するだけでも苦しいので、武装も防弾装備も降ろして極限に軽量化して一撃で撃墜するために体当たり攻撃を仕掛ける方法が取られた。思いっきり上昇し、B-29の下っ腹に突っ込む方法である。
 ---ところでこの体当り戦法、海軍の特攻とは違い''必死戦術ではなかった''。激突のタイミングに合わせて落下傘降下する手はずだったのである。確かに生還率は乏しいものの、板垣政雄軍曹や中野松美軍曹など2度体当りをして2度生還している。はがくれ隊隊長の四宮徹中尉に至っては左主翼が折れリベットも抜け落ちた機体で基地まで帰ってきたりしている。
 陸軍は海軍と異なり、パーソナルマークやキルマークを機体に描くことを認めていた。体当り撃墜をした搭乗員は、新たに受領する機体にB-29を体当たりで撃墜したことを示す特別なマークを描いた。
 --しかし1945年2月には空母艦載機も本土に飛来するようになり、いままで爆撃機を相手に闘ってきた244戦隊は苦戦を強いられるようになる。
 4月にはB-29の編隊が護衛にP-51を引き連れてくるようになり、戦況はますます厳しくなっていった。
 ---あんまり対戦闘機戦の損害が大きいので、艦載機襲来の時は迎撃に出るなと上層部から命令が飛んだとか。
 --1945年4月下旬、244戦隊は使用機種を新型の五式戦闘機((キ100。呼び名については諸説あり))に変更した。
 ---これは三式戦の発動機をハ40からハ112II((海軍名「金星」、艦これでもおなじみの[[瑞雲12型>瑞雲12型]]、[[九九艦爆>九九式艦爆]]など多くの機体に搭載された海軍の主力発動機のひとつ。空冷エンジンであるため、三式戦→五式戦の改造によってエンジンの冷却方式が変わっている事になる))に換装、抵抗の増加と引き換えに性能と信頼性の向上を狙った機種である。
 ---五式戦は三式戦よりも対戦闘機戦闘に向いていたようでグラマン、コルセアの新型機に対しても善戦している。
 --5月に特攻部隊の護衛のために知覧へ移動。7月以降は各地を転々としながら敵機の邀撃にあたった。
 終戦時には八日市で戦力回復中だった。
 --操縦者のほとんどが帰郷したあとの8月20日に復員式が行われ、244戦隊はその歴史に終止符を打った。戦没者70名、総撃墜数は101機((内訳 B29:73機 F6F:20機 F4U:7機 SB2C:1機))であった。
 &br;
 -この機体の主翼には銃身が突き出しているのが認められるため、主翼の12.7mm機銃(ホ103)の代わりにドイツ製の傑作機関砲「MG151/20」、通称「マウザー砲」を搭載した一型丙と思われる。
 --これは第二次世界大戦における航空機関銃においてトップクラスの完成度を誇り、独戦闘機だけでなく爆撃機にも搭載された。そのため同盟国である我が日本陸軍はもとより米国もコピー生産を試みたが、どちらも(米国でさえ)不完全に終わったという逸話がある。ドイツの技術力を物語るエピソードのひとつである((もっとも、陸軍がコピー生産しようとしたのは弾丸で本体は最初から諦めていたという話もある。))。
 ---ちなみに整備班による分解点検は''「厳禁」''とされた。うかつに分解すると元に戻せないためである……
 --発射速度、弾頭重量、初速などの目ぼしいカタログスペックは決して突出したものでは無かったものの、そのスペックを米英の使用したイスパノ・スイザ HS.404と比べて10Kg近く軽く、全長は60cmも短い軽量コンパクトなボディで実現している。
