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橘花改 の変更点


 |CENTER:218|CENTER:80|CENTER:80|CENTER:80|CENTER:80|c
 |>|>|>|>|~No.200|
 |&attachref(./weapon200.jpg,nolink);|>|橘花改|>|噴式戦闘爆撃機|
 |~|>|>|>|~装備ステータス|
 |~|~火力||~雷装||
 |~|~爆装|+11|~対空|+12|
 |~|~対潜||~索敵||
 |~|~命中||~回避|+1|
 |~|~[[戦闘行動半径>基地航空隊]]|2|~射程|長|
 |~|>|>|>|~装備可能艦種|
 |~|BGCOLOR(#ccc):COLOR(#ddd):駆逐艦|BGCOLOR(#ccc):COLOR(#ddd):軽巡洋艦|BGCOLOR(#ccc):COLOR(#ddd):重巡洋艦|BGCOLOR(#ccc):COLOR(#ddd):戦艦|
 |~|BGCOLOR(#ccc):COLOR(#ddd):軽空母|BGCOLOR(#ccc):COLOR(#ddd):正規空母|BGCOLOR(#ccc):COLOR(#ddd):水上機母艦|BGCOLOR(#ccc):COLOR(#ddd):航空戦艦|
 |~|>|>|>|~備考|
 |~|>|>|>|開発不可、改修不可&br;任務「[[噴式戦闘爆撃機の開発>任務#id-F46]]」報酬&br;基地航空隊、[[翔鶴改二甲]]、[[瑞鶴改二甲]]のみ装備可能|
 |>|>|>|>|LEFT:潜水艦派遣作戦によりもたらされた海外で実用化されたターボジェット戦闘機の&br;一部の設計図などを参考に開発された国産ジェット戦闘攻撃機です。&br;本機「橘花改」は、爆装及び機首に30mm機銃を2門装備した戦闘爆撃機型として戦力化を図ります。&br;※基地航空隊及び装甲甲板&甲板カタパルトを装備する一部正規空母のみ運用可能です。運用時には鋼材を消費します。|
 
 *ゲームにおいて [#about]
 -2016年12月9日アップデートにて実装された装備で、同日実装された新カテゴリ「噴式戦闘爆撃機」に属する。読みは「きっかかい」
 -任務「噴式戦闘爆撃機の開発」をクリアすることで入手できる。&br;任務達成には
 --[[紫電改二]]×3機(任務遂行時に破棄)
 --「新型航空機設計図」×2枚
 --「ネ式エンジン」×1個(クリア時に消費)
 -
 が必要。
 -上記備考にあるとおり、[[翔鶴改二甲]]、[[瑞鶴改二甲]]、[[基地航空隊]]のみ装備可能。
 --【注意】''[[大鳳]]・[[同改>大鳳改]]は装備できない''。&br;「要 甲板カタパルト」のため、カタパルトの無い大鳳は運用不可。
 ---誤解の元であろう[[試製景雲(艦偵型)]]は「装甲空母専用機」である。&color(Silver){一般的な艦攻の倍近く重い飛行機なので、並の甲板は痛んでしまうことは想像に難くない。};
 ---また、甲板カタパルトを使用した改造を施しているものの、''[[大鷹改二]]、[[Saratoga Mk.II]]およびコンバート先の[[Mod.2>Saratoga Mk.II Mod.2]]にも装備不可''。
 --【注意】''[[装備ロック>知っておきたい機能#e9529ddb]]の要件が無駄に厳しい。''&br;貴重性もさることながら、陸上機ではないので、[[装備ソートの「…」>知っておきたい機能#z03992ab]]からは見えず、[[基地航空隊]]を未開設かつ、翔鶴型改二''甲''が不在の場合、頑張って開設するか、資材と改修値を捨ててコンバートしない限りロックする手段は無い。
 -所謂「爆戦」であり、航空戦後に&color(Silver){生き残っていれば};砲撃戦に参加する。噴式機の挙動の詳細は[[噴式景雲改]]も参照。
 --「噴式」の「爆戦」なので、「噴式強襲」→「航空戦(制空戦)」→「航空戦(対地爆撃と対艦爆撃)」→「砲撃戦(対艦爆撃のみ)」に参戦する。
 --[[彗星(六〇一空)]]に並ぶ爆装11に加え、[[烈風改]]と同等の対空12を持つ高性能の爆戦である。
 ---[[噴式景雲改]]が攻撃寄り(爆装15/対空6)なのに対し、こちらは制空寄りの性能。
 --割合撃墜でしぶとい戦闘機隊と違い、固定撃墜で制空値が激減する事がある。
 対空値が高いからと安易に戦闘機隊と同じ扱いで制空を計算しないように注意が必要。
 [[噴式景雲改]]のページにある通り、「噴式強襲」時にも対空砲火を受けてしまうので損耗が大きく、高い制空力が額面通りに最後まで維持されることは少ない。&br;実用上の制空力は[[零戦62型(爆戦/岩井隊)]]など噴式機では無い戦闘爆撃機や戦闘攻撃機に譲る。
 ---軽巡ツ級などの防空艦が高頻度で出現する海域では全滅の危険も高い。
 戦闘面でのリスクも勿論の事、他の艦載機よりも練度の上げ直しにかかる資材も格段に高い。防空艦が多数出現する海域での運用は資材と相談し慎重に。
 --航空戦における[[熟練度補正は艦攻艦爆と同等>艦載機熟練度#c129c85f]]なので、最終的な制空値は同クラスであれば艦戦が勝る。&br;ただし、噴式機による先制打撃の迎撃が可能な航空機は噴式機のみであるとアナウンスされており、敵も噴式機を飛ばしてくるようになると重要性が増すものと思われる。
 -基地航空隊に組み込んで使うには制約が多い。
 --[[戦闘行動半径>基地航空隊#distance]]:2 なので、単騎で練度上げがギリギリ可能な程度。攻撃隊としては偵察機と編隊を組まないと遠くへは行けない。
 ---偵察機と組むと最大で5 戦闘行動半径以内なら空襲可能。基地航空隊でも噴式強襲はできるので、偵察機の手数減分を補える。
 ---艦載時と異なり御役は2回ぽっきりなので、制空減弱を大して気にせず護衛戦闘機を減らして敵機動部隊にぶつけられる。
 ---例外としては[[6-4>中部海域#area4]]が挙げられ、行動半径2である''この機体を配備していてもボス艦隊を攻撃できる''(行動半径2で届くマスに加えボスマスも選択できる)。これは[[噴式景雲改]]も同様。
 
