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比叡 の変更点


 |CENTER:218|CENTER:80|CENTER:80|CENTER:80|CENTER:80|c
 |>|>|>|>|~No.022|
 |&attachref(./022.jpg,nolink,司令には、恋も!戦いも!負けません!);|>|比叡(ひえい)|>|金剛型 2番艦 戦艦|
 |&attachref(./022_2nd.jpg,nolink,司令には、恋も!戦いも!負けません!);|>|比叡(ひえい)|>|金剛型 2番艦 戦艦|
 |~|>|>|>|~艦船ステータス(初期値/最大値)|
 |~|~耐久|63|~火力|63 / 89|
 |~|~装甲|52 / 69|~雷装|0|
 |~|~回避|30 / 59|~対空|24 / 69|
 |~|~搭載|9|~対潜|0|
 |~|~速力|高速|~索敵|13 / 39|
 |~|~射程|長|~運|10 / 49|
 |~|>|>|>|~最大消費量|
 |~|~燃料|80|~弾薬|110|
 |~|~艦載|>|>|~装備|
 |~|3|>|>|[[35.6cm連装砲]]|
 |~|3|>|>|[[15.2cm単装砲]]|
 |~|3|>|>|[[7.7mm機銃]]|
 |~|>|>|>|COLOR(gray):装備不可|
 |>|>|>|>|~改造チャート|
 |>|>|>|>|''比叡'' → [[比叡改]](Lv25) → [[比叡改二]](Lv75)|
 |>|>|>|>|~図鑑説明|
 |>|>|>|>|LEFT:井上提督も愛した巡洋戦艦、比叡です。&br;ぴかぴかに肌を磨いて、御召艦としても活躍したの。&br;大和型のテスト艦にもなったのよ、知ってた?&br;え?ソロモン海戦?そうよ、奮闘したわ!|
 ※初期値はLvや近代化改修の補正を除いた時の数値であり、最大値はLv99の時の最大値を指します。
 
 #region(CV:東山奈央、イラストレーター:コニシ (クリックするとセリフ一覧が開きます))
 |セリフ|CV:東山奈央、イラストレーター:コニシ|
 |入手/ログイン|金剛お姉さまの妹分、比叡です。 経験を積んで、姉さまに少しでも近づきたいです。|
 |母港/詳細閲覧|あっはい、お呼びになりましたでしょうか?|
 |~|んぅ… はっ!何ですか!?寝てません!寝てませんてばぁーっ!|
 |~|いつでも準備、出来ています!|
 |母港/詳細閲覧(ヴァレンタイン)|手作りチョコ、よし。気合十分、よし。この季節は、恋も戦いも、負けませんっ!|
 |母港/詳細閲覧(ホワイトデー)|司令、お姉さま見ませんでした? せっかくクッキー焼いたのにー…あの、味見します?|
 |母港/詳細閲覧(二周年記念)|比叡、恋も二周年も…気合! 入れて! いきますッ! ハァイッ!|
 |母港/詳細閲覧(三周年記念)|比叡、恋も三周年も…気合! 入れてッ ! いきますッ!! ハァーイッ!!…ぜぇーっ、ぜぇーっ…|
 |母港/詳細閲覧(四周年記念)|比叡! 恋も! 四周年もぉ! 気合ぃぃ! 入れてぇぇっ!いきまぁぁすッ!!ハァァァーーイッッ!!!…だはぁ、はぁーっ…|
 |母港/詳細閲覧(五周年記念)|比叡! 恋も! 五周年も! 気合! 入れてっ! いきまぁすッ!! ハィッッ!!! 司令、五周年カレーも完成です!|
 |母港/詳細閲覧(Xmas)|はい、司令!艦隊、クリスマスを迎える用意、完了です!クリスマスケーキを、今年もこの比叡が、気合!入れて!作りました!楽しみにしててくださいね、はいっ!|
 |母港/詳細閲覧(年末)|はい、司令!大掃除ですね!お任せください!比叡、雑巾がけも、気合!入れて!いきますッ!とぉりゃぁあああーーーーーーーっ!!!それっ、反転!とぉりゃぁあああーーーーーーーっ!!!…よし、綺麗!!|
 |母港/詳細閲覧(新年)|司令、あけまして、おめでとうございますっ! 今年もこの比叡、気合、いっれってぇ…! 参りますっ! …あ、司令、髪の毛に糸くずが…うわ、うわわ、うわーっ! 司令、大丈夫ですか!?|
 |母港/詳細閲覧(2016年節分)|ハイ、金剛お姉様! 比叡、節分も! 全力で気合! 入れて! いきまーす! 今年の鬼役は…妙高と、川内♪ ふぅむ…さぁ! いきまーす!|
 |母港/詳細閲覧(秋刀魚)|金剛お姉さま、サンマ漁です!秋刀魚です!旬の秋刀魚は脂がのっていて美味しいですよねぇ。…そうだ、今度カレーに入れてみるのはどうでしょう!?…よぉ~し、試してみよっ♪|
 |母港/詳細閲覧(2018決戦前夜)|霧島、お姉様と榛名が… あぁ、行くんだね、決戦に。|
 |ケッコンカッコカリ(反転)|&color(#F0F8FF){司令のご好意はありがたいです。で、でも…私の心は、お姉さまに……えっ!?そういう話じゃないのっ?あ、あぁ…そう?は、恥ずかしいぃー…};|
 |ケッコン後母港(反転)|&color(#F0F8FF){比叡もまだまだ戦えます。司令、一緒に頑張りましょう!};|
 |編成|気合!入れて!行きます!|
 |出撃|気合!入れて!行きます!|
 |~|司令には、恋も!戦いも!負けません!|
 |遠征選択時|さっすがですねぇ!|
 |アイテム発見|さっすがですねぇ!|
 |開戦|撃ちます!当たってぇ!|
 |航空戦開始時||
 |夜戦開始|お姉さまの邪魔するひとは、許さない!|
 |攻撃|撃ちます!当たってぇ!|
 |~|主砲、斉射、始め!|
 |攻撃(ヴァレンタイン)|ひえ~っ! 徹甲弾とチョコ、間違えて装てんしそうにっ! って、ひえ~っ!?|
 |攻撃(夜戦)|私! 頑張るから! 見捨てないでぇー!!|
 |小破|ひえー!|
 |~|きゃあっ!|
 |中破/大破|お姉さま譲りの装備をこんなに……くっ、許さないんだからぁー!|
 |勝利MVP|私の活躍、見ていてくれました? そう、なら、頑張った甲斐がありました!|
 |帰投|作戦が完了! 艦隊、帰投しました!|
 |補給|はい!力が湧いてくるようです!|
 |~|よし!これで…いけます!|
 |改装/改修/改造|はい!力が湧いてくるようです!|
 |~|少しはお姉様に近づけたかなあ|
 |~|さっすがですねぇ!|
 |入渠(小破以下)|こんなの、かすり傷程度なんだけど…。|
 |入渠(中破以上)|お姉様の夢を見て、お休みしますっ。|
 |建造完了|新しい妹、もしくはお姉さまが、いらっしゃるみたいですよ。|
 |戦績表示|司令にお知らせみたいです。|
 |轟沈(反転)|&color(#F0F8FF){金剛お姉さまは…無事か…な・・・だったら…いい…かな…};|
 |時報||
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 //時報ボイスは比叡改二にのみ実装されました
 |放置時||
 //|放置時|気合!入れて!…いるんだけどなぁ~?あれ~?あれぇ~?|(比叡改/比叡改二専用ボイスのため、比叡改/比叡改二のページへ)
 #endregion
 * ゲームにおいて [#hc9caeda]
 - 金剛型戦艦4姉妹は、[[榛名]]の運が15、[[金剛]]が12であることを除いて、性能的な差違はない。&br;他の戦艦(金剛型以外)との違いは、回避率に関わるらしい速度が「高速」であることと、中口径主砲が積めないこと。
 以前は[[徹甲弾>九一式徹甲弾]]が装備出来なかったが、2014年7月28日のアップデートで可能になった。
 ドロップなど詳しくは[[金剛]]も参照。
 - 比叡は2-4まで唯一ボスでしかドロップせず、比較的入手が難儀である。
 - 2013年11月20日のアップデートにおいて、金剛に続きLv75での「[[比叡改二]]」への改造が実装された。運用コストは上昇するものの、火力は金剛同様長門型に匹敵する98まで向上。対空・耐久こそ劣るが、装甲では互角のものを持つなど、相応にパワーアップが見られる(いずれも最大値)。&br;ちなみに姉妹艦である[[金剛改二]]も、ほぼ似た様な性能である。なお、改造時に[[三式弾]]を持ってきてくれる。
 