 --ドイツの運用していたもう一つの20mm機関砲であるMGFF/Mと比べると、電気発火のクローズドボルト方式により射撃同調装置への対応が可能((電気発火の雷管は、機械的にぶっ叩く機構より引き金を引いてから発火するまでの時間が安定している。また、クローズドボルト方式は弾薬を薬室に装填し終えてから激発されるため発射タイミングがほぼ完全にコントロールできる。射撃同調装置を使うにあたって、引き金が引かれてから実際に発射されるまでのタイムラグはできる限り一定しているのが望ましい。))、ショートリコイル方式により装薬量に対してより高圧、高初速化が可能((ショートリコイル方式は、弾薬が銃身を抜けるまで銃身と遊座が結合されたまま少しだけ後退する。そのため装薬のエネルギーを効率よく弾丸に伝えることができる。))、さらには強固なロティティング・ボルト機構の採用により信頼性も抜群((遊座が前後する時にカムである角度回転させる方式。閉鎖機構の強度を高くとることができるので壊れにくくなる。流石に超高初速のMG151/15ではその反動に耐えられず部品の破損などが発生したが、最大で1030m/sなどという頭のおかしい速度なので仕方がなかった。))と最早20mmであること以外は全くの別物であり、カタログには現れない高性能を詰め込んだ正に「鋼鉄の芸術品」であった((コピーに失敗したアメリカがMG151/20をそのように賞賛した。なお、アメリカがコピーに失敗した理由は精密なプレス加工の技術の差であると言われている。))。
 --三式戦に搭載されたのは潜水艦で輸入した800挺。後述する特殊な弾薬も40万発輸入され、メーカー生産をはじめとして現地改造も行われ連合軍機に対して猛威を振るい、前線部隊からは絶賛を博した。
 ---その後も前線部隊からは追加配備を望む声が多くあったが、これ以上の輸入はかなわなかった。そのため次の型である一型丁からはホ103の口径を20mmに拡大した「二式二十粍固定機関砲(通称「ホ5」)」が機首に搭載されることになる訳だが[[それは別の話>三式戦 飛燕一型丁]]。
 --マウザー砲は薄殻榴弾と言われる弾薬が使われ、着弾すると爆発し防備の厚い爆撃機の機体すらバラバラにする等抜群の威力を誇った。曰く、「B-25の主翼がへし折れた」「撃墜した敵機に直径1mの大穴が開いていた」などなど。しかしこの弾薬さえも日本の技術力では生産はかなわず、輸入分を撃ち切った後は泣く泣く元の12.7mm機銃に戻された。
 ---薄殻榴弾(ドイツ語でMinengeschoß、日本軍では鋼板搾出弾頭と呼称していた。)は通常の榴弾が金属を削り出して開口し炸薬や信管を詰め込むところを板金を叩き出して弾頭形状に仕上げる製法で作られる。切削に耐えうる強度が必要でどうしても外殻が厚くなる従来の方式に比べて格段に薄く作ることが出来るため、通常の20mm榴弾の炸薬量が最大でも10gであるのに対して18gと1.8倍にまで増加している。機関砲本体と同様にドイツの高精度プレス加工技術でのみ成し得た製法である。
 ---ただし、この機関砲は上記したとおりカタログスペックは突出して高いわけでなく、徹甲弾で比較すると陸軍ホ5 20mm機関砲と一発あたりの威力に大きな差がない((初速[m/s]^2×弾頭重量[g]/2000で求められる運動エネルギー[J]の単純比較。))。マウザー砲の伝説は、薄殻榴弾あってこそのものだったといえる。
 --勿論、この機関砲は[[かの国の戦闘機>Fw190T改]]には標準で搭載されている。
 --MG151/20を生み出したマウザー社は更に強力な機関砲を研究し、大戦末期にはMG213Cリヴォルヴァーカノンを完成させた。残念ながら量産が終戦には間に合わなかったが、20mmのMG213Cは弾頭重量112g、初速1050m/s、発射速度1500発/分という圧倒的な性能を誇り、戦後の各国における航空機関砲の始祖ともいえる傑作機関砲となった。((現在も直系の子孫ともいえる27mm マウザー BK-27がユーロファイター タイフーンなどに搭載されている。))
 
 #region(一方日本海軍は……)
 
 -日本海軍は陸軍とは別にスイスのエリコンFF 20mmおよびFFL 20mmをベースにした九九式二〇粍一号機銃(FFベース)、九九式二〇粍二号機銃(FFLベース)を独自に開発していた為、そもそも日本では量産不可能で輸入品に頼らざるを得ないMG151/20には興味を示さなかった。
 -この機銃は基本的にはエリコンFFを踏襲し、同じような欠点も抱えていたが、日本海軍は独自の改良を施しその一部を克服していた。