 **性能比較表([[装備最大値/艦爆上位早見表/テーブル]]より転送) [#rddef6f5]
 #table_edit(装備最大値/艦爆上位早見表/テーブル)
 
 *小ネタ [#trivia]
 -日本初の純国産ジェット機「橘花」が元ネタか。本来は陸上機であり、[[震電改]]などと同様のif仕様と思われる。
 --五式30mm機銃を2丁積んだ戦闘機型に、爆装できるよう改良したif機だろうか。
 &br;
 -「橘花」はもともと特殊攻撃機として1944年11月から開発が始められたもの。[[遣独潜水艦作戦>伊8]]によって得られたドイツ軍のジェット戦闘機Me262とジェットエンジンJumo 004BおよびBMW 003Aのわずかな資料を参考に作りあげた''日本初の国産ジェット機''である。
 --ミッドウェー海戦で貴重な空母を4隻も失ったのを皮切りに、日本海軍の航空戦力は相次ぐ航空戦で急速に消耗していった。
 南北から連合軍が迫り、絶対国防圏構想は脆くも崩壊するという絶望的状況下の中で、海軍は次期決戦のための戦力再建に奔走していた。
 既存機の木製化などが検討される中、低質の燃料、潤滑油でも動作可能で量産にさえこぎつければレシプロエンジンより安価でそろえられるジェットエンジンが着目される。
 折しも1944年7月、ドイツからもたらされた資料の一部が到着し、海軍はジェットエンジンを搭載した特殊兵器の開発に踏み切ったのである。
 -そもそも遣独潜水艦作戦は、日本が押さえた東南アジアの天然資源とドイツの軍事技術を交換するという目的で行われた。
 ドイツから提供された最高機密は、酸素魚雷などの技術ではなくタングステン、天然ゴムといった天然資源の見返りだったのである。
 --1943年12月16日、日本から第四次遣独艦として潜水艦 伊29がシンガポールを出港する。
 艦長は木梨鷹一中佐、かつて[[伊19]]の艦長の時に空母ワスプを撃沈した人物だった。
 --翌1944年3月11日、伊29は無事にドイツ占領下のフランス、ロリアン軍港に入港する。
 シンガポールから運んできた217トンに及ぶ天然資源を下ろし、ドイツから提供された2組の資料と実機のうち1組を搭載。
 小野田捨次郎大佐、巌谷英一技術中佐といった便乗者が乗り込み、4月16日に同港を出港し一路日本に向かった。
 7月14日にシンガポールに到着、ここで巌谷英一技術中佐は下艦し、一部資料を携えて空路で本土へ飛んだ。
 --伊29は呉へ急いだが、26日バシー海峡にて浮上航行中に米潜水艦ソ―フィッシュ((USS Sawfish SS-276))の雷撃を受け沈没。
 たった一人、恩田上等兵曹を残して木梨艦長ら乗組員と伊29は水底へ消え、また搭載していた詳細資料や実機も亡失し、巌谷中佐が持ち帰った一部の書類のみが唯一日本側に渡ったものとなった。
 --だがその資料も機体の取扱説明書や工場視察の個人メモ程度であり、直接的に設計に生かせそうなものはBMW 003Aジェットエンジンの縦断面図(しかも縮小版)などわずか数枚という有様。
 この状況にもかかわらず、わずか1年足らずでジェット機の初飛行を成功へと導いた、技術者たちの奮闘は賞賛に値するだろう。