 //アップデート時期はアップデート直後ですので一応書いてありますが、将来的には割とどうでもいいと思いますので、どなたか、適当なところで削除してください。
 *小ネタ [#cfd6742c]
 -比叡&size(20){「''ひえー!''」};(小破時。ツッコミ禁止)
 -[[金剛]]型戦艦2番艦。金剛はイギリス製デース{お姉さま少しお静かに}明治の終わり頃に建造された艦であり、太平洋戦争参加艦としては最古の日本戦艦。
 
 -巡洋戦艦として建造されたため、艦名は「比叡山」から。同名の艦としては二代目。
 #region(三代全て『2番艦』)
 -初代は金剛型コルベット艦2番艦の比叡。姉は二代目同様金剛であり、こちらは二人姉妹で共に英国製。
 この初代姉妹はエルトゥールル号遭難事件の生存者をトルコへ送り届けたことで知られる。
 --初代比叡は、日清戦争黄海海戦にて「敵艦の包囲を単独敵中突破し生還」という武勲を成し遂げた。
 旧式鈍足のため敵中に取り残されたところを狙い、敵艦定遠と来遠が体当たりを企図し突撃。比叡はとっさに両艦の間に突入、集中砲火を浴び大破しつつも見事突破成功したのである。
 活躍ぶりは軍歌「黄海海戦」でも「中に船脚やや遅き 比叡は包囲(かこみ)を受けんより 敵の中堅破らんと 突進せしこそ雄々しけれ」と歌われている。
 その戦闘で蜂の巣穴の如く被弾した軍艦旗は「名誉の証」として二代目比叡に受け継がれ、式典等で掲揚する事が習わしであった。
 同名鑑はこのように、名とともに栄誉も受け継ぐのである。
 -また三代目として、はるな型ヘリコプター搭載護衛艦「ひえい」(DDH-142)が2011年まで就役。
 就役期間36年3ヶ月は海上自衛隊最長記録ホルダーである。
 --しかし艦内神社は、「比叡」が比叡山の日吉大社から直接摂られているのに対し、「ひえい」は東京生まれ(後述)のためか、同じ山王様を祀る近場の%%ヒェー%%日枝神社で済まされてしまっている。
 --金剛型から襲名するこんごう(DDG-173)、はるな(DDH-141)、きりしま(DDG-174)は全て三菱重工長崎造船所製。((先代「[[霧島]]」が当造船所初の戦艦で、「[[武蔵]]」もここの生まれ。))
 しかし「ひえい」だけは''石川島播磨重工東京第2工場''製((なおこの造船所では[[長月]]と[[卯月]]、原子力船「むつ」などが建造された。))だった。
 --[[日向]]とともになぜか次代艦「ひえい」がらみと思われるネタが散見される。
 なお、護衛艦「ひえい」は1989年に「ゴジラVSビオランテ」に出演しており、「はつゆき」と共にゴジラに立ち向かった。……結果はお察し。
 #endregion
 