 --ドラム装弾の為、装弾数が少ないという大きなウィークポイントを持っており、海軍の戦闘機乗りが「装弾数60発じゃ少なすぎる、何とかしろ」と言い、整備兵からは「装弾数が多くて重いドラム弾倉は整備の際に手間取るうえ危険」と言われた結果、九九式二号四型に至ってベルト装弾に大改修した。
 ---ボルトの前進中に雷管に着火するAPIブローバック方式のエリコンFF系列の機関砲は、燃焼ガスとボルトの慣性を相殺することにより反動の低減とボルトの重量の削減が可能である。しかし、それは同時にボルトの前進よって生じる次の弾の装弾に必要な給弾機構の駆動エネルギーが不足するというデメリットも併せ持つ。
 加えて、発射動作中に銃身と同径の薬室内を薬莢が移動する特性上、弾体と薬莢がほぼ同口径のストレート弾でなければならなかったため、発射装薬の量が限られることがこれに拍車をかけた((その分薬莢を延長すれば装薬の量は増やせるが、細長い筒状に詰めた装薬を後部からの撃発できれいに燃焼させるのには限界があるし、実用上の問題もある。))。
 ---日本海軍は様々な試行錯誤を重ね、電動モーターを使う案まで試作されたが、最終的には発射機構の改良のみで自力給弾させる事に成功し、昭和 18(1943)年10月にはベルト給弾型の二号四型が量産された。本家スイスはもちろんのことドイツでさえ成し得なかった快挙である((ドイツは試作には成功したが満足せず結局はMG151を作った。))。
 ---改良の結果ベルト給弾式になり装弾数は125発と通常の2倍近くに増大した。大型のドラム弾倉(100発)も存在していたのだが、60発弾倉では8kg、100発では重量が18kgもあったためその重量を削減できたことは大きな意味があった。
 --発射速度を犠牲にする覚悟での改修のはずが三型までの480rpmから500rpmと向上している。さらに試作された発射速度増大型は680rpmに向上するとされていた。&color(Silver){どうしてこうなった。};
 --また後にはB-29対策として、B-29の防弾タンクを食い破ってから発火する遅動信管付き徹甲榴弾が用意された。
 --シンプルな APIブローバック機構故に軽量(軽量なMG151/20と比べても1丁当たりの重量は九九式二号の方が4kgほど軽い)であることも制約の多い艦載機での運用を考えていた日本海軍にとっては大きな恩恵だった。
 -しかし、本家スイスやドイツでも成し得なかった改良に成功したものの未だ欠点を残しており終戦まで改良が続けれられた。
 --発火サイクル中に薬莢が薬室内を前後するので貼り付きや薬莢切れ等による給弾不良を起こし易いなどの欠点は残っており、防止策としては弾薬へのオイル塗布が行われたが、高々度ではオイルが凍結する故障が多発した。
 ---同じエリコンFFの改良型であるドイツのMGFF/Mは凍結防止用の電熱線や薬室内に縦溝を彫り発射ガスの一部を戻し薬莢側面を押さえるフルーテッド・チャンバーの採用により対策をしていたが、その対策は日本には伝えられていなかった。
 --他にはオープンボルト故の精度の低さやプロペラ同調装置((モーターカノン以外の方法で機首搭載する場合に、自分のプロペラを撃ってしまわないようにする為の装置。))への対応が出来ないことなどが挙げられるが、これは機構の改良などでどうにかなるような問題でなかった((APIブローバックは遊座が前進している途中、つまり弾薬が薬室に収まりきる前に発火する。また引き金が引かれていないときは遊座が後退している状態で固定されるオープンボルト方式のため『引き金が引かれてから弾薬を装填』する。従って引き金が引かれてから発射までのタイムラグが大きくバラつき、たとえ同調装置を取り付けたとしてもきちんとタイミングを合わせることができないのである。))。