 ---ちなみにもう1組の資料と実機は、ドイツ海軍から日本海軍に譲渡される潜水艦U-1224に積み込まれて3月30日ロリアン軍港を出港。
 さらに日本から第五次遣独潜水艦として伊52が派遣され、また1945年3月24日にU-234がMe163とMe262の実機を搭載してキール軍港を出た。
 しかしU-1224と伊52は大西洋で沈没し、U-234もドイツ本国降伏の知らせを受けて米駆逐艦に投降した為に、最後まで詳細な資料は日本に届かなかった。
 -このため橘花はほぼ日本独自で開発されることになった。外見的にはMe262と似ており、上記の技術提供の経緯から橘花にはMe262の技術が多く取り入れられていると言われていたが、実際は殆ど日本のオリジナルとなっている。
 --構造もよく見ると両機は異なり、大きさは橘花の方が一回り小さく、主翼構造もMe262が後退翼なのに対して橘花はテーパー翼であるなど外見上の違いも多い。
 --設計図がないのでコピーはできないし、搭載エンジンであるネ20の推力はJumo 004Bの半分ちょっとしかない((初期搭載予定のネ12に至っては1/3に満たない。))のでそもそもコピーする意味がなかった。
 車輪を[[零戦>零式艦戦21型]]や[[銀河]]から流用、ジュラルミン不足に対応すべく外板の一部に薄鋼板を使うなど当時の日本らしい設計がなされている。
 ---それでも、零戦より手間のかかる双発機でありながら零戦の半分の工数で製造可能であるなど、中島設計陣のレベルの高さを随所に感じることができる。
 ---全長こそ零戦より若干長いものの、全幅10m、翼面積13.2平方m((零戦の翼面積の半分強にすぎない。))等、エンジン推力の乏しさを機体の小型化で補おうとした結果「零戦より小さいのに重い((もちろん燃料搭載量を求められたせいもあるが、高速機として剛性を求められたという事情もあるだろう。))機体」となった。
 ---機体性能としては、零戦より重い機体に本家Jumo 004Bの推力の半分ともいわれたエンジンのため加速力が悪く、離陸の際は長い滑走路ないしは補助ブースターロケット(RATO)が必要だった。飛行時も本家Me262をはじめどの戦中ジェットでも言えることだが、レシプロ機より加速が悪いために低速で飛行すると簡単にレシプロ機に追いつかれ、さらにレシプロ機より機動性が劣っているために安易に撃墜されてしまう程であった。さらに着陸時の制動もブレーキ性能が不足していて減速に長い滑走を要したとされる。
 ---しかしながらジェット機は直線飛行での速度低下がレシプロ機より格段に少なく、一旦高速度で飛行してしまえばレシプロ機ではほぼ追いつけなかったため、戦い方によっては非常に脅威となる存在でもあった。
 --空襲を受け蚕小屋に疎開しながらも試作機は1945年6月に完成。またこの段階で、24機の製作が進みつつあった。
 -そして1945年8月6日午後1時、木更津飛行場。天気快晴、南南西から軟風。
 開発者たちが見守る中で、「橘花」は初めて空を飛んだ。燃料は松根油を含む低質油、たった12分間の短い時間ではあったが、このときが日本の空を日本のジェット機が飛んだ、歴史的瞬間となったのである。
 