 -名目上は国産戦艦だが、配備を急ぐため兵装や部材のほとんどをヴィッカース社から買い付けている半ノックダウン生産艦。
 --中破時のセリフの「お姉さま譲りの装備」はここから来ているものと思われる。
 --それを反映してか、カードイラストでは微妙に眼の色が薄く、髪も金剛同様の茶髪。
 ---カードイラストでは、霧島も碧眼であり榛名のみ瞳の色が違う。
 これは、竣工時に榛名以外の姉妹3艦が同じタービンを搭載していたところからくるものか。
 %%はたまたイラストレーターの気まぐれか。%%
 --また、比叡本人は金剛との関係を「妹分」とも称している。
 ---妹分とは「義妹」もしくは「妹のように親しい人」のことである。
 これは、設計図こそ四姉妹ほぼ同じだが、「英国製の金剛、半ノックダウンの比叡、純国産の[[榛名]]・[[霧島]]」と、%%&color(Purple){複雑な家庭の事情};%%建造された環境を鑑みての発言と思われる。
 --実際には、ノックダウン建造という不慣れな建造形態だったこともあり、細かい不具合が多く乗組員を悩ませた。練習戦艦へ配転され、後の大改装が徹底したものになったのは理由がないわけではない。
 -ゲームでは金剛お姉さまにぞっこんの比叡だが、史実では金剛との絡みはあまりない。
 --姉妹艦でも速力に差があり、若干速い金剛&榛名、若干遅い比叡&霧島で分けられることがほとんど。
 金剛と組んでいたのは開戦時からミッドウェー海戦までだったり。
 --さらに転生後は「こんごう」と姉妹にすらなれなかった。お姉さまは「はるな」だったりする。
 -建造に関わった磯崎清吉・造船中将は、息子を叡と命名した((後に第6代国鉄総裁を務めた磯崎叡(さとし)。))。
 -皇弟である高松宮宣仁親王は海軍兵学校卒業後の1927年に着任し勤務。しかし特別扱いされて何もさせて貰えず、鬱々とした日々だったようだ。
 また1940年7月3日から翌年4月までは砲術長として勤務していた。このとき親王は過去の苦い思い出からか特別扱いを一切断り((もっとも、皇族故に昇進のスピードは異様に早く、一期先輩が戦艦の砲術長を務めるのは2年後であった。))、一少佐として勤務した((通常、戦艦の砲術長は中佐である。))という。
 --1927年の夏には皇族軍人としての自分の境遇を嘆き、自分を「比叡の油虫(ゴキブリ)」に例えたこんなユーモアあふれる戯れ歌を残している。
 '''「私は比叡の油虫 立派なお部屋に納って たらふく食ったらちょろちょろと'''
 ''' ふざけ散らして毎日を 遊んで暮す有様は 他人が見れば羨めど'''
 ''' 我身となれば徒食の 辛さに苦労の増す許り 早く私も人並みに'''
 ''' 比叡のために働いて 大きな顔して闊歩して 愉快な日々を送りたし」'''
 --ところで1927年当時に高松宮が勤務中、比叡の従羅針儀が全部焼けるという事故が起きた。ヒューズの不具合で過電流が流れ従羅針儀が燃えたのである。
 前年度[[金剛]]でも同様の事故があり、この時は羅針儀が燃えるだけでは済まずに爆発、負傷者を出した。
 ところが比叡は湿気防止のネジ蓋を横着してしっかり締めておらず、そのため爆発を免れた。
 もししっかり締めていれば金剛の羅針儀のように爆発、そばに立っていた高松宮が負傷するという最悪の不祥事になっていた可能性があった。
 比叡乗員のいい加減さが結果的に高松宮、そして責任を取らされるであろう周囲の人を救ったのだった。
 **練習戦艦改造[#u2077827]
 -金剛型は戦艦への改装が順次実行されるが、比叡は進捗状況が姉妹の中で一番遅れており、代替艦建造による廃艦の計画すらあった。
 そして比叡改装途中にロンドン海軍軍縮条約が締結し、その影響を受けて作業がいったん中止となる。
 -2年半にもおよぶ%%放置プレイ%%作業中止の後、条約に適合させる為に戦闘力半減という逆大改装を受けて練習戦艦となる。
 --改装内容は、四番砲塔と舷側装甲の撤去、機関出力減少のための主缶換装などで、基準排水量は19,500トンに減量、速力は18ノットに低下した。
 その一方で、当時としては新式の[[91式高射装置]]と[[12.7cm連装高角砲]]を装備し、対空火力はむしろ向上している。
 ---後に戦記作家になった吉田俊雄はその無残な姿を「お年寄り」と呼び、後に最後の艦長になる西田正雄は涙を流して悲しんだという。
 
 -比叡が公式に戦艦でいられたのは、1931年6月~1932年12月までのごく短い期間だけ。
 それ以降の艦籍は「練習戦艦」であったため、帳簿上では沈没時も「練習戦艦」とされていた。
 
 ~
 **帝国海軍最後の「御召艦」 [#s7223b97]
 -練習艦となった比叡はスケジュールや艦内設備に余裕が出来たため、その後の大改装までに数度に亘り御召艦の栄誉を賜った。
 [[金剛]]、[[榛名]]、[[霧島]]もその経験はあるが、担当回数は比叡がダントツである。帝国海軍で最後に御召艦を務めたのも比叡であった。
 -御召艦のお役が、軍艦による番代制になったのは1886年から。以前は専用のお召船(((初代)[[蒼龍]]。))が務めていた。
 -御召艦に天皇陛下や皇族が乗艦される場合、区別旗((海軍大臣旗、将旗、代将旗及び先任旗。))や長旗はすべて下げ、大檣頂に天皇旗を初め皇族に関する旗を掲げる事が為来りであった。
 -御召艦として展望台や御座所が設けられ、観艦式の前には二週間に及ぶ乗員の徹底的な清掃が行われた。
 また、階段の手すりなど陛下がお手を触れられる可能性のある場所は、全て純白の絹で覆われた。
 そんな比叡は、昭和天皇のみならず、当時の市井の人々にもなかなか人気者だったそうな。
 -実際に観艦式((1940年10月の紀元二千六百年特別観艦式。))での御召艦比叡を目にした後の直木賞作家豊田穣((当時海軍兵学校68期を卒業したばかりで伊勢に乗艦していた士官候補生、[[飛鷹]]の項も参照のこと。))いわく、まるで生まれながらの貴婦人が舞踏会に招かれたようだったとのこと。
 幾度もの御召艦の経験によって、艦隊一同の敬礼を受けるのが当然のような貴族的な雰囲気を身につけていたという。
 -ただし、御召艦指定を受けると乗組員は二週間上陸禁止となり、清掃などの準備に専念させられたため、名誉に伴う苦労は並大抵ではなかったようだ。
 
 #region(戦後の御召艦)
 -戦後になると皇族による軍(=自衛隊)の観閲が事実上困難になったこと、海外へのご訪問も客船、その後は空自の政府専用機が担当するようになったため、事実上御召艦という制度が消滅した。
 --2010年のエルトゥールル号遭難事件追悼式にて、三笠宮寛仁親王が護衛艦「せとゆき」に乗艦された事が、戦後唯一海自で御召艦が設定されたケースとなる。((海上自衛隊でも天皇旗を始めとした皇族関連旗は全て制定されているが、掲揚規定が無く、この時も「皇族旗」の掲揚は特に行われていない。尚、掲揚規定が無い理由は「皇族が自衛艦に乗艦される事を想定していない」からである。))
 ---2015年4月に行われた、天皇皇后両陛下のパラオご訪問の際には、海上保安庁の大型ヘリコプター搭載型巡視船「[[あきつしま>秋津洲]]」が両陛下の御宿泊船に抜擢された。
 パラオの空港は日本国の政府専用機が離発着できない問題があり、激戦の舞台となったペリリュー島への訪問時の移動手段が課題でもあった。
 その結果、ヘリコプターを搭載・運用できるあきつしまが(正式ではないが)1940年の比叡以来となる、天皇陛下の「御召艦(船)」の大役を賜ることとなった。
 #endregion
 