 ---というか、20mm以上の口径で機械式の同調装置を持っていたのは、三式戦丁型にも搭載された陸軍のホ-5 二式二〇粍航空機関砲だけである。米英は初期の段階で翼内機銃のみにしていたし、P-38やモスキートNFは双発で元々同調装置の必要はない((もし同調装置の不良でペラを撃ってしまった場合、20mm以上だとペラを吹っ飛ばしてしまう可能性が高かった(実際に五式戦で起きている)ためプロペラ圏内の搭載をやめた。))。
 ---ただ、ドイツのMG151/20を搭載した[[Fw190A>Fw190T改]]は、その取り付け位置が主翼の付け根だったためプロペラの回転半径内になってしまい、同調装置を取り付けていた。この同調装置は電気式であった。&color(Silver){もちろん当時の日本にマネできる代物ではなかった。};
 --とはいえ、エリコンFFシリーズは割と信頼性も高くコンパクトなので戦後も製造が続けられた。後継のモーゼルMG213系にその系譜を残すにとどまったMG151に対し、エリコンFF/SSは自身が現在も一部で使用されている。もちろん後継のエリコンKAという製品も生まれている。
 #endregion
 
 -ちなみに三式戦がもともと搭載していたホ103は米ブローニングM2機銃のコピーなのだが、弾頭が軽かったために射程と威力でやや劣っている。ところがこいつはオリジナルに無い「マ弾」と呼ばれる炸裂弾が使用できた。マ弾装填のホ103で撃たれた米兵が「20mmで撃たれた!」と報告するほどの威力があったそうだ。
 --初期の機械式信管はいまいち信頼性が低く、しばしば腔発や早発を起こしたという。そのため陸軍は研究を重ね、1943年に断熱圧縮を利用した''「空気式信管」''の開発に成功。((空気を一気に押し縮めると温度が上昇する。この信管は弾頭に空間を設けて金属の薄板で覆い、激突時に潰れる事で加熱・発火する仕組みである。))従来と比べ暴発が激減したのみならず簡単な構造ゆえ生産効率は8倍に、またサイズがかなり小さくなったために炸薬量が増えさらに威力を増している。海軍もこれに注目し、13mmおよび20mm機銃弾の信管として「無撃針信管」と呼び採用した。&color(Silver){%%珍しく仲がいい。%%};
 
 &br;
 
 -244戦隊の本拠地は現在の[[調布飛行場>http://www.kouwan.metro.tokyo.jp/rito/tmg-airport/chofu/]]である。
 --今は、三宅島などの東京都の離島への定期便やセスナなどのレジャー機の発着に利用されている。
 --敷地内にはかつて三式戦が格納されていた掩体壕がふたつ、残されている。そのうちひとつには傍に飛燕のブロンズ像も有りかつての光景を忍ばせている。また周辺道路には当時の門柱が残されているが、刻まれた弾痕から空襲の激しさの片鱗をうかがうことができる。
 --ちなみに掩体壕はやや離れたところにもうひとつあり、こちらも一般公開されている。他に高射砲座や掩体壕の残骸がいくつか残存しているが、こちらは私有地内なので良識ある提督は無断侵入などせぬように。
 --近場の多摩霊園にも関連施設や掩蔽壕があったそうな…&color(Silver){罰当たりな};
 --なお三鷹市役所近くの教育センターなどに飛行場周辺から発掘された当時の品々や発掘時の写真が展示されている。三式戦のプロペラハブや機銃弾薬箱、爆弾の破片などなど貴重な品である。都心からさほど遠くないから、東京観光の折に立ち寄ってもいいだろう。
 &br;
 -飛行第244戦隊は太平洋戦争中に4回ほど戦隊長が変わっているが、中でも有名なのは同戦隊最後の戦隊長''「小林照彦」''大尉(着任時、最終階級は少佐)であろう。
 --彼の着任時の年齢は何と''24才''。陸軍最年少の飛行戦隊長((飛行戦隊は大体20~40機程度の航空機とそのパイロット、所属機の整備部隊で編成される一個連隊規模の部隊であり、ましてやエリート部隊の第244戦隊である。この若さでこの部隊の戦隊長に任命されるのは並大抵の事ではない。))であった。同時に6機(後述の体当たりで撃墜したB-29を含む)の撃墜記録を持っており''立派なエースパイロット''((エースは連合、枢軸共に「撃墜数5機」と言う基準があるため、これを超えるとエースと呼ばれるようになる。))でもある。
 