 #region(橘花の初飛行の燃料は松根油って聞いたよ?)
 -橘花のエンジンたるネ20の燃料は、自動車用の低オクタンガソリンたる一号揮発油で開発が行われた。しかしもはや自動車用ガソリンすら供給のめどが立たなかったため、昭和20年6月下旬よりディーゼルエンジン用軽油、重油、アルコール、そして松根油の実験が行われた。軽油はほとんど問題がなく、重油も沸点が200℃を超えるような重留分でなければ燃焼状況は変わらず、超えるものでも始動のみガソリンで行い、回転数上昇後に切り替えれば運転可能であった。アルコールは分子量と発熱量が低いため、ガソリンと比較してより多くのアルコールを送り込まねば全力運転ができず、燃料ポンプの能力を上げないならばガソリンに対して、アルコール30%の混入が限界であった。
 --しかし、軍需省や第一海軍燃料廠との協議の結果、もはやどれももうない、ネ20を動かす燃料は松根油しかないとの結論に到達した。しかも松根油の軽留分は既存機に使うため、松根重油というべきものであった。
 --松脂の悪臭が漂う中、実験が行われたが松根油は一度濾過したものでも、燃料タンクに放置するとすぐタール上の物質が沈殿し、燃料ろ過器をつまらせてしまうなど、問題が多々あり良好な結果は得られなかった。空気噴射や燃料の予熱等の対策が考えられたが、どれも実行されず終戦になった。地上試験ですらまともに動かない松根油を混ぜて危険な試験飛行をやったとは考えにくい。
 -実際には始動時のみ通常の航空燃料を使い、加速中にガソリンを2割から3割混ぜた松根重油に切り替える二重タンク構造に切り替える方式を採用している。硫化モリブデンを触媒としてオクタン価を高める技術が当時すでに開発されてもいる((ガスタービンたるネ20は高オクタン燃料を必要とせず、地上試験でも使われたのは松根重油であるため関係はない))。7日の試験で''松根油が使用されたとすれば''、ガソリンと松根油とを混ぜた燃料と航空燃料の混用である。
 //---上を読めばわかるだろうが、この始動をガソリンで行い、その後重油に切り替えるのは松根重油ではなく普通の重油の運転条件である。松根油に関しては上にもあるが、燃料ろ過器が詰まってしまう等問題が多く最後まで解決できなかった。なお、燃料の実験とその結果は「機密兵器の全貌」より 第一海軍技術廠海軍技術大尉牧浦隆太郎氏が執筆した 第二章 戦局悪化に対処するジェットエンジン(橘花)の出現と結果が出典である
 #endregion
 
 --ちなみにこのときの橘花は、前脚のカバーが装着されていないなど細かい点ではまだ未完成であった。
 //また、燃料をぎりぎりまで減らした軽荷状態にも関わらず滑走距離は800mを必要としたことからもエンジンの推力不足が伺える。
 -8月11日には第二回の飛行が行われる……筈だった。
 このときは燃料を満載し離陸補助ロケットを装着していたが、パイロットの高岡迪少佐がロケットの吹き終わりをエンジン不調と勘違いしてしまい離陸中止。停止できずに滑走路を飛び出し、海岸に擱坐してしまった。
 夜を徹しての復旧作業と第二号機の手配が急ピッチで進められたが、わずか4日後に終戦を迎え、橘花はその短い生涯を終えた。
 -橘花はもともと水際で敵艦隊を叩く決戦兵器的な位置づけで開発が始められたため、計画当初は爆撃機型のみであった。
 が、碇義郎氏によれば、30mm機銃2丁搭載の戦闘機型、副座の偵察機型、練習機型の計画もあったとされる。
 が、碇義郎氏によれば、30mm機銃2丁搭載の戦闘機型、複座の偵察機型、練習機型の計画もあったとされる。
 --ネ20改の設計がなされた昭和20年5月に、第一廠長名でB29迎撃用の戦闘機型の開発が指示されている。しかし、同年7月にネ20改は試作が却下され開発中止となった。エンジンの開発完了を待たず機体の開発生産は進められていたため、終戦時に戦闘機型の機体は完成直前であったが、前提たるネ20改がないのをどうする気であったのかは不明である。
 &br;
 -搭載エンジン「ネ-20」は、BMW 003Aのコピーといわれることもあるがすでに述べたように状況的に''当時の日本ではコピー不可能''である。
 それでも実用に耐えうるジェットエンジンを完成せしめた背景には、日本の技術者たちがジェットエンジンの独自開発を続けていたという事実がある。
 