 
 **井上成美提督と比叡 [#gdbee3f8]
 -自己紹介にもあるように、井上成美提督は比叡がお気に入りで、部屋に御召艦比叡の油絵まで飾っていたらしい。
 …艦これでも、家具で実装してくれないかな?比叡の油絵…。
 
 #region(比叡艦長就任の経緯)
 -海軍省の課長だった井上成美大佐(当時)は、海軍省に対する軍令部の横暴とも言える権限拡大要求に断固として反対し続け、軍令部の圧力に屈した海軍大臣や軍務局長が説得しても折れなかった。
 そしてついに海軍省から横須賀鎮守府に追い出され、予備役編入寸前となった。
 しかし軍令部側のトップで仇敵であるはずの伏見宮博恭王元帥((皇族として絶大な権力を持ち、その威光はあの軍神・東郷平八郎と共に「神様と宮様」と評されるほどであった。))は井上を高く評価しており、彼の「良いポストをあたえてやってくれ」との口利きもあって、井上は比叡の艦長に就任する。
 #endregion
 
 
 -井上は比叡艦長就任以前は長らく地上でのデスクワークばかりの経歴だったため、当初は比叡乗員に「赤煉瓦((当時の海軍省の通称、転じてデスクワークばかりで洋上勤務の少ない士官への通称。))の艦長がこの大艦を操れるのか?」と侮られていたが、十数年ぶりの航海指揮に際し「計算尺が操艦しているようなやり方で」大連港の桟橋に比叡をぴったりと接舷させ、周囲を驚かせたという。
 大型艦は沖合に錨泊するのが常であり、特に大連は戦艦の接舷は初めてのことだった。
 -井上艦長は以前乗務した通報艦や砲艦などの小型艦ではまったく船酔いしないのに、大型艦では酔いやすかった。比叡での航海中は、戦艦の艦長たる者が船酔いで寝ている訳には行かず、一番困ったという。戦後「比叡には随分苦労させられたが、その分愛着も湧いたものです」と語っている。
 -さらに井上艦長時代の逸話として、1935年の満州国皇帝溥儀の日本行幸で比叡が御召艦として使われた際のものがある。
 復路で御召演習を行いながら国賓である皇帝溥儀の日満間往復を行う航海であったが、皇帝御付きの満人ボーイの素行があまりに悪いことに艦長以下の乗員は頭を悩ませていた。
 そして御召演習中にボーイが舷窓を閉めなかったことに怒りが爆発した井上艦長は、黄海洋上で「機関停止。縄梯子垂らせ。命令を聞かぬ奴らは叩きだせ(意訳)」と命令する。
 しかし流石にそんな事は起きず、この命令は直後艦橋にやってきた満州国宮内府大臣の謝罪により撤回された。
 -なお井上提督は生涯に何度か身の回りの少女に礼儀作法を教えたことがある人物だったりする。
 &color(Gray){つまり比叡も[[一人前のれでぃー>暁]]である可能性は少なくない。};
 -比叡艦長就任がなければ提督(将官)にすらなれなかったかもしれない井上成美は、戦争末期に海軍次官として戦争終結のため尽力し、日本海軍最後の海軍大将となった。((自身の大将進級に反対し続けていた井上は、「負け戦 大将だけは やはりでき」と皮肉って海軍次官を辞任している。また井上と同じ日に塚原二四三提督も海軍大将に進級しているが、「最後の海軍大将」といえば井上を指すのが通例である。))
 
 
 #region(さらに余談の余談)
 -江田島の海軍兵学校校長時代、井上提督の甥にあたる見習いの''陸軍''士官から手紙を貰っているが、
 意訳すると『''潜水艇部隊''の給与規定を作りたいので海軍潜水艦乗組員の給与規定を教えてほしい』という内容であったため、
 早速『馬鹿者、お前は軍の制度というものを知らなさすぎる(意訳)』という『お叱りの手紙』を送り返している。
 ただし海軍潜水学校の担当者である中佐を紹介している辺り、やはり叔父として甥の面目を保たせてやりたいという心情はあったという事か
 (ちなみにこの見習士官は、無事作成した給与規定が正式採用された一か月後、その潜水艇部隊・・・言うまでもないあの[[まるゆ]]部隊へめでたく配属、自分で作成した給与規定による給与を受け取ることになった。「もっと金額を多めにしておけばよかった」との後日談)。
 #endregion
 
 **大和型のテストベッド [#f2e636f8]
 -練習戦艦とならなければならなかった軍縮条約の関係で、近代化改装の順番が最後となった比叡は、他の金剛型姉妹が数度に分けて実施した改装を一挙に実施することになった。
 そのため、他の姉妹が改装後、満載時に水線装甲帯の上部が水没する問題が発生したのに対して、比叡はバルジの幅を広げて浮力を増す改善が施されてこの問題を解消している。結果、全幅が1m大きくなった。内緒だよ?
 
 -近代化改装後の比叡は、遮風装置を艦橋に備えた初めての日本戦艦であるという。
 #region(遮風装置とは)
 -遮風装置とは、吹きさらしの露天艦橋で人が立った際に、風が顔面に当たらないようにするためのものである。
 測距儀の下にある昼戦艦橋外壁面に設けられたブルワークや昼戦艦橋下部に設けられた隔板(窓の下に縦に何本も取り付けられた板)がそれである。
 --[[足柄]]が英国の観艦式に参加したとき、同乗していた牧野茂技術少佐(後の大和型戦艦設計主任)がイギリス巡洋艦の艦橋に装備された構造物を視察、帰国後にその原理を解明し、試験的に比叡に装備した。
 当時の日本戦艦には露天の防空指揮所が新設され始めており、吹き込む風の負担を少しでも軽減しようとしたのだった。
 --同時期に、近代化改装後の[[妙高]]でも遮風装置が試験装備されているが、改装完成時期的に比叡のほうが先、すなわち日本軍艦で初であるという。
 ---のちに[[日向]]の艦橋でも遮風装置の試験が行われ、これらのデータは大和型の艦橋に反映されることになった。
 #endregion
 