 #region(陸軍航空隊における部隊長の積極的な空戦参加について)
 -陸軍航空隊では階級や年齢に関わらず、「指揮官先頭」をモットーとしており飛行戦隊長や飛行団長((飛行団は飛行戦隊を二つ以上束ねた「旅団」に相当する部隊、その部隊長が「飛行団長」である。))が積極的に空中指揮を行っていた。そのため、''戦隊長や飛行団長でありながらエースパイロット''という事例も多かった。
 --例としては「加藤隼戦闘隊」で知られる飛行第64戦隊の戦隊長''「加藤建夫」''、四式戦「疾風」のテストパイロットも務めた飛行第22戦隊の戦隊長''「岩橋譲三」''、「ニューギニアは南郷でもつ」と謳われた第59戦隊の戦隊長代理''「南郷茂男」''などが挙げられる。
 --しかし、指揮官が矢面に立つことになるので、当然ながら指揮官が戦死する危険性が非常に高く、実際に上記の三名のように空中指揮の最中に戦死した者も少なくなかった。この理由から戦争末期には熟練パイロットの温存の為、戦隊長の出撃を控えるように指示が出された部隊もあった。
 #endregion
 
 --あまりに若いので、敵機にやられて脱出した際に助けてもらった村人に「自分は調布の飛行第244戦隊長です」といくら説明しても「そんな若いのに、戦隊長だなんて嘘はいかんよ」と全く信じてもらえなかったそうである。&color(Silver){実際に最年少の戦隊長だったわけだが};
 --しかし、若いだ何だと言われながらもその肝の座り様と操縦技術は戦隊長に抜擢されるのも納得な物であり、同部隊の震天隊の様に''B-29を体当たりで撃墜して生還する''という立派な胆力と技術の持ち主であった。
 --非常に仲間思いであり1945年5月15日に飛行第244戦隊は部隊感状を授与されているが、その直前に陸軍元帥、杉山元から呼び出されて「今度、君に感状を授与したいのだが、君への感状か部隊への感状、どちらがいいか?」と聞かれたところ「当然、部隊感状にしていただきたい!」と即答したと言われている。
 --彼は無事に戦争を生き延びたが、やはり空への想いは捨てきれなかったようで、1946年からサラリーマンをしつつ「日本空軍創設運動」に精力的に取り組んだ。
 ---なお、彼はとても勉強熱心で1946年に明治大学の法学部(二部)に入学、1950年に同大学を卒業している。仕事と両立させつつ、しっかりと勉強もしていたのである。&color(Silver){航空機パイロットは実際の所、かなりの頭脳職であるし、要領の良さも戦場で生き残る術であったのだろう};
 --1954年7月1日、念願の「航空自衛隊」が設立されると勤めていた会社を退社し航空自衛隊に入隊、再びパイロットの道を進んだ。
 ---しかし、皮肉にもその事が彼の運命を決定づけることとなった。彼は米国留学でF-86の操縦教育課程を終えた後、帰国し第244戦隊も展開したことのある浜松基地で訓練教官となっていたが、1957年6月4日、乗機が離陸直後にトラブルを起こし墜落、殉職してしまったのである。
 ---彼は同乗者を脱出させた後、市街地に機体を墜落させないよう最後まで操縦桿を握り続けての殉職で、''「国と人を守る」''防空が主任務だった第244戦隊の長らしい最後であった。
 -2016年5月17日に発売されたデアゴスティーニ・ジャパン刊「第二次世界大戦傑作機コレクション」No.8が、まさにこの第244戦闘飛行隊所属の小林照彦大尉搭乗機(一型丙)をモデルにしている。ダイキャストモデルのため重量があるにもかかわらず主脚や台座が貧弱なプラスチック製という難点はあるが、あの複雑な迷彩を見事に再現しているので、興味のある提督は是非。
 *この装備についてのコメント [#comment]
 #pcomment(./コメント1,reply,15)