 #region(日本のジェットエンジン開発小史)
 -世界初のジェット機が空を飛んだのは1939年8月、ドイツのHe178とされる。その後もイタリアのカプロニ・カンピーニN1やイギリスのグロスターG40など欧米では続々とジェット機が生まれつつあった。
 --航空用ガスタービンに関する情報を最初に日本に持ち込んだのは、パリ在外武官として1935年から1940年までフランスにいた種子島時休海軍技術大佐である((種子島氏は1939年にスイスのヌーシャテル市で稼動開始した世界最初の実用ガスタービンエンジン(現在は世界遺産)を見学した最初の日本人であり、この際に「東北帝国大学の沼地教授の軸流圧縮機の論文が大いに参考になった」と聞かされて帰国後に沼地教授の監修を受けながら基礎実験を開始したと後に日本ガスタービン学会誌に書いている。))。
 彼の持ち帰った情報からすぐさまジェットエンジンの開発が始まったわけではないが、彼は若い技術者たちを巻き込んで基礎実験に明け暮れていたらしい。
 ---ちなみにこの種子島時休大佐、鉄砲伝来で知られる種子島時堯の子孫にあたる。
 よっぽど最先端技術に関心の深い家柄であるらしい。
 --日本でジェットエンジンの開発が始まるのは1942年。この頃にはドイツのジェット初飛行の情報も伝わっており、ようやく重い腰を上げたわけである。
 -海軍が最初に試作したジェットエンジン((ちなみに当時は「タービンロケット」と呼ばれていた。))は「TR」と呼ばれ、試作中のターボチャージャを改造したものだったようだ。
 --一連の試験の結果、軸受けの焼き付き、タービンの折損、燃焼の不安定、遠心圧縮機の破裂など問題は累積し、実用化には程遠いように思われた。
 しかし海軍の期待は高く開発は続行され、TR-10(後にネ10)、ネ12、ネ30といった改良型が作られたがいずれも芳しくなかった。
 --ちなみに陸軍もほぼ同時期にジェットエンジンの開発を始め、技術検証用ネ0の空中運転を1943年12月に行っている。
 その後補助エンジン用のネ1,2,3,4が平行開発され、中でも遠心式ネ4はわりあい出来がよく、実用化を目指して地上運転を行っていた。
 ---また主エンジン用のネ101エンジンジェットやネ201ターボプロップなどの開発も進めていたが、進捗果々しくなく中止となっている。
 -陸海軍ともに四苦八苦しながらジェットエンジン開発を進めていたが、1944年に入って状況が変わる。
 暗号通信と、遣独潜水艦によってドイツからの技術資料が入手できたためだ。
 といっても先述のとおり詳しい資料が手に入ったわけではないが、情報に飢えていた技術者たちにとっては干天の慈雨にも等しいものだった。
 --そして陸海軍のみならず民間とも共同してジェットエンジンの急速開発を行うことに決定。空技廠ネ20、石川島芝浦タービンネ130、中島・日立共同ネ230、三菱ネ330などが平行開発されることになった。
 ---なおこの段階で民間で細々と続いていたジェットエンジン開発の多くは中止させられたが、陸軍のネ-4もこの対象となっている。
 開発担当であった川崎航空機の林技師は、「この中断がなければ、昭和十九年八~九月頃にはネ4による日本最初のターボジェット推進飛行を実施しえたものをと、今もって痛恨にたえない」と後年述べている。
 ---ちなみにここで新しく発注された4つのエンジンは何れも軸流式。
 対して難航したネ10やネ12、陸軍ネ4は遠心式で、構造がシンプルにできる反面回転数を上げなければならないデメリットがあった。
 軸流式は構造が複雑になるが比較的低回転で済み、資料の届いたドイツのJumo 004BおよびBMW 003A、種子島氏がスイスで見学したガスタービンも軸流式だった。
 これらを踏まえて種子島氏は軸流式に大転換する方針を提唱し、陸海軍の技術行政官も賛成したと言われる。比較的順調に進んでいたネ4もこの方針転換によって開発中止となった。
 --わずかではあるとはいえ、ジェット先進国のドイツの資料を得たこともあってそれまでと比べ物にならないほど順調に開発は進んだ。
 ---とはいえまだまだ技術的に未熟な面が多く、試作機を使って技術試験もしながらではあったが、1945年7月には[[一式陸攻]]に搭載し空中試験を開始するまでに至った。
 そして生産型であるネ-20Aを2基搭載した橘花一号機は、1945年8月7日に初飛行に成功。日本航空史に偉大な一ページを刻んだのである。
 -ちなみに、ネ-20の開発は終戦に伴って終了したが、その経験は戦後初の国産ジェットエンジンJ3の開発に生かされたという。
 #endregion
 