 -比叡は、当時建造中だった[[大和]]型の技術的テストベッドとなり、大和型戦艦に採用される塔型艦橋に改装。
 金剛型姉妹の中では最も見分けやすい艦となった(他姉妹は艦橋が檣楼型)。
 --艦橋頂部で測距儀と測的所が射撃指揮所と一体化した構造の射撃塔は、大和型に先駆けて比叡が日本戦艦で初の採用となった。(長門型以前の測距儀は射撃指揮所と別個の構造)
 また射撃盤や方位照準装置も、大和型用の新型が先行で設置された。
 ---ちなみにかつて艦これとコラボした「蒼き鋼のアルペジオ」の劇場版第二作(TV地上波で先行放送した冒頭部分)では、武蔵(超戦艦ムサシ)と比叡(大戦艦ヒエイ)の並びを正面から映したカットがあり、両者の艦橋の比較がわかりやすい構図となっている。
 
 --またこのため、金剛型で唯一『前部(一、二番)砲塔だけ』『後部(三、四番)砲塔だけ』での統制射撃を行うことが可能な艦となっている。
 ---他三艦……というか大和型と比叡以外の戦艦はすべて『全砲塔での統制射撃』か『各砲塔での各個射撃』のどちらかしかできない。
 もっともその有効性が実戦で発揮される機会はなかった訳だが……。
 --注排水装置、弾火薬庫冷却装置、砲塔駆動水圧装置など補機類も、大和型に採用される予定のものが搭載されて性能が確認されている。
 ---中でも特に、主砲塔駆動用のブラウンボベリ社製水圧ターボポンプは逸品だったという。
 従来のレシプロ式水圧ポンプの場合、乱戦で主砲塔を連続旋回していると突然水圧が落ちて旋回速度が急低下する問題があったが、比叡に関してはこの問題が絶無であった。
 事実、史上最大の大乱戦である第三次ソロモン海戦第一夜戦のさなかでも、水圧ゲージはピタリと定位置を指して微動だにしなかったという。
 比叡でのテスト結果に大満足した海軍当局は、大和型の主砲塔1基につき1つ、1隻に3つのターボポンプの導入を決定した。
 --完全に余談ではあるが、大和型テスト艦にも使用された比叡の名を継ぐ海自の「ひえい」は、映画「男たちの大和/YAMATO」において、彼女の航跡を撮影したものをCG合成し、大和の航跡が写るシーンとして使用した。同じく、彼女の内火艇も作品中で使用されている。大和と比叡との縁はかくも深いものであった。
 
 ---しかし、艦これにおける比叡と大和との絡みはほとんどない。
 **開戦~ミッドウェー海戦 [#s80f39cc]
 -開戦時は金剛型4姉妹からなる第三戦隊の旗艦であった。&color(Gray){4姉妹のリーダーです。};但し金剛と榛名の第二小隊はイギリス東洋艦隊の備えとして南方に駆り出されており、比叡は霧島と共に第三戦隊第一小隊を編成して南雲機動部隊に参加。真珠湾攻撃に向かう。
 アメリカ軍水上部隊に襲撃された場合は36cm砲で撃退し、また空母が損傷した場合は曳航する任務を帯びていたが、蓋を開けてみると航空部隊の攻撃でアメリカ艦隊は壊滅し比叡に出番は無かった。
 --真珠湾攻撃では、第二航空戦隊の山口多聞少将が、一撃だけして退却することに決めた南雲長官に対して「再攻撃すべし」と意見具申したと言われているが、実際のところ山口は「ワレ第二撃準備完了」と遠回しに進言しただけで、再攻撃を意見具申したのは比叡に座乗する第三戦隊司令官の三川軍一少将である。
 ---皮肉なことに、三川提督はこの9か月後の第一次ソロモン海戦で、真珠湾の南雲提督と全く同じ立場に立たされることになる。([[鳥海]]を参照)
 -真珠湾攻撃後、内地に戻った比叡は翌年1月には南雲機動部隊の一員として再び出撃。艦隊はラバウル空襲、オーストラリアのポート・ダーウィン空襲を行い、比叡も護衛任務や偵察機を出しての偵察任務に活躍する。2月に入ると別行動をとっていた第二小隊の金剛と榛名も合流し、4姉妹が揃う。
 --但し、この時は機動部隊も二手に分かれ、金剛と榛名は二航戦の「蒼龍」「飛龍」と共にクリスマス島攻略に向かっている。
 
 #region(米駆逐艦「エドサル」砲撃)
 -蘭印作戦を支援中のこの時期、護衛戦闘機が敵駆逐艦を発見。南雲長官は比叡と霧島、利根、筑摩に撃沈を指示。4隻は勇躍してこの米駆逐艦「エドサル」((WW1前後に建造されたクレムソン級駆逐艦であり、睦月型よりもずっと旧式な艦。))に接近。筑摩に続いて比叡が発砲するが、これが太平洋戦争で日本の戦艦が敵艦へ発砲する最初の一弾となった。
 4隻はエドサルに対して主砲や副砲、高角砲まで撃ちだして激しく攻めるがエドサルの巧妙な動きに翻弄され中々命中弾を与えられず、しびれを切らした南雲長官は12時55分に空母加賀が99艦爆9機、13時9分に蒼龍から99艦爆を9機の合計18機出して攻撃させると敵艦に見事に命中しエドサルは停止。結局停止したエドサルにようやく命中弾を与えて撃沈することに成功するが、それまでにWW1の遺物のような旧式駆逐艦相手に4隻合わせて36�砲弾297発、15�副砲弾132発、20�砲弾844発、12.7�高角砲弾62発も消費してしまうという散々な結果になった。4隻がこの後、命中率向上の猛訓練をする羽目になったのはいうまでもない。
 --参謀だった源田実は後年、その著書『海軍航空隊始末記』で「エドサルの撃沈は蒼龍の艦爆のみによるもの」という趣旨の記述を行っている。&color(Gray){ヒエ----。};
 --少し4隻をフォローすると、煙幕を展開したり、針路を右に左に頻繁に変えて回避行動をとる小型の駆逐艦に命中弾を与えることは非常に難しいもので、米海軍もトラック島空襲の際、脱出する駆逐艦「野分」をアメリカ戦艦「ニュージャージー」、「アイオワ」、重巡洋艦「ミネアポリス」、「ニューオーリンズ」が追尾した際も、野分に命中弾を与えられず取り逃がしている。
 
 #endregion
 
 -セイロン島沖海戦では金剛型4姉妹が勢ぞろいして参加。太平洋戦争で4隻が揃って行動したのは後にも先にもこれだけとなった。
 -運命のミッドウェー海戦では今度は%%憧れの%%金剛と第一小隊を組み、近藤信竹中将の第二艦隊(攻略部隊本隊)に加わった。&color(Gray){結末はみなさんご存じの通り…。};
 -ミッドウェー海戦後、第三戦隊は二分され、比叡と霧島は再びコンビを組み新たに第十一戦隊を編成する。司令官はそれまで[[第八>利根]][[戦隊>筑摩]]司令官だった阿部弘毅中将。旗艦は再び比叡となる。
 第十一戦隊は新たに編成された常設機動部隊「第三艦隊」の直属部隊となる。
 **比叡の最期 第三次ソロモン海戦第一夜戦 [#w7325699]
 -成功裏に終わった[[金剛]]、[[榛名]]によるガダルカナル島ヘンダーソン飛行場砲撃を、今度は[[比叡]]、[[霧島]]の挺身攻撃隊(指揮官・阿部中将)で実施することに。これにより第三次ソロモン海戦が惹起することとなった。
 同じ作戦を繰り返す海軍に対し、昭和天皇が''「初瀬・八島の例がある、待ち伏せ攻撃に気をつけろ」''((1904年、日露戦争中の旅順口攻撃における出来事。4月13日、旅順艦隊の旗艦ペトロパブロフスクが機雷に触雷し沈没、ロシア海軍きっての名将マカロフ中将が戦死した。5月15日、今度はロシア側が仕掛けた機雷によって戦艦「初瀬」「八島」が沈没。日本は虎の子の戦艦二隻を瞬く間に失った。))と戒めるが、参謀の独断により現地部隊への伝達がされなかった。
 戒めの言葉が届いたことによって未来が変化したかどうかは神のみぞ知るところだが、結果として比叡は待ち伏せ攻撃を受けることになる。
 -海戦史上最大の混乱をきたした第三次ソロモン海戦で奮戦し、軽巡アトランタに初弾で命中弾を与えた。
 しかしながら、探照灯照射を行った艦の宿命、それも大型艦であったため、敵艦多数の集中砲火を浴びた。
 相手は巡洋艦や駆逐艦だったが、装甲の薄さが災いし艦橋を含む上部構造から船体にかけて次々敵の砲撃によって損害が発生し、艦内電話は不通になり、発砲電路も切断され一斉射撃が不能に。
 しかも艦尾の装甲部分を撃ち抜いた砲弾によって舵取機室舵、電動機室が浸水し、操艦が不可能になってしまった。
 --奇しくも(予期せずだったが)小中口径砲の集中砲火で戦艦を無力化させてしまう戦法は、日清戦争時に清の定遠級戦艦に対して日本海軍がとった戦法と同様だった。
 --味方艦艇による曳航や近くの島へ座礁させることを検討されるも、夜が明けると断続的に米軍機が飛来するようになる。
 復旧作業もままならなくなり、支援部隊「[[隼鷹]]」からの零戦による援護の甲斐なく比叡の損害は時間と共に拡大していく。
 このままでは作業続行も曳航も不可能であると、挺身攻撃隊指揮官の阿部第十一戦隊司令官は比叡の自沈を決断した。
 -当初は退艦を拒否していた西田艦長も、機関室全滅の報告を受けて総員退艦を決意し、比叡の注水弁(所謂キングストン弁)を開放させた。乗員は「[[雪風]]」他、各駆逐艦へ移される。
 --吉田俊雄、相良俊輔らの著作に「西田艦長が機関室全滅の報が誤報である事を知らされた時には、既に味方駆逐艦から魚雷が撃ち込まれていた」
 「雷撃を止めようと部屋を飛び出した時雪風にて魚雷発射音を聞いた」とある。
 このドラマティックな描写が「雷撃しなければ比叡は助かった」との誤解を生んでいるが、阿部司令官と西田艦長が注水弁を開放させた時点で比叡の沈没は避けられなかった。
 後述の通り、雷撃処分は比叡を速やかに沈没させるための補助であったが、処分中止命令が下されており、戦闘詳報や護衛駆逐艦側に魚雷発射の記録はない((一般に比叡を雷撃したとされる雪風だが、比叡を空襲から守る対空戦闘の際に水雷長が頭部に重傷を負っており(快癒せず戦後逝去している)、雪風で指揮を執っていた阿部司令官もそれを知っていたため、雪風には魚雷を準備すらさせていない。))。
 -自沈が決まり「軍艦旗降ろし方」の命令が下った際、何かが引っかかって中々降ろせなかった。
 まるで比叡が自沈を拒否しているかのように見えたという。
 -雷撃処分の遂行途中で、連合艦隊旗艦「大和」の山本五十六司令長官より処分撤回命令が出される。
 --山本は当初、その無残な姿が米軍の宣伝材料になることや捕獲されることを恐れ比叡を早急に処分すべきと考えていた。
 その意向を汲み取った宇垣纒参謀長((宇垣は最初は比叡を当面放置しようとした。))は、御召艦の栄誉ある比叡喪失の責任を、現場の戦隊司令官ではなく連合艦隊司令部が肩代わりする含みも持たせて処分発令をしようとした。
 しかし、''「浮いている限りは輸送船団への攻撃を吸収する可能性がある」''との黒島亀人首席参謀の主張によって山本は突然変節してしまったのが命令の理由であるという。((黒島は真珠湾攻撃作戦の立案などその奇才ぶりが山本に寵愛された参謀であり、その一方で参謀長の宇垣は着任当初は山本に疎まれて司令部内で軽んじられがちだったという。))
 -護衛に来ていた駆逐艦雪風、[[照月]]、[[時雨]]、[[白露]]、夕暮(艦これ未実装)ら5隻は一時的に現場から退避し、6時間後に戻るが比叡の姿は無かった。
 -機関がかろうじて生きていた(寝てません!寝てませんてばぁーっ!)にも関わらず自沈決定・囮艦とされ、仲間が避難している間に(見捨てないでぇー!!)誰にも看取られることなく、サボ島沖の鉄底海峡に姿を消した。
 これが比叡の最期であり、太平洋戦争における日本海軍最初の喪失戦艦となった。
 --夜戦時の''「見捨てないでぇー!!」''はこれが元。
 -翌日には、この日に共に戦った妹の[[霧島]]もまた同じ海底に沈んでいった。
 -比叡の戦訓から、応急舵(戦艦が艦尾に付けている四角い板)を開発、常備するようになったという。
 **西田艦長と比叡乗組員たちのその後 [#pc608701]
 