 &br;
 -終戦後に米軍向けに作成された資料によれば、25機発注された第一次試作機のうち一号機が完成、二号機から七号機が完成間近、八号機から十号機がエンジン未搭載、十号機以降が組み立て進行中となっている。
 また六、七号機は複座改造のため一空廠((1945年2月に空技廠本廠が再編されて発足。))に送られている。
 -スミソニアン博物館に1機が保管され現在展示中のようだが、半完成品の機体をつぎはぎしたもののようだ。
 同博物館にはネ-20エンジンやその参考となったBMW 003エンジンも展示されている。
 --ネ20は一基が国内に現存しIHIの資料館に保存されている、これはノースロップ大学の好意で永久無償貸与という形で返還されたもの。&color(Silver){借りパク};
 また国際航空宇宙展のIHIブースでも展示されることもある。
 
 //---DMMが日本向け窓口となっているGaijin Entertainment社製オンラインゲーム、Warthunderでは五式三十粍機銃(ゲーム内表記は機関砲)と追加で500kgないしは800kg爆弾一個を装備し、発動機に従来のネ20エンジンを搭載した戦闘機タイプが実装されているが、初期状態では機関砲わずか一門、しかも弾数わずか50発という有様で改修泣かせの機体となっており、苦労の果てに、あるいはあきらめて課金で改修しても2門100発しかないが、機関砲は当てさえできれば強力であり、戦い方によっては非常に強くなるため、プレーヤーの操縦技能が問われる機体となっている。
 
 &br;
 
 -「橘花は特攻専用機として開発されたわけではない」という主張があるがこれは正確ではない。
 --機体設計の面から見ると、機体に炸薬を詰めるようなものではなくちゃんとした懸架装置で(もちろん投下もできる)爆弾を搭載するようになっており、桜花や梅花に比べるとずっと(飛行機として)まともな設計がなされている。
 また開発に参加した技術者の証言からも、生還を前提とした攻撃機として設計されたと推測できる。
 --だがまずその試作要求の時点で「わが本土に接近する敵の艦船を目標として、(中略)''体当たり撃沈する単座特攻機''」と明記されており、少なくとも用兵側では特攻用の機材としてこれを求めている。
 開発に参加していた角信朗海軍大尉が「戦闘機として使用できるジェットエンジンを装備しながら特攻機としてしか生産も出来なかったし、パイロット養成も出来なかった」と戦後述べていることからも、海軍上層部が橘花をあくまでも特攻機としてみていたことが伺える。
 戦闘機型、偵察機型についても、推定性能が意外によさそうだということがわかってから計画されている。
 -結論としては「設計側は生還を前提に作ったが、海軍は特攻に使うつもりだった」というところ。
 鈍足で到底攻撃成功の見込みのない練習機特攻などとあわせ、海軍が如何に追い詰められ狂気に走っていたかを物語るものといえる。
 ちなみに、陸軍のキ115 剣も似たようなモノである((設計主任を務めた青木邦弘技師は、あくまで生還を前提とした攻撃機である、と書籍等で主張しているが、当時の書類上での海軍の扱いは特攻機であった。))。
 --ちなみに「特殊攻撃機」という分類自体は特攻専用機を指すものではない。
 これは文字通り「今までとは違う用途/構造/運用であるもの」を指し、急降下爆撃が持ち込まれた当初の急降下爆撃機もこう呼ばれた。
 「特殊攻撃機」は桜花などの所謂「特別攻撃機」を含んでいるが、逆は成り立たない。
 *この装備についてのコメント [#about]
 #region(過去ログ)
 #ls(./)
 #endregion
 #pcomment(./コメント2,reply,15)