 -比叡艦長・西田正雄大佐は、あくまで比叡と運命を共にすると言って聞かず、部下たちの説得も頑として拒み続けた。
 部下たちは、将来連合艦隊司令長官になるべき器である俊秀((海軍兵学校44期を三番で卒業している恩賜組。))の艦長を死なせまいと、大暴れする西田艦長を数人がかりで無理やり取り押さえ、救命艇へ押し込んだ。
 艦長は最後まで「俺を卑怯者にしないでくれ!武士の情けだ、俺を比叡とともに死なせてくれ!」と絶叫し続けていたという。
 しかしこのような部下たちの努力もむなしく、乗艦を捨てたとみなされた西田艦長には冷酷な運命が待ち受けていた。
 -西田大佐は査問会すら開かれないまま、嶋田繁太郎海軍大臣から「予備役編入・即日召集」という懲罰処分を受けた。
 これは端的に言えば、海軍部内における先任順序を最底辺にまで落としてしまう措置である。大佐が一度予備役になってしまうと、招集されても全ての現役大佐より序列が下に置かれ、当然ながら少将昇進の望みはない。((「予備役から現役への復帰」は、天皇の特旨が必要とされるほど特例中の特例で、法制上現役軍人でなければならない海軍大臣に就任するために予備役から現役復帰した米内光政大将など、ごく稀な例しかない。))
 -山本長官らの猛抗議にもかかわらず、この決定は覆らなかった。山本と嶋田は兵学校同期であるが、対米戦に対する意識のずれなどから、両者の仲は悪かったのだ。
 -そして同期生が次々に少将へと昇進していく中、西田は閑職を転々とし、終戦を迎えた。死の直前まで、海軍時代のことを黙して語らなかったという。
 --西田元艦長は昭和49年に78歳で没した。法名''「清秋院釈正叡」''。
 「叡」の字は比叡から、「秋」の字は比叡の没した季節から採ったもので、生前の西田自身の希望による。
 西田艦長と比叡は、生涯の最期まで共にあり続けたのであった。
 -一方比叡に御神体を分霊した日吉大社も沈没の報を受けることが無かったため、社務所で行われていた建艦募金を''比叡が没した後の1943年の正月''も予定通り実施してしまったというエピソードがある。
 
 -第十一戦隊司令官・阿部弘毅中将もまた、比叡・霧島喪失の責任を問われて予備役編入の処分を受けた。
 -比叡から生還した元乗組員の多くは新鋭軽巡「[[大淀]]」に配属された。軽巡でありながら比叡の歴戦乗組員による戦艦並みのシゴキで、訓練は非常に厳しかったという。
 --しかしそのおかげで大淀は、新鋭艦にありがちな''「錬度不足のまま実戦へ投入」''という事態に陥らなかったのが幸運と言えよう。
 元乗組員たちは「二度と艦を失う悲しみは繰り返さない」を合言葉に、比叡時代に培った錬度と旺盛な士気を武器に大戦末期の劣勢の中、奮戦を続けた。
 -戦後、現在の[[横須賀市 衣笠の光心寺>https://www.google.co.jp/maps/place/%E5%85%89%E5%BF%83%E5%AF%BA/@35.2590882,139.663949,19z/data=!4m2!3m1!1s0x0000000000000000:0xf2ba54b88e9a9d86]]に、比叡の慰霊碑が建立された。
 -サーバ名にもなった「鹿屋基地」改め「海上自衛隊鹿屋航空基地」にて「戦艦比叡の主錨」が現在も保存されている。
 この錨、宇都宮基地にあったものを移管したとのことだが、比叡の引き上げが行われた記録も無ければ、錨が内地にあったというのも謎。((おそらく第二次改装で取り外した右舷の副錨ではないかと言われている。))由来については・・・・&color(gray){いいのか?それで・・・。};
 また、大分県竹田市の広瀬神社には第二次改装時に取り外された比叡のマストが保存されていたが、
 残念ながら近年老朽化のために切断撤去され、現在は同神社所蔵の戦艦朝日のカッターの下に部品の金具が残されているのみとなっている。
 -彼女の生涯を描いた本は『戦艦「比叡」―高速戦艦悲劇の生涯』(吉田俊雄著)、『怒りの海―戦艦比叡・西田艦長の悲劇』(相良俊輔著)、『四本の火柱』(豊田穣著)などがある。
 --『怒りの海』は西田艦長が晩年に一度だけ受けた取材を元として書かれた。
 長らく絶版で入手困難が続いていたが、2016年10月に『悲劇の艦長 西田正雄大佐―戦艦「比叡」自沈の真相』と改題し光人社NF文庫で再刊された。
 『四本の火柱』は名目上金剛型四姉妹の戦記であるが、比叡最期の戦いとなった第三次ソロモン海海戦・第一夜戦の記述が最多となっている。
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 **比叡と音楽 [#h74d8a21]
 -御召艦の栄誉を担う機会が多かっただけに、比叡にまつわる楽曲は海軍艦艇の中でも特に多く、知られているだけでも3曲がある。
 艦歌、行進曲、そしてなんとオーケストラ曲まである。
 --''「錦旗奉じて比叡をうたふ」''(吉田俊雄大尉作詞・海軍軍楽隊作曲)
 タイトルから分かるように御召艦時代に作られた艦歌。残念ながら現在メロディーは不詳である。
 作詞は小ネタにも登場している後の戦記作家、吉田俊雄氏。御召艦時代に比叡に勤務して、戦後は『戦艦「比叡」―高速戦艦悲劇の生涯』を執筆している。
 氏の比叡への惚れ込みぶりは同書からも伺えるが、現役勤務当時すでに歌まで作ってしまっていたのである。
 --''「栄光 ―輝く御召艦比叡をたたへる―」''(小林勝郎軍医大尉作曲)
 作曲者小林氏が比叡勤務中3回も御召艦となったことを記念し、軍艦比叡を讃える管弦楽曲を作ろうと心に決め、2か月がかりで作曲したもの。
 ニ長調、2本ずつの管楽器、5部の弦楽器、1基のティンパニからなる編成で、演奏時間約13分だったという。
 ---全楽器の強合奏で始まる序奏ののち、第一主題では比叡が檣頭高く天皇旗を掲げて大海原を堂々航行する勇壮な姿を行進曲風に描く。
 第二主題では御召艦任務という重責を果たすための比叡の労苦をやさしく慰めるように奏で、最後は無事に大任を果たしたことを祝福して曲を閉じる、という構成だった。
 この曲は内藤清五海軍軍楽隊長の認めるところとなり、昭和11年10月25日午後7時、昭和天皇臨席のもと、比叡の甲板上で御前演奏の栄誉に浴した。
 ---演奏後、小林氏は侍従武官の海軍大佐から「君がさっきの曲を本当に作曲したの?」と納得いかない顔で尋ねられたという。
 国民一般が現在ほど西洋音楽に親しまない当時、まして作曲となると専門家でないと出来ないと思われていた頃である。
 一軍医大尉がオーケストラ曲を作曲したなど、にわかに信じられないのも無理はない話だった。
 ---この曲は戦後昭和39年、小林氏の母校である新潟大学管弦楽団の第37回定期演奏会において、小林氏自身の指揮によって演奏されている。
 楽譜が現存している可能性は高いと思われる。
 --''「怒濤を蹴って」''(水島洋作詞、斎藤丑松軍楽兵曹作曲)
 こちらも昭和11年、特別大演習観艦式を記念して作られた曲。軍歌としての歌詞もあるが、行進曲への編曲版が知られている。
 タイトルの通り、怒濤を蹴破り進みゆく比叡と艦隊の雄姿を描いた曲である。
 --このほか、海軍軍歌''「観艦式」''及び同曲を編曲した''「行進曲「観艦式」」''(池田敬之助大佐作詞・佐藤清吉作曲)も比叡にまつわる曲に入るかもしれない。
 というのも、本曲は昭和5年特別大演習観艦式を記念して作詞・作曲されたもので、もともと当時の御召艦[[霧島]]を歌った曲であった。
 ところが、こののち御召艦任務は比叡がほぼ一手に担うようになったので、本曲もほとんど比叡とワンセットで演奏されるようになったためである。
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 **比叡カレー [#ga809401]
 -大きなキャラ付けのひとつとして、[[比叡改二]]の時報で「''比叡カレー''」なる料理ネタが登場する。
 --それまでは公式4コマのネタ等から、主に[[金剛]]が料理ネタで話題になる事が多かった((英国式スープカレーを振舞ったところ魔改造を施されて原型を無くされてしまって以来料理を振る舞いたがらなくなったというネタがあった。))。ただしこちらはあくまで解釈の一つと言う範疇だった。
 --一方で比叡は時報で提督がコメントを拒否して逃亡した上、公式4コマや、ドラマCDの「比叡、カレーを作る」でも他人が逃げ出す料理を披露しており、完全に公式ネタとなっている。
 ---ただ、これがメシマズかと言うと、''気合!入れて!''隠し味を足しすぎただけ、と読み取れるものであり、壊滅的な味オンチであるとか、根本的に料理がヘタだとは断定できない描写に留まっている。
 --先述の通り比叡は御召艦の経験回数が旧日本海軍でトップタイであるため、その関係からメシマズ説を否定する声も存在する。
 ---たとえば昭和15年の紀元二千六百年特別観艦式の御召艦になった際は、箱根富士屋ホテルの次席シェフを当局がスカウトし乗艦させている。
 日給なんと10円(当時)。海軍中尉の俸給が月額85円の時代、月給300円を支給してまで招聘しているのである。
 ---ちなみに、比叡砲術長の高松宮を弟の三笠宮崇仁陸軍大尉が訪問した際も、このシェフが腕によりをかけ最高のフランス料理をお出ししている。
 現在皇族最長老の三笠宮殿下は、戦艦比叡の本気中の本気の味を知る最後の一人でもある。
 &color(Gray){【追記】};2016年10月27日薨去。皇族では最後の従軍経験者であり、貴重な歴史の生き証人であった。
 ---むしろメシマズなのではなく''旨すぎてコメントできなかった・天皇陛下が食されるような格が高すぎる料理にコメントできなかった''などと言う解釈も一応あった。
 ---だが当然、陛下のために出される料理と、乗員のための料理はレシピも調理人も別物だろうし、そもそも「カレー」という時点で、比叡が言う「自慢のレシピ」とは乗員用メニューをアレンジしたものと思われる。
 ---「陛下が御残しをされた事がある」という話も語られてはいるが、これはメシマズだったという話でなく、これまた''気合い入れてたくさん作り過ぎた''という話の模様。
 ---このネタが「気合いが空回りする」という性格に反映された可能性もある。
 ---ただ、天皇陛下が食される料理は天皇陛下の尊厳に関わるものを徹底的に排除するため、''水洗いしてネバネバを全て取り除いた納豆''など、一般人から見れば理解できない食材が使われる事も多く、御召艦の経験がキャラに反映されていたとしても正直微妙である。
 --ちなみに護衛艦「ひえい」は''海上自衛隊一メシが不味い艦''として内部では知られており、「ひえい」に配属が決まった海自隊員は、戦艦に配属される海軍軍人を彷彿とさせるほどの拒否反応を示したという。((これは大型の艦ほど規律が厳しいか、またはいじめなどの規律の乱れが酷いかで両極端な傾向が強かったこともある。無論、乗員からの手記などを見る限り軍艦生活で楽しいこともあったようだが。話を戻して、「霧島」への配属が決まった新兵が「霧島に乗るか自殺するか」と言う旨の歌を作ったこともあった。))
 準姉妹艦の「くらま」が横須賀カレーコンテストベスト3に入賞しているというのに、この違いはなんだろうか。
 --以上の事から、改二実装からしばらくは唯一のメシマズ勢として扱われてきたのだが、[[本物のメシマズ>磯風]]が現れてしまったため、少なくとも「唯一」の看板は下ろす事になった。
 **観光列車「ひえい」 [#s7a96a30]
 -2018年3月21日、比叡の命名元の比叡山と京都市内を結ぶ叡山電鉄の20年ぶりの新たな観光列車として「ひえい」の運行が開始された。先頭の楕円形のデザインが特徴的な車両である。
 **参考資料・書籍 [#kf92d990]
 -『戦艦「比叡」―高速戦艦悲劇の生涯』 吉田俊雄 光人社NF文庫
 -『怒りの海―戦艦比叡・西田艦長の悲劇』 相良俊輔 光人社
 -『四本の火柱―高速戦艦勇戦記』豊田穣 集英社文庫
 *この艦娘についてのコメント [#a1311d4a]
 
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